安政の大獄考



 (最新見直し2012.07.24日)

 (参考サイト)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 安政の大獄事件の裏真実を確認したくなったので本サイトを設ける。井伊直弼とは何者か、安政の大獄とはどういう歴史的意味の事件なのか、桜田門外の事件とはどういう歴史的意味の事件なのかについて確認する。

 2012.7.24日 れんだいこ拝















(私論.私見)

ウィキペディア井伊直弼

井伊 直弼
時代 江戸時代末期
生誕 文化12年10月29日1815年11月29日
死没 安政7年3月3日1860年3月24日
改名 鉄之介→鉄三郎(幼名)→ 直輔 → 直弼
別名 雅号:埋木舎、柳王舎、宗観など
渾名:井伊の赤鬼
戒名 宗観院柳暁覚翁
墓所 豪徳寺東京都世田谷区
官位 従四位下侍従玄蕃頭左近衛権少将


掃部頭、左近衛権中将、従四位上正四位上
幕府 江戸幕府大老
主君 徳川家慶徳川家定徳川家茂
近江彦根藩
氏族 井伊氏
父母 父:井伊直中、母:お富の方
養父:井伊直亮
兄弟 井伊直清井伊直亮井伊中顕中川久教内藤政成松平勝権井伊直元内藤政優井伊直弼内藤政義
正室:昌子松平信豪女)
側室:千田高品の養女(秋山正家の娘)・静江
西村本慶の娘・里和
北川氏
娘(長女)[1]、某(長男)[2]弥千代松平頼聰室、次女)、直憲(次男)、直咸(三男)、直安(四男)、娘(三女)[3]、某(五男)[4]、真千代(四女)[5]、娘(五女)[6]、美千代(六女)[7]、娘(七女)[8]、某(六男)[9]直達(七男)、娘[10]、娘(青山幸宜室)

井伊 直弼(いい なおすけ)は、幕末大名近江彦根藩の第15代藩主。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。

幼名鉄之介(てつのすけ)、のち、鉄三郎(てつさぶろう)。は当初、直輔(なおすけ)、のち、直弼(なおすけ)と改める。雅号には、埋木舎(うもれぎのや)、柳王舎(やぎわのや)、柳和舎(やぎわのや)、緑舎、宗観(そうかん)、無根水(むねみ、旧字体根水)がある。風流に生きた部屋住み身分の頃は「チャカポン」、大獄を行って以降は井伊の赤鬼(いいのあかおに)の渾名でも呼ばれた。

目次

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略歴 [編集]



彦根藩主の息子の一人として生まれ、兄の死を受け家督を継ぎ、第15代藩主となる。大老に就任して事実上の幕府最高権力者となり、将軍継嗣問題を解決、日米修好通商条約に調印し、安政の大獄により反対派を処罰した。独裁政治に対する反発から攘夷派などの怨みを買い、桜田門外において水戸脱藩浪士17名と、薩摩藩士1名に暗殺された(桜田門外の変)。

生涯 [編集]

家督相続まで [編集]



文化12年(1815年)10月29日、第11代藩主・井伊直中の十四男として近江国犬上郡(現在の滋賀県彦根市金亀町)の彦根城の二の丸で生まれる。母は側室のお富。

兄弟が多かった上に庶子であったこともあり、養子の口もなく[11]、父の死後、三の丸尾末町の屋敷に移り、17歳から32歳までの15年間を300俵の捨扶持の部屋住みとして過ごした。

この間、近江市場村の医師である三浦北庵の紹介で、長野主膳と師弟関係を結んで国学を学び、自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、埋木舎(うもれぎのや)と名付けた邸宅で世捨て人のように暮らした。この頃熱心に茶道(石州流)を学んでおり、茶人として大成する。そのほかにも和歌槍術居合術を学ぶなど、聡明さを早くから示していたが、風流に生きる姿から「チャカポン(茶・歌・鼓)」とあだ名された。

ところが弘化3年(1846年)、第14代藩主で兄の直亮の世子であった井伊直元(直中の十一男、これも兄にあたる)が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定し、同年12月16日従四位下侍従玄蕃頭に叙任する。嘉永2年(1849年)12月16日には左近衛権少将に任ぜられる(玄蕃頭兼任)。

嘉永3年(1850年)11月21日、直亮の死去を受け家督を継いで第15代藩主となり、同年同月27日、玄蕃頭から掃部頭(かもんのかみ)に遷任(権少将如旧)。嘉永5年(1852年)、丹波亀山藩松平信豪の次女・昌子(貞鏡院)を娶った。

幕末の動乱の中で [編集]



彦根藩時代は藩政改革を行ない、名君と呼ばれた。また、江戸城では溜間詰上席として、将軍継嗣問題日米修好通商条約調印問題をめぐり存在感を示す。

嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国ペリー艦隊来航に伴う江戸湾(東京湾)防備に活躍したが、老中首座の阿部正弘がアメリカの要求に対する対策を諮問してきた時には、「臨機応変に対応すべきで、積極的に交易すべきである」と開国論を主張している(ただし、直弼の開国論を「政治的方便」とする説もある(後述))。彼はもともとは鎖国論者であったという。

安政2年(1855年)12月16日、左近衛権中将に転任し、掃部頭は従前通り兼任する。

このころ幕政は、老中首座の阿部正弘によってリードされていた。阿部は、幕政を従来の譜代大名中心から雄藩徳川斉昭松平慶永ら)との連携方式に移行させ、斉昭を海防掛顧問(外交顧問)として幕政に参与させた。斉昭はたびたび攘夷を強く唱えた。しかしこれは、溜間(江戸城で名門譜代大名が詰める席)の筆頭であり、また自ら開国派であった直弼としては許しがたいものであった。直弼ら溜間詰諸侯と阿部正弘・徳川斉昭の対立は、日米和親条約の締結をめぐる江戸城西湖の間での討議で頂点に達した。このため斉昭は阿部に、開国・通商派の老中・松平乗全(直弼とは個人的に書簡をやり取りするほど親しかった)、松平忠固の2名の更迭を要求した。

安政2年(1855年)8月4日、阿部はやむなく両名を老中から退けた。直弼は猛烈に抗議し、溜間の意向を酌んだ者を速やかに老中に補充するよう阿部に迫った。阿部はこれまたやむなく溜間の堀田正睦(開国派、下総佐倉藩主)を老中首座に起用し、対立はひとまず収束したが、これは乗全、忠固の罷免に対して直弼を筆頭とする溜間諸侯が一矢報いた形といえる。

安政4年(1857年)12月16日、直弼は従四位上に昇叙される。左近衛権中将掃部頭は留任。一方、同年6月17日に阿部正弘が死去すると、堀田正睦は直ちに松平忠固を老中に再任し、幕政は溜間の意向を反映した堀田・松平の連立幕閣を形成した。さらに直弼は第13代将軍・徳川家定継嗣問題紀伊藩主の徳川慶福を推挙し、一橋慶喜を推す一橋派の徳川斉昭との対立を深めた。

大老就任 [編集]

「井伊直弼大老職就任誓詞控」


松平忠固や水野忠央(紀州藩付家老、新宮藩主)ら南紀派の政治工作により、安政5年(1858年)4月23日、直弼は大老に就任した。当初、直弼は勅許なしの条約調印に反対であったが、朝廷の反対も国体を損わぬようにとの配慮からなされたものである、との認識が幕府の中で台頭しつつあった。こうした流れを受け、やむを得ぬ場合の調印を下田奉行の井上清直目付岩瀬忠震に命じた。こうして、孝明天皇の勅許を得られぬまま、6月19日にポーハタン号上でハリスとの間に日米修好通商条約が調印される。これが違勅調印であるとして、一橋派から攻撃を受ける。家定の継嗣問題では同月25日に徳川慶福を後継に決定し、慶福は名を徳川家茂と改めて同年12月1日、征夷大将軍(第14代)の宣下を受けた。

直弼の対応に憤った水戸藩士らが朝廷に働きかけた結果、孝明天皇は戊午の密勅を水戸藩に下し、武家の秩序を無視して大名に井伊の排斥を呼びかけた。また、若手の公卿たちが幕府に通じているといったことを拠り所に関白鷹司政通を突き上げ、安政3年(1856年)8月8日、辞任に追い込んだ。

前代未聞の朝廷の政治関与に対して、幕府は態度を硬化させる。長野主膳からの報告により、直弼は水戸藩降勅の首謀者を梅田雲浜と断じ、京都所司代酒井忠義に捕縛させ、安政の大獄の端緒を開いた。直弼はまた、無勅許調印の責任を自派のはずの堀田正睦、松平忠固に着せて両名を閣外に逐いやった。代わって太田資始間部詮勝、松平乗全の3名を老中に起用し、尊皇攘夷派が活動する騒擾の世中にあって、強権をもって治安を回復しようとした。さらに、水戸藩に密勅の返納を命じる一方、間部詮勝を京に派遣し、密勅に関与した人物の摘発を命じ、多数の志士橋本左内吉田松陰頼三樹三郎など)や公卿・皇族(中川宮朝彦親王)らを粛清した。また、一橋派の一橋慶喜、徳川斉昭、松平慶永らを蟄居させ、川路聖謨水野忠徳岩瀬忠震永井尚志らの有能な吏僚らを左遷した。そして、閣内でも直弼の方針に反対した老中・久世広周寺社奉行板倉勝静らを免職にした。安政6年(1859年)12月15日、正四位上に昇叙し、左近衛権中将掃部頭は留任。しかしながら、老中太田資始、間部詮勝両人も罷免、更に孤立した。

桜田門外の変 [編集]

彦根城金亀児童公園にある井伊直弼銅像
掃部山公園にある井伊直弼銅像


桜田門外の変」も参照

こうした独裁政治は、尊王攘夷派など反対勢力の怨嗟を受けた。安政6年(1859年)12月、直弼は若年寄安藤信正を水戸藩主・徳川慶篤の下に派遣し、戊午の密勅の返納を催促した。この催促は数度にわたって続けられ、遂に慶篤は父の斉昭と相談の上、勅を幕府に返納することにした。ところが水戸藩の士民(特に過激派)が激昂して勅の返納を阻止あるいは朝廷に直接返納すべきとして混乱する[12]

安政7年(1860年)1月15日、直弼は安藤信正を老中に昇進させ、この日に登城した慶篤に対して重ねて勅の返納を催促した。そして1月25日を期限として、もし遅延したら違勅の罪を斉昭に問い、水戸藩を改易するとまで述べたという[13]。これが水戸藩の藩士を憤激させるのに決定的となり、2月に水戸藩を脱藩した高橋多一郎関鉄之介らによって直弼襲撃の謀議が繰り返された。水戸藩脱藩浪士らの不穏な動きは幕府も関知はしており、2月下旬にはかつて水戸藩邸に上使として赴いたことがある松平信発が直弼を外桜田邸に訪ね、脱藩者による襲撃の恐れがあるため、大老を辞職して彦根に帰り、政情が落ち着いてから出仕すべきと勧めた。また辞職・帰国が嫌ならば従士を増やして万一に備えるように述べるも、直弼は受け入れなかった[14][15]

3月3日5ツ半(午前9時)、直弼を乗せた駕籠は雪の中を、外桜田の藩邸を出て江戸城に向かった。供廻りの徒士足軽、草履取りなど60余名の行列が桜田門外の杵築藩邸の門前を通り過ぎようとしていた時、関鉄之介を中心とする水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士の有村次左衛門ら計18名の襲撃を受けた。最初に短銃で撃たれて重傷を負った直弼は駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが遁走、駕籠を守ろうとした者も刺客に切り伏せられた。刺客は駕籠に何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねた。享年46(満44歳没)。この事件を桜田門外の変と呼ぶ。

この日、彦根藩側役の宇津木左近は、直弼の駕籠を見送った後、机上に開封された書状を発見した。それには、水戸脱藩の浪士らが襲撃を企てている旨の警告が記されており、宇津木が護衛を増派しようとしたとき、凶報がもたらされた。

墓所は井伊家の菩提寺である豪徳寺東京都世田谷区)。また茨城県水戸市所在の妙雲寺には直弼の慰霊碑が建てられている。また、当時彦根藩の飛び地領であった下野国佐野(現在の栃木県佐野市)の天応寺でも祀られている。混乱を恐れた幕府によって暗殺は秘密裡とされ、表向きには直弼は負傷によりしばらく休養とされた。そのため墓所に記された没日も実際の3月3日とは異なっている。直弼は3月晦日に大老職を正式に免じられ、閏3月晦日にその死を公表された。

跡を次男・井伊直憲が継いだが、これも3月10日に幕府に嫡子とする旨を届けながら4月28日に至ってようやく家督相続を許されるほどであった。なお、直弼が安政の大獄を行なったことを咎められ、文久1862年)11月20日、幕命により彦根藩は10万石減封されている。

人物・逸話 [編集]

井伊直弼を主題とした作品 [編集]



桜田門外の変#題材とした作品」も参照

小説 [編集]

井伊直弼を主人公とした小説

脚注 [編集]

