◆私は、十五、六歳のころ、「何になりたいか」と兄に聞かれて、「日本一の金持ちになりたい」といった(「福翁自伝」).
金持ちになるためには、国民をだまして「金と命を出させて、近隣諸国の領土・資源・労働力・文化財を奪うことが必要だ」と考えた.
そのためには、教育と報道で世論をつくることが必要であった.教育では慶応義塾を、報道では時事新報を創設した.
そして台湾・朝鮮半島・中国全土を植民地化するためには、戦力を持ち、「国権を皇張すること」が必要と宣伝した.(1881「時事小言」)
それが成功して、日清戦争(1894-1895)では、台湾の植民地化を達成し、同時にそれを報道した「時事新報」の発行部数を伸ばして、「金持ちになる夢」に大きく近づいた.
諭吉は、天皇家の先生だった!
昭和天皇は、皇太子(2009年3月現在の天皇)の教育に小泉信三をあてました(1946年4月~1958年).
小泉信三は、福沢諭吉の「帝室論」を教材に、青年時代の現天皇の教育をおこないました(小泉信三「ジョオジ五世伝と帝室論」).
皇太子の家庭教師役を任命されたとき、小泉信三は慶応義塾の塾長(1933年~1947年)でした. 彼の父親も、慶應義塾の第二代の塾長(1887年~1890年)でした.慶応義塾は、諭吉が創設し、第1代塾長は諭吉でした.
彼は、「政府の影のお師匠様」(注)であり、天皇家の先生でもあったのです.
(注)「福沢諭吉全集」(第20巻414頁)
「立君の政治」は「人主が愚民を篭絡するの一欺術」
(天皇制は「支配者が、バカな国民をだますための一つの詐欺的な手法である」)
(1881年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻271頁)
小泉信三は、「そう指摘されたら、どう答えるか」を若き現天皇に教えていたのです.(注)
現天皇は、皇太子に何を教えたのでしょうか?
(注)
「福沢諭吉の『帝室論』を読むために、殿下も私も、それぞれ福沢全集の一冊をこの一隅に持ち込んだこともある」
「部屋の大きさは二十畳ぐらい」
「両陛下がお出ましになったときにもここへお通りになる」
「壁に寄せて直立ピアノが置いてある」
「皇太子殿下は主にその二階にお住居になっている」
(小泉信三「ジョオジ五世と帝室論」)
http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post.html
天皇制は「支配者が愚民を篭絡するの一欺術」
(天皇制は「支配者が、バカな国民をだますための一つの詐欺的な手法である」)
(1882年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻271頁)
天皇を頂点とする利権・既得権益の体系、それが「天皇制」の本質ではないか?
それは、天皇制を支持する人びとを見ればわかる.彼らは、何らかの権益をもっている.(反論できる人はいないようだ)
もう一つの証拠は、昭和天皇だ.彼は、終戦の詔勅(ラジオ放送)で、「ここに国体を護持し得て」といった.
天皇制の維持・存続の希望を出し、結果として戦争責任から逃れ、「日本国憲法」第1章に「天皇」を書き込ませたのだ.歴史に残る戦略家というべきではないか?
http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post_7753.html
「馬鹿と片輪(かたわ)に宗教、丁度よき取り合わせ」
靖国神社が作られた頃の諭吉の文章です.
(福沢諭吉全集 第20巻232頁)
諭吉は、靖国神社の本質をよく理解していた
「国民はだまされて、国のために死んでくれ!」
その諭吉を、一万円札の肖像として毎日拝ませる人たちがいる!
