幕末三舟


 更新日/2022(平成31.5.1日より栄和改元/栄和4).7.5日
 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「幕末三舟」について確認しておく。


【幕末の三舟(ばくまつのさんしゅう)】
 2021.6.14日、「西郷を説得し江戸無血開城を成し遂げた山岡鉄舟~幕末三舟53年の生涯」。

 幕末に西郷隆盛を説得した名前に「舟」のつく幕臣を「幕末の三舟(ばくまつのさんしゅう)」と云う。
勝海舟 かつ かいしゅう 1823.3.12日
高橋泥舟 たかはし でいしゅう 1835.3.15日 義理の兄弟
山岡鉄舟 やまおか てっしゅう 1836.7.23日 義理の兄弟

 高橋泥舟の履歴
 1835(天保6)年、江戸の旗本・山岡正業の二男として生まれた。のちに母方の高橋家へ養子に出され、高橋家を継ぐ。山岡家は、槍術の名人を輩出した家柄。高橋の兄・山岡静山も、古今無双の達人。のちに高橋の義兄となる山岡鉄舟が槍を習ったのがこの静山。しかし静山は27才という若さで急死する。山岡家:旗本の小野家に生まれた鉄太郎(鉄舟)が、静山と泥舟の妹・英子を娶り山岡家を継ぐ。槍の達人となっていた泥舟が道場を継ぐ。静山が亡くなったとき、是非とも英子を娶り山岡家を継いで欲しいと鉄舟に頼んだのは静山の義理の弟となる泥舟(当時は謙三郎と名乗っていた)。
 「大雄寺 高橋泥舟の墓」。
 台東区谷中にある大雄寺に、勝海舟、山岡鉄舟と並び「幕末の三舟」と呼ばれた高橋泥舟の墓があります。高橋泥舟は天保六年、旗本・山岡正業の次男として生まれ母方の高橋家の養子となります。山岡家は槍の自得院流の名家で兄の山岡静山の下で修行した泥舟は、海内無双、神業に達したと評される達人となります。なお、山岡家は静山が早世したため門人の小野鉄太郎を婿養子に迎えますが、鉄太郎こそ三舟の一人、山岡鉄舟です。泥舟は、21歳で幕府講武所槍術教授方出役、槍術師範役を歴任し、文久3年(1863)に一橋慶喜に随行して上京。従五位下伊勢守を叙任します。慶応4年(1868)、鳥羽伏見の敗戦により江戸へ退却した将軍・慶喜に泥舟は恭順を説き、江戸城から上野東叡山へ退去する慶喜の護衛を務めます。幕府の全権を任された勝海舟は官軍の西郷隆盛への使者を、誠実剛毅な人柄を見込んで泥舟に依頼しようとしましたが、慶喜から親身に頼られていた泥舟は主君の側を離れるわけにはいかず、代わりに義弟の山岡鉄舟を推薦し、鉄舟がその大役を見事に果たしたそうです。慶喜が江戸から静岡に移住するのに従い、地方奉行などを務めた泥舟は、廃藩置県後に職を辞し東京に隠棲、書画骨董の鑑定などで後半生を送っています。明治新政府からは任官の誘いがあったものの慶喜が失脚しているのに自分が官職について出世する事は出来ないと拒否したと言われています。また、義弟の鉄舟が没した際、山岡家にはかなりの借金があったそうで、泥舟はその返済を引き受け、金貸しに借金を申し込みますが「担保は何か」と聞かれ、「わしの顔が担保だ」と返答したそうです。これに対して金貸しは「泥舟先生がおっしゃるなら」と借金の全額を引き受けたという逸話が残されています。高橋泥舟は明治36年(1903)に69歳の生涯を閉じ大雄寺に葬られています。

 山岡鉄舟の履歴
 1836(天保7)年、徳川家康以来の旗本・小野朝右衛門の長男として江戸に生まれた。名は、小野鉄太郎高歩(たかゆき)。

 少年時代は、飛騨高山の陣屋で過ごした。鰻をご馳走してくれる人があって、兄弟みなが出かけたのに鉄太郎はただ一人残った。 「クジラならいただきますが、あんなミミズに髭の生えたのなんか食べられません」と断ったのである。
気宇壮大、心の根がやたらと太い。
 11歳の時、父親が昵懇にしている臨済禅の寺で鐘楼の大鐘を見ていると、和尚がからかった。「鉄さん。ほしければ、その鐘をあげよう」。「ありがとうございます」。喜びいさんだ鉄太郎は、すぐさま陣屋にとってかえすと、人足たちを連れて寺にもどり、鐘をはずすように命じた。和尚が冗談だと詫びたが承知せず、結局は、父親があいだに立って諭し、ようやく諦めた。
 書を習いはじめたばかりのある夜、習った字をすべて清書せよ、と父から美濃紙の束をわたされた。鉄太郎は、懸命にはげみ、たった一刻(約一時間)で、六十三枚の紙に、手本としていた千字文をすべて清書した。幼いながらも天真自然(じねん)の強い力をたたえた筆跡であった。なみはずれた利発というたちではない。「おれは、もの覚えがわるい」と自覚しているから、四書五経は素読だけで満足せず、なんかいも書き写して覚えた。愚直ということばがぴったりあてはまる……
 1855(安政2)年、槍の師範である山岡家に養子として入り、同家の跡を継ぐ山岡姓となった。
号して山岡鉄舟と称す。山岡家は武芸のサラブレッドとも言えるほどの血筋。実家の小野家も武芸の家柄、母の家は剣豪・塚原卜伝を祖先に持つという。幼い頃から神陰流、槍術樫原流、北辰一刀流を学ふ。

