15代将軍・足利義昭



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 2013.08.11日 れんだいこ拝


【足利義昭の履歴】
 慶長2年8月28日(1597年10月9日)。足利義昭は、室町時代後期(戦国時代) - 安土桃山時代を生き抜いた第15代征夷大将軍。在任は永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年)。正室:なし、側室:さこの方(宇野氏)、小宰相局(大河内氏)。
 1537(天文6)年、11.13日、父は第12代将軍・足利義晴、母は慶寿院(近衛尚通の娘)の次男として生まれる。同母兄として義輝(第13代将軍)、義昭、周ロ。幼名は千歳丸。

 1542(天文11)年、11.20日、将軍家に生まれるが、兄(足利義輝)が家督を相続することが明らかだったため慣例により幼少の頃から仏門に入つた。外祖父・近衛尚通の猶子となり仏門(奈良の興福寺の一乗院門跡)に入室、南都一乗院門跡の僧となり、法名覚慶と名乗った。(一乗院は興福寺別当をつとめる門跡寺院で、延暦寺における青蓮院に該当する)。 のちに興福寺で権少僧都にまで栄進している。

 1565(永禄8)年、5月、永禄の変で、第13代将軍であった兄・義輝と母・慶寿院が、松永久秀や三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)らによって惨殺され、弟で鹿苑院院主であった周ロも誘殺された。覚慶も松永久秀らによって捕縛され興福寺に幽閉・監視された。覚慶が殺されなかったのは歴史の不思議であろう。「幽閉・監視」につき、外出禁止の程度で行動は自由であったとする説と厳重な監視とする説(上杉古文書)がある。

 7月、義輝の側近であった幕臣の一色藤長、和田惟政、仁木義政、畠山尚誠、三淵藤英、細川藤孝および大覚寺門跡・義俊(近衛尚通の子)らに助けられて奈良から木津川をさかのぼり伊賀(近臣の仁木義政が守護であった国人の一人である服部氏は、この後義秋に随行することとなる)へ脱出し、近江の六角義賢の許可を得た上で近江の和田惟政を頼って落ち延び、甲賀郡の和田館(伊賀 - 近江の国境近くにあった和田惟政の居城)にひとまず身を置いた。ここで足利将軍家の当主になる事を宣言する。

 11.21日、この時、上杉輝虎(謙信)らに室町幕府の再興を依頼している。また輝虎と武田信玄・北条氏政の3名に対して3和を命じている。 

 1566(永禄9)年、2.17日、甲賀郡から都にほど近い野洲郡矢島村(守山市矢島町)に移る。この地は、在所(二町四方の規模で二重の水堀で囲まれていた。これにより、義昭を記した書物には「矢島の武家御所」と呼ばれていたことが記されている。4.21日、従五位下・左馬頭(次期将軍が就く官職)に叙位・任官される。この頃より還俗して「義秋」(読みは同じく「よしあき」)と名乗る。

 1567(永禄10)年、31歳の時、2月、義昭の対抗馬である足利義栄が将軍宣下される。

 4.15日、朝倉家滞在中のこの時、「秋」の字は不吉であるとし、京都から前関白の二条晴良を招き、遅まきながらの元服式を行って義昭と改名している。加冠役は朝倉義景が務めた。

 矢島御所において義秋は、三管領家の河内の畠山高政、関東管領の上杉輝虎、能登守護の畠山義綱(近江滋賀郡在国)らと親密に連絡をとり、しきりに上洛の機会を窺った。特に畠山高政は義秋を積極的に支持していたとみえ、実弟の秋高を、この頃に義秋に従えさせている。

 この義秋の行動に対して、三好三人衆の三好長逸の軍勢3千騎が突然矢島御所を襲撃してきたが、この時は大草氏などの奉公衆(親衛隊)の奮戦により、からくも撃退することができた。

 8月、矢島御所のある南近江の領主である六角義治が三好三人衆と密かに内通したという情報を掴んだため、妹の婿である武田義統を頼り、若狭へ下った。しかし、京都北白川に出城も構え、かつては応仁の乱で東軍の副将として隆盛を極めた若狭武田氏も、義統自身が息子との家督抗争や重臣の謀反などから国内が安定しておらず、上洛できる状況でなかった(武田義統は出兵の代わりに実弟の武田信景を義秋に従えさせた)。

