履歴 |
(れんだいこのショートメッセージ) | |
「幕末に咲いた華 ~清河蓮 -清河八郎の妻-」によると、中国宋代の儒者・周濂渓の「愛蓮の説」はこう記している。
「泥中の蓮(はちす)」という言葉もある。これは、蓮が汚泥の中でに美しい花を咲かせるのに模して、汚れた境遇にあっても、これに染まらないで清らかさを保つことを寓意している。転じて煩悩の世にあっても清純さを保っている人の例えとある。 この「愛蓮の説」、「泥中の蓮(はちす)」の寓意を踏まえて、愛する妻に「蓮(れん)」という名を付けた人がいる。たまたま「れんだいこ」の「れん」でもあるので興味が湧く。その人は、幕末の風雲の中を「尊皇攘夷の魁(さきがけ)」として散った清河八郎である。幕末の庄内藩出身の志士であり、歴史に遺した功績は知られているより大きいとして再評価されるべきであろう。浅知りする者は、八郎を「策士」と捉えるばかりで、八郎の痛快無比の軌跡を思わない。事実は、これから記す通りの類まれなる文武両道に秀でた当代一級の快男児にして風雲児であり、吉田松陰と同じ時代に呼吸し、松蔭没後の尊王攘夷運動を牽引し、高杉晋作、坂本竜馬その他にバトンタッチするまでの繫ぎの役目をしている。臭いとしては武市半平太の上を行っていた大人物と見なすべきだろうか。とにかくよほど有能な稀有の逸材だったと認めるべだろう。 以下、「ウィキペディア清河八郎」、「幕末に咲いた華 ~清河蓮 -清河八郎の妻-」、「回天の魁士_清河八郎 」、「尊王攘夷・・清河八郎編その二」、「清河八郎(斎藤正明)」、「ものすごい先生たちー64 (清河八郎・「急務三策」、大赦令と浪士募集の命)」、「山岡鉄舟研究会」の山岡鉄舟研究家・山本紀久雄氏の「尊王攘夷・・清河八郎編その一」その他を参照する。 2013.9.23日 れんだいこ拝 |
【清河八郎】 | ||||||||||
故郷編 | ||||||||||
1830(天保元).10.10日(11.24日)、出羽国庄内藩領清川村(現・山形県東田川郡庄内町)の郷士にして酒造業を営む素封家・斉藤豪寿の長男として生まれる。
母は鶴岡三井氏の第三子・亀代という。兄弟は弟に熊次郎、熊三郎、妹に辰代。幼名は元司、諱は正明(まさあき)、号は芻蕘(すうじょう)、旦起、木鶏。本名は斉藤正明で、清川八郎と改名する。以下、八郎と記す。 ちなみに同時代の幕末有能士と比較すると、藤田東湖は1806(文化3) 年で24歳上。西鄕隆盛は1828(文政10)年で2歳上、武市半平太は1829(文政12)年で1歳上、吉田松陰は1830(文政13)年で同年、桂小五郎は1833(天保4)年で3歳下、坂本龍馬は1835(天保6)年で5歳下、高杉晋作は1839(天保10)年で9歳下、久坂玄随は1840(天保11)年で10歳下となる。 生家の斎藤家は醸造を生業とする大庄屋格で、当主は代々治兵衛と称した。斎藤家について、「幕末に咲いた華 ~清河蓮 -清河八郎の妻-」は次のように記している。
父治兵衛は書画、骨董、刀剣にも見識の高い教養人で、俳号は雷山と称した。祖父昌義は神仏を崇拝すること厚く、文雅の人で号を寿楽と称した。昌義は孫の元司が遊ぶのを見て、「この子、大芳を遺さずんば必ず大臭を遺さん」と孫の逸材を見抜いたと云う。 1837(天保8)年、7歳の時、2月、大塩平八郎の乱が起きている。この頃、八郎は、教養人であった父・豪寿より孝教の素読を受けはじめ、ついで論語の素読も受け、10歳になると、母の実家のある鶴岡の伊藤鴨蔵から学問を、清水郡治に書を学ぶ。しかし、清河は横着で悪戯好きな子どもだったようで、塾を追われてしまう羽目になる。 1843(天保13)年、13歳の時、清川関所役人の畑田安右衛門に師事し勉学に勤しむ。幼少より神童と呼ばれるほど学問もできた。若い頃から多岐にわたり学問に精進する。 1844(天保14)年、14歳の時、清川関所役人の畑田安右衛門に師事。論語、孟子、易経、詩経、文遷を学ぶ。 1845(弘化2)年、16歳の時、元司は、広い世界に出て学問をしなければならないと志を立てたが、清川村の有力者である斎藤家の跡取りとして家を継ぐことを望んでいた祖父や父は許さなかった。 1846(弘化3)年、17歳の時、東北巡遊中だった後の天誅組・藤本鉄石(当時30歳、1816-63)が父・雷山を訪ねて来た。藤本鉄石とは岡山藩士であり、脱藩して長沼流軍学を学び、一刀新流の免許を受け、諸国を遊歴していた。後に私塾を伏見に開き、1862(文久2)年、真木和泉ら尊攘派と倒幕を計画、翌年天誅組を組織し総裁となり挙兵したが惨敗、和歌山藩陣営に斬りこんで戦死した人物である。山岡鉄舟とも縁が深く、は飛騨高山時代の鉄舟が、1850(嘉永3)年、15歳の時、父の代参で異母兄の鶴次郎(小野古風)とお伊勢参りに出発した時、その旅の途中で鉄石と出会い、林子平(1738-93)「海国兵談」の写本を借り写し終え、海外情勢を説いて聞かされている。藤本鉄石が齋藤家に長逗留した為、八郎がその薫陶を受けている。この時、アヘン戦争を聞かされ、世界には大国の清を簡単に打ち負かす力を持った国々があり、西欧列強の世界植民地主義の動きが急な国際情勢を教えられている。八郎は、長沼流軍学・一刀新流の免許を持つという文武両道の鉄石の生き方に共鳴したと推測される。鉄石から広い世界を知った八郎は江戸遊学の志に燃えることになる。但し、江戸遊学の願いを父に申し出たところ跡取りであることから激しく叱られた。この年、酒田の伊藤弥藤治に剣の手ほどきを受ける。 鶴岡藩の藩校「明徳館」に対して、家族にあてた手紙が残っている。
|
||||||||||
上京編 | ||||||||||
1847(弘化4)年、18歳の時、「自らが回天の先駆けとなり天下に名を轟かさん」との置き書きを残して出奔する。6.29日、江戸に出て江戸馬喰町の大松屋へ到着する。7.4日、当時一流の儒学者であった古学派の東条一堂の下を訪れ、神田お玉が池にあった東条塾への入門を許可される。父に事後承諾という形で遊学が認められている。八郎の才が認められ、後に桃井儀八、那珂悟楼とともに東条一堂門の三傑に数えられる。生方鼎斎の書道塾、柔術道場にも入門している。 | ||||||||||
1848(嘉永元)年、19歳の時、故郷から訪ねてきた叔父の弥兵衛、弟金治らと関西へ漫遊している。大阪から山陽路の広島、岩国まで行き、四国の金毘羅参りし、奈良、伊勢、京をめぐる約四ヶ月もの長旅をする。これが八郎の最初の旅となる。5.22日、箱根宮ノ下に泊まる。その年、斉藤家の跡継ぎを予定していた弟の熊次郎が病死した為、実家に戻る。しばらく家業を手伝いながら酒田の遊郭通いに耽る。この頃、八郎は悶々としており、再度向学の旅を企図する。 | ||||||||||