 16歳の時に母、17歳の時に父を亡くす幕末から明治時代の男性平均身長が155センチ程度とされていた時代に、身長6尺2寸(188cm)、体重28貫(105キロ)という当時としては規格外の体格に育った。

 1852(嘉永5)年、山岡は父の死に伴い江戸へ戻って幕臣となる。父は生前、3500両もの大金を貯めていた。「俺が死んだらこれで御家人株でも買えばいい。それで身を立てろ」と言い残していた。

 1853年、黒船が来航する。勝海舟や福沢諭吉のような西洋流の学問に通じた者とは異なり山岡は武芸の男。山岡は千葉周作らから剣術を、山岡静山から槍術を学ぶ。静山が亡くなると、その妹・英子を妻に娶り、山岡家の婿養子として跡を継ぐ。

 1856(安政3)年、刀槍の技量を認められた山岡は講武所剣術世話役に任命される。

 1857(安政4)年、清河八郎と共に「虎尾の会」を結成。清河八郎は新選組。

 1862(文久2)年、清河の働きかけにより幕府は浪士組を結成させ、山岡が取締役に任命される。

 1863(文久3)年、将軍・徳川家茂について上洛する。幕府は、この段になって初めて清河の目的に気づく。 彼の目的は、将軍家ではなく天皇家配下の戦闘員を集めることだった。 そこで幕府は浪士組を江戸に呼び戻すが、京都に残留した試衛館の者たちが新選組となる。山岡は、このとき江戸に戻る。清河が暗殺されると、彼と親しくしていた山岡も謹慎処分に付される。

 1868(慶応4)年、徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いで敗北し、江戸へ敗走帰還する。江戸城では勝海舟が幕臣たちの意見をまとめ、西軍を率いる西郷隆盛に渡してしまおう、ということになった。その交渉役として 高橋泥舟案が出たが、慶喜は泥舟を側に置いておきたいと反対。ここで立候補したのが山岡。勝海舟は山岡の気魄に感じ入り任せた。刀を差していない山岡は大小を友人に借りた。同行者は、薩摩藩士の益満休之助(ますみつ きゅうのすけ)。益満は、西郷から受けた江戸攪乱の密命によって暴れまわっていたところを捕縛され、勝のはからいによって捕虜とされていた。 「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎! 大総督府へまかり通る!」 。そう大声で叫びながら、ズンズンと突き進む山岡。西軍はあっけにとられ誰も手出しできなかった。豪胆な山岡らしい振る舞いだった。益満の「薩摩藩でごわす」という言葉の方も効果があったと考えられる。

 西郷は、山岡が来たと知ると会談を承諾した。以前から面識があり感銘を受けていた勝海舟の使者なら――という気持ちがあった。山岡は、慶喜恭順の意を西郷に伝えた。このとき西郷には様々な人々の意見が届いていた。篤姫からも慶喜の恭順について説明する使者が来ていた。慶喜処遇の内実が問われていた。西郷は山岡に反論した。このころ、元新選組が率いる甲陽鎮撫隊が、甲州勝沼で西軍と戦闘を繰り広げていた。恭順しているとは言えない状況だった。山岡は、あれは脱走兵による勝手な行動で、幕府は関知していないと釈明。「あなたがたは血を流すために戦っておられるのか!」と問われて西郷は考えこむ。 「おはんたちの心は分かいもした」 。戦うだけが望みではない。ここで西郷は条件を出した。・江戸城は明け渡すこと ・城内の兵はすべて向島に移すこと ・兵器をすべて差しだすこと ・軍艦をすべて引き渡すこと ・慶喜の身柄は備前藩に引き渡すこと 。山岡は条件をほぼ呑んだが、最後の慶喜の身柄についてだけは承知できなかった。 「朝命に従うこっがでけんのか」 。西郷が凄み山岡も怯まない。 「立場が逆だと考えてみてください。島津の殿様に対して同じ条件を出されて、それであなたは呑めますか。見殺しにできますか。あなたにとって義とは何ですか。こうなったら鉄太郎も我慢はできません」 。西郷も反論できない。 「先生の言うこたあもっともござんで。慶喜殿のこたあ、おいが取い計らいもす」。西郷は山岡に酒を勧め通行許可証を渡した。山岡の頰を熱い涙が流れ西郷に感謝した。 これで何とか無血開城へと筋道がついた――。 山岡は急いで勝海舟の元に戻る。山岡立ち会いのもと、西郷と勝の会談は成功し、江戸は戦火から守られた。江戸城の無血開城の背景には山岡必死の奔走があった。  
 明治維新のあと、山岡は徳川家に従い駿府へ向かう。その後、いくつかの役職を経て、西郷の推薦により、明治5年(1872年)から十年間の期限付きで明治天皇の侍従をつとめた。剛毅で高潔な人柄は、明治天皇からも大変気に入れた。子爵にまで上り詰めたものの、山岡自身は無欲だった。維新の動乱に倒れた者を弔う。
 明治18年(1885年)、一刀正伝無刀流を立ち上げている。
 1888(明治21)年、胃がんを患っていた山岡は皇居に向かい結跏趺坐したまま死去した(享年53歳)。辞世の句は「腹痛や 苦しき中に 明けがらす」。