 9月、若狭から仁木義政の親族であった越前の朝倉義景のもとへ移り、上洛への助力を要請した。義秋は朝廷に朝倉義景の母を従二位にすることを奏上して実現させている。しかし朝倉義景は、すでに足利将軍家連枝の「鞍谷御所」・足利嗣知(足利義嗣の子孫)もかかえており、義秋を奉じての上洛意思を表さなかった。この頃、義秋のもとに上野清延、大館晴忠などのかつての幕府重臣が帰参する。なお、義昭は朝倉よりも上杉輝虎を頼りにしていたという。しかし輝虎は武田信玄との対立と、その信玄の調略を受けた楊北衆の本庄繁長の反乱、越中の騒乱などから上洛・出兵などは不可能であった。

 1568(永禄11)年、32歳の時、朝倉家の重臣であった明智光秀が織田信長の家臣となり、その仲介により足利義昭と織田信長をひき会わせる。7月、美濃に入り三管領斯波氏の有力家臣であった織田信長の食客となる。その後、尾張へ移る。

 この間の事情が「壱.義昭公が濃州へ移られた事」に次のように記されている。

 「ここに将軍の光源院義輝公の弟である足利義昭公は、織田信長公を頼られて、逆徒の三好左京大夫義継を滅ぼし、その宿願を果したいというお気持ちがあるように聞いている。もともと義輝公という方は、源尊氏公から八代目の後継であり、将軍を継がれて十三代に当たり、万松院義晴公の長男である。弘冶・永禄の頃になると全国は少し安定して、阿波の三好修理大夫長慶・近江の佐々木大膳大夫義実などもみな服従したため、都中も穏かで万民はほっとしていた。ところが三好長慶・佐々木義実の両将がともに病死すると、佐々木の子の修理大夫義秀は愚かで、後見の箕作義賢入道承禎に国務を任せて、三好の子である左京大夫義継は、年が若いので家来の松永弾正久秀が万事を執行していた。こうしたことで礼儀がすべて乱れて、貴賤をとわず将来を不安に思うようになった。

 こういう状況下で心配していたように三好の家臣の松永弾正忠は、主君の義継に謀反をすすめ、ひそかに京都へ軍兵を入れた。永禄八(一五六五)年五月十九日には、急に将軍の御所を包囲した。この頃は少し社会が平和だったので、将軍側も特に用心もしていなかったため、反逆人は思い通りに営中に攻め入り、すぐに将軍を殺してしまった。義輝公のお歳は三十歳と聞いているが、残念なことであった。

 将軍の弟の僧が奈良の興福寺の一乗院と、洛外の金閣の鹿苑院の両所におられた。まず鹿苑院の周蒿を殺害し、一乗院の覚慶も殺してしまおうと奈良へ討手を派遣した。覚慶は早く気づかれて、春日山に逃げ入り、それから伊賀国を経て江州の甲賀に出られ、佐々木修理大夫の家臣である和田和泉守秀盛の屋敷へ入られた。その後矢嶋郷へ移り、そこで還俗し義昭公といわれるようになった。この佐々木義秀の母は将軍の義晴公の娘で義昭公の姉であったから、少しも粗略には扱われなかったけれども、義秀は生来愚かであったために、君臣の親疎の弁えもなく、無分別に過していたので一族である箕作左京大夫入道承禎と子息の右衛門尉義弼が、すべてをとりしきった。この箕作父子は三好と親類だったので、義昭公を敬服しなかった。その上三好、松永方が密かに連絡をよこしてきて「還俗した義昭を急いで殺害するように」といって来たから、どうしたらよいか考えていた。このことを義昭公が何となく聞かれて、「そうであるなら、近州にいるのは危険である」 と、密かに矢嶋の郷を忍び出て、若狭の小浜に行き、武田大膳大夫義統を頼られた。この義統には実子がなかったので、佐々木義秀の弟である右京亮義頼を養子とされたが、これも義昭公の甥であったから、武田父子は義昭公を尊敬された。