八郎は少年時代から日記をつけている。「旦起私乗(たんきしじょう)」という名の日記には天・地・人の3巻がある。「旦起」とは朝早くおきて勉強するという意味で、「乗」とは記録のことである。天は18歳の日記、地は19歳の日記、人は20歳の日記である。すべて漢文で書かれており八郎の学識の高さが偲ばれる。 | ||||||||||
1850(嘉永3)年、21歳の時、3年間の京都遊学の許可を得て上洛する。4.11日、野善光寺参詣。4.25日、三井寺より京都に入り、梁川星巌に入門を願う。既に病弱で春日潜庵を紹介される。この時、九州を訪ねる旅に出る。5.1日、淀川を下り大坂到着。小倉、福岡、大宰府、佐賀、諫早を廻り長崎に着く。長崎でオランダ船を見物し、オランダ商館に入って異人を近くに見るという経験を踏む。島原、熊本、日田、日出、別府、中津、小倉を廻り、名のある文人学者があれば訪ねるという二ヶ月あまりの旅行をする。その後江戸に戻り、東条塾へ再入門する。 | ||||||||||
1851(嘉永4)年、22歳の時、2月、東条塾に隣接していた開祖千葉周作の北辰一刀流玄武館に入門し道場主の千葉周作に剣を習う。当時、江戸で有名な剣術道場としては、北辰一刀流・千葉周作の玄武館、鏡新明智流・桃井春蔵の士学館、神道無念流・斎藤弥九朗の練兵館、この三道場を称して江戸三大道場と称し「位は桃井、力は斎藤、技は千葉」と評されていた。これに心形刀流・伊庭軍兵衛の練武館を加え、四大道場という場合もある。元司は二十二歳という当時の剣術修行としては晩学であったが、その分熱心に千葉道場で汗を流し、東条塾に帰ると深夜まで学問に励む日々となった。この頃、東条塾塾頭を命ぜられたが固辞している。 | ||||||||||
1852(嘉永5)年、23歳の時、2月、「北辰一刀流兵法箇条目録」を受けている。この頃、諸国から英才が集まる幕府の昌平黌に入りたいという気持ちを強く持ち始め、昌平黌の儒官を勤めていた安積艮斎(あさかごんさい)に転塾している。その推薦を受け昌平黌に入ることを期待していたと思われる。この時、塾頭・間崎哲馬(土佐)ら各地からの遊学生と知り合う。その後、父と約束した3年という期間が過ぎ、故郷清川村に戻っている。 | ||||||||||
1853(嘉永6)年、24歳の時、3月、坂本龍馬が剣術修行のため土佐を出立、江戸の「千葉定吉道場」に入門する。八郎が帰郷し酒田から蝦夷へ渡り海防視察する。この頃、斎藤家が大庄屋格になる。 | ||||||||||
国事奔走編その1、開塾 | ||||||||||
1853(嘉永6).6.3日、ペリー率いる黒船が浦賀に来航し、以来、日本の政情は開国か攘夷かを廻って真っ二つに分かれた。翌年、幕府は再び来日したペリーに押され日米和親条約を結んだ。次の課題として日米通商条約と次期将軍問題が政争となった。時の将軍、第13代・徳川家定には子供がなく、次期将軍として紀州の徳川家茂(いえもち・当時は慶福)と水戸藩主・徳川斉昭の息子で一橋家の養子となっていた徳川慶喜(よしのぶ)を押し立てて両派が後継争いを始めた。 | ||||||||||
1854(安政元)年、25歳の時、春、江戸遊学の気持ちを抑えきれなくなり、父へ申し出て許可される。安積艮斎の推薦で最高学府・昌平校に学ぶ。この時、斎藤元司から「清河八郎」に名前を変えている。八郎は、期待して昌平黌に入学したものの学問の為の学問に堕している風を見て取り失望する。再び東条塾に戻って、昌平黌は自然退学という形になり、東条塾を手伝い始める。通い門人に素読を授ける日々を経て次第に私塾を開きたいと思うようになり、故郷の父に相談し開塾の許しを得る。 11月、神田三河町にあった武家の貸地を借り、建坪21坪の新築をして清河塾を開塾する。「経学、文章指南、清河八郎」の看板を掲げる。いざ開塾してみると評判がよく八郎を慕って昌平黌からも東条塾からも転じてくる者がいて賑やかな好スタートを切った。12.29日、神田三河町一帯を襲った火事で三河町塾が類焼する。八郎は失意のまま実家に帰る。 ちなみに、同年の吉田松陰の松下村塾開設は松蔭27歳の時であった。松蔭も21歳の時、九州半年間の旅をしている。続いて江戸、東北、ついには安政元年3月、下田に停泊中の黒船に乗り込もうとするほどの行動力をみせている。松蔭の方針は「飛(ひ)耳(じ)長目(ちょうもく)」(遠方のことを見聞することができる耳や目)で「ただ情報を集めるだけでなく、行動せよ」と門下生に教示し幕末維新の志士達を育てた。 |
||||||||||
国事奔走編その2、母親を連れて伊勢参りの長旅 | ||||||||||
1855(安政2)年、26歳の時、3.20日から9.10日まで、母親の亀代(42歳)と下男の貞吉連れ、母を駕篭に乗せながらの約半年間169日の長旅に出ている。表向きは母を伊勢参りに連れていくとのことだった。清川村を出発、道を越後にとり、北国街道を通り、善光寺に詣でる。木曽道を行き、女人禁制の福島の関を避けながら、途中伊那谷から大平街道を通り、中山道、追分、伊勢街道に至り名古屋に出る。伊勢松阪の伊勢神宮に参拝。奈良、京都、近江、大坂、岡山から四国に渡って讃岐の金毘羅に詣で、田度津から船で瀬戸内海を満喫し、安芸の宮島、岩国の周防錦帯橋を渡って帰路につく。大阪天神、天橋立、石山寺、三井寺、鎌倉、7.12日、江戸に着く。1ケ月ほど滞在し江戸の芝居を見る。江戸滞在中、訪ねてくる友人・知人が皆、清河塾の再開を奨めるのを聞いた母・亀代が塾再開を促し、薬研掘に売り家を見つけて手付金を払って、8.23日、江戸を出立する。安積五郎も一緒に行くことになる。日光などをめぐる。福島を経由して米沢を通り、9.10日、帰郷する。その紀行文「西遊草」(全11巻8冊、岩波文庫)を著わす。母親にも読めるように文章は易しく、八郎の人柄が伺える旅日記である。同書は幕末の社会事情を知るうえで貴重な資料となっている。内容は各国の名士との出会いなどを中心に書かれているが、清河の性格からか辛辣で手厳しい批評が多い。八郎は他にも長崎、蝦夷を遊歴している。 | ||||||||||
国事奔走編その3、お蓮娶り | ||||||||||
