【清河八郎】 |
故郷編 |
1830(天保元).10.10日(11.24日)、出羽国庄内藩領清川村(現・山形県東田川郡庄内町)の郷士にして酒造業を営む素封家・斉藤豪寿の長男として生まれる。
母は鶴岡三井氏の第三子・亀代という。兄弟は弟に熊次郎、熊三郎、妹に辰代。幼名は元司、諱は正明(まさあき)、号は芻蕘(すうじょう)、旦起、木鶏。本名は斉藤正明で、清川八郎と改名する。以下、八郎と記す。
ちなみに同時代の幕末有能士と比較すると、藤田東湖は1806(文化3) 年で24歳上。西鄕隆盛は1828(文政10)年で2歳上、武市半平太は1829(文政12)年で1歳上、吉田松陰は1830(文政13)年で同年、桂小五郎は1833(天保4)年で3歳下、坂本龍馬は1835(天保6)年で5歳下、高杉晋作は1839(天保10)年で9歳下、久坂玄随は1840(天保11)年で10歳下となる。
生家の斎藤家は醸造を生業とする大庄屋格で、当主は代々治兵衛と称した。斎藤家について、「幕末に咲いた華 ~清河蓮 -清河八郎の妻-」は次のように記している。
「この斎藤家は、清和源氏の分かれである越智氏が京都から下ってきて斎藤を名乗ったという平安末期から鎌倉初期にかけての旧家で、文治2(1186)年には、源義経ら主従が京都から奥州平泉の藤原家に逃れる途中、清川村に立ち寄った時に斎藤家が世話をし、義経から鬼王丸という刀を与えられたということです。義経が清川に立ち寄ったことは有名で、御諸皇子神社で一夜を明かし、清川から最上川を舟で上ったとの記述が『義経記』にあり、その時、御諸皇子神社に奉納されたという義経の笛や弁慶の祈願文は今でも残されているそうです。また、八郎の祖母は、現在の余目町の佐藤市郎左エ門の出で、義経に忠誠を尽くした佐藤継信の子孫だという、庄内有数の名門だということです」。 |
父治兵衛は書画、骨董、刀剣にも見識の高い教養人で、俳号は雷山と称した。祖父昌義は神仏を崇拝すること厚く、文雅の人で号を寿楽と称した。昌義は孫の元司が遊ぶのを見て、「この子、大芳を遺さずんば必ず大臭を遺さん」と孫の逸材を見抜いたと云う。
1837(天保8)年、7歳の時、2月、大塩平八郎の乱が起きている。この頃、八郎は、教養人であった父・豪寿より孝教の素読を受けはじめ、10歳になると、母の実家のある鶴岡の伊藤鴨蔵から学問を、清水郡治に書を学ぶ。しかし、清河は横着で悪戯好きな子どもだったようで、塾を追われてしまう羽目になる。
1843(天保13)年、13歳の時、清川関所役人の畑田安右衛門に師事し勉学に勤しむ。幼少より神童と呼ばれるほど学問もできた。若い頃から多岐にわたり学問に精進する。
1844(天保14)年、14歳の時、清川関所役人の畑田安右衛門に師事。論語、孟子、易経、詩経、文遷を学ぶ。
1845(弘化2)年、16歳の時、元司は、広い世界に出て学問をしなければならないと志を立てたが、清川村の有力者である斎藤家の跡取りとして家を継ぐことを望んでいた祖父や父は許さなかった。
1846(弘化3)年、17歳の時、東北巡遊中だった後の天誅組総裁・藤本鉄石(当時30歳)が父・雷山を訪ねて来た。齋藤家に暫く滞在した為、八郎と親交を深めている。八郎は鉄石の影響で江戸遊学の志に燃えることになる。この年、酒田の伊藤弥藤治に剣の手ほどきを受ける。
鶴岡藩の藩校「明徳館」に対して、家族にあてた手紙が残っている。
「学問のためにはまるでなりません。聖堂(明徳館のこと)より大豪傑が出たことがなく、田舎では公儀の聖堂といえば大変なところと思っているでしょうが、実際はとるに足らないところです」。 |
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上京編 |
1847(弘化4)年、18歳の時、「自らが回天の先駆けとなり天下に名を轟かさん」との遺書を残して出奔。6.29日、江戸に出て江戸馬喰町の大松屋へ到着する。7.4日、当時一流の学者であった古学派の東条一堂塾への入門を許可され儒学を学ぶ。生方鼎斎の書道塾、柔術道場にも入門している。才を認められ桃井儀八、那珂悟楼とともに東条一堂門の三傑に数えられる。 |
1848(嘉永元)年、19歳の時、叔父の弥兵衛、弟金治らと関西へ漫遊。大阪から広島、岩国、四国、京をめぐる約四ヶ月もの長旅をする。5.22日、箱根宮ノ下に泊まる。その年、弟の熊次郎が病死した為、実家に戻る。 |
八郎は少年時代から日記をつけている。「旦起私乗」という名の日記には天・地・人の3巻がある。「旦起」とは朝早くおきて勉強するという意味で、「乗」とは記録のことである。天は18歳の日記、地は19歳の日記、人は20歳の日記である。すべて漢文で書かれており八郎の学識の高さが偲ばれる。 |
1850(嘉永3)年、21歳の時、3年間の京都遊学の許可を得て上洛。4.11日、野善光寺参詣。4.25日、三井寺より京都に入り、梁川星巌に入門を願う。既に病弱で春日潜庵を紹介される。この時、九州を訪ねる旅に出る。5.1日、淀川を下り大坂到着。小倉、福岡、大宰府、佐賀、諫早、長崎、熊本、日田、日出をまわり、名のある文人学者があれば訪ねるという二ヶ月あまりの旅行をする。その後江戸に戻り、東条塾へ再入門する。 |
1851(嘉永4)年、22歳の時、2月、東条塾に隣接していた開祖千葉周作の北辰一刀流玄武館に入門し道場主の千葉周作に剣を習う。東条塾塾頭を命ぜられたが固辞している。 |
1852(嘉永5)年、23歳の時、2月、「北辰一刀流兵法箇条目録」を受けている。安積艮斎に転塾。塾頭・間崎哲馬(土佐)ら各地からの遊学生と知り合う。浦賀で黒船を視察する。 |
1853(嘉永6)年、24歳の時、3月、坂本龍馬が剣術修行のため土佐を出立、江戸の「千葉定吉道場」に入門する。八郎が帰郷し酒田から蝦夷へ渡り海防視察する。この頃、斎藤家が大庄屋格になる。 |
国事奔走編その1、開塾 |
1853(嘉永6).6.3日、ペリー率いる黒船が浦賀に来航し、以来、日本の政情は開国か攘夷かを廻って真っ二つに分かれた。翌年、幕府は再び来日したペリーに押され日米和親条約を結んだ。次の課題として日米通商条約と次期将軍問題が政争となった。時の将軍、第13代・徳川家定には子供がなく、次期将軍として紀州の徳川家茂(いえもち・当時は慶福)と水戸藩主・徳川斉昭の息子で一橋家の養子となっていた徳川慶喜(よしのぶ)を押し立てて両派が後継争いを始めた。
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1854(安政元)年、25歳の時、春、安積艮斎の推薦で最高学府・昌平校に学ぶも失望する。11月、神田三河町に清河塾を開塾する。12月、三河町塾類焼。八郎は失意のまま実家に帰る。 |
国事奔走編その2、母親を連れて伊勢参りの長旅 |
1855(安政2)年、26歳の時、3.20日から9.10日まで、母親の亀代(42歳)と下男の貞吉連れて約半年間169日の長旅に出ている。表向きは母を伊勢参りに連れていくとのことだった。清川村を出発、道を越後にとり、北国街道を通り、善光寺に詣でる。木曽道を行き、女人禁制の福島の関を避けながら、途中伊那谷から大平街道を通り、中山道、追分、伊勢街道に至り名古屋に出る。伊勢松阪の伊勢神宮に参拝。奈良、京都、近江、大坂、岡山から四国に渡って讃岐の金毘羅に詣で、田度津から船で瀬戸内海を満喫し、安芸の宮島、岩国の周防錦帯橋を渡って帰路につく。大阪天神、天橋立、石山寺、三井寺、鎌倉、7.12日、江戸に着く。1ケ月ほど滞在し江戸の芝居を見る。母・亀代は塾再開を促し、薬研掘に売り家を見つけて手付け金を払って、8.23日、江戸を出立。安積五郎も一緒に行くことになる。日光などをめぐる。福島を経由して米沢を通り帰郷する。母は駕篭に乗せている。その紀行文「西遊草」(全11巻8冊、岩波文庫)を著わす。母親にも読めるように文章は易しく、八郎の人柄が伺える旅日記である。同書は幕末の社会事情を知るうえで貴重な資料となっている。内容は各国の名士との出会いなどを中心に書かれているが、清河の性格からか辛辣で手厳しい批評が多い。八郎は他にも長崎、蝦夷を遊歴している。 |
国事奔走編その3、お蓮娶り |
母を連れての大旅行を終え、無事帰郷した後、、江戸から伴っていた親友の安積五郎と共に鶴岡の遊里に行き、ここで伴侶となるお蓮と出会っている。お蓮は、1840(天保11).2月、山形県東田川郡本熊出村(現在の朝日村熊出地区)の医師・菅原善右エ門(医名は快庵)の四女・はつとして生まれている。10歳で里子に出され、17歳の時、美しい娘に成長するや女衒(女を遊女に売ることを営業とした人)の目に留まり遊郭に売られ、鶴岡の遊所で高代と呼ばれて客に接する身となる。高代が「うなぎ屋」に登楼している時、八郎が来客し見初める。翌日、八郎は、女たちを誘って湯田川温泉に出かけて豪遊した。その席で安積五郎が酔狂に「節分の豆まきだ」と金銭をばらまくと、酌をしていた女たちは我れ先にとお金に飛びつき、あられもなく奪い合いを始めた。高代はただ一人、手を膝に端然としていた。八郎は、その可憐な気品のある姿に心を打たれ、足繁く高代のもとへ通うようになる。これより二人の純愛物語が始まる。高代へ求婚した際の八郎の手紙は次のように書かれている。(「清河八郎人物図鑑」の「結婚前の安政3年(1856年)、八郎がお蓮に宛てた手紙【二通】」より)