  1. ^ 天保14年9月4日1843年9月27日死産
  2. ^ 弘化元年12月17日1845年1月24日)出生・死去
  3. ^ 嘉永6年6月2日1853年7月7日)出生、2日後に死去
  4. ^ 生母は北川氏。嘉永7年閏7月10日1854年9月2日)流産
  5. ^ 直憲の同母妹。安政元年12月16日1855年2月2日)出生
  6. ^ 生母は北川氏。安政2年9月13日1855年10月23日)死産
  7. ^ 生母は北川氏。安政3年(1856年)出生。安政4年7月17日1857年9月5日)死去
  8. ^ 直憲の同母妹
  9. ^ 生母は北川氏。安政5年2月26日1858年4月9日)出生するも早世
  10. ^ 早世
  11. ^ もっとも、全くなかったわけではない。延岡藩の後継候補として弟(後の内藤政義)とともに候補として名前が挙がったことはある。
  12. ^ 12月20日に水戸城で大評定が開かれ、士民は勅の江戸降下を阻止しようと水戸から江戸の要路に潜伏した
  13. ^ 吉田常吉 『井伊直弼』 吉川弘文館 P381
  14. ^ 直弼は人は各々天命があり、刺客が果して余を斃そうとすれば、たとえいかほど戒心しても乗ずべき隙があり、そもそも従士の数は幕府の定めるところで大老がこれを破れば他の諸侯に示しがつかないと述べた
  15. ^ 井伊家の従士・萩原吉次郎の証言によると、井伊家では安政6年(1859年)までは主君の身を守るために警護を密かに増やしていたが、直弼がこれを知って安政7年(1860年)に廃したという
  16. ^ この言葉の初出は利休七哲山上宗二が著した「山上宗二記」とも言われている
  17. ^ 長野主膳が直弼にあてた意見書の中で「現在となっては開国も仕方がないが、外国人を一定の場所(居留地)に閉じ込めて厳しく監視して商売を規制して、出て行くならそれで良し、報復するなら打ち払うべきである」と趣旨を述べ、直弼自身も安政5年1月に堀田正睦に出した書簡の中で「外国人の説に感服して一歩ずつ譲歩するのは嘆かわしく」「皇国風と異国風の区別を弁えるべきである」と忠告を寄せている。また、徳川将軍家に代々仕える茶坊主で強硬な保守・攘夷の論説を唱えていた野村休成を直弼が終始庇護したのに対して、通商条約締結間際になって、阿部や堀田が登用した多くの開明派官僚を一橋派・南紀派を問わずに追放している。更に、安政5年11月29日に間部詮勝を通じて関白九条尚忠に、自分の本意は「従来の国法(鎖国)に復することである」と述べている。
  18. ^ 井伊直弼と開国150年祭『直弼二十二景~井伊直弼にまつわる22の風景~ 第二十二景 彦根城天主』

参考文献 [編集]



井伊直弼(1815-1860)
「桜田門外の変」で命を落とした幕末の大老・井伊直弼は文化12年(1815)
10月25日に彦根藩第11代藩主・井伊直中の十四男として生まれました。普通
ならこんな下の方で産まれた子が藩を継ぐことはあり得ないわけで、直弼も
ずっと部屋住みの身だったのですが、兄達がどんどん他へ養子へ出てしまっ
た後、兄で藩を継いだ直亮に子ができなかったため弘化3年(1846)兄の養子と
なり、4年後兄の死に伴って彦根藩35万石の当主となりました。

彦根藩は徳川家康の四天王の一人井伊直政の子孫です。直政が関ヶ原の戦い
で亡くなった後、長男の直勝が大坂の陣に参戦できなかった為、次男の直孝
の系統がこの藩を継ぎ、直勝の系統は上野安中藩に移りました。ここは譜代
大名の筆頭とされており、また京都守護の密命を帯びていたともいいます。

家康は成り行き上江戸に本拠地を築いたため、そこに幕府を開いた訳ですが
いつ何時誰かが京都に上って天皇から新たな統治者として認められるような
ことが起きるかも知れない。そういう場合にそれを阻止することが井伊家の
役割であったという説もあります。

重要な家柄であるため何人もの大老を出しており、江戸時代に任命された
12名の大老の内、実に5人が井伊家です。

黒船来航の処理をした若き老中・阿部正弘が安政4年(1857)過労のため急死
したあと、堀田正睦が一時政権を引き継ぎますが、物分かりの悪い朝廷の
反対を押し切って安政5年6月19日、日米修好通商条約締結を断行、それと
引き替えに4日後の23日、老中職を辞します。

井伊直弼が大老に就任(就任自体は同年4月23日だがその時点ではまだ堀田
の方に実権があった模様)したのはその極めて難しい時期のことでした。

それ以前の彼の言動を見れば、直弼は決して開明派ではありません。むしろ
心情的には攘夷派に近い所にあったのですが、実際に堀田正睦の後をついで
政権を担当すると、そのような原則論ではどうにもならないことを認識しま
した。外国の脅威が目の前にある時、無意味な論争をしている訳にはいきま
せんでした。

取り敢えず彼は諸外国と条約を結んで、いきなり武力侵攻してくることは
ない状況を作り出し、その間に海軍力を急いで充実させなければならないと
考えました。そのため彼はアメリカ以外のオランダ、ロシア、イギリス、
フランスなどともアメリカと同様の条約を次々と結んでいきます。そして
外国奉行を設置すると共に、各大名に外国製の武器を購入するように推奨
します。万一どこかの国と総力戦になった時の用心ですが、結果的にはこの
武器が数年後に官軍の主力となります(特に速連射できる上に高い殺傷能力
を持つガトリング銃は強烈であった)。

しかしこのような重大な時期に当時はもうほとんど実権がなかったとはいえ
将軍の徳川家定が死去。攘夷派はその中心人物の一人である水戸の徳川斉昭
の息子で一橋徳川家を継いでいた徳川慶喜を後継に推していましたが、直弼
は敢えて紀州徳川家の慶福(家茂と改名)を強引に後継に据え、斉昭には謹慎
を言い渡し、徳川慶喜も登城停止処分にしました。

更には各地の攘夷派のリーダーを次々と逮捕。開国反対派の公家にも朝廷に
圧力を掛けて謹慎させ、強権で国をまとめようとします。これが安政の大獄
で、橋本左内・吉田松陰らが処刑されています。

これに対して直弼の強権発動に反発し、更には反米感情を持つ水戸藩士17名
と薩摩藩士1名は一応藩を脱藩した上で、安政7年(1860)3月3日早朝、江戸城
の近くの愛宕神社に集結。上巳の節句のため登城しようとしていた井伊直弼
の行列を桜田門外で襲撃して、この命を奪いました。

井伊直弼・享年46歳。

この後、江戸幕府はきちんと政治を動かすことのできる人物が現れず自己
瓦解の道を突き進んで行きます。偶然にもこの時期アメリカで南北戦争が
勃発(1861)していなかったら、日本はアメリカの植民地にされていても
おかしくなかったかも知れません。(1865南北戦争終結。1867大政奉還)


井伊直弼 いいなおすけ 社会

幕末政治家(1815年10.29-1860年03.03).近江国彦根藩主大老

父は井伊直中掃部頭.号は宗観.

兄直亮

 安政の大獄  安政5年(1858)~6年
【安政の大獄】 大老井伊直弼が将軍継嗣問題の反対派と幕政批判志士に加えた弾圧。
 井伊直弼は13代将軍家定の継嗣をめぐって一橋派と対立。南紀派に推挙されて大老に就任し、強権をもって一橋派を左遷処罰しました。また日米修好通商条約を勅許を得ないまま調印締結。この強権政治に反発した反幕的な公卿や志士たちに弾圧を加えました。

【将軍継嗣問題】 13代将軍家定が病弱であり、その補佐をするためと、実子がなく早々に後継者を決める必要があったのです。最有力候補は二人。水戸徳川斉昭の七男で、御三卿一橋家に養子に入った慶喜と紀州藩主の徳川慶福(よしとみ、後に家茂と改名)です。

 一橋派・・・一橋慶喜(18歳)を推すグループ。水戸徳川斉昭、島津斉彬、松平慶永ら雄藩大名。岩瀬忠震、川路聖謨、永井尚志、大久保忠寛ら開明派官僚。「難局に指導性を発揮できる英明さ」を主張する。現代の企業に例えると「会社が危ない時に8歳の子供を次期社長にしてどうするんだ!」と主張するようなものです。

 南紀派・・・紀州藩主徳川慶福(8歳)を推すグループ。水戸斉昭を嫌う大奥、松平忠固(まつだいら・ただかた、老中)、水野忠央(みずの・ただなか、紀州家付家老)、平岡道弘(御側御用取次)ら保守派。「血筋の近さを尊重する」「年齢や英明さを基準に選ぶのは誤りである」とする。

■安政5年(1858)4月23日、井伊直弼が大老に就任し、その強権をもって「将軍継嗣問題」「条約調印問題」の懸案事項を強引に解決することになります。6月19日、日米修好通商条約に勅許を得ないまま調印。6月25日、徳川慶福を将軍世嗣とすることを発表しました。

 この強引な決定が大老井伊直弼に対する攻撃材料にされますが、それは誤りだと思います。
 日米修好通商条約に勅許(天皇の許可)を得ないで調印したことを責めるのは、まったく論外です。もともと*外交権は完全に幕府が持っていて、天皇や朝廷が口出しすることではありません。鎖国は幕府の政策であり、開国するのも幕府の自由で、条約の調印に勅許など必要ないのです。
 井伊大老が就任以前の老中阿部正弘・堀田正睦が、開国通商に反対する者たちを押さえ込むために天皇の許可を得ようとした(天皇に責任を負わせようとした?)ことが間違いの元。目算が狂って勅許を得ることができず、政治に発言権がなかった朝廷を政治の舞台に引っ張り出してしまったのです。
 *外交権:諸外国との外交権は幕府が持ち、和蘭(オランダ)風説書を通しての海外情報を独占しています。

 将軍継嗣を強引に幼い徳川慶福に決めたのも、血統という常識面からは当然ですし、結果的にも影響があったとは思えません。一橋慶喜は慶福より年長というだけで、英明だったかは疑問ですし、慶喜が将軍になったら、*攘夷論者である水戸斉昭が将軍の実父として幕政に関与するでしょう。ただ、難局にあたって、指導力のある将軍の下に雄藩大名と優秀な実務官僚を配して、強固な体制にしようとした開明派たちの幕府改革の機会は潰えてしまいました。
 *攘夷論者である水戸斉昭・・・攘夷論者ですが、本心では攘夷が無謀なことは理解していたそうです。

■井伊直弼に罪があるとすれば、将軍継嗣問題や条約無勅許調印ではなく、この後の弾圧をおこなったことだと思います。

【大獄断行の趣旨】
1.諸外国との通商条約締結において、妨害となる思想、行動への処罰。
2.将軍継嗣決定に対して、幕府の秩序を乱す行動への処罰。
3.京都朝廷の反幕派の一掃と、親幕派(関白九条尚忠など)の擁護。
4.水戸密勅事件(天皇が水戸へ直接に勅諚を下した)の水戸側関係者の処罰。

 大老就任直後に勘定奉行川路聖謨や老中堀田正睦を罷免し、「将軍継嗣問題」で反対派だった徳川斉昭や松平慶永を処罰しました。
 その後、幕府高級官僚の岩瀬忠震、川路聖謨、永井尚志、大久保忠寛らを追放し、幕政批判する者を次々と逮捕、処刑してゆきます。死刑8人、遠島や追放、所払い、押込めなど処罰者が合計75人。公家や大名、その家臣など、代表的な人物は「幕臣では岩瀬忠震、諸藩士では橋本左内と吉田松陰」といわれます。中でも橋本左内を処刑したことが、徳川幕府を滅ぼす遠因になったといわれています。

 弾圧の対象となったのが、幕府の秩序を乱したり、社会不安を起こす過激な攘夷論者だけなら納得できるのですが、「継嗣問題」で反対派だった大名・開明派官僚たちを処罰したのは、明らかな報復人事です。幕府が消滅するまでに10年、この時期に派閥争いをやっていたのです。
 安政の大獄 処罰者 (代表的人物です)
一橋慶喜 隠居・慎 徳川斉昭  水戸に永蟄居 徳川慶篤(水戸藩主) 隠居・慎
松平慶永 越前 隠居・慎 伊達宗城 宇和島 隠居・慎 山内豊信 土佐 隠居・慎
岩瀬忠震 永蟄居 川路聖謨 隠居・慎 永井尚志 永蟄居
安島帯刀 水戸殿家来 切腹 橋本左内 松平慶永家来 死罪 鵜飼吉左衛門 水戸殿家来 死罪
頼三樹三郎 京都町儒者 死罪 吉田松陰 松平大膳(長州)家来 死罪 梅田雲浜 尊攘志士 捕縛後獄死
 阿部正弘の幕政改革
■江戸時代を通して、最大の国家的危機は嘉永6年(1853)6月の「ペリー艦隊の来航」だと思います。この時の幕府政治を担当していたのが、老中首座阿部正弘です。当時35歳。彼は備後福山十万石藩主で、天保14年(1843)25歳の時に抜擢され、老中に就任しました。
 阿部正弘は幕閣にはかり、「戦争だけは回避しなければならない」として、ペリーの要求を受け入れることにしました。積極的な開国ではないにしても、この決断は外交の現実を知る者にとって当然だと思います。彼はペリーから受け取った「フィルモア大統領の国書」を諸大名に回覧し、幕臣や庶民からも「開国と通商」に関する意見を求めました。
 この時の答えは、多くの幕臣は現状を理解していたので消極的な開国論でした。他は現状維持論(とにかく開国反対)や徹底攘夷論(無責任な攘夷)。また少数ながら、幕臣勝麟太郎や下総佐倉藩主堀田正睦の積極的開国論がありました。

