守るも攻めるもテロの流れ(日本幕末時の倒幕志士と新撰組の抗争について)



 (最新見直し2006.3.13日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「幕末回天運動」の盛んになるに応じて幕府側の見廻組、新撰組の取り締まりが強化され、脱藩志士派との血で血を争う抗争が始まった。れんだいこはこれを「守るも攻めるもテロの流れ」と位置づけ考察する。2005年現在の思潮として、この抗争を新撰組の側から見る傾向が強い。思えば、れんだいこが青春してきた1970年代頃までは、脱藩志士派の感性と行動にシンパシーするものが主流であった。時に幕府の苦悩を見る視点もあった。しかし、新撰組の感性と行動にシンパシーする企画など考えられなかった。それだけ世の中の価値観が動いているのだろう。もっとも、補足しておくが、れんだいこは新撰組の感性と行動が分からないのではない。むしろ良く分かる。然しながら、ある種彼らも時代に翻弄されたその面でのエレジーが分かるのであって、彼らを賛美する視点に立つというものではない。

 問題は次のことにある。今日、「脱藩志士派と新撰組との血で血を争う抗争」を「道義的に為すべきでなかった」と評する視点から物言いする者が現われたら、我々はこれをどう遇するべきか。御説ごもっともと追従すべきだろうか。れんだいこは、歴史には当時の常識があり、それを理解して読み解くべきであり、後付けの道義的観点からなじる物言いを好まない。そういう視点からは歴史の実際ー激動が見えてこないと思うから。しかしだ、この物言いが案外と流行り病している現実があるように思われ、れんだいこが一言せざるを得ない根拠となっている。れんだいこが何が云おうとしているのか、慧眼の士は既に嗅覚しているであろう。そう、この問題は、日本左派運動内に立ち現われた党派間ゲバルト問題、2005年現在のイラクのレジスタンス闘争に通底しているのだ。だから考察せねばならないのだ。

 2005.4.9日 れんだいこ拝


【幕末志士側のテロル】
 各藩にはお抱えのテロリストが居た。脱藩志士達も彼らに守られていた。逆もそうである。判明している史実は次の通りである。「河上彦斎、中村半次郎、岡田以蔵、田中新兵衛」が「幕末四大人斬」と呼ばれる。
長州藩
薩摩藩 田中新兵衛
中村半次郎(後の桐野利秋)
土佐藩 岡田以蔵
熊本藩 河上彦斎

岡田以蔵(おかだ いぞう)
 1838(天保9) - 1865(慶応元).5.10(6.3)。土佐郷士。天性豪放で武芸を好み、武市半平太道場で鏡新明智流を極めた。土佐勤王党の志士、なってからは武市の命により天誅の殺戮を繰り返す。そして「人斬り以蔵」として京の町を震撼させた。土佐藩士で幕末四大人斬りの一人。 坂本龍馬の紹介で勝海舟の用心棒となった時期もあった。その後政変後捕らえられ拷問、打ち首となる。
 岡田以蔵は、1838(天保9年)、土佐郡江ノ口村の土佐藩の下級武士、足軽格の郷士の長男として生まれた。実家は元豪農で、天明年間に郷士株を取得し武士の身分を手に入れた。父、義平は嘉永元年に藩の足軽募集に応じ、岡田家は郷士と足軽の二重の身分を手に入れた。この家格は、藩組織の最下級のものであった。以蔵はこの身分を継いだ。

 独学で剣の修行をしていた以蔵は、麻田勘七の道場を経て18歳の時に武市半平太(瑞山)の道場に入門した。武市の履歴は次の通り。文政12年生まれ。長じて小野派一刀流の麻田勘七道場に入門し、免許皆伝を受ける。安政2年7.9日、土佐藩に剣技が公式に認められた。郷士といえども高級郷士であった武市は、身分を問わぬ待遇と門閥打破を歌い文句にしていた。以蔵は武市道場で一刀流剣術の修行に励む傍ら、武市の勤皇思想の影響を受けていった。

 安政三年、武市が藩命により江戸に剣術修行に出発した。以蔵も藩主山内豊範の出府に随従し江戸へ向かう。武市は、江戸三大道場のひとつであった鏡心明智流の名門・桃井春蔵の士学館道場に入門した。以蔵も武市に随い共に剣法を学ぶ。武市は免許皆伝を許され、母の病気の為に帰藩する。以蔵は止まり、藩主の病気による滞在期間の延長で二年間江戸で修行した。修行の末、中伝を許されている。その剣は「撃剣矯捷なること隼の如し」と評されている。

 この当時、剣客として名を挙げることがステータスであった。「長州藩士、神道無念流斉藤道場の塾頭、桂小五郎」の名声が高く、「現在、江戸で一番の剣客」と評されていた。「北辰一刀流小千葉道場の坂本龍馬」も評判が高かった。「鏡心明智流の士学館道場の武市半平太、岡田以蔵」の名も知られるようになった。

 土佐に帰った後も武市の下で剣の修行を続け、万延元年、剣術修行という名目で国暇を願い、四国、中国、九州を遍歴した。以蔵も随行し、諸流派の道場で腕を競い、剣名を高めた。文久元年、武市が江戸に出向き、長州の久坂玄瑞、薩摩の樺山三円らと交流し、土佐での尊王攘夷運動の盛り上げを誓う。

 帰国後、武市は土佐勤皇党を結成した。九州で修行中の以蔵も土佐に戻り土佐勤王党に加盟した。翌年、土佐勤王党は、山内容堂の片腕として参政していた吉田東洋を暗殺した。以蔵はこの事件に加わり、以降武市お抱えのテロリストとしての活動を始める。吉田東洋暗殺後の武市は土佐藩の実権を握っていき、藩論を尊王攘夷に傾けていく。しかし、東洋派の後藤象二郎、板垣退助との確執が続いていくことになる。

 1862(文久2).4.8日、那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助東洋の首が鏡川の雁切橋の川原にさらされた。

 1862(文久2).6月、武市は、悲願であった一藩勤皇を成し遂げ、藩主の山内豊範を説得し、五百名を従えて上洛した。薩摩、長州に続いての京入りであった。長州の桂小五郎、久坂玄瑞なども訪れ、特に長州との結びつきが強固なものとなっていった。

 以降、以蔵は、武市の命じるままに次々とテロリストとしての活動を始める。手始めは、吉田東洋暗殺犯の探索のために上洛していた土佐藩下横目付けである井上佐一郎の暗殺であった。8.2日の井上佐一郎絞殺を皮切りに、「人斬り以蔵」の道を進んでいく。

 この時期、京都では、「安政の大獄事件の報復」が始まっていた。文久2.7.21日、薩摩の「人斬り新兵衛」こと田中新兵衛が、かっての井伊直弼の用心棒役であり、長野主膳と結び、安政の大獄に暗躍した人物で九条関白家の家司となっていた島田左近を暗殺した。