母を連れての大旅行を終え、無事帰郷した後、江戸から伴っていた親友の安積五郎と共に鶴岡の遊里に行き、ここで伴侶となるお蓮と出会っている。お蓮は、1840(天保11).2月、山形県東田川郡本熊出村(現在の朝日村熊出地区)の医師・菅原善右エ門(医名は快庵)の四女・はつとして生まれている。10歳で里子に出され、17歳の時、美しい娘に成長するや女衒(女を遊女に売ることを営業とした人)の目に留まり遊郭に売られ、鶴岡の遊所で高代と呼ばれて客に接する身となる。高代が「うなぎ屋」に登楼している時、八郎が来客し見初める。翌日、八郎は、女たちを誘って湯田川温泉に出かけて豪遊した。その席で安積五郎が酔狂に「節分の豆まきだ」と金銭をばらまくと、酌をしていた女たちは我れ先にとお金に飛びつき、あられもなく奪い合いを始めた。高代はただ一人、手を膝に端然としていた。八郎は、その可憐な気品のある姿に心を打たれ、足繁く高代のもとへ通うようになる。これより二人の純愛物語が始まる。高代へ求婚した際の八郎の手紙は次のように書かれている。(「清河八郎人物図鑑」の「結婚前の安政3年(1856年)、八郎がお蓮に宛てた手紙【二通】」より)
高代が応諾したものの、格式の高い斎藤家は長男の嫁を遊里から迎えることを許さなかった。これに対して八郎は次のように説得を試みている。
八郎は高代を身請けし、この時、「蓮の花は泥水に染まらずに香り高く咲いて清らか」であるとして「お蓮」と改名させた。但し、お蓮は八郎の両親に会うことができなかった。そんな中で力を貸してくれたのは八郎の伯母で、お蓮と会い、その人柄に惚れ、八郎の実家に出向いて説得している。以降、二人は八郎の知人の住む仙台で所帯を持つ。八郎27歳、お蓮18歳の時である。新居での二人は楽しく、短いながらも生涯において最も幸せな時期を過ごした。 |
||||||||||
国事奔走編その4、安政の大地震 | ||||||||||
10月、江戸大地震(安政の大地震)。急いで上府、薬研堀の家屋を処分する。この時、藤田東湖死す(享年50歳)。地震発生時に東湖は一度は脱出するも、火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻るとその後を追い、落下してきた梁(鴨居)から母親を守るために自らの肩で受け止め、何とか母親を脱出させるが、自身は力尽き下敷きとなって圧死したといわれる。東湖を攘夷運動の先達と仰いでいた志士達に与えた影響は大きかった。例えば西郷隆盛は江戸から鹿児島に送った手紙で「さて去る(十月)二日の大地震には、誠に天下の大変にて、水戸の両田(藤田・戸田)もゆい打ち(揺り打ち?)に逢われ、何とも申し訳なき次第に御座候。とんとこの限りにて何も申す口は御座なく候」(野口武彦著 幕末の毒舌家 中央公論新社)と悲嘆している。
この年、紀州派の井伊直弼が大老に就任し、天皇の勅許が得ないまま日米通商条約の調印に踏み切る。井伊は大奥を味方につけ、次期将軍を家茂に決定し、反対派の一橋派(攘夷派)を一掃するために安政の大獄を始める。これにより当代の頭脳であった吉田松陰、橋本佐内、梅田雲浜、梁川星厳、頼三樹三郎らが失われることになった。並行して、通商条約調印の一件以来、朝廷との関係に大きな溝を感じていた幕府は、将軍・家茂と、時の天皇・第121代孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)との結婚を進め公武合体を図る。 |
||||||||||
国事奔走編その5、帰省、著作活動 | ||||||||||
八郎は、火事と地震に遭ったことで郷里に帰省する。この時、猛烈な著述活動に入っている。清河の多くの著述の大半はこの時期になされた。「古文集義 二巻一冊」(兵機に関する古文の集録)。「兵鑑 三十巻五冊」(兵学に関する集録)。「芻蕘(すうじょう)論学庸篇」(大学贅言(ぜいげん)と中庸贅言の二著を併せたもので、芻蕘とは草刈りや木こりなどの賤しい者を意味し、自分を卑下した言葉で、この本の道徳の本義を明らかにし、後に大学・中庸を学ぶ者に新説を示したもの)。「論語贅言 二十巻六冊」(論語について諸儒の議論をあげ、独特の説を示したもの)。「芻蕘論文道篇 二巻一冊」(尚書・書経を読み、百二篇の議論をあげ、独特の説を示したもの)。「芻蕘武道篇」(兵法の真髄を説いたもの)。その他に論文もあり、これらの著述でわかるように清河の学識は並ではない。 ちなみに、牛山栄治氏は、「清河は漢学によって名分論(道徳上、身分に伴って必ず守るべき本分)から結局は維新の泥沼にまきこまれて短命に終わり、勝海舟などは蘭学の道にすすんだために時代の波に乗っている。人の運命の分れ道とはふしぎなものである」(牛山栄治著「定本 山岡鉄舟」)と評しているが駄弁であろう。寿命はその人の運命のようなものであり、和学と洋学を学ぶ差ではなかろう。 |
||||||||||
国事奔走編その6、再上京 | ||||||||||
1857(安政4)年、28歳の時、5月、こういう政情下、八郎はお連と弟・熊三郎を伴って江戸へ出る。熊三郎は千葉道場に入門するためであった。8月、江戸駿河台淡路坂に郷里・清川の名に因んだ清河塾を開設した。第2回目の開塾。「経学、文章指南、清河八郎」の看板を立てる。塾の教科書は自分で書いた手書きの文章を木の活字を買って印刷していた。講義は訓話中心で、「文を以って義を説き、義を以って文を述べる」というやり方だった。当時、江戸市中で学問と剣術を一人で教える塾は清河塾だけであった。北辰一刀流の免許皆伝にして東条一堂に学んで和漢の教養も深い且つ男ぶりが頗る良かった。文武両道に優れ弁が立ち男ぶりの良い八郎に惚れて慕って来る者が多かった。幕臣の山岡鉄舟もそのひとりである。(元司はこの時より「清河八郎」を名乗るともある)この時期は、お蓮にとっても平穏な歳月であり、暇をみては手習いをしたりして過ごしていた。この頃には郷里の両親も、お蓮を八郎の妻として認め、二人のために最上川の鮎を送ったり、お蓮に金一両を送ったりしている。同年12.7日、ハリスが将軍家定に謁見している。 | ||||||||||
1858(安政5).29歳の時、北辰一刀流中目録免許を受ける。7.29日、日米修好通商条約調印。1859.7.1日より横浜で貿易開始する。 | ||||||||||
1859(安政6)年、30歳の時、3月、淡路坂の清河塾は、八郎が旅に出ている留守中に隣家からの出火により類焼。帰郷する。帰郷の途中、各地で剣術試合をする。郷里の父と相談の上で神田お玉ヶ池の二六横町(現在の千代田区神田岩本町あたり)に土藏付の家屋を買い求め、之を普請して7月に移転する。3度目の塾を開いたことになる。大川周明の「清河八郎」は次のように記している。
