生涯履歴



 (最新見直し2008.10.28日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、二宮尊徳の履歴を確認しておく。「二宮翁夜話」(PHP研究所)、「代表的日本人」(岩波文庫)、「二宮尊徳 略年表」その他を参照する。

 2008.10.28日 れんだいこ拝


【二宮尊徳の総評】
 二宮 尊徳(にのみや そんとく)。天明7年7月23日(1787年9月4日) - 安政3年10月20日(1856年11月17日))。日本の江戸時代後期に「報徳思想」を唱えて、「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導した農政家・思想家。通称は金次郎。ただし、「金治郎」の表記が正しい。諱の「尊徳」は一般には「そんとく」と読んでいるが、正確には「たかのり」と訓む。通称は二宮金次郎。公人としては尊徳を使用。

【二宮尊徳立志伝】
 1787(天明7).9.4(陰暦7.23)日、相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))に百姓利右衛門の長男として生まれる。金治郎と名づけられる。当時の栢山村は小田原藩領であった。

 幼少時から教養のある父に教育を受け、一方では優しい母の慈愛を存分に得て、幸せに育った。1798(寛政10)年、12歳の時、異常天候のため酒匂川の氾濫が度重なり田畑が荒廃し、父利右衛門が病み医師村田道仙にかかる。この頃、わらじを編んで金を稼ぎ、父のために酒を買った逸話が遺されている。

 1799(寛政11)年、13歳の時、金次郎は、洪水対策のため松苗200本を買い、酒匂川堤に植えた。しかし、田畑の回復もかなわず家は没落する。

 1800(寛政12)年、14歳の時、父利右衛門が死去、二年後の1802(享和2)年、母よしも亡くなり、兄弟はばらばらになり、尊徳は伯父二宮万兵衛の家に預けられた。

 金次郎は早朝から深夜まで一生懸命働き、寝る間も惜しむかの如くに読書に励んだ。油代がもったいないと叔父に指摘されると、荒地に菜種をまいて収穫した種を菜種油と交換し、それを燃やして勉学を続けた。金次郎が愛唱した論語の一節は、「己に打ち勝てば、天下はその仁徳に従う」。

 田植え後の田に捨てられた苗を拾い荒地に植えて耕し開墾し、育て、秋には一俵もの籾を収穫。こうして荒地を開墾し金を貯めて、田畑を買い戻し、また僅かに残った田畑を小作に出すなどして収入の増加を図る。「積小為大(小を積んで大となす)」の経済原理を体得する。同時に、天地人三才の徳に報いることを説く「報徳思想」を形成する。

 1806(文化3)年、20歳の時、生家の近くに小屋を建てて住む。田地9a余を買い戻す。1809(文化6)年、23歳の時、本家再興基金を設定する。田地26a余を買い戻す。

 1810(文化7)年、24歳の時、生家の再興に成功する。田地が1.46haとなる。江戸、伊勢、関西旅行。

 1811(文化8)年、25歳の時、富士登山 用文章・孝経・経典余師や本箱を買い入れる。この頃までに、身長が6尺(約180センチ強)を超えていたという伝承もある。

【服部家再建に尽力】
 小田原藩主老 服部家の若党となり子息修学をたすける。  

 1812(文化9)年、26歳の時、小田原藩主大久保忠真の家老職服部十郎兵衛家の若党となる。ついで同家の家政再建(家政取直し)をゆだねられて成功した。小田原藩内で名前が知られるようになる。一斗枡を改良し、藩内で統一規格化させた。役人が不正な枡を使って量をごまかし、差分を横領していたのをこれで防いだ(年貢改正斗桝を提案)。 この体験をもとに天地人三才の徳に報いることを説く報徳思想を形成。また、家・村を復興して興国安民を実現する仕法を体系化した。

 1814(文化11)年、28歳の時、小田原藩士五常講を創設、その後も宇津家の桜町領の領収納を約二倍まで再興し、各藩からの依頼も増え、大名旗本等の財政再建、領民救済、各藩農村の総合的復興事業(仕法)に向かう。