「(中略) 山々に話しいたしたく、疾う疾う心がけあれども、人のそしり笑うにあうも心ならねば思いながらなかなかに相成り候。かねて言いしよう、そなたさえ浮気ならずば、必ず見捨て申すまじく、けれどもそなたも知るとおり、あたりまえのもののそばにあるとはちがい、気ままの上、行く先大事の我が身なれば、楽しむこともあるべきか、又つらき事もあるべし。とても、あたりまえの心掛けならば、辛抱むずかしかるべく思われ候、それよりも百姓町民につれそわば、安気に暮らすこともあるべき故、よくよく思案なさるべく候。それはともあれ、近きうち、あわるることもあるべき故、そなたも見あわせ、たよりの手紙つかわさるべく、なによりの御茶うれしく存じ候」。 |
「せんころは、いろいろせわにあいなり、そののち三日町の人より申しつかわせしとおり、そなたの心ふびんとおもい、いろいろにしんぱいいたし、はやくきめたく思いおれども、家内にてやかましく、とても塩梅よくはまいらぬもうようなれば、そなたも時節のいたらぬ事とあきらめ、世間の人にあまり目にたたぬようなさるべく候。われもせんだい(仙台)に用事ある故、ちかきうちにまいるつもりなれども、母のびょうき故当分はなれがたく、いつれせんだい(仙台)にまいるおりに、かならずしらせ申すべし。よくよく考えなさるべく候、荒町のかかも(伯母のこと)まいりおり、そなたの事なるたけ入れたくせわすれども、おやどもかれこれむづかしくこまりおり申し候。われもせんだいにまいらばしばらくはかえらぬつもりなれば、そなたの事もふびんなれども、よんどころなく、山々ふびんに候。されどもからださえまめならば、またあわるる事もあるべし。あしくはおもわぬようなさるべく候。いづれにしてもいまいちどあいたく思いおり候故、くわしくはその時話すべく候。かならずわが事をうらまぬよう、なさるべく候。荒町も、そなたをひいきなれば、もようにより荒町にまいられて、人目にかからぬよう、我が事をたづねなさるべし。そののちの事たよりもなければ、いかがくらしあるや、また家のもようくわしくしたため、荒町の家にたのみ、早くてがみつかわさるべく候。かねていいしとおり、われよりかれこれなきように、ただそなたの心よりいでしようにして、人にあしくおもわれぬよう、こころえなさるべく候、我のこころは、そなたもかねてさっし(察し)あるとおりなれば、かならずあしくおもわれぬようなさるべし。いよいよとくしん(得心)ならぬならば、きさまもかくご(覚悟)をきわめ、しのびきたるべく候。されども、そなたに主人のまえもあり、またはがんさわだの心もある故、とくとかんがえの上の事になさるべく候。いろいろしたためたくおもえども、あまりながくなるゆえ、あいしうえのこと、あしからず」。 |
「世間どおりに所帯を持つのとは違い、私は自由勝手のうえ、大望を持つ身のため、楽しいこともあろうがつらいことも多いでしょう。(中略)よくよく考え、覚悟を決めてください」。 |
高代が応諾したものの、格式の高い斎藤家は長男の嫁を遊里から迎えることを許さなかった。これに対して八郎は次のように説得を試みている。
「自分が遊里から妻を迎えたことについて郷里ではいろいろと取り沙汰されているが、自分は単に容色にとらわれたわけではなく、その貞節を深く感じたからであって、身分とか職業などは問題ではなく、その操が大切なのだ」。 |
八郎は高代を身請けし、この時、「蓮の花は泥水に染まらずに香り高く咲いて清らか」であるとして「お蓮」と改名させた。但し、お蓮は八郎の両親に会うことができなかった。そんな中で力を貸してくれたのは八郎の伯母で、お蓮と会い、その人柄に惚れ、八郎の実家に出向いて説得している。以降、二人は八郎の知人の住む仙台で所帯を持つ。八郎27歳、お蓮18歳の時である。新居での二人は楽しく、短いながらも生涯において最も幸せな時期を過ごした。
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国事奔走編その4、安政の大地震 |
10月、江戸大地震(安政の大地震)。急いで上府、薬研堀の家屋を処分する。この時、藤田東湖死す(享年50歳)。地震発生時に東湖は一度は脱出するも、火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻るとその後を追い、落下してきた梁(鴨居)から母親を守るために自らの肩で受け止め、何とか母親を脱出させるが、自身は力尽き下敷きとなって圧死したといわれる。東湖を攘夷運動の先達と仰いでいた志士達に与えた影響は大きかった。例えば西郷隆盛は江戸から鹿児島に送った手紙で「さて去る(十月)二日の大地震には、誠に天下の大変にて、水戸の両田(藤田・戸田)もゆい打ち(揺り打ち?)に逢われ、何とも申し訳なき次第に御座候。とんとこの限りにて何も申す口は御座なく候」(野口武彦著 幕末の毒舌家 中央公論新社)と悲嘆している。
この年、紀州派の井伊直弼が大老に就任し、天皇の勅許が得ないまま日米通商条約の調印に踏み切る。井伊は大奥を味方につけ、次期将軍を家茂に決定し、反対派の一橋派(攘夷派)を一掃するために安政の大獄を始める。これにより当代の頭脳であった吉田松陰、橋本佐内、梅田雲浜、梁川星厳、頼三樹三郎らが失われることになった。並行して、通商条約調印の一件以来、朝廷との関係に大きな溝を感じていた幕府は、将軍・家茂と、時の天皇・第121代孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)との結婚を進め公武合体を図る。
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国事奔走編その5、帰省、著作活動 |
八郎は、火事と地震に遭ったことで郷里に帰省する。この時、猛烈な著述活動に入っている。清河の多くの著述の大半はこの時期になされた。「古文集義 二巻一冊」(兵機に関する古文の集録)。「兵鑑 三十巻五冊」(兵学に関する集録)。「芻蕘(すうじょう)論学庸篇」(大学贅言(ぜいげん)と中庸贅言の二著を併せたもので、芻蕘とは草刈りや木こりなどの賤しい者を意味し、自分を卑下した言葉で、この本の道徳の本義を明らかにし、後に大学・中庸を学ぶ者に新説を示したもの)。「論語贅言 二十巻六冊」(論語について諸儒の議論をあげ、独特の説を示したもの)。「芻蕘論文道篇 二巻一冊」(尚書・書経を読み、百二篇の議論をあげ、独特の説を示したもの)。「芻蕘武道篇」(兵法の真髄を説いたもの)。その他に論文もあり、これらの著述でわかるように清河の学識は並ではない。
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国事奔走編その6、再上京 |
1857(安政4)年、28歳の時、5月、こういう政情下、八郎はお連と弟・熊三郎を伴って江戸へ出る。8月、江戸駿河台淡路坂に郷里・清川の名に因んだ清河塾を開設した。第2回目の開塾。「経学、文章指南、清河八郎」の看板を立てる。塾の教科書は自分で書いた手書きの文章を木の活字を買って印刷していた。講義は訓話中心で、「文を以って義を説き、義を以って文を述べる」というやり方だった。当時、江戸市中で学問と剣術を一人で教える塾は清河塾だけであった。北辰一刀流の免許皆伝にして東条一堂に学んで和漢の教養も深い且つ男ぶりが頗る良かった。文武両道に優れ弁が立ち男ぶりの良い八郎に惚れて慕って来る者が多かった。幕臣の山岡鉄舟もそのひとりである。元司はこのときより「清河八郎」を名乗る。この時期は、お蓮にとっても平穏な歳月であり、暇をみては手習いをしたりして過ごしていた。この頃には郷里の両親も、お蓮を八郎の妻として認め、二人のために最上川の鮎を送ったり、お蓮に金一両を送ったりしている。同年12.7日、ハリスが将軍家定に謁見している。 |
1858(安政5).29歳の時、北辰一刀流中目録免許を受ける。7.29日、日米修好通商条約調印。1859.7.1日より横浜で貿易開始。 |
1859(安政6)年、30歳の時、3月、淡路坂の清河塾は、八郎が旅に出ている留守中に隣家からの出火により類焼。帰郷する。帰郷の途中、各地で剣術試合をする。郷里の父と相談の上で神田お玉ヶ池の二六横町(現在の千代田区神田岩本町あたり)に土藏付の家屋を買い求め、之を普請して7月に移転する。3度目の塾を開いたことになる。大川周明の「清河八郎」は次のように記している。
「八郎はこの新居に文武指南所と云ふ大看板をかけた。当時は儒者は儒者、劔客は劔客と、それ/″\分れて居たことであれば、文武併せ教授する者は、江戸廣しと雖も八郎一人であつた。蓋し八郎の劔道は非尋常の上達で、千葉門下の逸足として、劔客の名を山岡鐵舟などゝ並び馳せる程になつて居たのである。彼はまた此年の暮に活字版を買求めて、自己の著作を刊行しやうとした。當時個人で活字版を買求めた者も、恐らく八郎の外に無かつたらう。彼は先づ武道篇を和譯して翌年二月之を出版した」。 |
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国事奔走編その7、桜田門外の変 |
1860(安政7、万延元)年、31歳の時、1.13日、幕府の遣米使節・木村喜毅、勝義邦(海舟)らが咸臨丸に乗って出発する。
3.3日、桜田門外で大老井伊直弼が暗殺されるという桜田門外の変が発生した。井伊大老を刺殺し首をあげたのは、関鉄之助以下の水戸浪士に、薩摩藩士の有村冶左衛門を加えた十八人の壮士であった。八郎は、この事件に強い衝撃を受け、桜田門外の変の記録を土蔵で書き始めた。それは「霞ヶ関一条」と名づけた美濃紙二十枚にも及ぶ、水戸浪士の井伊襲撃のあらましであり、これを故郷に送る綴りであったが、清河自身が精力的に現場に出向き、知人を訪ね、事件の風聞を聞き集め、関係する資料を分析し、事件の全体をまとめたものである。その綴りをつくる作業中、清河は新鮮な驚きともいえる感慨に、何度も筆をとめざるをえなかった。 |