|
||||||||||
国事奔走編その7、桜田門外の変 | ||||||||||
1860(安政7、万延元)年、31歳の時、1.13日、幕府の遣米使節・木村喜毅、勝義邦(海舟)らが咸臨丸に乗って出発する。 3.3日雪の日、桜田門外で大老井伊直弼が暗殺されるという桜田門外の変が発生した。井伊大老を刺殺し首をあげたのは、関鉄之助以下の水戸浪士に、薩摩藩士の有村冶左衛門を加えた十八人の壮士であった。その頃の落書に次のものがある。「去る三日、外桜田にて大切の首、あい見え申さず候間、御心あたりの御方これあり候はば、御知らせ下さるべく候。 三月十四日 彦根家中」。幕府は大老が変死するという大変事が起ったのは不祥だと、三月十七日に万延元年と改元する。 八郎は、この事件に強い衝撃を受け、桜田門外の変の記録を土蔵で書き始めた。それは「霞ヶ関一条」と名づけた美濃紙二十枚にも及ぶ、水戸浪士の井伊襲撃のあらましであり、これを故郷に送る綴りであったが、清河自身が精力的に現場に出向き、知人を訪ね、事件の風聞を聞き集め、関係する資料を分析し、事件の全体をまとめたものである。その綴りをつくる作業中、清河は新鮮な驚きともいえる感慨に、何度も筆をとめざるをえなかった。 |
||||||||||
国事奔走編その8、「虎尾(こび)の会」結成 | ||||||||||
以降、国事奔走を決意し政治活動に更にのめり込むようになる。文武指南をしながら尊王攘夷の倒幕救国運動を志す「回天」同志を集める。「回天」とは天と地を一気にひっくり返すという意味があり、「朝廷を再び擁立させ、日本を植民地化しようとする外国勢を打ち払い、その勢いに乗じて幕府をも倒し、新たに日本国家を創る」としていた。清河塾に憂国の士が集まりだす。以後の清河塾は憂国の志士の会合所となる。 同年、八郎を盟主として尊皇攘夷(外国人を日本から追い払い、天皇を中心に日本をひとつにまとめて事に当たる)を旗印とする「虎尾(こび)の会」を結成する。「虎尾(こび)」とは「書経」の「心の憂慮は虎尾を踏み、春氷を渡るごとし」より起った言葉で、「国を守るためなら虎の尾を踏む危険も恐れない」という意味がこめられていた。発起人は幕臣(直参旗本)の山岡鉄太郎(鉄舟)で、笠井伊蔵、松岡万、薩摩藩士の伊牟田尚平、樋渡八兵衛、神田橋直助、益満休之助、美玉三平。同門の浪人・安積五郎(江戸)、池田徳太郎(芸州浪人)、村上俊五郎(正忠、下総)、石坂宗順(周造、下総)、北有馬太郎(肥前有馬)、西川練造(川越浪士)、桜山五郎。内弟子の笠井伊蔵(江戸)の15名が参集している。後に中村貞太郎、本間精一郎、坂本龍馬が名を連ねている。 盟約書は次のように書かれていた。
ここに記されている「火攻め」とは、横浜の外国人居留地に対する焼き討ちであった。天皇の勅許を得ない日米修好通商条約の調印によりもたらされている国内経済の混乱、外国人の日本人への侮蔑行動に対し、幕府では夷狄に太刀打ちできない、日本の国体である天皇を奉じて攘夷をしなければ日本は滅亡する。外国人居留地に対する焼き討ちを手始めとして決起すべしとするものであった。 |
||||||||||
同年10.8(陰暦8.24日)、八郎が千葉栄次郎より中目録免許(免許皆伝)を得ている。江戸幕府の学問所・昌平黌(昌平坂学問所)に推挙され学んでいる。 同年12.5日、横浜外国人居留地を焼き討ちし、アメリカ公使館通訳のヒュースケンを暗殺する。実行者が伊牟田、樋渡ら虎尾の会の同志であった為、幕府の清河塾への監視の眼が光るようになる。お蓮は不安を感じていながらも八郎たちを支えていた。八郎は尊王攘夷の精神を鼓舞し続け、倒幕の計画を立てた。この密計が幕府の知るところとなる。 |
||||||||||
1861(文久元)年、32歳の時、水戸天党が常総の間に横行し、金穀を募り、特に横浜の外国人を襲撃する風聞を聴くや、八郎は直ちに赴いて行動を探り、天狗党が烏合の衆であることに落胆する。宮本茶村と時事を論じ、時季の至るのを待つ。3月、虎尾の会の会合が連日行われる。 5月、水戸藩の尊皇尊攘派の志士たちが江戸・東禅寺の英国公使館を襲撃し、館員・警備兵を殺害している。英国から幕府に対して厳重な抗議が出、6月、幕府は、水戸藩に命じ尊攘派藩士の謹慎を命じる。水戸藩は尊攘派の志士たちを問答無用で投獄する。 |
||||||||||
国事奔走編その9、幕府捕吏の斬り捨て、逃亡 | ||||||||||
同年5.20日、八郎は、水戸藩の関係者が出席すると聞き書画会に出席した。結局、政治談議はできず、もっぱら飲み食いに終始した。帰り道の日本橋の路上で、町人風の罵詈雑言を浴びせてきた幕府の捕吏の回し者にしつこく絡まれ、一刀のもとにその者の首を電光石火の早業で斬り捨てた。「首は軒よりも高く跳ね上がった」と伝えられている。この為、おたずね者となり、これより
一年半におよぶ逃亡生活を余儀なくされる。この時、八郎の人相書きが出回っており、次のように記されている。
八郎は川越まで逃亡し、その後、草津の湯で疲れを癒した後、新潟を経て仙台に潜居する。八郎が逃走する前、八郎の家に同志が集まったとき、誰かがこう云った。「家を焼き、お蓮さんを殺め、そのまま宿願の夷人館焼き討ちを実行しようではないか」。お蓮が入獄すれば女の身では死ぬより辛い目にあう。「それならばいっそ」と云う意味であった。この意見は実行されなかった。八郎を失った同士たちは幕府によって捕らえられ八郎らの計画は頓挫した。 八郎の弟・熊三郎、笠井伊蔵(10.16日 獄死)、中村、西川練造(12.14日、獄死)、北有馬太郎(9.3日、獄死。享年35歳)らが江戸小伝馬町の牢獄に入れられた。厳しい拷問により4名が獄死させられている。 妻の投獄を聞いた時に八郎の詠んだ詩が遺されている。
お蓮は翌日から取り調べを受け、牢屋奉行や同心から八郎の行方や同志の氏名などを聞き糾されたが一切わからないと答え、業を煮やした役人に鞭打たれるなど惨虐極まりない拷問にあっている。毅然とした態度で耐え、清川の居場所を最期まで喋ることはなかったと伝えられている。この時のお蓮の手紙の一節が遺されている。