 しかし若州は小国なために、ずっと居るわけにも行かないだろうと以前に旗頭に頼んでいた越前の守護である朝倉左衛門督義景へ、佐分利谷の石山の武藤上野介から申しこまれた。義昭公は朝倉家を心から頼りにされたからである。その際義昭公からも副使として、大館治部大輔晴忠をさし遣わされたので、義景は謹んで承諾し、すぐ迎えとして一族の朝倉式部大輔景鏡を若州へ派遣して、永禄九(一五六六)年九月晦日に、まず領内の敦賀の城へお移りいただいた。城主は亡き朝倉金吾入道宗滴の子である九郎左衛門景糺とその子息である中務大輔景恒の父子が迎えて、馳走は他に例がないほどであった。その後しばらくして義景の居城である一乗谷へ入られるはずであったが、その頃義景の家臣である堀江中務三郎利茂という者が、朝倉に離反するということが起こったので、堀江の坂北郡の領地を没収し、本庄の屋敷をとりあげて加賀の方へ追放した。この騒動で義昭公は、少しの間敦賀に滞在されることになったが、それからの一乗谷へ入いられた。御供として仁木伊賀守義正・大館冶部大輔晴忠、同伊予守信竪・上野陸奥守信忠・同中務大輔清信・一色播磨守晴家・同式部大輔藤長・伊勢下総守貞隆・同右京亮・武田治部少輔信賢・三淵大和守秋家・同長岡兵部大輔藤孝・飯川山城守信方、同肥後守、安藤蔵人泰識・杉原兵庫助長盛・丹羽丹後守・大日治部少輔・曽我兵庫助・能勢丹波守・沼田弥十郎・牧嶋孫六郎をはじめ、上下百三十余人であった。

 義景の敬服は大変なもので、逆徒の三好左京大夫を討伐するための計略をめぐらされた。義昭公は大変喜ばれ、さらに戦いの評議をされている間に、朝倉家の一族郎党に対面したいという意向をおっしゃった。義景は恐縮しながらその命令に従い義昭公と対面がかなったその者とは、一族では朝倉孫三郎景健・同土佐守景行・同中務大輔景恒・同式部大輔景鏡・同玄蕃允景連・同掃部助景氏・同出雲守景盛・同兵庫助景綱・東郷下総守・青蓮華近江守・鳥羽右馬助・三段崎権頭・向駿河守・中嶋周防守・阿波賀但馬守であり、家来では山崎長門守吉家・前波藤右衛門尉景定・詫美越後守行忠・河合安芸守宗清・桜井新左衛門元忠・印牧丹波守能俊・魚住備後守景固・栂三郎右衛門吉仍・溝江大炊介長逸・富田民部丞・小林備中守・波多野次郎兵衛・青木隼人佐などで、それぞれ御礼に参られた。そうしたところに加州に流浪していた堀江中務三郎利茂が、京都の三好・松永の誘いにのって、加賀・能登・越中で一揆をおこし、越前に対してすぐに恨みを晴らそうと侵攻する計画をたてる。その際三好方から金銀・衣類などまで沢山送り届け、細かな誓紙を作り送ってきた。その内容は朝倉を悩ませて軍功があれば堀江に越前を知行る、と。また加賀・能登・越中は、一揆たちの希望通りにするから心から頼む、などと言って来たので堀江は大変喜んで、加州石川郡の一揆の首領である鏑木右衛門が住む松任という所へみな集めて「朝倉義景が将軍を伴って上洛したなら、その後から越前へ攻め入ろう」と準備を始めた。

 朝倉はこのことを聞き、国境に押えをおき上洛することを決めた。北国には特に目立った敵はいないとはいえ、野望をもち気ままで残酷な一揆たちが、雲霞のようであり、特に加州からこの方へ来襲できる道筋も多いので、一万と人数を残さないと対抗できない。当家の常備の二万三千余と若狭の武田の軍勢の三千五百を合わせた二万七千のうち、所々の押えに差し分けると、二万にもならない軍勢となる。とりわけ江州の箕作承禎の腹が読めなかったので、今大軍を出したとしてどうすればよいかと、いろいろ相談して数か月を過した。義昭公はこのことを聞かれ、 「朝倉が慎重に考えるのは、みな当然なことである。分国の問題を解決しなければ軍をおこせないであろう。それでは濃州の岐阜に居城する織田上総介信長に頼んで、積年の恨みをはらしたい」 といわれたので義景は承諾し 「当家は義昭公の意向を粗略にはしないが、三好の勧誘で北国の一揆がおきたなら、おそらく数日間戦いがあると思われる。祖父の貞景、親の孝景、そして私の代に及ぶまで、その地の悪党が当国へ襲来したのは、永正三(一五○六)年八月二日を初めとしてすでに五回になる。毎回当家は勝利をし、ほとんどを討ち滅ばし、残党を追い返してきた。敵はおそらくその鬱憤が残っていると思われるため、今度も手をやくほどの防戦になると覚悟をしてほしい。そうした理由で上洛が延びているので、どんなこともご決意に従いたい」 といわれた。