国事奔走編その8、「虎尾(こび)の会」結成 |
以降、国事奔走を決意し政治活動に更にのめり込むようになる。文武指南をしながら尊王攘夷の倒幕救国運動を志す「回天」同志を集める。「回天」とは天と地を一気にひっくり返すという意味があり、「朝廷を再び擁立させ、日本を植民地化しようとする外国勢を打ち払い、その勢いに乗じて幕府をも倒し、新たに日本国家を創る」としていた。清河塾に憂国の士が集まりだす。以後の清河塾は憂国の志士の会合所となる。
同年、八郎を盟主として尊皇攘夷(外国人を日本から追い払い、天皇を中心に日本をひとつにまとめて事に当たる)を旗印とする「虎尾(こび)の会」を結成する。「虎尾(こび)」には「国を守るためなら虎の尾を踏む危険も恐れない」という意味がこめられていた。発起人は幕臣(直参旗本)の山岡鉄太郎(鉄舟)で、笠井伊蔵、松岡万、薩摩藩士の伊牟田尚平、樋渡八兵衛、神田橋直助、益満休之助、美玉三平。同門の浪人・安積五郎、池田徳太郎、村上俊五郎、石坂宗順(周造)、北有馬太郎、西川練造、桜山五郎。内弟子の笠井伊蔵の15名が参集している。後に中村貞太郎、本間精一郎、坂本龍馬が名を連ねている。
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同年10.8(陰暦8.24日)、八郎が千葉栄次郎より中目録免許(免許皆伝)を得ている。江戸幕府の学問所・昌平黌(昌平坂学問所)に推挙され学んでいる。
同年12.5日、横浜外国人居留地を焼き討ちし、アメリカ公使館通訳のヒュースケンを暗殺する。実行者が伊牟田、樋渡ら虎尾の会の同志であった為、幕府の清河塾への監視の眼が光るようになる。お蓮は不安を感じていながらも八郎たちを支えていた。八郎は尊王攘夷の精神を鼓舞し続け、倒幕の計画を立てた。この密計が幕府の知るところとなる。
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1861(文久元)年、32歳の時、水戸天党が常総の間に横行し、金穀を募り、特に横浜の外国人を襲撃する風聞を聴くや、八郎は直ちに赴いて行動を探り、天狗党が烏合の衆であることに落胆する。宮本茶村と時事を論じ、時季の至るのを待つ。3月、虎尾の会の会合が連日行われる。
5月、水戸藩の尊皇尊攘派の志士たちが江戸・東禅寺の英国公使館を襲撃し、館員・警備兵を殺害している。英国から幕府に対して厳重な抗議が出、6月、幕府は、水戸藩に命じ尊攘派藩士の謹慎を命じる。水戸藩は尊攘派の志士たちを問答無用で投獄する。 |
国事奔走編その9、幕府捕吏の斬り捨て、逃亡 |
同年5.20日、八郎は、日本橋の路上で、町人風の罵詈雑言を浴びせてきた幕府の捕吏の回し者にしつこく絡まれ、一刀のもとにその者の首を電光石火の早業で斬り捨てた。「首は軒よりも高く跳ね上がった」と伝えられている。この為、おたずね者となり、これより
一年半におよぶ逃亡生活を余儀なくされる。八郎は川越まで逃亡し、その後、新潟を経て仙台に潜居する。八郎が逃走する前、八郎の家に同志が集まったとき、誰かがこう云った。「家を焼き、お蓮さんを殺め、そのまま宿願の夷人館焼き討ちを実行しようではないか」。お蓮が入獄すれば女の身では死ぬより辛い目にあう。「それならばいっそ」と云う意味であった。この意見は実行されなかった。八郎を失った同士たちは幕府によって捕らえられ八郎らの計画は頓挫した。
八郎の弟・熊三郎、笠井伊蔵(10.16日 獄死)、中村、西川練造(12.14日、獄死)、北有馬太郎(9.3日、獄死。享年35歳)らが江戸小伝馬町の牢獄に入れられた。厳しい拷問により4名が獄死させられている。
妻の投獄を聞いた時に八郎の詠んだ詩が遺されている。
「我に巾櫛(きんしつ)の妾あり。毎(つね)に我が不平を慰む。十八歳で我が獲(う)る所、七年使命を供にす。姿態心ともに艶(うるわ)し。廉直にして至誠をみる。未だ他の謗議(ぼうぎ)を聞かず。ただ婦人の貞を期す。我が性は急かつ暴、ややもすれば奮怒の声をなす。彼必ず我が意を忖(はか)り、顔を和らげてその情を解く。我、かつて酒気を使う。彼必ず酔う程を節す。与えを施し吝(を)しむところなし。賓客日に来たり盈(み)つ。噫(あゝ)今已に座する所、再び会い衡(はか)るべからず。必ず糟糠の節を記し、我が成す所あるを俟(ま)たんか」。
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お蓮は翌日から取り調べを受け、牢屋奉行や同心から八郎の行方や同志の氏名などを聞き糾されたが一切わからないと答え、業を煮やした役人に鞭打たれるなど惨虐極まりない拷問にあっている。毅然とした態度で耐え、清川の居場所を最期まで喋ることはなかったと伝えられている。この時のお蓮の手紙の一節が遺されている。
「私事も入牢いたし候せつも御牢内へは、みやげも、もち参らず、当惑いたし居り候ところ、徳太郎様よりいろいろ御心配下され、その御かげ様にて牢内も少々は楽にも相成り。今日までしのぎおり候得ども、かねて御ぞんじ様の事も御座候哉、牢内は金子なければ楽もできず申し候間、金子御むしん申上たく・・・」。 |
牢内で過酷な責苦を受ける生活に、金と云う土産が必要で、それがなければ「楽」ができないと云う文面である。お蓮は次第に衰弱し、江戸で麻疹(はしか)が蔓延した際、牢内で感染した。不憫であるから療養を兼ねて庄内藩で預かるようにとの幕府の通達により下谷にある庄内藩邸内の牢に移された。その夜、「これは麻疹の妙薬である」と一服の薬を獄医から手渡され、翌朝、見回りの者が独り冷たく横たわっているお蓮を発見している。はしかの薬と称して毒を盛られたと云う説がある。1862(文久2).8.7日、1年3か月の獄中生活を耐えに耐えた末、お蓮逝去(享年24歳)。
八郎は、お蓮の死を潜伏先の宮城の仙台で知る。父あての手紙には、これまでお連を救うためにあらゆる手段を尽くしてくれたことを感謝し、お蓮を自分の本妻と思って位牌を建てるようにと願っている。この父への手紙の中で、お蓮の戒名を「為清林院貞栄香花信女」と付けている。次の追悼句を遺している。
「さくら花 たとひ散るとも 壮士(ますらお)の 袖ににほひを とどめざらめや」 |
「艶女が ゆく方も知らぬ 旅なれど たのむかひあり ますらをの連れ」 |
「御世のため 抜けてし人の 妹なれば 身をすててこそ 名をばとどめむ」 |
「壮士の 林と見らる 我が宿を 清くあつかふ 長の年月」 |
「名や栄ふ あるじのために 身をすてつ 清き心を いつも変へねば」 |
「変わるまじ たとひ先がけゆくとても 長くつれそふ 年の塊」 |
「憂きなかに 身は沈むとも 真心を 人に伝えて 何怨むらむ」 |
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国事奔走編その10、上洛。西国、九州遊説 |
この頃、八郎は、同志伊牟田尚平より「水戸藩士が十一月を期して蹶起し、上洛して天皇を奉じて天下に号令しようとしている。尚平は薩摩に下って同志を糾合して上京し、応援するつもりである」と聞かされる。八郎はこれを良策とせず、それより閣老安藤対馬守による廃帝の動きを止めるために速やかに上洛して、田中河内介(中山忠能の侍読)に頼って密かに封事を天皇に奉り、薩摩藩の同志を募って勤皇の詔を奉じて挙兵する策を押す。
同年10月、八郎は同志安積五郎、伊牟田尚平とともに上洛し、京に潜伏しながら中山忠能の長子忠愛より志士に送る書簡を預かる。中山忠愛は当時相国寺桂芳院に蟄居していた青蓮院宮の令旨を示して全国の志士を募り、動かそうとしていた。八郎は、全国の志士に攘夷討幕の檄を飛ばし、田中河内介を介し全国の志士を動かそうとしていた。以降、西国、九州を遊説回って攘夷倒幕運動を続ける。筑後国の水田天満宮に蟄居中の真木保臣の下にも滞在し、真木和泉、村松大成、川上彦斎などと会談し、今後の方略を議す。福岡藩士の平野国臣、薩摩藩士の有馬新七、小郡、肥後の尊皇攘夷派とも接触し京での挙兵を計画している。
その後、薩摩(鹿児島)を訪れた際に、薩摩藩が1千人の軍を率いて京に上り、幕政改革を企てているという情報を得、この機に倒幕の勅令を薩摩藩主の島津久光に下させ、薩摩藩と全国の同士とで打倒幕府のための挙兵を実行し、一気に幕府を倒してしまおうと計画し、全国の同士に京に上るよう要請する。「近世日本国民史」では京都に参集した尊皇攘夷派は清河の空想的政局論により集められた一面があるとしている。
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国事奔走編その11、寺田屋騒動 |
1862(文久2)年、33歳の時、正月、九州遊説を終え帰京する。いよいよ義挙を決行するべく着々と準備を進め、薩摩藩主島津久光の上洛を待つ。1月、江戸城坂下門外で老中安藤信正が襲撃され負傷する。
西国の諸藩主は過激志士の動きを警戒し、久光は時局の紛糾を鎮めるため長州、肥後、筑前の形勢を探索するよう西郷吉之助に命じ、下関で待つように命令している。西郷は下関で白石正一郎と会談し、事の急なるを知って急ぎ上京し、激派志士を鎮撫しようとする。これが久光の命令無視の怒りを買い、西郷は島流しにされる。閏8.14日、
