岡田以蔵



 (最新見直し2007.5.7日)


【那須信吾】
 1829〜1863。土佐藩参政である吉田東洋暗殺の実行犯。剣術を坂本龍馬と同じ日根野道場で学ぶ。龍馬とも親交は深く、土佐勤皇党に加盟している。脱藩後、天誅組の大和挙兵に参戦し、35歳で戦死。

【平井収二郎】
 土佐郷士。幼少のころより文武を修め、伊勢に赴いて斎藤拙堂に学んだ。英邁の質、弁舌の人で、文久元(1861)年土佐勤王党に加わり、深く武市瑞山と提携した。文久二(1862)年藩主山内豊範に扈従して上洛し、瑞山らと共に他藩応接役となり、公卿の知遇を得、諸藩の志士と交わって国事を議し、全面的な尊攘運動に参加した。伏見寺田屋の騒動後、豊後豊岡藩主中川久昭の違勅問題に活躍し、鵜飼吉左右衛門の子の出獄を図るなど、収二郎の名声は高まった。勅旨三条実美の東下に当たっては京都に留まり、瑞山と相応じて国事周旋を行い、薩長両藩の間を調停するなど活躍した。しかし瑞山の藩政改革の意見は容れられなかったので、間崎哲馬・弘瀬健太とともに中川宮朝彦親王の手書を得て、藩主の祖父豊資を動かし、藩政改革を行おうとして前藩主容堂の怒りに触れ、土佐に護送され、文久三(1863)年5月23日下獄、6月8日切腹を命ぜられた。享年29歳。

【坂本竜馬】  概略は、坂本竜馬論に記した。

【中岡慎太郎】
 1838〜1867。
 土佐国安芸郡北川郷柏木に生まれる。間崎哲馬、武市半平太らに師事し、文久元年17 番目に土佐勤王党に加盟し志士として目覚める。その後土佐藩の職務に就くが、土佐勤王党弾圧を期に脱藩する。元冶元年「禁門の変」に長州遊撃隊として参加するが、負傷し長州へ帰還。その後坂本龍馬と薩長同盟を成立させ、また板垣退助を西郷隆盛に引き合わせ薩土盟約を結ばせる。しかし陸援隊を組織するが慶応3年龍馬と京都近江屋暗殺される。

【熊本(肥後)藩・維新の志士たち】
【宮部鼎蔵】
 池田屋事件で新撰組に刺殺される。

横井小楠
 1809〜1869年、享年61歳。
 熊本藩士の家に生まれ、10歳で藩校「時習舘」に入学。29歳で塾長となった。31歳で江戸に留学した後、熊本で私塾を開いた。50歳で越前藩主、松平春嶽の要請に由り藩の「賓師」となり、幕府の政事総裁職となった春嶽のブレーンとして国の指針「国是7か条」を建言した。だが、政府の参与に就いた翌年、61歳で旧体制の過激派に暗殺された。

 吉田松陰が私淑し、勝海舟が称賛、トルストイが驚嘆した人物。朱子学をベースにした仁政の理想を根本に据え、行動した。福井越前藩の政治顧問を務め、維新後の新政府で西郷隆盛や木戸孝允、大久保利通らと共に参与の地位に就いた。薩摩、長州藩出身者を中心とする新政府の若きリーダーたちにとって、小木南は別格の庁論的存在であった。参与の中で肥後藩出身というのも異例であった。その実力の程が知れる。

 小楠の残した言葉。米国留学に旅立つ甥に送った詩。「尭舜孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽す。なんぞ富国に止まらん。なんぞ強兵に止まらん。大義を四海に布かんのみ」。「富国有徳」の思想。小渕恵三首相が所信表明演説で触れた。(2003.11.17日付け日経新聞文化欄、徳永洋「先覚者『小木南』魂は死なず」参照)












(私論.私見)