 阿部正弘は幕政改革を実施。まず有為な人材の抜擢を行いました。蘭学に明るい堀田正睦を自分より上位の老中首座に据え、海防掛目付に永井尚志、翌年に岩瀬忠震と大久保忠寛を任じました。大久保の推薦で勝麟太郎を蕃書翻訳に登用しました。
 オランダに蒸気軍艦を発注し、安政2年(1855)オランダから軍艦や教官の援助を受け長崎海軍伝習所を開設。安政6年(1859)2月に閉鎖される間に幕臣、諸藩士を問わず多くの人物(榎本武揚、川村純義、中牟田倉之助、五代友厚など)を育てました。
 安政3年(1856)4月、剣術、洋式砲術など武術教育機関である講武所を設立。翌安政4年1月には蕃書調所を設立、洋書の翻訳や幕臣の洋学教育などが行われました。

■阿部正弘と堀田正睦の政策で、大きな失敗がひとつ有ると思います。
 それは外交での対策や、和戦の意見を諸大名に問うたこと、通商条約で勅許を得ようとしたことです。上でも触れましたが、徳川幕府の政策において、諸大名や朝廷には発言権がなく、内政・外交とも独裁していました。それが広く意見を求めたことで、諸大名、朝廷、世間一般が政治に目覚めてしまいました。幕府にとって自信の無さを露呈し、天皇の意向が幕府の政策を左右することになり、自ら権威を下げることになりました。

 阿部正弘は安政4年(1857)6月17日に39歳の若さで亡くなってしまいます。その10ケ月後の翌安政5年4月、井伊直弼が大老に就任し、その強権政治の下に、阿部正弘が骨身を削って育て上げた改革や抜擢した人材は一掃されてしまうことになります。
 阿部正弘がもっと長生きしたら、井伊直弼の政権はなかったでしょうし、安政の大獄も起こらなかった・・・。こう考えると、彼の死が歴史を大きく変えたといっても良いのではないか、と思います。難局に対して心労に耐えず、早世してしまったのでしょうね。残念です。
 





 平成18年4月10日

井伊直弼 いい・なおすけ



文化12年10月29日(1815年11月29日)~安政7年3月3日(1860年3月24日)

滋賀県彦根市・彦根城内の公園でお会いしました。




井伊直弼は文化12年(1815年)10月29日、第11代彦根城主の井伊直中が50歳のときの第十四男として生まれました。
青年時代は井伊直孝の遺訓による藩の掟により不遇の時期を過ごしましたが、後に第12代藩主・長兄の直亮なおあきの養嫡子となり、直亮の没後、第13代彦根藩主となります。
嘉永6年(1853年)アメリカ使節ペリーが浦賀に来て修交を迫ったときには開国を主張し、前水戸藩主の徳川斉昭と対立しました。
また、将軍継嗣問題では和歌山藩主・徳川慶福よしとみを推挙、一橋派と対立しました。
安政2年(1858年)大老職に就任し、勅許なく日米修好通商条約に調印し、慶福=家茂いえもちを将軍継嗣に決定します。
その後、「安政の大獄」と言われる攘夷派の志士の弾圧を行い、このこともあり安政7年=萬延元年(1860年)3月3日、桃の節句の祝儀に江戸城に参上の途中、桜田門において水戸・薩摩の浪士に襲われ命を落としてしまいました。
46歳の時でした。




井伊直弼

開国の英雄井伊直弼は、藩主直中の子として生まれたが、5歳にして母と、17歳にして父に死別し、わずか300俵の捨扶持で17歳から32歳までの青春時代を埋木舎ですごしもっぱら心身の修練につとめた。
ところが思いがけなく嘉永3年(1850年)36歳のとき彦根藩主となり安政5年(1858年)大老職となった。
時に44歳。
嘉永6年6月アメリカのペリーが日本を訪れて開国をせまり、以来鎖国か開国かと国内は非常に混乱した。
大老井伊直弼は我国の将来を考えて安政5年(1858年)6月開国を断行、これに調印し外国と修交を結んだのである。
この大偉業をなしとげた直弼も大老の心情をくむことのできなかった人々によって万延元年(1860年)3月3日桜田門外で春雪を血に染めて消えた。
時に46歳であった。
この銅像は、井伊直弼が最後の官職であった正四位左近衛中将の正装をうつしたものである。

(説明板より)



楽々園

旧藩主の下屋敷で、槻御殿の名のほかに黒門外(前)屋敷とも称されたが、現在は楽々の間にちなんで楽々園と呼ばれている。
1677年四代藩主直興により造営が始まり、1679年に完成、その後数回にわたり増改築が行われ、往時には能舞台を備えた広大な建物であったが現在では書院や地震の間、雷の間、楽々の間等の一部が残っている。
戦後、松原内湖が埋め立てられて、全く景色が変わってしまったが、この屋敷からの内湖の眺めは伊吹山や佐和山、磯山等を望んで非常に美しかったので、楽山楽水の意かとも思われる。
また「民の楽を楽しむ」という藩主の心を表したものでもあろう。
庭は枯山水で、布石の妙を極めている。
開国の英傑井伊直弼も1815年10月29日に父直中の14男としてこの屋敷で生まれた。

(説明板より)




歌碑説明文

あふみの海 磯うつ波の いく度か
御世にこころを くだきぬるかな

安政7年正月(同年3月18日万延と改元)、大老は、正四位上左近衛中将の正装をした自分の画像を、お抱え絵師狩野水岳に描かせ、この自作の和歌を讃して井伊家菩提所清涼寺に納めた。
歌の意は、びわこの磯うつ波が打ちくだけては引き、又、打ちくだけては引くことを何回も繰り返しているように、大老就任以来、難問が何回となく次々と押し寄せてくる。
しかし自分は常に日本国の平和と安泰を願って、全身全霊を尽くして心をくだいてきたので悔いは残らない。
波がざーと引くような清爽な気持ちである。
この3ヶ月後の3月3日、江戸城桜田門外で凶刃に倒れたときの大老の心境は、将にこのように清澄なものであったと思われる。

(説明板より)




井伊直弼が青春時代を過ごした藩の公館「北屋敷」は「埋木舎」として残っています。
佐和口多聞櫓の斜め前、護国神社の裏にあります。
佐和口多聞櫓前の中濠に黒鳥を見かけますが、この黒鳥は茨城県(水戸藩)から贈られたという話です。


「桜田門外の変」で有名な「桜田門外襲撃図」が茨城県の大洗町にある「幕末と明治の博物館」に収蔵されています。




碑文

安政5年大老井伊掃部頭直弼は 内外の紛擾を排して 日米修好通商條約の調印を決行し ひろく通商の基を開き 近代日本發展の端緒をつくった
明治14年旧彦根藩有志は 直弼追慕のため建碑の舉を興し 大老の事蹟に縁故深き横浜に地を卜し 戸部町に一■■い 掃部山と称してここに造園を施し 明治42年園内一角に銅像を建立し ■えて大正3年園地とともにこれを横浜市に寄附した
不幸大戦中の金属回収により銅像は昭和18年撤去の運命に遭い 公園また昔日の■なきところ たまたま昭和29年開國百年祭を催すに方り 記念行事の一環として 開國に由緒深き井伊掃部頭の銅像再建と掃部山公園の整備を企画し ひろく市民の協賛を求め ここに復旧の業を興した

昭和29年6月2日
神奈川縣
横濱市
横濱商工會議所
横濱市長平沼亮三書

※■は判読できなかった文字です。



横浜の開港と掃部山公園(説明石碑の碑文)

安政5年(1858)
日本の近代に先駆した大老井伊掃部頭直弼は
よく内外の激動に耐え
機に臨み英断
日米修好通商条約を締結した
安政6年
ここに横浜は
未来の発展を予見するかのように
世界の海洋に向かって開港した
明治14年(1881)
井伊大老を追慕する彦根藩士有志により
開港に際しての功績を顕彰するため
記念碑建立の計画をたて
明治17年この地の周辺の丘を求め
掃部山と称し造園を施し
明治42年(1909)
園内に銅像を建立しこれを記念した
大正3年(1914)
井伊家より同地並びに銅像を横浜市に寄贈
掃部山公園として公開された
ここに
平成元年を以て
市政100周年
開港130周年を迎え
これを記念してこの碑を建立した

平成元年6月2日
横浜市長


日米修好通商条約と外交

日米修好通商条約締結にあたって幕府がもっとも心配したのは、諸大名の動向であった。
老中・堀田正睦は、条約締結へのゴーサインを出してから大名たちに繰り返し、交渉の経過を知らせ了解を求めた。
条約の内容がほぼまとまった安政4年12月29日には、江戸城内に諸大名を集め、条約を結ぶに至った経過とその内容を詳しく説明し、賛同を求めた。
大名たちからはさしたる反対もなかったが、隠居していた水戸の斉昭は、激怒してハリスの首を刎ねろと喚いたという。
ともかく、天皇の許可(勅許)を得なければと、堀田正睦は、岩瀬忠震と川路聖謨を連れて、安政5年1月21日(1858年3月6日)に上京した。
時の天皇は孝明天皇であったが、条約締結を拒否し、たとえ戦争になっても構わないと、攘夷を主張し続けた。
堀田正睦は、4月20日(6月1日)江戸に戻った。
幕府は進退窮まってしまった。
その3日後の4月23日(6月4日)、井伊直弼が大老に就任した。
大老とは、非常時に置かれる特別な役職で、将軍を補佐し、絶大な権力を持っていた。
直弼は、大老に就任すると直ちに行動を開始し、5月6日、大目付の土岐丹波守と勘定奉行の川路聖謨らを左遷、外国掛老中の堀田備中守は京都の不始末(勅許失敗)により罷免され、次期将軍に紀州の慶福(家茂)を立てることを発表し人々を驚かせた。

直弼はもともと保守的な考えを持っていた人で、本心では条約締結には反対であった。
しかし、天皇の考えで幕政が動かされることには危機感を持っていた。
直弼は、目付の岩瀬忠震と下田奉行の井上清直に再度、条約の締結の延期の交渉を命じたが、会談が決裂することだけは避けようと、どうしてもやむを得ない場合には調印してもよいとの許可を出した。
下田で条約調印を痺れを切らして待っていたハリスは、ポーツマス号に乗り込み6月18日、いきなり横浜沖に現われ調印を催促した。
翌日の安政5年6月19日、大老・井伊直弼の意を受けた日本側全権・岩瀬と井上は通詞の森山多吉郎を伴って、ポーツマス号に赴き、日米修好通商条約に調印した。

この調印の20日後、7月9日、これからますます多忙となる外交業務を専門に担う奉行「外国奉行」5名が初めて任命された。
水野忠徳、永井尚志、井上清直、堀利煕、岩瀬忠震の5名で、いずれもこれまで外交関係の任務に当たっていた。

安政5年9月3日、日仏通商条約の調印が取り交わされたが、その日に条約締結の立役者であった岩瀬忠震は、作事奉行に左遷され、さらに安政6年8月27日には作事奉行を罷免されて永蟄居を命じられた。
安政の大獄である。
幕臣の中で井伊大老の弾圧の標的となったのは、外国奉行の面々であった。
特に、ことごとく大老に逆らった岩瀬忠震は永蟄居にされた。
岩瀬をこれまで登用していたのは、外国との交渉に全く自信のない井伊直弼が、自分を小馬鹿にして逆らってばかりいた忠震を条約締結のけりがつくまでやむを得ず任せていたもので、条約締結の山を越えた所で即座に処断したものであった。
また、他の奉行たちも同類と見ていたが、一度に辞めさせると今後の外交交渉に差し障りが出てくると困るというので、そのまま任せていたのである。
その後、永井、井上が軍艦奉行と小普請奉行に転任させられ外交の前線から外されてしまった。
後任の酒井隠岐守と加藤壱岐守は全く外交には不慣れであった。
堀田正睦が失脚して、井伊直弼が大老となり一新された老中には、直弼をはじめ誰一人、諸外国の使節と渡り合える閣老はいなかった。
こうして外国問題は、外国奉行に一任される事態になったが、岩瀬、永井、井上が外されたのち、水野忠徳も安政6年7月27日に発生したロシア水兵殺害事件の責任をとって外国奉行を辞任した。

安政の大獄によって、最初に任命された外国奉行が次々に左遷され、補充の外国奉行が次々と日替わりのように任命されたが、ほとんどが外国人との折衝は不得手であった。
新たに任命された外国奉行たちも井伊直弼の行き当たりばったり外交の被害者であった。
このように、井伊大老の出現で、幕末の俊秀、外交問題のエキスパートたちが一掃されてしまった。

(参考:江越弘人著『幕末の外交官 森山栄之助』 弦書房 2008年)

(平成22年1月11日追記)


日米修好通商条約の真実

安政5年6月17日、日米修好通商条約調印の2日前のこと。
ハリスは会見した下田奉行・井上清直きよなお、目付の岩瀬忠震ただなりに、直ちに条約を結べば、英仏が強引な要求をしても、米国が調停することを約束した。
この報告を受け、直弼のもと幕閣による評議が開かれた。
調印に賛成する者がほとんどだったが、直弼は慎重で、さらに老中との協議の後、井上、岩瀬を呼び「勅許を得られるまでは、できる限り調印を延期するよう交渉せよ」と命じた。
すると井上は「交渉が行き詰った際は調印してよいか」と尋ね、直弼は「その際は仕方がないが、なるべく延期するよう努めよ」と答えた。
これを井上・岩瀬は井伊大老から調印許可の言質げんちを取ったものと解釈し、二人はすぐに条約に調印してしまったという。

