横井小楠(よこい しょうなん)


 (最新見直し2005.11.17日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、横井小楠を始めとする「熊本藩・維新の志士たち」を確認しておく。


【熊本藩・維新の志士たち】

横井小楠(よこい しょうなん)】 (1809〜1869年 享年61歳)
 熊本藩士の家に生まれ、10歳で藩校「時習舘」に入学。29歳で塾長となった。31歳で江戸に留学した後、熊本で私塾を開いた。1858(安政5)年、50歳の時、越前藩主、松平春嶽の要請に由り藩の「賓師」となり、越前藩の藩政改革にあたった。慶永が幕府政治総裁に就くと、それを補佐して活躍した。春嶽のブレーンとして国の指針「国是7か条」を建言した。勝海舟や坂本龍馬など、志士達に影響を与えたことでも知られる。

 だが、新政府の参与に就いた翌年の1869(明治2)年、61歳の時、京都で旧体制の過激派に暗殺された。

 吉田松陰が私淑し、勝海舟が称賛、トルストイが驚嘆した人物。朱子学をベースにした仁政の理想を根本に据え、行動した。福井越前藩の政治顧問を務め、維新後の新政府で西郷隆盛や木戸孝允、大久保利通らと共に参与の地位に就いた。薩摩、長州藩出身者を中心とする新政府の若きリーダーたちにとって、小木南は別格の庁論的存在であった。参与の中で肥後藩出身というのも異例であった。その実力の程が知れる。

 小木南の残した言葉。米国留学に旅立つ甥に送った詩。「尭舜孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽す。なんぞ富国に止まらん。なんぞ強兵に止まらん。大義を四海に布かんのみ」。「富国有徳」の思想。小渕恵三首相が所信表明演説で触れた。(2003.11.17日付け日経新聞文化欄、徳永洋「先覚者『小木南』魂は死なず」参照)

徳富一敬



とくとみいっけい(1822−1914)横井小楠の一番弟子。徳富蘇峰・蘆花兄弟の父

水俣市生まれ。小楠の門人第一号。

豪農の出であり、小楠の経済的な援助を行った。

一敬は、維新後は竹崎律次郎、米田虎雄、嘉悦氏房ら「実学党」の人たちと、藩政改革の中心として活躍した。雑税免除の減税令「村々小前共へ」を、知事直筆という形で書いている。この減税令は、農民を重い年貢・夫役から解放するもので、本年貢の3分の1であった。他の地では、肥後の大減税を目標に百姓一揆がおこった。

徳富蘇峰(『近世日本国民史』の著者、1863−1957)、蘆花(『不如帰』の著者、1868−1927)兄弟の父で、蘇峰と共に大江義塾を開いた。大江義塾跡は徳富旧居と徳富記念館を合わせて、徳富記念園として保存されている。

横井大平



よこいだいへい(1850−1871)小楠の甥。渡米後、熊本洋学校設立に尽力。

小楠の兄の子。兄左平太と共に、坂本龍馬の2回目の四時軒訪問時に、勝海舟に弟子入りした。

慶応2年(1866)、当時、渡米は、国禁だったため、変名でに渡米した。莫大な費用は門人達の私財の処分等の工面によった。

この時、小楠は

堯瞬孔子の道を明らかにし
西洋器械の術を盡くす
何ぞ富國に止まらん
何ぞ強兵に止まらん
大義を四海に布かんのみ
心に逆らうこと有るも人を尤ること勿れ
人を尤れば徳を損ず
為さんと欲する所有るも心に正にする勿れ
心に正にすれば事を破る
君子の道は身を脩むるに在り

の詩を贈っている。

病気のために一人で帰国したが、野々口又三郎らと熊本洋学校設立に尽力。西洋人を教師として招くために奔走した。洋学校の教師として、ジェーンズが招かれたが、過労のためジェーンズに会うことなく明治4年に亡くなった。熊本洋学校では、同志社総長となった海老名弾正等、日本キリスト教の先駆者達を多く輩出している。

兄、左平太は、帰国後、元老院権少書記官に就任したが、明治8年に亡くなった。

元田永孚



もとだながざね(1818−1891)小楠らと実学党をつくる。「教育勅語」を起草。

熊本城下山崎町生まれ。

小楠、長岡監物、萩昌国らと、朱子学を中心とする研究会を始めた。これが、後に実学党と呼ばれるグループの形成へとなっていく。

「前に古人なく、後ろに今人なし」と小楠を評している。

小楠は、慶応元年(1865)「西洋の学は、ただ事業上の学問にすぎない。かれらの学意によれば、事業はますます開けるが、心徳の学がないので、人情を解せず。したがって、交易上の談判にしても、事実や約束だけを盾にとって理づめでくるので、ついには戦争となる。人情を知っていれば、戦争の惨禍はさけられるはず。」などと元田に語っている。

小楠は、私塾では筆記を認めなかったので、小楠に関する文献が少ないといわれている中で、慶応元年の会話を元にした著書「沼山閑話」は、「北陸土産」(安政5年1858)と共に、小楠研究の貴重な文献となっている。

維新後、宮内庁に入り、宮中顧問官になる。

熊本出身の井上毅(1844−1895。時習館で学んでいた元治元年(1864)に小楠を四時軒に訪ね、その時の対話を「沼山対話」として著している。大日本帝国憲法の起草にもあたっている。)と共に、「教育勅語」を起草した。
















(私論.私見)