西郷吉之助が沖ノ永良部島での遠島生活に入る。3月、 伊牟田尚平、福岡藩主黒田斉溥が久光の公武合体の上京周旋の挙を止めようとしている事を知り、播磨国大蔵谷において斉溥に説こうとして藩地に送られ、喜界島に流される。
久光が上洛する。久光は、倒幕ではなく幕府と朝廷の仲立ちをして公武合体を実現せんとしていた。これにより過激な討幕運動を取り締まるべく采配した。久光の上京に望みをかけていた志士たちは落胆し、志士の間でも硬軟両派の意見対立をおこす。久光が他藩の志士に坂地に留まるように命じたとき田中河内介、小川一敏はそれに服し、八郎は田中の態度を嫌って薩摩藩邸を出る。一方薩摩藩士の有馬新七、田中謙介、柴山愛次郎などは田中河内介、小川一敏と義し事を挙げることに決する。4.23日、藩命を受けた薩摩藩士・永原(日下武史)、大山綱良らが寺田屋に行き、血みどろの殺し合いを演じた末、有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介、西田直五郎、弟子丸龍助、橋口伝蔵を斬殺した。田中謙助、森山新五左衛門が重傷を負った。大山巌、西郷従道、三島通庸、篠原国幹、永山弥一郎は大山綱良らが刀を捨てて飛び込み必死の説得を行った結果、投降した。田中河内介らは薩摩藩に引き取ると称して船に連れ込まれ、船内で斬殺され海へ投げ捨てられた。これを「寺田屋騒動」と云う。
この時、八郎は危うくも難を逃れている。これにつき「ものすごい先生たちー19 ( 清河一派 薩藩蔵屋敷二十八番長屋を出る )」が次のように解説している。概要「寺田屋事件の際、志士団の中に、久光追随派と清河の急進派との対立反目ができていた。清河(33歳)は、始めは久光公に期待し、久光公を盟主にして事を起そうとしていたが、薩摩藩の様子から久光公への期待を捨て、見切りをつけて自分達のみの蹶起論へと転換した。これに対して、田中河内介(48歳)、小河一敏(50歳)は、あくまで久光公の言を信じ、若い血気の士の暴発を心配し始めた。こうして大坂薩摩藩邸内に久光追随派と清河の急進派との対立反目が生れた。そのような時、大坂の長州藩邸に潜み、時々薩摩邸の清河らを訪ねていた越後の浪士・本間精一郎が、4.13日、薩邸に清河八郎らを訪ねてきた。本間は清河、安積、藤本を招き安治川で舟遊びを試みた。これに長州藩邸に潜む土佐藩士・吉村虎太郎も参加した。芸妓を乗せ愉快を尽したが、安治川から海に出る河口に番所(津守番所)があり、そこを通る時、本間と安積は酔いにまかせて役人に向かって暴言を吐いた。これが問題になり、清河たちは浪士世話掛の柴山と橋口から注意を受けた。清河は、これは遠まわしに自分たちに退邸を求めるものと推察し、その夜(13日午前零時頃)、清河八郎、藤本鉄石、安積五郎、飯居簡平(いいおりかんぺい)の四人(本間精一郎は、役人に跡をつけられたので、その夜、長屋に逃げ込んできた。これを入れると五人)が決起を前にして薩摩邸を出た。その夜は土佐堀の旅館をたたき起こして泊り、次の日に京都に行き、三条河原町の飯居簡平の家に潜んだ。ここは長州藩邸が近い。長州藩邸では薩摩藩が決起したら、それに応じようと挙兵の準備をしていた。その時八郎たちも一緒に起とうと、大坂薩摩屋敷の快挙を待った。後で思えば、清河が薩摩邸を出た事が、清河の命を救った天運ということになる」。
6.6日、 尊王攘夷派の決起計画は頓挫させられたが、八郎は、「寺田屋の変」の直後、孝明天皇に「回天封事」と題した建白書を送り、その末尾に「我々は天下の義人を集め、数ヵ月以内に必ず大挙します」と誓っている。八郎は京都を出立、東下する。江戸に戻り、自分のために牢獄につながれた妻・お蓮や同志たちの安否をたずね、妻と同志たちを救うべく、ひとつの案を実行する。
夏、薩摩藩公・島津久光の政略によって尊攘派である水戸の一橋慶喜、越前福井藩・松平春嶽が幕政に復帰する。松平春嶽は、将軍家茂に「京へ上洛し、朝廷にこれまでの失政を陳謝せよ」と奏上する。二度に渡る勅使によって、幕府も勅命実行の確約(条約破棄+攘夷)を避けられないところまで追い詰められていた。8.21日、薩摩の島津久光が江戸からの帰国途中、相州生麦村(現横浜市鶴見区)を通過のさい、行列に馬で乗り入れた上海のイギリス商人C.L.リチャードソンら4人を殺傷する生麦事件を引き起こす。 |
国事奔走編その12、「急務三策」建白書を提出 |
8.24日、八郎江戸到着。幕府は京都の治安を守るための京都守護職を新設し、会津藩主・松平容保(かたもり)を任命する。同年12.24日、容保が約1千騎の精鋭を連れて京都に入る。その後再三勅使が江戸に下り、将軍上洛の上、公武一和の儀が進展する。
この頃、八郎は江戸へ帰り、虎尾の会同志の山岡鉄舟、土佐藩の士間崎哲馬らを通して、11.12日、松平春嶽(幕府政事総裁)に「急務三策」(1.
攘夷の断行、2. 大赦の発令、3. 天下の英材の教育)という建白書を提出した。「1. 攘夷の断行」は、「一に曰く、攘夷の断行。近年天下が平穏でないのは交易相開くによる」としている。「2.
大赦の発令」は、「二に曰く、天下に大赦発令。大赦上(かみ)に行なわれ、群賢ことごとくその位に居り、いまだ草莽に遍(あまね) からず、ここを以て人心和せず」としている。「3.
天下の英材の教育」では、「三に曰く、天下の英材を教育す。それ非常の変に処する者は、必ず非常の士を用う。ゆえによく非常の大功を成すのである。身分を問わず優秀な人材を集め、乱れた京都の治安を回復し、将軍家茂の上洛を警護するための浪士組を結成したい」と記している。「ものすごい先生たちー64 (清河八郎・「急務三策」、大赦令と浪士募集の命)」が、この時の上書をサイトアップしているので転載する。「清河八郎、三十三歳。 この上書は、実に堂々たる文章で、その見識の深さは彼の学問の深さに裏付けられたものである。その要点を以下に抄録する。何度も読んで内容をかみ締めたいものである」とコメントしている。
「臣聞く。国家の将に興らんとするや、必ず大なる機会あり、その将に亡びんとするや、必ずこの機会を失う。(中略) 機会は勢なり。勢の至るは、至るの日に至るに非ず、必ずや漸積して然るのみ。故に勢至るの日は、方に機会既に極まるの時、一日之を失へば必ず他人の有となる、深く察せざる可からざるなり。(中略) 故に敢(あえ)
て当今の急務三事を陳ぶ。(中略)
その一に曰く、攘夷。この年、天下の不穏なる所以は、交易相開けるに由るのみ。これ乃ち愚夫愚婦の共に憂苦するところのもの。今や 天機既に発し忝(かたじけな)
くも攘夷の令あり、これまた国家将に興らんとするの大機会なり。即ち断然之を奉じ、上は 以て天心を安んじ、下は以て衆思を齊ふるは、今の時誠に然りと為す。それ、この如くんば、凡百の武備令せずして自ら調い、浮食遊惰の民除かずして自ら去り、一令して天下の人心大に奮はん。(中略)
その二に曰く、天下に大赦す。頻年、天下の異変を生ずる所以は、上下相交らざればなり。今や公武已に合し、大赦在上に行はれ、群賢 悉くその位に居る。しかも草莽有志者に偏(あまね)
からず、これを以て人心未だ和せず、なお不測の変を萠(きざ) し、以て偏党の誚りを致す。豈之を資治の化と曰はんや。それ草莽の身を殺し族を棄てて四方に周旋するもの、皆公ありて私なし。忠誠以て国家に報ずるのみ。即ち
天下の大勢をして今日の隆盛に至らしめし所以のもの未だ必ずや草莽周旋の一補助に由るなくんばあらず。しかも赦は独り在上に限りて、未だこの輩に及ばざるは何ぞや。請ふらくは
疾く大赦の令を天下に下さんことを。(中略)
その三に曰く、天下の英材を教育す。それ非常の変に処する者は必ず非常の士を用ふ、故に能く非常の大功を成す。非常に処して庸衆を用ふるは、なほ千里を志して駑駘(どだい、のろい馬)に策するが如し、労すと雖も必ず敗る。(中略) 願くは執事疾く度外の令を施し、以て天下非常の士を収めんことを。(中略) 即ち幕下の豪傑卓犖(たくらく)不群の士両三輩を選び、以て
之が総宰となし、(中略) 而して先づ 天下駆名の傑士両三輩を挙げ、この輩をして広く忠義節烈、英偉倜儻(てきとう) の士を募らしめ、文ある者は之を顧問に備へ、武ある者は之を韜鈐に充つ。(中略)」。 |
11.23日、八郎は、住谷、下野と共に水戸に帰り、江戸からの吉報の至るを待つた。これより先、伝馬町の獄中にいた池田徳太郎、石坂周造は獄吏を懐柔し、両人間の連絡のみならず山岡とも交通することに成功していた。これにより、八郎が春嶽に上書したことを聞き知った。両人は密議を凝らした上、同じく志士の大赦と浪士募集の必要とを力説した書面を書き、獄吏の手を経て高家中條中務大輔に送った。中條は、この書面を自分の実家であり且つ兄に当る京都の樋口入道觀生に送り、樋口の手から更に之を近衛忠熙(ただひろ)
に上らせた。これが動機となって、遂に関白近衛忠熙から公然浪士募集の命が下されることとなった。松平春嶽は人を容るるの大器で、しかも池田徳太郎らの側面運動による朝旨も出ているので、これを実行することに異論はなかった。春嶽は関白の命を奉じ、建言を用いて大赦令を出し、国事を以て罪を得ていた者を赦す挙に出た。
12.3日、幕府は、翌1893(文久3).3月に、将軍・家茂の上洛を予定しており、尊攘志士に手を焼いていたこともあり、これを名案として受け入れ、浪士組取扱に旗本でも大名でもないが徳川一門でありながら厄介者扱いされていた幕臣・松平上総介(かずさのすけ)を浪士取扱役に就任させ、八郎を登用することを決断した。添役として鵜殿鳩翁(うどのきゅうおう)を任命した。11.28日、まず安政の大獄関係の処刑者の建碑が許され、在獄者は次々と釈放された。八郎の首切り事件罪状もされた。