 「人斬り以蔵」はこれに触発されるかのように、「人斬り新兵衛」と呼吸を合わせて「天誅」テロを次々と手掛けていった。岡田以蔵、田中新兵衛の二人の「人斬り」を中心に、京は天誅という暗殺の嵐が吹き荒れることとなる。

 閏8月20日、以蔵は、「人斬り新兵衛」と共に尊攘派の本間精一郎を刺殺している。本間は越後脱藩浪士で尊攘論者であったが、武市の「長州、薩摩、土佐の力をねたみ、何かと妨害工作をして困っている。いずれ、長州か薩摩の刺客が斬るとは思うが……」との言に促され、これをテロり、その首を四条河原にさらした。「越後の浪士本間精一郎が勤王を装って金銭を貪り、幕府の間諜的行動に出るのを憎んで、田中らと謀って本間を暗殺」。

 閏8.22日、宇郷玄蕃頭重国刺殺。閏8.30日、目明しの猿の文吉を刺殺している。どちらも安政の大獄時に志士を弾圧した者であり、志士たちの暗殺目標であったため、二人を暗殺した以蔵は「人斬り以蔵」として名を轟かせることとなった。こうして、「安政の大獄」で志士に弾圧を加えた者たちは、次々と暗殺されていった。

 1862(文久2).9.23日、幕府は、「安政の大獄」の関係者として狙われていた4名の同心(京都西町奉行所与力・渡辺金三郎、東町奉行所与力・大河原重蔵、同・森孫六、上田助之丞)を江戸へ下るようにと指示をだした。薩摩藩から半平太の耳に入ったのはその翌日であった。生かして江戸へは行かせてはならないと考えた半平太は、長州の久坂玄瑞にも打ち明け、薩長土で暗殺団を結集することとなる。長州からは久坂玄瑞をはじめ8名。薩摩からは田中新兵衛ともう一人の2名。以蔵も後から駆けつけた。近江石部宿で刺殺し、その首は粟田口にさらされ、天誅紙が添えられていた。

 10.9日、商人平野屋重三郎。公卿方の人入れ稼業をしている際に、労働者の上前をはねたり、役人から賄賂を受け取ったりした人物である。容赦なく以蔵は斬り捨てた。商人煎餅屋半兵衛が生き晒しされる。11.15日、悪徳商人に天誅を加える際に、そこの娘の嘆願を聞きいれ橋に縛りつけ生き晒しに留めている。11.16日、安政の大獄を指揮した長野主膳の愛人村山加寿江の子の多田帯刀刺殺される。他にも、岡田星之助等にも天誅を加えている。

 以蔵はこの頃、勝海舟天誅に乗り出している。この頃、勝は神戸に海軍操練所を作るための資金繰りに奔走していた。勝は勤皇の志士はもとより、幕府側の人間からも嫌われていた。龍馬も生徒集めの協力をしていた。以蔵は、坂本龍馬の周旋で勝海舟と誼を通じている。「彼らは最終的にこの日本を乗っ取ろうとしているのだよ。それを阻止するため、日本を守ろうと皆、活動しているのだよ。佐幕派だって勤皇派だってね。想いは同じなんだよ。ただ考え方が違うだけでね。ここまではわかったかね」、「勤皇派は異国の連中を倒すことばかりに躍起になっているが、今の日本じゃ到底勝てないのだよ。黒船の大砲には剣術など役には立たないのだからね。だから日本も黒船を手に入れて、それを操れる人間を育てねばならないのだよ。それをわかっている者があまりにも少ない」。勝は、武市の以蔵に対する扱いや、勤王党のテロ路線の行く末を予見・看破し、龍馬のように武市と袂を分かつように諭した。

 坂本龍馬の依頼を受け、幕臣の海舟の用心棒を務める。10月、勅使姉小路公知の東下に選ばれて江戸に随従し、思うところあって勝海舟の若党となり、勝の上京に伴われて京都に出ている。

 1863(文久3).1.13日、高槻藩士宇野八郎刺殺される。1.14日、京の町役人村助、暗殺される。1.21日、長州藩士香川助蔵、暗殺される。1.22日、藩の儒者池内大学の変節を憤って暗殺したのち大坂難波橋上に梟した。1.28日、千種家雑掌賀川肇暗殺される。首を一橋慶喜の旅宿に、両腕を千種、岩倉両邸に投じて脅迫している。

 ここまで、以蔵は、武市の命を受け暗殺に血刀を振るってきたが、文久3.2月に脱藩した。

 3.8日、以蔵の剣が勝を救っている。勝は家茂上洛の際に上洛していた。以蔵と京の夜道を歩いていると三人の刺客が現れ斬りつけてきた。以蔵は刺客の内の一人を素早く斬り捨てると後の二人は逃げていった。後に勝が以蔵に対して「人殺しをたしなんではいけない」と忠告すると、以蔵は「私が斬らなければ、あなたが斬られていた」と言った。勝は返す言葉がなかったという。他にも中浜万次郎の護衛もしたという話がある。

 5.20日、京都御所朔平門外猿ヶ辻で公家の天皇の近臣、国事参政職に有った姉小路公知が暗殺された。廟議を終えて、護衛を連れ御所を退下中に、三人の刺客に襲われた。幕府は町奉行や在京諸藩に下手人の探索を命じた。土佐藩の那須信吾は姉小路邸に駆けつけ、現場に落ちていたとされた差料を見て、それが薩摩藩の田中新兵衛のものだと断言した。こうして人斬り新兵衛の異名をとる薩摩藩士田中新兵衛は京都町奉行所で取調べを受けるはめにあった(「田中新兵衛の姉小路暗殺疑惑」)。新兵衛は否認したが、京都東町奉行永井主水正尚志の訊問中、現場に遺棄されていた証拠の刀「奥和泉守忠重」を突きつけられると、やにわに脇差をもって屠腹、一言の申し開きもせずに自刃した(「新兵衛自害事件」)。

 諸藩有志の審議によって、田中新兵衛が犯人ということに決した。その結果、薩摩藩は乾御門の警備を解任され、長州藩が京都政界を牛耳ることになった。最悪の治安情勢の京に、新撰組の前進、壬生浪士組が誕生する。姉小路暗殺の疑いで捕えられた田中新兵衛が死んでから、以蔵も嫌疑を受けたので、土居鉄三と改名して京摂の間に潜伏した。

 八月十八日の政変で、後、尊王攘夷派は京都から一掃され、公武合体派が権力を握った。土佐勤王党は次々と捕縛され、投獄された。9月、武市が投獄される。これにより勤王党は失速。武市が土佐に戻ると以蔵は一人京都に潜伏した。 人斬り以蔵と恐れられ大暴れした以蔵だが、勤皇派の志士が京を追われ、土佐でも勤皇党が弾圧を受け、武市らを次々と捕縛していき、世の中の状況が変わり以蔵も追われる身となる。京に潜伏していた以蔵は徐々に酒色に溺れ強盗同然の人斬りまで行い落ちぶれていった。

