れんだいこの清河八郎論

 (最新見直し2013.10.01日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、れんだいこの清河八郎論をものしておく。 

 2013.9.23日 れんだいこ拝


れんだいこのカンテラ時評№1173  投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年10月 1日

 れんだいこの清河八郎論

 今日、2013(平成25).10.1日、安倍首相が政権公約として来期4.1日より消費税増税することを国内外に発表した。記者会見の席上、郷里の偉人である吉田松陰に言及していた。こともあろうに攘夷論のイデオローグであった松蔭を、国際ユダ屋の手先と化している安倍が能天気に悪びれることなく松陰を持ち上げていた。よろしい、これを奇果として松蔭にも触れておこう。本筋は清河八郎である。

 2013.9.23日、良い話しを得た。直接的には藤田まこと主演の確か「必殺仕掛け人」による。題名は定かではない。劇中に清河八郎(以下、単に「八郎」と記す)が登場し興味を覚えた。どこに興味を覚えたのか。それは、八郎が愛妻の名を「お蓮」と名付けていたことによる。これがたまたま「れんだいこ」の「れん」と重なると云うのが気に入っただけのことであるが、それはそれで良かろう。そういう他愛のないことからでも良い、不思議な機縁で繋がることの方が肝心であろう。

 「清河八郎とお蓮の物語」は「坂本竜馬とおりょうの物語」と双璧を為す。史実から云えば、八郎物語の方が竜馬物語の先を行く。幕末史には天晴れとしか言いようのないこうしたラブロマンスに満ちている。「清河八郎とお蓮の物語」の詳しくは「清河八郎履歴」に記す。

 清河八郎とは何者か。本稿はこれを問う。先だっては三島由紀夫を考察したが、三島の場合にも数万語費やして三島を語り三島から遠い愚昧評論を見た。清河八郎論にもそのきらいがある。そこで、れんだいこが中心線を打ち出しておく。結論から言えば、八郎の履歴を通して幕末史の流れがより見えてくる。と云うことは、八郎が時代の渦のただ中にいたことを証しているのではあるまいか。そうであるとするなら、通説幕末史が八郎を踏まえていないのは、それだけピンボケしていることを証していると云うことになるのではなかろうか。もっともっと八郎を調べるべきであり、その履歴を正史の中に納めるべきであろう。

 これまでの幕末史が八郎を過小評価してきたのは学者の眼力不足によるもので、八郎のせいではない。同郷の鶴岡出身の作家・藤沢周平は、「回天の門」という小説で八郎を描き、家を飛び出し、遊女を妻に迎え、革命に奔走し、書や歌を詠み、全国を駆け巡って、短い人生を駆け抜けた、破天荒で時代を回転させた魅力的な人物として描いている。この観点が是であろう。

 浅知りする者は八郎を、新撰組の分岐騒動に関連したくだりで「策士」と捉えるばかりで、八郎の痛快無比の軌跡を思わない。事実は、1853(嘉永6)年のペリー率いる黒船艦隊の浦賀来航以降の政情に於いて、「尊王攘夷&倒幕」の政治テーゼを掲げ、これをその後の政治運動内に定式化させた人物であり、これこそ八郎の功績であろう。

 もとよりこれは八郎一人が案出したのではない。吉田松陰もその一人であり、時代の気運がここに向かっていたことを証している。両者はたまたま同年齢の1830(天保元)年生まれであり、時代の空気を誰よりも強く嗅ぎ分け、共に幕末の風雲の中を「尊皇攘夷の魁(さきがけ)」として散った。

 松蔭享年29歳、八郎享年34歳。共に名辞世句を遺している。これを確認すれば、松蔭の辞世句は「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも、留(とど)め置かまし大和魂」、「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」。八郎の辞世句は「魁(さきがけ)て またさきがけん 死出の山 迷いはせまじ皇(すめらぎ)の道」、「くだけても またくだけても寄る波は 岩かどをしも 打ちくだくらむ」。

 れんだいこの眼力によれば、「西の吉田松陰に対する東の清河八郎」の評が与えられるべきであろう。しかるに松蔭が語られることは多いが八郎はめっきり少ない。しかしこれはオカシい。八郎は、幕末を文武両道の第一人者的牽引力で駆け抜けた快男児にして風雲児足り得ていた。八郎が歴史に遺した功績は知られているより大きいとして再評価されるべきではなかろうか。

 松蔭は「安政の大獄」で処刑され、八郎は幕府の秘密指令により暗殺されたが、松蔭・八郎2世、3世が続いたのが幕末史ではなかろうか。八郎がかく時代の渦の中心にいたことがもっと評価されるべきだろう。これが、れんだいこの八郎観となる。ちなみに司馬遼太郎は「幕末は清河八郎が幕を開け、坂本龍馬が閉じた」と評しているとのことである。

 八郎と幕末志士の関係を評すれば、2歳上の西鄕隆盛、同年の吉田松陰は別格として、1歳上の武市半平太、3歳下の桂小五郎、5歳下の坂本龍馬、9歳下の高杉晋作、10歳下の久坂玄随らは、八郎を文武両道型剣豪列伝系譜の幕末志士の祖とする八郎2世、3世の気がする。八郎ありせばこその武市であり桂であり龍馬であり晋作であり玄随ではなかったのか。彼らにバトンタッチするまでの繫ぎの役目をし、実践のモデル的指針を与えたのが八郎の歴史の役割ではなかったか。そういう役割を歴史に刻んでいると認めるべきであろう。かく「西の松陰、東の八郎」と位置付けたい。

 補足しておけば、清河八郎の「尊王攘夷&倒幕論」をそのままの形で現代史に持ち込むことはできない。現代人の我々が焼き直せばよいだけのことである。かの時代のかの情況下に於いては「尊王攘夷&倒幕論」こそが歴史的実在力を持っていたのであり、その歴史的実在力を牽引した有能士として遇し評するべきであろう。これを歴史の眼とすべきである。云わずもがなの事ではあるが。

 もう一つ足しておく。この頃の志士活動は幕末維新と名付けられるべきで、その幕末維新の理想を捻じ曲げた明治維新とは識別されるべきであろう。幕末維新の観点を欠いたまま明治維新として一括理解するのは少々粗雑過ぎる歴史の眼ではなかろうか。この提言を良しとする者は以降、幕末維新の項を立てるべきである。その明治維新も、西郷隆盛が政治に関与していた時期までと西郷失脚後とを明確に区別すべきであろう。現行の明治維新論は、幕末維新、西郷関与の明治維新、西郷亡き後の明治維新の質の違いが踏まえられておらず到底使いもんにならん。

 「【調査】好きな幕末有名人、1位は高杉晋作…日刊スポーツ」( 2010/10/21)を転載する。
 ★好きな幕末有名人1位は高杉晋作、2位は?

・「好きな幕末の有名人」1位は高杉晋作-。「日本史なんでもランキング」はニッカンスポーツコムと連動し、日本史に まつわる人物、出来事などを、ネット投票によって順位を付けます。第1回のテーマは「好きな幕末の有名人」で計598人の投票が寄せられ、トップは107票を獲得した高杉でした。

 1位 高杉晋作(107票) 長州藩では吉田松陰の下で学び、尊王攘夷(じょうい)運動に加わる。身分を問わない奇兵隊を設立。1864年8月、長州が英国など4カ国と戦った下関戦争では藩を代表して講和交渉に当たる。同年12月に伊藤俊輔(博文)らと挙兵して藩の実権を握り、討幕、薩長同盟へと動いていく。66年6月の第2次長州征伐では参謀として指揮を執り、幕府軍を敗北に追い込む。結核を患い、67年4月13日死去。享年29。

 2位 坂本龍馬(100票) 土佐藩を脱藩し、亀山社中(海援隊)を設立。薩長同盟成立、大政奉還に大きな役割を担った。1867年11月15日、京都で暗殺される。享年33。3位 土方歳三(76票) 新選組副長。戊辰(ぼしん)戦争では鳥羽・伏見の戦いの後、会津、仙台と転戦、 最後は箱館で新政府軍と戦う。1869年5月11日、同地で戦死。享年35。 4位 西郷隆盛(42票) 薩摩藩の中心的存在として薩長同盟、王政復古に尽力。戊辰戦争では 江戸総攻撃を前に勝海舟らと会談、無血開城を実現する。1877年、西南戦争で自刃。 5位 勝海舟(40票) 幕府の軍艦奉行、新政府の海軍卿などを務め、「日本海軍生みの親」と いわれる。戊辰戦争では、西郷と交渉し、江戸城無血開城に尽力した。 6位以下は、河井継之助、吉田松陰、大久保利通、大村益次郎、桂小五郎となりました。(一部略)
 掲示板で、中岡慎太郎、大鳥圭介、沖田総司、牧瀬里穂、大森歌右衛門、岩崎弥太郎、大久保甲東、玉松操、香川照之、伊藤圭介、伊藤博文、小栗上野介、明治天皇、岡田以蔵、川路聖謨、山内容堂、井伊直弼、大塩平八郎、徳川慶喜、芹沢鴨、山県有朋、小栗忠順、笠原良策、松本良順、楠本いね、月形半平太、有村俊斎、陸奥宗光、榎本武揚、久坂玄瑞、清水の次郎長、黒駒の勝蔵、山岡鉄舟、周布政之助、来島又兵衛、阿部正弘篠原国幹、橋本左内、小松帯刀、田中新兵衛、那須信吾、姉小路公知、三条実美、山縣有朋、島津久光、福沢諭吉、佐野常民、清岡八郎らの名が挙がっている。
(私論.私見)
 清河八郎がこういう程度の扱いを受けていることが確認でまよう。

 「ものすごい先生たちー66 (千住小塚原ー中・政治犯の埋葬 )」(2008-08-19)を転載しておく。
 田中河内介・その65 (寺田屋事件ー54) 外史氏曰 千住小塚原ー中

 政治犯の埋葬

 小塚原回向院に埋葬された人びとの その大半は重罪者の死骸です。しかし、文政五年からは 国事犯( 政治犯 )の 埋葬も行われるようになり、非命に倒れた幕末の志士たちの多くが眠っている。文政五年( 一八二二 ) 八月二十九日、南部藩士で 檜山騒動 ( 相馬大作事件 )の発願人である 相馬大作 (そうまだいさく) 【本名 下斗米秀之進 (しもとまいひでのしん) 】三十四歳と関良助(大作の従弟で行動を共にした)が、伝馬町の牢屋敷で断首され、小塚原に於て 梟首(きょうしゅ) にかけられ、その屍を埋めてより、国事犯( 政治犯 )がここに埋葬されるようになった。

 【相馬大作事件 】
 もと南部家の一族である 津軽氏が しだいに権勢を得て、本家筋を凌ぐ勢いとなり、しかも、蝦夷地警衛にからむ 官位昇進運動で、津軽藩主が 南部藩主の上位となったのが、事件の発端である。具体的には、文政三年、十万石の 津軽藩主 寧親(やすちか) が 従四位下侍従に叙任され、旧主二十万石の 南部利敬(としたか) と位階同等に及んだことが事の起こりである。利敬は これを怒り鬱憤疾を発して悶死したといわれる。新しく藩主の座についた南部利用(としもち) は、まだ十五歳で 無位無官であったこともあって、このことが南部藩側を著しく刺激した。なかでも憤慨した相馬らは主君の無念をはらすべく脱藩。文政四年四月、相馬大作は 数十人の同志と共に 津軽国境の矢立峠にて参勤交代で津軽に帰る津軽候を要撃するため潜んだが、事は事前に漏れて遂に果すことが出来なかった。