御家来にて出奔致し候清河八郎召捕方の儀、先だって相達し置き候ところ、右者この上召捕候には及ばず候あいだ、なおまた此の段申達し候事。出羽庄内 清河八郎 右の者有名の英士にて文武兼備尽忠報国の志厚く候間、お触出し御趣意もこれあり、私方へ引取置き他日の御用に相立て申したく此の段伺い奉り候 松平主税介より申立 |
晴れて自由の身になった八郎は、12.10日、八郎は水戸から江戸に戻り、山岡鉄太郎邸に入り居候となる。12.19日、幕府から正式に浪士組募集の大令が松平主税介のもとに出される。八郎は隊士の募集に取り組むことになる。「浪士募集の達文」が遺されており、「尽忠報国の有志による一方のお固め」と記されている。「国」は、藩(幕臣にとっては徳川家)と日本国(「皇国」)の二通りの意味で使われている。「一方のお固め」とは日本全体の守衛を意味し、外国の脅威からの守衛、つまり「攘夷」を意味する。浪士組は「尊攘の大義」の実現を目的にするための浪士集団であり、腕に覚えがある者であれば犯罪者であろうとも農民であろうとも、身分を問わず、年齢を問わず参加できると云う当時として画期的な組織であった。
同じく八郎の幕府へ上書が受け入れられ八郎事件で連坐投獄されていた獄中の生き残り「虎尾の会」同志(清河弟・ 斉藤熊三郎、同志・石坂周造、池田徳太郎)が放免された。八郎も直ちに小塚原回向院(えこういん)に埋葬されている牢死した同志の墓を建てた。その中、西川練造の墓は遺族の手により川越小仙波喜多院に移された。八郎筆 「 西川練造之墓」 と題し、「清河正明これを建つ 」とあり、現在埼玉県史蹟に指定されている。北有馬太郎の墓は 門人内田豊吉等の手によって、同所に改めて 「肥前島原中村太郎之墓」 と題して建てられた。笠井伊蔵の墓は 郷里勝呂石井の宗福寺内にもあり、 「顕元院義刀明亮居士 」 と刻まれている。なお回向院内の古い墓は現在すべて整理されている(小山松勝一郎著「清河八郎」)。
松平主税助が幕府の目付で最後の箱館奉行を務めた杉浦梅潭に提出した浪士名簿、杉浦が記した「浪士一件」の最初(文久二年の記事)には、清河八郎、池田徳太郎、石坂宗順(周造)、内藤久七郎、堀江芳之助、杉浦直三郎、■塚行蔵、磯新蔵、大久保枩之助、坂本龍馬、松浦竹四郎、村上俊五郎の12名が記されている。文久2.12.20日の記事では、幕府が取り立てるべき浪士筆頭として清河八郎の名前が挙げられ、さらに文久3年の最初の記事には、幕府が取り立てるべき浪士たちとして坂本龍馬、平野国臣、真木和泉、間崎哲馬、宮部鼎蔵、西郷隆盛、久坂玄瑞、藤本鉄石がリストアップされている。八郎に関係の深い人物と解することが可能で、八郎の政治能力が見て取れる。
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国事奔走編その13、浪士組結成 |
1863(文久3)年、34歳の時、正月7日、幕府が上京する将軍警護の為の浪士組募集方針を示す。最初の浪士取締役には松平主税之介、中条金之助、窪田治部右衛門、山岡鉄太郎などが任じられる。
正月22日、浪士取立計画を採用した政事総裁職の松平春嶽、杉浦梅潭、勝海舟(当時、春嶽を批判していた)、坂本龍馬の四人が同じ船に乗り合わせ、浪士取立計画について議論をしている。杉浦梅潭が記した「経年記略」(「杉浦梅潭目付日記」に所収)に、このとき坂本龍馬との会話も記されているが、会話の記録は残されていない。
2.4日と5日の二日間に渡って、小石川の伝通院で隊士採用試験行われ、近隣の若者230余名が集まった。注目すべきは八郎の呼びかけに応じて各地の剣術道場の免許皆伝者がこぞって参加していることであろう。この中に江戸・市谷で天然理心流の剣術道場・試衛館(しえいかん)を開いていた近藤勇、同郷の土方歳三や沖田総司、山南敬助(やまなみけいすけ)ら後の新撰組メンバーがいた。募集当初は要員50名、維持費300万両の制限があり、幕府老中・板倉勝静に言い渡されていた。しかし八郎は予算の事など眼中になく集めた浪士は300余名集めたため、金策の目途も立たず扱い切れないと呆れ返った松平主税之介が浪士取扱を辞任。後任に鵜殿鳩翁が就き、浪士取締には八郎の同胞・山岡鉄太郎、松岡万の両名が任命された。
2.23日(2.8日)、伝通院(でんづういん)に浪士組234名他が集まった。幕府より一人当たり10両(約30万円)が支給された。浪士組の編成は10人を一隊とし、隊長(小頭)を置き、三隊を一組とし、それに道中世話役が一人付き添った。これを7組編成にして、幕府の命により表街道(東海道)を避け、中山道の木曽路を通り京へ向かった。八郎、山岡鉄太郎(後の鉄舟)が引率して将軍・徳川家茂上洛の前衛隊として上洛する。2.9日、本庄宿。2.11日、松井田宿。2.13日、長久保宿。2.14日、下諏訪宿。2.15日、奈良井宿。2.17日、中津川宿。2.19日、加納宿。2.21日、武佐宿。2.22日。大津宿。2.23日、京都壬生村到着。その夜、清河は浪士を壬生(みぶ)村の新徳寺に集め、
「我らの目的は単に将軍警護ではなく、攘夷の魁となるためである」とかねてよりの尊皇攘夷策謀を宣言し浪士たちのに血判を求めた。突然の話しに浪士たちは困惑したが八郎の鬼気迫る演説とその迫力に圧され血判に応じた。翌日、200名の手勢を得た八郎は朝廷(御所)学習院に尊皇攘夷の赤心を陳じ建白書の受納を願い出て受理される。3.3日、鷹司関白より浪士組に対し、攘夷実行のため東下すべしとの命を賜る。学習院国事掛から孝明天皇の御製が添えられた攘夷の勅諚を賜った。これにより浪士組は朝廷軍になった。
2.13日、将軍家茂は上洛の途につき、3.4日、入京した。将軍上洛の目的は公武合体派の雄藩・公家が蓮繋して長州藩の尊皇攘夷派および三条実美以下少壮公家の暗躍を封じることにあった。京の治安は乱れ、形成は必ずしも幕府の有利な展開にはならなかった。
ちょうどこの時、江戸では幕府の外国奉行が生麦事件の代償についてのイギリスからの強硬な談判を持て余していた。イギリス側の条件は、1・島津久光を引き渡す。2・賠償金を差し出す。3・上記いずれかが実行されない場合は軍艦を差し向けるというものだった。判断に窮した外国奉行は上洛中の将軍の決裁を求め、二条城に駆け込んだ。これを聞いた八郎は、朝廷に2回目の破約攘夷(生麦償金拒絶による開戦)を約束する建白書を上奏。関東へ戻る旨を浪士組全員に報告するための集会を企画し、「この度、生麦事件で英国は強硬な談判をはじめ、次第によっては軍艦を差し向けるとまで脅迫いたしている。我等もとより異人を払う急先鋒にと存ずるにより、まず横浜に参って鎖国の実をあげ、攘夷の先駆けをいたさん所存である」と、横浜での攘夷決行を促す。
これに対し、芹沢鴨が、「これは清河殿のお言葉とも存ぜぬ。我等承るに今だ天朝よりご沙汰無きのみか、将軍家にも東下がない。我ら同志13名は京に残り申す」と反対する。13名とは、芹沢派6名(芹沢鴨、平間重助、新見錦、井上源三郎、野口健司、平山五郎)、近藤派7名(近藤勇、土方歳三、沖田総司、永倉新八、山南敬助、原田佐之助、藤堂平助)であった。、幕府の士として将軍を警護するのが筋との立場から京に残留する旨を八郎に言い放ったのに対し、八郎は、「お勝手に召されい!」と畳を蹴って席を立った。芹沢・近藤ら13名はその足で、浪士組の責任者・鵜殿鳩翁を訪ね委細を話すと鵜殿も芹沢らの意見に同意し、京都守護職で会津藩主・松平容保預りということになった。最終的に、斎藤一などの浪士組以外の浪士も含め京都残留浪士は24名となる。芹沢鴨、近藤勇らはその足で、浪士組の責任者・鵜殿鳩翁を訪ね委細を話すと鵜殿も芹沢らの意見に同意し、京都守護職で会津藩主・松平容保預りということになった。壬生浪士組が後に新撰組結成となる。 |
国事奔走編その14、浪士組分裂 |
幕府は、攘夷の勅諚を得ている八郎の威光に押され、破約攘夷(生麦償金拒絶による開戦)を約束する。但し、浪士組の動静に不安を抱き、浪士組預役の山岡鉄太郎、鵜殿鳩翁に命じて江戸へ呼び戻すよう指令する。
3.13日、浪士組209名が帰府に出立する。3月28日、八郎が率いる浪士組が江戸へ到着する。 三笠町浪人屋敷に入る。江戸留守の浪士と合して335名となる。後に新徴組と改名し庄内藩預りとなる。
4.4日、幕府は、佐竹、酒井(庄内)、大久保、相馬、松平の5藩に市中警備方発令した。京都に残った近藤勇、芹沢鴨(せりざわかも)ら十数名が京都の治安維持を任務とする壬生浪士組と称し見回り始める。これが後に新選組となる。 |
国事奔走編その15、幕府に攘夷を迫る |
幕府と八郎の緊張が高まり始める。江戸に戻った八郎は危険分子として幕府の刺客につけねらわれることになる。だが、八郎は剣の達人の上、常に5,6人の護衛をつけていたので容易に近づくことができなかった。幕府は、朝廷に破約攘夷を約束するはめになったものの、浪士組東帰後も、江戸の幕閣は破約攘夷実行の気配を見せなかった。
明治33年の高橋泥舟の談話によると、高橋は留守老中の水野忠精に攘夷を何度も迫ったが、水野は高橋の意見を全く用いず、八郎は、破約攘夷(生麦償金拒絶による開戦)に踏み切らない幕府に呆れ果て、横浜居留地襲撃を画策し始める。横浜攘夷では、同胞・石坂周造らが近在の豪商に金策をし、爆裂弾を中心とする兵器も製造、伝馬船・梯子等も秘密裏に準備を整えた。八郎の不穏な動きを察した幕府は、偽浪士を雇い、幕府東帰浪士組が、あたかも攘夷先鋒と称して豪商を掠奪し、乱暴行為を働いたように見せかけている。(小山松勝一郎著「清河八郎」)