 奉行所に捕らえられ、解放されたところを土佐の捕吏に捕まり送還される。その頃土佐藩を動かしていたのは後藤象二郎と乾退助(後の板垣退助)の吉田東洋の教え子であった。勤皇党に対する復讐戦が開始されていた。武市ら一党の罪状を自白させる為に以蔵は激しい拷問を受けた。以蔵の自白を恐れた武市は密かに以蔵を毒殺しようとするが、以蔵を殺す事はできなかった。

 土佐で以蔵が目にしたのは、土佐勤皇党の面々に対する厳しい拷問であった。土佐尊皇攘夷藩士田中衛吉、島村衛吉らが獄死させられている。以蔵の前に現れたのは後藤象二郎と乾退助であった。後藤象二郎の指揮の下、以蔵に対する拷問が始まった。なんとしてでも武市を処刑できるだけの証言を聞きださねばならぬと、拷問は悲惨を極めた。しかし遂に井上佐一郎の殺害を自白する。以蔵は武市に関する証言は一切しなかった。しかし、毒殺事件を経て、以蔵は全てを語った。それにより、武市は切腹を申し付けられる。

 1865.(慶応元).閏5.10日、以蔵は打ち首、晒し首となった。享年28歳。辞世の句は「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後は澄み渡る空」。た。28歳であった。武市も以蔵の自白により同日に切腹させられた。

【田中新兵衛】
 1832(天保3)~1863(文久3).5.26(7.11)。薩摩藩。「人斬り新兵衛」の名で京洛を震撼させた幕末四大人斬りの一人。
 薬種商の子、又は船頭の子として生まれる。士分に取りたてられる。

 1862(文久2)年、上洛。海江田信義や藤井良節の元に身を寄せる。

 同7.20日、木屋町二条で島田左近(九条家家臣)を斬殺。

 土佐勤王党の武市瑞山と出会い、義兄弟となる。岡田以蔵などと共に、本間精一郎、渡辺金三郎、大河原重蔵、森孫六、上田助之丞などを暗殺する。

 同8.20日、木屋町通りで本間精一郎(越後浪人)を岡田以蔵と協力して斬殺。

 同8.22日、宇郷玄藩重国(和宮降下に奔走した九条家諸大夫)を九条家下屋敷で斬殺。

 同9.23日、渡辺金三郎、森孫六、大河原重蔵、上田助之丞(東・西町奉行与力)を江州石部宿で斬殺、粟田口にさらした。新兵衛のほか土佐岡田以蔵、長州久坂玄瑞、寺島忠三郎、土佐広瀬健太らも荷担していた。

 1863(文久3).5.20日、姉小路公知(国事参政の公卿)を猿ヶ辻で殺害される。何者かにより新兵衛の愛刀奥和泉守忠重が盗まれ、姉小路公知の暗殺現場にその刀が残されていたことにより捕縛される。

 5.26日、容疑者として取調べ中、刀の確認をする際、 腹を刺し喉を突いて自害した。これにより薩摩藩は御所九門の警備を解かれた。

【中村半次郎】(なかむら はんじろう、桐野利秋)
 1838(天保9).12月~1877(明治10).9.24日。薩摩藩士。諱は利秋、通称は半次郎。薩摩吉野郷に貧乏郷士として生まれる。文久2年、京に上り、尊攘運動では示現流の名手で“人斬り半次郎”の異名をもとる。西郷隆盛の手足としても活躍し、維新後は桐野利秋と改名して無学ながら陸軍少将等になるが、征韓論に敗れた西郷隆盛と共に下野し、西南戦争で鹿児島城山の地にて戦死する。
 「ウィキペディア桐野利秋」を転載しておく。

 天保9年(1838年)12月、鹿児島郡鹿児島近在吉野村実方(現在の鹿児島県鹿児島市吉野町)で城下士の中村与右衛門(桐野兼秋)の第三子として生まれる。5人兄姉弟妹で、上から兄・与左衛門邦秋、姉(夭折)、半次郎利秋、弟・山内半左衛門種国(山内家の養子となる。西南戦争に従軍)、妹(島津斉彬に近侍していた伊東才蔵に嫁ぐ。伊東才蔵も西南戦争で戦死)の順。別府晋介は母方の従弟。肝付兼行男爵とは姻戚関係にあり、兼行の実父・兼武は、利秋戦死後、残された家族を後見するとともに伝記を著した。家系は坂上苅田麻呂(坂上田村麻呂の父)に起こると称し、安土桃山時代、島津義久の家老・平田増宗を暗殺した押川強兵衛の道案内をした桐野九郎左衛門尉の末裔という。

 10歳頃、広敷座の下僚であった父が徳之島に流罪に処せられ、家禄5石を召し上げられたのちは兄を助けていたが、18歳のときに兄の病没後は小作や開墾畑で家計を支えた。二才(にせ=若者。15歳頃から24歳頃)時代に石見半兵衛に決闘を申し込まれ、それを論難して以来、石見が属する上之園方限(ほうぎり)の郷中の士と親交を結んだ。因みに、この郷中には、寺田屋事件の鎮撫使となった奈良原繁や抵抗して死んだ弟子丸龍助など精忠組の士が多くいた。半次郎がもっとも親しくしていたのは、弟子丸龍助だったという。

 文久2年(1862年)3月、島津久光に随って上京、尹宮(朝彦親王)附きの守衛となった。直後の寺田屋事件には知り合いが多くかかわっていたが、直接関係しなかった。しかし、鎮撫使となって郷中仲間を斬った奈良原繁とは以降、距離をとった。この年から翌年の薩英戦争ころまでは寺田屋事件にかかわりながら謹慎ですんだ三島通庸と行動をともにすることが多かったようだ。

 やがて諸国の志士たちと広く交際し、討幕を唱えるようになり、同時に家老・小松清廉(帯刀)から特に愛されて引き立てられ、西郷隆盛など藩の重臣からも重用されるようになった。他藩士や浪人との交際については、守衛となった尹宮家の家臣で、安政の大獄に連座し、討幕派に徹していた伊丹蔵人の影響も考えられる。元治元年(1864年)4月16日、土佐の山本頼蔵の『洛陽日記』に「当日石清(中岡慎太郎の変名、石川清之助の略)、薩ノ肝付十郎、中村半二郎ニ逢テ問答ノヨシ。此両人ハ随分正義ノ趣ナリ」とある。

 池田屋事件直後の6月14日、大久保利通宛の西郷隆盛書簡には、「中村半次郎は暴客(尊攘激派)の中へ入って、長州藩邸にも出入りしているので、長州側の事情はよくわかった」とあり、続けて「本人が長州国許へ踏み込みたいというので、小松帯刀と相談の上、脱藩したことにして探索させることにしました。本当に脱藩してしまうかもしれないが、帰ってきたら役にたつだろう」とある。しかし、5日後の西郷書簡には「中村半次郎を長州へ行かせたが、藩境でとめられ入国できなかった」とあって、当時の状況では、京都藩邸はともかく、長州本国へ薩摩藩士が入国することは不可能だったと知れる。このころから、長州寄りの考えを持ち、薩摩と長州の和解を策して動こうとしていたらしいことがうかがえるが、結局長州は暴発し、禁門の変となった。禁門の変においては、一薩摩藩兵として長州勢と戦わざるをえなかったようであるが、積極的に戦っていたという話と、極力戦闘を避けて長州人を助けたというような話と、正反対の証言が残っている。

