会津哀史論



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 (れんだいこのショートメッセージ)

 2005.4.14日 れんだいこ拝


 「義に死すとも不義に生きず。松平容保と会津武士の高潔な心」。
 2013年06月14日 公開松平保久(会津松平家14代当主)

 《『歴史街道』2013年7月号〔総力特集〕八重と会津戦より》

  今こそ大切にしたい もののふの高潔な心

 「愚直」。会津松平家十四代・保久氏は、曾祖父にあたる松平容保について語る時、その言葉を用いるという。藩祖・保科正之の定めた家訓を重んじ、損な役回りを承知で京都守護職を引き受け、幕府と天皇に尽くした容保。そこには愚直ともいうべき真っ直ぐで真面目な心があった。会津の人々と松平家が継承する「会津のDNA」とは何か。

 培われている「会津のDNA」

 私の父(会津松平家13代・保定氏。松平容保の孫)はサラリーマンでしたが、「松平家があるのは、すべて会津のおかげである。ゆめゆめ足を向けて寝てはならない」と事ある毎に言っていました。

 毎年、5月上旬に行なわれる土津神社(会津藩初代保科正之公の墓所)と院内御廟(会津藩主松平家墓所)のお祭りは、私が物心ついた頃から何がなんでも行かなければいけない行事でした。神主さんが祝詞をあげて参列者が遥拝する非常にシンプルなお祭りですが、地元の、特に松平家奉賛会、青年会議所をはじめ多くの皆さんが、数日前からお墓の掃除など準備をして下さっています。他にも毎年、9月下旬に行なわれる会津まつりに参加させていただいていますし、それ以外にも、何かにつけて会津を訪れています。私ども松平家と会津の方々との絆に見るようなつながりは、今の日本には、そうそうないのではないでしょうか。

 幕末の会津藩主であった松平容保公の決断によって、会津の方々は言葉では語り尽くせないような辛い境遇に置かれたわけですから、「松平家のせいで我々は酷い目に遭った」と言われても仕方ないと私は思います。にもかかわらず会津の方々からは今も親しくしていただいていますし、幕末の会津の歴史を、若い方々も含めて皆さんがとても誇りに思って下さっている。本当にありがたいことです。

 会津の方々と私ども松平家には、「会津のDNA」が培われているように思います。それはやはり教育の賜物でしょう。明治以降も会津の大人は子供たちに「会津はこういう心を大切にしてきた」「戊辰戦争ではこんな辛いことがあったが、ご先祖様たちは誇りを持って立派に戦った」としっかり語り継いでこられた。その中で自然に「ならぬことはならぬ」「人間は損得勘定で動くべきではない」ということも伝えられてきました。

 私も幼い頃より、父から「容保公のご苦労を思え」と、折に触れて言われました。たとえば高校生ぐらいの頃に少しやんちゃなことをしたりすると、父が夜中でも起きて待っていて「おじいさま(容保公)に顔向けができない」と説教が始まる。その時は辛くとも、このような教えは年を経れば経るほど効いてくることを実感しています。

 会津の多くの方々も、「ご先祖の苦労があればこそ今の自分がある」という教えをしっかりと伝承されてきている。学校教育でも、かつての「什の掟」の現代版のような「あいづっこ宣言」を子供たちに暗誦させたり、剣舞や薙刀などにも力を入れています。もちろん子供たちも最初は「面例くさい」と思うかも知れません。それでも将来、必ずや何か気づくことがあるはずです。このような教えにより、会津では「義に死すとも不義に生きず」という人間としての矜持を重んじる気風が受け継がれてきたように思うのです。

 松平容保公の愚直さと、松平家にとっての「会津藩家訓」

 私の曾祖父にあたる容保公のことをお話しする時、私はいつも「愚直」という言葉を使います。ご存知のように、容保公は文久2年(1862)に京都守護職に就任します。どう見ても火中の粟を拾う役目でした。

 しかし会津藩には、3代将軍家光公の異母弟である藩祖保科正之公が制定された「家訓十五箇条」があります。その第一条は「大君の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず(大君には一心大切に忠勤を励むこと。忠勤に励まない他藩があったとしてもそれにならってはならない)」というもの。この家訓を重んじて、会津藩は代々、率先して幕府に尽くしました。容保公が京都守護職に就く苦渋の決断を下したのも、やはり「愚直」とも言えるほどの真っ直ぐで真面目なお心で、家訓を重んじようとされたからでしょう。同時にそこには、会津藩が脈々と伝えてきた「もののふの魂」、つまり「損得勘定で動くべきではない」という精神もありました。