牢内で過酷な責苦を受ける生活に、金と云う土産が必要で、それがなければ「楽」ができないと云う文面である。お蓮は次第に衰弱し、江戸で麻疹(はしか)が蔓延した際、牢内で感染した。不憫であるから療養を兼ねて庄内藩で預かるようにとの幕府の通達により下谷にある庄内藩邸内の牢に移された。その夜、「これは麻疹の妙薬である」と一服の薬を獄医から手渡され、翌朝、見回りの者が独り冷たく横たわっているお蓮を発見している。はしかの薬と称して毒を盛られたと云う説がある。1862(文久2).8.7日、1年3か月の獄中生活を耐えに耐えた末、お蓮逝去(享年24歳)。 八郎は、お蓮の死を潜伏先の宮城の仙台で知る。父あての手紙には、これまでお連を救うためにあらゆる手段を尽くしてくれたことを感謝し、お蓮を自分の本妻と思って位牌を建てるようにと願っている。この父への手紙の中で、お蓮の戒名を「為清林院貞栄香花信女」と付けている。次の追悼句を遺している。
|
||||||||||
国事奔走編その10、上洛。西国、九州遊説 | ||||||||||
この頃、八郎は、同志伊牟田尚平より「水戸藩士が十一月を期して蹶起し、上洛して天皇を奉じて天下に号令しようとしている。尚平は薩摩に下って同志を糾合して上京し、応援するつもりである」と聞かされる。八郎はこれを良策とせず、それより閣老安藤対馬守による廃帝の動きを止めるために速やかに上洛して、田中河内介(中山忠能の侍読)に頼って密かに封事を天皇に奉り、薩摩藩の同志を募って勤皇の詔を奉じて挙兵する策を押す。 同年10月、八郎は同志安積五郎、伊牟田尚平とともに上洛し、京に潜伏しながら中山忠能の長子忠愛より志士に送る書簡を預かる。中山忠愛は当時相国寺桂芳院に蟄居していた青蓮院宮の令旨を示して全国の志士を募り、動かそうとしていた。八郎は、全国の志士に攘夷討幕の檄を飛ばし、田中河内介を介し全国の志士を動かそうとしていた。以降、西国、九州を遊説回って攘夷倒幕運動を続ける。「もはや尊王攘夷ではなく倒幕王政だ」とするのが八郎の主張であった。筑後国の水田天満宮に蟄居中の真木保臣の下にも滞在し、真木和泉、村松大成、川上彦斎(げんさい)などと会談し、今後の方略を議す。福岡藩士の平野国臣、薩摩藩士の有馬新七、小郡、肥後の尊皇攘夷派とも接触し京での挙兵を計画している。 その後、薩摩(鹿児島)を訪れた際に、薩摩藩が1千人の軍を率いて京に上り、幕政改革を企てているという情報を得、この噂の確認の為、京都から同行した虎尾の会同志で薩摩出身の伊牟田尚平と、清河に共鳴した平野次郎を薩摩に潜入させた。伊牟田と平野はそれぞれ別ルートで苦労して間道から薩摩に入ったが、二人ともすぐに見つかり捕縛され、所持していた中山忠愛の親書と田中の周旋状などすべて取り上げられた。厳罰を覚悟したが、思いがけず御納戸役の大久保一蔵が出てきて、旅費として十両ずつ渡し、親書などの趣旨はよく検討する旨の発言を受け釈放されている。 八郎は、この機に倒幕の勅令を薩摩藩主の島津久光に下させ、薩摩藩と全国の同士とで打倒幕府のための挙兵を実行し、一気に幕府を倒してしまおうと計画し、全国の同士に京に上るよう要請する田中河内介との連名檄文を諸国のあらゆる知人に送った。「近世日本国民史」では京都に参集した尊皇攘夷派は清河の空想的政局論により集められた一面があるとしているが、これも後付けの評論であろう。こうして、幕末志士が全国各地から続々と京都に集まった、その数三百名にも及んだ。 |
||||||||||
国事奔走編その11、寺田屋騒動 | ||||||||||
1862(文久2)年、33歳の時、正月、九州遊説を終え帰京する。いよいよ義挙を決行するべく着々と準備を進め、薩摩藩主島津久光の上洛を待つ。1月、江戸城坂下門外で老中安藤信正が襲撃され負傷する。 西国の諸藩主は過激志士の動きを警戒し、久光は時局の紛糾を鎮めるため長州、肥後、筑前の形勢を探索するよう西郷吉之助に命じ、下関で待つように命令している。西郷は下関で白石正一郎と会談し、事の急なるを知って急ぎ上京し、激派志士を鎮撫しようとする。これが久光の命令無視の怒りを買い、西郷は島流しにされる。閏8.14日、 西郷吉之助が沖ノ永良部島での遠島生活に入る。3月、 伊牟田尚平、福岡藩主黒田斉溥が久光の公武合体の上京周旋の挙を止めようとしている事を知り、播磨国大蔵谷において斉溥に説こうとして藩地に送られ、喜界島に流される。 久光が上洛する。久光は、倒幕ではなく幕府と朝廷の仲立ちをして公武合体を実現せんとしていた。朝廷に差し出した建白書には、安政の大獄で処分された公卿や一橋(慶喜)、尾張(慶勝)、越前(慶永)などの謹慎を解くべきという、幕府改革に通じる内容のものであった。これにより過激な討幕運動を取り締まるべく采配した。4月、大坂に入ると直ちに以下の訓令を下している。「1.諸藩士や浪人らへ私的に面会してはならない。2.命によらずして、みだりに諸方へ奔走してはならない。3.万一、異変が出来しても、敢て動揺せず、命令のないうちはその場に駆けつけてはならない。4.酒色を相慎むべきこと。この趣は以前からしばしば申し渡してきたことではあるが、これからも益々守るべし。もし違背する者は容赦なく罪科に処するであろう」。 久光の上京に望みをかけていた志士たちは落胆し、志士の間でも硬軟両派の意見対立をおこす。久光が他藩の志士に坂地に留まるように命じたとき田中河内介、小川一敏はそれに服し、八郎は田中の態度を嫌って薩摩藩邸を出る。一方薩摩藩士の有馬新七、田中謙介、柴山愛次郎などは田中河内介、小川一敏と義し、久光を頼らず決起する企てを決め、薩摩過激尊攘派と大坂薩摩屋敷の二十八番長屋の志士達が密かに伏見の寺田屋へ向った。 4.23日、久光は、薩摩藩士が参加している決起計画を暴挙と断定し、「首謀者をここに連れてまいれ。わしが自ら説諭するであろう」と命令した。「もし、おとなしく命を奉じることなく、拒みましたら、いかがいたしましようか」に対し、「その時はいたし方なし。臨機の処置をとれ」と指示を下している。藩命を受けた薩摩藩士・永原(日下武史)、大山綱良らが寺田屋に行き、血みどろの殺し合いを演じた末、有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介、西田直五郎、弟子丸龍助、橋口伝蔵を斬殺した。田中謙助、森山新五左衛門が重傷を負った。大山巌、西郷従道、三島通庸、篠原国幹、永山弥一郎は大山綱良らが刀を捨てて飛び込み必死の説得を行った結果、投降した。田中河内介らは薩摩藩に引き取ると称して船に連れ込まれ、船内で斬殺され海へ投げ捨てられた。これを「寺田屋騒動」と云う。 この時、八郎は危うくも難を逃れている。これにつき「ものすごい先生たちー19 ( 清河一派 薩藩蔵屋敷二十八番長屋を出る )」が次のように解説している。