 この年の11月26日、小松清廉の大久保利通宛書簡に、「中村半次郎が兵庫入塾を願っているのでかなえてやってくれないか」と記されている。つまり神戸海軍操練所に学びたいと希望していたことになるが、翌年には閉鎖となるので、実際に学ぶことができたかどうかは不明である。

 また同年天狗党の乱に際して偵察に赴いたことも、12月7日付小松清廉の大久保利通宛書簡に見える。これは、半次郎が小松清廉に嘆願して実現したことだったという。『会津藩庁記録』には「薩州中村半十郎と申す者、かの濃州金原辺に天狗党の居り候頃、武田と藤田小四郎に面会致し談判候よし」とあり、天狗党の首領である武田耕雲斎と藤田小四郎に面会したとされる。

 慶応元年(1865年)3月3日、土佐脱藩の土方久元『回天実記』に「中村半次郎、訪。この人真に正論家。討幕之義を唱る事最烈なり」と見える。

 慶応2年(1866年)2月、長府藩士・三吉慎蔵は、寺田屋事件後、薩摩藩邸で静養する坂本龍馬を毎日のように見舞った主要薩摩藩士の一人として、半次郎の名を挙げている。同年4月、京都の薩摩藩邸を訪れた河田小龍は、近藤長次郎が死去した事情を、半次郎から聞いた。

 慶応3年(1867年)3月には伊集院金次郎とともに太宰府の三条実美ら五卿のもとを訪れ、長州藩士・木戸孝允や中岡慎太郎などと親交をあたためた。5月には木戸に頼まれて、馬関から山縣狂介・鳥尾小弥太を京都の薩摩屋敷まで伴った。同年9月3日、薩摩藩で陸軍教練をしていた公武合体派の軍学者・赤松小三郎を、幕府の密偵として白昼暗殺した。近年、小説の題名から「人斬り半次郎」と言われることがあるが、実際に明らかとなっている暗殺はこの1件だけである。また、同年10月に坂本龍馬が暗殺された際には、犯人捜しや海援隊・陸援隊との連絡などに奔走し、葬儀の直後、龍馬の甥の高松太郎や坂本清次郎といっしょに墓参りをしている。

 御陵衛士となっていた高台寺党の伊東甲子太郎らが新選組により殺害された際(油小路事件)には、逃げてきた残りの隊士を薩摩藩邸に匿っている。

 勝海舟は『解難録』の慶応3年探訪密告において、慶応3年、京都で政局を動かしていた薩摩人8人の1人として、西郷、大久保、小松などと肩を並べて半次郎の名を挙げている。ただし、大事を決しているのは、西郷、大久保と長州の木戸の3人で、半次郎たちは、これに賛同して助力しているにすぎないとしている。幕末京都時代に最も親しかったのは、伏見で戦死した伊集院金次郎、上野で戦死した肝付十郎、そして永山弥一郎だったが、異色の友人として大政奉還建白書に手を入れた中井弘(桜洲)がいる。

 戊辰戦争・大総督府軍監



 戊辰戦争(明治元年、1868年)では、城下一番小隊に属して伏見の戦いで御香宮に戦い、功をもって小隊の小頭見習いを務めた。東征大総督府下参謀・西郷隆盛が東海道先鋒隊を率いて先発東上した際、城下一番小隊隊長に抜擢されて駿府・小田原を占領した。2月27日、西郷は中村を小田原まで来た輪王寺宮公現法親王のもとに派遣し、西上の事由を尋問して随従してきた諸藩兵を撤退させた。のち、静岡での西郷と山岡鉄舟の会談に立ち会ったとされる。次いで江戸にのぼり、西郷と勝海舟との会談に同席したといわれ、上野の彰義隊との戦いにも西郷指揮のもと黒門口攻撃に参戦した。この戦いののち、河野四郎左衛門を伴っての湯屋からの帰りに神田三河町で一刀流の剣客・鈴木隼人ら3人の刺客に襲われ、1人を斬り撃退したが、左手中指と薬指を失った。この傷は悪化したようで、半次郎は横浜軍陣病院で療養し、7月23日には、薩摩の国学者で歌人・八田知紀の見舞いを受けている。

 同年8月21日、大総督府直属の軍監に任じられ、鹿児島・宇都宮の2藩兵を率いて藤原口(日光口)に派遣された。9月1日に大内に到着し、会津若松攻略のための軍議を主催し、栃原進撃を部署した。翌日から4日にかけての関山の戦い、9月5日から8日までの若松南部の戦いを経て若松城近郊へ進出。9月10日、伊地知正治・板垣退助・山縣有朋らと軍議し、攻城の分担区域を定める。この際、指揮下の藤原口部隊は城の南西部が割り当てられたが、実際に部隊が攻城戦に参戦したのは9月14日であった。

 9月22日、会津藩降伏後の開城の式では、官軍を代表して城の受け取り役を務めた。イギリス公使館の通訳官だったアーネスト・サトウは、外国事務総督・東久世通禧および神奈川県知事・寺島宗則が各国公使と会見した席で、会津若松開城の知らせを受けたが、同時に「城の受け取りに行った中村半次郎は男泣きに泣いた」と聞いたことを書き残している。このとき半次郎本人が「涙を禁じ得なかった」と語っていたといい、また半次郎が城中の会津藩士に親身になって接してくれたことを謝し、後に松平容保は人を介して宝刀を贈ったという。容保から半次郎に贈られた宝刀とは、金銀造りの大小で、昭和初期、尚古集成館にあったともいわれている。

 明治新政府・陸軍少将



 明治2年(1869年)、鹿児島常備隊がつくられたとき、第一大隊の隊長となった。同年6月2日、前年の軍功により賞典禄200石を賜る。同年、6月17日版籍奉還の日の日付で、鹿児島から東京の大久保利通、吉井友実宛に、「忠義公のご意向は、県知事になるのは辞退して大山綱良に任せたい、ということで、藩主(藩知事)をそのまま県知事にするという中央の方針に反するむつかしい事態に、鹿児島ではなっている」という報告を書くなど、この時期、鹿児島と中央をつなぐ重要なパイプ役になっていた。

 明治4年(1871年)、廃藩置県に備えて西郷隆盛が兵を率いて上京したとき、大隊を率いて随い、御親兵に編入された。

 同年7月20日、兵部省出仕となり、28日、陸軍少将に任じられ、同時に従五位に叙せられた。同じく7月、利秋は函館に視察を命ぜられた。帰ってきてからは札幌に鎮台を設置する必要を上申した。これがのちの屯田兵設置の嚆矢となった。

