薩摩藩

【薩摩藩】
 西国の雄藩、薩摩がどれほどの力を持っていたか。幕末期の薩摩藩の藩士の数で確認する。「明治初年の全国の藩士数は40万9千468名、薩摩の藩士数は 4万8千387名。但し、これには幕府の直参は入っていない」。この数字から判明するのは、「幕末期、藩士10名のうち 1人が薩摩藩士」と云うことになり、薩摩藩士がそれほどど多かったことになる。藩士1万人を超す藩は数えるほどしかなく、その中にあって薩摩藩が約1割に迫る5万近くの藩士を抱えていたことは異常な多さと云える。戦いの基本がマンパワーであった時代において、藩士のこの多さは決定的であった。

 せいぜい73万石でしかない薩摩がこれほどの武士を養える秘密に、琉球を植民地支配していたことが考えられる。
 西郷が郡方書役助郡方に勤務して5年後の1849(嘉永2)年、薩摩藩に「お由羅騒動」(おゆらそうどう)と云われるお家騒動が発生している。「お由羅騒動」とは、薩摩藩第27代藩主・島津斉興(なりおき)の後継を廻る正室と側室の争いであった。通常であれば、後継は正室・周子(かねこ)の子の世子(せいし・藩主の跡継ぎになる子供)である斉彬(なりあきら)となるのが順当であったが、斉興は、側室・由羅(ゆら)の子の久光(ひさみつ)を藩主にしようとし始めた。ここから騒動が始まる。

 斉彬は、進取気鋭の性格で、当時の日本を取 り巻く諸外国の事情にも通じ、世間からは「当時三百諸侯中の世子の中でも随一」と評されるほどの人物であった。つまり、暗愚ではなかった。しかし、藩主の斉興は、斉彬を嫌い家督を譲ろうとしなかった。既に、斉興は58歳、斉彬は40歳になっていた。普通、世子が20歳代にもなれば、藩主は隠居して家督を譲るのが通例だったことを思えば異例であった。

 藩内の斉彬グループであった高崎五郎右衛門(たかさきごろううえもん)と近藤隆左衛門(こんどうりゅうざえもん)を中心としたグループが、斉興隠居・斉彬擁立を画策し始めた。これに対して藩主・斉興が激怒し、高崎、近藤の両名に切腹を命じ、この運動に関わった者達に切腹や遠島、謹慎といった重い処分を下した。これがいわゆる「お由羅騒動」とか「嘉永朋党事件」(かえいほうとうじけん)、「近藤崩れ」、「高崎崩れ」と云われるものである。西郷家と縁の深かった赤山靱負(あかやまゆきえ)もこの「お由羅騒動」に連座し切腹している。

 「お由羅騒動」により斉彬派はなりを潜めざるを得なかったが、斉彬自身は藩主になることを諦めなかった。自らが得た知識を藩政に生かし、藩政改革を力強く推進したい、そして、諸外国の圧迫が迫る日本のために自らの手腕を生かしたい。かく自負していた斉彬は、藩主に成るべく一計を講じる。まず、斉興の腹心であり、薩摩藩の家老で財政責任者でもあった調所笑左衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)を失脚させようと考える。調所は、1827(文政10)年、藩財政改革の主任となり活躍し、主として琉球を仲介としての清との密貿易によって藩財政を立て直した。軍制改革にも貢献した。調所はお由羅側であった。

 斉彬は日頃親しくしていた老中・阿部正弘(あべまさひろ)の協力を得て、薩摩藩の密貿易(琉球を通じて薩摩は外国と貿易をしていた)を幕閣の問題にあげて、斉興及び調所を追い詰める。自らの藩の秘密を漏らし問題にすることは斉彬にとって苦肉の策であったが、この秘策が的中する。調所は責任を一身に引き受け服毒自殺し、藩主斉興も隠居を余儀なくされる。

 こうして1851(嘉永4)年、斉彬が第28代薩摩藩主に就任する。斉彬は藩主に就任するや否や、薩摩藩を激動時代に照応した近代藩にするべく徹底的に新しい改革を始める。蒸気船の製造、汽車の研究、製鉄のための溶鉱炉の設置、大砲製造のための反射炉の設置、小銃の製造、ガラスの製造(薩摩切子・さつまきりことして今日でも有名です)、ガス灯の設置、紡績事業、洋式製塩術の研究、写真術の研究、電信機の設置、農作物の品種改良等々一々挙げていけば切りがないほどの、当時の技術水準から考えれば信じられないほどの改革を推進した。現在でも、斉彬が江戸時代随一の名君であり、英明君主であったと云われているのは、この斉彬が興した近代事業をもってしても判明する。

 斉彬は人材登用にも力を入れ、藩内に「藩政において、自分が気付かないことがあれば、どんどん意見書を出すように」という布告を出す。西郷はこれにより登用されて行く事になる。この頃、西郷は、大久保正助(おおくぼしょうすけ・後の一蔵、利通)らと共に、誠忠組(せいちゅうぐみ)という若手勤皇グループを作っていた。斉彬の布告を見て建白書を書き藩庁に提出する。農政や「お由羅騒動」で今なお正義の武士達が遠島や謹慎を解かれていないことを問題とする意見書を書き、度々提出した。この西郷の建白書や意見書が斉彬の目に留まり、1854(安政元)年、西郷は郡方書役助から中御小姓・定御供・江戸詰(ちゅうおこしょう・じょうおとも・えどづめ)を命じられる。かく登用された西郷は、斉彬を終生の師であり、神とも崇める。その出会いはこの時から始まる。

 斉彬の参勤交代に付き従い、江戸に到着した西郷は、斉彬より庭方役(にわかたやく)を拝命する。庭方役とは、面倒な手続きを取らずに、自由に庭先などで会うことの出来る意であり、最高の引き立てであった。この日から西郷は、斉彬から日本の現在の政治情勢、諸外国の事情、そして、当面の日本の問題等を教育される。斉彬自身も、西郷と接する度、「この若者は、必ずものになる」と確信し、愛情を持って西郷を一人前の人物になるよう教育した。薩摩では、「斉彬公が西郷どんを呼んでお話をなさる時は、たばこ盆をおたたきになる音が違った」と伝えられている。

 このように、斉彬の薫陶を受けた西郷は、当時江戸中で名をはせていた水戸藩の藤田東湖(ふじたとうこ)や戸田蓬軒(とだほうけん)、越前福井藩の橋本左内(はしもとさない)といった人物などと交流するようになり、次第に西郷の名も諸藩士の間で知られるようになっていく。このようにして西郷は、斉彬によって天下のことを知り、世に出でるようになった。

 1858(安政5).7.16日、斉彬は薩摩で病没した。斉彬の跡に薩摩藩主を継いだのは、お由羅の方の子・久光の子・忠義(お由羅の孫にあたる)だった。当初は斉彬久光の父である斉興が後見したが翌年没したため、実父久光が後見となる。

 1859(安政6)年、藩内尊攘派による関白九条尚忠らの暗殺計画が露見,忠義は久光とともに「精忠士面々へ」と題した書でもってこれを諭し、大久保一蔵(利通)ら尊攘派は脱藩を中止した。

 忠義は久光とともに公武一和を掲げ、1862(文久2)年に久光を国父として遇した(忠義は自分の実父である島津久光(ひさみつ)を藩主と同等の待遇を受けることが出来る「上通り」(かみどおり)という身分にする)。こうして、藩の実権は久光が握ることになった。久光は、斉彬の行っていた事業をすべてとりやめた。斉彬の寵臣・西郷隆盛は、久光に嫌われ、2度にわたって、島流しにあっている。












(私論.私見)