日本の「文化と伝統」は、「だまされること」ではないはずです!
http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post_14.html
「天皇が、ヤスクニ神社を参拝するべきだ」 (福沢諭吉)
「靖国神社の臨時祭には、辱(かたじ)けなくも天皇陛下の御臨席さへありて、・・・。
・・・大に遺族のものに給与して死者の功労に酬ひん(むくいん)こと我輩の切望・・・」
(死者に厚くす可し」
(1895年 福沢諭吉全集 第15巻341頁)
(天皇陛下が、死者の功労に十分あつくむくいれば、遺族も悲しまないだろう. そうしてほしい. そうすれば国民は、天皇と国のために、喜んで死ぬだろう)
福沢諭吉の時代には、憲法は国の機関の宗教活動を禁じてはいませんでした.
http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post_15.html
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英国もフランスも、人の土地を奪っている!
(対中侵略15年戦争の諭吉の布石)
「今は英国もフランスも、競争して人の土地を奪っている」
「今は競争世界で、英国なり、仏国なり、・・・
皆吾れ負けじと、人の隙に付け入らんとするの時節なれば、理非にも何も構ふことはない、
少しでも土地を奪へば、暖まりこそすれ・・・遠慮に及ばぬ、「さっさ」ととりて暖まるがよい」
(1881年「宗教の説」福沢諭吉全集第19巻711頁 「福沢諭吉のアジア認識」299頁)
「支那と戦に及ぶこともあらば、・・・真一文字に進て其喉笛に喰付くこと緊要・・・北京、是なり」
(1882年 「喉笛に喰付け」全集第8巻260頁)
「支那国果たして自立を得ずして諸外国人の手に落ちることならば、我日本人にして袖手傍観するの理なし. 我も亦奮起して共に中原に鹿を逐わんのみ」
(1882年 全集第5巻313頁)
「朝鮮は固より論ずるに足らず、我目ざす当の敵は支那なるが故に、先ず一隊の兵を派して朝鮮京城の支那兵を塵(みなごろし)にし、・・・. ・・・両国の戦争となることあらば、・・・日本の勝利必然なり」
(1884年 「戦争となれば必勝の算あり」(全集第10巻159~)
「目につくものは分捕品の外なし.
何卒今度は北京中の金銀財宝を掻き浚えて、彼の官民の別なく、余さず漏らさず嵩張らぬものなればチャンチャンの着替えまでも引つ剥で持帰ることこそ願はしけれ.
其中には有名なる古書画、骨董、珠玉、珍器等も多からんなれば、・・・ 一儲け ・・・.
・・・其老将等が、生擒の仲間で幸にまだ存命にてあらんには、・・・
之を浅草公園に持出して木戸を張り、・・・之に阿片煙を一服させると忽ち元気を吹返しましてにこにこ笑ひ出します、・・・御慰み」
(1894年 「漫言」全集第14巻570頁)
この諭吉の教えにしたがって、日露戦争(1904~1905)年の後、旧日本軍が「対中継続的侵略の決意」として、大連近郊より持ち帰った唐時代の文化遺産「鴻臚井(こうろせい)の碑」があります.
それは、1300年ほど前に作られた石碑で、その時代のその地方の唐の統治を示す歴史的な記念碑です(朝日新聞 2006年5月28日). おそらく、旧日本軍は、中国の統治を日本が奪うという意思の確認のために、略奪して日本に持ち帰ったものと考えられます.
この碑は、明治天皇に献上され、21世紀の現在でもひそかに他の略奪物と共に、宮中に保管されています.
日本政府あるいは天皇家は、これらの文化財を含む略奪品を中国へ返還する意思を表明していません. まさか、永久に返還する意思はないということではないとは思いますが.
http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/1881711299.html
福沢諭吉:
「金と兵は有る道理を保護するの物に非ずして、無き道理を造るの器械なり ・・・
本編(1881年「時事小言」)立論の主義はもっぱら武備を盛んにして国権を皇張するの一点にあり。
事情切迫におよぶときは、無遠慮にその地面(アジア諸国)を押領して、わが手をもって新築するも可なり」
(福沢諭吉全集第5巻108ページ~)
http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post.html
私(福沢諭吉)は、「暗に政府のお師匠様」であった
1897年8月22日「時事新報」(社主・福沢諭吉)から
「王政維新の前後に日本国中の人が専ら老生の著訳書ばかり読んで文明の新知識を得たるは紛れもなき事実にして、或いは維新政府の新施設も拙著の書を根拠にして発表したるもの多く、暗に政府のお師匠様たりしことは、故老の忘れざるところなり」
(福沢諭吉全集第20巻)
その諭吉は、天皇制について「愚民を篭絡するの一欺術」といっています.(全集第5巻)
また、「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合わせ」といっています.(全集題20巻)
東京招魂社が、靖国神社になったころです.
