1820−1890年。越前藩第16代藩主。名は慶永。横井小楠を福井に招聘。政事総裁職として活躍。
会津藩第九代藩主松平容保は、美濃高須藩主松平義建の第六子として、天保六年(一八三五)十二月二十九日、江戸四谷邸に生まれた。幼名は鮭之允。祐堂、芳山、逸堂などと号した。嘉永五年(一八五二)会津藩第八代藩主松平容敬(かたたか)の養子となった。
嘉永六年(一八五三)、ペリー浦賀来朝の際、幕命によって房総の海岸防備にあたり、条約の締結にも賛成した。このとき日本の国内は開国か鎖国かで国論は二分していた。ことに薩摩や長州など西国の強藩は外国勢力を打ち払う攘夷を叫び、徳川幕府の開国政策に反対、京都に上って朝廷の力を利用して倒幕へ進もうと暗躍していた。万延元年(一八六〇)の桜田門外の変後、容保は江戸に召されて水戸藩と幕府との調停にあたり、文久三年(一八六三)、幕府の改革で松平慶永と共に幕政参与を命じられた。次いで容保は、十四代将軍家茂の強い要請もあり、最も困難な職務である京都守護職を引き受け、藩兵千余を率いて物情騒然とする京都へと入った。このとき孝明天皇は、容保を迎えて「陣羽織にでもせよ」といって緋の衣を与え、信任の情を寄せた。同年七月二十八日、容保は朝廷からの命によって御所の建春門前に於て会津藩の馬揃え(操練)を天覧に入れる事になった。しかしこの日はあいにくの雨であった。二十九日も三十日も雨だったので、八月二日に延期されるよう願ったが許されなかった。そして三十日の未の刻(午後二時)より雨の中で馬揃えが挙行された。当日は藩兵千人、大砲七門、容保自ら参内傘の馬印を陣頭に立てて指揮にあたり、その苛烈さは戦場さながらに迫力のあるものであった。進退は整然としていて、容保の指揮ぶりも、その的確さ迅速さは想像もできなかったと伝えられている。馬揃えが終ったのは夜に入ってからの事であったが、翌日大和錦と白銀の恩賜に預かり白銀は参加した士卒全員に分配された。孝明天皇は会津藩の馬揃えにはよほど魅了されたとみえて、再度下命があって八月八日、天気晴朗のもとで再び実施された。この日指揮する容保は、恩賜の大和錦でつくった陣羽織を着用していたが、これが日光に映えて燦然と輝き、あたかも天恩を一身にになう栄誉を輝かしているようであったという。馬揃えが終ると天皇の命で参内した。このとき容保は武装のままであったが、金の鍬形をうった龍頭の兜を脱いで侍臣に持たせ、烏帽子にかえて御車寄の階下で慰労の言葉を賜った。
下って八月十三日、薩摩藩士高崎佐太郎が会津藩の用人秋月胤永(かずひさ)を訪れ、会津藩と薩摩藩とが提携し君側の奸臣を退けて、天皇の御心を安んじ奉りたいと申し入れてきた。容保は薩摩藩との提携を許し、ここに過激派の中心勢力たる長州藩排撃の火蓋は切って落とされ、八月十八日、いわゆる“七卿の都落ち”と呼ばれる政変が起きた。十月九日、容保は二条右大臣斉敬(なりゆき)からの使いによって参内すると、斉敬は左右の者を退け、「去る八月十八日、もし処置をあやまれば大事に至るべきところを、卿の指揮よろしきを得て沈静した事は、自分の深く喜ぶところである。重く賞賜したいが、卿のみを賞賜すると、かえって卿も安んじないだろうから、ひそかにこれを下すしだいである。決して表立って御礼などつつしむように」という意味の勅使が伝えられ、孝明天皇からの宸翰(しんかん)と御製(ぎょせい)とを賜った。
やがて容保は朝議参与となり、一橋慶喜と共に公武合体に尽力、元治元年(一八六四)幕府の長州問罪の計画によって軍事総裁となったが、後に再び京都守護職に復した。次いで禁門の変が勃発すると、会津藩兵はよく蛤御門を守って長州兵を撃退したが、将軍家茂が亡くなり、続いて孝明天皇も病没するに及び、会津藩がすべてをかけていた公武合体は敗れ、ここに会津藩と容保の悲運の歴史が始まるのである。
慶応三年(一八六七)、容保は幕府の政権返上により、慶喜に従って大坂に退いた。同四年(一八六八)鳥羽・伏見の敗戦によって江戸に帰り恭順したが許されなかった。軍備拡充を重ねてきた薩摩、長州、土佐などの西側諸藩はむしろこれを機として討幕のための武力行使に出て来たが、これを受けて立つ幕府側は軍備も古く、とても立ち向かうだけの力はなかった。会津藩は、幕府軍のなかでも常に軍備に心がけ、内容もいくらかは充実していたので、幕府軍の先頭に立ったのであるが、しかし時は既に遅く、西側諸藩では朝廷を味方に抱き込むことに成功し、錦旗を押し立てて東へと攻め下ってきた。会津藩は奥羽同盟を結び、西軍に抗戦して若松城に籠城、最後の決戦を試みたが、白虎隊や婦女子の自刃など数々の悲劇を生みながら、明治元年(慶応四年九月八日に明治と改元)九月二十二日、遂に降伏落城した。
戊辰戦後の容保は一旦妙国寺の謹慎所に入れられ、その後に江戸送りとなった。彼らは備前藩士に守られ、山川大蔵、倉沢重為、井深重義、丸山胤栄(主水)、浦川篤(東吾)山田季盛、馬島瑞園ら僅かの藩士を従え、また会津戦争の全責任を問われることになった萱野権兵衛とその従者三名がこれに同行した。江戸送りとなった容保は、印旛藩、次いで和歌山藩に幽せられた後、明治五年に“御預り”から赦されて自由の身となった。しかし“朝敵”の汚名を故なくきせられて憂愁にやつれ、自分から表に立つことは極力さけ、昔のことは語ろうとしなかったそうである。それでも過去に思いをはせる一時もあったのであろう、次のような詩を残している。「古より英雄数寄多し なんすれば大樹連枝を棄つ 断腸す三顧身を許すの日 涙を揮う南柯夢に入る時 万死報恩の推移し去るを 目黒橋頭子規啼く」。
容保は明治十三年、日光東照宮の宮司に任ぜられたが十七年に一度辞し、二十年には再びこれに任ぜられ、二荒神社の宮司をも兼ねた。明治二十六年十二月四日、特旨をもって正二位に叙せられたが、翌五日、病のため五十九歳で死去した。遺骸ははじめ内藤新宿の正受院に葬られたが、大正六年、会津松平家の塋域である「院内御廟(いんないごびょう)」に移葬され忠誠霊神と諡(おくりな)された。 |