偽浪士を捕縛した八郎が取調べを行うと、老中格小笠原長行の命を受けた勘定奉行小栗忠順が、浪士組の悪評を流すために、彼らに迷惑行為を指示したのだ自白したと言う。浪士組取締の高橋泥舟が登城して小笠原らを詰問するも、「町奉行所で預かって吟味をする」と言われ、幕府の機関である奉行所で事をうやむやにされてはならじと、4.9日、浪士組が偽浪士2名を斬首し、これを米沢町に梟(きょう)首する。
このように幕府と八郎、東帰浪士組の間に緊張が高まり、八郎のもとに続々と参集する何百人という浪士たちが八郎の手先として働くことを危惧し、幕府は八郎暗殺の内命を下す。八郎は幕府にとって最も危険な人物の一人になっていた。 |
国事奔走編その16、最後 |
4.10日、 山岡鉄太郎、清河八郎、斎藤熊三郎、西恭助、横浜に至り、窪田千太郎を訪ねる。
4.12日夜、八郎は、山岡邸で父親宛に手紙を書いている。
「人間の運は限りのあるものです。古今未曾有のこの激動の時代にはなおのことです。いよいよ攘夷のために江戸に戻ってきましたが、太平の世が長く続きすぎたため存分に、というわけにはいかないかもしれませんが、ともかく徹底的に働くよう辛苦しております。生きているうちはどうしても評価が定まらないもの。棺桶に蓋をするときには、長年の赤心(天皇への忠誠心)も天下に明瞭になることでしょう。たとえどのような噂があろうとも、決してご心配しないでください」。 |
「久しく尊意を得ず候えども、ますますご台祥南山奉り候。先月二十八日恙なく帰府、その後速やかに書状差し上ぐべくと存じ候えども、何分多用はなはだしく、弟より一書差し上げ候はず也。小子事も変わりなく、至って壮健に罷りあり候。ご安意くださるべく候。道中往来とも首尾よく、古今未曾有の勢いにて御座候。在京中とも国事につき、千万無量筆紙に尽くし難く、浪士一條にては善悪とも小子および山岡のみに相かかわり候ため、関西の浪士、この方どものお召し出しに相成り候事、しかと存じ申さざるため、議論大沸騰、いくたびも危難に迫り候えども、もとより正大公明の心事相期し候ため、何事もわけなく氷解、まずもって無事に帰府仕り候えども、とかく不如意のことのみ多く、しかしこの方名前はすこぶる高く相成り候ため、何につけてもこの方身分のみ申し唱えられ、ほとんど当惑仕り候えども、まずもって高名のうえは是非なく候。国屋敷にては、いまもってこの方こと、かれこれ申しおり候由、未だわが精神のいたらざるところか、是非に及ばず、時あらばそのことも明白に相成り申すべく候。元来、身を国のためになげうつ所存に候えば、さようのことは少しも懸念仕らず、実に数年来寝食を忘れ殉国に仕り候えども、時勢のしからしむるところ、とかく正義のものは存分相撤し申さず困り入り候えども、もはや時節到来と申すことゆえ、遠からず戦争に相成りべく、将軍家は在京にて、水戸公攘夷のため一昨日罷り下り候えども、これをもってはかばかしくこれあるまじく、とかくこの節は浪士のみ評判にて、小子などはひとかたならざる噂に御座候。これもよんどころなく候。大松氏もよほど働き、この方などのこと、よく存じおり候。愚弟もことのほか盛んに相成り、諸人にはなはだ用いられ候様子ゆえ、このうえは是非に及ばずこのほうにとどまり申すことに御座候。兄弟ともに国事に身命を献じ候わば、先祖の美は申すに及ばず、国家に誉れにも相成り申すべく、何事も天運とあきらめ、けっしてご案じ下さるまじく、時あらば拝領を得べし。ただただ大寿長久に遊ばされよう、ひとえに祈り奉り候。時勢など委細申し上げたく候えども、なかなか筆紙に尽くし難く、それぞれ噂もこれあるべく、家内の衆も安堵いたし候よう仰せ下さるべく候。この末、国家のためいかがに相成り候も計り難く候間、荷物等は残らず山岡および高橋に預けおき申し候。著述ものは羽州上ノ山城主、松平山城守御守、金子与三郎に預けおき候間、上ノ山官庫に収めおくはずに御座候。すべてかく多端に相成り、何事も細事にかかわりかね候間、死してのち論定まるべく、今に至ってさらに余念これなく候。在京当時高名有志に認めさせ候短冊、扇類一包さし上げ申し候。いずれもたいせつにあそばさるべく候。笹原にしかるべく御礼下さるべく候。
この節、国屋敷にては、この方をいかに思いおられ候や、なにぶん私意撤し申さず、さぞご案じなされ候わん。なれども、かく噂高のうえは虚実ともに一身に相期し、諸人の口はふさぎ難く候。実に在京までの苦辛と在京中の心配、かたがたことごとく申し上げたく候えども、筆紙及ばず、しかし、声名を天下にとどろかす正大の処置につき、いかほど虚説の危難にあい候ても、たちまち相解け申し候。嫉妬讒義のもの天下に満ち候えども、小人どもは、さもあるべく、真の精神君子のものは、ことごとく相結び候間、何事も驚くところこれなく、正気渾然終始如一に相勤め申し候間、いささかもご案じ下さるまじく候。母上にもこの段よろしく仰せ下さるべく候。人間の運も限りあるものゆえ、古今未曾有の次第に相成り候うえは、さらに残るところこれなく候。いよいよ攘夷のことにて私どもも罷り下り候えども、なにぶん太平の余弊にて存分参り申さず候えども、いずくまでも徹底いたし候よう苦心仕り候。在世のうちは、とかく論の定まらぬもの、蓋桶のうえは積年の赤心も天下に明瞭相成り申すべく候間、たとい、いかようの噂これあるとも、けっしてご心配なさるまじく候。母上の御身いかが御座候や、このごろは一向に書状も相見え申さず、これも是非に及ばず候。ただご堅固におしのぎお遊ばされ候わば、大幸これにすぎず候。右早々大乱書、なお時あらば書状さい上ぐべく候。頓首々々
四月十二日 清河八郎正明 斎藤治兵衛様 母公様 時節は、わざと申し上げず候。ただ去年より申し上げ候とおり、ご用心遊ばさるべく候」。
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八郎らが攘夷決行で横浜居留区襲撃を4.15日と決め、諸事万端を整え始めたいた矢先の5.30日(4.13日)、決行の2日前、八郎はこの日に限って護衛をつけずに単身で出かけた。招待されていた郷里の先輩である上山藩士・金子与三郎の家に向かう途中、銭湯に行って身を清め、ふらりと友人の山岡鉄太郎の義兄・高橋泥舟の家に寄り、泥舟の妻・お澪に扇を3典求め歌を書き記している。
「魁て またさきがけん 死出の山 迷いはせまじ皇(すめらぎ)の道」 |
「くだけても またくだけても寄る波は 岩かどをしも 打ちくだくらむ」 |
「君はただ 尽しましませ 臣の道 妹は外なく 君を守らむ」 |
泥舟は、この歌を見て不吉なものを感じ、今日は家を出てはいけないと諭したが、約束を破ってはいけないと言い残し、金子が手配した駕籠に乗って、金子のいる麻布の上山藩邸へと向かった。そこで酒を飲み、午後4時過ぎ、金子のもとを辞した。
麻布一ノ橋(現麻布十番商店街そば)を渡ったところで、前方に立っている人が、「清川先生ではありませんか・・・?」と言って、頭にかぶっていた笠をはずし丁寧にお辞儀をする。それに答えて、八郎が笠をはずそうとしたとき、後ろからやってきた刺客に一刀のもとに切りふせられてしまった。最期の言葉は、「む、無念・・・!!」。享年34歳。刺客は浪士組取締役を務めている講武所剣術方、會津藩士・佐々木只三郎、窪田泉太郎など6名とされている。佐々木只三郎は、八郎暗殺の功により、幕府より京都見廻組のトップに任ぜられ、新撰組と同じく京都の警備に当たることになる。 |
著作編 |
「潜中始末」を著わしており、その冒頭は次のように記述している。
「正明卑賎を顧ず頗る夷狄の縦横せるを患となし、必ず懲に戒めん事を志かけしも、一臀の力及ぶ所にあらざれば、専ら文武豪傑の士を結び、期会の至るをぞ待あるに、官の夷狄を守るおごそかにして、天下有志の士も只もの一片の怒を漏すのみにして身を殺し国家の益することもなかりける」。 |
八郎は著作として「潜中紀略」、「潜中紀事」、「芻蕘論文道篇」、「芻蕘論武道篇」を遺している。 |
余話編 |
「女士道」(山岡英子、1903年)の記述によると、首は石坂周造が取り戻し、山岡英子(山岡鉄舟の妻)が保管し傳通院に葬った後、遺族に渡したという。墓所は東京文京区の伝通院にある。妻の阿蓮(おれん)の墓も寄り添うように立てられた。
清河の死後、幕府は浪士組を新徴組と改名し庄内藩預かりとした。没後45年経った1908(明治41)年、正四位を贈位された。1933(昭和8)年、八郎没後70年にあたるこの年、山形県庄内町に清河神社が建てられ祭神として祀られる。大正15年9月に内務省より神社創設の許可を得て、全国有志の援助により創建された。毎年5月5日(こどもの日)には例大祭が盛大に執り行われ、同日に清河八郎顕彰剣道大会が清川小学校体育館にて開催されている。
1962(昭和37)年、没100年記念記念事業として遺品の収集と保管、そして偉業の顕彰のために清河八郎記念館(山形県庄内町清川)が建てられた。その横に清河神社がある。
2013.9.23日 れんだいこ拝 |
矢野 宣行氏の「ものすごい先生たちー80 ( 清河八郎・一之橋 暗殺一条ー下 )」(「田中河内介・その79(寺田屋事件ー68)」)を参照(ほぼ転載)する。
(山岡鉄舟は清河八郎が 暗殺されたのを知ると、義弟の石坂周造を呼び、八郎が身に付けている同志の連判状と、その首級をとってくるように命じた。その時の状況が「