 1817(文化14).2月、31歳の時、中島きのと結婚。田地が3.8ha余となる。

 1818(文政元)年、32歳の時、服部家の家政整理を引き受ける。11月、藩主忠真から表彰。

 1819(文政2)年、33歳の時、長男徳太郎が誕生、まもなく死亡。3月、きのと離婚する。

 1820(文政3)年、34歳の時、4月、岡田波子と結婚。斗枡の改良。

 同年、藩中の士、仲間若党、下男下女ら同志を糾合して金融互助組織「五常講」を創設した。仁・義・礼・智・信の人倫五常の道により積み立て、貸し付け、返済するという一種の信用組合であった。この協同共存の精神を基盤とする経済取直策は後に桜町復興の仕法をはじめ、いわゆる二宮仕法の根幹として活用され、さらに後年の報徳社その他の永安法へと展開することになる。

 「世渡りの秘術は勤と倹と譲の三のみ。人気風儀を一新するに機会あり。百戸のうち六十戸を制するときは、やがて四十戸もこれに従う。交際の道は其れ将棋にならえ。強い者の駒を落として相手の力と相応する程度にするのだ」。

 1821(文政4)年、35歳の時、桜町領の調査復命 嫡子弥太郎誕生。服部家第1回整理結了。

【各藩より財政再建頼まれる】
 1822(文政5)年、36歳の時、小田原藩に登用され(名主役格)、藩主大久保忠真から同家の支族・旗本の宇津〓之助領地、野州桜町(現栃木県芳賀郡)の財政再建を命じられる。

 1823(文政6)年、37歳の時、一家をあげて赴任し、開墾と水利事業を行い税収倍増に取り組む。1827(文政10)年、41歳の時、領民中の不平分子が騒ぐ。豊田正作が赴任 困難を増す。1828(文政11)年、42歳の時、トラブル頻発 辞任願いを出したが不許可。小谷三志と交わる。1829(文政12)年、43歳の時、成田山で断食静思する。帰任後は事業が円満に進行する。

 1830(天保元)年、44歳の時、「一円にみのり正しき月夜かな」の句を作る。

 1831(天保2)年、45歳の時、藩主・忠真に報告「以徳尊徳」の賞詞。桜町領第1期事業結了。10年にして第1期仕法を終わり、15年にして(1837年)ついに大業をなしとげた。

 1832(天保3)年、46歳の時、哲理の究明を進める。天徳無尽現量鏡・地徳開倉積を作る。

 1833(天保4)年、47歳の時、青木村の堰工事。凶作を予知して対策を講ずる。1834(天保5)年、48歳の時、徒士格(かちかく)に進む。三才報徳金毛録などを著す。

 その評判を聞いた大名、旗本家の財政再建と農村の復興事業を委託される。尊徳の唱えた「勤倹・分度・推譲」の思想は財政再建の模範、倫理観となった。1835(天保6)年、48歳の時、細川家の所領矢田部(谷田部)藩(現茨城県筑波郡)の財政再建。農村復興事業に着手する。1836(天保7)年、50歳の時、諸国凶作。大久保支族の鳥山藩(現栃木県那須郡)に救急援助する。ふるさと小田原藩桜町領第2期事業結了。1837(天保8)年、51歳の時、小田原領の飢民救済。忠真没。鳥山領の復興事業に着手。他にも、旗本川副家の所領青木村(現茨城県真壁郡)、茂木(もでぎ、現栃木県芳賀郡)等々で手腕を発揮する。

 二宮仕法といわれる復興開発仕法の様式は、救急、分度の確立、助成無(低)利息金法、開発開墾、推譲法の発揚などに要約されるが、その根幹は五常講の協同精神であり、金銭の積立てと貸借の約を守るを信、余財者が窮者への貸付のため出資するを仁、返済の確実を期するを義、仁を行って誇らざるを礼、返済をくふうし講中相互の利便に努力するを智とするにある。このうち、余財者が窮者のために財の一部を推譲し、これを善種金として講社(組合)資金として活用する方式は後に各地に起こった報徳社によって実践された。

