勝海舟の履歴

 (最新見直し2013.10.21日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、勝海舟の履歴について確認しておく。


【勝海舟の履歴】
 「」の「」を転載しておく。
 横井小楠は、勝海舟の海軍増強の理論的支柱。政治総裁職松平春獄の賓師である横井小楠と、軍艦奉行等を歴任した海舟は、親しく交際している。小楠は、「国是七条」で、松平春獄を通じ幕府に海軍の増強を建議している。また、越前藩の、海舟に対する資金援助の斡旋も行った。海舟の海軍増強の最大の理解者であり、理論の支柱でもあった。海舟は、小楠の最初の印象を「横井小楠のことは、尾張のある人からきいていたが、長崎ではじめに会った時から、途方もない聡明な人だと心中おおいに敬服した。おれが米国から帰った時に、彼が米国の事情を聞くから、いろいろ説明してやったら、一を聞いて十を知るというふうで、たちまち彼の国の事情について精通してしまったよ」。

 海舟は、福沢諭吉らと万延元年(1860)に咸臨丸にて米国へ渡った。このとき、初代大統領ワシントンの子孫がどのような暮らしをしているかを、アメリカ人はだれも関心を持つていないのを不思議に思っている。また、海舟は「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲だ」と述べている。妹婿佐久間象山との比較では、「横井はなんの変った節もなく、人柄もしごく老成円熟していて、人と議論などするようなやぼは、けっしてやらなかったが、佐久間の方はまるで反対で、いかにもおれは天下の師だというように厳然とかまえこんで、どうにも始末におえなかった」と、妹婿より小楠に好意を持っていた。

幕末・維新

勝海舟の人物像に迫る! 江戸っ子幕臣のべらんめぇ生涯77年まとめ

幕末舞台のドラマや漫画では、必ず重要な局面で登場する男・勝海舟――。

坂本龍馬西郷隆盛に大きな影響を与えながらも、幕府に仕える幕臣という異色な存在が魅力的なのでしょう。

では、彼の生い立ちなどをご存知ですか?

明治維新後はどうしていたの?

なんて尋ねられると、案外、答えにくいフシギな一面も持っている――。

そんな“勝海舟の一生”を追ってみましょう。

※名前は勝海舟で統一

 

両国生まれの江戸っ子・勝

勝海舟といえば、べらんめえ口調で喋る、江戸っ子という印象があります。

実際、生まれは、江戸情緒の濃い両国(現在の東京都墨田区亀沢)。

文政6年(1823年)に生誕しております。西郷隆盛が1827年生まれですから4つ年上になりますね。

父は旗本の勝小吉で、母はお信。

小吉はもともと、旗本・男谷彦四郎の三男で、勝家に養子入りしたのでした。

※なお、勝が生まれた場所は、男谷彦四郎邸。つまりお祖父ちゃんの家になります

勝家は、将軍に御目見得できる“旗本”の身分とはいえ、知行はわずか41石でした。

ほとんど御家人(将軍の御目見得はムリ)に近い存在で、父の小吉も就ける職はなく、細々とした暮らしを送っています。

ただ、博徒や侠客とも親しくつきあいがあり、顔の利く男でして。

息子の勝も、自然と火消したちとは昵懇の間柄となりました。父の代(あるいはそれ以前)からの人脈だったのでしょう。

勝は7才まで男谷家で過ごし、のちに赤坂に引っ越します。

少年時代の逸話といえば、9才の時に狂犬病の野犬に睾丸を噛まれて、片方を失ったというもの。

彼はそのせいで二ヶ月以上寝込んだそうですが、狂犬病ならば、その程度で済んで幸運だったでしょう。

つまり江戸の無血開城の話し合いをゴシップ的に捉えると、

「睾丸肥大の西郷と、睾丸が一つしか無い勝の会談」

だったわけでもあります。

西郷の睾丸肥大化と狂犬病については、歴女医・馬渕まり先生の記事に詳しくありますので、そちらをご参照ください。

なお、睾丸というのは片方なくなっても案外平気なものです。

勝は多数の妾を囲い、使用人にも手を出しました。しかも平然と妻妾との同居をしていたのです。

そのため妻子からは、大層あきれられております。

この怪我の後遺症があるとすれば、生涯を通して犬嫌いとなったことでしょう。

勝海舟/wikipediaより引用

 

