13代将軍・足利義輝



 更新日/2020(平成31→5.1日より栄和改元/栄和2).7.8日
 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、13代将軍・足利義輝を確認する。「ウィキペディア足利義輝」その他を参照する。

 2013.08.11日 れんだいこ拝


【足利義輝の履歴】
 足利義輝は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:1546年 - 1565年)。
  1536(天文5)年3月10日(3月31日)、第12代将軍・足利義晴、母・慶寿院(近衛尚通の娘)の嫡男として東山南禅寺で生まれる。誕生直後に外祖父・近衛尚通の猶子となる(「後法成寺関白記」天文5年3月11日・4月6日条)。猶父は近衛尚通。兄弟は義輝、義昭、周暠。菊童丸(幼名)→義藤(初名)→義輝。剣豪将軍(渾名)。


 この頃の幕府では父・義晴と管領の細川晴元が対立し、義晴はそのたびに敗れて近江坂本に逃れ、菊童丸もそれにたびたび従った。その後も父と共に京への復帰と近江坂本・朽木への脱出を繰り返した。

 天文15年(1546年)7月27日、従五位下に叙す。11月19日、正五位下に昇叙し、左馬頭に任官。12月19日、元服し、義藤を名乗る。

 同年12月20日、従四位下征夷大将軍宣下。菊童丸はわずか11歳にして、父から将軍職を譲られ、室町幕府第13代征夷大将軍となる。このときの将軍就任式は亡命先である近江坂本の日吉神社(現日吉大社)祠官樹下成保の第で行われ、六角定頼を烏帽子親として元服し、義藤(よしふじ)と名乗った。

 天文16年(1547年)2月17日、参議に補任し、左近衛中将を兼任。

 同17年(1548年)、義晴は晴元と和睦して京に戻った。このとき晴元も義藤の将軍就任を承諾している。ところが、晴元の家臣で、畿内に一大勢力を築きつつあった三好長慶が晴元を裏切って細川氏綱陣営に転属する。

 天文18年(1549年)6月、江口の戦いで長慶に敗れた晴元によって義晴・義藤父子は、京都から近江坂本へ退避し、常在寺に留まった。

 同19年(1550年)5月、義晴が常在寺にて死去する。義輝は父が建設を進めていた中尾城で三好軍と対峙したが、戦局が好転しないまま11月に中尾城を自焼して堅田へ逃れ(中尾城の戦い)、翌年に朽木へ移った。

 天文21年(1552年)1月、細川氏綱を管領にするという条件で三好長慶と和睦し、京に戻った。ただし将軍とは有名無実で、長慶とその家臣松永久秀の傀儡であった。

 翌23年(1553年)、晴元と協力して長慶との戦端を開くも敗退。再び近江朽木へ逃れ、以降5年間をこの地で過ごした。亡命中の2月12日、従三位に昇叙し、名を義輝に改めている。この年、大友氏から鉄砲と火薬の秘伝書(『鉄放薬方并調合次第』)を手に入れている。

 永禄元年(1558年)5月、六角義賢(承禎)の支援で晴元とともに坂本に移り京の様子を窺う。翌月、如意ヶ嶽に布陣して三好長逸らの軍と交戦した。始めは六角義賢の支援を受けた足利方が優勢であったが、長慶の弟・三好義賢の反攻を受け、さらに六角義賢からも支援を打ち切られたために戦況は思うように展開しなかった(北白川の戦い)。11月、六角義賢の仲介により長慶との間に和議が成立。これに伴い5年ぶりの入洛が実現し、幕府政治を再開させた。義輝の帰京後も三好長慶の権勢は続いたが、それに反発する畠山高政と六角義賢が畿内で蜂起する。一族の三好義賢が戦死する(久米田の戦い)と三好氏に衰退の兆しが見え始めた。この年の12月28日には、伯父である近衛稙家の娘を正室に迎えている。

 永禄2年(1559年)、大友義鎮を九州探題に任命し、九州の統治を委ねた。元々九州探題は足利氏一族の渋川氏が世襲していたが、少弐氏と大内氏の抗争に巻き込まれてすでに断絶していた。これを補うための補任であった。大友家は九州において足利将軍家に最も親しい有力守護大名であった。この時、大友義鎮は豊後・豊前・筑後・筑前・肥後・肥前の守護および日向の半国守護を兼ねていた。