 幕末になると、安政の大獄、桜田門事件、坂下門事件など、多くの憂国の志士たちの屍は 大抵ここに埋葬された。小塚原回向院にゆかりの人びとは。

 (安政の大獄関係 )
 梅田雲浜、 橋本佐内、 頼三樹三郎、 吉田松陰、 茅根伊予之介、 鵜飼吉左衛門、 鵜飼幸吉、 日下部裕之進、 飯泉喜内、 成就院信海、 小林良典、 須山万、 六物空満、 水口秀三郎、 平尾信種

 (桜田門外の変関係 )
 金子孫次郎、 佐野竹之介 、黒沢忠三郎、 森五六郎、 稲田重蔵、 斉藤監物、 鯉渕要人、 広岡子之次郎、 蓮田市五郎、 有村次左衛門、 関鉄之助、 山口辰之介、 大関和七郎、 森山繁之介、 岡部三十郎、 杉山弥一郎、 佐久良東雄、 島男也、 後藤啓之介、 大貫多介、 宮田瀬兵衛

 (坂下門外の変関係 )
 川辺佐次右衛門、 黒沢五郎、 平山平介、 児島強介、 高畑房次郎、 河野顕三、 河本杜太郎、 得能淡雲、 小田彦三郎、 中野方蔵、 横田藤太郎

 (その他 )
 幕末の志士たちのほかにも、南部騒動の相馬大作、二・二六事件の 磯部浅一なども ゆかりの人物である。もちろん、国事犯ばかりでなく、鼠小僧次郎吉のような侠客や盗人など市井の人びともいる。

 西川練造、中村太郎、笠井伊蔵、住谷悌之介、雲井龍雄

 明治以後では、明治三年十二月二十六日、米沢藩士、雲井龍雄 (くもいたつお) ( 本名 小島龍三郎 ) 二十七歳が、新政府転覆陰謀事件の首謀者として判決を下され、其の日のうちに 小伝馬町の獄で斬首され、小塚原に梟首 (きょうしゅ) された。また 龍雄の胴体は 大学に下付され、医学授業のために切り刻まれた。

 最近では 昭和十一年の二・二六事件の首謀者として 翌十二年八月十九日、代々木陸軍刑務所で銃殺刑に処せられた 磯部浅一(いそべあさいち)(山口県大津郡菱海村生れ )三十二歳の墓がある。吉田松陰の側で眠りたいという 本人の遺言によって昭和十五年、磯部夫妻の墓が松蔭の墓の近くに建てられた。吉田松陰をはじめとする明治維新の殉難志士と並んで眠る昭和維新の志士、磯部浅一にとって、ここはその本懐とする安らぎの地なのだろう。

 江戸時代、当時の法律では、刑死者も無縁として扱われ、無縁の供養を担う回向院のみが供養することになっていた。その論理は、刑死者は無縁だから供養する人々はいないとするものでした。このことは縁者にとっては、親しい人を供養することが出来ないことを意味した。とはいえ、親しい人を供養したいというのが人情であり、このことは 幕府も認めるところであった。そこで刑場を持地とする回向院が、縁者と死者を仲介し、外向きには 回向院が供養をして、内実としては縁者が檀家として供養するという形がとられた。幕末の志士も、縁者によって こうして回向院のなかにお墓が建てられ、供養された。しかし、志士の多くは藩士だったので、故郷にいる縁者は 供養する事が出来なかった。 そのため、文久二年に大赦令が出て罪が赦免されると、多くの志士は縁者の手により 国許などへと改葬されていった。

 こうした刑死者と縁者の関係は 幕末の志士にかぎったことではなく、すべての刑死者にあてはまります。回向院では、あらかじめ埋葬している場所を記した帳簿をつくり墓地を管理するとともに、埋葬者の名前を記した標石を 遺体とともに埋め、改葬に備えているということも行っていた。

 近代になると、回向院は 改葬の際に残されたお墓を中心に、明治維新に活躍した多くの志士の眠る場所として見出され、残された墓石だけでなく、再びお墓が建てられはじめ、次第に来訪者の数が増えている。 なお墓地は平成十八年に大々的に改修・整理された。( 「 史蹟 回向院 」回向院発行による )

【山岡鉄舟研究家・山本紀久雄氏の清河八郎論】
 「山岡鉄舟研究会」の山岡鉄舟研究家・山本紀久雄氏の「尊王攘夷・・清河八郎編その一」(2009年04月13日)を転載しておく。

 山岡鉄舟研究家・山本紀久雄「尊王攘夷・・清河八郎編その一」 



 尊王攘夷論が日本国中に跋扈したのは、嘉永六年(1853)から明治維新(68)が成立するまでの十五年間であり、その後はピタッと消え失せたのであるが、この尊王攘夷の風雲の始まりは「清河八郎の九州遊説から開幕したといってよい」と述べるのは司馬遼太郎である。(幕末・奇妙なり八郎 文春文庫) さらに、司馬遼太郎は同書で「幕閣老から八郎奇妙なり」と評せられたと述べ、清河が天子に上書したことをもって「奮怒せよ、と無位無官の浪人のくせに天子まで煽動した幕末の志士は、おそらく清河八郎をおいていないだろう」と書いている。

 この点を突いて評論家の佐高信は「言葉尻をとらえるようだが、私は『無位無官の浪人』を賛辞としてしか使わない。私自身もその一人であることを誇りに思っている。ものかきは本来そういうものだと思うが、司馬は違うようである」と批判した。(山岡鉄舟 小島英煕著 日本経済新聞社)

 清河八郎を主題に取り上げたものに「回天の門」(藤沢周平著 文春文庫)があり、この中で同郷の想いもこめて藤沢周平は次のように語っている。「清河八郎は、かなり誤解されているひとだと思う。山師、策士あるいは出世主義者といった呼び方まであるが、この呼称には誇張と曲解があると考える。おそらく幕臣の山岡鉄舟や高橋泥舟などと親しく交際しながら、一方で幕府に徴募させた浪士組を、一転して攘夷の党に染め変えて手中に握ったりしたことが、こうした誤解のもとになっていると思われる。しかし、それが誤解だということは、八郎の足跡を丹念にたどれば、まもなく明らかになることである」と。

 このように清河の評価は分かれるが、幕末の複雑化・混沌化した尊王攘夷の中、清河はどのような役割を果たしたのか。また、その果たすまでの経緯はどのようなものであったのか。それを今号と次号で追ってみたい。それが鉄舟の理解にもつながるからである。

 山形新幹線の終点駅新庄から陸羽西線に乗り換え、三四十分で清川駅に着く。駅から歩くと十数分のところに一つの神社がある。清河神社である。鳥居近くに縁起が掲示されていて、これによると創立は昭和八年(1933)で、御祭神は「清河八郎正明公」、由緒沿革に「幕末の激動期に尊皇攘夷を唱え、天下に奔走し維新回天の先覺者として大義に殉じ、明治四十一年特使を以って正四位を贈られる」と書かれている。

 清河は天保元年(1830)出羽(山形)庄内・清川村の酒造業斉藤家の長男として出生した。名前を斉藤元司といい、同家は大庄屋格で士分として十一人扶持を与えられている。余談となるが、清河八郎が亡くなり、妹辰の息子正義が跡を継ぎ、正義は七男四女の子沢山で、四女栄の夫が作家の柴田錬三郎である。(山岡鉄舟 小島英煕著) 元司は七歳で祖父から孝経の素読を受け、ついで論語の素読も受け、十歳で鶴岡の母の実家から清水郡治の塾と伊達鴨蔵の塾に学ぶ。しかし、従順な子どもでなく、十三歳で退学し、清川に戻って関所の役人畑田安右エ門に師事したが、十四歳ごろから酒田の遊郭通いを始めるという早熟な子どもであった。

 元司の性格は「ど不敵」であったと藤沢周平が「回天の門」で解説している。「ど不敵とは、自我をおし立て、貫き通すためには、何者もおそれない性格のことである。その性格は、どのような権威も、平然と黙殺して、自分の主張を曲げないことでは、一種の勇気とみなされるものである。しかし半面自己を恃(たの)む気持が強すぎて、周囲の思惑をかえりみない点で、人には傲慢と受けとられがちな欠点を持つ。孤立的な性格だった」。元司の頭脳は明敏で、師の畑田安右エ門を驚かせたが、この頃、斉藤家に藤本鉄石が立ち寄り、長逗留することになった。

 藤本鉄石(1816-63)とは岡山藩士、脱藩して長沼流軍学を学び、一刀新流の免許を受け、諸国を遊歴し、私塾を伏見に開き、文久二年(1862)に真木和泉ら尊攘派と倒幕を計画、翌年天誅組を組織し挙兵したが惨敗、和歌山藩陣営に斬りこんで戦死した人物であって、鉄舟とも後日縁が生じた人物である。その縁とは飛騨高山時代の鉄舟が、嘉永三年(1850)十五歳の時、父の代参で異母兄の鶴次郎(小野古風)とお伊勢参りに出発したが、その旅の途中で鉄石と出会い、林子平(1738-93)「海国兵談」の写本を借り写し終え、海外情勢を説いてくれた人物であった。

 その鉄石が弘化三年(1846)、元司が十七歳のときに斉藤家に滞在したのである。鉄石が鉄舟と出会う四年前である。元司も鉄石から大きな影響を受けた。それはアヘン戦争のことであり、世界には大国の清を簡単に打ち負かす力を持った国々があるという国際情勢であり、長沼流軍学・一刀新流の免許を持つという文武二道の鉄石の生き方であった。これらの影響もあって、江戸遊学の願いをもち、父に申し出たが、当然ながら跡取りであることから激しく叱られ、とうとう十八歳で家出をして江戸に向った。元司はいいにつけ、悪いにつけ徹底しなければやめない性格であり、自分自身が押し流されるまでもの集中力をみせ、それが学問にも、遊蕩にもあらわれるのだが、鉄石から広い世界を知った結果は、江戸へという家出になったのである。

 江戸で神田お玉が池の儒者、東条一堂塾に入門する頃になって、ようやく事後承諾という形で遊学を認められ、故郷から訪ねてきた伯父たちと一緒に旅に出た。京都、大坂から中国路を岩国まで行き、四国の金毘羅参りし、奈良、伊勢を回った。元司はその後も全国各地を歩き回ることになるが、その最初の旅であった。

 最初の江戸遊学中に、斉藤家の跡継ぎを予定した弟の熊次郎が突然に病死となり、帰郷を余儀なくされ、しばらく家業を手伝うことになったが、ここでまたもや放蕩の虫が騒ぎ始め、酒田の遊郭通いが激しさを増し、それがゆきつくところまでいくと、突然の如く、再び学問への望みを志し、父から三年間の許しを得て、今度は京都に向った。だが、京都では良師に巡り会えず、九州の旅に出た。九州では小倉から佐賀へ、長崎でオランダ船を見物し、オランダ商館に入って異人を近くに見るという経験を踏み、島原、熊本、別府、中津を経て小倉から江戸に戻ったのである。

