補足・ペリー艦隊来航考 |
【ペリー艦隊来航事情考】 |
黒船来航は、日本が植民地にされる危機に陥ったことを意味している。しかし、史実はそうはならなかった。植民地にならなかった理由として、外的要因と内的要因に仕分けして、それぞれ考察してみたい。 〔外的要因〕。 マルコ・ポーロの「東方見聞録」。マルコ・ポーロのもたらした「黄金の国(ジパング)」日本情報。日本は未曾有の黄金を持つ国にされ、西欧人の憧れとなった。コロンブスの冒険心に火をつけた。16世紀の大航海時代の始まりの契機を為した。ペルーは、「日本遠征記」。その序論に、「米国が、図らずも、コロンブスの企図した事業の一部を遂行し」、「(自分こそが)ジパングを欧州文明の勢力範囲に引き入れようとするコロンブスの望みを満たしてやったのである」と書いている。ペルーは、来航に先立ち、長崎に来て日本社会を垣間見たケンペル、シーボルトらの日本観察記を読み、日本を一定の水準を持つ文明国とみなしていた。「(日本は)制度として他の国々の交通を禁じながら、一定の文明と洗練と知力とを有する状態に達している」。 開国を迫った欧米諸国は、当時、日本の植民地化を強行できる情況になかった。 1854年 クリミア戦争開始(イギリス・フランス×ロシア) 1856年 第二次アヘン戦争(イギリス・フランス×清) 1857年 第一次インド独立戦争(反英運動の高まり) 1859年 フランス、サイゴン占領 1861年 アメリカ南北戦争開始 ペリーは日本との交渉にあたって、大統領から「発砲厳禁」の命まで受けていた。日本の開国を急ぐ米国は、補給路もないまま(太平洋横断)日本と衝突するより、交渉で目的を達せられればそれで十分と考えていた。 イギリス公使のオールコックは、自身、中国侵略外交の中心にいた人物だっただけに、アジア諸民族の抵抗にあうと、それと日本の一揆・打ちこわしの頻発を重ねあわせて、危惧していたことも知られている。 要するに、欧米諸国はそれぞれが内外の問題を抱え、交渉で要求をのませられる日本に対し、リスクの高い武力侵入をあえて選択する必要はなかった。 英仏は、インド・清・東南アジアに対する侵略を強め、その抵抗にあい、一方では欧州地域でも戦争(普墺戦争・普仏戦争)になる。また、米国は国内問題もあって、日本に力を割ける情勢ではなかった。 ヘーゲルのアジア的専制論、マルクスのアジア的停滞生産様式論。英国の産業革命、フランスの政治革命、ドイツの文化革命、米国の独立革命。一連の出来事を通じて、西欧社会が確立。 ペリー以降の西欧人の日本観察記録。西欧人は江戸中期の日本の面影(自然景観、生活環境)の美しさに賛嘆、賞賛。「ジャポ二ズム(日本趣味)」の流行を生んだ。この日本の美文明は、他の諸文明と異なり、自然を生かした文明を築いていた。治山治水、津々浦々の海上ネットワーク。「豊穣の海の三日月弧」海の文明。 |
〔内的要因〕。 ○「無能」でなかった幕府 幕末の幕府は、よく「無能」なイメージでとらえられるが、実際にはオランダや清から積極的に海外情報を入手し、戦争回避のための対策を練っていた。日本が結んだ不平等条約は、客観的には「不平等」な、「半植民地」的内容と言える反面、同時期にタイや清が結ばされた条約に比べると、はるかに従属性が弱い内容だった。 ○攘夷派の転換 下関戦争や薩英戦争で、薩長の攘夷派は攘夷の「不可能」を知ると、開国・倒幕にいち早く転換した。もちろん、その背景には、薩摩藩の藩論が、本来は攘夷ではなく、洋式技術の導入にみられるような富国強兵思想すら存在していたことも重要。 これ以外にも、近代化論につながる、近世日本の「資本主義」化の問題なども無視できない論点でしょうね。最近は、江戸時代後期を「近代」と考える研究者すらいる。 現代日本歴史学の主潮流は、基本的にマルクス主義歴史学の系譜の上にある。マルクス主義歴史学も次第に研究が深まり、今日ではもはや、江戸時代の日本を、「世界に取り残された鎖国チョンマゲ」とイメージする歴史家はいない。鎖国にしても、それは窓口の「制限」であり(窓口はあった)、幕府による貿易の「独占」を意味するととらえるべきという見解も生まれつつある。 |
