土佐郷士。幼少のころより文武を修め、伊勢に赴いて斎藤拙堂に学んだ。英邁の質、弁舌の人で、文久元(1861)年土佐勤王党に加わり、深く武市瑞山と提携した。文久二(1862)年藩主山内豊範に扈従して上洛し、瑞山らと共に他藩応接役となり、公卿の知遇を得、諸藩の志士と交わって国事を議し、全面的な尊攘運動に参加した。伏見寺田屋の騒動後、豊後豊岡藩主中川久昭の違勅問題に活躍し、鵜飼吉左右衛門の子の出獄を図るなど、収二郎の名声は高まった。勅旨三条実美の東下に当たっては京都に留まり、瑞山と相応じて国事周旋を行い、薩長両藩の間を調停するなど活躍した。しかし瑞山の藩政改革の意見は容れられなかったので、間崎哲馬・弘瀬健太とともに中川宮朝彦親王の手書を得て、藩主の祖父豊資を動かし、藩政改革を行おうとして前藩主容堂の怒りに触れ、土佐に護送され、文久三(1863)年5月23日下獄、6月8日切腹を命ぜられた。享年29歳。 |