後期水戸学の特質



 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日 .
【「後期水戸学」】
 文政12年、烈公が藩主となったこの時以降を「後期水戸学」と呼ぶ。1829年に9代藩主となった徳川斉昭(なりあき、寛政から安政1789−1860)は、天保期(1830ー44)に藩政改革を行う。藤田東湖、会沢正志斉たちをブレーンとしていた。1・質素・倹約の励行、2・文武両道、3・海防の制、4・再検地、5・財政再建、6・寺社の改革、神道の称揚、7・学問の奨励、8・「大日本史」編纂事業の継続。

 この時の改革の眼目の一つに藩校弘道館の建設があった。東湖がこれを推進し、学校を作るならば、天下一のものでなければならないと提唱し、その結果、弘道館は5万4千余坪(17・87ヘクタール)という広大な敷地のみならず、学校の建物においても最大規模であり、また教育の内容においても今日の総合大学的な構想を有する天下一の学校となった。

 水戸学は、藤田幽谷により当時の時局問題の解決にも目を向けていくことになった。水戸学の伝統的精神として、「学者は君子たることを学ぶ。儒者たることを学ぶにあらず」として机上学を排し、実践学を尊ぶ傾向があったが、この精神が幕末期の内憂外患に直面して、それまでの学問的研究成果に立脚して、極めて政治主義的な動きを強めていくことになった。ここに 「後期水戸学」の特徴がある。国内の諸改革への提唱と西洋列強の接近・進出に抗して、いかにしてわが国の尊厳と独立を護るかという現実の問題に対処するための実践学として立ち現われることになり、尊王論に攘夷論を加えていわゆる「尊王攘夷論」イデオロギーを生み出した。

 幽谷の思想を継承・発展させたのが門人の会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)と幽谷の子藤田東湖(とうこ)である。ほかに青山延于(のぶゆき)青山延光(のぶみつ)父子、豊田天功、菅政友、栗田寛(ひろし)らがいる。

 その主張の特色には士風の退廃、藩財政の窮乏、農村の荒廃、百姓一揆の続発等、封建支配が長期にわたって続いた為にそのほころびが現れてきた事に対してこの危機を敏感に感じ取り、その対策としてゆるんだ忠道徳の振起を強調した事にある。そして皇室の尊厳を説いた。鎖国制度を守るために夷狄に対する神州日本の名分論的優位を論じて攘夷を主張した。