 江戸では、東条一堂塾に入りなおし、東条塾と隣り合わせの玄武館千葉周作道場に入門した。当時、江戸で有名な剣術道場としては、北辰一刀流・千葉周作の玄武館、鏡新明智流・桃井春蔵の士学館、神道無念流・斎藤弥九朗の練兵館、この三道場を称して江戸三大道場と称し「位は桃井、力は斎藤、技は千葉」と評されていた。これに心形刀流・伊庭軍兵衛の練武館を加え、四大道場という場合もある。元司は二十二歳という当時の剣術修行としては晩学であったが、その分熱心に千葉道場で汗を流して東条塾に帰ると、深夜まで学問に励んだ。

 その頃、元司はひそかに、諸国から英才が集まる、幕府の昌平黌に入りたいという気持ちを強く持ち始めた。昌平黌に入るためには、昌平黌の儒官をつとめる学者の私塾に入って推薦を受けなければならない決まりがある関係上、安積(あさか)良(ごん)斎(さい)塾に入った。また、千葉道場の初目録を受けることができ、これは通常三年掛かるところを一年で受けたもので、千葉周作から非凡との誉め言葉を貰うと共に、心中に江戸で文武二道を教授する塾を開けたら、という望みを浮かべたのであったが、ここで父と約束した三年という期間が過ぎ、故郷清川村に戻ったのである。

 だが、嘉永六年(1853)のペリー来航から始まった幕末の複雑化・混沌化世情の中で、元司はまたもや江戸へという気持ちを抑えきれなくなり、父へ申し出、ペリーが再来航した安政元年(1854)に江戸に戻り、元司は二十五歳になっていたが、念願の昌平黌にはいることができた。このときに斎藤元司から「清河八郎」に名前を変えている。清河とは、勿論、故郷清川村の地名をわが名としたのである。なお、この名前については神田三河町に私塾を開設したときに改めたという説もある。しかし、氏名を改め、気持ちを新たに入った昌平黌は、清河にとって意外に収穫の少ない学問所だった。諸藩から集まった秀才たちは、あまり勉学に力を入れず、集まると天下国家を論ずるという風で、遊びも激しかった。清河はこの雰囲気に馴染めなかった。

 さらに、昌平黌の講義そのものが期待するほどのレベルではないことに気づき、失望を味わい、再び東条塾に戻って、昌平黌は自然退学という形になり、東条塾を手伝う、つまり、通い門人に素読をさずけるということを行いながら、自分の中に何かが醸成し、形つくられていくのを感じた。それは、自分の塾を開くことであった。故郷の父に相談し、開塾の許しを得ると、神田三河町に武家の貸地があったので、ここに建坪二十一坪の新築を行って「経学、文章指南、清河八郎」の看板を掲げた。安政元年十一月であった。いざ開塾してみると、いたって評判がよく、清河を慕って昌平黌からも、東条塾からも転じてくるものがいて、賑やかな好スタートを切ったのであった。

 この評判のよさは容易に推測がつく。当時の儒学者は書籍上の講義だけであったろう。ところが清河は違った。十八歳の家出から始まり、既に日本各地を回っており、長崎では異人オランダの状況も見聞きしたという実践行動は、清河の語り口に従来の儒学者を超えたものがあったはずである。

 これは吉田松陰の松下村塾も同様である。松蔭と清河は同年である。松蔭は二十歳まで長州を出たことがなかったが、二十一歳のときの九州半年間の旅に続いて、江戸、東北、ついには安政元年三月、下田に停泊中の黒船に乗り込もうとするほどの行動力をみせた。松蔭の方針は「飛(ひ)耳(じ)長目(ちょうもく)」(遠方のことを見聞することができる耳や目)で「ただ情報を集めるだけでなく、行動せよ」と門下生に教示したことが、明治維新の志士達を育てたのである。なお、松蔭の松下村塾開設は二十七歳であったが、清河塾は二十五歳での開設という早さであった。だが、好事魔多しである。この塾は年末の二十九日に、神田三河町一帯を襲った火事で、あっけなく消滅してしまった。これが今後の清河の姿を暗示する事件であったが、本人は不運とも思わず、父への金策願いも兼ねて故郷に戻ったのである。

 戻ってみて、十八歳の家出から二十五歳までの七年間、両親に孝養を尽くさなかったことを悔やみ、母を連れて半年間、周防岩国まで旅をした。北陸から名古屋に出て、お伊勢参りをして、関西から四国、周防を回って江戸を経て戻る大旅行であった。江戸滞在中、訪ねてくる友人・知人が皆、清河塾の再開を奨めるのを聞いた母は、自分の息子の出来映えを理解し、塾開設にむけて資金援助を申し出たので、早速に薬研掘に売家を見つけ手金を払って、三月二十日から続いた旅を終えるべく九月十日に清川村に戻った。

 ここで読者の方々が、少々不思議な感じをもたれかもしれない。清河の旅の道程について詳しく述べたからである。清河は記録を詳細に記していた。鉄舟にはこのような記録はなく、それが研究者に苦労を強いるところだが、清河は違った。

 なぜなら、清河は少年時代からよく日記を書き、それが現在でも「旦起私乗(たんきしじょう)」三冊、「私乗後編」三冊、「西遊紀事」一冊、計七冊が遺っていて、「旦起私乗」は生年より十七歳頃までの父母より聞いたこと、十八歳からは日録となっていて、清河八郎記念館に保管されている。また、「西遊紀事」は母を連れた旅の半年間の記録であるが、これが「西遊草」(清河八郎著 小山松勝一郎校注 岩波文庫)として出版されている。

 もうひとつ大事な特徴は、清河の旅の多さである。この時代、基本的に目的のない旅は本来許されていなかったはずで、それは農民の離散を招く恐れから農業生産の低下をもたらすことに通じ、年貢の減少につながるからであった。商工業者にとっても同様であり、また、住所不定の輩が増えることは治安の問題を引き起こすことにつながるので、江戸では無宿人狩りが頻繁に行われていた。とにかく人の移動を自由にするということは、住所不定の人間を増やすことにつながるからである。

 だから旅は本来難しいはずだが、清河が旅した回数は当時としては異常に多い。例外的であろう。松陰も旅をしたが、松蔭は武士であった。清河は士分とはいえ出自が異なる。その出自を埋め合わせるような旅の多さであり、その旅の記録を残すという勤勉な行為、その結果は清河の頭脳に各地の実態が刻み込まれ、それと学問と剣術が加わり、攪拌され、多分、清河は当時の最先端人間になっていたであろう。つまり、時代の動きを体現していたのであり、それが、幕臣として動きの不自由な鉄舟や泥舟をとらえた真因であろう。次回も清河分析がつづく。
 山岡鉄舟研究家・山本紀久雄「尊王攘夷・・清河八郎編その二、

 幕末維新の時代は、日本の歴史の中で、戦国中期以後の時代とならび、英雄時代といってよい時期で、さまざまな型の英雄が雲のごとく出た。その中で特によく知られているのは維新の三傑としての西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允である。幕府側にも幕末三舟の鉄舟、海舟、泥舟が存在し、また、異色ではあるが、清河八郎も同様であり、その他にも多くの英雄といえる人材が輩出したからこそ、あのような偉大な改革が遂行されたのである。

 その山形・清川村の酒造業の息子の清河が、江戸で儒学者を目指していたのに倒幕思想へ転換し、「回天の一番乗り」目指し、薩摩藩大坂屋敷に逗留するほどの人物になり、伏見寺田屋事件や幕府の浪士組から新撰組の登場にまで絡んでいき、最後は幕府によって暗殺されるのであるが、今号は何故に学者から倒幕思想へ人生目的を戦略転換させたか、その過程で鉄舟とどう関わっていたのか、それを検討してみたい。

 清河は学問を志し、江戸神田三河町に「経学、文章指南、清河八郎」塾を安政元年(1854)十一月に開いたが、その年末に火事で消滅したことは前号で述べた。そこで、次の塾として薬研堀の家屋を購入したが、これも安政二年(1855)十月の大地震によって壊れ、塾開設をあきらめざるを得なくなって、この前は火事で、今度は地震、自分の将来へ一抹の不安を暗示しているのではないかと、一瞬脳裏に宿ったが、それを打ち消すかのように郷里で猛烈な著述活動を開始した。

 清河の多くの著述の大半はこの時期になされた。「古文集義 二巻一冊」(兵機に関する古文の集録)、「兵鑑 三十巻五冊」(兵学に関する集録)、「芻蕘(すうじょう)論学庸篇」(大学贅言(ぜいげん)と中庸贅言の二著を併せたもので、芻蕘とは草刈りや木こりなどの賤しい者を意味し、自分を卑下した言葉で、この本の道徳の本義を明らかにし、後に大学・中庸を学ぶ者に新説を示したもの)、「論語贅言 二十巻六冊」(論語について諸儒の議論をあげ、独特の説を示したもの)、「芻蕘論文道篇 二巻一冊」(尚書・書経を読み、百二篇の議論をあげ、独特の説を示したもの)、「芻蕘武道篇」(兵法の真髄を説いたもの)

 その他に論文もあり、これらの著述でわかるように、清河の勉学修行は並ではない。だが、この猛烈なる漢学の勉学が生涯の運命を決めた、と述べるのは牛山栄治氏である。「清河は漢学によって名分論(道徳上、身分に伴って必ず守るべき本分)から結局は維新の泥沼にまきこまれて短命に終わり、勝海舟などは蘭学の道にすすんだために時代の波に乗っている。人の運命の分れ道とはふしぎなものである」(牛山栄治著 定本 山岡鉄舟)。
 
 清河の薬研堀塾を諦めさせた安政の大地震は、攘夷運動にも大きな影響をもたらしている。既に検討したように、日本の攘夷論の大本山は水戸藩であり、その藩主は徳川斉昭(烈公)であって、この当時の斉昭は幕府の海防参与に任じられて、猛烈に過激な攘夷論を主張していて、それを強力に支えていたブレーンは藤田東湖であった。

 ともすれば暴走しがちな斉昭を操って適当にブレーキをかけ、どうにかこうにハンドルを切らせていたのであるが、この東湖が安政大地震で倒壊した家屋の下敷きになって圧死したのである。東湖を失って、斉昭の言動はバランスを欠いたところが目立ち始め、これが幕末政治の混乱に拍車をかけたともいわれている。

 また、東湖の死が、東湖を攘夷運動の先達と仰いでいた志士達に与えた影響も大きかった。例えば西郷隆盛は江戸から鹿児島に送った手紙で「さて去る(十月)二日の大地震には、誠に天下の大変にて、水戸の両田(藤田・戸田)もゆい打ち(揺り打ち?)に逢われ、何とも申し訳なき次第に御座候。とんとこの限りにて何も申す口は御座なく候」(野口武彦著 幕末の毒舌家 中央公論新社)と悲嘆したほど、東湖の死はその後の歴史に影響を与えたが、ここで不思議なことは水戸藩だけが地震による死者が多いことである。

 ご存知のように水戸藩は徳川御三家である。尾張六十万石、紀伊五十五万石、これに対し水戸藩は二十五万石と禄高に差があり、将軍の身辺を守る役目という意味から「定府の制」という藩主の江戸在住が義務付けられていて、これが一般に「天下の副将軍」といわれている所以であるが、その代わりに将軍の後継ぎは出せないという差別化が、屋敷の立地条件でも表れていた。
 