 幕末を生き、誰も殺さず、剣と禅に生きた山岡鉄舟。無私無欲、赤誠で道を切り拓き、まさに武士道の美を体現したような生き方だった。
 山岡鉄舟の名言
 善きところはどしどし取って これを食い かつこれを消化して わが物とせよ 
 もしわが日本國體には 食中毒と見たなら 我が国の領海に着かない中に航海中に海に斬り捨てよ
 無刀とは 心の外に 刀が無いこと 敵と相対するとき 刀に拠ることなく 心を以って心を打つ これを無刀という  宇宙と自分は そもそも一体であり 当然の帰結として人々は平等である。天地同根、万物一体の道理を悟ることで 生死の問題を越え、与えられた責務を果し、正しい方法に従って衆生済度の為に尽くす。

 真理であるものは彼とこれとを隔絶分割するものではない。しかもよくかれこれ相通じて存すること、彼の太陽の幽谷と村落とにへだてないというけれども、しかも幽谷にあっては幽谷を照らし、村落にあっては村落を照らし、決して相違しないようなものである。

 人は至誠をもって四恩の鴻徳を奉答し、誠をもって私を殺して万機に接すれば、天下敵なきものにして、これがすなわち武士道である。

 晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は 変わらざりけり
 「全生庵 山岡鉄舟の墓」。
 台東区谷中五丁目にある全生庵は、臨済宗国泰寺派の寺院で、「幕末の三舟」のひとり山岡鉄舟が、明治維新に殉じた人々の菩提を弔うために明治16年(1883)に創建しています。墓所には鉄舟の墓もあります。山岡鉄舟は幕末維新期に活躍した政治家です。名は高歩,通称鉄太郎と言い、旗本小野朝右衛門の子として江戸に生まれ、剣を北辰一刀流千葉周作に,、槍を刃心流山岡静山に学び,ます。そして山岡静山の妹と結婚し山岡家を継ぎます。「幕末の三舟」のひとり高橋泥舟は義兄にあたります。剣豪として知られた鉄舟ですが、母方の先祖は戦国時代の剣豪、塚原卜伝と聞くと納得できるような気がします。,文久2年(1862)には、後に新選組となる浪士組の取締役を拝命するなどし、明治1年(1868)には,精鋭隊頭として徳川慶喜の警護に当たっていた鉄舟は、義兄高橋泥舟の推薦により勝海舟より官軍の西郷隆盛との折衝を依頼され、勝海舟と西郷隆盛の会談を実現。徳川家救済と江戸開城に尽力します。維新後は静岡藩権大参事,伊万里県知事などを歴任し明治21年(1888)に53歳で亡くなった鉄舟の葬儀では、明治天皇の意向があり、四谷の自邸を出た葬列が皇居前で10分ほど止まり、天皇が高殿から目送されたと伝わっています。
大森曹玄著「山岡鉄舟」
山本兼一著「命もいらず名もいらず」幕末編

【横井小楠と佐久間象山】
 「」の「」を転載しておく。
 横井小楠は、勝海舟の海軍増強の理論的支柱。政治総裁職松平春獄の賓師である横井小楠と、軍艦奉行等を歴任した海舟は親しく交際している。小楠は、「国是七条」で、松平春獄を通じ幕府に海軍の増強を建議している。また、越前藩の、海舟に対する資金援助の斡旋も行った。海舟の海軍増強の最大の理解者であり、理論の支柱でもあった。海舟は、小楠の最初の印象を「横井小楠のことは、尾張のある人からきいていたが、長崎ではじめに会った時から、途方もない聡明な人だと心中おおいに敬服した。おれが米国から帰った時に、彼が米国の事情を聞くから、いろいろ説明してやったら、一を聞いて十を知るというふうで、たちまち彼の国の事情について精通してしまったよ」。

 海舟は、福沢諭吉らと万延元年(1860)に咸臨丸にて米国へ渡った。このとき、初代大統領ワシントンの子孫がどのような暮らしをしているかを、アメリカ人はだれも関心を持つていないのを不思議に思っている。また、海舟は「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲だ」と述べている。妹婿佐久間象山との比較では、「横井はなんの変った節もなく、人柄もしごく老成円熟していて、人と議論などするようなやぼは、けっしてやらなかったが、佐久間の方はまるで反対で、いかにもおれは天下の師だというように厳然とかまえこんで、どうにも始末におえなかった」と、妹婿より小楠に好意を持っていた。







(私論.私見)