3千ページの辞書『ドゥーフ・ハルマ』を2部写す

成長した勝は、幕臣の子らしく剣術修行に励みます。

直心影流の免許皆伝で、山鹿流も習得。

しかし、勝は性格的に血なまぐさい場面が大嫌いで、それよりも勉学について才能を発揮するようになります。

オランダ語の習得は、天保13年(1842年)に開始し、翌年には文章を書けるまでになりました。

妻・たみと結婚した翌年の弘化3年(1846年)には、本所から赤坂田町に移り、このころからますます蘭学の修得に打ち込みます。

勝は、3,000ページもある蘭和対訳辞書『ドゥーフ・ハルマ』を筆写しました。

この辞書は蘭学を学ぶ者にとってマストバイな一冊ですが、幕府は出版を禁じていたのです。

貧しい勝には、筆写本すら手が出ません。

そこで勝は、損料(レンタル料)10両を支払い、筆写本を借りました。

『ドゥーフ・ハルマ』/Wikipediaより引用

そして弘化4年(1847年)から一年間、寝る間も惜しんで2部の写し作業を完了。

一部は売り払ってレンタル料にあて、一部は手元に置いたわけです。

この過程で、いかほどオランダ語の勉強に繋がったか。

ハイスペックな頭脳のほどが現代の我々にもわかりましょう。

 

阿片戦争後、危機感を抱く勝

当時、知識人たちは社会情勢に強い危機感を抱いていました。

日本よりはるかに大きな清国が、阿片戦争でイギリスに敗北していたからです。

アヘン戦争/Wikipediaより引用

勝は考えました。

「これからは蘭学と軍学で、この国を強くしなきゃいけねぇ」

阿片戦争から10年。
嘉永3年(1850年)に、勝は蘭学と兵学の塾を開きました。

この時点で、黒船来航、3年前のこと。彼の名声は高まり、入塾者はどんどん増えてゆきます。

「勝先生、これからは火縄銃というわけにはいかんでしょう。ひとつ、小銃や大砲を作ってみてはくれませんか」

そんな依頼をする藩もあったそうです。

実は黒船来航を待つまでもなく、日本国内は外圧を控えて沸騰していました。

「講義ならいくらでもできるが、大砲を作るとなるたぁ……」

勝はオランダの書物を見ながら設計図を引き、鍛冶屋や鋳物師に頼んで、作ることにしました。

「勝先生は、大砲こしらえてたんまり金儲けているらしいぜ」

そんな噂が立ちましたが、実際は逆。

なんせ初めてのことですから、試行錯誤を繰り返してともかく金がかさみます。評判の塾を経営しているとはいえ、収入は常にカツカツでした。

鋳物師が手抜きをしようと賄賂を持って来ても、勝は断固として断りました。

そんなこともあって勝の名声は広まっていたようです。

黒船来航以前に、もし西洋から船が来航したらどうすべきか、書物に書いてまとめていました。

その先進性――常に一歩先をゆく男でした。

 