 それならとまず使者を送って、信長の心のうちを聞く必要があるといわれ、上野中務大輔清信と長岡兵部大輔藤孝を岐阜へ派遣された。信長は二人に対面していわれるには、 「私は先祖の平相国清盛の二十七代の子孫であるとはいえ民間に下った後数代の斯波家の陪臣として長い歳月が過ぎているところに、今回恐れながら君命をもらって身にあまる光栄である。この機会に義兵をおこして、忠勤に励み将軍の怨敵を滅ぼし、御恨みをはらす考えである。それで当国へ御座を移されるなら、急いで軍兵を集め、やがて逆徒を討伐することを堅く誓って翻意しません」 といわれた。

 二人の使者は越前に戻って、このことを詳しく申し上げると、義昭公は機嫌良く感心され、永禄十一 (一五六八)年七月十八日に一乗谷を出られた。義景から道中の警護として、前波藤右衛門景定が五百騎で同伴し、敦賀の港に到着した。ここから朝倉中務大輔景恒の三百騎が前波に加わり、送列に加わった。そうしたところへ浅井下野守方から迎えとして、従弟の浅井玄蕃、同雅楽助兄弟を刀祢坂まで寄越し、そして北近江の余古の庄に着いた。備前守長政も木本宿まで出向いて、小谷の城へ奉じて入られる。そこへ岐阜の信長から案内者として、不破河内守、村井民部少輔をさし寄越したから、朝倉家の両使は小谷で任を終え帰った。浅井備前守は関ケ原の宿まで送りましょうと言われた。同二十五日に、義昭公は濃州岐阜の旅館へ入られた」。 

 9月、沿道の美濃斎藤氏、北近江浅井氏、南近江六角氏などの支持も受けた上で、直接には尾張国の織田信長に擁立され、浅井長政軍にも警護されつつ上洛を開始した。途中、六角義賢の反乱もあったが退け、父・義晴が幕府を構えていた桑実寺に遷座、そしてさらに進軍し無事京都に到着した。これをみて、三好三人衆の勢力は京都から後退した。10.18日、第15代征夷大将軍が宣下され就任する。同時に従四位下に昇叙し参議に補任される。左近衛権中将にも任官された。この時、元号を「元亀」と改元するべく朝廷に奏請した。しかし信長はそれが将軍権威の復活につながること、正親町天皇の在位が続いているのに必要ないと反対されている。10.24日、信長に対して宛てた感状で、「御父織田弾正忠(信長)殿」と宛名している。

 将軍に就任した義昭は、義輝暗殺容疑及び足利義栄将軍職就任に便宜を働いた容疑のある近衛前久を追放し、二条晴良を関白職に復職させた。また、幕府の管領家である細川昭元や畠山昭高、朝廷の関白家である二条昭実に偏諱を与え領地を安堵し政権の安定を計り、兄の義輝が持っていた山城の御料所も掌握した。また山城国には守護を置かず、三淵藤英を伏見に配置するなどし治めた。幕府の治世の実務には、兄の義輝と同じく摂津晴門を政所執事に起用し、奉行衆である飯尾昭連、松田藤弘らを配下につけ幕府の機能を再興した。また伊勢氏の末裔である伊勢貞興も義昭の許しを受けて仕えたとされる。このように幕府の再興を見て、島津義久は喜入季久を上洛させて黄金100両を献上して祝意を表し、相良義陽や毛利元就らも料所の進上を行っている。この時まで本圀寺を仮御所としていた。

 1569(永禄12)年、33歳の時、織田信長の兵が領国の美濃・尾張に帰還すると三好三人衆に本國寺を襲撃されるが、奉公衆および北近江の浅井長政・摂津の池田勝正、和田惟政、伊丹親興、三好義継らの奮戦により、これを撃退した(本國寺の変)。 これにより烏丸中御門御第の再興および増強が急遽行われた。

 1.7日、この変事の直後、義昭は大友宗麟に毛利元就との講和を進め、1.13日、互いに講和して三好氏の本拠である阿波に出兵させようとしている。但しこの計画は実現しなかった。この時、義昭は御内書において「異論があれば天下に対し不忠になる」と将軍の貫禄を見せている。