【天保大飢饉に挑む】
 1837(天保8)年春4月、幕末に起きた江戸時代最大規模の災害と云われる天保大飢饉が発生した。1838(天保9)年、52歳の時、金次郎は、小田原領・下館領の復興事業に着手し、独創的な手法で村々の復興を次々と成功させた。規則に縛られる役人達たち対立しながら、瀕死の困窮民の支援に奮闘。小田原領民4万人を一人の餓死者もなく救うことに成功した。

 金次郎が役人達に言った言葉は次の通り。

 概要「政治が行き届かず、飢饉に及んで民を死にいたらしめるとすれば、一体なんと言って天に謝罪するのか。それならば、許可状が到着するまでの四日間、我々役人一同も飢えた民同様に、断食すべし」。

 金次郎が農民達に言った言葉は次の通り。

 「代々同じ村に住み、同じ水を飲み、同じ風に吹かれた村民ではないか。死ぬのを黙って見ている道理はあるまい。貧乏人の中には怠けてそうなった者もおり腹が立つだろうが、それでもなお銭一文を施し、米ひとすくいを与えるのが人情というものだ。未来の実りを信じて今こそ飢餓を救うのだ」。

【引く手あまたの金次郎大忙し】
 1839(天保10)年、53歳の時、富田高慶入門。小田原領内の復興気運が盛り上がる。1840(天保11)年、54歳の時、小田原領内で長期実地指導。韮山の豪商多田家の借財整理開始。1841(天保12)年、55歳の時、桜町谷田部・下館・小田原ほか所領。諸家の指導に忙殺される。

 1842(天保13)年、56歳の時、小田原藩に仕法発業中、幕府御普請役格に登用される。利根川分水路測量調査。真岡(現栃木県芳賀郡)代官領内諸村に新田開拓の仕法を行い、別に相馬藩(現福島県相馬郡)復興の仕法を指導して成果をあげた。1843(天保14)年、57歳の時、下館信友講・小田原報徳社創立。名乗りを尊徳と定める。1844(弘化元)年、58歳の時、日光仕法雛形の作成受命。相馬藩の長期財政基本計画を画策。1845(弘化2)年、59歳の時、斎藤高行・福住正兄入門。相馬藩の農村復興事業が始まる。

 1846(弘化3)年、60歳の時、「日光神領再興策富国方法書」60巻を大成する。小田原藩が復興事業を突如打ち切る。

 1847(弘化4)年、61歳の時、山内代官配下となり東郷神宮寺に仮住い。遠州下石田村に神谷与平治により初めて下石田報徳社が起こり、のち門弟岡田佐平次が遠江国報徳社を浜松に創立するに及び報徳社運動は全国に波及して1000社に達し、明治新農村の有力な推進体となった。

 1848(嘉永元)年、62歳の時、東郷陣屋に移転。事業着手が認められず 牛岡組報徳社創立。1849(嘉永2)年、63歳の時、管内棹ヶ島村の復興事業が追認され前途がようやく開ける。1850(嘉永3)年、64歳の時、管内14ヶ村に復興事業を行う。福住正兄が門を辞す。1851(嘉永4)年、65歳の時、弥太郎(尊行)に御用向見習発令。斎藤高行が門を辞す。1852(嘉永5)年、66歳の時、片岡村克譲社創立 墓参して残務整理。弥太郎・文子結婚。

【金次郎最後のご奉公】
 1853年(嘉永6)年、、67歳の時、幕府より日光神領地89村の開拓調査を命じられ、日光領復興事業受命。尊徳は「復興開発方法論」を書く。この頃、江戸で奇病発生。金次郎は罹患するも病を押して日光に向かう。