 明治5年(1872年)3月、鎮西鎮台(熊本鎮台)の司令長官に任命され、熊本に赴任した。

 同年7月、前年に起こった宮古島島民遭難事件の結果、宮古島島民多数が台湾で虐殺されたとの報告が鹿児島に届き、鎮西鎮台鹿児島分営の樺山資紀少佐は、司令長官の利秋に報告するため、25日に鹿児島を出発して熊本に至ったが、あいにく利秋は広島分営に出張中だったため、単身上京し、この件について樺山が利秋と直接話したのは、11月になって利秋が上京したときだった。

 同じく7月の廃藩置県の後、9月になって、これまで李氏朝鮮との外交を担当していて、鎮西鎮台管轄下にあった厳原県が、伊万里県に吸収されて消滅し、対朝鮮外交を外務省が担当するに伴い、草梁倭館接収の必要が生じた。利秋は、鎮西鎮台司令官として軍艦春日丸で倭館へ向かう外務大丞・花房義質につけて、鎮西鎮台対馬分営駐屯兵を送り出した。このとき春日丸には、花房に同行する陸軍中佐・北村重頼、同少佐・河村洋與、加えて偵察のため、陸軍大尉で利秋の従兄弟・別府晋介、後に評論新聞を創刊する利秋の友人・海老原穆(愛知県7等出仕、陸軍大尉兼陸軍大錄)が乗り組み、倭館に滞在した。

 同年11月に徴兵令が発布されたときには、鎮西鎮台での経験から、批判的であったと言われる。

 明治6年(1873年)4月、陸軍裁判所所長を兼任し、6月25日、正五位に叙せられた。同年10月、明治六年政変(俗にいう征韓論争)で西郷が下野するや、辞表を提出して帰郷した。

 西南戦争



 明治6年11月、鹿児島へ帰った桐野は、鹿児島郡吉田郷本城村字宇都谷(現在の鹿児島市本城町)にある久部山の原野を開墾して日を過ごした。明治7年(1874年)、辞職軍人有志の発議で鹿児島の青少年の教養のために私学校がつくられたとき、篠原国幹が銃隊学校、村田新八が砲隊学校・賞典学校(幼年学校)を監督し、桐野は翌年つくられた吉野開墾社を指導して、率先して開墾事業に励んだ。同年の台湾出兵ののち石川県士族・石川九郎・中村俊次郎が桐野を訪ね、明治六年政変および台湾出兵の内情について質問したときの応答「桐陰仙譚」が新聞『日本』及び『西南記伝』上巻に残っている。

 明治10年(1877年)2月6日、火薬庫襲撃事件・中原尚雄の西郷刺殺計画を聞いて開かれた私学校本校での大評議は、桐野主導で議論され、大軍を率いて北上することに決した。出兵のために池上四郎が募兵、篠原国幹が部隊編制、村田新八が兵器の調達整理、永山弥一郎が新兵教練、桐野は各種軍備品の収集調達を担当した。2月13日、大隊編制が行われ、一番大隊指揮長に篠原国幹、二番大隊指揮長に村田新八、三番大隊指揮長に永山弥一郎、五番大隊指揮長に池上四郎、六番・七番大隊連合指揮長に別府晋介が選任され、桐野は四番大隊指揮長となり、総司令を兼ねた。

 2月20日、先発した別府晋介の部隊が川尻に着し、熊本鎮台偵察隊と衝突し、西南戦争(西南の役)の実戦が開始された。22日、相次いで到着した薩軍の大隊は熊本鎮台を包囲攻撃した。桐野は池上とともに正面軍を指揮したが、熊本城は堅城ですぐには陥ちなかった。本営軍議で桐野・篠原らが主張する全軍攻城論と池上四郎・野村忍介・西郷小兵衛らが主張する種々の分進論が折り合わず、軍議が長引いている間に、政府軍の第一旅団(野津鎮雄)・第二旅団(三好重臣)の南下が始まった。これに対処するために、熊本城攻囲を池上にまかせ、永山に海岸線を抑えさせ、篠原(六箇小隊)が田原に、村田・別府(五箇小隊)が木留に進出し、桐野は自ら三箇小隊を率いて山鹿に向かい、政府軍を挟撃して高瀬を占領しようとしたが、互いに勝敗あって戦線が膠着した。

 3月20日の田原の戦い、4月8日の安政橋口の戦いで敗れ、4月14日、薩軍(党薩各派を含む)が熊本城の囲みを解いて木山に退却したとき、桐野は殿となり二本木で退却軍を指揮した。4月21日、薩軍は矢部浜町に退却し、西郷・桐野・村田・池上らが軍議して薩隅日の三州盤踞をなし、機を見て攻勢に転ずると方針を定めた。4月27日、人吉まで退却した西郷らに続き、桐野は江代まで退却し、再びここで軍議して諸方面の部署を定め、新たに編制した中隊を各地に派遣した。以後しばらく桐野は人吉本営で指揮していたが、戦況が不利と見て、軍を立て直すべく宮崎に赴き、5月28日、宮崎支庁を軍務所と改称して根拠地とした。人吉陥落が間近に迫ったので、池上に護衛された西郷をここに迎え、本営とした。ここでは桐野の命で軍票(西郷札)がつくられ、逼迫した軍の財政の立て直しが試みられた。

 6月、桐野は宮崎本営で諸軍を指揮した。7月24日に村田指揮部隊が都城で大敗し、7月25日に始まった宮崎の戦いが31日に敗れると、桐野は西郷を追って高鍋に赴いた。8月1日、桐野は佐土原で敗れ、政府軍に宮崎を占領された。8月2日には高鍋で敗れた。8月3日、桐野は平岩、村田は富高新町、池上は延岡にあって諸軍を指揮したが、美々津の戦で敗れた。8月13日、14日、桐野・村田・池上らは長井村から来て延岡進撃を部署し、本道で指揮したが、延岡の戦いで別働第二旅団・第三旅団・第四旅団・新撰旅団・第一旅団に敗北し、延岡を総退却して和田峠に依った。

 8月15日、和田峠を中心に布陣し、政府軍と西南の役最後の大戦を試みた。早朝、西郷隆盛自ら桐野・村田・池上・別府らを随えて和田峠頂上で指揮したが、大敗して延岡の回復はならず、長井村へ退いた。これを追って政府軍は長井包囲網をつくった。8月17日夜12時頃、西郷に従い、可愛嶽(えのたけ)を突囲した。突囲軍は精鋭300~500名で、前軍は河野主一郎・辺見十郎太、中軍は桐野・村田新八、後軍は中島健彦・貴島清が率い、池上と別府が約60名を率いて西郷を警護した。この後、宮崎・鹿児島の山岳部を踏破すること10余日、三田井を経て鹿児島へ帰った。