 大河ドラマ「八重の桜」では綾野剛さんが容保公を演じて下さっていますが、ああ、こういう方だったかも知れないと感じます。少しナーバスなところもあるけれども、その裏には意志の強さを秘めていて…。

 明治以降、容保公は寡黙になられたと聞いております。自分が最も正しいと思う道を選んだことで、会津の方々にとてつもない苦労をさせてしまった。それは辛くてたまらなかったはずです。戦没された藩士の方々の慰霊祭に頻繁に顔を出していらっしゃったのも、その思いがあったからでしょう。

 その辛さの中で、容保公の唯一の心の支えは、孝明天皇にご信頼いただいた思い出だったはずです。容保公は、孝明天皇より賜った御宸翰を肌身離さず持っていました。もしかしたら、御宸翰がなかったら容保公は自害されていたかも知れないとすら思います。

 変な話ですが、戊辰戦争のどこかの段階で御宸翰を広く示して「お前たちこそ朝敵だ」と主張することもできたはずです。しかし容保公は、決してそうはされなかった。明治に入ってから、御宸翰の存在を知った新政府がそれを高額で買い取ろうとした時も、容保公は決して首を縦には振りませんでした。御宸翰を表に出して騒ぎ立てるようなことをすれば、いわば私信として御宸翰を賜った孝明天皇の大御心を裏切ることになります。それはたいへんな無礼ですし、不忠でもあります。さらに、孝明天皇との大切な思い出に泥を塗ることにもなる。容保公としては到底そのようなことはできなかったのでしょう。

 昭和3年(1928)に、松平家から勢津子妃殿下が秩父宮雍仁親王にお輿入れになりました。勢津子妃殿下も「自分が皇室に入ることが会津の汚名を雪ぐ」ということを深く考えておられたようで、ご先祖様のお墓に参るという形でわざわざ会津に報告に行かれています。その折の写真などを見ると、会津の方々が「朝敵の汚名が晴れた」と提灯行列で大喜びしていたことがわかります。

 鶴ヶ城籠城戦を戦った山本八重さんも、この時、印象探い和歌を詠んでおられます。

 <いくとせか みねにかかれる村雲の はれて嬉しき ひかりをぞ見る>

 会津の方々の胸が晴れるような歓喜を、よく表わしているように思います。

 秩父宮殿下は昭和28年(1953)に薨去されますが、その後も勢津子妃殿下は、平成7年(1995)に薨去されるまで皇室の一員として熱心にお務めを果たされました。私の父も、勢津子妃殿下と会津との架け橋になることを自分の役割として強く意識していたようです。会津にまつわることで勢津子妃殿下が気にかけられたことなど、父はよく様々な手配をしていましたが、そのようなお務めを心から誇りに思っていました。今にして思えば、父がそのような役割を誇りにしていたのも、「会津藩家訓」があればこそだったのでしょう。特に容保公以降、父も含めて松平家にとっては、皇室への尊敬の念という形で、家訓第一条の精神は脈々と受け継がれているように感じます。

 各々が高潔な「もののふの心」を胸に抱いていた

 幕末の会津は、見方によっては非常に損な道を選択したとも言えます。当時の会津藩士たちは優秀な人材が多く、非常にグローバルな視点を持っていましたし、幕藩体制の限界も十分に見抜いていたはずです。それでも「会津藩士として自分はこう行動すべき」と、自分の行動規範を律し、藩士一丸となって行動されました。忸怩たる思いはあったでしょう。しかしそれを乗り越える精神力や団結力は、やはり凄いと思います。もちろん、どうせ負けるなら敵の靴をなめてでも恭順した方がいいという生き方もあるかも知れません。しかし、当時の会津の人々は決してその道は選ばなかった。それは「殿様の命令だから右へならえ」などではありません。代々受け継がれてきた藩の使命を重んじ、己の信念を貫く強靭な意志、さらに理不尽には屈しない「もののふの心」を藩士の皆さんが各々の胸に抱いていたからでしょう。その「もののふの心」がもっと弱いものであれば、結束が崩れて早々に会津藩が瓦解してしまうこともあり得たはずです。そうならなかったのは、やはり個々人が「卑怯な生き方はしたくない」という高潔な精神で自分を律していたからこそだと思います。