黒船来航後、老中・阿部に見いだされる

嘉永6年(1853年)、ついに幕府が恐れていた事態がやってきます。

黒船の来航です。

時の老中・阿部正弘は、慣例を破り、譜代大名と幕臣以外の外様大名を含め、様々な層に意見を求めました。

幕臣も、幕府に上書を出すことができるようになったのです。

こうした上書は実に700にのぼり、しかしその大半が役に立たないものばかり。

根性論で「攘夷をしてしまえ」みたいなものもたくさんあるわけです。

そんな中、蘭学と軍学を学んだ勝の上書は、後の明治政府の方針にもつながるような構想であり、各方面から注目を集めました。

具体的には以下のようなものです。

・将軍の御前で外交・内政の討論をする

・軍艦をつくるとともに、貿易を行う

・敵が上陸した際の、江戸防衛計画

・西洋式軍隊に改め、教練学校を作る

・火薬製造に必要な資源を調達する方法

阿部正弘もまた有能で知られた人物。

有事にあたり、幕政改革に取り組むには、身分にとらわれない有能な人材の登用に真剣でした。

上書も素晴らしく、経営していた塾も既に評判だった勝。

目付・海防掛の大久保一翁(忠寛)も、強く推しています。

大久保一翁/Wikipediaより引用

安政2年(1855年)、勝は異国応接掛附蘭書翻訳御用に抜擢されます。

貧しい旗本の子に過ぎなかった男は、かくして幕政に参加できるようになっていくのでした。

幕末・維新

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長崎海軍伝習所

いざ幕政に参画すれば、それこそフル回転で仕事をせねばなりません。

まずは幕府の提案を受け、自前の海軍が必要だと考えていた勝は、安政2年(1855年)に【長崎海軍伝習所】を創設します。

長崎海軍伝習所絵図/wikipediaより引用

そして3年間にわたり、長崎に滞在。

この間、島津斉彬にも拝謁しており、薩摩藩とのつながりができたのです。西郷との縁は、すでに始まっていたんですね。

さらには薩摩藩士であり、大阪の商業を発展させた五代友厚も、長崎海軍伝習所で学んでいます。

一方、勝不在の江戸は、激動の時を迎えていました。

阿部正弘が急死してしまい、幕政は将軍継嗣問題で一橋派と南紀派に分かれ、争いが起こったのです。

ここがなんともややこしいのですが、両派ともに「開国派&攘夷派」が入り混じっておりまして、例えば一橋派は、ゴリゴリの攘夷論者・徳川斉昭の子である慶喜を立てていました。

その中に、開明的な島津斉彬や、阿部が引き立てた幕臣も含まれているのです。

一方、南紀派の井伊直弼は、一橋派を処断するための【安政の大獄】を起こします。

と、時代はそれだけに飽き足らず、その井伊も、勝が渡米中に【桜田門外の変】で暗殺。

もしも勝が江戸にいたら、こうした争乱に巻き込まれてしまっていたかもしれません。

 

咸臨丸で、アメリカへ

安政6年(1859年)。
勝は築地の軍艦操練所の教授方頭取となり、江戸に戻ります。

幕府は、日米修好通商条約締結に伴う使節団を、翌1860年にアメリカへ派遣することになりました。

使節はポーハタン号と咸臨丸で出発し、勝は咸臨丸に乗っていました(通訳には、あのジョン万次郎が選ばれております)。

咸臨丸/wikipediaより引用

「勝は船酔いで役に立たなかった」とされています。

確かにその通りであり、指揮権をアメリカ海軍のブルック大尉に委譲してしまったほどでした。

さらにストレスがたまったせいか同船していた人とトラブルを起こしてしまい、マイナス評価となったようです。

知識としては知っていても、実際に海外に行ったことはなかった勝。

初めて海外の土を踏み、様々な知識を得ることができました。

しかし、船酔い体質が海軍には不適切とされたのか、帰国後は海軍から教育方面に転属されてしまうのです。

勝は、蕃書調所、洋学長所、開成所に配属され、教育畑となりました。

攘夷熱が高まり、無謀な行為に出る者もいる一方、江戸ではこうした西洋の語学や技術を学ぶ場所に、各藩が俊英を送り込んでいました。

明治政府に先んじて、幕府は欧化政策を打ち出していたわけです。

実はこのころ最も先進的だったのは、開明派の各藩などではなく、幕府でした。

 

インフルエンサー勝海舟

明治維新に至るまで、揺れる幕府の中、勝は政治状況に左右されました。

能力は抜群で疑いようはありません。

しかし、政治のメインステージは今や京都。

朝廷、徳川家、薩摩藩、長州藩、会津藩……様々な勢力によるパワーゲームに、勝が入り込む隙間はないわけです。

鉄火肌な性格や、あふれんばかりの才気が災いしたのか。たいした役割を果たせませんでした。

勝は賢い人物ではあります。

ただし、政治闘争を舞台に渡り合うタイプではありません。

幕末史というのは、先見性のある人物が旧弊にこり固まった政権を倒したものとは言えません。

政治闘争で強い者が勝つ。そういう性格のものでした。勝に出番はないわけです。

むしろ勝の場合、有為の人材に影響を与えたことが大きいと言えます。

西郷隆盛が主人公でも、坂本竜馬が主人公でも、勝は重要な人物として登場します。

ゆえに、勝の実績というのは測定できない部分があります。

人の行動に影響を与えたことは確かでも、それがどれだけなのかは状況から推察するほかないからです。

勝海舟/wikipediaより引用

 