評議から帰った彦根藩邸で、直弼は側役そばやく兼公用人の宇津木景福うつぎかげよしに、なぜ天皇の意向に背き、緊急に諸大名を招集して、考えを開いた上で決定しなかったのかとたしなめられる。
直弼は自分の非に気が付き、大老辞任をほのめかした。
すぐに藩側役・公用人が呼ばれ評議の末、大老を辞任すれば、責任は将軍にも及び、徳川斉昭ら陰謀を企む輩の術中にはまるとして諫言かんげんされる。
ここに直弼は辞意を撤回し、強気に転じて、矢継ぎ早に施策を打ち出した。

在府諸大名に調印を告げ、老中の堀田正睦と松平忠固を罷免。
将軍継嗣を紀州の慶福と公表。
京都に条約調印の弁疏べんその使者を派遣。
更に、不時登城し、直弼の無断調印の責任を追及する斉昭・慶篤よしあつ父子、また慶永や尾張藩の徳川慶恕よしくみらを逆に罪に問うた。

(参考:『歴史街道 2010年11月号』)

(平成22年11月24日追記)




井伊掃部頭邸跡(前 加藤清正邸跡)

この公園一帯は、江戸時代初期には肥後熊本藩主加藤清正の屋敷でした。
加藤家は二代忠広ただひろの時に改易かいえきされ、屋敷も没収されました。
その後、近江彦根藩主井伊家が屋敷を拝領し、上屋敷かみやしきとして明治維新まで利用しています。(歴代当主は、掃部頭かもんのかみを称しました)
幕末の大老井伊直弼は、万延元年(1860)3月に、この屋敷から外桜田門そとさくらだもんへ向かう途中、水戸藩士等に襲撃されました。

平成9年8月
千代田区教育委員会

(説明板より)




碑文

此の地は萬延元年3月3日昧爽水戸藩士斎藤監物 関鐵之介 佐野竹之介 黒澤忠三郎 大関和七郎 廣岡子之次郎 山口辰之介 森五六郎 岡部三十郎 鯉淵要人 稲田重蔵 杉山彌一郎 蓮田市五郎 森山繁之介 廣木松之介 増子金八 海後磋磯之介 薩摩藩士有村次左衛門等天下ノ為ニ幕閣 大老井伊直弼ヲ斃サントシテ勢揃ヲ為セル處ナリ
■■櫻田事變ナルモノハ■■ノ志士協力シテ井伊大老ヲ斃シ後直チニ京都ニ結集シ 至■■奉シテ天下ニ大義ヲ唱ヘントシタルモノナリ
金子孫次郎 高橋多一郎■ニ領首ハ機ヲ逸セス京阪ニ赴キシモ事ハ齟齬シテ■兵■■ス
終ニ金子ハ京都伏見ニ捕ヘラレ高橋ハ其ノ子庄左衛門ト共ニ大阪四天王寺ニ■■ス
然リト雖モ斯ノ一擧遂ニ克ク三百年ノ幕府政治ヲ倒壊セシメ以テ■政維新皇国興隆ノ新體制■招来スヘ■導火線タルノ偉功ヲ樹タリ
然ルニ世人櫻田門ノ史蹟ヲ知ルモ事前ニ於ケル烈士愛宕山上勢揃ノ事蹟ニ■■テハ■■トシテ之ヲ識ル者ハ殆ト殊ナリ
吾人其ノ遺蹟ノ■滅ニ歸セントスルヲ慨シ此ニ碑ヲ建テ来者ニ■クルアラントス

皇紀二千六百一年三月三日 建之
櫻田烈士遺跡顕彰會長 三木哲次郎
故貴族院議員 室田■之
貴族院議員 徳富■一郎
財団法人多摩聖蹟記念會長 長尾欽■
芝區■志 茂又四郎■
同 茂又幸雄
大東文化學院教授文學士正四位 峰間信吉
金子孫次郎孫法學士 金子榮一

※ ■は判読不可の文字です。



愛宕神社由緒

当社は徳川家康公が江戸に幕府を開くにあたり江戸の防火・防災の守り神として将軍の命を受け創建されました。
幕府の尊崇篤くご社殿を始め仁王門、坂下総門等を寄進され、祭礼等でもその都度下附金の拝領を得ておりました。
また、徳川家康公のご持仏「勝軍地蔵菩薩」(行基作)も特別に祀られております。(非公開)
江戸大火災、関東大震災、東京大空襲の度に焼失しましたが現存のご社殿は昭和33年再建されました。
寛永11年3代将軍家光公の御前にて、四国丸亀藩の曲垣平九郎盛澄が騎馬にて正面男坂(86段)を駆け上り、お社に国家安寧の祈願をし、その後境内に咲き誇る源平の梅を手折り将軍に献上した事から日本一の馬術の名人として名を馳せ「出世の石段」の名も全国に広まりました。
万延元年には水戸の浪士がご神前にて祈念の後、桜田門へ出向き大老井伊直弼を討ちその目的を果たした世に言う「桜田門外の変」の集合場所でもありました。

(説明板から抜粋)

愛宕山事件

昭和20年8月15日、右翼団体の『攘夷同志会』のメンバーらが愛宕山に立て籠もり徹底抗戦を叫んだ事件。
しかし、警官隊に包囲され8月22日に10人が手榴弾で自爆して事件は終結した。




【桜田門外の変・彦根藩士死者(供廻り)】

河西忠左衛門(御供目付)
沢村軍六(御供目付)
小河原秀之丞(御供目付側小姓)
岩崎徳之進(平供助)
永田太郎兵衛(駕籠付)
越石源次郎(駕籠付)
加田九郎太(御供方騎馬徒)

他、負傷者11名

(参考:『歴史街道 2010年11月号』)

(平成22年11月24日追記)




都史跡 井伊直弼墓

所在 世田谷区豪徳寺2丁目24番7号 豪徳寺
指定 昭和47年4月19日

井伊直弼(1815~60)は彦根藩主直中の子で、兄を継ぎ藩主となり、ついで安政5年(1858)4月大老になる。
勅許を待たず日米修好通商条約など安政5ヶ国条約に調印。
また13代将軍家定の後継者を慶福(のちの家茂)に決定し、反対派の一橋慶喜らを抑えるという強い政策を実施。
さらに安政の大獄を断行するに及んで、常に暗殺の危機にさらされ、遂に安政7年3月、江戸城外桜田門外において、水戸・薩摩の浪士らに暗殺された。
世田谷郷は井伊家領であり、直弼は豪徳寺に埋葬された。
墓石の高さは342センチ、正面に「宗観院殿正四位上前羽林中郎将栁暁覚翁大居士」とある。

昭和47年10月30日 建設
東京都教育委員会

(説明板より)



国指定史跡
彦根藩主井伊家墓所
豪徳寺井伊家墓所

井伊家は遠江国とうとうみのくに井伊谷いいのやを中心に勢力を持った武士で、戦国期には今川氏の配下にあった。
井伊家24世とされる直政は天正3年(1575)、15歳で徳川家康に仕え、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦においては、自ら先鋒を務め東軍の勝利に貢献した。
合戦後、直政は近江国などに18万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築いた。
続く2代直孝なおたかも大坂夏の陣で功績をあげ、近江国、下野国、武蔵国世田谷にあわせて30万石を有する譜代大名の筆頭格となった。
以後、幕末までこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間たまりのまに控えて将軍に近侍し、時には大老職に就き幕府政治に参与した。
寛永10年(1633)頃、世田谷が井伊家所領となったのを機に、領内の弘徳院が菩提寺に取り立てられた。
直孝の没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られた。
墓所の北西角には、豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに幕末の大老、13代直弼(宗観院殿)墓がある。
直弼墓に至る参道沿いには、藩主や藩主正室らの墓石が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献した亀姫(掃雲院殿・直孝長女)墓がその中央西側に位置している。
墓所内で最も古い墓は、直時なおとき(広度院殿・直孝四男)のもので、万治元年(1658)に建てられた。
直孝が没したのは万治2年で、どちらの墓石も唐破風からはふ笠付位牌いはい型で造られている。
以降、豪徳寺に所在する藩主、正室、世子せいし、側室の墓石は、いずれもこの形式で建造された。
また、墓所の北側の一角には、早世した井伊家子息子女らの墓石に混じって、江戸で亡くなった藩士とその家族の墓石も据えられている。
これらを合わせると、墓所に所在する墓石の総数は三百基余になる。
彦根藩主井伊家墓所は、豪徳寺、清涼寺せいりょうじ(滋賀県彦根市)、永源寺えいげんじ(滋賀県東近江市)の三ヶ寺にあり、歴代藩主とその一族の墓が網羅される。
各墓所は、将軍家側近でもあった井伊家の姿を物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な遺産であるため、一括で「彦根藩主井伊家墓所」として、平成20年3月28日、国史跡に指定された。

平成20年3月
世田谷区教育委員会

(説明板より)



大谿山だいけいざん豪徳寺ごうとくじ(曹洞宗)

豪徳寺は、世田谷城主吉良政忠が、文明12年(1480)に亡くなった伯母の菩提のために建立したと伝える弘徳寺こうとくじを前身とする。
天正12年(1584)中興開山門菴宗関もんなんそうかん(高輪泉岳寺の開山)の時、臨済宗から曹洞宗に改宗した。
寛永10年(1633)彦根藩世田谷領の成立後、井伊家の菩提寺に取り立てられ、藩主直孝の法号により豪徳寺と改宗した。
直孝の娘掃雲院そううんいんは多くの堂舎を建立、寄進し、豪徳寺を井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めた。
仏殿とその三世仏さんぜぶつ像、達磨・大権修理だいげんしゅり菩提像、及び石灯籠2基、梵鐘が当時のままに現在に伝えられている。
境内には、直孝を初め井伊家代々の墓所があり、井伊直弼の墓は都史跡に指定されている。
ほかに直弼の墓守として一生を終えた遠城謙道おんじょうけんどう、近代三大書家の随一日下部鳴鶴くさかべめいかく(いずれも旧彦根藩士)の墓、桜田殉難八士之碑がある。
また同寺の草創を物語る、洞春院とうしゅんいん(吉良政忠)と弘徳院の宝篋院塔ほうきょういんとうが残されている。

平成4年3月
世田谷区教育委員会

(説明板より)

単語記事: 井伊直弼



井伊直弼とは幕末政治根藩並びに徳川幕府大老である。

概要







文化12年(1815年)、根藩・井直中の十四男として生まれる。は側室の富。幼名は助、後に三郎

保2年(1831年)、直中の逝去に伴い別邸(槻御殿)から御用屋敷(尾末町屋敷)に移り、300俵の宛行扶持(あてがいぶち)を与えられて部屋住み生活が始まったとされる。側室の子(庶子)であることから藩に就任する可性は極めて低く、他への養子や出以外に部屋住み生活から抜け出す手段が無かったため、長い間不遇の生活を送ることになる。但し、生活が苦しいものだったかについては近年の研究によれば否定的な見解もある。

庶子時代



保5年(1834年)、井の直恭と共に他への養子候補として江戸に赴いたが、養子縁組が成立したのは直恭だけで自身は採用されなかったため根に戻ることとなった。この時期、自らの不遇に対する自嘲的な意味を込め、住居の屋敷を「埋木舎」と名付けた。

さつ事も うきも聞きしや 埋木の うもれてふかき こころある身は


部屋住み生活から抜け出す処が立たない井は、その不満を昇するため剣術、兵学、などに注する。剣術では心流(のち新心流)なる流を立て、極意書「心流柔居相如極意抄」「心流柔居相表巻」を著す。ではの修養に傾倒し、当時名僧と呼ばれた州仙英から悟の印可明を与えられる。においても一を開き、「栂尾美地布三(とがのおみちふみ)」「入門記」といった論書を著す。

他にもの湯における懐石料理の在り方について述べた「懐石」や、「実那良弩夢物(まことならぬゆめものがたり)」なる勢物パロディ小説和舎人という筆名で執筆したり、中世の勅撰和歌集を模倣した和歌集の編纂に取り組むなど、趣味に没頭することから「チャカポン(・歌・鼓)」と渾名された。

一時期は出することを真剣に考えており、保14年(1843年)頃には根藩の長浜別院大通寺から井を迎え入れたいという請願が出され、井自身も乗り気であったが藩からの圧により取りやめになった。当時世子であった井直元に子がおらず、井がその養子になる可性があったためという。

化3年(1846年)、その直元が急死した為、思わぬ幸運に見舞われることになる。

世子時代



化3年正月で世子の直元の急死により、江戸に呼び出された井は直元に代わって藩・井(なおあき)の世子となった。この時の気持ちを根藩重臣・塚正陽に対して

に不思議に存じ候程の事、実にもって御高恩身に余り、駕中にて落涙に及び候」

「実に我事、この度の昇進は尋常の事にあらず、如何にもして出でまじき身 の不思議なる昇進、是全く御厚恩と申、(かたがた)行々一通りの事にては相済難く、身の加も悪敷と存じ候間、今より密々仁政の鍛錬のみ専一に心懸け 申し候」


と伝え、意外な昇進に対する驚きと、藩政への意気込みをっている。

2月には初めて江戸に登。第12代将軍・徳川慶に謁見し、一部の譜代大名にのみ詰める事を許された溜間(たまりのま)に入り、将来の根藩として儀礼や登を務めるようになる。諸大名との付き合いも当初は戸惑っていたがやがて親しくなっていった。特に会津容敬とは同じ溜詰の大名として強い信頼関係を築いた。

にとって希望に満ちた新たな生活が始まったかに見えたが、同時に藩との確執が表面化し始める。

は先代藩で両者のである直中からも遺言状で「愚物であるから自分が死んだら隠居させよ」と名しで批判されるような人物で、藩政を省みようとしないことから諸大名や幕臣、更には配下である根藩士からの評価も散々なものだった。