6.6日、 尊王攘夷派の決起計画は頓挫させられたが、八郎は、「寺田屋の変」の直後、孝明天皇に「回天封事」と題した建白書を送り、その末尾に「我々は天下の義人を集め、数ヵ月以内に必ず大挙します」と誓っている。この書が注目されること少ないが、八郎の孝明天皇宛直書であることを考えると、八郎が孝明天皇と接触点を持っていたことになる。但し実際にどのように関係していたのかにつき情報はない。しかし重要なことは隠されるという常からすればもっと研究されるべきだろう。その後、八郎は京都を出立、東下する。 夏、薩摩藩公・島津久光は、安政の大獄で処分されたままになっている公卿や大名の罪を許し大赦を行うよう迫った。これにより尊攘派である水戸の一橋慶喜を将軍後見職、越前福井藩・松平春嶽が政治総裁職となり幕政に復帰する。松平春嶽は、将軍家茂に「京へ上洛し、朝廷にこれまでの失政を陳謝せよ」と奏上する。二度に渡る勅使によって、幕府も勅命実行の確約(条約破棄+攘夷)を避けられないところまで追い詰められていた。8.21日、薩摩の島津久光が江戸からの帰国途中、相州生麦村(現横浜市鶴見区)を通過のさい、行列に馬で乗り入れた上海のイギリス商人C.L.リチャードソンら4人を殺傷する生麦事件を引き起こす。 |
||||||||||
国事奔走編その12、「急務三策」建白書を提出 | ||||||||||
8.24日、八郎江戸到着。幕府は京都の治安を守るための京都守護職を新設し、会津藩主・松平容保(かたもり)を任命する。同年12.24日、容保が約1千騎の精鋭を連れて京都に入る。その後再三勅使が江戸に下り、将軍上洛の上、公武一和の儀が進展する。既に幕閣は大きく変わっていた。安藤老中と久世老中は辞職し、安政の大獄で辣腕をふるった京都所司代酒井忠義も罷免されていた。代わって幕閣を動かしているのは備中松山藩主板倉勝静、山形藩主水野忠精、竜野藩主脇坂安宅の三閣僚と将軍後見職一橋慶喜、政治総裁松平慶永であった。 8月、八郎は密かに江戸へ帰り、小石川鷹匠町の山岡鉄舟を訪ねた。自分のために牢獄につながれた妻・お蓮や同志たちの安否をたずね、妻と同志たちを救うべく奔走している。その後、水戸に向かい、ここで「幕府に執事に上(たてまつ)る書」を書き上げる。虎尾の会同志の山岡鉄舟、土佐藩の士間崎哲馬らを通して、政治総裁松平慶永の手許に渡った。 11.12日、松平春嶽(幕府政事総裁)に「急務三策」(1. 攘夷の断行、2. 大赦の発令、3. 天下の英材の教育)という建白書を提出した。「1. 攘夷の断行」は、「一に曰く、攘夷の断行。近年天下が平穏でないのは交易相開くによる」としている。「2. 大赦の発令」は、「二に曰く、天下に大赦発令。大赦上(かみ)に行なわれ、群賢ことごとくその位に居り、いまだ草莽に遍(あまね) からず、ここを以て人心和せず」としている。「3. 天下の英材の教育」では、「三に曰く、天下の英材を教育す。それ非常の変に処する者は、必ず非常の士を用う。ゆえによく非常の大功を成すのである。身分を問わず優秀な人材を集め、乱れた京都の治安を回復し、将軍家茂の上洛を警護するための浪士組を結成したい」と記している。 「ものすごい先生たちー64 (清河八郎・「急務三策」、大赦令と浪士募集の命)」が、この時の上書をサイトアップしているので転載する。「清河八郎、三十三歳。 この上書は、実に堂々たる文章で、その見識の深さは彼の学問の深さに裏付けられたものである。その要点を以下に抄録する。何度も読んで内容をかみ締めたいものである」とコメントしている。
11.23日、八郎は、住谷、下野と共に水戸に帰り、江戸からの吉報の至るを待つた。これより先、伝馬町の獄中にいた池田徳太郎、石坂周造は獄吏を懐柔し、両人間の連絡のみならず山岡とも交通することに成功していた。これにより、八郎が春嶽に上書したことを聞き知った。両人は密議を凝らした上、同じく志士の大赦と浪士募集の必要とを力説した書面を書き、獄吏の手を経て高家中條中務大輔に送った。中條は、この書面を自分の実家であり且つ兄に当る京都の樋口入道觀生に送り、樋口の手から更に之を近衛忠熙(ただひろ) に上らせた。これが動機となって、遂に関白近衛忠熙から公然浪士募集の命が下されることとなった。松平春嶽は人を容るるの大器で、しかも池田徳太郎らの側面運動による朝旨も出ているので、これを実行することに異論はなかった。春嶽は関白の命を奉じ、建言を用いて大赦令を出し、国事を以て罪を得ていた者を赦す挙に出た。 12.3日、幕府は、翌1893(文久3).3月に、将軍・家茂の上洛を予定しており、尊攘志士に手を焼いていたこともあり、これを名案として受け入れ、浪士組取扱に旗本でも大名でもないが徳川一門でありながら厄介者扱いされていた幕臣・松平上総介(かずさのすけ)を浪士取扱役に就任させ、八郎を登用することを決断した。添役として鵜殿鳩翁(うどのきゅうおう)を任命した。11.28日、まず安政の大獄関係の処刑者の建碑が許され、在獄者は次々と釈放された。八郎の首切り事件罪状もされた。
晴れて自由の身になった八郎は、12.10日、八郎は水戸から江戸に戻り、山岡鉄太郎邸に入り居候となる。12.19日、幕府から正式に浪士組募集の大令が松平主税介のもとに出される。「将軍・徳川家茂の上洛に際しての将軍警護浪士の募集」が目的であった。八郎は隊士の募集に取り組むことになる。「浪士募集の達文」が遺されており、「尽忠報国の有志による一方のお固め」と記されている。「国」は、藩(幕臣にとっては徳川家)と日本国(「皇国」)の二通りの意味で使われている。「一方のお固め」とは日本全体の守衛を意味し、外国の脅威からの守衛、つまり「攘夷」を意味する。浪士組は「尊攘の大義」の実現を目的にするための浪士集団であり、腕に覚えがある者であれば身分、犯罪歴を問わずと云う当時として画期的な組織であった。 同じく八郎の幕府へ上書が受け入れられ八郎事件で連坐投獄されていた獄中の生き残り「虎尾の会」同志(清河弟・斉藤熊三郎、同志・石坂周造、池田徳太郎)が放免された。八郎も直ちに小塚原回向院(えこういん)に埋葬されている牢死した同志の墓を建てた。その中、西川練造の墓は遺族の手により川越小仙波喜多院に移された。八郎筆 「 西川練造之墓」 と題し、「清河正明これを建つ 」とあり、現在埼玉県史蹟に指定されている。北有馬太郎の墓は 門人内田豊吉等の手によって、同所に改めて 「肥前島原中村太郎之墓」と題して建てられた。笠井伊蔵の墓は 郷里勝呂石井の宗福寺内にもあり、 「顕元院義刀明亮居士 」と刻まれている。なお回向院内の古い墓は現在すべて整理されている(小山松勝一郎著「清河八郎」)。 松平主税助が幕府の目付(最後の箱館奉行を務めた)杉浦梅潭に提出した浪士名簿、杉浦が記した「浪士一件」の最初(文久二年の記事)には、清河八郎、池田徳太郎、石坂宗順(周造)、内藤久七郎、堀江芳之助、杉浦直三郎、■塚行蔵、磯新蔵、大久保枩之助、坂本龍馬、松浦竹四郎、村上俊五郎の12名が記されている。文久2.12.20日の記事では、幕府が取り立てるべき浪士筆頭として清河八郎の名前が挙げられ、さらに文久3年の最初の記事には、幕府が取り立てるべき浪士たちとして坂本龍馬、平野国臣、真木和泉、間崎哲馬、宮部鼎蔵、西郷隆盛、久坂玄瑞、藤本鉄石がリストアップされている。八郎に関係の深い人物と解することが可能で、八郎の政治能力が見て取れる。 |