将軍様が逃げて来た

慶長4年(1868年)一月。
勝は、氷川の自宅でゴロゴロしていました。

このころ名目的に軍艦奉行ではありましたが、実際には閑職だったのです。

するとそこに、突然、登城せよとの連絡が届きます。

「何言ってんでぇ、俺ぁいかねえよ」

まさか鳥羽伏見で徳川慶喜が大敗しているとは知らなかったのです。

しかし、いざ将軍様のお呼び出しと知って、慌てて浜離宮へ。

そこには、開陽丸で江戸へ逃げ帰った慶喜らがいました。

開陽丸/Wikipediaより引用

そこで、コトの顛末を聞いた勝は激怒。

なぜ尻尾を巻いて帰って来たんですか! とズケズケと慶喜に迫ります。

「こっちにゃあ、無傷の海軍がまるまる残ってます。城で持ちこたえてくれりゃあ、軍艦で駆けつけられたもんを」

慶喜としてはそういう問題ではなく、要するに朝敵になりたくなかったわけです。

しかし多くの人が慶喜の行動にはあきれ果てていました。

ここで慶喜は、叱り飛ばす勝に頭を下げ、「これからは頼れるのはそち一人である」と言うわけです。

主君にここまで言われたら、引っ込んではいられません。勝、全力の戦いが始まります。

慶喜の気持ちとしては、複雑です。

戦えば勝てると主張する者もいる。

一方で、西軍は慶喜を殺す気でいると息巻いているという情報も届く……。

そんな中、勝が陸軍総裁に任命され、幕府のトップに立たせられるわけです。

慶喜はもはや恭順の意志を固め、徹底抗戦派の松平容保らの進言を拒否し、登城停止処分に。

自らは上野寛永寺大慈院に入り、蟄居恭順の姿勢を見せました。

おさまらない徹底抗戦派に付け狙われたりしながら、勝は慶喜の意見を尊重して、胃がキリキリするような状況で奔走します。

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「トコトンヤレナ♪」と攻めて来る

一方西軍は「トコトンヤレナ♪」という歌を歌いながら、慶喜を倒す気満々で進軍してきます。

しかも年貢を半減すると掲げているものですから、庶民も大歓迎。

各地の藩も簡単に寝返り、物資すら提供している有り様です。

 

薩摩の若きリーダー・西郷隆盛もやる気まんまん。

既に配下の赤報隊らを暗躍させて、江戸で強盗、殺人、放火、略奪、暴行といったテロを行わせ、攪乱挑発をしているわけです。

この状況をひっくり返すにはどうすればよいのか。

勝はいざというときの秘策として「焦土作戦」を考えていました。

脳裏にあったのは、1812年のロシア戦役。

モスクワを焼き払い、侵攻してきたナポレオン軍に大打撃を与えた作戦です。

あの作戦が大打撃を与えたのは、ロシアの寒冷な気候も要素の一つとしてはあると思います。

それはともかくとして、勝は駕籠に乗って自ら出向き新門辰五郎火消し、侠客、そんな人々に協力を依頼していました。

「勝麟さん、任してくだせえ。あっしは火消し長えことやってますから、どこに火ぃつけりゃ燃えるか、わかってますんで」

火消したちは乗り気でした。

その一方で、もう西郷と話を付けたという内容の高札を立てて、江戸の人々をとりあえず落ち着かせます。

さあ、あとは西郷との談判です。

 

江戸開城

3月13日、薩摩藩下屋敷で第一回の勝・西郷会談が行われました。

これは顔合わせのようなもので、実は勝も前もって自身の決意を西郷に送っています。

派遣されたのは、武芸の達人として知られた山岡鉄舟

戦争は避けたいが、もし避けられないとなれば、たとえ自分一人だろうととことん戦うつもりです、と。

西郷隆盛と勝海舟の会見が行われた薩摩藩蔵屋敷跡/Wikipediaより引用

そして14日、いよいよ本格的な交渉が始まりました。

徳川慶喜は隠居し、故郷の水戸で謹慎します(処刑しない)

・城の受け渡し後は、即刻田安家に返還してください

・軍艦・武器はまとめて、寛典の処分が下された後に差し渡します

・城内に住んでいる家臣は、城に出て別の場所に移り、謹慎します

・慶喜の暴挙を助けた者たちには、どうか寛大な処分を下し、助命してください

・暴発の士民に関しましては、鎮定に可能な限り努力します

勝の第一目標は、何が何でも主君である徳川慶喜を殺さないこと。

戦国時代は、城の主が切腹することで配下の者たちの助命嘆願をするような場面がありましたが、徳川の世ではそういうことはありえないのです。

主君の首を渡すのは、武士にとって最低の屈辱なのです。

会津若松城で絶望的な籠城戦が行われたのも、松平容保の首が要求されたためです。

「トップがさっさと腹を切っておさめろ!」ということには、幕末の武士は絶対にならないのです。

とりあえず、両者で話はまとまりました。

しかし、ここで終わりとは行きません。

西郷は、3月15日、会談で得た結果を告げるため京都へ出立。

勝もまだまだ、やることがあります。

 

将軍様の命を守れ!

勝手に徳川三百年を終わらせやがって!

