幕末前史(西欧列強の開国要請と幕府の対応、国内の動き) |
(れんだいこのショートメッセージ) |
2005年初頭、稀代の売国傀儡政権小泉派による日本国融解戦略が暴力的に押し付けられつつあり、これに為す術べなく諸勢力が屈服を余儀なくされつつある事態を見て、れんだいこは再度幕末の開国過程の検証を決意した。思えば、黒船来航でこじ開けられた鎖国体制の終焉が百年先の今日の如くな売国傀儡政権登場までのシナリオを仕掛けていたのではなかろうか。 以来、百有余年、我らの父祖はこのシナリオに一部気づき大部気づかぬながらもままよく闘った。しかし、敵はあまりにも強大にして百戦錬磨過ぎた。しかし、イスラムを見よ、彼らは今も果敢に闘っている。今後予断は許さない。それを思えば、敵の強大なシナリオの方の破綻も現実的であり、よって歴史は激動していることになる。日本人民の叡智はこのことを的確に認識し、更に英明に対処せねばならぬ。これがれんだいこのメッセージである。 以上の観点を念頭に置きながら幕末開国過程を検証する。逐次の動きは「幕末史年表」で整理する予定。 2005.4.3日 れんだいこ拝 |
【西欧列強の日本開国化の動きと徳川幕府の対応】 |
徳川幕府は世界史的にみて脅威の安定社会を生み出していた。良きにせよ悪しきにせよ、近世に至ってこれほどの長期政権は例がない。が、さすがに治世200年頃より体制的桎梏状況を加速し始めていくことになった。その基底要因として、社会の下部構造を為す経済的変動に比して上部構造が必ずしもその能力を引き出せず、既にこの頃支配体系が硬化しており、この両者の齟齬により秩序の乱れが加速されていったと分析するのが相当と思われる。 まさにこの時に外圧の波が押し寄せるという歴史の不思議が重なる。かくて、徳川幕藩体制は内憂外患に見舞われ多事多難となる。その内部崩壊の危機が徐々に拡がり始め、やがて飽和点に達して一挙に瓦解する。この「時代の変わり目」に当時の人々がどう対処したかを見ていくのが幕末史考となる。 「西郷隆盛の生涯」は、西郷を追跡する形で幕末から明治維新の激動を解析してくれている好サイトである。これをベースにれんだいこ流に再編成してみたい。なお、左派からは全く無視されているが、「水戸学の変遷」と幕末期への関わりもまたキーとなる。覚束ないながら、この辺りの絡みを総合的に俯瞰することを企図している。 この時代西暦19世紀前半の一時期は世界史の上でも特筆される大変動の時代であった。政治、経済、社会、思想のすべての面にわたって、広く深く根源的な大きな変革のうねりが進行しつつあった。西欧においてもっとも早く進行したこの大変革は、遠くアジア地域にまで、その余波を拡げることとなった。資本主義の発達は、生産の増大と販路の拡大を求めて止まない。国内における「民主政治」の確立に逸早く成功した西欧近代国家は次第に海外に進出し始め、武力を背景とした植民地の獲得に鎬を削る軍事列強として立ち現われることとなった。 イギリス、オランダ、フランスなどがインド亜大陸や東南アジア地域をいち早くその手中にし、続いて老大国清国に狙いを定め進出の機を窺い始めた。やや遅れて北の巨人ロシアがしきりに日本の北辺を窺うようになった。続いて新たにアメリカ、ドイツが参列することとなる。これに抗するに唯一当時の幕藩体制下の日本が、稀なる戦略で危機から逃れた。これは世界史的に見て称賛されることであるが、従来の左派的観点から全く無視されており、早急に見直しが要請されているところであろう。 その理由として、近時の左派的理論の柱となっているマルクス主義が、国際主義を称揚するあまりに民族主義的ベクトル的運動を無視する傾向があった為と思われる。しかし、ここではこれに触れないことにする。 この外圧に対する歴史的理解の訂正が要請されつつある。爾来、この外圧は、西欧による攻勢とのみ見られて来ており、西欧内にあるネィティブ国家とロスチャイルド派国際金融資本を核とするネオシオニズムの二元的対立過程が見落とされてきた。しかし、それは片手落ち見解というべきものであることが判明しつつある。この時の外圧は西欧列強による攻勢であるが、これを仔細に見れば、ネオシオニズムに篭絡された西欧ネィティブ諸国家がそれぞれの思惑と狙いを持って世界植民地化攻勢に乗り出したのであり、背後の画策者はロスチャイルド派国際金融資本ではなかったか。彼らは、「シオンの議定書」マニュフェストに則り世界支配を企図しており、その為の首尾一貫した構想力を持っている点で、こちら側の攻勢をこそまさしく危険なそれと見て取るべきではなかろうか。この理解を欠落させると、その後の歩み、政治的事象が理解できにくくなる。 2005.4.3日、2008.2.20日再編集 れんだいこ拝 |