 尾張藩上屋敷は市ヶ谷(現在、防衛省)であり、紀伊藩上屋敷は赤坂(現在、迎賓館)であったように、いずれも台地のしっかりした岩盤の上に位置する地形である。それに対し水戸藩上屋敷は本郷台地と小日向台地に挟まれた谷間地(現在、水道橋の後楽園)で地盤は軟弱である。この地形の差が安政大地震に表れたのである。

 幕府への被害状況届出を見ると、尾張・紀伊藩邸の被害は建物の大破程度、比べて水戸藩邸の被害を「水戸藩資料」から見れば、「邸内の即死四十六人、負傷八十四人に及べり」とあり、塀と下級武士の住居をかねていた表長屋が一面に倒壊し原型をとどめず、江戸在住の重臣たちが住む内長屋も潰れ死傷者が出て、その一人が東湖で、梁の下敷きになったのである。(幕末の毒舌家)
 
 後に将軍継嗣問題で争うことになった、井伊大老の彦根藩上屋敷は外桜田にあった。現在の憲政記念館あたりで、後楽園とは江戸城を挟んで対峙する地形であるが、彦根藩は堅固な地形で、届出も「怪我いたし候と申すほどの義はこれなく候」と全く被害軽微であった。いずれにしても当時の攘夷論をリードしていた水戸藩は大きな打撃を受け、その後の藩内混乱に走っていくのである。

 さて、清河は大地震の余波が収まった安政四年(1857)四月に、妻お蓮と弟の熊三郎をつれて学者になるべく再び江戸に出た。お蓮は元々遊女であったため、素封家の斉藤家長男に嫁として迎えることは大反対を受け、ひとかたならぬ悶着があったが、ようやく結婚でき、熊三郎は千葉道場に入門するためであった。

 江戸でこの年の八月、清河は駿河台淡路坂に塾を開いた。しかし、塾には思ったほど門人は集まらなかった。最初に開いた三河町塾は大勢の門人に囲まれ繁盛したのに、今回は少ない。その変化に遭遇し、その中に何か時代の流れ、それは、世の中が険しくなってきている、じっくり学問をする雰囲気が少なくなっている、日本全体が殺気立っている。このような感覚を清河は持ったが、この時点ではあまりそれらを気にせず、学問と千葉道場での剣に励んだのであるが、ここで鉄舟との出会いがあったのである。清河と鉄舟は、会った瞬間から気が通じ合い、お互いを理解し、その後の同志としてのつき合いが始まったのである。

 その要因としては、まず、清河の学問研鑽力と、日本諸国を重ねて旅し、それを記録し、実態を把握し、それらを相手に伝える能力、それらが鉄舟に大きな魅力として、清河に惹きつけられたに違いない。何故なら、鉄舟は幕臣として行動が制約されていたからであるが、だが、もう一つ本質的な一致があったと思う。出会った瞬間に、互いが同一の性格・性向を持つ人間であると理解し合えたのである。

 鉄舟は既に検討してきたように、飛騨高山の少年時代、宗猷寺の鐘を和尚が冗談に「欲しければあげるから持っていきなされ」と言ったことから徹底的に頑張る性情、また、江戸から成田まで足駄の歯がめちゃゝに踏み減って、全身泥の飛沫にまみれ一日で往復するという、酒席で某人と約束したことの実行など、一度言い出したらきかない強い性格である。清河も同じで、前号でふれた「ど不適」な性格と、江戸で学問を学ぶためには家出してしまうという強さ、この似通った性格の二人が出会いの瞬間に、お互いを認め合い、通じ合えたのではないかと思う。

 さらに、清河の塾は変事をくり返した。折角開いた淡路坂の塾が、二年後の安政六年(1859)、隣家からのもらい火で焼けてしまうのである。清河は迷信などを信じない強い性格であるが、一度ならず二度までも塾が焼失し、もう一度は大地震で壊れたことを思うと、清河が目指している文武二道指南の道を何かが妨げているような気がしてならなかった。

 しかし、何事によらず始めたことは徹底するのが清河の性癖である。その年の六月に、今度はお玉が池近くに移転した。その家には土蔵があった。この土蔵がこれからの清河の変化に大きく影響を与えていくとは知る由もなく、土蔵で著述活動に励んだが、ふと、筆をとめるたびに世間での大騒ぎ、それは「安政の大獄」であるが、橋本左内や吉田松陰の死刑など、井伊大老の強行政治の行く末はどうなるのか、それを考えることが多くなっていった。

 井伊大老は結局、翌安政七年(1860)三月三日雪の日、桜田門外の変で倒れるのであるが、井伊大老を刺殺し首をあげたのは、関鉄之助以下の水戸浪士に、薩摩藩士の有村冶左衛門を加えた十八人の壮士であった。この事件は世間に一大衝撃を与えた。天下の大老が登城途中に首を奪われたのである。そのころの落書に次のものがある。(青山忠正著 幕末維新奔流の時代) 「去る三日、外桜田にて大切の首、あい見え申さず候間、御心あたりの御方これあり候はば、御知らせ下さるべく候。 三月十四日 彦根家中」。それまでであったならば、こういう落書を張り出しただけで、御政道誹謗の罪に問われるのであるが、幕府も動転しており取り締まりもなく、加えて、このような落書・狂歌が多く出回り出したことは、幕府政治の行き詰まりを示すものであった。

 幕府は大老が変死するという大変事が起ったのは不祥だと、三月十七日に万延元年と改元したが、清河にも強い衝撃を与え、桜田門外の変の記録を土蔵で書き始めた。それは「霞ヶ関一条」と名づけた美濃紙二十枚にも及ぶ、水戸浪士の井伊襲撃のあらましであり、これを故郷に送る綴りであったが、清河自身が精力的に現場に出向き、知人を訪ね、事件の風聞を聞き集め、関係する資料を分析し、事件の全体をまとめたものである。その綴りをつくる作業中、清河は新鮮な驚きともいえる感慨に、何度も筆をとめざるをえなかった。

 それは、水戸浪士の禄高一覧表であり、胸に迫ってくるものがあった。幕府の最高権力者として、安政の大獄を指導し、世の中を恐怖に震え上がらせた井伊大老を倒し、その座から引きずり下ろしたのは、雄藩諸侯でなく、歴とした士分の者でない。二百石が最高の禄高で、多くは軽輩か部屋住み、士分外の者たちであり、祠官、手代、鉄砲師もいたのである。一生うだつの上がらない、日陰の暮らしを余儀なくされるであろう名もなき人たちであったこと、それが清河の心底深く、楔として打ち込まれたのであった。

 時代は変わっている。名も身分もなき者、自分と同じような出自の者、それが天下を動かし、変えることが出来る時代になっているのだ。今までは、学問に励み、剣を磨き、江戸で文武二道の塾を開き、名をあげることが清河の戦略目標だった。世の中が攘夷だ、尊王だと騒いでいる時勢については十分に知っていたが、その動きと接することは、自らの戦略目標達成に差しさわりがあるので、つとめてその動きの外に立とうとしていた。しかし、水戸浪士の禄高一覧表から目をあげた清河の心は、もはや塾で人を教える時代ではないかもしれない。そういえば看板を掲げても人が集まらなくなっていた。これが時代の証明なのか。動乱の世になったのだ。新しい世の中の仕組みが求められているのか。清河の志が変わった瞬間であった。

 次号は清河が薩摩藩大坂屋敷に逗留するほどの人物となり、伏見寺田屋事件に関わっていく経過について検討したい。
 山岡鉄舟研究家 山本紀久雄「尊王攘夷・・清河八郎その三

 桜田門外の変を契機として、清河八郎は国事に奔走しはじめた。お玉が池の清河塾机上から儒書が消え、土蔵に出入りする武士たちが増え、その中から清河を含む14名の同志によって「虎(こ)尾(び)の会」が結成された。時期は安政六年(1859)または万延元年(1860)といわれている。「虎尾の会」は尊王攘夷党であり、「虎尾」とは「書経」の「心の憂慮は虎尾を踏み、春氷を渡るごとし」より起った言葉で、「危険を犯す」という意味のとおり、後に出てくるように結成後多くの危機に遭遇している。

 発起人は清河八郎以下次のメンバーであった。

薩摩藩    伊牟田尚平 樋渡八兵衛 神田橋直助 益満休之助
肥前有馬   北有馬太郎
川越浪士   西川錬蔵
芸州浪人   池田徳太郎
下総     村上正忠 石坂周造
江戸     安積五郎 笠井伊蔵
幕臣     山岡鉄太郎 松岡万

 また、盟約書は次のように書かれていた。

 「およそ醜慮(しゅうりょ)(外国人)の内地に在る者、一時ことごとくこれを攘わんには、その策、火攻めにあらずんば能わざるなり。しかして檄を遠近に馳せ、大いに尊王攘夷の士を募り、相敵するものは醜慮とその罪を同じうし、王公将相もことごとくこれを斬る。一挙してしかるのち天子に奏上し、錦旗を奉じて天下に号令すれば、すなわち回天の業を樹てん。もしそれ能わずば、すなわち八州を横行し、広く義民と結び、もって大いにそのことを壮んにせん。いやしくも性命あらば、死に至るもこの議をやすんずるなし」。

 清河が主張する尊王攘夷思想を盛り込んだもので、この中に「火攻め」とあるのは、横浜の外国人居留地の焼き討ちを意味している。この当時の尊王攘夷志士達は、しきりに横浜の外国人居留地の焼き討ちを狙っていた。例えば長州藩の桂小五郎も、万延元年に品川沖停泊中の軍艦丙辰丸で、水戸藩の有志と会し、幕政改革を意図した次の盟約を結んでいる。(寺田屋騒動 海音寺潮五郎)「幕府の要路の大官を殺すか、横浜の外人居館を焼き討ちすれば、天下震動して、幕府は戦慄するであろうから、この役目は水戸人が引き受ける。長州人は幕府に建言して、幕政を改革して、安政の大獄の裁判を撤回させる役目を引き受ける」。この盟約は、水戸藩内の混乱で実行にいたらなかったが、「火攻め」の対象は常に横浜の外国人居留地であった。

 その要因は天皇の勅許を得ない日米修好通商条約の調印と、この結果生じている国内経済の混乱、外国人の日本人への侮蔑行動、つまり、夷狄に屈服して、神国をその蹂躙にまかせる幕府は、もはやたのむに足らない。加えて、違勅調印を攻撃すれば、幕府は安政の大獄によって弾圧を加えてくる。このような幕府の政策を変更させ、なんとか天皇の意志を奉じて、攘夷をしなければ、日本は滅亡するのではないか。この危機感が多くの人々に浸透していった結果が、「虎尾の会」の盟約書であり、桂小五郎のそれであった。

 この「虎尾の会」に薩摩藩の益満休之助がいたことの事実は重要である。これから八年後、鉄舟と益満は東海道を駿府へ向って急いでいた。東征軍参謀西郷隆盛と会見するためであったが、その道中は官軍で満ち溢れていた。その中を駿府まで通過する通行手形は、薩人益満の薩摩弁であった。独特の薩摩訛りは他国者に真似できない。益満がいたからこそ通行を邪魔されずに、慶応四年三月九日西郷と「江戸無血開城」の談判が出来たのであった。