そう憤り、勝の命を狙う者がうようよしている最中、勝はイギリス人のアーネスト・サトウハリー・パークスらとも会見し、ことの顛末を報告しました。

当時のイギリスは、生麦事件薩英戦争を経て、薩摩藩のよきパートナーでした。

そんなイギリスの代表であるハリー・パークスは、はじめは勝によい印象を持っていませんでした。

それが、勝と腹を合って会談して、態度を改めます。

彼らはすっかり意気投合。慶喜がもしも処刑されそうな雲行きになったら、イギリスに亡命させる計画まで出たとか。

パークスは、勝から慶喜の助命を嘆願されたのでしょう。

このあとパークスは、薩摩藩に圧力をかけます。

「もしも、慶喜公を処刑するようなことをしたら、ヨーロッパ諸国はその非を批判することでしょう。それは新政府によって得策ではありません」

西郷には、既に慶喜を処刑する気は失せておりましたが、ここまでイギリスから言われのですから、まったくそんな気はなくなりました。

どうですか、この勝の行動力。

無血開城だけではなく、主君の慶喜を守るために東奔西走しているわけです。

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コレデオシマイ

さて、そのあと勝はどうなったか。

実は静岡藩士となりました。

慶喜が駿府に向かったとき、ついていった幕臣たちは、静岡藩士になったわけです。

一方、生活がたちゆかなくなり、自死を選ぶ者も少なくありません。

その後の勝は、ごく短期間、明治政府に登用されますが、政府のやり方に反発してすぐ辞めてしまいます。

名誉職には就いていますが、実質的な権力はありませんでした。

短気で鉄火肌の江戸っ子らしさがある勝は、人間関係では揉めやすいところがあります。西郷のように気が合えばよいのですが、合わない人間とはとことん合わない。

しかし、そうした性格だけが問題とも言えないわけで。

ともかく、勝の目には、明治政府のやり方が、とてつもなくくだらないことに思えて仕方なかったのです。

たとえば鹿鳴館の舞踏会。

勝のような粋な江戸っ子にとっては、無粋な田舎者の寄せ集めにしか見えず、江戸の情緒を破壊して、西洋の真似をしているように思えるわけです。

西郷が西南戦争を起こして散り。大久保もまた、暗殺され……。

「一体何をやっているんでぇ」

勝の舌鋒鋭い政府批判は、留まるところを知りません。

そんな勝の話をまとめたのが『氷川清話』です。

歯に衣を着せない言い回しで、当時の時局をズバズバと斬っています。

ただし勝は「信頼できない語り手」でして、この『氷川清話』は大変おもしろいものではありますが、誇張や記憶違いも含まれていますので、注意が必要です。

一方、彼が完全に明治政府を見限っていたとも言い切れない部分もあります。

ご意見番として意見を求められたらちゃんと答えを返しましたし、名誉職とはいえ政府から給料も出ていたわけです。

「三百年の徳川幕府をあっさりと敵に売り渡し、二君に仕えるとは。勝というのは傑物かもしれんが、武士の風上にも置けぬ人物だ」

同じく幕臣であった福沢諭吉はそう考え、勝のことを嫌っていました。

多くの幕臣が困窮する中、勝は悠々自適の人生を続けました。

天璋院篤姫と屋形船で遊び、昔話を語り合うこともあったそうです。

そして明治32年(1899年)。

勝は脳出血で倒れ、ブランデーを死に水かわりに口に含ませられて死去。享年77。

最期の言葉は「コレデオシマイ」でした。なんという江戸っ子っぷりでしょう。

 

幕府にも有能な人材は確かにいた

四民平等となった明治時代は、ありとあらゆる人々にチャンスが来た時代――とされています。

しかし、この見方は正確ではないでしょう。

勝海舟は、旧弊にとらわれた無能揃いの幕臣の中で、例外的な俊才とされています。

そうしたイメージが投影されたフィクションも数多く存在します。

確かに勝は、幕臣の中でもトップクラスの能力がありました。

しかし彼以外にも、才知あふれて先見性に富んだ幕臣はいたわけです。

勝と違って、能力を残すチャンスに恵まれないまま、歴史の中に埋没してしまった者もおります。

坂本竜馬が生きていたら」
高杉晋作が生きていたら」

そんなIFは語られます。しかし、それだけではありません。

幕臣や佐幕藩出身者であったために埋もれた者。

開明的であったがために攘夷の犠牲となった者。

そうした有能な人材がいました。

勝海舟の優れた資質を振り返るとともに、争いに敗れた幕府側にも有能な人材がいたことを今更ながらに痛感します。

貧乏旗本の勝が大出世できたのは、幕府も人材を活用し、チャンスを与えていたのです。











(私論.私見)