川勝平太(かわかつへいた)国際日本文化研究センター教授、2004./8.17日付け日経経済教室「21世紀アジアと文明」。 |
【ペリー艦隊が琉球上陸】 | |
1853(嘉永6).5月、ペリー堤督率いる黒船4隻が、日本に向かう途中、補給のため沖縄の那覇港に上陸した。ペリー堤督と海兵隊2個中隊は砲2門と共に首里城に向かい、琉球王国政府に高圧的な外交交渉をした。琉球王国政府は要求を受け入れた。 | |
神戸女学院大学教授・真栄平 房昭氏の2012年10月25日付けブログ「視点・論点 "沖縄"からの声(4) ペリー艦隊の沖縄来航」を転載する。
|
【ペリー艦隊が浦賀に来航】 | |
1853(嘉永6).7.8日(陰暦6.3日)、幕藩体制の危機が深まりつつある時、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー)提督の率いる黒船(黒い塗装の軍艦)4隻が江戸湾の入り口、神奈川県浦賀沖に現れた(「ペリー浦賀に来航」)。ペリーは黒船に護衛させた測量艇を江戸湾深く侵入させて江戸城の老中たちを威嚇した。日本中は蜂の巣をつついたように大混乱となった。これがペリーの黒船砲艦外交の第一歩であった。 4隻の艦隊は、旗艦サスケハナ号(USS Susquehanna)(2450トン、10インチ砲3門、8インチ砲6門)、ミシシッピ号(USS Mississippi)(1692トン、10インチ砲2門、8インチ砲8門)の2隻が蒸気軍艦。サラトガ号(USS Saratoga) (882トン、8インチ砲4門、32ポンド砲18門)、プリマス号(USS Plymouth) (989トン、8インチ砲8門、32ポンド砲18門)が帆走軍艦。翌年の来航時は7隻の艦隊で、旗艦ポーハタン号(2415トン)以下、サスケハナ、ミシシッピ両蒸気軍艦と帆走軍艦4隻。 ペリー艦隊が合衆国東海岸のチェサピーク湾ノフォークを出航したのは1852年11月24日(嘉永5年10月13日)。大西洋のマディラ島、セントヘレナ島からアフリカ南端のケープタウンを回り、セイロン、シンガポール、香港、上海、琉球、小笠原諸島に寄港し、相模浦賀沖に碇泊したのは1853年7月8日午後5時頃。ペリーは日本との交渉と共に、小笠原諸島を調査している。日本からの帰路、琉球に寄って貯炭所を設置している。太平洋横断航路の開発の為の石炭補給地を見つけ、貯炭所を確保するのがペリーの主任務の一つであった。ペリー艦隊は突然日本に現れたのではなく、前年にオランダ政府に対して、艦隊派遣の斡旋を依頼し、長崎のオランダ商館長を通して幕府に連絡していた。「近くアメリカが日本に艦隊を送る準備をしている」という情報に対し、幕府は対策を取ることなく老中の間で握りつぶし、外交担当者にも知らせていなかったと伝えられている。 ペリー一行は第14代アメリカ大統領ピアース(1853.3.4日就任)の親書(「フィルモア大統領親書」とも記されている)を携えており、武力を背景として開国を迫った。浦賀奉行与力中島三郎助と通詞堀達之助が交渉に当たり、長崎回航を指示したが受け入れなかった。夜の時砲で沿岸が騒然とした。フィルモア大統領の日本皇帝宛て国書は次の通り(「ペリー艦隊の来航」より)。
この時、従軍ユダヤ教ラビが日本に向って激烈な呪文を唱えた、と後年公刊された乗組員の日記に報告されている。(この情報につき出典元が分からない。懸命に探しているので強力求める) 6.4日、浦賀奉行与力・香山栄左衛門と中島三郎助がペリー提督を応接し長崎回航を求めたが失敗。ミシシッピ号が示威行動のため、江戸湾奥に向かう。同日、佐久間象山が米艦隊を視察するため浦賀へ行き、吉田松陰らと会見している。 6.9日、浦賀奉行戸田氏栄、井戸弘道が久里浜でペリーと会見。アメリカの国書を受け取る。吉田松陰は佐久間象山等と現場でこの状況を見ていた。艦隊4隻は江戸湾を周回する。 6.12日、東インド艦隊が再来を約して、那覇へ向けて江戸湾を離れる。その後、香港へ戻る。 6.15日、幕府(阿部老中)が、ペリー来航を朝廷に上奏する。 江戸幕府第3代将軍・徳川家光の時代以来、鎖国を国是としてきた幕府にとって、このペリー来航は幕府内や諸大名間に衝撃を走らせた。老中阿部正弘はとりあえず国書を受け取り、ペリーを退却させた。 |