||||||||||
国事奔走編その13、浪士組結成 | ||||||||||
1863(文久3)年、34歳の時、正月7日、幕府が上京する将軍警護の為の浪士組募集方針を示す。最初の浪士取締役には松平主税之介、鵜殿鳩翁、窪田治部右衛門鎮勝、山岡鉄太郎、松岡萬、中條金之助、佐々木只三郎らが任じられた。 1月、北町奉行浅野備前守から正式の赦免の沙汰がおりることになり、八郎は、出羽庄内藩江戸留守居役黒川一郎に付き添われて、麻裃に身なりを改めて奉行所に出頭し、次の示達を聞いた。
同じ日に、浪士取扱いの松平上総介から、次のような伺書が奉行所に出された。
この二通の公式文書で、清河は晴れて赦免の身になると同時に、松平上総介に身柄を引取られることになった。松平上総介とは、鉄舟も関与している講武所の剣術師範役並出であり、直心影流を学び男谷下総守と同門で、他にも伊庭軍兵衛に心形刀流を学び、柳剛流にも通じている剣客であった。 正月22日、浪士取立計画を採用した政事総裁職の松平春嶽、杉浦梅潭、勝海舟(当時、春嶽を批判していた)、坂本龍馬の四人が同じ船に乗り合わせ、浪士取立計画について議論をしている。杉浦梅潭が記した「経年記略」(「杉浦梅潭目付日記」に所収)に、このとき坂本龍馬との会話も記されているが、会話の記録は残されていない。 2.4日と5日の二日間に渡って、小石川の伝通院で隊士採用試験行われ、近隣の若者230余名が集まった。注目すべきは八郎の呼びかけに応じて各地の剣術道場の免許皆伝者がこぞって参加していることであろう。この中に江戸・市谷で天然理心流の剣術道場・試衛館(しえいかん)を開いていた近藤勇、同郷の土方歳三や沖田総司、山南敬助(やまなみけいすけ)ら後の新撰組メンバーがいた。募集当初は要員50名、維持費300万両の制限があり、幕府老中・板倉勝静に言い渡されていた。しかし八郎は予算の事など眼中になく集めた浪士は300余名集めたため、金策の目途も立たず扱い切れないと呆れ返った松平主税之介が浪士取扱を辞任。後任に鵜殿鳩翁が就き、浪士取締には八郎の同胞・山岡鉄太郎、松岡万の両名が任命された。 2.23日(2.8日)、伝通院(でんづういん)に浪士組234名他が集まった。幕府より一人当たり10両(約30万円)が支給された。浪士組の編成は10人を一隊とし、隊長(小頭)を置き、三隊を一組とし、それに道中世話役が一人付き添った。これを7組編成にして、幕府の命により表街道(東海道)を避け、中山道の木曽路を通り京へ向かった。八郎、山岡鉄太郎(後の鉄舟)が引率して将軍・徳川家茂上洛の前衛隊として上洛する。2.9日、本庄宿。2.11日、松井田宿。2.13日、長久保宿。2.14日、下諏訪宿。2.15日、奈良井宿。2.17日、中津川宿。2.19日、加納宿。2.21日、武佐宿。2.22日。大津宿。2.23日、京都壬生村到着。その夜、清河は浪士を壬生(みぶ)村の新徳寺に集め、 「我らの目的は単に将軍警護ではなく、攘夷の魁となるためである」とかねてよりの尊皇攘夷策謀を宣言し浪士たちのに血判を求めた。突然の話しに浪士たちは困惑したが八郎の鬼気迫る演説とその迫力に圧され血判に応じた。翌日、200名の手勢を得た八郎は朝廷(御所)学習院に尊皇攘夷の赤心を陳じ建白書の受納を願い出て受理される。3.3日、鷹司関白より浪士組に対し、攘夷実行のため東下すべしとの命を賜る。学習院国事掛から孝明天皇の御製が添えられた攘夷の勅諚を賜った。これにより浪士組は朝廷の警護番に任命され朝廷軍になった。 ちょうどこの時、江戸では幕府の外国奉行が生麦事件の代償についてのイギリスからの強硬な談判を持て余していた。イギリス側の条件は、1・島津久光を引き渡す。2・賠償金を差し出す。3・上記いずれかが実行されない場合は軍艦を差し向けるというものだった。判断に窮した外国奉行は上洛中の将軍の決裁を求め、二条城に駆け込んだ。これを聞いた八郎は、朝廷に2回目の破約攘夷(生麦償金拒絶による開戦)を約束する建白書を上奏。関東へ戻る旨を浪士組全員に報告するための集会を企画し、「この度、生麦事件で英国は強硬な談判をはじめ、次第によっては軍艦を差し向けるとまで脅迫いたしている。我等もとより異人を払う急先鋒にと存ずるにより、まず横浜に参って鎖国の実をあげ、攘夷の先駆けをいたさん所存である」と、横浜での攘夷決行を促す。 これに対し、芹沢鴨が、「これは清河殿のお言葉とも存ぜぬ。我等承るに今だ天朝よりご沙汰無きのみか、将軍家にも東下がない。我ら同志13名は京に残り申す」と反対する。13名とは、芹沢派6名(芹沢鴨、平間重助、新見錦、井上源三郎、野口健司、平山五郎)、近藤派7名(近藤勇、土方歳三、沖田総司、永倉新八、山南敬助、原田佐之助、藤堂平助)であった。幕府の士として将軍を警護するのが筋との立場から京に残留する旨を八郎に言い放ったのに対し、八郎は、「お勝手に召されい!」と畳を蹴って席を立った。芹沢・近藤ら13名はその足で、浪士組の責任者・鵜殿鳩翁を訪ね委細を話すと鵜殿も芹沢らの意見に同意し、京都守護職で会津藩主・松平容保預りということになった。最終的に、斎藤一などの浪士組以外の浪士も含め京都残留浪士は24名となる。 2.13日、将軍家茂は上洛の途につき、3.4日、入京した。将軍上洛の目的は公武合体派の雄藩・公家が蓮繋して長州藩の尊皇攘夷派および三条実美以下少壮公家の暗躍を封じることにあった。京の治安は乱れ、形成は必ずしも幕府の有利な展開にはならなかった。 |
||||||||||
国事奔走編その14、浪士組分裂 | ||||||||||
幕府は、攘夷の勅諚を得ている八郎の威光に押され、破約攘夷(生麦償金拒絶による開戦)を約束する。但し、浪士組の動静に不安を抱き、浪士組預役の山岡鉄太郎、鵜殿鳩翁に命じて江戸へ呼び戻すよう指令する。