 1.14日、信長は、義昭の下風に立つことを嫌い,義昭が呈示した副将軍や管領就任を拒絶し,独自に畿内支配を進めた。将軍権力を制約するために「殿中御掟」という9箇条の掟書を義昭に承認させた。

 義昭は信長に命じて兄・義輝も本拠を置いた烏丸中御門第(旧二条城とも呼ばれる)を整備する。織田信長が将軍御座所として築いた二条御所(新御所)に移る。この義昭の将軍邸は、二重の水堀で囲い、高い石垣を新たに構築するなど防御機能を格段に充実させたため洛中の平城と呼んで差し支えのない城郭風のものとなった。この烏丸中御門第には、室町幕府に代々奉公衆として仕えていた者や旧守護家など高い家柄の者が参勤し、ここに義昭の念願であった室町幕府は完全に再興された。6.22日、従三位に昇叙し、権大納言に栄進している。

  新将軍として幕府を再興した義昭は、まず織田信長の武功に対し幕閣と協議した末、「室町殿御父(むろまちどのおんちち)」の称号を与えて報いた。信長は上洛の恩賞として尾張・美濃領有の公認と旧・三好領であった堺を含む和泉一国の支配を望んだために和泉守護に任じた。この時その他の武将にも論功行賞が行われ、池田勝正を摂津守護に、畠山高政、三好義継をそれぞれ河内半国守護に、細川藤賢は近江守護に任じられた。山城には守護はおかれず将軍家御領(上山城守護代として長岡藤孝、下山城守護代として槙島昭光)となる。さらに、信長には管領代または管領の地位、そして朝廷への副将軍への推挙を申し入れた。しかし信長は受けず、弾正忠への正式な叙任の推挙のみを受けた。 

 その後、幕府再興を念願とする義昭と、武力による天下統一を狙っていた信長の思惑は違っていたために、両者の関係は徐々に悪化していくこととなる。

 1570(永禄13)年、34歳の時、1月、5箇条が追加され、義昭はこれも承認した。だが、義昭が殿中御掟を全面的に遵守した形跡はなく、以後両者の関係は微妙なものとなっていく。これ以降、織田信長が実権をにぎり、足利義昭の将軍位は名ばかりで、政治から完全にしめだされる。「織田信長からの5か条」とは、1・足利義昭が出す文書には織田信長のそえ書きをつけること。2・足利義昭が今までに出した命令は取り消すこと。3・幕府に忠義のあった者にあたえる恩賞で適当な土地がないときには、織田信長の領地から分け与えること。4・天下の政治は織田信長にまかせた以上、足利義昭がいちいち口をはさまないこと。5・朝廷に対する儀式は、足利義昭が手抜かりなく行うこと。


 4.23日、義昭は、信長が朝倉氏討伐に出陣した後、元亀に改元している。4月、信長は徳川家康とともに姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍に勝利する。信長は続いて義昭と共に三好三人衆らを討伐に出る(野田城・福島城の戦い)。途中で石山本願寺および浅井、朝倉氏が挙兵。信長は近江へ引き返したが、浅井・浅倉氏は比叡山延暦寺に立てこもり、さらに伊勢で一向一揆が蜂起するなど連合軍の巻き返しに遭う。12月、信長方から和睦を申し出た。その際、信長から朝倉方との和睦の調停を依頼された義昭は、旧知の関白・二条晴良に調停の実務を要請している。

 1571(元亀2)年、35歳の時、義昭は、信長の専横に不満を持った義昭は、自らに対する信長の影響力を相対化しようとして 本願寺の顕如、越前国の朝倉義景、浅井長政、六角義賢、甲斐国の武田信玄、越後国の上杉輝虎(謙信)、中国の毛利輝元、有力大名に信長討伐令を出して信長包囲網を画策していた。これにはかねてから信長と対立していた延暦寺、兄の敵でもあった松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わっていた。

 1572(元亀3)年、36歳の時、10月、信長は義昭に対して17条の意見書を送付した。この意見書は義昭の様々な点を批判している。これによって義昭と信長の対立は抜き差しならないものになり、義昭は挙兵。東では武田信玄が上洛を開始した。12.22日、信玄は、三方ヶ原の戦いで信長の同盟者である徳川家康の軍勢を破り、信長は窮地に陥った。

 義昭は寵臣・山岡景友(六角義賢の重臣で幕府奉公衆でもある)を山城半国守護に任命する。だがその後、朝倉義景が12月3日に越前に撤退してしまったため、義昭は翌年2月に信玄から遺憾の意を示されて義景に重ねて出兵するように求めている。義昭も義景、あるいは朝倉一族に対して5000から6000の兵を京都郊外の岩倉の山本に出兵するように命じている。