 「水戸学・水戸幕末争乱(天狗党の乱)」は、次のように解説している。
 「尊王攘夷論は、尊王論と攘夷論とをむすびつけた幕末の水戸学の思想で、藤田東湖・会沢正志斎らがその中心であったが、開港問題がおこると反幕論へと進んで、現実的な政治革新運動となり、これを主張する一派は尊攘派とよばれるようになった」。
 山崎行太郎氏の「藤田東湖と水戸学派」は次の通り。
 藤田東湖は言うまでもなく 、幕末の倒幕運動を主導した「尊皇攘夷」イデオロギーの震源地・水戸学派の中心人物だった。しかし、水戸学派の面々は、明治維新後は、人材は、ほぼ自滅しつくして、残ってはいなかった。吉田松陰のことは、明治維新で活躍した長州人脈の頂点にあった思想家として評価されるが、その吉田松陰の「尊皇攘夷」思想に影響を与えたのが、水戸学派であり、藤田東湖等であった。長州藩や薩摩藩に比して 、水戸藩は、その歴史的役割が、軽視され、忘れられているような気がする。
 私の考えでは、明らかに思想的には、水戸藩こそが、明治維新の主役であった。西郷南洲も吉田松陰も、水戸藩の水戸学派の思想的影響下にあった。何故、水戸藩と水戸学派は歴史の表舞台から抹殺される運命にあったのか。水戸藩の水戸学には、思想を生み出すべき「過激な思想的思考力」があった。この「過激な思想的思考力」の故に、幕末の「尊皇攘夷」思想を生み出すと同時に、自ら、その「過激な思想的思考力」の犠牲になり、自らが自らを喰い尽くすように、自滅・自壊していったようにみえる。水戸藩の水戸学派ほど、激しい内部抗争、内部闘争を繰り返した藩はない。もちろん 、水戸藩に限らず 、派閥抗争や内部抗争を繰り返し、多くの犠牲を出した藩は、少なくない。しかし 、それでも水戸藩ほどではない。
 水戸藩で面白いのは、「学問」や「思想」をめぐって、激しい内部抗争や殺し合いを演じてきたことである。つまり、水戸藩の水戸学は、そして水戸学派は、「命懸けの学問」「命懸けの思想闘争」を実践して来たのである。井伊直弼の発動した「安政の大獄」事件で、主なターゲットになったのも水戸藩であったが、その井伊直弼暗殺事件「桜田門外の変」を実行したのも水戸藩士たちだった。水戸藩は、幕末期において、つねに政局の中心にいた。それは水戸藩が、思想的に時代の先端を走っていたからだ。
藤田東湖の父は藤田幽谷だが、この藤田幽谷は、天才的な頭脳の持ち主であり、その子・藤田東湖もまた負けず劣らずの天才的な頭脳の持ち主であった。しかも、藤田父子の学問は、机上空論としての学問ではなく、「命懸けの学問」だった。藤田東湖の回想録『 回天詩史』は、次のような逸話で始まっている。藤田東湖は、決死の「切り込み隊長」を志願する。
 山崎行太郎氏の「藤田東湖と西郷南洲(3)」は次の通り。
 内村鑑三の『 代表的日本人』は、西郷南洲(西郷隆盛)の話から始まっている。それは、内村鑑三が、西郷南洲をいかに高く評価していたかを示している。その『 代表的日本人』の中の西郷南洲の話の中に、藤田東湖が登場する。藤田東湖と西郷南洲の出会いについて、こう書いている。
 《 しかし、重要で、もっとも大きな精神的感化は、時代のリーダーであった人物から受けました。それは、「大和魂のかたまり」である水戸の藤田東湖です。東湖はまるで日本を霊化したような存在でした。》
 つまり、内村鑑三の西郷南洲に対する評価は、政治や軍事的な側面ではなく、どちらかというと、精神的、道徳的 、倫理的な側面だったように見える。そして、それらの側面を、水戸の藤田東湖に教わったのではないか、と。キリスト教徒であった内村鑑三は、宗派的なイデオロギーを超えて、西郷南洲だけではなく、藤田東湖をも、高く評価していた。おそらく、内村鑑三は、二人のなかに、「日本的霊性」を発見していた。続けて、こう書いている。
 《 外形きびしく、鋭くとがった容貌は、火山の富士の姿であり、そのなかに誠実そのものの精神を宿していました。正義の熱愛者であり、「西欧の蛮人」の嫌悪者である東湖の近くには、時代をになう若者たちが集いました。西郷は遠方にありながら東湖の名声を耳にして、藩主とともに江戸に滞在していたとき、接見の機会をのがさず会いに行きました。》
 山崎行太郎氏の「藤田東湖と西郷南洲(4)」は次の通り。
 水戸学派というと、「尊皇攘夷論」というのが常識であり、学問的固定観念である。もちろん、それは間違いではない。だがそれは、水戸光圀(水戸黄門)を筆頭に、藤田東湖等にいたるまでの水戸学派の政治家や思想家たちが、具体的にどう考え、どう行動していたかということとは別である。私は、水戸学派には、「尊皇攘夷論」という思想とは別の独特の思想的エネルギーが生きていたと思う。その思想的エネルギーが、幕末に、全国的に拡散し、多くの志士たちの思想と行動の原動力になったのだと思う。人は、たとえ命知らずの革命家といえども、思想や理論のために命はかけない。たとえ、思想や理論に命をかけたかのように見えたとしても、そこには必ず、思想的エネルギーの共有がある。たとえば、西郷南洲は、鹿児島の城山で「戦死」する直前まで、徳川幕府の御用学者(笑)だった佐藤一斎の『 言志四録』を持ち歩き、戦死の直前まで読んでいた。西郷南洲は、佐藤一斎の『 言志四録』から何を学び、何を行動の指針にしていうたのだろうか。佐藤一斎は水戸学派の藤田東湖と対立し、論敵だったのではないか。西郷南洲は、藤田東湖から佐藤一斎へ、思想的に転向したのだろうか。