江戸での生活中井は直から執拗ないじめを受ける。化4年(1847年)正月、第11代将軍・徳川斉とその実の徳川治済の法事に出席するため官を用意しなければならなかったが、直から横が入り用意することが出来ず、む無く仮病で欠席するという事件が起きている。

また2月に幕府から根藩に対して相模湾の警備を命じられると、格に見合わない役割であるとして反発する意思を伺わせ、直や藩重臣に対する批判を強めており、警備兵の不備について他藩から陰口をかれていることに対して何ら処置を取れない自分の境遇に苛立ちを募らせていた。

このような状況に加え、老評議による政策決定を行わないなど根藩代々の慣例を守らない直に嫌気が差した井は将来に向けて藩士の中から有為の人材を探し始める。また、かねてより世評の高かった学者の長野義言()を自らの学の師として招き、藩士達に長野の門人になることを奨励している。

嘉永3年(1850年)9月、直が逝去すると井は次期藩として藩政に乗り出した。

藩主就任



嘉永4年(1851年)11月21日、井は正式に根藩に就任すると人事の大幅な刷新を開始した。直の行状を諌めなかった重臣達を左遷し、有名無実化していた老評議の正常化に努めた。

次に藩政の方針として「領民との一和」「言路洞開」「文武忠孝・礼儀廉恥」「人材登用」など八箇条からなる御書付を通達し、直の遺産として合計15万両と1万俵を根藩内に配布した。(但し15万両については根藩の財政面から見て額が多すぎるため、実際にはもっと少ないのではと言われている)

嘉永5年(1852年)4月学の師である長野義言を正式に藩士として召抱える。この時期から長野の門下生が急速に増加し、藩政に携わる人物の大半が長野の門人になり影を高めていく。

黒船来航とその対応



嘉永6年(1853年)6月米国の艦隊が浦賀に現れる。当時井江戸から根に戻ったばかりだったが、知らせを受けると米国からの書の写しを藩士達に見せ意見を提出させた。大半が戦論であったが井の最終判断により幕府に対し「初度存寄書」「別段存寄書」の二度に分けて交易容認論を提出することとなった。この二通の上書において井海外交易による富強兵をし、武備が整った時点で鎖に戻すという条件付きの開論を展開した。

嘉永7年(1854年)1月、再度来航した米国艦隊への対応が幕府で協議される。ここで井戸藩の徳川斉昭と和親か打払いかで対立する。結局井をはじめ溜間詰大名や老中らの意見が多数を占め、3月3日に日和親条約が調印されるが、以後斉昭は井にとって最大の政敵となる。なお、この時期既に溜間では井を大老にしてはどうかという密議があったとされるがこの時点では実現していない。

政2年(1855年)再度米国艦隊3隻が下田に来航し、清との交易のため日本沿の測量を願い出ると、幕閣間の意見をまとめきれない老中首座・阿部は参与を辞任していた斉昭に再度諮問。斉昭が拒否することをめると阿部はそれに従い、要受け入れ忠優(ただまさ、後忠固)・乗全(のりやす)の二老中を罷免した。

これに反発した井は溜間詰大名の代表としてその意向を反映するように阿部抗議した結果、阿部は溜間から佐倉堀田を老中に推挙。そのまま老中首座の地位を堀田に明け渡した。しばらくの間堀田を補佐していたが、政4年(1857年)6月阿部は病死した。

南紀派対一橋派



この時期外交問題に加えて、次期将軍を誰にするかという新たな問題が浮上していた。第13代将軍・徳川定が病弱であったため、次の将軍を誰にするかで諸大名の間で意見が別れる。

自身は血統重視の立場から定に血筋の近い紀州藩の徳川慶福(茂)を当初から支持しており、紀州藩江戸詰め老の水野忠央(ただなか)や老中・松平忠固も慶福擁立で、これらの一は南紀と呼ばれる。

一方越前福井慶永や薩摩藩島津斉彬は国家の重大な危機に対応出来るを持つ人物を将軍に据えるべきであるとし、一徳川慶喜を次期将軍として支持した。他には伊達、土佐藩山内豊信や、阿部によって抜擢された開明幕臣達、そして当然のごとく戸の徳川斉昭が同様に慶喜を支持した。この一は一と呼ばれる。

双方で将軍継嗣に関する勅諚を得るため、福井からは橋本左内、薩摩からは西郷隆盛、そして井長野主膳京都派遣して朝廷工作に当たらせた。橋本西郷はそれぞれ君の命に従い慶喜を次期将軍にとの勅諚を得るため活動していたが、長野は関九条忠尚(ひさただ)の臣である島田左近と謀り、九条を味方に付けてこれを阻んだ。なお通商条約勅許については当時上していた堀田川路聖謨岩瀬忠震などが朝廷に働きかけていたが取得に失敗しそのまま江戸に戻っている。

政5年(1858年)4月22日、井の元に定の小姓を務めていた薬師寺元が訪れ、斉昭が定に対して謀反を企てている事と、大老就任の依頼を伝えた。臣と相談した結果承諾することにした井は翌23日に登し、大老職を拝命した。

大老就任



の大老就任の日、一岩瀬忠震をはじめ防掛の幕臣達が老中らに対し、に疑問があるとして抗議する騒ぎを起こしたが、老中らは「飾りのようなもの」と受け流した。

大老に就任した井は手始めに通商条約調印とその勅許について決着をつける必要に迫られた。井としては勅許を貰ってから条約調印に漕ぎ着けたいと考えていたが、米国ハリスから申し渡された期日に間に合わないと見た堀田松平忠固から反対され、現場責任者の岩瀬忠震井上清直の両名を引見。勅許を得られるまで出来る限り引き伸ばすよう命じたが、岩瀬井上から、これ以上交渉引き伸ばしが不可能と判断した場合の調印の可否について質され、その場合はやむを得ないと回答した。これを大老からの言質と取った二人は6月19日に日修好通商条約に調印した。

この時井臣とのやり取りの中で、諸大名との合意を取らなかった事を理由に大老を辞任する意志を漏らしたが、臣の諫言によって持ち直し、今後の場固めのため人事刷新を実行に移すことにした。まず大老就任を支持していた老中・松平忠固の罷免を決定。これについては忠固が井の大老就任後に何故か露に反発するようになったためとされる。次いで条約勅許の取得に失敗した責任者として堀田の罷免を決定。6月23日をもって両名を老中から罷免した。

24日、慶永や徳川斉昭が事前の同意を得ずに登し、勅許無しに条約調印したことと将軍継嗣問題について井を非難した。井は取り合わず、逆にこの件を利用して慶永や斉昭を謹慎に追い込む。25日、諸大名を総登させた井は、次期将軍が徳川慶福に内定したことを正式に通達した。

違勅調印に関して朝廷から呼び出しを受けた井は代わりに老中に就任させた間部詮勝を京都に向かわせることに決め、その下準備として長野主膳を上させた。8月京都に到着した長野戸藩の工作により朝廷から条約調印に関する非難を記した勅諚が降下されたことを聞きつけた。(午の密勅)

幕府を経由せず直接勅諚が下されたことを戸藩による謀略として問題視した長野は井に状況を報告。勅諚の件を知った井は徹底的な弾圧を加える決意を固めた。

安政の大獄



政5年から6年にかけて行われたこの大によって多数の人材が命を奪われ、または活動停止を強いられるに至った。最も著名なところでは吉田松陰橋本左内の他十数名が死刑もしくは死し、一された大名・幕臣・卿・諸藩士・民間人数十名が隠居・謹慎といった刑罰を受けた。

この間京都では井の代理として派遣された間部詮勝の説得工作により孝明天皇から「叡慮氷解」という一応の条約調印への理解を得ることに成功した。また、戸藩に対しては午の密勅を幕府に返納するように要しこれを受け入れさせた。

これら一連の動きにより全の尊王攘夷運動は一旦収束するかに見えたが、戸藩ではが不穏な動きを見せ始め、井の周辺にも用心するようにとの情報が入り始めた。政7年(1860年)2月戸藩が一部脱藩し、江戸根藩邸に侵入襲撃する計画が露見し、未然に防がれる事件が起きている。2月下旬には再度脱藩者が現れ、3月3日の端午の節句に伴う井の登に合わせて襲撃計画を立て始めた。

桜田門外の変



政7年(1860年)3月3日午前9時頃、の降る中登中の根藩の行列に訴状を掲げた男が立ち塞がり、取り押さえようとした藩士が近づくと突然刀を抜いて切り斃した。次に駕籠に向かってピストル弾が打ち込まれ、それを合図に十数名の刺客が一斉に襲いかかった。

数人の藩士を斃して駕籠に近づいた刺客達は引き戸越しに刀で滅多突きにし、中にいた井を引きずり出すと首を刎ねて刀に突き刺し、「井掃部守殿云々」と絶叫して走り去っていった。

以上数分の出来事は多数いた撃者によってたちまち広がり、江戸中が引っ繰り返ったような大騒ぎになった。現場には死体、血、切断されたが散乱する凄惨な有様で、他の行列は見て見ぬふりで登せざるを得なかったという。

の首を持ち去った薩摩脱藩浪士の有村次左衛門は追っ手に致命傷を負わされ、若年寄・遠藤胤統の屋敷で尽きて自害した。その後遠藤邸に根藩士達が押し掛け首の引渡しを要しそのまま藩邸に持ち帰った。君を討たれた根藩では戸藩と一戦交えるべしという気運が高まり、戸藩との間に緊が走ったが、幕府の仲裁により沈静化した。

幕府の法では大名が不慮の死を遂げた場合は名断絶、地没収することになっていたが、その場合譜代筆頭の根藩を潰すことになってしまい、喧両成敗という観点から戸藩に対しても厳罰を加えることになるため、幕閣が二のを踏んだ。困惑した幕閣達は応急処置として井はまだ生きている事とし、約2ヵ後の閏3月30日に養生わず死去したと公式に発表した。根藩に対しても御断絶はしないことを約束し、闘争寸前に至った戸藩との対立に止めをかけた。

この事件を機に幕府の弱体化が露呈され、全各地で変を志す人々が台頭。本格的な動乱が始まる。

人物評



一般的な歴史の教科書等では「不等条約である日修好通商条約の締結を強行し、反対政の大で粛清。結局桜田門外の変で暗殺された。」とヒール側で教わることの多い人物であるが、第1回の大河ドラマである“花の生涯”等の作品により近年再評価の機運が高まってきている

「大老井掃部頭は開論を唱えた人であるとか開義であったとかいうようなことを、世間で吹聴する人もあれば書に著わした者もあるが、開義なんて大嘘の皮、何が開論なものか、存じ掛けもない話だ。井掃部頭という人は純粋無雑、申し分のない参河(みかわ)武士だ。江戸大城炎上のとき、幼君を守護して紅葉山に立退き、周囲に枯れの生い繁りたるを見て、非常の最中無用心なりとて、親(みず)からの一刀を抜いてそのを切り払い、手に幼君を擁して終外に立ち詰めなりしという話がある。またこの人が京都辺の攘夷論者を捕縛して刑に処したることはあれども、これは攘夷論を悪(にく)むためではない、浮浪の処士が横議して徳川政府の政権を犯すが故にその罪人を殺したのである。これらの事実を見ても、井大老は真実間違いもない徳川の譜代、剛勇無二の忠臣ではあるが、開鎖の議論に至っては、闇(まっくら)な攘夷と言うより外に評論はない。ただその徳川が開であると言うのは、外交際の衝に当たっているから余儀なくしぶしぶ開論に従っていただけの話で、一幕捲(まく)って正味の楽屋を見たらば大変な攘夷論だ。こんな政府に私が同情を表することが出来ないと言うのも無理はなかろう。」

(福沢諭吉『福翁自伝』)
「変報を聞いたのは三日の正午であった。くわしく聞きたいと思って、の中を友人の宅に行ったところ、いずれも皆愉快愉快と叫んで、一人として憂え悲しんでいる者は、幕府の進歩党や開党の中にはなかった。森山多吉郎氏のごときは、これから開の気運が盛んになるであろうと、うれしげであった」

(福地痴『懐往事談』)
「こうなると、井は攘夷党からも開党からもきらわれていたと言わなければならない。井愛国心がなかったとは思われない。尊王心がなかったとも思われない。幕府にたいする忠心はもちろんあったはずだ。だのに、こんなにきらわれたとは、気のな人である。」

政治は志がよければそれでよいというものではない。うまくやらなければならない責任がある。うまくやれなかった政治は当代からも後世からも非難されることを覚悟しなければならない。」

(音寺潮五郎西郷隆盛』)
問「掃部守様とか戸様とかいう評判はありましたが、掃部守様の評判はどうでした?」

答「掃部守様は、評判の良い御方でございました。桜田一件の後に、部屋の者を御寺詣りに遣りました。あの御方は、奥の方では昭徳院様を大切に思ってを折って下さる御方だと、こう存じておりました。戸様の方がよほど悪いと申しました。」

(旧事諮問会編『旧事諮問録』)
「ちなみにいう、掃部守は断には富みたれども、智には乏しき人なりき。しかしてその動作何となく傲にして、人を眼下に見下ろすふうあり。けだし体肥満して常に反身をなせるより、自ら然か見受けられしものか。」