「日本は天皇を中心に歴史が作られてきた.
国が強くなることが大切、近隣諸国の領土・資源・労働力・文化遺産を奪いとれ.
天皇のため、国のためには、『カネ』も出せ、命も出せ!
死んだ後には靖国神社がある」
諭吉は、国民を馬鹿と見て、これをだまして税金と命を取る、そのダマシのシステムが天皇制と靖国神社だと考えていたのでしょう.
真に賢い師匠でした.今の日本も、その師匠を一万円札の肖像として、毎日拝ませています.
ダマス者が賢く、国民は愚民!
それが、日本の伝統と文化でした.
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「天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための一つの手段だ」 ─ 福沢諭吉の理解!
「立君の政治」は、「人主が愚民を篭絡するの一欺術」
(福沢諭吉全集 第5巻271ページ)
諭吉は、こう書いています.
「天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための一つの手段だ」という意味です.(「そういわれたら、『それは、政治を知らない』と答えよ」といっています)
なぜ、彼はそう書いたのか?
それは、次の理由によります.
◆自分は金持ちになりたい.(「日本一の大金持ちになりたい」
これが、彼の少年時代の夢だった(岩波文庫「福翁自伝」)
◆金持ちは、多数の者の生命と財産の犠牲の上に可能となる
◆支配者が国民の生活を犠牲にして、初めて金持ちが可能となる
◆自分は、支配者の側に立ちたい.
門閥制度で一生下級武士はいやだ!
◆一方国民は、だまって生活を犠牲にはしてくれない.
◆だから、国民をだまさなければならない.
◆国民をだますためには、天皇制をもってくるのが一番よい.
◆天皇のために、命も財産も投げ出す.「お国のため、大義のために死ぬ」ということができる.
(若くして殺された特攻隊員がそうだった)
◆彼らと遺族が、がっかりしないように靖国神社(1879年)をつくっておこう.
◆自分は表向き、教育(慶応義塾)と新聞(時事新報)の責任者ということで行こう.
◆実際には「暗に政府のお師匠さま」(全集第20巻頁)として、侵略戦争を推し進め、そこで上前をはねよう.(実際に戦争報道で大もうけをした)
これが、福沢諭吉の真実です.
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福沢諭吉は、少年時代の「大金持ちになりたい(福翁自伝)」夢を実現するためには、天皇制を支持したのだ.
◆「大金持ち」になるためには、略奪・侵略・殺戮・戦争が必要だ.
◆「お前たちが死んで、私たちが略奪物を取るから、戦争に行け」では、賛成してもらえない.
◆そこで、天皇制を利用しよう.
◆「私たちのため」ではなく、「天皇のため」「国のため」「大義のため」に死んでもらおう.
◆そのために、靖国神社も用意しておこう.「英霊になる」なら、死んでも文句はないだろう.
◆そこで、彼は、天皇制についてこういった.
◆「立君の政治」は、「人主が愚民を篭絡するの一欺術」 (天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための手段だ)
(福沢諭吉全集 第5巻271ページ)
◆彼は、そのリクツを実行して、台湾・朝鮮の植民地化、対中侵略戦争を教育・宣伝して、日清戦争では自分の新聞の発行部数を大いに伸ばして大もうけをした!