【外圧史】 | |||
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【内圧】 |
徳川幕藩体制の治政の乱れは、農本社会を基盤にしていたことから究極的には農民への圧政として帰趨することとなり、過酷な年貢米の取り立てへと向かっていった。しかし、この頃は又、ひでり、飢饉、台風、治水の氾濫、地震等の自然災害も頻発しており、重税と自然災害による疲弊が農民に塗炭の苦しみをなめさせ、離散、赤子の間引き捨て子、餓死、人妻や娘の人身売買を進行させて行った。この経過で寄生地主といわれる大地主階層も生まれつつあったが、これは徳川政治の基本であった「生かさず、殺さず」(「慶長の御触書」)に窺える農民政策の明らかな破綻でもあった。農村における貧富の差の拡大は止まることなく、むしろこれが基調となり幕藩体制崩壊の前提諸条件を生み出して行くことになる。 加えて幕府、藩の経済政策の失敗が重なり、米価を主とする諸物価の高騰を招き、農村での百姓一揆、都市部での打ち壊しを連鎖させる等、各階級階層の抵抗力を押えることによって成立していた幕藩体制の統治機構が揺らぎを見せ始め、多難な社会事情を生み出していった。民衆の反乱にたいしては、幕府と藩はこれを徹底して弾圧する手法しか為さず、為に民衆の困窮は一層深まり、応じてその貢租により成り立つ幕府、藩も疲弊するという悪循環に陥り、これを打開する有効な処方箋も見出されないという事態であった。 過重な貢租や農民階層の分化に加えて、天災飢饉で窮乏した農民による百姓一揆は後期になるほど増加していた。その形態は、逃散(集団離散)、越訴(代官などの手順をこえて、直接領主、幕府などへ訴える)、強訴(集団で抵抗する)から、惣百姓の村ぐるみの団結で強訴する広域的な惣百姓一揆になりつつあった。惣百姓一揆は、村役人、豪農層と平百姓、貧農の対立激化を反映しており、しばしば領主側を圧倒して要求をかちとることが多かった。村人は、一揆の首謀者を義民とあがめ、根強い抵抗運動を組織する力を獲得しつつあった。 老中松平定信による「寛政の改革」、水野忠邦による「天保の改革」が為されていくが、保守的建て直しであり、時代の流れに齟齬していた。もはや誰の目にも幕府に期待する時代ではなくなり、こうした事情に鑑みて諸藩でも藩政改革を断行し、治政の立て直しに懸命となった。この改革に成功した藩が次第に勢力を増していくこととなり、「雄藩」として台頭し始めていくことになる。この「雄藩」が次第に影響力を行使していくことになり、譜代、親藩、外様と秩序分けされていた大名支配の幕閣秩序を壊し始めて行った。名高いところとして薩摩藩、長州藩等が挙げられ、やがて政局の動向に少なからぬ影響力を及ぼし始めて行くことになる。時代は少しずつ幕末維新の動乱期へと向かっていた。 |
【新学問、新宗教の胎動】 |
こうして徳川幕藩体制の支配秩序はいたるところにほころびが生まれ始め、政情不安の種が蒔かれつつあった。
こうした時代に応じて、イデオロギー的にも、幕府官学の儒教思想や停滞しきった寺院仏教とは系統の異なる、陽明学、国学が台頭してくることとなった。新しい思想、信仰を求めようとする群像が日本の至るところに生まれ始め、次第に統治論として尊皇攘夷の思想が声高になっていった。尊王武士の登場は幕藩体制の根幹を揺るがすかの如くに、時の流れが動き始めることとなった。 他方では、長崎を上陸地点とした蘭学が西欧の新しい文化、科学技術を伝え、ひいては幕藩封建政治、鎖国体制を批判する風潮を強めつつあった。この頃庶民の間には、仏教、神道に限らず、俗信仰が流行し、世俗的な生活と結びついた講が盛んになった。霊場巡礼、寺社詣り、おかげ詣り、ことに山伏修験者などによる加持祈祷が流行の兆しを見せた。 こうして学問から宗教まで、右から左から至る所に政情不安の種が蒔かれつつ、時の流れが否応なく幕府の屋台骨を揺さぶり続けていく時代となった。 |
