【久坂玄瑞(くさか げんすい)】 |
1840(天保11)年〜1864(元治元)年、享年24歳。 |
萩藩藩医久坂良廸の次男として萩城下平安古に生まれる。明倫館に入りのち医学館で蘭学を学ぶが医業を好まず、少年時代より勤王思想に影響を受け、吉田松陰の松下村塾に入り、松陰の妹文と結婚する。高杉晋作と並び塾のリーダー的存在となった。文学にもよく励んだ。松陰亡き後、桂,高杉と共に尊攘運動に身を投じる。
文久元年には武市半平太と交わり勤王運動に奔走する。この翌年龍馬と面会している。この出会いが坂本龍馬を脱藩の道へ決定させた。長井雅楽の航海遠略策の反対し藩論を尊壌討幕に一変させ、攘夷督促勅使東下の奏請に奔走する。同年11月には晋作らと品川英国公使館を焼き討ちにし、その過激振りに拍車がかかる。、英国公使館の焼打、下関の外国船砲撃に参加し。政変により三条実美ら七卿を守り都落ちし、長州藩は京都から追い出され孤立する。そして禁門の変で浪士組を率いて出撃するが薩会連合に鎮圧され、不運にも流弾を受け負傷し寺島忠三郎と刺し違えて自決した。享年25歳。 |
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