(渋沢栄一編『昔夢会筆記』より、徳川慶喜言)
「外の事起りしより、志士の論日に盛にして、其紛擾時に至て実に極れり、然れば当事者の苦心経営、正機の運転に窘(くるし)む論を俟(ま)たず、直弼其間に処し、其責全く一人に帰し、隻手狂瀾(せきしゅきょうらん)を挽回せんとす、其是非毀誉(きよ)は、(しばら)くこれを問ふを要せず、進んで難衝に当たり、一身を犠牲に供し、毫(みじん)も畏避の念なく、鞠躬盡(きっきゅうじんすい)以って数世知遇の恩に報ぜんと欲す、豈大丈夫と謂はざるべけんや。」

(勝舟『開』)

単語記事: 井伊直弼

編集


井伊直弼とは幕末政治根藩並びに徳川幕府大老である。

概要







文化12年(1815年)、根藩・井直中の十四男として生まれる。は側室の富。幼名は助、後に三郎

保2年(1831年)、直中の逝去に伴い別邸(槻御殿)から御用屋敷(尾末町屋敷)に移り、300俵の宛行扶持(あてがいぶち)を与えられて部屋住み生活が始まったとされる。側室の子(庶子)であることから藩に就任する可性は極めて低く、他への養子や出以外に部屋住み生活から抜け出す手段が無かったため、長い間不遇の生活を送ることになる。但し、生活が苦しいものだったかについては近年の研究によれば否定的な見解もある。

庶子時代



保5年(1834年)、井の直恭と共に他への養子候補として江戸に赴いたが、養子縁組が成立したのは直恭だけで自身は採用されなかったため根に戻ることとなった。この時期、自らの不遇に対する自嘲的な意味を込め、住居の屋敷を「埋木舎」と名付けた。

さつ事も うきも聞きしや 埋木の うもれてふかき こころある身は


部屋住み生活から抜け出す処が立たない井は、その不満を昇するため剣術、兵学、などに注する。剣術では心流(のち新心流)なる流を立て、極意書「心流柔居相如極意抄」「心流柔居相表巻」を著す。ではの修養に傾倒し、当時名僧と呼ばれた州仙英から悟の印可明を与えられる。においても一を開き、「栂尾美地布三(とがのおみちふみ)」「入門記」といった論書を著す。

他にもの湯における懐石料理の在り方について述べた「懐石」や、「実那良弩夢物(まことならぬゆめものがたり)」なる勢物パロディ小説和舎人という筆名で執筆したり、中世の勅撰和歌集を模倣した和歌集の編纂に取り組むなど、趣味に没頭することから「チャカポン(・歌・鼓)」と渾名された。

一時期は出することを真剣に考えており、保14年(1843年)頃には根藩の長浜別院大通寺から井を迎え入れたいという請願が出され、井自身も乗り気であったが藩からの圧により取りやめになった。当時世子であった井直元に子がおらず、井がその養子になる可性があったためという。

化3年(1846年)、その直元が急死した為、思わぬ幸運に見舞われることになる。

世子時代



化3年正月で世子の直元の急死により、江戸に呼び出された井は直元に代わって藩・井(なおあき)の世子となった。この時の気持ちを根藩重臣・塚正陽に対して

に不思議に存じ候程の事、実にもって御高恩身に余り、駕中にて落涙に及び候」

「実に我事、この度の昇進は尋常の事にあらず、如何にもして出でまじき身 の不思議なる昇進、是全く御厚恩と申、(かたがた)行々一通りの事にては相済難く、身の加も悪敷と存じ候間、今より密々仁政の鍛錬のみ専一に心懸け 申し候」


と伝え、意外な昇進に対する驚きと、藩政への意気込みをっている。

2月には初めて江戸に登。第12代将軍・徳川慶に謁見し、一部の譜代大名にのみ詰める事を許された溜間(たまりのま)に入り、将来の根藩として儀礼や登を務めるようになる。諸大名との付き合いも当初は戸惑っていたがやがて親しくなっていった。特に会津容敬とは同じ溜詰の大名として強い信頼関係を築いた。

にとって希望に満ちた新たな生活が始まったかに見えたが、同時に藩との確執が表面化し始める。

は先代藩で両者のである直中からも遺言状で「愚物であるから自分が死んだら隠居させよ」と名しで批判されるような人物で、藩政を省みようとしないことから諸大名や幕臣、更には配下である根藩士からの評価も散々なものだった。

江戸での生活中井は直から執拗ないじめを受ける。化4年(1847年)正月、第11代将軍・徳川斉とその実の徳川治済の法事に出席するため官を用意しなければならなかったが、直から横が入り用意することが出来ず、む無く仮病で欠席するという事件が起きている。

また2月に幕府から根藩に対して相模湾の警備を命じられると、格に見合わない役割であるとして反発する意思を伺わせ、直や藩重臣に対する批判を強めており、警備兵の不備について他藩から陰口をかれていることに対して何ら処置を取れない自分の境遇に苛立ちを募らせていた。

このような状況に加え、老評議による政策決定を行わないなど根藩代々の慣例を守らない直に嫌気が差した井は将来に向けて藩士の中から有為の人材を探し始める。また、かねてより世評の高かった学者の長野義言()を自らの学の師として招き、藩士達に長野の門人になることを奨励している。

嘉永3年(1850年)9月、直が逝去すると井は次期藩として藩政に乗り出した。

藩主就任



嘉永4年(1851年)11月21日、井は正式に根藩に就任すると人事の大幅な刷新を開始した。直の行状を諌めなかった重臣達を左遷し、有名無実化していた老評議の正常化に努めた。

次に藩政の方針として「領民との一和」「言路洞開」「文武忠孝・礼儀廉恥」「人材登用」など八箇条からなる御書付を通達し、直の遺産として合計15万両と1万俵を根藩内に配布した。(但し15万両については根藩の財政面から見て額が多すぎるため、実際にはもっと少ないのではと言われている)

嘉永5年(1852年)4月学の師である長野義言を正式に藩士として召抱える。この時期から長野の門下生が急速に増加し、藩政に携わる人物の大半が長野の門人になり影を高めていく。

黒船来航とその対応



嘉永6年(1853年)6月米国の艦隊が浦賀に現れる。当時井江戸から根に戻ったばかりだったが、知らせを受けると米国からの書の写しを藩士達に見せ意見を提出させた。大半が戦論であったが井の最終判断により幕府に対し「初度存寄書」「別段存寄書」の二度に分けて交易容認論を提出することとなった。この二通の上書において井海外交易による富強兵をし、武備が整った時点で鎖に戻すという条件付きの開論を展開した。

嘉永7年(1854年)1月、再度来航した米国艦隊への対応が幕府で協議される。ここで井戸藩の徳川斉昭と和親か打払いかで対立する。結局井をはじめ溜間詰大名や老中らの意見が多数を占め、3月3日に日和親条約が調印されるが、以後斉昭は井にとって最大の政敵となる。なお、この時期既に溜間では井を大老にしてはどうかという密議があったとされるがこの時点では実現していない。

政2年(1855年)再度米国艦隊3隻が下田に来航し、清との交易のため日本沿の測量を願い出ると、幕閣間の意見をまとめきれない老中首座・阿部は参与を辞任していた斉昭に再度諮問。斉昭が拒否することをめると阿部はそれに従い、要受け入れ忠優(ただまさ、後忠固)・乗全(のりやす)の二老中を罷免した。

これに反発した井は溜間詰大名の代表としてその意向を反映するように阿部抗議した結果、阿部は溜間から佐倉堀田を老中に推挙。そのまま老中首座の地位を堀田に明け渡した。しばらくの間堀田を補佐していたが、政4年(1857年)6月阿部は病死した。

南紀派対一橋派



この時期外交問題に加えて、次期将軍を誰にするかという新たな問題が浮上していた。第13代将軍・徳川定が病弱であったため、次の将軍を誰にするかで諸大名の間で意見が別れる。

自身は血統重視の立場から定に血筋の近い紀州藩の徳川慶福(茂)を当初から支持しており、紀州藩江戸詰め老の水野忠央(ただなか)や老中・松平忠固も慶福擁立で、これらの一は南紀と呼ばれる。

一方越前福井慶永や薩摩藩島津斉彬は国家の重大な危機に対応出来るを持つ人物を将軍に据えるべきであるとし、一徳川慶喜を次期将軍として支持した。他には伊達、土佐藩山内豊信や、阿部によって抜擢された開明幕臣達、そして当然のごとく戸の徳川斉昭が同様に慶喜を支持した。この一は一と呼ばれる。

双方で将軍継嗣に関する勅諚を得るため、福井からは橋本左内、薩摩からは西郷隆盛、そして井長野主膳京都派遣して朝廷工作に当たらせた。橋本西郷はそれぞれ君の命に従い慶喜を次期将軍にとの勅諚を得るため活動していたが、長野は関九条忠尚(ひさただ)の臣である島田左近と謀り、九条を味方に付けてこれを阻んだ。なお通商条約勅許については当時上していた堀田川路聖謨岩瀬忠震などが朝廷に働きかけていたが取得に失敗しそのまま江戸に戻っている。

政5年(1858年)4月22日、井の元に定の小姓を務めていた薬師寺元が訪れ、斉昭が定に対して謀反を企てている事と、大老就任の依頼を伝えた。臣と相談した結果承諾することにした井は翌23日に登し、大老職を拝命した。

大老就任



の大老就任の日、一岩瀬忠震をはじめ防掛の幕臣達が老中らに対し、に疑問があるとして抗議する騒ぎを起こしたが、老中らは「飾りのようなもの」と受け流した。

大老に就任した井は手始めに通商条約調印とその勅許について決着をつける必要に迫られた。井としては勅許を貰ってから条約調印に漕ぎ着けたいと考えていたが、米国ハリスから申し渡された期日に間に合わないと見た堀田松平忠固から反対され、現場責任者の岩瀬忠震井上清直の両名を引見。勅許を得られるまで出来る限り引き伸ばすよう命じたが、岩瀬井上から、これ以上交渉引き伸ばしが不可能と判断した場合の調印の可否について質され、その場合はやむを得ないと回答した。これを大老からの言質と取った二人は6月19日に日修好通商条約に調印した。

この時井臣とのやり取りの中で、諸大名との合意を取らなかった事を理由に大老を辞任する意志を漏らしたが、臣の諫言によって持ち直し、今後の場固めのため人事刷新を実行に移すことにした。まず大老就任を支持していた老中・松平忠固の罷免を決定。これについては忠固が井の大老就任後に何故か露に反発するようになったためとされる。次いで条約勅許の取得に失敗した責任者として堀田の罷免を決定。6月23日をもって両名を老中から罷免した。

24日、慶永や徳川斉昭が事前の同意を得ずに登し、勅許無しに条約調印したことと将軍継嗣問題について井を非難した。井は取り合わず、逆にこの件を利用して慶永や斉昭を謹慎に追い込む。25日、諸大名を総登させた井は、次期将軍が徳川慶福に内定したことを正式に通達した。

違勅調印に関して朝廷から呼び出しを受けた井は代わりに老中に就任させた間部詮勝を京都に向かわせることに決め、その下準備として長野主膳を上させた。8月京都に到着した長野戸藩の工作により朝廷から条約調印に関する非難を記した勅諚が降下されたことを聞きつけた。(午の密勅)

幕府を経由せず直接勅諚が下されたことを戸藩による謀略として問題視した長野は井に状況を報告。勅諚の件を知った井は徹底的な弾圧を加える決意を固めた。

安政の大獄



政5年から6年にかけて行われたこの大によって多数の人材が命を奪われ、または活動停止を強いられるに至った。最も著名なところでは吉田松陰橋本左内の他十数名が死刑もしくは死し、一された大名・幕臣・卿・諸藩士・民間人数十名が隠居・謹慎といった刑罰を受けた。

この間京都では井の代理として派遣された間部詮勝の説得工作により孝明天皇から「叡慮氷解」という一応の条約調印への理解を得ることに成功した。また、戸藩に対しては午の密勅を幕府に返納するように要しこれを受け入れさせた。

これら一連の動きにより全の尊王攘夷運動は一旦収束するかに見えたが、戸藩ではが不穏な動きを見せ始め、井の周辺にも用心するようにとの情報が入り始めた。政7年(1860年)2月戸藩が一部脱藩し、江戸根藩邸に侵入襲撃する計画が露見し、未然に防がれる事件が起きている。2月下旬には再度脱藩者が現れ、3月3日の端午の節句に伴う井の登に合わせて襲撃計画を立て始めた。

桜田門外の変



政7年(1860年)3月3日午前9時頃、の降る中登中の根藩の行列に訴状を掲げた男が立ち塞がり、取り押さえようとした藩士が近づくと突然刀を抜いて切り斃した。次に駕籠に向かってピストル弾が打ち込まれ、それを合図に十数名の刺客が一斉に襲いかかった。

数人の藩士を斃して駕籠に近づいた刺客達は引き戸越しに刀で滅多突きにし、中にいた井を引きずり出すと首を刎ねて刀に突き刺し、「井掃部守殿云々」と絶叫して走り去っていった。

以上数分の出来事は多数いた撃者によってたちまち広がり、江戸中が引っ繰り返ったような大騒ぎになった。現場には死体、血、切断されたが散乱する凄惨な有様で、他の行列は見て見ぬふりで登せざるを得なかったという。

の首を持ち去った薩摩脱藩浪士の有村次左衛門は追っ手に致命傷を負わされ、若年寄・遠藤胤統の屋敷で尽きて自害した。その後遠藤邸に根藩士達が押し掛け首の引渡しを要しそのまま藩邸に持ち帰った。君を討たれた根藩では戸藩と一戦交えるべしという気運が高まり、戸藩との間に緊が走ったが、幕府の仲裁により沈静化した。