 9月1日、突囲した薩軍が鹿児島に入り、城山を占拠した。一時、薩軍は鹿児島城下の大半を制したが、上陸展開した政府軍が9月3日に城下の大半を制し、9月6日には城山包囲態勢を完成させた。9月19日、桐野に内緒で山野田一輔・河野主一郎が西郷救命の軍使となって参軍川村純義のもとに出向いたとき、桐野は激怒したと伝えられる。 9月24日、政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷隆盛・桐野・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら40余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃した。途中で西郷が被弾し、島津応吉久能邸門前にて別府の介錯で自決すると、跪いて西郷の自決を見届けた桐野らはさらに進撃し、岩崎口の一塁に籠もって交戦するも、味方は相次いで銃弾に斃れ、または刺し違え、或は自刃した。桐野は塁に籠もって勇戦したが、額を打ち抜かれて戦死した。享年40。

 明治10年(1877年)2月25日に「行在所達第四号」で官位を褫奪(ちだつ)され、死後、賊軍の将として遇されたが、大正5年(1916年)に正五位を追贈されて名誉回復した。

 人物

  • 『西南記伝』四番大隊将士伝に桐野利秋を評して「利秋、天資英邁(えいまい)、気宇宏闊(こうかつ)、其人を待つや、憶を開き、胆を露はし、毫も畛域(しんいき)を設けず、然れども志気一発、眉を揚げ気を吐くに当たりては、その概、猛将勇卒と雖ども仰ぎ視ること能はざるものありしと云ふ」という。
  • 西郷隆盛は「彼をして学問の造詣あらしめば、到底吾人の及ぶ所に非ず」と評している。
  • 桐野は、慶応3年(1867年)の在京中のことを記した『京在日記』(日記は桐野の妹の子孫・伊東家に伝えられていたが、『京在日記』の命名が本人によるものかどうかは不明)を残している。今これを見ると、達筆とは言えないが、雄勁な筆運びで、勇武な気性がよくあらわれている。他に複数の自筆書簡も現存している。桐野は禄5石という貧窮の家で育ったが故に農民同様の生活を送り、系統的な学問をせず、剣術も小示現流の伊集院鴨居門下あるいは薬丸自顕流の薬丸兼義(江夏仲左衛門とも)門下というが、多くは独力で修得し、達人の域に至った。無学文盲というのは誤りである。日記中の記述(上手とは言えないが、和歌さえつくっている)を見る限り、読み書きに充分な教養があったことは確かである(読み書きは主に外祖父・別府四郎兵衛から教わった)。ただ当時の武士の教養であった漢文への造詣が深くはなく、自ら謙遜して文盲と唱えていた。西郷の評語が「学問あらしめば」ではなく、「学問の造詣あらしめば」となっていることを吟味すべきであろう(この場合の学問は四書五経を意味している)。
  • 市来四郎の『丁丑擾乱記』には、「世人、これ(桐野)を武断の人というといえども、その深きを知らざるなり。六年の冬掛冠帰省の後は、居常国事の救うべからざるを憂嘆し、皇威不墜の策を講じ、国民をして文明の域に立たしめんことを主張し、速に立憲の政体に改革し、民権を拡張せんことを希望する最も切なり」とある。また同書には、「桐野は廉潔剛胆百折不撓の人というべし。最も慈悲心あり。文識はなはだ乏し。自ら文盲を唱う。しかりといえども実務上すこぶる思慮深遠、有識者に勝れり」ともある。
  • 後年、勝海舟は「(西郷の)部下にも、桐野とか村田とかいうのは、なかなか俊才であった」(『氷川清話』)、大隈重信は「西南の役に大西郷に次いでの薩摩の驍将桐野利秋、彼はすこぶる才幹の男であったが、これがやはり派手であった。身体も大きくて立派なら容貌態度ともに優れた男であったが、着物をぶざまに着るようなまねはせず、それも汚れ目の見えぬきれいな物づくめであった」(『早稲田清話』)と評している。
  • 桐野の友人だった中井弘は、幕末から明治初年にかけて、藩内で排斥されていたところを桐野の尽力で助けられ、後年、「彼はよくいわれるような粗暴な男ではなかった。藩外の脱藩者ともつきあって、世情に通じ、兵隊連中の中では珍しいほどの趣味人だった」と賞賛していた。
  • 遠縁にあたる肝付兼行は、次のように語っている。「実に磊落な、淡泊な性質の人で、何人に対しても、障壁を設けることをしなかった。上下・貴賤の差別なしに、誰が来ても、同じ部屋へ通して、遠慮なしに話をするのが常だった。(中略)桐野は暴れ者を御するのが得意で、他の者では、どうにもならない者も、桐野は巧みに扱って、不平を起させないようにする。その点では、誰も及ぶ者がなかったようである。(中略)桐野はよく、『おれはワシントンをやるのだから、どんな暴れ者でも、扱わなくてはならぬ』と口癖のようにいった」。
  • 西南戦争60年会編『西南役側面史』(1939)に記載する桐野の屍体検査書に「衣服 績縞上着縮緬襦袢。創所 左大腿内面筋骨銃創、右脛骨刀創、左中指旧切痕、下腹部より腰部貫通銃創、前頭より顳顬部貫通銃創、左前頭より傾頂部に刀創、左中指端傷」と記され、更に「陰嚢肥腫」とあるので、桐野は西郷と同じくフィラリアを病んでいたと考えられる。

 逸話

  • 春山育次郎が、友人の五代彌次郎から聞いた話では、五代の亡き父は桐野と同い年の友人で、日向の倉岡(現宮崎市)で、郷中の子弟に学問を教えていたが、遊びに来た桐野が生徒を前に「漢文など読んでも役に立たない。この激動の時代に、文字の奴隷になるのは大馬鹿者だ」と演説したので、生徒がいなくなってしまった。五代に恨まれた桐野は、また生徒を集めて「前日に言ったのは、必ずしも学問をやめよという意味ではない。文字の読み方やささいな解釈など、細かなことにこだわってばかりいることはよくないということだ」と説明したという。
  • 会津戦争での会津若松城受け取りの時、堂々とした態度で軍監としての作法を勤めた。後に「あのような作法をどこで学んだのか」と訪ねられたとき、「愛宕下の寄席の講談で、昔の城の受け取りの作法を聞き覚えた」と答えたという逸話が残っている。
  • 洒落者(しゃれもの)として有名であった。陸軍少将時代には金無垢の懐中時計を愛用し、軍服はフランス製のオーダーメイド・軍刀の拵えも純金張の特注品を愛用し、フランス香水を付けていた。城山で戦死した際にも遺体からは香水の香りがしていたといわれている。
  • 孫にあたる桐野富美子が、以下のような話をしている。「生前の祖父と親交があり国士として世界中を旅していた前田正名翁が帰国して訪れ、私の兄利和に、『お前は顔も気性も利秋によく似ている』と嬉しそうにみつめ、『この子は俺に食いかけの芋をくれた。うまかったなァー』と言われたので、皆大笑いしました。この人に、父が赤い布に包んだ金太刀を桐箱から取り出して見せていた光景が、今でも私の脳裏から離れません」。