◆彼の教えは、日清・日露戦争から、対中侵略15年戦争・太平洋戦争を通じて、2009年の現在にいたるまで続いている.(指導者としての立場は、一万円札の肖像として認められている)
日本では、まだ諭吉の教え子たちが「人主」として生きている.
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福沢諭吉は、天皇制を「天皇制は、国民をだますための手段」だと理解していました.
「立君の政治」は、人主が愚民を篭絡するの一欺術」
(天皇制は「バカな国民をだますための一つの詐欺的な手法である」)という人がいるが、「それに対しては、『政治を知らない者がいうことだ』と答えればよい」と教えています.
(1881年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻271頁)
国を富まし、強くするためには、台湾・朝鮮の植民地化だけではなく、対中国侵略こそ「本命」であると主張していました.
「支那と戦に及ぶこともあらば、・・・真一文字に進で其(その)喉笛に喰付くこと緊要)・・・北京是なり」
(1882年「喉笛に喰付け」全集第8巻260ページ)
中国の領土、資源、労働力をすべて奪いとれ、これが1882年に彼が教えたことです.
国を強くするには、命を捨てろ、天皇のために死ぬことは美しいことだ.
「国のためには財を失ふのみならず、一命を抛て惜しむに足らず」
(1873年「学問のすすめ」第三編 全集第3巻43ページ~)
(そして、諭吉を含む一部の者が大金持ちになるのです)
日本政府と国民は、この教えを忠実に守り、50年後(1931年)対中国侵略15年戦争に突き進み、太平洋戦争を経て、2009年の現在、諭吉を最高額紙幣の肖像として、毎日拝んでいます.このように、明治以来「ダマシのシステム」はつづいています.
http://hibari-yukichi.blogspot.com/
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★ 大学の教師をしていた頃、「それは間違い。原文を読んで」と、学生達の先入観を正すのに苦労したハナシをご披露したいと思います。それと言うのも、ブログやSNSの日記を見ていると、同じ間違いが随分、多用されているからです。
今日、お話ししたいのは、福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず・・・・」の”故事”成句のこと。
★ 私は、大学で「人権論」という講義を担当していました。”天賦人権”を語ると、多くの学生は
「知ってます。福沢諭吉の”天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず” 人間平等の原理」
などと、即答します。高校でそう教えているのですね。
★ その度に、繰り返して来た言葉:
「それは間違い。その言葉は、福沢諭吉の『学問のすすめ』の一番、最初に出てくる言葉だね。
でも、もう一度、しっかりと原文を読んで来なさい。福沢諭吉は、決して、そうは言っていない。
福沢諭吉は天賦人権論者ではないョ。 全く逆。
それをしっかり確かめて来なさい」
★ そのハナシをすると、多くの方々が、「エッ!」と、怪訝な顔を私に向けます。
どなたも日本で最初に人類普遍の原理「平等」を説いたのは福沢諭吉と信じておられるようです。
「天は人の上に・・・・・と言ったのは福沢諭吉では???」
★ 無理はありませんね。 例えば、手軽なネット百科事典として、誰もが利用する「ウィキペディア」にもこのように書かれています。
天賦人権説(てんぷじんけんせつ)とは、すべて人間は生まれながら自由・平等で幸福を追求する権利をもつという思想。ジャン=ジャック・ルソーなどの18世紀の啓蒙思想家により主張され、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言に具体化された。日本では明治初期に福澤諭吉・加藤弘之らの民権論者によって広く主張された。
★ しかし、これは間違い。確かに福沢諭吉も、加藤弘之も、明治初期の啓蒙家として、天賦人権の思想を紹介はしていますが、二人とも「天賦人権論者」ではありません。加藤弘之などは、逆に社会進化論の立場からそれを否定しておりますし、福沢諭吉も加藤弘之の社会進化論に近い”学問至上主義”の立場、天賦人権などには否定的です。