幕府の法では大名が不慮の死を遂げた場合は名断絶、地没収することになっていたが、その場合譜代筆頭の根藩を潰すことになってしまい、喧両成敗という観点から戸藩に対しても厳罰を加えることになるため、幕閣が二のを踏んだ。困惑した幕閣達は応急処置として井はまだ生きている事とし、約2ヵ後の閏3月30日に養生わず死去したと公式に発表した。根藩に対しても御断絶はしないことを約束し、闘争寸前に至った戸藩との対立に止めをかけた。

この事件を機に幕府の弱体化が露呈され、全各地で変を志す人々が台頭。本格的な動乱が始まる。

人物評



一般的な歴史の教科書等では「不等条約である日修好通商条約の締結を強行し、反対政の大で粛清。結局桜田門外の変で暗殺された。」とヒール側で教わることの多い人物であるが、第1回の大河ドラマである“花の生涯”等の作品により近年再評価の機運が高まってきている

「大老井掃部頭は開論を唱えた人であるとか開義であったとかいうようなことを、世間で吹聴する人もあれば書に著わした者もあるが、開義なんて大嘘の皮、何が開論なものか、存じ掛けもない話だ。井掃部頭という人は純粋無雑、申し分のない参河(みかわ)武士だ。江戸大城炎上のとき、幼君を守護して紅葉山に立退き、周囲に枯れの生い繁りたるを見て、非常の最中無用心なりとて、親(みず)からの一刀を抜いてそのを切り払い、手に幼君を擁して終外に立ち詰めなりしという話がある。またこの人が京都辺の攘夷論者を捕縛して刑に処したることはあれども、これは攘夷論を悪(にく)むためではない、浮浪の処士が横議して徳川政府の政権を犯すが故にその罪人を殺したのである。これらの事実を見ても、井大老は真実間違いもない徳川の譜代、剛勇無二の忠臣ではあるが、開鎖の議論に至っては、闇(まっくら)な攘夷と言うより外に評論はない。ただその徳川が開であると言うのは、外交際の衝に当たっているから余儀なくしぶしぶ開論に従っていただけの話で、一幕捲(まく)って正味の楽屋を見たらば大変な攘夷論だ。こんな政府に私が同情を表することが出来ないと言うのも無理はなかろう。」

(福沢諭吉『福翁自伝』)
「変報を聞いたのは三日の正午であった。くわしく聞きたいと思って、の中を友人の宅に行ったところ、いずれも皆愉快愉快と叫んで、一人として憂え悲しんでいる者は、幕府の進歩党や開党の中にはなかった。森山多吉郎氏のごときは、これから開の気運が盛んになるであろうと、うれしげであった」

(福地痴『懐往事談』)
「こうなると、井は攘夷党からも開党からもきらわれていたと言わなければならない。井愛国心がなかったとは思われない。尊王心がなかったとも思われない。幕府にたいする忠心はもちろんあったはずだ。だのに、こんなにきらわれたとは、気のな人である。」

政治は志がよければそれでよいというものではない。うまくやらなければならない責任がある。うまくやれなかった政治は当代からも後世からも非難されることを覚悟しなければならない。」

(音寺潮五郎西郷隆盛』)
問「掃部守様とか戸様とかいう評判はありましたが、掃部守様の評判はどうでした?」

答「掃部守様は、評判の良い御方でございました。桜田一件の後に、部屋の者を御寺詣りに遣りました。あの御方は、奥の方では昭徳院様を大切に思ってを折って下さる御方だと、こう存じておりました。戸様の方がよほど悪いと申しました。」

(旧事諮問会編『旧事諮問録』)
「ちなみにいう、掃部守は断には富みたれども、智には乏しき人なりき。しかしてその動作何となく傲にして、人を眼下に見下ろすふうあり。けだし体肥満して常に反身をなせるより、自ら然か見受けられしものか。」

(渋沢栄一編『昔夢会筆記』より、徳川慶喜言)
「外の事起りしより、志士の論日に盛にして、其紛擾時に至て実に極れり、然れば当事者の苦心経営、正機の運転に窘(くるし)む論を俟(ま)たず、直弼其間に処し、其責全く一人に帰し、隻手狂瀾(せきしゅきょうらん)を挽回せんとす、其是非毀誉(きよ)は、(しばら)くこれを問ふを要せず、進んで難衝に当たり、一身を犠牲に供し、毫(みじん)も畏避の念なく、鞠躬盡(きっきゅうじんすい)以って数世知遇の恩に報ぜんと欲す、豈大丈夫と謂はざるべけんや。」

(勝舟『開』)

直弼を極める:井伊直弼年表

  • 年齢はかぞえ年、日付は旧暦で表記しています。
  • 赤字は彦根藩関連青字は幕府・朝廷関連の事項です。
和暦 西暦 年齢 立場 居所 事柄
文化12年 1815年 1歳 槻御殿 10月29日 彦根城下屋敷の槻御殿(けやきごてん)に生まれる
文政2年 1819年 5歳 母お富の方死去(35歳)
文政10年 1827年 13歳 このころから、清凉寺で手習(てならい)や禅学を学び始める
天保2年 1831年 17歳 5月、父直中死去(66歳)
天保2年 1831年 埋木舎 弟直恭(なおやす)と北の御屋敷(埋木舎)に移る
天保5年 1834年 20歳 埋木舎 / 江戸 7月、延岡藩主内藤家の養子候補となり、江戸に行くが、弟直恭が選ばれる
天保6年 1835年 21歳 江戸 冬、『うもれぎのやの言葉』を記し、埋木舎で文武の道に生きる決意をする
天保13年 1842年 28歳 埋木舎 11月、長野義言(ながのよしとき)と初めて対面し、国学・和歌の弟子となる
天保14年 1843年 29歳 長浜大通寺より、直弼を住職の跡継ぎとする話が持ち上がるが、成立せず
弘化2年 1845年 31歳 10月、『入門記』を著し、石州流(せきしゅうりゅう)茶道の一派を立てることを宣言する
弘化3年 1846年 32歳 世継 1月、彦根藩世子直元(直弼の兄)が死去(37歳)し、彦根藩の世継となる
弘化3年 1846年 江戸 2月、初めて江戸城へ登城し、将軍に対面する
弘化4年 1847年 33歳 2月、海防のため相模国三浦半島(神奈川県)の警備につく(相州警衛)
嘉永3年 1850年 36歳 藩主 11月21日、彦根藩主となる
嘉永3年 1850年 12月、先代藩主直亮の遺金15万両を家臣や領民に分配する
嘉永4年 1851年 37歳 3月、相州警衛地を巡見する
嘉永4年 1851年 彦根 6月、藩主として初めて彦根に入る
嘉永4年 1851年 9月より領内巡見を開始。安政4年まで9度に分けて領内全域をめぐる
嘉永5年 1852年 38歳 江戸 8月、丹波亀山藩主松平信篤の妹昌子を正室に迎える
嘉永6年 1853年 39歳 3月、日光東照宮に参拝。帰途、彦根藩領の下野国佐野(栃木県)を巡見する
嘉永6年 1853年 6月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー、軍艦を率いて浦賀に来航
嘉永6年 1853年 39歳 彦根 / 江戸 7月、ペリー来航の知らせを受けて、江戸へ向かう
嘉永6年 1853年 江戸 8月、2度にわたり幕府へ意見書「初度存寄書(しょどぞんじよりがき)」「別段存寄書(べつだんぞんじよりがき)」を提出
嘉永6年 1853年 11月、彦根藩、相模から江戸湾(羽田・大森)へ警衛地が変わる
安政元年 1854年 4月、彦根藩、京都守護を命じられる
安政元年 1854年 40歳 彦根 10月、京都・淀を巡見
安政3年 1856年 江戸 8月、アメリカ総領事ハリスが着任。通商条約締結を求める
安政4年 1857年 43歳 彦根 7月ころ茶の湯論の集大成『茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)』を完成させる
安政5年 1858年 このころ、将軍継嗣・条約調印の問題で、一橋派と南紀派が対立
安政5年 1858年 2月 老中堀田正睦が上洛するが、孝明天皇より条約調印の勅許得られず
安政5年 1858年 44歳 大老 江戸 4月23日、大老職に就任
安政5年 1858年 6月19日、日米修好通商条約を調印
安政5年 1858年 8月8日、孝明天皇、幕府の条約調印を非難する勅諚(ちょくじょう)を幕府と水戸藩に下す(戊午の密勅)
安政5年 1858年 9月から戊午の密勅など反幕府行動に関わった者を逮捕(安政の大獄)
安政5年 1858年 12月24日、孝明天皇、条約調印を了解する勅諚を出す
安政5年 1858年 12月26日、将軍家茂より、功績をたたえられて鞍・小刀を拝領する
安政6年 1859年 8月、戊午の密勅に関わった咎(とが)で、徳川斉昭や水戸藩士らを処罰する
安政7年 1860年 46歳 このころ御用絵師に自分の画像を描かせて、井伊家菩提寺の清凉寺に納める
安政7年 1860年 3月3日、登城途中に襲われ暗殺される(桜田門外の変)
万延元年 1860年 没後 3月30日、大老職御免
万延元年 1860年 閏3月30日、直弼の死が公表される
文久2年 1862年 7月、文久の幕政改革。直弼と対立した一橋派が幕政を掌握する
文久2年 1862年 閏8月、彦根藩、京都守護の任を解かれる
文久2年 1862年 11月、幕府より直弼政治が非難され、藩領のうち10万石減知の処罰を受ける

井伊直弼ってどんな人?

直弼はどのような生い立ちで、どんな性格だったのでしょう? その生涯や人物像を、彦根城博物館発行の子ども向け解説書「井伊直弼ってどんな人」より紹介します。

1. 直弼のおいたち

大殿様のこども 


井伊直弼が生まれたのは、文化12年(1815年)10月29日。彦根城の一角にある「槻御殿[けやきごてん]」というお屋敷で生まれました。こどものころは鉄三郎と呼ばれていました。 父は井伊直中[なおなか]。彦根とそのまわりの地域を治める彦根藩の藩主でしたが、3年前に息子の直亮[なおあき]に藩主の地位をゆずり、直弼が生まれたころは、大殿様として槻御殿でくらしていました。 母お富の方は、江戸(東京)の町人の娘で、直弼がわずか5歳のときに亡くなっています。
槻御殿でのくらし


槻御殿には父や兄弟もくらしていたので、直弼は兄弟と一緒に庭で遊んだり、父の趣味だった「能」を見たり練習をすることもありました。また、行事の時には、御殿で殿様(兄直亮)にあいさつしたり、父といっしょに家来の家に行きました。 直弼は、いつも大殿様のこどもらしく振る舞わないといけませんでした。そのため、いろいろなことを教えてくれる養育係の家臣がそばにいました。
直弼の兄弟


直弼にはたくさんの兄弟がいましたが、槻御殿でいっしょに大きくなったのは、兄直元[なおもと]・直与[なおとも]と弟直恭[なおやす]だけでした。実際は4人兄弟のようなものだったのです。

大名のこどものすすむ道


大名のこどもは、父のあとをついで大名になれるのは1人だけで、ほかの男子は、あとつぎのいない家の養子となるのが、社会で活躍できる方法でした。 直弼が生まれたとき、すでに兄直亮が彦根藩の殿様となっており、ほかの兄弟も次々に養子となって、井伊家を出ていきました。しかし、直弼だけは、養子となる話はあっても実現せず、彦根藩からわずかな生活費をもらって暮らすしか道はありませんでした。
埋木舎での暮らし


直弼が17歳から住んだのが彦根市尾末町にある「埋木舎」という屋敷です。埋木舎とは、世の中の出世・競争とは離れて、この屋敷に埋もれて、学問・文武の芸に励もうという気持ちをこめて、直弼がつけた名前です。

2. 勉強熱心な直弼



直弼は幼いころから、読み書き、道徳となる儒教、剣道、弓道、乗馬などを彦根藩の学者から学びました。これらは、武士にとって大事な科目です。 これに加えて、埋木舎に住んだ17歳から32歳のころには、和歌や茶の湯、居合(剣術の一種)をはじめとする文武両道にわたる修行をつみました。 直弼は、いったんやり始めたら、途中でやめたりせず、納得するまでやりとげる性格だったので、興味あることを熱心に勉強しつづけました。

禅の修養


直弼は、13歳ごろから佐和山のふもとの清凉寺に通い、お寺のお坊さんを師匠として禅の修行をしました。禅とは、坐禅などで心の迷いをなくし、真理をつかもうとすることです。熱心に修行・勉強を続けた直弼は、ついに31歳のとき、悟りを得たと認められて証明書をもらいました。 直弼のものの考え方の基本には、禅を通して身につけた強い精神力や決断力があります。
和歌と古典研究


直弼は、日本で古くから歌われた5・7・5・7・7の合計31文字の歌「和歌」をたくさん作りました。自分がよんだ歌をまとめた和歌集「柳廼四附[やなぎのしづく]」には千首以上もの和歌がのっています。また、日本の古典や国学(日本の文化や精神を明らかにしようとする学問)も本格的に学びました。

直弼と茶の湯


茶の湯とは、抹茶をたてて客をもてなすことです。武士はみんな、その作法を身につけていました。 直弼は、ほかの人より熱心に茶の湯について考えました。昔の人が書いた本を調べたり、くわしい人から聞いたりして茶の湯の勉強を重ねました。そして、自分の考えをまとめて、ひとつの流派をつくり、家族や家来に教えるまでになりました。
一期一会 —心を大切にする茶の湯—