鉄舟居士の真面目」(圓山牧田編)に次のように記されている)
「文久三年四月十三日の夜。清川八郎氏が赤羽根橋(一之橋が正しい)で殺されし時、その兇報が逸早く居士の許へ達すると、居士直ぐに義弟石坂周造氏(氏は居士夫人の妹婿)を召(よ) び、清川氏が肌身に着けてゐる同志の連判状と、清川氏の首級 とを取って来いと命じられた。そこで石坂氏は宙を飛んで現場へ馳せつけて見ると、幸いに未だ検視の役人は出張せず。町役人等が見張番をして居る所であったので、念の為め、町役人にコハ何人(なにびと)であるかと訊(き) き、町役人が清川八郎なりと答ふるや、石坂氏は突然一刀引抜き、大音声でヤア年来探し居たる不倶戴天の敵(かたき)清川八郎奴(め) と喚(よ) ばゝりつゝ、清川氏の首級(くび) 打落とせば、町役人等驚(おどろき) 慌(あわ) てゝ駆け 寄らんとすると、石坂氏は血刀(ちがたな) 振翳(ふりかざ) しハッタ睨(にら) んで、吾(わが) 仇打(あだうち) の邪魔なさば汝らもまた敵(かたき)の一味、鏖(みなごろ) しにしてくれんと身構へたので、町役人ら震え上って後へ引き退る。その間に素早く清川氏の内懐(うちふところ)より連判状取出し、脱兎の如く夜陰に没して馳せ帰った。而して連判状を居士に手渡しゝ。清川氏の首級(くび)は窃(ひそか)に地中へ埋めて了(しま)った。がもしこの連判状が幕吏の手に入ったならば、何かの罪名の下に、居士を始め同志の者は皆な捕縛され、又清川氏も梟首(さらしくび) を免(まぬが)れなかったのであると」。
連判状を取出した件につき異説もある。 官武通紀には「殺害の節、連名帳を取り上げ、ただちに 御目付へ訴訟仕り候者これ有り」とある。
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清河八郎の首級及び遺骸のその後
八郎の死は 直ちに金子与三郎から神田馬喰町の井筒屋にいる石坂と、小石川鷹匠町の山岡とに知らされた。石坂周造は、すぐ早駕籠で馬喰町の井筒屋を出て一之橋の現場に走った。馬喰町から室町・日本橋・銀座・新橋、そして金杉橋で古川を渡り、右折して古川に沿って 赤羽橋・中之橋、そして一之橋へ、全行程は一里半、石坂は それこそぶっ飛ばした。現場に着いた時には あたりはもうすっかり暗くなっていた。柳沢家の人々が高張提燈の下で、筵で覆われた八郎の死骸を監視しており、そのまわりには人垣ができていた。とっさに奇計を思い付いた石坂は、念の為、監視人にこの人は誰であるかと聞き、清河八郎であると答えるや、彼らの見守る中で「これは わが不倶戴天の仇である。我にも一刀を報いさせて貰いたい」と刀抜いて清河の首をすばやく斬り取ると、八郎の着ていた魚子(ななこ)の羽織にその首を包んだ。監視人達は呆気にとられて見ているだけであったという。そこに和田理一郎、藤本昇ら十数人の同志も走りついたので、首を持って一目散に駈け出し、人ごみの中に姿を消した。このようにして山岡鉄舟宅に八郎の首は持ち帰られた。
山岡は 首を酒樽につめて夜半に自宅の床下に埋めたが、夏になって悪臭がし始めたので、山岡・石坂両人は密かに庭の隅のグミの下を五尺ばかり掘下げてその首を埋め直した。その後山岡鉄舟が、親交ある伝通院の側寺である処静院住職琳瑞和尚の協力によって秘密裏に之を伝通院境内に葬った。そして山岡は私費で八郎の墓を建て、その側に前年獄死したお蓮の墓をも建ててやった。一は
「清河正明之墓」、一は 「貞女阿蓮之墓」の二基の石碑で、共に山岡鉄舟の筆である。
その後、明治二年、斎藤家 (八郎の弟熊三郎による)では、郷里清川村の歓喜寺に分骨して別に墓を建てた。「正秀院殿忠正明居士」がその法号である。
一方、八郎の遺骸の方は久しくその行方が判らなかった。八郎の弟熊三郎は八郎の一味と見られていたので、八郎暗殺後すぐ捕えられて入牢していたが、明治二年に出獄した。出獄後直に藩吏の手を経て遺骸の所在を舊幕府の役人に尋ねたけれど不明であった。ところが明治四十五年、図らずもその遺骸の存在場所が判明した。それはこの年四月十四日、浅草伝法院で正四位を追贈された八郎の五十年祭を営んだ時、祭典に列座した一老人の談話により判明したのである。その老人は 麻布霞町の柴田吉五郎で、十一歳のときに八郎暗殺の現場を見た一人であった。その時には、遭難者の首は未だついていたとのことである。幾月か経って吉五郎は、遭難者が清河八郎という偉い人であるという事、並びに屍骸は柳沢家の手で麻布宮村町正念寺に葬られたという事を聞き知った。その後、正念寺は明治二十六年十月に廃寺となり、その寺籍は同町長玄寺に合併された。その時に柴田老人は檀家総代として万事を処理し、無縁の白骨凡そ三万を、下渋谷羽根沢の汲江寺に移葬して無縁塚を建てた。八郎の遺骨もその一部分となっているので、この話を聴くや否や、八郎の遺族斉藤治兵衛は、四月二十日に汲江寺を訪れ、その塚の土を掘って甕に納め、之を伝通院境内の墓石の下に葬った。( 「清河八郎」大川周明著による)
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幕府は何のために清河八郎を暗殺したのか
清河八郎の掌中にある浪士組に、幕府を無視して、朝廷から 攘夷の勅諚が下ったことが最大の要因である。幕府は、和宮降嫁を願う条件として攘夷を行うことを朝廷に確約していたが、そもそも幕府には攘夷をやる気など当初より毛頭なかった。それに清河八郎は朝廷より直接攘夷の勅諚を賜っているのであるから、極端を考えれば、幕府と無関係に独立独行で攘夷を行うこともできる。しかも当時の攘夷は討幕と極めて近い関係にあった。清河八郎は文久三年四月十五日を期して五百の浪士を動員し、横浜を襲撃して外国人を斬殺し、甲府を本拠として討幕の義兵を挙げる計画を進めている。幕府にとって清河八郎の存在は最早許されるものではない。これが暗殺の主因である。次に小栗上野介が、偽浪士を使って江戸市中を騒がせ、悪名を清河八郎並びに浪士に負わせようと画策した事が却って裏目に出て、清河や浪士組に対して申し開きができなくなった事も多少の要因になったかも知れないが、主因は何と言っても勅諚問題そのものにあった。
もし清河八郎が幕府の詭計に斃されなかったならば、彼は浪士組を率いて幕府と衝突し、寺田屋事件で一蹶した京都挙兵のやり直しを、さらに一層大きな規模で展開し、維新史上に著大の事件を仕遂げたことであろう。その意味でも、一人の人間の死により、幕末の歴史が大きく変ってしまったと言っても過言ではない。清河八郎とはそれ程の人物であった。 |
金子与三郎の事
八郎は予てより 金子とは別懇の間柄であった。金子は、学問も気力も共に抜群の士であったから、八郎はこのような金子に何事も打明けて相談していた。但し山岡は八郎が余りに金子を信用するのを警戒していた。浪士組の一人であった草野剛三、即ち中村維隆の自伝にも、山岡が八郎に向って、金子の招宴に応ぜぬよう忠告したと書いている。――-
『鉄太郎及び浪士の領袖等これを聞き、曰く近時幕吏の状を窺うに、挙止の疑うべき住々あり。且つ与三郎なる者は、水野閣老の文学教授の職に在りて信任せらる。卿彼と断金の交あるも、彼の反覆測り難し。君子は危きに近づかず、殊に積年の宿志を達するに近きに在る吾人は、進退動止最も持重(じちょう)
せざるべからず。卿が今日の行、甚だ之を危ぶむ。願わくは之を謝絶せよと、蝶々勧告するも聴かず。然らば同志二三を同行すべしと。亦肯んぜず』と。
山岡及び友人のこの忠告は、遭難当日の事でなく、恐らく数日以前に金子からの招待を話した時のことであろう。而して 諸友の心配は 不幸にも 事実となったのである。(
「清河八郎」大川周明 著 )
金子が八郎の謀殺に与っていた第一の証拠は、上山藩士増戸武兵衛の談話(史談会速記禄 第百四十四輯(しゅう) 掲載)で明らかである。これは清河八郎伝には貴重な資料であるが、長くなるので、その紹介は
ここでは省略する。要するに金子が八郎の暗殺に関与していた事は、間違いが無いという事を、数例の事実を挙げて延べているのである。
また八郎が暗殺された 二三日後、八郎の弟斎藤熊三郎が、清河八郎が金子に預けて置いた著述物を 金子宅に受け取りに行った。その直話によれば、金子に会ったら兄の仇を討つ積りで、決死の覚悟を抱いて出かけた。金子宅に着いて名を通じると、暫く待たせた上で客間に案内された。入ると
金子の左右には壮士数名が並んで守護している。そんな訳で刀を抜くこともできず、只著述物の入っている行李だけを受け取り、無念の涙を呑んで帰ったという。
蓋(けだ) し金子は、たとえ 勤王攘夷の志はあったとしても、断じて討幕の精神はない。彼は八郎に討幕の志があるのを知り、且つ攘夷決行の企図を打明けられ、幕府のために説得されて謀殺に加わったものらしい。当時の人も皆金子が関係しているものと
信じて疑わなかった。( 「清河八郎」大川周明著)
清河八郎には日記類も含め著作が大変多い。ともあれこれらが無事に後世に伝えられたことは不幸中の幸であった。これにより 現在我々は、清河八郎その人の人となり、および
幕末史の重要な一部分をかなり明確に知る事ができるのである。つづく次回 |
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「8月某日 庄内(1)(石原莞爾、阿部次郎、清河八郎、土門拳、西郷隆盛、藤沢周平、森敦『月山』)」(2009年8月19日 )を転載しておく。