★ それをしっかり確かめるために、是非、福沢諭吉の著書『学問のすすめ』を原文で読んでみて欲しいです。巻頭第1ページ冒頭にある、その行を引用してみましょう
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。
されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤(きせん)上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資(と)り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。
されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。
『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。
そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役はやすし。
ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。
福沢諭吉著 『学問のすすめ』
★ 確かに福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という有名な言葉で、この論文を書き始めています。
大事なことは、それに続く「と言えり」の4文字。「と、言われている」 が、しかし・・・と、以下に続いています。
福沢諭吉が言いたいのは、その先です。 後の文章は、全部、「そうではない」と、その理由を述べています。
◎ 現実は、そうじゃない、賢人愚人、貧しき者、富める者、貴人下人・・・雲泥の差があることは明白。それには理由がある。と言うのです。
つまり人間の優劣は学問によって決定される。優れたものが劣っているものを支配するのは当然のこと。
◎ (天賦人権のような考えより) 我が国で平安時代から子弟の教育に用いられて来た教科書「実語教」にあるように、賢者と愚人の差は、学ぶか、学ばないか、によって定まる。 肉体労働と知的職業に別れるのもそのためだ。
◎ だから医者、学者、政府の役人、富める商人、大地主などは、高い身分の貴人なのだ。
と、そういう論理を展開しています。
天賦人権論の先駆者どころか、その敵である「社会進化論」の側に立つ主張者ですね。一般に信じられている福沢諭吉像とは全く逆です。
学問による”弱肉強食” 能ある者が能乏しき者を支配するのは当然、と言っているのです。
★ 「・・・・と言われているが、そうじゃない」と、引用されている「・・・・」句が、短絡にが本文から独立し、しかもその引用句が引用者自身の言葉として一人歩き。 誰も正さないうちに、いつの間にか”故事成句”に成熟して熟語化し、戦後の民主主義の御代になると、爆発的に流行し始めた各種の「人権論」講座の枕詞に用いられる。
そして我が国における人権論の先駆者として、疑われることもなく君臨し、社会の通念にまでなる。
★ 言葉としては誰もが知っている”社会常識”。
だが、それを口にするほとんどの人が原文を読んだことがない。
そして間違った”偶像”が信奉され、もはや、誰も疑うものがない・・・・思えば、コワイハナシです。
★ そこで言いたい私の「学問のすすめ」は、故事成句を使うなら、必ず原文を読んで、その真意を確かめよう。 私の大学の恩師は「読書とは師との向かい合いである」と教えられました。その大切さを、今、思います
http://zenmz.exblog.jp/13489906/
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安川寿之輔さんの福沢諭吉批判を聴いて考えたこと
安川寿之輔さんが、「「暗い昭和」につながる「明るくない明治」」と題する講演をされた。
1.福沢諭吉の天賦人権論の虚実
「明るい明治」と「暗い昭和」を対置する司馬遼太郎の歴史観は、近代日本を「明治前期の健全なナショナリズム」対「昭和前期の超国家主義」と捉える丸山真男の二項対立史観をわかりやすい表現に言い換え、踏襲したものである。そして、その丸山が明治前期の健全なナショナリズムの代表格として評価したのが福沢諭吉の天賦平等論であり、一身独立論であった。
