会津哀史論 |
更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).9.23日
(れんだいこのショートメッセージ) |
2005.4.14日 れんだいこ拝 |
「義に死すとも不義に生きず。松平容保と会津武士の高潔な心」。
|
「関 袈裟夫 /」参照。
「白虎隊」―会津落城 旧暦8.23は「戊辰戦争・会津戦争」による会津少年兵士「白虎隊」19名が会津若松・飯森山で自害した「白虎隊の日」。大政奉還/江戸幕府崩壊/ご一新後、旧幕府勢力の中心と見なされた会津藩は、新政府軍の仇敵とされ「東北戊辰戦争・会津戦争」に突入。圧倒的な力を持つ薩長/西軍の前に会津藩の危機迫り、会津藩が組織した15歳から17歳の武家の男子によって構成された白虎隊約340名が前線に出動した。会津藩が組織した部隊には年齢による組織として他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊などがある。婦人隊も結成(→八重の桜)された。白虎隊の名前の由来は、中国の伝説の神獣「白虎」。白虎隊は戸の口原の戦いに敗れ飯盛山まで後退。飯森山頂より南・鶴ヶ城を望めば、城下より砲煙が上がっており、これを見て鶴ヶ城落城と誤認、最早これまで!と隊士19名が自刃した。このとき白虎隊士は中国・南宋末期の民族的英雄「文天祥」が元軍に捕えられ、元の将軍から、その秀でた人品素養から、元のフビライに何度も元に仕えるようにと懇請され、且つ宋の総大将に降伏勧告の書簡を書くよう求められたが都度忠節を守り拒否し、惜しまれ死刑に処された。獄中幽囚2年。その間に有名な「生気歌」を作詩した。白虎隊は「文天祥」詩「過零丁洋」を19名全員で唱和、自決したという。滅びゆく会津藩の姿を目のあたりにして彼等は南宋と共に死んでいった文天祥の姿を重ね合わせたのであろう。 少年團結白虎隊 少年團結す白虎隊 鼙鼓喧闐震百雷 鼙鼓喧闐百雷震(ふる)う(攻め鼓が鳴り響いて、多くの雷鳴が響き渡る) 時不利兮戰且退 時に利あらず戰い且つ退く 南望鶴城砲煙颺 南鶴城を望めば砲煙上る 俯仰此事十七年 俯仰此に十有七年(回顧して感慨に耽れば明治維新以来十七年) 補記記 佐原盛純(1835-1908年) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ② 「過零丁洋」 文天祥(南宋) 辛苦遭逢起一經 辛苦に遭逢するは一經より起こる 惶恐灘頭説惶恐 皇恐灘邊皇恐(こうきょ)を説き 字解 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「聞荒城月夜曲」は、土井晩翠作詩・滝廉太郎作曲の名曲「荒城の月」を聞いて漢詩人・水野豊洲が栄枯盛衰の儚さを詠じた詩である。土井晩翠は、鶴ヶ城落城をモチーフに「荒城の月」を作詩したと云う。鶴ヶ城境内に「荒城の月」碑あり。 ③ 「聞荒城月夜曲」 水野豊洲 榮枯盛衰一場夢 榮枯盛衰は一場(いちじよう)の夢 史編讀續興亡跡 史編(しへん)讀み續く興亡の跡 水野豊洲(1889-1958) |
(私論.私見)