 1573(元亀4)年、37歳の時、正月、信長は子を人質として義昭に和睦を申し入れたが、義昭は信じずこれを一蹴した。義昭は近江の今堅田城と石山城に幕府の軍勢を入れ反信長の旗を揚げた。しかし攻撃を受けると数日で両城は陥落している。信長は京に入り知恩院に陣を張った。幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り、信長についた。しかし義昭は、洛中の居城である烏丸中御門第にこもり、抵抗を続けた。信長は再度和睦を要請したが、義昭は信用せずこれを拒否した。信長は威嚇として幕臣や義昭の支持者が住居する上京全域を焼き討ち(上京焼打ち)し焦土と化さしめた。ついに烏丸中御門第を包囲して義昭に圧力をかけた。

 3.29−4.20日、朝廷が「元亀」からの改元を決定した際、義昭が改元費用の献上を拒んだ(『御湯殿上日記』条)。歴代室町将軍が行っていた禁裏(御所)修繕も行なわなかった。このため、朝廷では義昭への非難が高まり、吉田兼見は「大樹(将軍)所業之事、禁裏其外沙汰如何、公義(公儀)・万民中々無是非次第之間申也」(『兼見卿記』元亀4年4月1日条)と、義昭の評判の悪さを記している。信長も元亀3年秋に出した義昭への意見状で義輝の時代と比較して幕府の朝廷への態度が不誠実であるとして改元や禁裏修繕の件を例に挙げて非難しており、義昭追放の正当な根拠の1つとされた。

 4.5日、信長はふたたび朝廷に工作し、正親町天皇の調停で勅命による講和が成立した。4.12日、信玄が突如病死した。これにより武田軍が本国へ撤退する。これにより立場が再逆転する。  

 7.3日、義昭は講和を破棄。義昭は烏丸中御門第を三淵藤英・伊勢貞興や公家奉公衆に預けたうえで、南山城の要害・槇島城(山城国の守護所)に移り挙兵した。槇島城は宇治川・巨椋池水系の島地に築かれた要害であり、義昭の近臣真木島昭光の居城でもあった。烏丸中御門第の留守居は3日で降伏し、槇島城も7万の軍勢により包囲された。7.18日、織田軍が攻撃を開始すると槇島城の施設がほとんど破壊されたため、家臣にうながされわずか17日で降伏した。信長は、義昭の息子である義尋を足利将軍家の後継者として立てるとの約束で義昭と交渉のうえ自身の手元に置き人質とした。,

 信長は義昭を京都追放された。ここに室町幕府は倒壊した。足利将軍家の山城及び丹波・近江・若狭ほかの御料所を信長の自領とした。室町後期から戦国期にかけて室町将軍は天皇王権を擁して京都や周辺地域を支配し、地方大名の紛争などを調停した「天下人」の立場にあり、信長は義昭を擁し間接的に天下人としての役割をになっていたが、義昭追放後は信長一人が天下人としての地位を保ち続け、一般的にはこの時点をもって室町幕府の滅亡としている。同年7.28日、天正元年に改元する。8月、朝倉氏、9月、浅井氏が滅亡し、信長包囲網は完全に瓦解した。

 義昭は一時は信長を追いつめもしたが、京都を追放される。枇杷庄(現:京都府城陽市)に退いたが、顕如らの仲介もあり、妹婿である三好義継の拠る河内若江城へ移った。護衛には羽柴秀吉があたったという。しかし信長と義継の関係も悪化したため、11.5日、和泉の堺に移った。堺に移ると信長の元から羽柴秀吉と朝山日乗が使者として訪れ、義昭の帰京を要請した。この説得には毛利輝元の家臣である安国寺恵瓊、林就長もあたっている。 しかし義昭が信長からの人質提出を求めるなどしたため交渉は決裂している。


 1574(天正2)年、信長は、塙直政を山城・大和の守護に任じ、畿内の支配を固めた。義昭は紀伊国の興国寺に移り、ついで泊城に移った。紀伊は室町幕府管領畠山氏の勢力がまだまだ残る国であり、特に畠山高政の重臣であった湯川直春の勢力は強大であった。直春の父湯川直光は紀伊出身でありながら河内守護代をも務めたことがある実力者である。