 ところで、水戸学派の思想的エネルギーが最高潮に達したのが、藤田東湖亡き後 、水戸藩の脱藩浪人たちによって引き起こされた「井伊直弼暗殺事件」、いわゆる「桜田門外の変」であった。この事件が起きた時、藤田東湖が既に安政の大地震で家が倒壊し、梁の下敷きになり圧死していただけではなく、西郷南洲も、奄美大島に幽閉・蟄居中であった。井伊直弼暗殺が成功したという連絡を受け取った西郷は、密かに祝杯をあげて、喜んだという。

【水戸学と吉田松陰の交流】
 会沢正志斎の「新論」が次第に人々の間に広まり、各地から反響が起こる。初めは「無名氏」ということで匿名出版したが、水戸の会沢正志斎の著書であるということが天下に広まる。遂に、会沢先生に会って直接教えを乞いたいという気運が起り、次第に水戸を訪れる人が増えて来た。会沢正志斎の名をもって出版できたのは、初版から30年後の安政4年になってからである。

 水戸藩が諸藩に注目された一番始めは攘夷論ではなかった。最初は民生で、天保の飢饉の時一人の餓死者を出さなかったという事で注目を浴びた。水戸ではどのような政治をやっているのだ。これが諸藩の水戸を注目する一番始めの理由であった。水戸の藩情を更に調べて見ると民生ばかりではない、教育も充実している、検地もやっている、学校も造ろうとしている。攘夷論が展開されている。軍事教練も実施している。大砲も作り軍艦もつくろうとしている。時の学問的最高水準としてまさに「先進の学」であり、これを学ばずしては時代の流れについていけないと考え、諸藩の人々が遊学してくることになった。

 いわゆる「水府の風」がこれを後押しした。「水府の風」とは、他国の人の来訪を悦び、接し認めるや歓待優遇し、心胸を吐露して隠す所がないというもてなし術を云う。なお、水戸学は、必ず有用なものを書記し、書きとどめて置くだけでは無くそれを分析して検討を加えるという作法を確立していた。この性質により、吉田松陰並びに真木和泉守、西郷隆盛など有能の士が両名全国各地から訪れている。これにより、天下の事情に通じる事となった。

 天保年間以後水戸学が他藩から注目されるようになり、「天保学」・「水府の学」などと呼ばれた。明治以後になって「水戸学」というようになった。「水戸学」は、幕藩体制の揺らぎに応じて、幕末の喧騒に関わることで、極めてイデオロギッシュな学問になり、明治維新の原動力に資していくという数奇な足跡を見せていくことになる。

 吉田松陰の「東北遊日記」が水戸学との交わりを伝えている。それによれば、松陰は、嘉永4.12月から翌年にかけて東北遊学の途上に水戸を訪れ、特に会沢正志斎から多大な感化を受けている。吉田松陰は水戸から帰り、すぐに手紙に、「身皇国に生まれて皇国の皇国たる所以を知らず、急ぎ帰りて六国史を読む」と書いている。思うに、六国史は、天子が一系であって連綿と続いているという国体論と共に、天皇を中心にして外国に対して処した事例を明らかにしていた。松陰は、このことに理論的衝撃を受けたと思われる。その他、水戸に人材が多く輩出していること、宗教政策が徹底していること、教育に見るべきものがあることに注目している。これらの事を水戸から学んで帰り、それを長州藩の政治に採り入れようと努力をし、自らも松下村塾を作って教育に当たる事になる。

 真木和泉守の水戸学事情は次の通り。久留米藩の木村士遠という武士が水戸に出向き会沢正志斎の塾に学ぶ。そのときに「新論」写し持ち帰る。真木は、その「新論」を読み非常に驚き即刻水戸参りを意欲する。1844.7月(天保甲辰15年)、水戸へ行く。真木は、水戸学に影響を受け、久留米藩に水戸学・天保学を導入し、久留米藩を大いに改革する。その「信長論」という一文には次のように記されている。政治理念として、「礼楽刑政が一つに統一され、天下萬民其の所を得べき」。元治元年、真木は、蛤御門の変に失敗し、天王山に引き帰り自刃する。