【河上彦斎(かわかみ げんさい)】
 1834(天保5).11.25日
 1834(天保5).11.25日、白川県肥後国飽田郡熊本新馬借町に小森貞助・和歌の次男として生まれる。小森彦次郎(幼名)玄明(実名)。後に彦斎。明治になって高田源兵衛と改名する。

 1844(弘化元)年頃、11歳の時、肥後藩士河上彦兵衛の養子となる。幼称、彦次郎、

 1849(嘉永2)年、熊本城下御花畑のお掃除坊主に召抱えられる。(16歳)、この頃河上彦斎と改名。

 1951(嘉永4)年、藩主の参勤交代のお供で、長岡護美に随行して江戸へ行き、家老付き坊主補助として勤める。(18歳)

 1852(嘉永5)年、藩主のお供で熊本に帰国。謹直が認められ、そのまま家老付き坊主となる。(19歳)嘉永六年ペリーの黒船来航。

 1858(安政5)年、再び江戸へ。(25歳)井伊直弼が大老になり翌年安政六年、吉田松陰、頼美樹三郎、橋本佐内らが処刑される。(安政の大獄)

 1860(万延元)年、桜田門外の変により、井伊大老暗殺される。

 1861(文久元)年、藩主に従って熊本へ帰国。この年、同藩士三沢家の次女天為と結婚(28歳)⇒文献によっては18歳になっている場合も。同年、奥州浪人清河八郎と会い、大いに共鳴。

 1862(文久2)年、京都警備の要請により長井護美が上京するのに際し、これに同行(29歳)坊主職が解かれ、蓄髪する事を許される。この時、河上彦斎と改名。この間、兵学を宮部鼎蔵、国学を林桜園、儒学を轟武兵衛に学ぶ。

 1863(文久3)年、八月十八日の政変で長州藩が京を追いやられる。この時自らも脱藩し、長州と行動を共にする。(30歳)

 1864(元治元)年、池田屋の変により宮部鼎蔵、松田重助らが新撰組に斬らた事を長州で聞き、憤慨して京へ上る。(31歳)

 同年7.11日、公武合体を計る佐久間象山を暗殺。その時の模様は次のように語られている。「松代藩士佐久間象三はこの日、山階宮に御機嫌伺いしたところ不在だった。その帰途、五条川原町の本覚寺を訪れ、三条通りから木屋町に入ったところ、河上彦斎と隠岐の松浦虎太郎に斬り付けられ、斬殺された」。

 河上彦斎は、象三斬殺後は人斬りを断ったと云われる。河上彦斎の人斬り逸話として次の話が伝えられている。酒席の上の議論で専横横暴の幕吏が話題に上ったいた、河上が席を立ち戻って来た時に、その幕吏の首を持って帰ってきて「この男か?」と仲間に確認したと云う。河上は、佐久間を斬った後は、暗殺の空しさを感じてか人を斬るのを止めたと言われている。

 同年7月、禁門の変で長州藩家老の国司信濃隊に付いて戦うが敗れ、共に長州へ退く。

 1866(慶応2)年、第二次征長戦(四境戦争)では高杉晋作の奇兵隊に呼応するが、長州藩が小倉で肥後藩と戦う事に耐えられず、藩主を説得するべく肥後へ帰国。しかし聞き入れられず投獄される。(33歳)

 1867(明治元)年、明治政府の誕生。約一年間の投獄生活を終え出獄。名を高田源兵衛と改める。旧同士たちが牛耳る新政府の政治(外交)方針に愕然とする。(34歳)

 1869(明治2)年、藩命で肥後領の飛び地鶴崎へ行き、兵隊長となりその本営を有終館と名づける。(36歳)元同士である奇兵隊の生き残り津守幹太郎等から奇兵隊統括を頼まれるがこれを断る。この頃、頻りに政府批判を繰り返す。

 1870(明治3)年、藩命により、有終館を解散させられる。(37歳)(反政府的な一大軍隊となりつつある事を恐れられたため。)

 1871(明治4)年、新政府に対する不満から、奇兵隊が反乱を起こすが失敗に終わる。彦斎は大楽源太郎以下奇兵隊の生き残りを匿った罪で投獄、東京へ護送される。一度の審問もないまま、死刑判決が下される。同年12.3日、死刑執行(享年38歳)。