 1575(天正3)年、義昭がかねてより望んでいた右近衛大将に織田信長が任官した。

 1576(天正4)年、義昭は毛利輝元の勢力下であった備後国の鞆に移った。鞆はかつて足利尊氏が光厳天皇より新田義貞追討の院宣を受けたという、足利家にとっての由緒がある場所であった。また第10代将軍足利義稙が大内氏の支援のもと、京都復帰を果たしたという故事もある足利家にとって吉兆の地でもあった。これ以降の義昭の備後の亡命政府は鞆幕府とも呼ばれる。

 鞆での生活は、備中国の御料所からの年貢の他、足利将軍の専権事項であった五山住持の任免権を行使して礼銭を獲得できたこと、日明貿易を通して足利将軍家と関係の深かった宗氏や島津氏からの支援もあり財政的には困難な状態ではなかった。近畿東海以外では足利将軍家支持の武家も依然として多かった。義昭は信長追討を目指し全国の大名に御内書を下している。甲斐の武田、相模の後北条、越後の上杉三者の和睦をもちかけているが実現しなかった。

 1577(天正5)年、9月、上杉謙信が手取川の戦いで織田軍を打ち破った。1578(天正6)年、3月、上杉謙信が死去。1580(天正8)年、石山本願寺も信長に降伏した。

 1582(天正10)年、6.2日、義昭がまだ備後鞆に滞在中、信長と嫡子の信忠が本能寺の変で明智光秀に討たれた。光秀の家臣団には伊勢貞興や蜷川貞周といった、旧室町幕府幕臣が多くいた。同年、義昭は鞆城から居所を山陽道に近い津之郷(現福山市津之郷町)へと移させる。

 信長の死を好機に、義昭は毛利輝元に上洛の支援を求めた。羽柴秀吉や柴田勝家にも同じような働きかけを盛んに行なった。親秀吉派であった小早川隆景らが反対したこともあり、秀吉に接近しつつあった毛利氏との関係は冷却したとも言われる。

 1583(天正11)年、2月、毛利輝元、柴田勝家、徳川家康から上洛の支持を取り付けている。同年、将軍職のまま山城国(京都)に戻った。豊臣政権が完全に確立するまでは、依然そのまま将軍であった。同年、毛利輝元が羽柴秀吉に臣従する。

 1586(天正14)年、羽柴秀吉が関白太政大臣となる。その後、「関白秀吉・将軍義昭」という時代が2年間続いた。この間、秀吉が天下を統一していく。義昭はこの頃より豊臣秀吉との和睦を図っている。12.4日、一色昭秀を鹿児島に送り島津義久に対して和議を勧めている。

 1587(天正15)年、4月、一色昭秀を再度送って義久に重ねて和睦を勧めている。豊臣秀吉は九州征伐に向かう途中に義昭の住む備後国沼隈郡津之郷の御所付近を訪れ、そばにある田辺寺にて義昭と対面した(太刀の交換があったといわれている)。

 1588(天正16)年、10月、島津氏が秀吉の軍門に下った後、義昭は京都に帰還する。その後、将軍職を辞して受戒し、名を昌山(道休)と号し出家する。豊臣秀吉から、山城槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として豊臣政権下で遇され余生を送った。1万石とはいえ前将軍であったので、殿中での待遇は大大名以上であった。征夷大将軍を辞してのちは准三后の称号(待遇)を朝廷から受け皇族と同等の待遇を得る。晩年は斯波義銀・山名堯熙・赤松則房らとともに秀吉の側近御伽衆に加えられ、太閤の良き話相手であったとされる。毛利輝元の上洛の際などに名前が見られる。

 1592()年、56歳の時、文禄・慶長の役、秀吉のたっての要請により、由緒ある奉公衆などの名家による軍勢200人を従えて肥前名護屋まで参陣している。但し、渡海はせず。

 1597(慶長2)年、8.28日、大阪で死去(享年61才)。死因は腫物であったとされ病臥して数日で没したが、老齢で肥前まで出陣したのが身にこたえたのではないかとされている。法号は霊陽院昌山道休。歴代足利将軍の中では最も長命(61歳)な人物である。足利氏初代の義康からみても3代義氏(67歳)に次ぐ長命を誇る。墓所は京都府京都市北区の等持院。


【れんだいこの足利義昭の履歴】
 れんだいこが足利義昭に注目するのは。

 2013.10.27日 れんだいこ拝













(私論.私見)