 西郷隆盛の水戸学事情は次の通り。西郷は、津田山三郎(肥後)、鮫島庄助(薩摩)と共に藤田翁を訪れている。翁は、談論の序次、三士の気禀を評して次のように述べている。
 「西郷子は勇者の資あり、津田子は仁者の資あり、而して鮫島子は智者の資あり」。

 その他、水戸を訪れた者の記録はかくの如し。越前の矢島錦助、熊本の津田山三郎、柳川の池辺藤左衛門、薩摩の原田才助(八兵衛)。橋本景岳、海江田信義、田口秀実等々。

【翠軒派と東湖派の凄惨な派閥争い】
 斉昭が幕府の忌諱に触れて謹慎を命ぜられ、慶篤が後を継ぐ。東湖は幽閉された。翠軒派と東湖派の凄惨な派閥争いが続く。武田耕雲斎と藤田小四郎が挙兵し、筑波山で抵抗し、慶喜に上奏せんとして中山道を進み、敦賀で全員が処刑され終焉する。

【藤田東湖と戸田忠太夫(とだ ちゅうだゆう)が安政の大地震で落命】
 藤田東湖と戸田忠太夫(とだ ちゅうだゆう)が安政の大地震で落命する。歴史街道の「安政の大地震〜「水戸の両田」藤田東湖、戸田忠太夫が落命」参照。
 安政2年10月2日(1855年11月11日)、南関東直下型の大地震。推定震度6。江戸の町に甚大な被害をもたらした、世に言う「安政の大地震」。地震発生は夜の10時頃。江戸で特に被害が大きかったのは低地の方で、御曲輪内(江戸城外堀に囲まれた内側)、小石川、小川町、下谷、浅草、本所、深川といった地域。当時の江戸の人口はおよそ130万人。町人がその約半数で、狭い町人地の安普請の家で暮らしていた。大名家だけでも被害で死者が出た家が121家。死者の数は2000人以上。一方、町人地の被害は死者が4200人以上、負傷者が2700人以上、倒壊家屋14000軒以上とするデータがある。時の老中の阿部正弘(福山藩)、牧野忠雅(長岡藩)、内藤信親(村上藩)の3家の役宅でも、それぞれ死者が20人以上出ており、内藤信親に至っては夫婦揃って瓦礫の下に埋まっていたのを掘り出され、奇跡的に無傷であったという。

 この地震で江戸の水戸藩邸では2人の重要人物、戸田忠太夫(蓬軒)と藤田東湖が命を落とした。2人は徳川斉昭の藩主就任を支援し、斉昭のもとで藩政改革を成功させ、さらに幕府海防参与を務める斉昭の強力なブレーンだった。戸田と藤田をして「水戸の両田」とも称され、尊王攘夷の思想と深い学識を備えていることで、他藩の志士たちから仰ぎ見られる存在でもあった。
 藤田東湖
 藤田東湖は水戸学の重鎮・藤田幽谷の息子で、その後継者、あるいは水戸学の大成者として知られました。戸田とともに徳川斉昭の藩主就任に尽力し、天保の改革を推進。しかし斉昭が幕府より隠居謹慎処分を受けると、東湖も幽閉蟄居生活を送ることになる。東湖が謹慎を解かれたのは、ペリー来航の前年である嘉永5年(1852)。翌年、黒船来航とともに徳川斉昭が幕府海防参与となると、東湖も江戸藩邸に召し出されて、幕府海岸防禦御用掛に任ぜられ、再び斉昭を補佐する。安政元年(1854)には薩摩の西郷吉之助(隆盛)が東湖を訪ね、その人柄に接して、「まるで清水を浴びたかのように自分の心に一点の曇りもなくなり、すがすがしい心持ちになった」と記している。その翌年の安政の大地震の夜。東湖は建物が倒壊する前に、いったん庭に脱出していた。 ところが老母が火の始末をしていないことを案じて屋敷内にとって返したため、東湖も母親の身を心配してその後を追う。 そこへ崩れた太い梁が落ちた。東湖はそれを肩で受け止め、母親が脱出するのを見届けると力尽きたといわれる。享年50歳。