 永禄3年(1560年)、ガスパル・ヴィレラにキリスト教の布教を許している。これは義輝個人の嗜好と言うよりも、三好氏との対抗上、もしくは三好氏の意向を受けての裁可である可能性が高い。

 義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力している。天文17年(1548年)に伊達晴宗と稙宗、永禄元年(1558年)年に武田晴信と長尾景虎、同3年(1560年)に島津貴久と大友義鎮、毛利元就と尼子晴久、同6年(1563年)に毛利元就と大友宗麟、同7年(1564年)に上杉輝虎(長尾景虎改め)と北条氏政と武田晴信など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行い、将軍の威信を知らしめた。

 また懐柔策として、大友義鎮を筑前・豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じ、三好長慶・義長(義興)父子と松永久秀には桐紋使用を許した。さらに自らの名の偏諱(1字)を家臣や全国の諸大名などに与えた。例えば、「藤」の字を細川藤孝(幽斎)や筒井藤勝(順慶)、足利一門の足利藤氏・藤政などに、「輝」の字を毛利輝元・伊達輝宗・上杉輝虎(謙信)などの諸大名や足利一門、藤氏・藤政の弟である足利輝氏などに与えた。また島津義久、武田義信などのように足利将軍家の通字である「義」を偏諱として与える例もあった。

 その政治的手腕は、「天下を治むべき器用有」(『穴太記』)と評された。このような経緯を経て、次第に諸大名から将軍として認められるようになり、織田信長や上杉謙信などは上洛して拝謁、大友宗麟は鉄砲を献上している。室町幕府の歴代将軍の中でも特に覇気に溢れ、武士らしい将軍と讃えられている。その政治活動により、一時的とはいえ将軍権威が復活したことにおいて、その努力は評価に値する。義輝は武衛陣(斯波武衛家旧邸)に室町幕府の拠点を移した将軍としても知られる。

 永禄年間には信濃国北部を巡る甲斐国の武田信玄と越後国の長尾景虎(上杉謙信)との川中島の戦いが起きており、義輝は両者の争いを調停し、永禄元年(1558年)には信玄を信濃守護に補任するが信玄はさらに景虎の信濃撤退を求め、義輝は景虎の信濃出兵を認め、永禄4年には信玄に駆逐され上方へ亡命していた前信濃守護・小笠原長時の帰国支援を命じている。

 永禄5年(1562年)、長慶と手を結び幕政を壟断していた政所執事の伊勢貞孝が長慶と反目すると、義輝は長慶を支持してこれを更迭し、新しく摂津晴門を政所執事とした。これに激怒した伊勢貞孝が反乱を起こしたが、9月、長慶の手で討たれた。これによって、将軍の介入すら許さないほどの影響力を保持し続けてきた伊勢氏による政所支配は歴史に幕を閉じ、将軍による政所掌握への道を開いた。

 永禄7年(1564年)7月、長慶が病死。長年の政敵が消滅した義輝はこれを好機として、いよいよ中央においても幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとした。しかし、長慶の死後に幕政を牛耳ろうと目論んでいた松永久秀と三好三人衆が立ちはだかった。久秀と三人衆は足利義稙の養子・足利義維(義輝の叔父)と組み、義維の嫡男・義栄(義輝の従兄弟)を新将軍の候補として擁立した。義輝は近江六角氏を頼りとしていたが、永禄6年(1563年)の観音寺騒動以降、領国の近江を離れられなくなっていた。