 渾身の戦いを終えて鶴ヶ城が開城した時に、八重さんが詠まれた有名な歌があります。

 <明日の夜は 何国の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ>

 あの時の会津人各々の想い、そして精神性の高さが真っ直ぐに伝わってきます。

 「勝ち組、負け組」という言葉がありますが、現代社会はともすれば「とにかく勝つことが大事」「効率の追求こそ第一」という雰囲気に傾きがちです。しかし、自分なりの信念や義を通すことの重みが、もっと見直されてもいいのではないでしょうか。それが日本人の精神性の豊かさにもつながるのではないか。私はそう思うのです。

 歴史街道 2013年7月号
 〔総力特集〕八重と会津戦争 「理不尽」を許さず

 <今月号のよみどころ> 
 もし、理不尽な言いがかりをつけられ、軍勢に攻め込まれたら、どうするか? 慶応4年(1868)8月23日、会津藩はまさにそんな局面を迎えます。薩長らの新政府軍は会津藩を「朝敵」とし、藩主・松平容保の恭順嘆願を一蹴、若松城下に侵攻しました。「会津は何も間違ったことはしていない」。長年、懸命に京都の治安を守り、幕府に尽くした会津藩の人々は、憤ります。そして城下に老人、子供、婦女子しかいない中で、敢然と挑むことを決断。そこには弟の遺品の軍服をまとい、スペンサー銃を手にする山本八重の姿もありました。「会津のため、家族のために私は戦う」。会津の誇りと、人としての正しい道を守るべく起った、会津の人々の戦いを描きます。第二特集は「戦国名将の父親たち」です。


 「関 袈裟夫2018年8月20日」参照。

 「白虎隊」―会津落城

 旧暦8.23は「戊辰戦争・会津戦争」による会津少年兵士「白虎隊」19名が会津若松・飯森山で自害した「白虎隊の日」。大政奉還/江戸幕府崩壊/ご一新後、旧幕府勢力の中心と見なされた会津藩は、新政府軍の仇敵とされ「東北戊辰戦争・会津戦争」に突入。圧倒的な力を持つ薩長/西軍の前に会津藩の危機迫り、会津藩が組織した15歳から17歳の武家の男子によって構成された白虎隊約340名が前線に出動した。会津藩が組織した部隊には年齢による組織として他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊などがある。婦人隊も結成(→八重の桜)された。白虎隊の名前の由来は、中国の伝説の神獣「白虎」。白虎隊は戸の口原の戦いに敗れ飯盛山まで後退。飯森山頂より南・鶴ヶ城を望めば、城下より砲煙が上がっており、これを見て鶴ヶ城落城と誤認、最早これまで!と隊士19名が自刃した。このとき白虎隊士は中国・南宋末期の民族的英雄「文天祥」が元軍に捕えられ、元の将軍から、その秀でた人品素養から、元のフビライに何度も元に仕えるようにと懇請され、且つ宋の総大将に降伏勧告の書簡を書くよう求められたが都度忠節を守り拒否し、惜しまれ死刑に処された。獄中幽囚2年。その間に有名な「生気歌」を作詩した。白虎隊は「文天祥」詩「過零丁洋」を19名全員で唱和、自決したという。滅びゆく会津藩の姿を目のあたりにして彼等は南宋と共に死んでいった文天祥の姿を重ね合わせたのであろう。

 「白虎隊19名自刃」実話は、全員自刃するも死に切れなかった飯沼貞吉少年が翌朝飯森山近くのおばあさんに助けられ、後刻その真相を語り、史実が明らかにされた。この逸話は、会津藩の藩校「日新舘」による教育レベル高さを証左している。そもそも江戸の識字率は世界で最も高いレベルで、司馬廉太郎曰く、「会津藩は佐賀藩と並ぶ全国1~2位の教育レベル高さ」と記している。「日新舘」について 、会津藩祖・保科正之が極めて学問好きで、2代正経は学問所「講所」を開き、これが後の藩校「日新館」の基となった。名称は『書経湯之盤銘』の「日日新而又日新」、また『大学』『易経』などによったものといわれる。  

 「会津落城」と題し、①「白虎隊」②「過零丁洋」③「荒城月夜曲」による構成詩で「白虎隊史実」を以下に綴る。
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 ① 「白虎隊」 佐原盛純

少年團結白虎隊   少年團結す白虎隊
國歩艱難戍堡塞   國歩艱難堡塞をまもる(国運多難な折、塞を守る)       
大軍突如風雨來   大軍突如風雨來る         
殺氣慘憺白日晦   殺氣慘澹白日晦(くら)し