 その駿府行きの鉄舟と、益満と慶応四年の再会は、赤坂氷川神社裏の勝海舟邸であった。一介の旗本に過ぎず、それまで一度も政治的立場に立ったことがない鉄舟が、将軍徳川慶喜から幕府存亡危機を救う外交交渉に向かうよう命を受け、政治的立場の上層部に相談しようと、何人かの幕府上層部人物を訪れ、相談し指示を仰いだのであるが、皆、単独で駿府へ行くことなどは無謀であり、不可能であるからといって相手にしてくれない。そこで、最後に、今でいえば当時の首相の任にあった、軍事総裁としての海舟のところに向かったのであった。そこに「虎尾の会」以来の旧知、益満がいたのである。

 ところで、清河を毛嫌いしていたのは海舟であった。海舟は清河と同型の人物ではないかと思う。清河の才気に国際的要素を加え、ひとまわり大きくし、純情さを一味少なくし、手練手管の芸を加えた人物、それが海舟であると思う。人は自分と同型を好まない傾向があるような気がするが、鉄舟は清河が暗殺された五年後、清河と同型の海舟と莫逆の交わりを結ぶことになった。それも鉄舟と清河が初めて会った瞬間に親しくなったように、海舟も鉄舟と出会い、ひとこと言葉を交わした瞬間、与(くみ)する仲になった。時間軸を隔てて同型の清河と海舟との深い交わりは、鉄舟という人物の一面を示していると思う。

 氷川神社裏の海舟邸に益満がいた理由は、海舟日記(三月二日)で明らかである。「旧歳、薩州の藩邸焼討のをり、訴え出でしところの家臣南部弥八郎、肥後七左衛門、益満休之助らは、頭分なるを以て、その罪遁るべからず、死罪に所せらるゝの旨にて、所々に御預け置れしが、某申す旨ありしを以て、此頃このひと上聴に達し、御旨に叶ふ。此日右三人某へ預終はる」。つまり、対官軍用の工作要員として、牢から引き出し受け入れたもので、鉄舟が訪れる三日前の三月二日という絶妙タイミングである。さすがに政治的能力の高い海舟ならであるが、それよりも鉄舟と益満とが同志として盟約を結んでいた仲であったことを、海舟が熟知していたことの意義は深い。

 歴史とは偶然の重なりで、偉大な業績を積み重ねていく。益満と鉄舟の出会いは清河の「虎尾の会」。時が移って、益満が鉄舟の通行手形となるのは海舟邸での出会い。もし仮に、若き益満と鉄舟が、横浜の外国人居留地の焼き討ちを図りつつ、お玉が池の清河塾土蔵の中で「豪傑踊り」をし合った仲間でなかったならば、果たして駿府行きの道中はあれほどスムースに成し得たであろうか。二人の阿吽の呼吸が効を奏したのだと思う。一般的に「江戸無血開場」と清河は無関係とされているが、鉄舟と益満のつながりを考察すれば、清河も因子のひとつとして絡んでいたと断じざるをえない。

 ここで「豪傑踊り」を説明しないといけないだろう。「虎尾の会」の中に幕臣の松岡万がいた。この松岡が夜になると辻斬りに出た。また、薩摩の伊牟田尚平は始末に終えぬ乱暴者で、その他のメンバーも所在無さにいろいろ悪さをしに市中を出歩く。そこで鉄舟が考えた乱暴・悪さ予防対策が「豪傑踊り」であった。まず、鉄舟が真っ裸になって、褌まで外して土蔵の真ん中で四斗樽の底を叩き出す。すると土蔵の中にいる全員が鉄舟を取り巻いて、これも真っ裸になって「えいやさ、えいやさ!」と拳固を振り回して踊りだす。みんなが踊り疲れると酒を飲む。酒が回るとまた鉄舟が樽を叩きだすので、再び踊りだす。こうして踊り疲れてごろごろその場に寝てしまって朝になる。というのが「豪傑踊り」であった。この「豪傑踊り」の意義は高い。それは鉄舟が持っていた懸念への対策だった。外国人居留地の焼き討ちを実行させ、日本国内に騒乱を起こすことへの杞憂。徳川幕府体制内に身をおく立場として、実行をさせることの理非。さらに、情報が集中している江戸の真ん中に生き、開国はやむなしという認識を持ちつつ、その流れに反逆することの是非。

 後年、静岡の金谷・牧の原台地で、お茶畑開墾頭として功績のあった中条景昭も「豪傑踊り」に加わっていたが、当時を回顧して次のように語っている。(おれの師匠 小倉鉄樹) 「今になって思えばまるで山岡に馬鹿にされてゐたようなものだ。なにせ山岡が志氣を鼓舞するのだと云って眞先に素ッ裸になって樽を叩き出すのだから、それに乗って皆が裸で踊り出したのだ。まさか裸体じゃ辻斬にも出られるものじゃない」。清河も鉄舟の意図を分かりつつ、この「豪傑踊り」に巻き込まれ、妻のお蓮に「山岡の考えは姑息すぎる」と愚痴をこぼしている。(回天の門 藤沢周平)。鉄舟は分かっていたのだ。仮に清河を首謀者とした浪人集団が事を起しても、国家体制という時代改革への行動には火がつかないと。

 改革に対する読みの冷静さは鉄舟だけでない。維新の三傑の一人、大久保利通も若き頃から次のように述べている。(寺田屋騒動)「浪人運動では力が知れている。ろくなことは出来はせん。何として、藩全体でやることを考えなければならん。老公は見込みはないが、もう六十九というお年だ。長くなか。あとはきっと久光様が政治後見になりなさる。・・・中略・・・こちらとしては、うまく説きつけて天下のことに目ざめさせればよかのじゃ。それには先ず近づくことじゃ」。

 大久保利通はわかっていた。有志としての個人集団では、一時の成功や快があっても、時代を転換させるという大事業はできない。薩摩藩という七十七万石の総力を結集するしかない。そのためには久光をいだいて進めるしかない。この冷静な感覚が維新の三傑と称される人物となった基因であろう。立場と事例が異なるが、「虎尾の会」の鉄舟に通じる。

 そろそろ清河が、何故に大坂薩摩屋敷に滞留し、伏見寺田屋事件に関与するような、天下の一流志士として認められたかについて触れたい。それは江戸から逃亡することになった事件に関わっている。

 まず、その遠因には水戸の天狗党が絡んでいる。天狗党も横浜を襲撃するつもりで、軍資金を集めているらしいと聞きつけた清河が、文久元年(1861)一月に水戸行きを決行した。結局、天狗党とは会えずに江戸に戻ったのだが、この行動が幕吏に目をつけられることにつながり、清河塾には得体の知れない連中が、頻繁に出入りしているとにらまれ、監視されることになった。塾の近くに信濃屋というそば屋があった。そこからそばを取り寄せて食べていたが、そのそば屋の亭主が奉行所と裏でつながっている岡っ引で、昼間は清河塾を見張り、夜になると土蔵の下に下っ引を忍びこませていたのである。このあたりが個人集団の弱さである。逐一奉行所に伝わって、首謀者の清河への対策が講じられつつあった。書画会というものが当時盛んであった。料理屋が会場となって、客は祝儀の金を包んで行き、その場で揮毫される書や画を譲り受け帰るという催しであった。

 文久元年五月、清河はひとつの書画会に出席した。水戸藩の関係者が出席すると聞いたからであった。だが、水戸藩士が居たにはいたが、政治談議は出来ず、もっぱら飲み食いに終始し、清河は少し悪酔いし、帰り道で異様な職人風の若者に絡まれることになった。書画会のあった両国から甚左衛門町(今の日本橋人形町あたり)に来たとき、手に棒を持ち、構え、清河の行く手を執拗に塞いだり、避けるとその方向に素早く寄ったりして、明らかに清河を狙って嗾(けしか)けてくる。何かの意図を含む挑発だと分かりつつも、棒が清河の体に直接向ってきたとき、無声の気合と共に腰をひねって刀が光り、すっと鞘の中に納まり、男の首が飛び、傍らの瀬戸物屋の店先に落ちた瞬間、その時を待っていたかのように、二三十人の捕り方が清河を囲んだ。明らかに仕掛けられたのだ。「虎尾の会」を潰し、頭領の清河を逮捕する口実をつくる罠だった。それ以後の清河は全国を逃亡することになる。水戸から越後奥州路へ、さらに木曽路から京都、中国、九州まで。この逃亡遍歴は、結果的に清河を一流の志士として全国的に認めさせる旅となった。

 禍変じて福であり、その切っ掛けは「廃帝」の噂であった。幕府が「皇女和宮を人質にとって孝明天皇に条約勅許を迫り、天皇があくまでこばめば廃帝を断行する、そのために和学者の塙次郎に古例を調べさせている」という噂を入手したとき、清河の内部に戦慄が走った。これは使える。使わなければならない。それ以後の清河の動きに対し司馬遼太郎が、「幕末の風雲は、この清河八郎の九州遊説から開幕したといってよい」(幕末・奇妙なり八郎)と述べているほどであるが、その経緯については次回にお伝えしたい。
 山岡鉄舟研究家 山本紀久雄「尊王攘夷・・・清河八郎その五

 2008年のNHK大河ドラマ「篤姫」は高い評価で終わりました。天璋院篤姫は第13代将軍家定の御台として、家定死後は第14代将軍家茂に嫁いできた、孝明天皇の妹・和宮(静寛院宮)とともに、徳川家を守ろうと江戸無血開城を成功させるストーリーでしたが、史実とドラマのフィクションとを巧みに編集整理され展開されたことが、評判を高めた要因でしょう。また、本土最南端の薩摩の地で、桜島の噴煙を見ながら、錦江湾で遊ぶ純朴で利発な一少女が、将軍家の正室となり、3000人もの大奥を束ねるという、ただならぬ人生の歩み、それが多くの視聴者に受け入れられてきた背景でもあります。過去の歴史が今の時代に共感されるためには、現代人からの認識、理解、共鳴、同感が条件であるが、この点で「篤姫」は成功し、現代に篤姫を蘇えさせていると思う。

 現代に歴史を蘇えさせているのは、ドラマだけでない。各地に造られている史跡もそのひとつである。読者から群馬県の草津温泉に、清河八郎の石塔があるとご連絡いただいた。確かに、草津温泉の湯畑を囲む石の柵・石塔に清河八郎の名が刻まれている。草津が町制百年を記念して、草津を訪れた著名百人を選んだ中に清河が入ったのである。滞在したのは文久元年(1861)お盆の時期で、江戸を追われ全国各地を逃亡する途中、しばし草津の湯で疲れを癒したのであろう。

 ここで清河の人相を、手配された人相書きから確認してみたい。「酒井左衛門尉家来出羽荘内清河八郎歳三十位。中丈、江戸お玉ヶ池に住居。太り候方。顔角張。総髪。色白く鼻高く眼するどし」とあり、人相書きは荘内藩領内一円に布告とともに出され、清河の父は謹慎、実家の商売である酒販売が禁止された。だが、すでに清河は京都で田中河内介と出会い、中山忠愛の親書と田中の周旋状を持ち、勇躍、下関から小倉、久留米を経て肥後に向っていた。肥後での清河は「ど不適」という性格どおり、何者も恐れず、自らが認識している時代情報分析と方向性を強烈に展開していった。つまり、キーワードである「廃帝の噂」の強調と、もはや「尊王攘夷ではなく倒幕王政だ」という新しい主張であった。この清河の過激とも思える論弁に対し、当然反発もあったが、平野次郎、宮部鼎三、河上彦(げん)斎(さい)、真木和泉など、九州各地の著名尊攘志士達に対し大きな影響を与えた。