3.13日、浪士組209名が帰府に出立する。3月28日、八郎が率いる浪士組が江戸へ到着する。 三笠町浪人屋敷に入る。江戸留守の浪士と合して335名となる。後に新徴組と改名し庄内藩預りとなる。 4.4日、幕府は、佐竹、酒井(庄内)、大久保、相馬、松平の5藩に市中警備方発令した。京都に残った近藤勇、芹沢鴨ら十数名が京都の治安維持を任務とする壬生浪士組と称し見回り始める。これが後に新選組となる。 |
||||||||||
国事奔走編その15、幕府に攘夷を迫る | ||||||||||
幕府と八郎の緊張が高まり始める。江戸に戻った八郎は危険分子として幕府の刺客につけねらわれることになる。だが、八郎は剣の達人の上、常に5,6人の護衛をつけていたので容易に近づくことができなかった。幕府は、朝廷に破約攘夷を約束するはめになったものの、浪士組東帰後も、江戸の幕閣は破約攘夷実行の気配を見せなかった。 明治33年の高橋泥舟の談話によると、高橋は留守老中の水野忠精に攘夷を何度も迫ったが、水野は高橋の意見を全く用いず、八郎は、破約攘夷(生麦償金拒絶による開戦)に踏み切らない幕府に業を煮やし横浜居留地襲撃を画策し始める。横浜攘夷では、同胞・石坂周造らが近在の豪商に金策をし、爆裂弾を中心とする兵器も製造、伝馬船・梯子等も秘密裏に準備を整えた。八郎の不穏な動きを察した幕府は、偽浪士を雇い、幕府東帰浪士組が、あたかも攘夷先鋒と称して豪商を掠奪し、乱暴行為を働いたように見せかけている(小山松勝一郎著「清河八郎」)。偽浪士を捕縛した八郎が取調べを行うと、老中格小笠原長行の命を受けた勘定奉行小栗忠順が、浪士組の悪評を流すために、彼らに迷惑行為を指示したのだ自白したと言う。浪士組取締の高橋泥舟が登城して小笠原らを詰問するも、「町奉行所で預かって吟味をする」と言われ、幕府の機関である奉行所で事をうやむやにされてはならじと、4.9日、浪士組が偽浪士2名を斬首し、これを米沢町の河原に晒し首にした。高札には幕府の策謀が記され、幕府の面目は大いに損なわれた。 このように幕府と八郎、東帰浪士組の間に緊張が高まり、八郎のもとに続々と参集する何百人という浪士たちが八郎の手先として働くことを危惧し、幕府は八郎暗殺の内命を下す。八郎は幕府にとって最も危険な人物の一人になっていた。 |
||||||||||
国事奔走編その16、最後 | ||||||||||
4.10日、 山岡鉄太郎、清河八郎、斎藤熊三郎、西恭助、横浜に至り、窪田千太郎を訪ねる。 4.12日夜、八郎は、山岡邸で父親宛に手紙を書いている。
八郎らが攘夷決行で横浜居留区襲撃を4.15日と決め、諸事万端を整え始めたいた矢先の5.30日(4.13日)、決行の2日前、八郎はこの日に限って護衛をつけずに単身で出かけた。招待されていた郷里の先輩である上山藩士・金子与三郎の家に向かう途中、銭湯に行って身を清め、ふらりと友人の山岡鉄太郎の義兄・高橋泥舟の家に寄り、泥舟の妻・お澪に扇を3典求め歌を書き記している。
泥舟は、この歌を見て不吉なものを感じ、今日は家を出てはいけないと諭したが、約束を破ってはいけないと言い残し、金子が手配した駕籠に乗って、金子のいる麻布の上山藩邸へと向かった。そこで酒を飲み、午後4時過ぎ、金子のもとを辞した。 麻布一ノ橋(現麻布十番商店街そば)を渡ったところで、前方に立っている人が、「清川先生ではありませんか・・・?」と言って、頭にかぶっていた笠をはずし丁寧にお辞儀をする。それに答えて、八郎が笠をはずそうとしたとき、後ろからやってきた刺客に一刀のもとに切りふせられてしまった。最期の言葉は、「む、無念・・・!!」。享年34歳。刺客は浪士組取締役を務めている講武所剣術方、會津藩士・佐々木只三郎、窪田泉太郎など6名とされている。佐々木只三郎は、八郎暗殺の功により、幕府より京都見廻組のトップに任ぜられ、新撰組と同じく京都の警備に当たることになる。 |
||||||||||
著作編 | ||||||||||
「潜中始末」を著わしており、その冒頭は次のように記述している。
八郎は著作として「潜中紀略」、「潜中紀事」、「芻蕘論文道篇」、「芻蕘論武道篇」を遺している。 |
||||||||||
余話編 | ||||||||||
「女士道」(山岡英子、1903年)の記述によると、首は石坂周造が取り戻し、山岡英子(山岡鉄舟の妻)が保管し傳通院に葬った後、遺族に渡したという。墓所は東京文京区の伝通院にある。妻の阿蓮(おれん)の墓も寄り添うように立てられた。 清河の死後、幕府は浪士組を新徴組と改名し庄内藩預かりとした。没後45年経った1908(明治41)年、正四位を贈位された。1933(昭和8)年、八郎没後70年にあたるこの年、山形県庄内町に清河神社が建てられ祭神として祀られる。大正15年9月に内務省より神社創設の許可を得て、全国有志の援助により創建された。毎年5月5日(こどもの日)には例大祭が盛大に執り行われ、同日に清河八郎顕彰剣道大会が清川小学校体育館にて開催されている。 1962(昭和37)年、没100年記念記念事業として遺品の収集と保管、そして偉業の顕彰のために清河八郎記念館(山形県庄内町清川)が建てられた。その横に清河神社がある。 斉藤家は長男の亡くなったことにより妹辰の息子・正義が跡を継ぎ、正義は七男四女の子沢山を儲け、その四女・栄の夫が作家の柴田錬三郎となる。 2013.9.23日 れんだいこ拝 |
||||||||||
矢野 宣行氏の「ものすごい先生たちー80 ( 清河八郎・一之橋 暗殺一条ー下 )」(「田中河内介・その79(寺田屋事件ー68)」)を参照(ほぼ転載)する。
|
||||||||||
「8月某日 庄内(1)(石原莞爾、阿部次郎、清河八郎、土門拳、西郷隆盛、藤沢周平、森敦『月山』)」(2009年8月19日 )を転載しておく。
|
||||||||||
「勤皇唱始 清河八郎先生」(2012年 03月 09日)を転載しておく。
|
||||||||||
大川周明博士の「清河八郎」伝は、相当読まれたものらしい。その跋文に、安岡正篤が、「兄は、正明と郷土を同じうし、又実に風神を同じうして居る。若し大正維新を思うて、正明を求めるならば、兄を看るのが一番である。私は唯深く兄の不慮を免れんことを心窃(ひそ)かに祈っている」と書いている。 |
参考文献 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|