 1854(安政元)年、68歳の時、尊行に御普講役見習発令。轟村復興着手。岡田良一郎入門。

 1855(安政2)年、69歳の時、下野国今市の仕法役所に移転する。箱館奉行から開拓調査依頼される。

 1856(安政3)年、70歳の時、御普講役に進む。業を嫡子弥太郎(御普請役見習)に託す。10.20日、下野国今市の仕法役所で没す(享年70歳)。尊徳を祭った神社にある尊徳の墓の隣に、尊徳の遺言が記された石碑がある。

 「我が死応に近きあらん 我を葬るに分を超ゆること勿れ 墓を建つること勿れ 碑を建つること勿れ 只土を盛り上げその傍らに松か杉を一本植え置けばそれにて可なり 必ず我が言に違ふ勿れ」。

 高慶が報徳記を著わす。

【二宮尊徳顕彰】
 二宮の仕法は他の農村の規範となった。その思想・仕法は報徳社に受け継がれた。弟子の大友亀太郎は旧幕府下で札幌村の開拓を指導。亀太郎は札幌開拓の始祖と呼ばれる。

 二宮尊徳をまつる二宮神社が、生地の小田原(報徳二宮神社)、終焉の地・今市に今市報徳二宮神社、仕法の地・栃木県芳賀郡二宮町に桜町二宮神社などにある。尊徳記念館が神奈川県小田原市栢山にある。栃木県芳賀郡二宮町にも二宮尊徳資料館がある。

 1881年、この年度発行の「報徳記」に薪を背負いながら本を読んで歩く姿の記述が登場する。薪を拾って売り、その金で勉学をしたのは事実だが、このような姿で実際に歩いていたという事実はないとされる。

 1891年、幸田露伴著の「二宮尊徳翁」の挿絵で、はじめて薪を背負って歩く姿の挿絵が使われた。確認されている最初のこの姿の像は、1910年に岡崎雪聲が東京彫工会に出品したものである。

 1891年、従四位が追贈されている。

 1904年以降、国定教科書に修身の象徴として二宮が取り上げられるようになった。小学唱歌にも二宮金次郎という曲がある。

 「二宮金次郎」  作詞作曲不詳/文部省唱歌

 1 柴刈り縄ない草鞋をつくり
   親の手を助(す)け弟(おとと)を世話し
   兄弟仲よく孝行つくす
   手本は二宮金次郎

 2 骨身を惜まず仕事をはげみ
   夜なべ済まして手習読書
   せわしい中にも撓(たゆ)まず学ぶ
   手本は二宮金次郎

 3 家業大事に費(ついえ)をはぶき
   少しの物をも粗末にせずに
   遂には身を立て人をもすくう
   手本は二宮金次郎

 1924年、小学校に二宮像が建てられる。もっとも古いものは愛知県前芝村立前芝高等尋常小学校(現豊橋市立前芝小学校)に建てられたものしされている。その後、昭和初期に地元民や卒業生の寄付によって各地の小学校に像が多く建てられた。そのとき、大きさが1mとされ、子供たちに1mの長さを実感させるのに一役買ったといわれることがあるが、実際に当時に製作された像はきっかり1mではないことが多い。

 二宮像は戦後、GHQの指令により廃棄されたといわれるが、二宮尊徳が占領下の1946年に日本銀行券(1円券)の肖像画に採用されている。19700年代以降、校舎の立替時などに徐々に撤去され、像の数は減少傾向にある。岐阜市歴史博物館調べによると、市内の小学校の55.1%に二宮尊徳像が存在し(2001年現在)、近隣市町村を含めると、58.5%の小学校に二宮尊徳像が存在する。ただしこれは局地的な統計であることに注意する必要がある。栃木県芳賀郡二宮町では、町内の全小中学校に像がある(2004年現在)。また、2003年に小田原駅が改築され橋上化された際、デッキに尊徳の像が新しく立てられた。













(私論.私見)