 さらに、薩摩藩の動向を掴むため、つまり、島津久光が一千余の藩兵をひきいて京都に乗りこむという噂の確認のため、京都から同行した虎尾の会同志で、薩摩出身の伊牟田尚平と、清河に共鳴した平野次郎を薩摩に潜入させた。伊牟田と平野はそれぞれ別ルートで、苦労して間道から薩摩に入ったが、二人ともすぐに見つかって捕縛され、所持していた中山忠愛の親書と田中の周旋状などすべて取り上げられた。厳罰を覚悟したが、思いがけず御納戸役の大久保一蔵が出てきて、旅費として十両ずつ渡し、親書などの趣旨はよく検討する旨の発言を受け釈放された。実は、これが久光を清河が認識する齟齬のはじまりだった。倒幕王政という思惑を持って、二人が薩摩入りしたにもかかわらず、処分を受けなかったことを、清河は自分に都合よく理解し、独り合点し、翌文久二年(1862)一月に京都の田中のもとに戻ったのである。

 九州遊説の成果を聞いた田中が質問を発した。「どのような思惑で、薩摩の島津久光は上京するのだろうか」「それは朝廷に倒幕の勅諚を乞いに来るためでしょう」「どうして、そのように断定できるか」「それは平野と伊牟田の薩摩入り時の対応で分かります」「うーむ。それはどういうことか」「二人が倒幕王政の趣旨を述べたのに、処罰されず、かえって旅費を差し出されたことです」「旅費程度のことでは断定できないだろう」「旅費を渡したのが、久光の側近である大久保一蔵であったということが重要です。それと、藩内に二人を処分し難い何らかの理由、それは薩摩上層部が幕府に対して好意を持っていないと考えられることと、さらに、藩内の過激尊攘派が強い勢力を持っていると想定できるからです。倒幕の勅諚目的上京はまちがいないと思います」。このような会話をしているところに、肥後から宮部鼎三が訪ねてきた。清河が肥後を去った後、肥後人の間で清河が展開した背景について議論が続き、その根拠を確かめるべきだということになり、その確認のために宮部が上京してきたのであった。そこで翌日、宮部を歓迎する名目で、中山忠愛、田中と清河が酒席をもった。その酒宴の最中に田中の家から使いが来て、坂下門外の変が知らされた。それを聞いた田中が「廃帝の古例を調べさせたのが襲撃された原因だ」と叫んだ。この叫びは、肥後で清河が強調したことが、事実だと立証する形となり、酒席はにわかに活気を帯び、宮部はすぐに肥後に戻って、同志にここで確認した状況を伝えるということになった。

 さらに、突然、薩摩藩士の柴山愛次郎と橋口壮介も清河を訪ねてきた。いずれも薩摩過激尊攘派の中心人物である。用件は久光の上京が決定したことを知らせるものであった。急き込んで上京目的を尋ねる清河に、二人は語った。「故順聖公(斉彬)のご意志を継ぎ、勅命を頂いて幕府に改革を迫るためです」「倒幕ではないのですか」「もし順聖公が生きておられれば、今の情勢なら、そういうことも考えたかも知れんが、久光公では・・・」「というと、やはり幕府改革ということなのか・・・」。清河はしばし黙したが、すぐに「しかし、この機会を逃す手はない。絶好の好機だ」「その意味は・・・」「薩摩藩が出兵上京という噂、それが事実となったことが大事なのです。これで同志を日本国中から集められる理由がつきますから」「分かった。我々もその深意に沿って動く」

 清河と柴山、橋口の三人は、それ以上語らなくても、お互いにある意味を了解しあい、共通認識を持ち合ったのである。その共通認識とは、清河が「薩摩藩が出兵する」という火種を武器に、日本各地に檄をとばし、尊攘派を京都に集合させることであり、薩摩藩士の柴山、橋口はその動きを受けて、一気に藩内を反幕府体制に持っていくことであった。

 早速、清河は田中と相談し、檄文つくりに取りかかった。清河はこれまでのすべてをこの檄文に没入させ、田中と連盟にし、遊説先の九州は勿論、尊王攘夷に心寄せる諸国のあらゆる知人に送ったのである。清河はこの檄文に対して、勝算があった。時代は、公武合体という妙な政治停滞によって出口がふさがれ、変化を求めるエネルギーが、噴出しようとうねって何かを探している。そのうねりに、この檄文が火をつけ、発破となるであろうと。

 結果はその通りであった。全国各地から続々と京都に集まった、三分類に分けられる志士達は、その数三百名にも及んだ。一つは薩摩藩士たちである。柴山愛次郎と橋口壮介を中心とした薩摩過激尊攘派であり、屯ったのは中の島のはたご屋魚田である。二つ目は長州藩士たちで、これは長州藩蔵屋敷に入っていた。長州は関が原の役で、西軍の主将に祭り上げられたが、実際には毛利輝元が大坂に居座って出兵しなかったのに、家康は毛利家を百二十万石から三分の一という三十六万石に削ったので、もともと幕府に対しうらみを持っている藩で、薩摩過激尊攘派と連絡をとり、貧乏な薩摩藩士に経済的援助を行うなどで反幕勢力と通じあっていて、久光上京を聞くと、藩をあげて動いてきた。

 三つ目は大坂薩摩屋敷である。これは勿論、清河と田中の連名檄文によって上京した志士達であって、当初田中の屋敷に入っていたが、たちまち巣窟と化し、京都所司代の監視が厳しくなってきたので、清河と昌平黌書寮で顔見知りの薩摩藩士堀次郎の斡旋により、薩摩藩邸に移りたいと交渉・了解を受け、大坂薩摩屋敷の二十八番長屋に入ったのである。

 さて、肝心の久光であるが、文久二年四月大坂に入ると、直ちに以下の訓令を下した。

1.諸藩士や浪人らへ私的に面会してはならない。
2.命によらずして、みだりに諸方へ奔走してはならない。
3.万一、異変が出来しても、敢て動揺せず、命令のないうちはその場に駆けつけてはならない。
4.酒色を相慎むべきこと。

 この趣は以前からしばしば申し渡してきたことではあるが、これからも益々守るべし。もし違背する者は容赦なく罪科に処するであろう。

 この訓令と同じ趣旨のものが、薩摩を出立する際にも出していたが、これらから考えても久光が倒幕など念頭にないことが明らかであり、実際に朝廷に差し出した建白書には、安政の大獄で処分された公卿や一橋(慶喜)、尾張(慶勝)、越前(慶永)などの謹慎を解くべきという、幕府改革に通じる内容のものであった。

 この状況を受けて、総勢三百名にも及ぶ三分類の志士達は何回かの会合を持ち、最終的に久光を頼らず、決起する企てを決め、薩摩過激尊攘派と大坂薩摩屋敷の二十八番長屋の志士達は、ひそかにその決起集結地である伏見の寺田屋へ向った。その際、長州藩は伏見に向う淀川の船の費用などを協力し、事の勃発を今か今かと藩邸で待つ態勢でいた。

 だが、しかし、この企みは久光の耳に入ることになってしまった。久光が知るまでには、様々な背景経緯があるが、いずれにしても久光はこの薩摩藩士が参加している計画を暴挙と断定し、非常な怒りをもち、特に長州藩がバックアップしていることに不快感をもったが、まず自藩士のことであると思い直し指示を下した。「首謀者をここに連れてまいれ。わしが自ら説諭するであろう」「もし、おとなしく命を奉じることなく、拒みましたら、いかがいたしましようか」「その時はいたし方なし。臨機の処置をとれ」

 この臨機の処置とは「上意討ち」にせよという意味になるわけで、その使者として九名の武技に優れた者を選び寺田屋に向かい、結果は説得できず戦いとなった。これが世に名高い「文久二年四月二十三日の伏見寺田屋事件」である。この事件で討手一人と寺田屋にいた薩摩藩士六名が死亡、二人が負傷し、生き残った薩摩藩士と、田中河内介や真木和泉などは京都の薩摩藩邸に収容され、以下の処置となった。「薩摩藩士で暴発に加担した者は国許に送り返す。他に藩籍ある者はそれぞれの藩に引き渡す。田中河内介その他の浪人などは、薩摩で預かって、国許送還の薩摩藩士とともに薩摩に連れて行く」。だが、田中河内介は薩摩行きの船の上で殺害され、死体は海中に遺棄され、後日、小豆島に流れ着いたといわれている。

 後日談であるが、田中は権大納言中山忠能に仕えた諸大夫であり、明治天皇の生母は忠能の娘中山慶子であったため、田中は幼少時の祐宮のお守役をつとめたことから、天皇は田中のことを記憶にあり「河内介爺はどうしただろうか」と案じていたので、側近が「田中はしかじかのことで、薩摩藩によって殺されました。その際の当局者は内務卿大久保利通でございます」と言上したが、大久保は下を向いたままだったという。

 しかし、ここでおかしいのは、伏見寺田屋にいるはずの清河八郎がいなかったことである。寺田屋にいたならば田中と同じ運命になったであろう。しかし、清河は悪運というか、幸運というか、つまらない事件で大坂薩摩屋敷を出る羽目になり、結果として伏見寺田屋事件に関与しなかったのである。

 次回は、その経緯と、伏見寺田屋事件後江戸に戻り、急転、幕府から大赦を受け、鉄舟とともに再び京都に赴くことになることをお伝えしたい。
 山岡鉄舟研究家 山本紀久雄「尊皇攘夷・・・清河八郎その六

 薩摩藩の島津久光が藩兵千人を率いて上京したのは、前藩主島津斉彬の意図を継ぐもので、兵力をバックに幕府に改革を迫るものであったが、その行動は周囲に大きな波及効果をもたらした。それは、周囲にいまにも「攘夷」が決行されるかのような雰囲気を生じさせ、それに乗じた清河八郎の檄文攻勢によって、続々と京都に尊攘志士達が集合したのである。しかし、これほどあからさまな誤解はなかった。久光の意図を冷静に推察すれば「攘夷」を実行しそうな気配はなかったのだが、時勢にはそのような履き違いをおこさせ、尊攘志士達が沸き立ってしまうことを抑えきれない何かが存在していた。結果は伏見寺田屋事件となって、薩摩藩同士の斬りあいになり、そこにいた他藩士と浪人が捕縛され、その後、殺害された事例として田中河内介のことを前号でお伝えした。

 これについて読者から以下のコメントが寄せられました。「もう30年ほども前のことですが、宮崎に居りましたときに、明治維新関係の古い秘話本を読んで、日向市のある港に維新三志士が葬られていることを知りました。信用できる書籍だとは思っておりませんでしたので、半信半疑のまま、探索を始めました。地元出身の神職さんの誰に聞いても知らないと言うのです。当時薩摩の港は日向では細島です。薩摩の支藩がありました。実地調査しかないなと現地で聞きまわると、何と当時墓守をしていたお宅に直ぐにたどり着いたのです。かつて網元をしていたそのお宅は清掃の行き届いた!古いお宅で、品のいいおばあさんが対応してくれ、時計を見ながら、『ご案内しますが、しばらくお話しましょう』と言うのです。三志士が斬殺された当時の言い伝えを話してくれたのです。