しかし、福沢の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」というフレーズは、「・・・と云へり」という伝聞態で結ばれていることからわかるように福沢自身の思想を表したものではない(アメリカの独立宣言を借りたことばであった)。
丸山氏はこの点をすっぽり落としている。
「万人の」という意味では後掲の福沢の天皇制論に見られる愚民籠絡論や、ここでは紹介できないが工場法反対論にみられる貧困市民層に対する蔑視の思想、家父長制的な女性差別論などは、福沢の人間平等論の虚実を示す典型例といえる。
こうした福沢の天賦人権論の虚実を精緻な文献考証を通じて徹底的に立証した点で安川さんの研究には特筆すべき価値があると感じた。
2.福沢諭吉の「一身独立論」の変節
福沢が『文明論の概略』の中で、「人類の約束は唯自国の独立のみを以て目的と為す可らず」、「一国独立等の細事に介々たる」態度は「文明の本旨には非ず」という正しい認識を記していた。(もっとも、順序としては「先ず事の初歩として自国の独立を謀り、(一身独立のような)其他は之を第二歩に遺して、他日為す所あらん」と述べ、「自国独立」優先の思想を明確にしていたが)。
また、福沢は自ら、アメリカ独立宣言を翻訳するにあたって、「人間(じんかん)に政府を立る所以は、此通儀(基本的人権のこと)を固くするための趣旨にて、・・・・・・政府の処置、此趣旨に戻(もと)るときは、則ち之を変革し或は倒して、・・・・新政府を立るも亦人民の通儀なり」と訳し、人民の抵抗権、革命権を正当に訳出・紹介していた。
しかし、かく紹介する福沢も自分の思想となると、「今、日本国中にて明治の年号を奉る者は、今の政府に従ふ可しと条約(社会契約のこと)を結びたる人民なり」と記して国家への国民の服従を説いた。
さらに、その後、自由民権運動と遭遇した福沢は1875年の論説において、
「無智の小民」「百姓車挽き」への啓蒙を断念する
と表明し、翌年からは宗教による下層民教化の必要性を説き、
「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合せならん」
という人間蔑視の思想を憚りなく公言するに至った。こうして福沢は啓蒙期の唯一の貴重な先送りの公約であった「一身独立」をも放棄したのであった。
ところが丸山真男は、福沢自身が優先劣後の区別をした一国独立と一身独立の議論の実態を無視し、さらにはその後の福沢が一身独立の思想を放棄した現実を顧みず、個人的自由と国民的独立の見事なバランスと言い換え、両者に内在する矛盾、軋轢――後年の福沢の一身独立論を変節に導く伏線となる要因――を無視して、福沢賛美の根拠に仕立て上げたのである。
3.福沢の変節の極みとしての神権天皇制論
安川さんの講演の中で開眼させられた一つは福沢の天皇制論に対する言及だった。福沢は『文明論の概略』の第9章までの記述の中では、たとえば、「保元平治以来歴代の天皇を見るに、其不明不徳は枚挙に遑(いとま)あらず」と記し、「新たに王室を慕うの至情を造り、之(人民)をして、真に赤子の如くならしめんとする」のは「頗る難きこと」と述べて、天皇制に批判的な考えをしていた。
ところが、福沢は1882年に「帝室論」を書く頃には天皇制論を大転換させ、「帝室・・・・に忠を尽くすは・・・万民熱中の至情」などと言いだした。これについて、福沢は国会開設後の「政党軋轢の不幸」に備えて人心の軋轢を緩和する「万世無欠の全壁」たる帝室の存在が必要になったと説くとともに、「其功徳を無限にせんとするが故に」帝室は日常的には政治の外にあって下界に降臨し、「一旦緩急アレハ」天下の宝刀に倣い、戦争の先頭に立つよう説いた。
ところが、丸山真男は福沢が日常的にはと断って説いた皇室=政治社外論を一般化し、福沢が「一貫して排除したのはこうした市民社会の領域への政治権力の進出ないしは干渉であった」と誤解したのである。
4.福沢のアジア侵略思想の歩み
1880年代前半に福沢が『時事小言』、「東洋の政略果たして如何せん」などにおいてすでにアジア侵略の強兵富国 政策を提起していたが、日清戦争が近づいた1894年に書いた論説「日本臣民の覚悟」では、
