後期水戸学の特質 |
【「後期水戸学」】 | |
文政12年、烈公が藩主となったこの時以降を「後期水戸学」と呼ぶ。1829年に9代藩主となった徳川斉昭(なりあき、寛政から安政1789−1860)は、天保期(1830ー44)に藩政改革を行う。藤田東湖、会沢正志斉たちをブレーンとしていた。1・質素・倹約の励行、2・文武両道、3・海防の制、4・再検地、5・財政再建、6・寺社の改革、神道の称揚、7・学問の奨励、8・「大日本史」編纂事業の継続。 この時の改革の眼目の一つに藩校弘道館の建設があった。東湖がこれを推進し、学校を作るならば、天下一のものでなければならないと提唱し、その結果、弘道館は5万4千余坪(17・87ヘクタール)という広大な敷地のみならず、学校の建物においても最大規模であり、また教育の内容においても今日の総合大学的な構想を有する天下一の学校となった。 水戸学は、藤田幽谷により当時の時局問題の解決にも目を向けていくことになった。水戸学の伝統的精神として、「学者は君子たることを学ぶ。儒者たることを学ぶにあらず」として机上学を排し、実践学を尊ぶ傾向があったが、この精神が幕末期の内憂外患に直面して、それまでの学問的研究成果に立脚して、極めて政治主義的な動きを強めていくことになった。ここに 「後期水戸学」の特徴がある。国内の諸改革への提唱と西洋列強の接近・進出に抗して、いかにしてわが国の尊厳と独立を護るかという現実の問題に対処するための実践学として立ち現われることになり、尊王論に攘夷論を加えていわゆる「尊王攘夷論」イデオロギーを生み出した。 幽谷の思想を継承・発展させたのが門人の会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)と幽谷の子藤田東湖(とうこ)である。ほかに青山延于(のぶゆき)青山延光(のぶみつ)父子、豊田天功、菅政友、栗田寛(ひろし)らがいる。 その主張の特色には士風の退廃、藩財政の窮乏、農村の荒廃、百姓一揆の続発等、封建支配が長期にわたって続いた為にそのほころびが現れてきた事に対してこの危機を敏感に感じ取り、その対策としてゆるんだ忠道徳の振起を強調した事にある。そして皇室の尊厳を説いた。鎖国制度を守るために夷狄に対する神州日本の名分論的優位を論じて攘夷を主張した。 「水戸学・水戸幕末争乱(天狗党の乱)」は、次のように解説している。
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【水戸学と吉田松陰の交流】 | |
会沢正志斎の「新論」が次第に人々の間に広まり、各地から反響が起こる。初めは「無名氏」ということで匿名出版したが、水戸の会沢正志斎の著書であるということが天下に広まる。遂に、会沢先生に会って直接教えを乞いたいという気運が起り、次第に水戸を訪れる人が増えて来た。会沢正志斎の名をもって出版できたのは、初版から30年後の安政4年になってからである。 水戸藩が諸藩に注目された一番始めは攘夷論ではなかった。最初は民生で、天保の飢饉の時一人の餓死者を出さなかったという事で注目を浴びた。水戸ではどのような政治をやっているのだ。これが諸藩の水戸を注目する一番始めの理由であった。水戸の藩情を更に調べて見ると民生ばかりではない、教育も充実している、検地もやっている、学校も造ろうとしている。攘夷論が展開されている。軍事教練も実施している。大砲も作り軍艦もつくろうとしている。時の学問的最高水準としてまさに「先進の学」であり、これを学ばずしては時代の流れについていけないと考え、諸藩の人々が遊学してくることになった。 いわゆる「水府の風」がこれを後押しした。「水府の風」とは、他国の人の来訪を悦び、接し認めるや歓待優遇し、心胸を吐露して隠す所がないというもてなし術を云う。なお、水戸学は、必ず有用なものを書記し、書きとどめて置くだけでは無くそれを分析して検討を加えるという作法を確立していた。この性質により、吉田松陰並びに真木和泉守、西郷隆盛など有能の士が両名全国各地から訪れている。これにより、天下の事情に通じる事となった。 天保年間以後水戸学が他藩から注目されるようになり、「天保学」・「水府の学」などと呼ばれた。明治以後になって「水戸学」というようになった。「水戸学」は、幕藩体制の揺らぎに応じて、幕末の喧騒に関わることで、極めてイデオロギッシュな学問になり、明治維新の原動力に資していくという数奇な足跡を見せていくことになる。 吉田松陰の「東北遊日記」が水戸学との交わりを伝えている。それによれば、松陰は、嘉永4.12月から翌年にかけて東北遊学の途上に水戸を訪れ、特に会沢正志斎から多大な感化を受けている。吉田松陰は水戸から帰り、すぐに手紙に、「身皇国に生まれて皇国の皇国たる所以を知らず、急ぎ帰りて六国史を読む」と書いている。思うに、六国史は、天子が一系であって連綿と続いているという国体論と共に、天皇を中心にして外国に対して処した事例を明らかにしていた。松陰は、このことに理論的衝撃を受けたと思われる。その他、水戸に人材が多く輩出していること、宗教政策が徹底していること、教育に見るべきものがあることに注目している。これらの事を水戸から学んで帰り、それを長州藩の政治に採り入れようと努力をし、自らも松下村塾を作って教育に当たる事になる。 真木和泉守の水戸学事情は次の通り。久留米藩の木村士遠という武士が水戸に出向き会沢正志斎の塾に学ぶ。そのときに「新論」写し持ち帰る。真木は、その「新論」を読み非常に驚き即刻水戸参りを意欲する。1844.7月(天保甲辰15年)、水戸へ行く。真木は、水戸学に影響を受け、久留米藩に水戸学・天保学を導入し、久留米藩を大いに改革する。その「信長論」という一文には次のように記されている。政治理念として、「礼楽刑政が一つに統一され、天下萬民其の所を得べき」。元治元年、真木は、蛤御門の変に失敗し、天王山に引き帰り自刃する。 西郷隆盛の水戸学事情は次の通り。西郷は、津田山三郎(肥後)、鮫島庄助(薩摩)と共に藤田翁を訪れている。翁は、談論の序次、三士の気禀を評して次のように述べている。
その他、水戸を訪れた者の記録はかくの如し。越前の矢島錦助、熊本の津田山三郎、柳川の池辺藤左衛門、薩摩の原田才助(八兵衛)。橋本景岳、海江田信義、田口秀実等々。 |
斉昭が幕府の忌諱に触れて謹慎を命ぜられ、慶篤が後を継ぐ。東湖は幽閉された。翠軒派と東湖派の凄惨な派閥争いが続く。武田耕雲斎と藤田小四郎が挙兵し、筑波山で抵抗し、慶喜に上奏せんとして中山道を進み、敦賀で全員が処刑され終焉する。 |