 それは単なる斬殺ではありません、惨殺です。住民に見られないよう船上で縄付きのまま、何十手もの太刀を受け、切り刻まれての殺害でした。なぜか。秘密保持のためです。士分の全員が刀傷を入れ、秘密を共有することで保持したのです。そして船上から海へ破棄され、見つけた網元によって小島の小さな墓になりました。

 そろそろ参りましょうと案内されてみると小島に渡る白州が細く続いていました。干潮で無ければ渡れない島なのです。時計をわざわざ見られた意味がはじめて分かりました。今は文化財に指定され整備されているようですが、当時『ここをわざわざ調べ、お参りされたのは貴方がはじめてです』とおばあちゃんに言われました。墓は海賀宮門、中村主計、千葉郁太郎とありました」。

 読者のご指摘通りで、海賀宮門は秋月藩士、中村主計は京都浪人、千葉郁太郎は河内介の甥で、三人は確かに薩摩藩によって殺されました。三人が船上で田中河内介の殺害について、薩摩人の不信義を追求したからという理由のようですが、実際は最初から殺すつもりでした。

 伏見寺田屋事件は薩摩藩士同士の斬りあいですから、他藩士と浪人は本来関係ありません。ですから、その場にいたということだけで、薩摩藩が殺す理由は成り立たなく、さらに、海賀宮門は秋月藩士ですから、藩に送り届ければよいのに殺しました。これは薩摩藩の幕末維新史の汚点であり、その後、三人が維新三志士と称されるようになったことも、何かやりきれない気持ちにさせられる。

 ところで、本来、清河は寺田屋にいたはずで、いたならば同じ運命となったはずである。だが、諸国に檄文を飛ばし嗾け煽り立てた本人は、つまらない理由で寺田屋にいなかった。ある日、大坂薩摩屋敷の二十八番長屋に本間精一郎が訪ねてきた。本間は越後寺泊の豪商の長男で、武士にあこがれ家を出て、お金が潤沢である上に、いっぱしの志士きどりで、弁舌が立ち、一部に人気があったというが、言うことが激烈であるわりには、言行が伴わないというので嫌われているところもある人物だが、清河は江戸の安積艮斎塾で一緒だったこともあり親しくしていた。その本間が清河を舟遊びに誘った。それを受けた清河は折角だからと、少年時代に深い感銘を与えてくれた藤本鉄石や、二十八番長屋にいた数人と宇治川に浮かんで、海に出ようとして舟番所にさしかかると、船頭が番所に名前を届ける必要があるので、名前を書くよういわれた際、もうすでに芸妓に三味線をひかせて派手に飲んでいたので、つい「酔いに乗じて悉く奇名を記す」(清河著「潜中紀事」)とあるように、勝手な変名を名乗り、多分、「荒木又右衛門とか後藤又兵衛とか言うよう名を書き連ねた」(海音寺潮五郎「寺田屋騒動」)と思われる。これでは番所役人も黙っていない。公儀幕府役人のプライドがある。馬鹿にするなと、問い質す番所役人に対し、本間が舟を降り番所に乗り込み、得意の弁舌でやり込めるという失態を演じてしまった。舟遊びを終えたこの日は、それぞれ止宿先に戻ったが、これが問題にならないわけはなく、本間のところに役人が張り付き、調べだし、捕縛の可能性も出てきたので、逃げ場として清河のいる大坂薩摩屋敷の二十八番長屋に転がり込んできたのである。

 しかし、役人の追及が続き、本間が薩摩屋敷にかくれたことをつきとめ、問いただしてきたので、清河と親しい柴山愛次郎と橋口壮介も困って、軽率行動を厳しく責めてきた。藩と役人の間で板ばさみになっている柴山と橋口の立場も考え、清河は「申し訳ない。迷惑をかけたのであるから、ここを出て行く」と述べ、京都三条河原町にある医者の飯居簡平宅に移った。飯居宅は長州藩邸にも近く、薩摩藩屋敷の同志が決起するときは、長州藩邸にも連絡があるので、それを待ちつつ飯居宅にいたところに、伏見寺田屋事件が発生したのであった。

 清河はつまらないことで寺田屋にいず、死なずにすんだが、このつまらないことが大業を成し遂げ得ず、生涯を終えたことに通じていると思う。清河は、元来「相手の意表に出て鼻をあかす」という面があった。これは出羽庄内という田舎の酒造業出身という武士でないという劣等感と、その裏返しの気持ちから、人一倍負けたくないという感情が強く入り交じって、時に意表に出て、それが結果としてやり過ぎになる傾向があった。それが舟遊びでも顕れた。酒に酔ったとはいえ、本間精一郎の醜行を止めえず見逃し、かえって役人何するものぞ、と同調した一面につながったのである。この薩摩屋敷退去によって、全国逃亡生活から、田中河内介を知り、中山忠愛の親書をもち、九州各地を遊説し、久光の上京を機に、念願の倒幕一番乗りという、晴れの舞台になる可能性もあった寺田屋、そこに参じることができなかったのであるが、今回はこの性癖ゆえに助かったのである。

 さて、久光の目的は幕府の改革であった。その改革の要点は、さきに安政の大獄で処分されたままになっている公卿や大名の罪を許すこと、つまり、大赦を行うこと、ついで、一橋慶喜を将軍後見職とし、前越前藩主松平春嶽(慶永)を大老につけることなどであって、これを島津家と縁戚にあたる近衛忠房を通じて朝廷の承認をとりつけ、文久二年(1862)五月、江戸へ派遣する勅使として、岩倉具視に劣らぬ剛直さで「鵺(ぬえ)卿(きょう)」と呼ばれた大原重徳を差し下してもらうことになった。

 幕府は抵抗したものの、とうとう押し切られる形で一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永を「政治総裁職」につけた。「政治総裁職」という役職にしたのは、大老は譜代大名がつくもので、徳川家の親戚である家門筆頭の越前松平家に相応しくないという理由からであったが、これらの動向は清河にとってまだまだ運が残っていることを示していた。それは一連の改革の中で出された大赦の動きだった。うまくいけば文久元年(1861)五月、虎尾の会を潰し、清河を逮捕する口実をつくる罠だった岡っ引き殺害事件、この結果、清河は全国逃亡の旅に出たのであるが、これがご赦免になるかもしれないという希望だった。

 文久二年八月、清河は江戸に戻り、ひそかに、小石川鷹匠町の山岡鉄舟を訪ねた。「無事でしたか」。鉄舟は清河を懐かしそうにみて、すぐに英子が用意した酒を飲みながら、逃亡を始めた文久元年五月以来の状況を語り合い、幕閣の変化と、それによって希望が出てきた清河の大赦について語り合った。この時、幕閣は大きく変わっていた。安藤老中と久世老中は辞職し、安政の大獄で辣腕をふるった京都所司代酒井忠義も罷免されていた。代わって幕閣を動かしているのは、備中松山藩主板倉勝静、山形藩主水野忠精、竜野藩主脇坂安宅の三閣僚と将軍後見職一橋慶喜、政治総裁松平慶永という目をみはるような変化だった。「大赦を掛け合うには、今が好機だ。幕府はこれまでのように尊王攘夷について、無闇矢鱈に弾圧できない状況になっている」「そう思う。ご赦免の請願書を書いてみようと思っている」。

 清河は水戸に向った。水戸では逃亡中に立ち寄ったときとは、雲泥の差の歓待を受ける羽目になった。清河が来る、という噂はすぐに広まり、多くの人物が清河の前に現れて、寺田屋の件を語り、策は直前で破れたものの、清河の呼び掛けで三百人ほどの尊攘志士が京都に集まったことを賞賛するのであった。水戸にいる間に清河は「幕府に執事に上(たてまつ)る書」を書き上げ、鉄舟に送り、政治総裁松平慶永の手許に届けるように依頼した。結果は清河に対し、文久三年(1863)一月、北町奉行浅野備前守から、正式の赦免の沙汰がおりることになった。この日清川は、出羽庄内藩江戸留守居役黒川一郎に付き添われて、麻裃に身なりを改めて奉行所に出頭し、次の示達を聞いた。「御家来にて、出奔致し候清河八郎召捕方の儀、先達相違し置き候ところ、右者此の上召捕に及ばす候間、なおまた此段申し達し候事」。

 同じ日に、浪士取扱いの松平上総介から、次のような伺書が奉行所に出された。「出羽庄内 清河八郎 右者有名の英士にて、文武兼備尽忠報国の志厚く候間、御触れ出しの御趣旨もこれあり、私方へ引取り置き、他日の御用に相立て申したく此段伺い奉り候」。この二通の公式文書で、清河は晴れて赦免の身になると同時に、松平上総介に身柄を引取られることになったが、これは一種の軟禁状態におく意味合いがあった。松平上総介とは、鉄舟も関与している講武所の剣術師範役並出であり、直心影流を学び男谷下総守と同門で、他にも伊庭軍兵衛に心形刀流を学び、柳剛流にも通じている剣客である。

 ここで、ちょっと寄り道になるが柳剛流にふれてみたい。あまり馴染みのない流派である。柳剛流は武州北足立郡蕨の農家生れの岡田総右衛門奇良を流祖とし、特徴は上段から長大な竹刀をふりかぶって思い切り振り落とし、面にきたなと思っていると、そのまま相手のすねを狙い撃ちする剣法。それも一撃ではなく、はずされれば二撃、三撃と相手がかわし切れなくなるまで続け、相手の体勢が崩れたところを狙い打つので、幕末の剣豪たちが軒並み総崩れで敗退したという。その後、何度も苦杯を喫してようやく対策を編み出し、撃退できるようになったというが、撃退法もかなりの修練を要するもので、幕末の著名な剣豪たちは柳剛流を相手にするのを大変嫌がったという。

 それを示すように、千葉周作もその著書の中で、「柳剛流は足を多く打ってくる流派である。相手が足を打ってきた場合、足を揚げようとしては遅れてしまい、多分打たれてしまう。早くするためには、踵で自分の尻を蹴るような気持ちで足を挙げるとよい。また、太刀先を下げて止めるのもよい。この場合も受け止めようとするのではなく、切っ先で板間土間をたたく気持ちで止めるべきである」と述べているが、この柳剛流の名手が松平上総介であった。その上、松平上総介の家柄は名門だった。松平は家康の六男忠輝の後胤で、わずか二十人扶持の捨て扶持であったが、白無垢を着て登城すると、譜代大名の上席に付く格式を備えていた。ここに目をつけたのが清河である。松平上総介に身柄を引取られ、一種の軟禁状態という条件を有利に活用しようと、愈愈その「意表に出る」能力を発揮したのである。さすがは伏見寺田屋事件を潜り抜け、生き残ったしぶとさといわざるを得ない。
 山岡鉄舟研究家 山本紀久雄尊王攘夷・・・その一」(2009年02月11日)

 鉄舟に影響を与えた人物に清河八郎がいる。清河八郎とは、天保元年(1830)出羽(山形)庄内・清川村の酒造業の長男として出生、十八歳で故郷を出て、幕末、尊王攘夷運動の一翼をにない「回天の一番乗り」を目指した人物である。「回天」とは「天下の情勢を変えること」を意味している。鉄舟より六歳上である。