鼙鼓喧闐震百雷   鼙鼓喧闐百雷震(ふる)う(攻め鼓が鳴り響いて、多くの雷鳴が響き渡る)
巨砲連發僵屍堆   巨砲連發し僵屍(きょうし、たおれた屍体)うずたかし 
殊死突陣怒髮立   殊死陣を突いて怒髪立つ
縱橫奮撃一面開   縦横奮撃一面を開く

時不利兮戰且退   時に利あらず戰い且つ退く     
身裹瘡痍口含藥   身に瘡痍を裹(つつ)み口に藥を含む 
腹背皆敵將何行   腹背皆敵將に何くにか行かんとす 
杖劍閒行攀丘嶽   劍に杖ついて間行丘嶽を攀(よ)ず

南望鶴城砲煙颺   南鶴城を望めば砲煙上る      
痛哭呑涙且彷徨   痛哭涙飮んで且つ彷徨す      
宗社亡兮我事畢   宗社(社稷、国家)亡び我が事おわる
十有九人屠腹僵   十有九人屠腹して僵る 

俯仰此事十七年   俯仰此に十有七年(回顧して感慨に耽れば明治維新以来十七年)         
畫之文之世閒傳   之を畫にし之を文にして世間に傳う
忠烈赫赫如前日   忠烈赫赫前日の如し        
壓倒田横麾下賢   壓倒す田横麾下(きか)この賢(けん)

 補記記  
○田横麾下賢 中国・漢の「田横」の部下が斉王である田横に殉じた故実以上に、優れ凌いでいる。

 佐原盛純(1835-1908年)
 漢学者・旧制会津中学教師、後に日新館館長就任。明治17年(1884年)当時の日新館館長の依頼により"白虎隊”詩創作。白虎隊剣舞を教え子と生み出し、白虎隊の霊を慰めるため飯盛山の白虎隊士墓前で、17回忌奉納墓前祭と剣舞詩奉納。

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 ② 「過零丁洋」  文天祥(南宋) 

辛苦遭逢起一經  辛苦に遭逢するは一經より起こる   
干戈寥落四周星  干戈落落(かんからくらく)四周星    
山河破碎漂風絮  山河破碎して風絮(じょ)を漂わし    
身世浮沈雨打萍  身世飄揺雨萍(へい)を打つ
            (我が身と世の中の浮沈は、雨に打たれている浮き草のようなものだ)

惶恐灘頭説惶恐  皇恐灘邊皇恐(こうきょ)を説き     
零丁洋裏歎零丁  零丁洋裏(れいていようり)零丁を嘆く
人生自古誰無死  人生古より誰か死無からん      
留取丹心照汗青  丹心を留取して汗青(かんせい)照らさん

 字解                           
○「零丁洋」は、海の名(広東省中山県南珠口河口外洋) 「零丁」は落ちぶれる意で「零丁洋」の名に掛ける    
○一経 五経の中の一経・経書を勉強し科挙に合格、仕官したこと 
○干戈寥落四周星 戦争は荒れ果て虚しい様が48年間続いた 
○絮 柳の花綿  
○惶恐灘頭説惶恐  舟行危険な場所の名。「皇恐」は恐れるの意で「灘」の名を掛けている  
○丹心を留取  真心を留める 
○汗青 歴史書 昔竹をあぶって汗をふきとり紙代りとして文字を書いた。

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 「聞荒城月夜曲」は、土井晩翠作詩・滝廉太郎作曲の名曲「荒城の月」を聞いて漢詩人・水野豊洲が栄枯盛衰の儚さを詠じた詩である。土井晩翠は、鶴ヶ城落城をモチーフに「荒城の月」を作詩したと云う。鶴ヶ城境内に「荒城の月」碑あり。

 ③ 「聞荒城月夜曲」    水野豊洲

榮枯盛衰一場夢  榮枯盛衰は一場(いちじよう)の夢    
相思恩讐悉塵煙  相思恩讐悉く塵煙となるる      
星移物換刹那事  星移り物換わるは刹那の事      
歳月悤悤歎逝川  歳月悤悤(そうそう)として逝く川を歎ず 

史編讀續興亡跡  史編(しへん)讀み續く興亡の跡     
苦雨凄風見変遷  苦雨(くう)凄風変遷を見る       
今夜荒城明月曲  今夜荒城明月の曲曲         
哀愁切切憶當年  哀愁切切當年を憶う

 水野豊洲(1889-1958) 
 司法官僚。漢詩に親しみ退官後は作詩に耽った。漢詩の翻訳で吟詠振興に貢献。昭和33年没70歳 。







(私論.私見)