【京洛での天誅・暗殺一覧】
 「京洛での天誅・暗殺一覧」は次の通り。
年月日 被害者
文久2.7.21 島田左近  安政の大獄で活躍した前関白九条尚忠家臣。京都木屋町二条で刺殺され、首は四条河原に晒された。暗殺者は薩摩の田中新兵衛、志々目献吉、鵜木孫兵衛。
文久2.8.2 井上佐一朗  土佐勤王党弾圧に奔走した土佐藩下横目。大坂道頓堀で刺殺され、死体は橋の上から川に投げ込まれた。暗殺者は土佐の岡田以蔵、ら4名。
文久2.8.20 本間精一郎  攘夷督促勅使を江戸に派遣する問題で、本間の推す青蓮院宮と土佐の山内容堂が争っていた。薩長に一歩先んじたい土佐藩の悲願達成のため、土佐勤王党が京都三条木屋町で暗殺した。首は三条河原に晒され、胴体は高瀬川に蹴り込まれた。暗殺者は薩摩の田中新兵衛、土佐の岡田以蔵ら数名。
文久2.8.20 宇郷玄蕃頭  安政の大獄で活躍した前関白九条尚忠の諸大夫。京都河原町通丸太町で刺殺され、首は加茂川松原河原に晒した。暗殺者は土佐の岡田以蔵、肥後の堤松左衛門ら4名。
文久2.8.30  猿の文吉  安政の大獄で活躍した島田左近の手先。斬れば刀のけがれになると絞め殺された。京都三条河原で殺され、死体は真っ裸にして三条河原の柱に縛りつけられた。暗殺者は土佐の岡田以蔵、清岡治之助、阿部多司馬。
文久2.9.23  渡辺金三郎、大河原重三、森孫六、上田助之丞  田中新兵衛、岡田以蔵、久坂玄瑞、寺島忠三郎、山本喜三之進ら薩・長・土・久留米四藩の志士30余名。
 京都町奉行4人は、安政の大獄で長野主膳、島田左近の浪士弾圧にくみしたため江州石部宿で殺害された。首は粟田口に晒された。天誅を逃れるため京から江戸へ下向途中の出来事だった。
文久2.11.15  多田帯刀  長州の楢崎八十槌、土佐の小畑孫三郎ら浪士20余名
 安政の大獄で活躍、協力した長野主膳の妾村山可寿江の息子(金閣寺の寺侍)で、京都蹴上げの刑場で首をはねられ、粟田口に晒された。可寿江は三条河原で生き晒しにされされた。
文久3.1.22  池内大学  土佐の岡田以蔵ら数名
 尊攘派の町人儒者。梁川星厳、梅田雲浜、頼三樹三郎とともに安政の大獄で捕らえられたが、軽い処分で済んだ。それは賄賂で変貌したためという疑惑が生まれ、大坂難波橋 付近で暗殺された。首は難波橋に晒された。
文久3.1.29  賀川肇  薩摩の田中新兵衛ら
 千種家家臣。島田左近らとともに尊攘派を弾圧したため。京都下立売千本東で刺殺された。首は一橋慶喜の宿舎(東本願寺)に送り付け、腕は岩倉具視邸に投げ込まれた。
文久3.5.18  家里新太郎  尊攘派浪人
 京都に住む町人儒者。幕府と内通し、門弟たちを洛中に張りめぐらして尊攘派の行動を報告していた。京都二条城付近で刺殺され、首は三条河原町に晒された。
文久3.5.20  姉小路公知  薩摩の田中新兵衛?
 御所での会議を終え帰宅途中、京都御所朔平門外猿ヶ辻にさしかかったところを、3人の刺客に襲われた。太刀持ちの下僕は逃げた為、公知は応戦。刺客は逃げていったが頭を斬られていた。屋敷へたどりつくも重傷のため絶命。現場に捨てられてた太刀が田中新兵衛のものと判明し逮捕するが、取調中、弁解もせぬまま新兵衛は切腹してはてた。これにより薩摩藩は乾御門警備を解かれた。以後しばらくの間、京都の政界は長州藩が独占する事になった。
文久3.7.23  八幡屋卯兵衛  尊攘派浪人
 貿易商人。国内物産を買い集め長崎・横浜に出荷し巨利を得た。このために関西の物価は上がっていき恨みをかい尊攘派に狙われた。京都仏光寺高倉で刺殺され、首は三条河原に晒され、罪状書には「この男から借用の金子はいっさい返却におよばず」と書かれていた。
文久3.9.18  芹沢鴨  新選組近藤勇、土方歳三、山南敬助、沖田総司、原田佐之助
 新選組、近藤・土方一派と芹沢派との争いによる暗殺。島原の角屋で宴会のあと泥酔して帰宅、京都壬生八木邸で妾と共に寝込んだところを襲った。初太刀は沖田であった。素っ裸だったが脇差しで応戦、しかし土方の二の太刀を防げず殺された。この事件後、新選組の近藤体制が確立されていった。
元治元年.6.16  平岡円四郎  水戸藩本光国寺党
 一橋家家老。その地位を利用し、将軍後見職の一橋慶喜や朝廷に働きかける平岡の左幕的行動に、慶喜の警護役の勤王派水戸藩士が不満をもち、京都町奉行組与力長屋近くで斬殺した。
元治元年.7.11  佐久間象山 肥後の河上彦斉、因州藩士前田伊右衛門
 昼間、西洋の馬具を置いた白馬にまたがった象山は京都三条木屋町通りを三条にさしかかった、その時、蔭から刺客が2人斬り付けてきた。刺客は馬から落ちた象山の頭をさらに斬りつけて逃げていった。罪状書には「西洋学を唱え、開港を主張し、彦根遷幸を計画を謀ることによる」という内容が書かれていた。
慶応2.9.28  武田観柳斉  新選組斎藤一、篠原泰之進
 教養があり兵学をする武田は局長の近藤をうまくおべっかで取り込みんでいた。新選組の兵学師範として指導にあたっていたが、幕府はフランス式調練をとりいれると武田の指導は中止された。地位を危ぶみ、参謀の伊東甲子太郎の接近し、さらには薩摩藩屋敷に出入りするようになった。これはすぐ近藤、土方の知るところとなる。屯所を出た武田は、京都竹田街道の銭取橋付近で付け人の斎藤一に斬られた。即死であった。
慶応2.12.25  孝明天皇  岩倉具視ら倒幕派公卿?
 公式には疱瘡による病死と発表されている。しかし、年齢も36歳と若く、健康な体質であったため、京都御所内暗殺事件の可能性が強い。岩倉具視による「筆毒塗り暗殺説」・「厠刺殺説」や、「湯殿変死説」も噂された。
慶応3.8.14  原市之進  幕府歩兵組水戸藩藩士
 原は最後の将軍慶喜の側近として政治的手腕を発揮、幕政改革を行なった。慶喜は日頃から「徳川家を滅ぼすのは旗本である」といっており、それだけに幕府の旗本などに敵も多かった。それは原が煽動したものである、と決め付けられ、京都千本通り二条城西の原邸にて斬殺された。
慶応3.9.3  赤松小三郎  薩摩の中村半次郎、田代五郎左衛門
 信州上田藩の洋学者。佐久間象山、イギリス人、勝海舟などに学んだ後、京都で塾を開き名声が高かった。薩摩藩はこれに目をつけ兵学の教官として呼んだ。しかし、スパイ行為を感じたため中村は彼の暗殺に及んだ。京都東洞院通四条で刺殺された。
慶応3.11.15  坂本龍馬中岡慎太郎 見廻組佐々木只三郎ら?
 京都河原町三条の「近江屋」2階で刺殺された。下手人は不明。当時は新選組によるものと騒がれたが、明治35年になって元見廻組今井信郎が雑誌に自分が2人を斬ったと発表。斬ったとされる刀も現存する。現在の最有力説とされているが証拠は確定されていない。
慶応3.11.18  伊東甲子太郎  新選組隊士・大石鍬次郎ら 5、6名
 「伊東らが近藤勇の暗殺を計画中」との情報により、近藤勇は新選組から離れた伊東甲子太郎を京都堀川七条醒ヶ井の不動堂村屯所の筋向かいの興正寺の下屋敷の妾宅におびき寄せ、近藤勇、土方歳三、山崎烝、原田左之助らが集まり、酒宴となる。泥酔させた。帰り道、大石鉄次郎らが襲撃、斬殺した。。伊東は刺されながらも刀を振るい男を切り伏せる。しかし、深手を負い、東の本光寺門前で倒れ絶命した。 伊東の死骸は七条油小路の辻に引きずられ置き捨てられる。

 これを引き取ろうとして駆けつけた御陵衛士7名もまた新選組隊士40名に囲まれ斬り合いになる。御陵衛士と新選組の決闘(油小路事件)。藤堂平助ら3人が斬殺される。藤堂は新選組の前身、試衛館からの同志であったが、伊東について隊を離れた人物。この殉難を恨んだ衛士側は、12.18日、伏見街道の墨染で鉄砲を用いて近藤に重傷を負わせた。
明治2.1.5  横井小楠  攘夷派
 維新政府に参与として出仕した。しかしヤソ教徒、共和主義者との理由で太政官を退出したところを、京都寺町丸太町下ルで暗殺された。新政府要人が暗殺された最初の事件となった。
明治2.9.4  大村益次郎  長州藩藩士、土佐、信州浪人、ほか
 京阪地方の軍事施設視察のため上洛。京都三条木屋町の旅館二階で夕食中に襲われた。湯殿に逃れ命は助かったが重傷を負った。ひざの傷が悪化し治療の甲斐なく11月5日に他界した。暗殺の動機は、大村の西洋かぶれと、徴兵制に反発しての事だったという。
 






(私論.私見)

 「知れば迷ひ知らねば迷はぬ恋の道」