 清河については、明治・大正初期に活躍した山路愛山が次のように評している。「(八郎)かつて書を同志山岡鉄太郎に与えていわく、予は回天の一番をなさんとするものなりと。その剣客たる風概もって想うべきにあらざるや」と。(山岡鉄舟 小島英煕著 )。また、その清河が、同志山岡鉄太郎に与えたという手紙は、次の内容である。(清河八郎 成沢米三著)。「先程より度々芳意(注:親切に対する尊敬語)を得候通り、最早各邦の義士参会、則ち近日中、義旗相飜えし、回天の一番乗仕るべく心底に御座候。折角御周旋甲士(注:甲州の土橋鉞四郎)に早々御手配成さるべく候、塚田には内々国元に遣わし候もの、頼み遣わし候間、彼も義気あるもの故必らずうけがいくれ申すべく存じられ候。千万御苦心仰奉り候 頓首 初夏 十一日 正明 山岡高歩君 薩の和泉殿(久光)明日当邸に着也

 初夏十一日とは文久二年(1862)の四月のことであり、正明とは清河の號(いみな)、宛名の山岡高歩(たかゆき)とは鉄舟の名前で、鉄舟は號であるが、この時清河は大坂の薩摩藩邸に滞留していた。

 何故に山形・清川村の酒造業の息子が薩摩藩邸にいたのか、また、鉄舟が何故に清河の同志と呼ばれるようになったのか。さらに、この手紙の最後「薩の和泉殿明日当邸に着也」にあるように、薩摩藩主島津忠義の後見役である、父親の島津久光が京都に入るタイミングに、何故に回天の一番乗りを果そうとする意気込みを述べたのか。これらの疑問を解明するためには、当時の政治状況を振り返って見なければならない。

 安政の大獄で反対派を弾圧した大老井伊直弼が、万延元年(1860)三月三日桜田門外で暗殺されたあと、政治は一気に混沌化した。井伊大老は、幕府を元来の幕府に戻し、保とうとしたのであるが、暗殺されるという不始末は、目指していた方向が、時代に逆らっており無理だということを、満天下に示すことになってしまった。この変化は、井伊大老の後の幕府の運営が、老中久世大和守広周と同安藤対馬守信睦になって、朝廷に対する対応が変化したことでわかる。また、この変化は、幕府の権威が次第に失墜すると共に、尊王攘夷運動が急テンポで展開されてきていたことへの対応でもあった。

 つまり、井伊大老の時代は朝廷を統制しようとする意図が強かったが、久世・安藤政権になると朝廷の権威を借りて幕府の権力を強固にするという方向に変わったのである。これは、抑えるというより、利用・協調するという形、これを公武合体というが、幕府側の一歩後退であり、妥協であった。

 もうひとつの背景は、当時の尊王攘夷運動というものが、反幕府勢力結集のスローガンとなっていて、幕府がこのスローガンに対抗するためには公武合体が必要だ、という考えからでもあった。

 実際問題として、攘夷実行なぞは、安政五年(1858)六月の日米修好通称条約、その後七月に蘭・露・英と、九月には仏と調印済みで、その後年々貿易が盛んとなっている状況下では全く無理である。という条件を考えれば、とるべき対応策は尊王となる。現実的に考えて、攘夷の実行は不可能であるから無視する。一方、尊王については、反幕府側の主張と同じ立場になることによって、反幕府側が反対できないようにする方策、これが公武合体であり、具体的には皇妹・和宮の降嫁という発想になったのである。つまり、「かたじけなくも皇妹が将軍の御台所になるならば、これ以上の公武合体はないし、尊王のあらわれはない」という理屈であった。したがって、幕府は無理押ししても、皇妹・和宮の降嫁を実現しようと動いた。

 この幕府の申し出に対し、孝明天皇は反対であった。すでに有栖川宮と婚約が整っており、和宮も「何とぞこの儀は、恐れ入り候えども、幾重にも御断申上度、願いまいらせ候。御上御そばはなれ申し上げ、はるばる参り候こと、まことに心細く、御察しいただきたく、呉々も恐れ入り候えども、よろしく願い入りまいらせ候」(開国と攘夷 小西四郎著)と固く辞退したが、さまざまな朝廷内や幕府の工作が激しく行われ、とうとう孝明天皇は承諾された。その承諾に当たっての最大の要因は「念願とする攘夷が、和宮の降嫁という公武合体によって実現するかもしれない」という強い希望であり、攘夷が実行されるのならば、どのような犠牲を払ってもと考えたからであった。

 この孝明天皇の意思を変えさせた、朝廷内における有力な見解は、天皇の諮問に答えて上書した岩倉具視であった。「幕府の権威がすでに地に堕ち、昔のような威力がないことは、大老が白昼に暗殺されたことで明らかである。したがって幕府は、国政の大権をあずかる力はない。・・・・だが朝廷の権力の回復を急ぐあまり、武力をもって幕府と争うことは、現在の国情ではかえって国内の争乱をおこし、外国の侵略を招く恐れがある。そこで名を捨て、実を採ることが肝心である。いま幸いに幕府が熱心に和宮の降嫁を請願しているので、公武合体を表面の理由として許可し、今後外交問題はもとより、内政についても大事はかならず奏聞の後、施行するよう幕府に命ぜられたならば、結局幕府が大政委任の名義を有していても、政治の実権は朝廷にあることになる。・・・・まず幕府に条約の破棄を命じ、もし幕府が本当にこれを承るとならば、国家のためと考えられて、降嫁の願いを勅許せらるべきである」(開国と攘夷 小西四郎著)。理路整然とした意見書であって、孝明天皇はこれによって、大きく気持ちが動いたのである。

 実際に幕府は、万延元年(1860)七月に、和宮の降嫁が実現すれば、攘夷を実行するとの誓約を行った。二年前に調印した五カ国との修好通称条約ということを考えれば、全く無責任極まる誓約であり、現実の実態を無視したものであった。幕府としては本当に攘夷をしようとする気はなかったのであるが、何が何でも皇妹・和宮の降嫁を実現したいという立場から、偽りともいえる誓約であったが行ったのである。その後、この誓約の実行を、再三再四朝廷から攻め立てられ、とうとう三年後の文久三年(1863)五月十日を攘夷期限と上奏、その旨を諸大名にも通知した。

 この機会を待っていた長州は、五月十日に関門海峡を通りかかったアメリカ商船を、二十二日にはフランス軍艦を、二十六日にはオランダ軍艦を砲撃した。しかし、この砲撃結果は六月に入ってアメリカ・フランス両国軍艦による報復を受け、陸戦隊の上陸も許し、大損害を受け、翌年の元治元年(1864)八月五日に行われた、いわゆる四国艦隊の下関攻撃とつながっていくのである。この経緯については後日に詳しく検討したい。

 なお、翻訳家・日仏文化交流研究者の高橋邦太郎氏(1898年-1984年)が、次のように述べている。(パリのカフェテラスから 高橋邦太郎著)。「四国艦隊の下関攻撃で長州藩の大砲六十門が捕獲され、このうち二門が戦利品として、フランスに持ち帰られ、今なお、パリのセーヌ河畔のナポレオンの墓所として有名な、アンヴァリット(廃兵院)前の広場にさらしものになって、パリを訪れる観光客は毛利侯の紋章を好奇の目を輝かして眺めている。山口県では、この大砲の返還をしばしばフランス政府に交渉したが、ナポレオン一世以来、戦利品を敗戦国に返した事例のない理由で容易に承知しない」。

 さて、このような情勢下にあって、諸藩の動きも大きな変化が生じてきた。それを一言でまとめると「雄藩の中央政界への進出」である。これまで外様大名は、幕府政治体制の中に組み込まれておらず、藩主が個々に発言することはあったが、政治への参加はなされていなかった。しかし、この時点になると、藩の力を背景に公然と政治活動を行うようになり、その代表が長州と薩摩であった。このように藩が政治活動を行うことを「国事周旋」といい、具体的には、朝廷と幕府の関係に割り入り、雄藩が発言権を発揮しようする工作が行われてきた。だが、藩の中も複雑である。藩の中に尊王攘夷運動が高まって、その動きの方向に簡単に進む、と考えたいが、そう単純にはいかないのである。藩主-重臣-上級階層-中級階層-下級階層という封建的身分関係があり、その間に軋轢や微妙な考え方の差があり、それらが統一されていくのはもっともっと先になる。

 これらについても後日詳しく検討したいが、今回は清河八郎が、何故に回天の一番乗りを果そうとする意気込みを、鉄舟への手紙で述べ、そのために島津久光が京都に入るタイミングを待っていたのか、これを検討してみたい。

 薩摩藩は藩主島津斉彬が安政五年(1858)七月に亡くなって、斉彬の弟である久光の長男忠義が藩主になり、久光が後見役となって藩政の実権を握った。久光は薩摩藩の実力を背景に中央政界に乗り出そうとし、大久保利通を重用し、その大久保の請願で西郷隆盛を流罪地から呼び戻した。薩摩藩の尊王攘夷派の中でもいろいろな考え方があった。まず、久光の意図は、あくまでも幕政を改革し、公武合体を実現することであって、大久保や西郷は久光の意見に従いながら、次第に尊王攘夷勢力と薩摩藩の発言権を強めていこうとしていた。ところが、尊王攘夷の急進派は、幕府を見限り、挙兵による倒幕に向かうべきという強攻策を主張していた。

 この久光が文久二年(1862)三月、藩兵千人を率いて鹿児島を出発した。これまで、このような大兵で、一藩が動き、京都に行くということは考えられず、それも藩主の後見役とはいえ、正式の藩主ではない、無位無官の久光の示威行動が許されたということ、このようなことは井伊直弼が、桜田門外で暗殺される以前ではあり得なかった。まさに時代の変化を示す大事件であった。

 その久光の京都入りの目的は、安政の大獄で処分されたままになっている公家や大名の罪を許すこと、松平慶永(春嶽)を大老に(実際は政治総裁職)、一橋慶喜を将軍後見職にすることであり、それを朝廷の承認をとりつけ、勅旨として大原重徳を差し下ししてもらうことであった。

 また、久光は鹿児島出発時に「過激な説を唱え、各地の有志者と交わりを結び、容易ならざる企てをする動きがあるようだが、そのようなことは決してならぬ」と藩士に戒めている。つまり、倒幕とは反対の、幕府維持体制の改革を狙った大兵を率いた行動だったのである。

 ところが、尊王攘夷の各地急進派志士たちは、この久光の目的を理解していなかった。今こそ、薩摩の軍事力で倒幕の道に行くべき時がきたと、薩摩の急進派をはじめとして、著名な急進派志士が、ぞくぞくと京都・大坂に集結したのである。

 真木和泉(久留米水天宮祠官)、筑前藩の平野国臣、長州藩の久坂玄瑞、それと鉄舟に手紙を書き送った庄内出身の清河八郎であり、これら当時の一流志士と認められていた人物たちが、久光の京都入りを首を長くして待っていて、その多くは、大坂の薩摩藩邸に滞在していたのである。四月十六日、京都に入った久光は、当然ながら急進派志士たちが期待する行動は起さず、その気配もなかった。それもそのはずで、久光は、急進派過激浪士を取り締まろうと考えていたのである。この大きな両者の齟齬から伏見寺田屋事件が発生し、清河八郎の「回天の一番乗り」の夢は絶たれたのである。次号に続く。













(私論.私見)