|
![]() |
【ペリー提督の履歴】 |
ペリー(Matthew Calbraith Perry/アメリカの海軍軍人)(1794〜18588)の履歴は次の通り。 1794年、北部のロードアイランド州ニューポートで、海軍一家(アメリカ海軍私掠船長のクリストファー・レイモンド・ペリーと妻セーラの間)の三男として生まれた。兄はクリストファー・レイモンド・ペリー、オリバー・ハザード・ペリー。1809年、自身も海軍に入り、1812年からの米英戦争に二人の兄とともに参加する。1821年の英米戦争に従軍。1833年、ブルックリン海軍工廠の造船所長となる。1837年、アメリカ初の蒸気軍艦フリゲートフルトン2世号の艦長となる。同年、海軍大佐に昇進する。1840.6月、同海軍工廠の司令官となり、代将の地位を得る。1845年、米墨戦争が勃発すると、後年日本に来航するミシシッピ号の艦長兼本国艦隊副指令として参加する。1846年の対メキシコ戦争でメキシコ湾艦隊副司令官として指揮をとり、メキシコ湾のベラクルスへの上陸作戦を指揮する。1852年、東インド艦隊司令長官に就任、日本派遣特派使節を兼任した。同年11月、フィルモア大統領の親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航した。1853.7.8日(嘉永6.6.3日)、浦賀に入港した。7.14日(6.9日)、幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れ上陸、戸田氏栄、井戸弘道に大統領の親書を手渡した。ここでは具体的な協議は執り行われず開国の要求をしたのみで、湾を何日か測量した後、幕府から翌年までの猶予を求められ、食料など艦隊の事情もあり、琉球へ寄港した。太平天国の乱がおこり、米国での極東事情が変化するなか、1854.2.13日(嘉永7.1.16日)、旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて現在の横浜市の沖に迫り条約締結を求め、3.31日(3.3日)、神奈川で日米和親条約を調印した。その後、那覇に寄港して、7.11日、琉球王国とも琉米修好条約を締結した。帰国後、「日本遠征記」を著した。晩年は鬘を着用していた。1858.3.4日、ニューヨークで死去(亨年63歳)。墓所はロードアイランド州アイランド墓地にある。気船を主力とする海軍の強化策を進めると共に士官教育にあたり、蒸気船海軍の父とたたえられた。また海軍教育の先駆者とされている。 |
【その後の情勢、幕府の対応】 |
6.22日、阿部正弘ら幕閣がその対策に追われる中、第12代将軍・徳川家慶が急死した(享年61歳)。 7.1日、老中阿部正弘が国書の訳文を各大名諸大名、幕臣らに渡し、アメリカの要求について「意見を述べるよう」申し渡す(「処士横議(しょしおうぎ)」)。 7.3日、幕府、前水戸藩主徳川斉昭を海防参与に任命する。そして対応策を諸大名、幕臣に求めた。 7.18日、ペリーに続いて、プチャーチン率いるロシア極東艦隊が長崎に来航し、開港通商を要求した。国中が、開国か攘夷かを対応をめぐり議論が大いに沸騰したが、当時の第13代将軍・徳川家定(いえさだ)は心身共に虚弱な人物で、到底この国難にリーダーシップを発揮して、立ち向かえる人物ではなかった。 この頃より、幕政改革として広く人材を登用していくこととなった。7月、勝海舟、老中の幕臣への要請に応え、貿易論、人材論、兵制改革論の海防意見書を提出する。 7月、オランダ商館長クルチウスが幕府に「別段風説書」を提出。 8.19日、ロシア帝国の国書を受け取る。 