「我国四千万の者は同心協力してあらん限りの忠義を尽くし、・・・・事切迫に至れば財産を挙げて之を擲つは勿論、老若の別なく切死して人の種の尽きるまで戦ふの覚悟」
を呼びかけた。ここに至って、福沢のかつての一身独立論は国家への滅私奉公の前に完全に呑み込まれ、跡形なく消失したといえる。
また、これに続けて福沢は、
「戦争に勝利を得て・・・・吾々同胞日本国人が世界に対して肩身を広くするの愉快さえあれば、内に如何なる不平等条理あるも之を論ずるに遑あらず」
と公言して憚らなかった。
さらに、福沢は旅順の占領も終わり、日清戦争の勝利が見えてきた1895年1月に書いた論説(「朝鮮の改革・・・・」)において、
「主権云々は純然たる独立国に対する議論にして、朝鮮の如き場合には適用す可らず。・・・・今、日本の国力を以てすれば朝鮮を併呑するが如きは甚だ容易にして、・・・・・」
と記し、その後の韓国併合の可能性を予見するかのような主張をしていたことに安川さんは注目を喚起された。
こうした福沢の言動は安川さんも指摘されたように、『坂の上の雲』において司馬が日本にによる朝鮮出兵を「多分に受け身であった」と記しているのがいかに史実に悖る虚言かを、同時代人の言説を通して物語るものといえる。
また、NHKは『坂の上の雲』の第一部で毎回、冒頭に「まことに小さな国日本が」というフレーズを流したが、上の福沢の言説は当時の日本が少なくとも対朝鮮との関係では「小国」どころか、何時でも朝鮮を呑みこめる国力を持った強兵富国の大国であったことを意味している。
植民地として統治された相手国の認識を等閑に付して、武力で近隣国を占有した自国を「小さな国」などと呼号するのは、過去に自国が犯した罪に対していかに無邪気かを物語っている。
5.福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間の大きな懸隔
私が安川さんの講演から(正確には安川さんの後掲の3部作から)感じた福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間に大きな懸隔が生まれたのはなぜかということを考えておきたい。
まず、安川さんの資料から同時代人の評価として私の印象に強く残った論評を2点だけを紹介しておきたい。
吉岡弘毅(元外務権少丞):
「我日本帝国ヲシテ強盗国ニ変ゼシメント謀ル」・・・・のは「不可救ノ災禍ヲ将来ニ遺サン事必セリ」
徳富蘇峰:
「主義ある者は漫りに調和を説かず。進歩を欲する者は漫りに調和を説かず。調和は無主義の天国なり」
福沢が執筆した(『時事新報』の社説等を含む)全著作を吟味する限り、同時代人の評価が適正な福沢評であることは否めない。
にも拘わらず、それと対極的な評価があろうことか、戦後の「進歩的」知識人の間に広まった理由は、安川さんが精根込めた考証で明らかにしたように、
丸山真男の福沢誤読――『文明論の概略』など初期の著作のみを題材にした雑駁な読解に依拠し、
福沢の政治論、天皇制論、アジア統治論などがもっとも鮮明に記されたその後の論説を顧みない文献考証の重大な瑕疵――
とそれに多くの「進歩的」知識人が事大主義的に追随したことにあったといってよい。
かくいう私も丸山神話に侵された一人だった。3月20日に私の退職送別会を兼ねて開かれたゼミのOB&OG会に参加した第1期生がスピーチの中で、夏休みのレポート課題として私が丸山真男『『文明論之概略』を読む』を挙げたことを懐古談として話した。自分では忘れていたが、そう言われて記憶が蘇ってきた。2次会でそのゼミOB生と隣り合わせ、今では自分自身、福沢に対する見方がすっかり変わってしまったことを釈明した。
戦後日本の「民主陣営」に浸透した丸山神話は、過去のことではない。
権威主義、事大主義が今日でもなお「進歩的」陣営の中でも、陣営の結束を図るのに「便利な」イデオロギーとして横行している現実が見受けられる。
しかし、そうした個の自律なき結束は、陣営の外にいる多数の市民の支持を得るのを困難にし、長い目で見れば破綻の道をたどる運命にある。だから私は楽屋落ちの議論や個人の自律を尊ばない組織や運動を拒むのである。
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