【「後期水戸学」の尊王運動】 |
これは、「水戸学の影響」で概述する。 |
【「西郷隆盛の歩み」】 |
「ウィキペディア西郷隆盛」を参照する。 1827(文政10).12.7日、、薩摩国鹿児島城下の下加治屋町山之口馬場で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛(のち吉兵衛隆盛に改名、禄47石余)、母マサの第一子(長男)として生まれた。西郷家の家格は御小姓与であり下から2番目の身分である下級藩士であった。本姓は藤原を称する。 名(諱)は元服時には隆永(たかなが)、後に武雄・隆盛(たかもり)と改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲(なんしゅう)。父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父吉兵衛の名を届けたので、それ以後は父の名を名乗ったからである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門などの変名も名乗った。 次弟は戊辰戦争で戦死した西郷吉次郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。 1839(天保10)年、後の西郷隆盛は、藩校造士館からの帰途、友人と争い右肘を負傷したので、武術をあきらめ、学問で身を立てようと志した。 1841(天保12)年、元服し、吉之介隆永と名乗った。この頃に下加治屋郷中(したかじやごじゅう)の二才組(にせぐみ、青年組織)に入った。 1844(弘化元)年、郡奉行迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめ、御小姓与(一番組小与八番)に編入された。 1847(弘化4年)年、郷中の二才頭となった。 |
【箕作阮甫が幕府天文方蕃書和解御用を命ぜられる】 |
箕作阮甫は、美作国津山藩(津山市)藩医の家に生まれ12歳で家督を相続。京都で漢方医学を学び、文政5年(1822)に藩医となる。翌年、江戸へ出ると蘭方医、宇田川玄真の門人となり蘭学を学ぶ。阮甫は、わが国初の医学雑誌「泰西名医彙講」や「外科必読」など多くの翻訳本を刊行。 1839(天保10)年、幕府天文方蕃書和解御用を命ぜられ、外交文書の翻訳に当たっている。ペリー艦隊来航時には、米大統領国書の翻訳にあたり、対露交渉団の一員として長崎にも出向くなど活躍し、幕府の蕃書調所が創設されると教授職筆頭に任命され幕臣に取り立てられている。1857(安政4)年に「お玉ケ池種痘所」が設立された際には,拠出者の筆頭となっている。 |
【佐久間象山の「海防論(海防八策)」】 | ||
1842(天保13).11.24日、幕末最大の思想家の一人、佐久間象山は、当時幕府の海防掛老中であった 松代藩主・真田幸貫に「海防論(海防八策)」を提出し、アヘン戦争での中国の敗北と列国の動揺を研究し、国際情勢を見極め、適切な防衛政策を探る必要性を強調した。その中で次のように述べている。
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【ペリー艦隊来航予告文】 |
1852(嘉永5).8月、オランダ商館長(クルチウス)が「別段風説書」と呼ばれる文書を長崎奉行に提出した。毎年、オランダ領東インド政庁が海外情報を記した書面を作成し、商館長を通して幕府に渡していたもので、「オランダと通商条約の締結をするように。明年アメリカ使節が通商を求めて来日する」と、米国政府が日本に使節を送る計画が示されていた。予告文には、その重要性を強調すべく丸印がつけてあったという。風説書に添えて、オランダ東インド総督の書簡と日蘭(らん)条約草案の抜粋もあった。幕府は無視した。海防関係の諸大名らと内々に対応を協議したが、財政難のため防衛強化は行われなかった。 |
1853(嘉永6)年の動き |
【ペリー艦隊が琉球上陸】 |
5月、ペリー堤督率いる黒船4隻が、日本に向かう途中、補給のため沖縄の那覇港に上陸した。ペリー堤督と海兵隊2個中隊は砲2門と共に首里城に向かい、琉球王国政府に高圧的な外交交渉をした。琉球王国政府は要求を受け入れた。 |