9.25日、幕府、長崎奉行をしてオランダ商館長クルチウスに軍艦・鉄砲・兵書を注文する。また、西洋砲術奨励を布告。 8.6日、幕府、砲術家高島秋帆の禁固を解いて、韮山代官江川太郎左衛門の配下に置く。8.15日、幕府、大砲50門の鋳造を佐賀藩に要請。8.24日、幕府、江川太郎左衛門の指揮のもと、11基の品川沖台場の築造を始める。 8.29日、島津斉彬が、幕府に建艦、武器・兵書の購入を要求、幕府、薩摩藩に建鑑のみを許可。 9.15日、幕府、大船建造禁令を解除。 10.8日、幕府、筒井政憲と川路聖謨を対ロシア交渉全権に任命し、長崎派遣を決定。11.1日、幕府、外国語を船舶・鉄砲名称と練習用語に用いることと、薬屋などでの商標に洋字の使用を禁止する。 10.20日、徳川斉昭、ロシアとの和親不可を建議。一方大槻磐渓は、幕府に親露を献策する。 10.23日、徳川家定に将軍宣下、第13代将軍となった。 11.1日、幕府が海防に関する法令を下した。「諸説異同ハコレ有リ候得共 詰リ和戦ノ二字ニ帰着イタシ候」とした。明年ペリーがきても通商条約締結の返答をしないこととした。これを「ぶらかし」と云う。戦争になる場合に備えて武器の強化を指示し、先方の出方次第だとした。阿部老中は朝廷の意見を聞く為の朝廷の意思を奉じた形式も整えようとした。以降、各藩も意見を申し出るようになった。 11.7日、幕府、アメリカより戻っていた中浜万次郎を登用し普請役格とする。 11.12日、幕府、水戸藩に大船建造を命じる。 11.14日、幕府、相模・上総・安房の江戸湾岸警備を彦根・肥後藩等に命じる。 11月、幕府、浦賀に造船所の建設を開始する。 11月、島津斉彬、大船建造を申請し、船印のため、日の丸国章制定を建議する。 12.5日、幕府、石川島を造船所とすることを決定し、水戸藩に石川島で軍艦建造を命じる。12.5日、ロシア艦隊4隻、ペリーとの協力がうまく行かず、長崎に再来。 12月、韮山代官江川太郎左衛門、韮山に反射炉を建造。翌1854(嘉永7、安政元).4月、伊豆韮山で反射炉の築造開始。(1857年6月完成)。 12.20日、幕府、ロシア側と交渉を開始。 |
【日米和親条約の締結】 | ||||||||||||||||||
1854(嘉永7、安政元).2.13日(陰暦1.16日)、前年の予告通り、ペリーが軍艦7隻を率い再来し小柴沖に停泊した。江戸湾内深く航行して幕府に圧力をかけるペリーに浦賀奉行所は浦賀沖に戻るよう要求したが、ペリーは頑としてゆずらず、横浜で交渉がもたれることになった。 1.17日、米国使節、幕府にエレキテル・テレガラフ・蒸気車などを献上。2.3日、幕府、アメリカ軍艦見物を禁止する。2.6日、幕府、漂流民保護と薪水食糧給与は承認し、通商条約は拒絶する方針を決定する。2.23日、横浜村の応接所で、ペリーの持参した模型蒸気機関車の試運転を行う。2.24日、ドレイパーとウィリアムス、横浜で電信の実験を行う。2.26日、力士小柳、米国人水兵3人と相撲を取り勝つ。 この間、幕府は、諸外国の圧迫に対し確固とした方策を持って望む事ができなかった。既に大英帝国と清帝国が争った結果(アヘン戦争)、1842年、南京条約が結ばれていた。そういう国際情勢に通じている幕府は驚異を感じ条約締結に向うこととなった。アメリカ大統領親書の内容、「石炭・食料の供給と難破民の救助」は認めるが、「通商」はあくまでも拒否という幕府の回答を、ペリーが受け入れた。条約内に領事派遣の項目を入れることで、再交渉の余地を残すことにした。 3.3日、日米和親条約を締結する(神奈川条約又は下田条約)。これにより水・薪・石炭らを供給すること、下田と函館を1年後に開港すること、最恵国待遇等が取り決められた。以後日本がどんな国と条約を結んだ時にも適応できることとなった。18ケ月後、ハリスが下田に上陸することになる。 3.27日、吉田松陰、米艦に乗船を求めるが断られる。3.28日、吉田松陰が下田沖の軍艦に密航を企てて失敗し自首する。4.5日、吉田松陰密航事件に連座して、佐久間象山も逮捕される。翌1854(嘉永7、安政元)・9.18日、幕府、吉田松陰、佐久間象山を蟄居処分とする。 4.9日、大名に調印の経過と条約の概要を示す(条約書は公表せず)。 5.25日、幕府、日米和親条約付録協定(下田条約)に調印。これにより、下田・函館を開港し、領事駐在を認めることとなった。条文の概要は次の通り(参考文献「 時代をとらえる新日本史史料集(桐原書店)」、「詳説日本史史料集(山川出版社)」)。