 もし安政の大地震がなく、戸田と藤田が健在で、引き続き海防参与の斉昭を補佐し続けていたら、その後の幕末の展開も随分変わっていたのはなかろうか。
 藤田東湖の主著の一つである 弘道館記述義に次の文章がある。
 「学問事業、ソノ効ヲ殊二セズ
 (学問と事業とはその効用を異にするものではない、という意味)
 「学問と事業を一つとするのがむずかしいというのは多くの理由によるが、もっとも大きい弊害が四つある。『実践躬行を怠る』 こと。『実用的学問をしない』こと。『型どおりのの考えに拘泥する』こと。『情勢に応じすぎる』ことの四点である」。
 戸田忠太夫(とだ ちゅうだゆう)
 戸田 忠太夫(とだ ちゅうだゆう)は、日本の幕末(江戸時代・幕末)における水戸藩家老で、尊王派の志士として知られる。 水戸戸田家第7代当主。家老職拝命の際、主君・徳川斉昭より忠太夫の仮名を与えられる。諱から戸田忠敞、号から戸田蓬軒と呼ばれることも多い。

 戸田氏
三河譜代の名門の家系であり、忠太夫は戸田氏(仁連木戸田家)の支流 で水戸藩に仕えた戸田有信の後裔にして水戸藩の世臣であった戸田三衛門忠之の嫡男として生まれる。母は安島七郎左門衛門信可の女。歴代の知行は代々1300家紋は六曜。

 戸田は嘉永6年(1853)に幕府海防掛に就任、老中や幕臣・岩瀬忠震(ただなり)らと異人来襲の危険性について、意見を交わしている。 また水戸藩の執政として藩政改革を進め、手腕を振るい始めていた矢先の出来事だった。享年52。なお、後に水戸藩家老となって活躍し、安政の大獄で落命する安島帯刀(あじまたてわき)は実の弟である。

 「FB山崎行太郎」の「藤田東湖と西郷南洲(4)」は次の通り。
 「思想を生きる」とか「生きられた思想」という言葉が 、私は、好きだ。言葉というより、私はそういう生き方を、自分の思想信条にしている。私が、水戸学や水戸学派に関心を持つのは、「尊皇攘夷論」とか「国体論」とか言われる水戸学の思想なるものが、まさしく「生きられた思想」であり、「生きられた学問」だと思うからだ。水戸学の思想は、「思想のための思想」でも「学問のための学問」でもなく、「生きられた思想」であり、「生きられた学問」であった。それ故に、水戸学と水戸藩は、幕末の動乱期の主役であり、明治維新の初期段階において、常に主導的役割を演じてきた。しかし、水戸藩の学問である水戸学は、その純粋性と徹底性、過激性の故に、明治維新の集大成期には、薩摩藩や長州藩に主導的役割を奪われただけでなく、政治勢力的には、「桜田門外の変」や「天狗党の乱」などを経て、自滅的大打撃を受け、ほぼ消滅したといっていい。しかしそれは、厳密に言うと 、その「尊皇攘夷論」や「国体論」という「思想を生きた」証といっていい。水戸学派の水戸学という学問は「生きられた学問」だったが故に、政治勢力的には消滅せざるを得なかったが、私は 、勝ち残ったものだけの歴史が、「歴史」ではない 、と思う。むろん、私は、「敗者」や「弱者」の方に歴史があると言いたいわけではない。「敗者」と「弱者」は違う。「敗者」は、勇敢に戦ったものだけに与えられる特権である。

