「」の「」を転載しておく。
1837−1913年。徳川15代将軍。徳川最後の将軍。将軍後見職として春獄・小楠と藩政改革
文久2年(1862)、将軍家茂の将軍後見職となる。政事総裁職となった松平春獄と幕政改革の推進を行った。
小楠が、「国是七条」建議したのち、小楠と最初の会見の後、春獄に対し、「昨夜、横井平四郎に対面せしに、非常の人傑にて、はなはだ感服せり。談話中、ずいぶん至難をおぼゆる事柄に、尾ひれをつけて問うこころむるに、いささかも渋滞することなく返答せしめが、いづれも拙者どもの思へるところよりは、数層立ち上りたる意見なりし。」とのべ、「国是七条」推進を実行するために、小楠を幕府の中枢に迎えようとしたが、肥後藩の反対などから、小楠が辞退し実現しなかった。
朝廷の鎖国攘夷の要求に対し、春嶽・小楠の一旦条約を破棄する案に対して、慶喜は、「幕府が結んだ条約を一旦破棄するなどは、国際的に通用しない、慶喜が朝廷に対し、開国の必要性を説けばよい。」として反対したが、朝廷への説明は、実現されなかった。
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