ここに遂に200年余りにわたって続いた鎖国体制が打ち破られた。鎖国政策の崩壊と共に江戸幕府の屋台骨は大きく揺らぎ、日本封建社会は世界史の激動の中に巻き込まれていくことになる。 翌1854(嘉永7、安政元)年、アメリカに続いてイギリス、ロシア、オランダのヨーロッパ諸国と和親条約を締結する。8.23日、日英和親条約締結。長崎・函館を開港する。 日露和親条約で下田・函館・長崎を開港する。 |
【その後の情勢、幕府の対応】 |
3.6日、西郷の上書が認められ、斉彬の江戸参勤に際し、中御小姓・定御供・江戸詰に任ぜられ、江戸に赴いた。4月、庭方役となり、当代一の開明派大名であった斉彬から直接教えを受けるようになり、またぜひ会いたいと思っていた碩学・藤田東湖、戸田忠太夫にも会い、国事について教えを受けた。 4.30日、徳川斉昭、日米和親条約締結を不満として、幕政参与を辞任。 6.17日、琉球王府、米国と琉米修好約条を締結。翌1855(安政2).10.15日、球王府、フランスと琉仏約条を締結する。 6.30日、幕府、箱館奉行を設置する。 7.9日、幕府、島津斉彬と徳川斉昭の言を採用し、日の丸を日本惣船印とする事を決定する。 7.28日、造船技術と航海術を伝えるためのオランダ船スンビン号が長崎に入港する。閏7.15日、英国東インド艦隊が長崎に入港。 8月、下田奉行伊沢美作守政義ら、下田外国人休息所の建設と女性の接待を建議する。 9.2日、幕府、オランダに対して下田と箱館の2港を開港する。 9.18日、プチャーチン大坂湾に投錨。 9.21日、府、オランダに蒸気軍艦2隻を発注。 11.3日、日露条約交渉が下田で行われる。 11.27日、安政に改元。 12.21日、幕府、日露和親条約に調印。下田・箱館・長崎をロシアに開港し、択捉−ウルップ間を国境と定める。また樺太を両国人雑居地とする。翌1855(安政2).3.22日、プチャーチン提督らロシア側交渉団は、ヘダ号で帰国の途につく。 この年、上野、陸中、常陸、越後、美濃、紀伊、備前で農民による打ち壊しや強訴が起こる。 |
【その後の情勢、幕府の対応】 |
1855(安政2)..1.11日、幕府、浦賀・下田・箱館の3奉行に外国船寄贈の書籍・武器の江戸送付を命令する。 2.22日、幕府、松前藩領の内、松前氏居城付近を除く蝦夷地全土を直轄領とする。 3.4日、フランス軍艦コンスタンチーヌが下田に来航し、物資の補充を願い出るが、拒絶される。 3.12日、英国軍艦3隻が箱館に入港する。 3.27日、幕府、松前・南部・津軽・秋田・仙台の各藩に蝦夷地警備を命じる。 4月、間宮林蔵著「北蝦夷図説」が刊行。 5.20日、松前藩、幕府の命令により、樺太のクシュンコタンにあったロシア兵陣営を焼く。 7月、アメリカ駐日総領事・ハリスが着任。 8.4日、老中松平乗全と松平忠優が徳川斉昭らの派閥の圧力で辞任。 8.13日、徳川斉昭が幕政参与に再任。幕府は大名に米・英・露3国との和親条約の内容の写しを示した。 10.2日、「安政の大地震」発生。夜、江戸で直下型の大地震が発生。死者7千余、家屋倒壊1万4千戸に及び、特に下町は壊滅、新吉原はほぼ全て焼失する。この地震で藤田東湖や戸田蓬軒が圧死した。 10.9日、下総佐倉藩11万石の藩主堀田正睦(まさよし、46歳)が阿部正弘(37歳)に代わって老中首座に就任。以降、堀田−阿部が幕政を担って外交問題に取り組むことになる。 10.14日、幕府、旗本・諸藩士・庶民の蝦夷地移住開拓を許可する。 10.17日、堀田正睦が老中に就任した。(阿部と交代で老中首座、外国事務取扱の専任となる。) |