 繰り返すが、水戸学派というと、「尊皇攘夷論」とか「国体論」とかいうのが常識であり、学問的にもそれが通説となり、一種の固定観念となっている。もちろん、それは間違いではない。だがそれだけでは、水戸学派の真髄をとらえているとは言えない。水戸光圀(水戸黄門)を開祖に、後期水戸学派の徳川斉昭 、藤田幽谷、藤田東湖、会沢正志斎、武田耕雲斎等にいたるまでの水戸学派の政治家や思想家たちが、具体的にどう考え、どう行動していたかということとは、必ずしも一致しない。むしろ別であると言うべきである。
たとえば、ギリシャ哲学におけるプラトニズムがプラトンのすべてではない。プラトニズムとプラトンとは、必ずしも一致しない。プラトニズムを学ぶことは、それほど難しくないが、プラトン的思考を学び、プラトン的思考力を実践することは容易ではない。私は、つまり、プラトニズムという観念論を克服=超克することは出来るかもしれないが、プラトンやプラトン的思考力を克服=超克することは容易ではない。というより不可能であろう。
 私は、水戸学派には、「尊皇攘夷論」や「国体論」という思想とは別の独特の過激な思考力と思想的エネルギーが生きていたと思う。水戸光圀以来のその過激な思考力と思想的エネルギーが、幕末に、全国的に拡散し、多くの志士たちの思想と行動の原動力になったのだと思う。言い換えれば、「尊皇攘夷論」という思想も「国体論」という思想も、この思考力と思想的エネルギーがなければ 、あれだけの過激な倒幕運動の革命的イデオロギーとはなり得なかったのではないかと思う。つまり、「尊皇攘夷論」も「国体論」も、水戸学派の過激な思考力と思想的エネルギーの裏打ちがあったからこそ、存立している。
 人は、たとえ命知らずの革命家といえども、思想や理論のために命はかけない。たとえ、思想や理論に命をかけたかのように見えたとしても、そこには必ず、過激な思考力と思想的エネルギーの共有がある。たとえば、西郷南洲は、鹿児島で「決起」し、城山で「戦死」する直前まで、徳川幕府の御用学者(笑)だった佐藤一斎の『 言志四録』を持ち歩き、戦死の直前まで読んでいた。西郷南洲は、佐藤一斎の『 言志四録』から何を学び、何を行動の指針にしていたのだろうか。佐藤一斎は水戸学派の藤田東湖と対立し、論敵だったのではないか。そのことを、西郷南洲は知っていたのか、それとも知らなかったのか。西郷南洲は、藤田東湖を崇拝し、藤田東湖の死を嘆き悲しんだにもかかわらず、一方では、藤田東湖の論敵=佐藤一斎をも崇拝していたのか。あるいは西郷南洲は、思想的に無節操だったのか。そうではないと、私は思う。西郷南洲が「決起」した時も、過激な思考力と思想的エネルギーが最高潮に燃え上がり、「発火点」に達していたと思う。それは、水戸学派の過激な思考力と思想的エネルギーに通じるものだ。
ところで、水戸学派の過激な思考力と思想的エネルギーが最高潮に達したのが、藤田東湖亡き後 、高橋多一郎、金子孫二郎、関鉄之介等、水戸藩の脱藩浪人たちによって引き起こされた「井伊直弼暗殺事件」、いわゆる「桜田門外の変」であった。この事件が起きた時、藤田東湖は既に安政の大地震で家が倒壊し、梁の下敷きになり圧死していただけではなく、西郷南洲も、奄美大島に幽閉・蟄居中であった。二人とも、事件そのものとは直接的関係はない。しかし、井伊直弼暗殺が成功したという連絡を受け取った西郷は、祝杯をあげて喜んだという。私は、 「桜田門外の変」の評価が、歴史学的にどうなっているかに、 あまり興味ない。少なくとも私の評価は、桜田門外の変なくして水戸学も水戸学派もない、というものだ。さらに言うと、桜田門外の変なくして明治維新もなかった、と。
実は 、「桜田門外の変」は、水戸藩の脱藩浪人だけで引き起こされ事件ではなかった。薩摩藩の一部とも連携した壮大な共同作戦の元で実行された「大事件」であった。