「同じ庄内町の、清河八郎記念館。清河八郎を祀った清河神社の境内。初代館長は藤沢周平の小学校での恩師だった人で、宮司も兼務していたという。清河の生涯を紹介する展示のほか、神社に奉納された山岡鉄舟の書「漸近自然」、高橋泥舟の書「仙世界」、頭山満の書「尊皇攘夷」などもあった。受付にいたおばさんが色々と説明してくれた。清河の生家である斎藤家は素封家だが、農地解放で土地を失い、一族はみな東京へ行ってしまって、ここ清河の地に縁者はいないという。清河の妹の孫にあたる斎藤清明という人が東京帝国大学で大川周明の同級生だったが、若くして病死。この人は自分で清河八郎の評伝を書くつもりで史料を集めていたが、志はかなわず、その史料を預かった大川が清河の評伝を書き上げた。大川は巣鴨プリズンを出獄後、帰郷のたびに正装して清河神社に参拝していたという。なお、藤沢周平も、恩師の集めた史料をもとに清河を主人公とした歴史小説『回天の門』(文春文庫)を書き上げている。また、斎藤清明の妹(つまり、清河の妹の孫娘)は柴田錬三郎の夫人。年上の姉さん女房、神田で古本屋を経営し、まだ学生だった柴錬と結婚、彼を作家として育て上げた。自由奔放な女傑タイプで、雰囲気として岡本かの子に似ていたという。気性の激しさはやはり清河八郎の血筋なんでしょうかね、と記念館のおばさんは語ってくれた」。 |
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「勤皇唱始 清河八郎先生」(2012年 03月 09日)を転載しておく。
●正三位。学習院教授・海軍中将・佐藤鉄太郎氏、大正十年天長佳節に曰く、『天道是非の嘆あるは、眼前の成敗を以て、天意を忖度するの致すところにして、因果応報の天則は厳として常に明らかなり。東北諸藩たるもの必ずや、自ら省みて首肯するところあるべきなり。而して、この時に際し(※明治御宇の初頭)最後まで王師に抗して屈せざりし庄内が、当然厳峻なる制裁を加へられるべきに反し、最も寛大なる処分を受けて、帰順の途に出づることを得たるは、一に、至仁至慈なる天恩の致すところなりとはいへ、抑もまた、之が因をなすものありて存するにあらざるなきを得んや。惟ふに、庄内の山河は実に勤王の先駆者たる清河八郎を生めり。先生、志を当世に得ずして、常に白刃、身に薄るの危地に出入し、東潛西走、造次顛沛、安んずるのところなく、不幸終に刺客の毒刃に斃れ、恨を呑んで雄図空しく画餠に帰せり。人生の慘事、何物かこれに加んや。焉んぞ知らむ。天の庄内に酬るに、天朝の寛宏なる恩典を以てしたる所以のもの。実に、先生の孤忠を憐み、功を録して徳に、その郷里に報じたまへるにあらざるなきを』(大正十年天長佳節)と。(※は野生による)
●矧川志賀重昴氏、明治四十五年四月十四日、「正四位 清河八郎先生 五十年祭」(於淺草伝法院)に於て、祭壇下に立ちて述ぶるに、『勤王論の提唱は、世人は薩長の専売特許の如くに思ふが、焉んぞ知らむ。ずつとゞゝゝその以前に、而かも眞木和泉守と談じ、平野國臣、伊牟田眞風等を清河先生が頤使して薩藩に遊説せしむるに至つたのである』と。こは、いささか清河先生を見上げたものとして、他の先生を見下げた言辞であらう。清河八郎先生による『潜中始末』には、真木紫灘先生と対面した樣子が記されてゐる。曰く、『下村より水田まで八里のところ夜分に入りて相達す。水田と申すは天満宮の鎭守處にて太宰府に続きたる九州第二天満宮なり。則和泉守は、直弟大鳥井敬太方に蟄居せり。別に小一室を構へて、一切人に会するを得ず。しかし近来は少しづゝ遊歴者などにも稀に会すると云ふ。(中略)
思ひ寄らぬ尊客とて、これまでありし事ども御互いに相話し、自ら食物を製して、遠路を労はる。如何樣人の信ずる程のある人物なれば、我も信の知己の如くに思はれ、西来の次第、その外とも別意なく相談す』とあるところをみれば、言辞は、畢竟、五十年祭に用意されたものであることが判る。とは云へ、過分となつた上下を足して半分で割つても、清河先生のその行動力と影響力、少々ならぬものであつたことが容易に識らされるのである。
清河八郎正明先生とは。毎度の如く、徳富猪一郎翁の『近世日本國民史』から引用することを試みたい。
●蘇峰徳富猪一郎翁『近世日本国民史 第四十六卷 ~文久大勢一変 上篇~』(昭和九年七月卅日『民友社』発行)に曰く、『そもそも浪人有志の中にて、尤も較著なる働きを做したるは清河八郎、田中河内介を挙げねばならぬ。その中にも、清河の運動を以て最も效果的とせねばならぬ。清河八郎は天保十年、羽前國東田川郡清川村に生る。本名は齋藤元司。自から地名によりて清河八郎と称した。少にして不羈、弘化四年十八歳のとき、家を脱して江戸に赴き、東条一堂に学ぶ。而して同門の士、安積五郎と相得、兄弟の義を結ぶ。嘉永元年、東海道を經て京都に赴き、闕を拜し、勤王の志を起し、大阪、岡山、広島等を巡遊し、帰途は高野、奈良、山田等を経て、その見聞を広め、その志気を養うた。(中略)』、『九州の有志をして、決然として起たしめたるには、清河八郎の遊説の功、與りて最も大であつた。清河は当時の志士中にて、剣客であると同時に学者でもあつた。(中略) 彼は有馬新七、もしくは眞木保臣の如き主義の人と云ふよりも、むしろ戦国時代の縱横、傾危の士と云ふべき類にして、彼の志は尊皇よりも攘夷が主であつた。彼はもとよりその目的の為には手段などを頓著する漢ではなかつた。而してその言行を見れば、誇大妄想狂者とも猜せらるゝ点がないでもなかつたが、然も亦た決して非常識漢ではなかつた。彼の意見は、九州の義士を募り、薩藩の力に頼りて、京畿に義旗を掲げ、主上を擁して、攘夷を断行するにあつた』と。
蘇峰翁も、誇大妄想狂者とは、これまた辛口であるが、されど、かく欠点をして若しも値引きされたとしても、如上の如き称賛は清河先生の非凡たるを聊かも損なふものではない。寧ろ、これに華を添へるものである。それにしても、上記の言にはいさゝか補足が要せられねばならない。清河八郎先生は、「尊皇より攘夷」ではなく、時勢の趨くところ、清河先生の攘夷の炎が余りにも激甚を極はめたるが故に、かく見えたるに過ぎない。つまり、尊皇の志逞しくあるが為の攘夷だ。孝明帝の御心を奉戴したるが為の必着すべき「攘夷」であつた。清河先生の、文久二年四月八日に御両親に認めたる書翰によつて野生はかく観じるに至ることができる。
○清河先生、書翰に記すに、『今や夷狄、その外を侵す、幕府之を征する能はず。而して屡ば詔旨に違ふ矣。是に於て乎、天下士民始めて王権の衰廃を憂ふ。皆な徳川氏に背き、皇室を戴くの心あり。此乃天のこの際会を生ずる、誠に偶然ならざる也。陛下、善くこの際会に乗じ、赫然として奮怒せば、数百年頽廃の大権、復興す可き也。百姓数百年の罪、複謝す可き也』と。この書翰はいわゆる「寺田屋事變」(文久二年四月廿三日)の約二週間前のもの。つまり世情も事態も切迫してゐた頃だ。よし清河先生がたとひ妄想狂患者であつたとしても、誰れしも感ずることなくんば能はぬ張り詰めたこの空氣の中で、覚悟した士の言に不実はあるまい。島津久光公上京に伴ひ計企された義挙は、からくも潛伏先の大阪薩摩藩邸内で齟齬が生じ、清河先生は離別。為に寺田屋事件の遭難を免れたが、その後も油然として尊皇攘夷の大旆を掲げるに至る。
●蘇峰 徳富猪一郎翁『近世日本國民史 第五十二卷 ~文久元治の時局~』(昭和十一年八月十日『民友社』発行)に曰く、『清河八郎は、何れかと云へば創業の才の勝ちたる漢であつた。九州を遊説して、九州の志士を蹶起せしめ、之を驅りて上国に来り集らしたるも、専ら清河及び田中河内介らの力であつた。されば相当の順序から云へば、寺田屋事変には、彼は当然参加すべき一人であつたが、その以前に彼は仲間離れをして、却てその為にその厄難を免かれた。彼は決して難を避くる怯夫ではなかつた』と。
野生は、清河八郎先生を敬慕する余り、これを過分に宣伝するでない。また浅識を趣味的にひけらかすつもりでもない。もとより清河先生を山師や絵図師、將た又た妄想狂患者と看做すが限界の、「勤皇」なんたるかを解し得ぬ人に向うて当てつけるでもない。野生が清河先生から学ばむとする、それ、尊皇が観念上に止らず、つひに勅許なき日米修好通商条約調印、和宮親子内親王御降嫁の問題が尊皇志士を奮ひ立たせ、つまり尊皇が観念から実行に及び、畢竟、勤皇へと移行した時代にあつて、その時代に躍動した一人、清河先生の赤心と勇氣、行動と覚悟を学ばんとするものである。時代が人をつくるのか、人が時代をつくるのか、野生には何とも答へることができない。されど、時代の変節に於て、傑物が要せられるべきは答ふるまでもない。
さて。尊皇から勤皇へと異動せらる次の時機到來は果たしていつなのだらう。その到来に、吾人が備へておく可きは何であるか。今日記したる日乘は、今月四日の記事からからうじて一筋の繋がりを持たせてゐるつもりである。野生はなほ、清河先生について少しく記すべきところがあらねばならぬ。野生の筆力乏しきが為、文章の前後不覚については諒せられ給へ。乞ふ不明及び不足な点は、書肆で入手する能ふ御本によつて之を充足せられむことを。
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大川周明博士の「清河八郎」伝は、相当読まれたものらしい。その跋文に、安岡正篤が、「兄は、正明と郷土を同じうし、又実に風神を同じうして居る。若し大正維新を思うて、正明を求めるならば、兄を看るのが一番である。私は唯深く兄の不慮を免れんことを心窃(ひそ)かに祈っている」と書いている。
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