直弼の考える茶の湯を一言であらわしたのが「一期一会」という言葉です。一度の茶会での出会いは一生に一度だけのものだから、心をつくして、出会いの時を大切にしようという意味です。直弼がまとめた『茶湯一会集[ちゃのゆいちえしゅう]』という本に書いてあります。

直弼の作った茶道具


茶の湯では、専用の道具を使います。それを茶道具といいます。 直弼は、やきものの作り方を習って、自分で茶道具を作りました。蓋置は、お湯をわかす釜の蓋をのせる道具です。ほかにも、茶碗や皿をやきもので作りました。 また、直弼は、ふだんから自分のまわりにあるもので茶道具として使えるものはないか、と探していました。多賀大社のお守りの「お多賀杓子」を工夫して、お茶菓子をのせる器に作りかえています。

3. 彦根藩の殿様

直弼、大名となる


直弼が32歳のときに、突然、藩主の直亮から江戸へ来るようにと言われました。直亮のあとつぎとなっていた兄直元が亡くなったため、直弼をあとつぎとするためです。 江戸へ着いた直弼は、大勢の御供をしたがえて江戸城に登城し、将軍徳川家慶に対面しました。埋木舎にいたころとは全く立場が変わったのです。この後、大名の見習いとして、江戸で暮らしました。 直弼36歳のときに直亮が亡くなり、直弼が彦根藩の殿様となりました。
井伊家の家がら


井伊家の先祖は、江戸幕府を開いた徳川家康の家来だった井伊直政で、そのころ一番強い軍隊を率いていました。その時から、将軍を近くで守るのが井伊家の仕事でした。幕府で重要なことを考えるときには、大老という一番責任ある役職につくこともありました。
直弼の政治


殿様になった直弼が最初にしたことは、直亮の残したお金を家来や彦根藩に住む人に分け与えることでした。このときの金額は1年間の彦根藩の収入と同じくらい大きなものでした。 また、殿様となって彦根に帰ってくると、村人の生活を見てまわりました。何年もかけてすべての地域に行き、生活の苦しい人や病人に救いの手をさしのべています。


殿様は、参勤交代という制度のため、彦根と江戸で1年ずつくらします。彦根では、彦根城のなかにある表御殿という建物に住んでいました。ここは、家来が登城してきて政治をする場所でもありました。 江戸にいるときは、江戸城桜田門の近くにある屋敷に住んでいました。

4. まわりの人々



大名は、ほかの大名の娘と結婚する決まりだったので、直弼は藩主になってから、亀山藩(京都府亀岡市)の松平信豪[まつだいらのぶひで]の娘昌子[まさこ]と結婚しました。昌子との間にこどもはいませんでしたが、埋木舎に住んでいたころからそばにいた彦根藩士の娘との間に直憲[なおのり]・弥千代[やちよ]ら15人のこどもが生まれました。このうち成人したのは7人だけでした。

信頼する家来


犬塚外記[いぬづかげき]は、直弼のこどものころから近くにいて、何でも相談できる相手でした。直弼が江戸に出てきたあと、彦根に残した娘の世話を彼に頼んでいます。 長野義言[ながのよしとき]は日本の古典や和歌の学者です。直弼と同い年でしたが、直弼は学問にくわしい義言を尊敬しました。直弼が藩主となると、義言は家来になって直弼のために働き、安政の大獄のときには京都に行って、直弼に反対する人を調べました。
仲間の大名


会津藩主松平容敬[まつだいらかたたか]や高松藩主松平頼胤[よりたね]は、江戸城で一緒に行動することが多く、直弼に作法を教えてくれた先輩です。その関係で、頼胤の息子頼聰[よりとし]と直弼の娘弥千代は結婚しました。
まわりの人から見た直弼


大名は、ほかの大名の娘と結婚する決まりだったので、直弼は藩主になってから、亀山藩[かめやまはん](京都府亀岡市)の松平信豪[まつだいらのぶひで]の娘昌子[まさこ]と結婚しました。昌子との間にこどもはいませんでしたが、埋木舎に住んでいたころからそばにいた彦根藩士[はんし]の娘との間に直憲[なおのり]・弥千代[やちよ]ら15人のこどもが生まれました。このうち成人したのは7人だけでした。

5. 武士の道具



武士にとって、戦いの道具はとても大事なものでした。 平和な時代でも武士の身分をあらわすシンボルとして大切にしました。 刀[かたな]、鎧[よろい]と兜[かぶと]、弓矢、馬に乗るときに使う鞍[くら]や鐙[あぶみ]には、実際に使うものと、模様や形を工夫して美しく飾ったものがあります。大名は立派な道具をそろえて持っていました。



彦根藩では戦[いくさ]の道具をすべて赤い色とするように決めていました。これは、戦場で自分たちの強さをあらわす工夫です。「井伊の赤備え[いいのあかぞなえ]」と呼ばれました。 兜の金色の長い角は「天衝[てんつき]」という形です。天衝が頭の横から出るのは殿様用の兜だけです。直弼の鎧は、ほかの殿様のものよりも胴回り[どうまわり]が大きめなので、直弼はがっしりとした体格だったことがわかります。

直弼の刀


殿様は刀と鞘を何本も持っていて、時と場合によって使い分けました。江戸城へ行く時は、飾りのない黒い鞘を持つ決まりでした。直弼のころは少し飾りをつける人もいましたが、直弼は決まりをまじめに守っています。

6. 直弼の印

井伊家の印-橘紋[たちばなもん]・井桁紋[いげたもん]


それぞれの家には、その家をあらわすマーク(家紋)があります。井伊家の家紋は橘紋です。橘はみかんの仲間で、白い花が咲いた後に実がなります。この実と葉をデザインした家紋は、着物や道具など様々な所に使われています。このほか、「井」の字に似た井桁の印を使うこともありました。

いろいろな呼び名


直弼は、いくつかの名前を持っていました。「掃部頭[かもんのかみ]」という名前は、井伊家の殿様が代々使った名前で、直弼も殿様になってからこの名で呼ばれました。そのほかに、「柳王舎[やぎわのや]」「宗観[そうかん]」という別名も持っています。これは、和歌を詠んだり茶の湯をするときに使う名前でした。


昔の人が書いた手紙や作った道具には、「花押[かおう]」というサインが書いてあることがあります。花押は、自分で書いたり作ったあかしとなるものです。 直弼の花押は2種類あります。ひとつは、武士・大名としての書類に見られるもので、「弼」の字をデザインしました。もうひとつは、自分で作った和歌や茶道具に書き入れたもので、「柳」という漢字をもとにしています。直弼は、風になびいても折れない強さを持つ柳の木が気に入り、別名やサインに使っています。

7. 黒船にゆれる社会

黒船がやってきた


直弼が藩主になって3年後の嘉永6年(1853年)6月3日、4艘の黒い船が浦賀(神奈川県)の沖合いに姿をあらわしました。ペリ-がひきいるアメリカ合衆国の軍艦でした。ペリーが日本に来たのは、アメリカの船が太平洋をわたって中国へ向かうときにとまる港を開くことや、日本と貿易をするためでした。ペリーは幕府と話し合って、日本とアメリカは日米和親条約を結び、下田(静岡県)と函館(北海道)の港でアメリカの船が航海に必要な水や食べ物などを手に入れることができるようにしました。 この時代の日本の人々は、これまでに見たことのない、アメリカ艦隊の蒸気船[じょうきせん]の大きな姿に、強い力や進んだ技術を感じ、ショックを受けました。
開国についてのさまざまな考え


開国を求めるアメリカにどう返事するか、武士だけでなく、いろいろな人が考えました。当時、大きく2つの考え方がありました。1つは、これまでどおり外国船が来たら追い返そうという考え。もう1つは、強い外国と交流して進んだ技術を取り入れようという考えでした。 直弼は、外国の方が強いから、今は言うことを聞いて開国するしかないと考えていました。

8. 大老の政治

直弼、大老となる


さらに、日本との貿易を強く望むアメリカは、外交官ハリスを下田に滞在させ、幕府と話し合いをすすめました。幕府では、アメリカと貿易しようという考えが強くなりましたが、京都の朝廷が、孝明天皇[こうめいてんのう]を中心に猛反対したため、日本の考えはうまくまとまりませんでした。 また、同じころ、将軍のあとつぎ選びで、幕府や大名が2つに分かれ、もめていました。このような幕府のピンチに、直弼は幕府の大老となりました。安政5年(1858年)4月23日、直弼44歳の時のことでした。
江戸城での直弼の態度


大老となった直弼は、毎日、江戸城へ行き、老中たちの話し合いに加わりました。自分の意見をはっきりと言う直弼の前向きな態度に、まわりの人がとてもおどろいたと当時の記録に書かれています。
日米修好通商条約を結ぶ


直弼ら幕府のリーダーたちは何度も話し合い、この時の世界の様子や、外国と日本との武力の差などを考えたすえに、安政5年(1858年)6月19日、日米修好通商条約を結びました。この条約では、自由に貿易をおこなうために神奈川・長崎・兵庫・新潟の港を開くことなどを約束しました。 直弼は、条約を結んだ幕府の一番のリーダーであったため、朝廷や大名の一部の人々から、天皇のゆるしをうけずに条約を結んだと責められました。これが原因となり、このあと、大きな政治の争いがおこりました。
ひそかに出された天皇の命令


開国に反対する水戸藩主徳川斉昭[とくがわなりあき]たちは、日米修好通商条約が結ばれたことに抗議し、自分たちの意見も取り入れられるように、京都の公家に頼んで、直弼の政治を批判する天皇の命令書を出させました。 当時、大名は将軍の家来であり、天皇や公家と直接政治の話をしてはいけない決まりがありました。斉昭はそれにそむいたのです。そのため、直弼は天皇の命令を出すために働いた人を逮捕することにしました。
安政の大獄


直弼は、長野義言に京都の様子を調べさせ、水戸藩の家来や、幕府に反対する考えを広める吉田松陰[よしだしょういん]など多くの人を捕らえました。取り調べの結果、8人を死刑に、100人以上を処罰するきびしい処分をしました。 また、水戸藩が持っている天皇の命令書を返すように、直弼は水戸藩に強く迫りました。水戸藩としては、大事な命令書を絶対に返したくありません。 こうして、水戸藩の家来たちの中に、直弼のやり方は絶対に許せないので、直弼を殺してしまおうという考えがおこりました。
安政の大獄に対するさまざまな考え


安政の大獄とは、直弼の政治に反対する行動をとる人々を徹底的に調べて、厳しく処罰して、幕府の力を示そうとしたもので、吉田松陰などの有能な人を殺した直弼のやり方を批判する考えがあります。 一方で、政治の責任ある立場から、日本の国全体のことを考えて開国を決断したことを評価し、政治に反対して法律に違反する人をとらえて罰を与えたのは当然という考えもあります。

9. 直弼の最期

死を覚悟して


安政の大獄が一段落すると、直弼は自分の姿を絵師に描かせ、先祖のお墓がある清凉寺(彦根市古沢町)に納めました。 絵の上には、そのときの気持ちをよんだ和歌を書きました。

あふみの海 磯うつ浪の いく度か 御世に心を くだきぬるかな

—近江の海(琵琶湖)で磯に何度も打ちつける波のように、私も世の中のために心を尽くしてきたなあ— 大きな仕事をやりとげた思いと、この後何があってもそれに向かおうという思いがこめられています。 自分の姿を絵に残したのは、死を覚悟していたからでしょうか。
桜田門外の変


安政7年(1860年)3月3日、江戸城で桃の節句の儀式がおこなわれるため、午前9時ごろ、直弼は駕籠[かご]に乗って屋敷を出発しました。しばらく進んで、行列の先頭が桜田門近くにさしかかったとき、1発の鉄砲の音が鳴りひびき、それを合図に18人の侍が直弼の駕籠をめがけて襲いかかってきました。彼らは水戸藩の家来たちで、直弼のやり方に反発して直弼を殺してしまったのです。駕籠のまわりには直弼の家来がいましたが、前夜に雪が降っていたので、刀を袋で包んでいて、すぐには刀が抜けませんでした。それでも家来たちも敵と戦い、8人が死に、多くのけが人をだしました。

悲しみにくれる彦根の人々


直弼が殺されたことは、急いでもどってきた家来によって4日後に彦根に伝えられました。誰もが悲しみ、水戸藩を討とうと江戸に向かう人もいました。 直弼の遺体は東京の豪徳寺(東京都世田谷区)に葬られましたが、殺されたときに流した血がしみこんだ土は彦根に運ばれ、天寧寺(彦根市里根町)に埋められ、供養塔が建てられました。

直弼が残したもの


直弼の死後、国全体が動乱となり、やがて江戸幕府は滅びましたが、外国となかよくして進んだ文明を取り入れようという考えが広がりました。 日本の将来を考えて、戦争をせずに開国を決めた直弼を、彦根の人たちは誇りに思い、直弼の銅像を彦根城の一角と横浜港を見下ろす山に建てました。直弼は今も、彦根と開国によって栄えた港町から世の中を見つづけています。
直弼の墓を守った遠城謙道


彦根藩の家来だった遠城謙道[おんじょうけんどう]は、直弼の恩にむくい、その墓を守ろうと、武士の身分を捨てて僧になりました。豪徳寺(東京都世田谷区)の中に住み、亡くなるまで37年間、毎日直弼の墓を掃除して暮らしました。このような謙道の功績をたたえる石碑が、彦根城内の直弼像の横に建てられています。
彦根城博物館編『井伊直弼ってどんな人?』より