「桜田門外の変」と藤田東湖は、直接の関係はない。しかし、まったく無縁というわけでもない。桜田門外の変の首謀者だった高橋多一郎は、藤田東湖の「教え子 」であり、もっとも優秀な「弟子」であり、おそらく「思想的後継者」の一人だった。その高橋多一郎が、金子孫二郎とともに、水戸藩改革派の中から選抜した若手水戸藩士たちを組織して、薩摩藩の一部と連携の上で、綿密な作戦を練りあげ、実行したのが、後に「桜田門外の変」と言われることになる「井伊直弼暗殺事件」であった。私は、長いこと、この事件の詳細を知らなかった。単なるテロ事件だろうと思っていた。しかし、この事件の実行部隊の主役の一人が、薩摩藩の若いサムライの一人で、井伊直弼の首を取っただけではなく、しかも事件直後、力尽きて、現場で自決していることを知って、俄然、興味を持つようになった。大老井伊直弼を、登城中の籠から引きずり出し、首を切り落とし、その生首を、太刀の先に突き刺し、高くさし上げ、大音声で、「奸賊井伊の首を打ち取ったり・・・」と勝どきを上げたサムライが、有村次左衛門だった。つまり、桜田門外の変は、水戸藩を中心に、薩摩藩と共同作戦の元に実行された暗殺事件だった。 水戸藩と薩摩藩との密約による桜田門外の変の共同作戦は、大きく分けて、二つの作戦から成り立っていた。一つが桜田門外における井伊直弼襲撃であり、もう一つが、3000名の薩摩藩兵が、援護部隊として、挙兵、上京して戦線に加わるというものだった。一つ目の作戦は、実行され、井伊直弼を殺害することによって、ほぼ成功したと言っていいが、もう一つの作戦、つまり3000名の薩摩藩兵の挙兵、上京の方は、未発に終わった。薩摩藩は、どんな理由があったにせよ 、実質的には、「裏切った」のだ。 しかし、薩摩藩も座視していたわけではない。薩摩藩といっても、水戸藩改革派と気脈を通じていたのは、薩摩藩の中の「誠忠派」という西郷や大久保を中心とする若手過激派のグループだった。彼等は、江戸薩摩藩邸詰めの有村治左衛門や有村雄助兄弟、田中謙介、山口三斉、高崎五六・・・等を連絡係として、水戸藩の有志と情報交換し、共同作戦を練り上げていた。
水戸学派というと、「尊皇攘夷論」とか「国体論」とかいうのが常識であり、学問的にも固定観念となっている。もちろん、それは間違いではない。だがそれは、水戸光圀(水戸黄門)を筆頭に、徳川斉昭 、藤田東湖、会沢正志斎、武田耕雲斎等にいたるまでの水戸学派の政治家や思想家たちが、具体的にどう考え、どう行動していたかということとは、必ずしも一致しない。むしろ別であると言うべきである。たとえば、ギリシャ哲学におけるプラトニズムがプラトンのすべてではない。プラトニズムとプラトンとは、必ずしも一致しない。プラトニズムを学ぶことは、それほど難しくないが、プラトン的思考を学び、プラトン的思考力を実践することは容易ではない。私は、つまり、プラトニズムという観念論を克服=超克することは出来るかもしれないが、プラトンやプラトン的志向力を克服=超克することは不可能である。水戸学派には、「尊皇攘夷論」や「国体論」という思想とは別の独特の過激な思考力と思想的エネルギーが生きていたと思う。水戸光圀以来のその過激な思考力と思想的エネルギーが、幕末に、全国的に拡散し、多くの志士たちの思想と行動の原動力になったのだと思う。言い換えれば、「尊皇攘夷論」という思想も「国体論」という思想も、この思考力と思想的エネルギーがなければ 、あれだけの過激な倒幕運動の革命的イデオロギーとはなり得なかったのではないかと思う。つまり、「尊皇攘夷論」も「国体論」も、水戸学派の過激な思考力と思想的エネルギーの裏打ちがあったからこそ、存立している。
人は、たとえ命知らずの革命家といえども、思想や理論のために命はかけない。たとえ、思想や理論に命をかけたかのように見えたとしても、そこには必ず、過激な思考力と思想的エネルギーの共有がある。たとえば、西郷南洲は、鹿児島で「決起」し、城山で「戦死」する直前まで、徳川幕府の御用学者(笑)だった佐藤一斎の『 言志四録』を持ち歩き、戦死の直前まで読んでいた。西郷南洲は、佐藤一斎の『 言志四録』から何を学び、何を行動の指針にしていたのだろうか。佐藤一斎は水戸学派の藤田東湖と対立し、論敵だったのではないか。そのことを、西郷南洲は知っていたのか、それとも知らなかったのか。西郷南洲は、藤田東湖を崇拝し、藤田東湖の死を嘆き悲しんだにもかかわらず、一方では、藤田東湖の論敵=佐藤一斎をも崇拝していたのか。あるいは西郷南洲は、思想的に無節操だったのか。そうではないと、私は思う。西郷南洲が「決起」した時も、過激な思考力と思想的エネルギーが最高潮に燃え上がり、「発火点」に達していたと思う。それは、水戸学派の過激な思考力と思想的エネルギーに通じるものだ。
ところで、水戸学派の過激な思考力と思想的エネルギーが最高潮に達したのが、藤田東湖亡き後 、高橋多一郎、金子孫二郎、関鉄之介等、水戸藩の脱藩浪人たちによって引き起こされた「井伊直弼暗殺事件」、いわゆる「桜田門外の変」であった。この事件が起きた時、藤田東湖は既に安政の大地震で家が倒壊し、梁の下敷きになり圧死していただけではなく、西郷南洲も、奄美大島に幽閉・蟄居中であった。二人とも、事件そのものとは直接的関係はない。しかし、井伊直弼暗殺が成功したという連絡を受け取った西郷は、祝杯をあげて喜んだという。私は、 「桜田門外の変」の評価が、歴史学的にどうなっているかに、 あまり興味ない。少なくとも私の評価は、桜田門外の変なくして水戸学も水戸学派もない、というものだ。さらに言うと、桜田門外の変なくして明治維新もなかった、と。
実は 、「桜田門外の変」は、水戸藩の脱藩浪人だけで引き起こされ事件ではなかった。薩摩藩の一部とも連携した壮大な共同作戦の元で実行された「大事件」であった。
「桜田門外の変」と藤田東湖も西郷南洲も、直接の関係はない。しかし、まったく無縁というわけでもない。桜田門外の変の首謀者だった高橋多一郎は、藤田東湖の「教え子 」であり、もっとも優秀な「弟子」であり、おそらく「思想的後継者」の一人だった。その高橋多一郎が、金子孫二郎とともに、水戸藩改革派の中から選抜した若手水戸藩士たちを組織して、薩摩藩の一部と連携の上で、綿密な作戦を練りあげ、実行したのが、後に「桜田門外の変」と言われることになる「井伊直弼暗殺事件」であった。私は、長いこと、この事件の詳細を知らなかった。単なるテロ事件だろうと思っていた。しかし、この事件の実行部隊の主役の一人が、薩摩藩の若いサムライの一人で、井伊直弼の首を取っただけではなく、しかも事件直後、力尽きて、現場で自決していることを知って、俄然、興味を持つようになった。大老井伊直弼を、登城中の籠から引きずり出し、首を切り落とし、その生首を、太刀の先に突き刺し、高くさし上げ、大音声で、「奸賊井伊の首を打ち取ったり・・・」と勝どきを上げたサムライが、有村次左衛門だった。つまり、桜田門外の変は、水戸藩を中心に、薩摩藩と共同作戦の元に実行された暗殺事件だった。 水戸藩と薩摩藩との密約による桜田門外の変の共同作戦は、大きく分けて、二つの作戦から成り立っていた。一つが桜田門外における井伊直弼襲撃であり、もう一つが、3000名の薩摩藩兵が、援護部隊として、挙兵、上京して戦線に加わるというものだった。一つ目の作戦は、実行され、井伊直弼を殺害することによって、ほぼ成功したと言っていいが、もう一つの作戦、つまり3000名の薩摩藩兵の挙兵、上京の方は、未発に終わった。薩摩藩は、どんな理由があったにせよ 、実質的には、「裏切った」のだ。 しかし、薩摩藩も座視していたわけではない。薩摩藩といっても、水戸藩改革派と気脈を通じていたのは、薩摩藩の中の「誠忠派」という西郷や大久保を中心とする若手過激派のグループだった。彼等は、江戸薩摩藩邸詰めの有村治左衛門や有村雄助兄弟、田中謙介、山口三斉、高崎五六・・・等を連絡係として、水戸藩の有志と情報交換し、共同作戦を練り上げていた。







(私論.私見)