 永禄8年(1565年)、正親町天皇は京都からイエズス会を追放するよう命令したが、義輝はこの命令を無視した。

 永禄8年(1565年)5月19日、久秀と三好三人衆は主君・三好義継(長慶の養嗣子)とともに義栄を奉じて謀叛を起こし、二条御所を軍勢を率いて襲撃した。この時、義輝は京都勘解由小路御所にて名刀の三日月宗近で応戦し、将軍家秘蔵の刀を数本畳に刺し、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて寄せ手の兵と戦ったという。この最後の奮戦を讃えて「剣豪将軍」と称される場合もある。但し衆寡敵せず、最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として同時に突きかかり殺害された。フロイスの「日本史」には少々異なる奮戦の様子が記されている。「言継卿記」には自害したと記される。 享年30(満29歳没)。この時、摂津晴門の嫡子・糸千代丸も一緒に討ち死にした。また、義輝の生母である慶寿院も殉死している。辞世の句は「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」。これを「永禄の変」と云う。

 塚原卜伝から指導を受けた直弟子の一人である。奥義「一之太刀」を伝授されたという説もあり、鎌倉から江戸までの歴代征夷大将軍の中でも、最も武術の優れた人物ではないかと言われている。また、上泉信綱からも指導を受けたのではないかと言われている。

 永禄8年5月19日(1565年6月17日)、薨去。法号は光源院融山道圓。供養塔が山口県山口市の俊龍寺にある。6月7日、贈従。一位、左大臣。

 正室近衛稙家の娘。側室:小侍従輝若丸、女子(耀山、宝鏡寺住持)、女子(伝山性賢、宝鏡寺住持)、天誉(足利義高)?、尾池義辰。一般には一男一女とされ、息子は輝若丸(永禄5年(1562年)4月生 - 同年7月15日没)のみであるが、非公式に義輝の息子といわれる人物が2名知られている。

  「公方様の夫人は、実は正妻ではなかった。だが彼女は懐胎していたし、すでに公方様は彼女から二人の娘をもうけていた。また彼女は上品であったのみならず、彼から大いに愛されてもいた。したがって世間の人々は、公方様が他のいかなる婦人を妻とすることもなく、むしろ数日中には彼女にライーニャ(=王妃)の称を与えることは疑いなきことと思っていた。なぜならば、彼女はすでに呼び名以外のことでは公方様の正妻と同じように人々から奉仕され敬われていたからである」「コジジュウドノ(小侍従殿)と称されたこのプリンセザは~」 『完訳フロイス日本史1 将軍義輝の最期および自由都市堺』より。なお同書では、ライーニャおよびプリンセザの訳語に「奥方」を使用している。

【永禄の変】
 今日は何の日 永禄8年5月19日」その他参照。

 1565(永禄8).5.19日(6.17日)、松永久秀と三好三人衆が将軍の御所を襲い、13代将軍足利義輝が討死させられた。義輝は最期まで獅子奮迅の働きをした剣豪将軍として知られる。これを「永禄の変」と云う。

 5.19日未明。京都二条の将軍御所が三好家の家宰・松永弾正久秀と三好三人衆の軍勢に囲まれた。一説にその数2000。三好勢は「公方様へ訴訟の儀あり」と偽っていたものの、その狙いは将軍義輝の命だった。天文18年(1549)の江口の戦いで勝利した三好長慶は、管領細川晴元や将軍足利義輝を近江へと追い、京都で三好政権を築く。しかし近江の六角氏を味方につけた足利義輝の反撃にあい、永禄元年(1558)、和睦。長慶は幕府相伴衆となって義輝に屈した。さらに三好家内部での争いが起こり、永禄7年(1564)、当主の長慶が没す。凋落の道をたどる三好家の中で台頭したのが家宰の松永久秀。松永は、幕府内において着々と将軍親政の体制を固めつつある義輝と反目した。そして義輝の従兄弟・義栄(よしひで)を新将軍として擁立し、義輝の排除即ち殺害を企てた。この時、将軍の御所にいる人数はおよそ200。そのうち戦力となるのは半数にも満たなかった。。三好勢に包囲されたと知ると、義輝は覚悟を固め、近臣らと水盃を交わしてから、主従30人ほどで討って出た。将軍側の応戦は三好勢の予想以上に激しいもので、一色淡路守らが寄せ手を数十人討ち取った他、福阿弥という槍の達人が、一人で多数の敵を倒した。そして将軍義輝もまた、畳に将軍家伝来の名刀を十数本突き立て、自ら敵を斬り倒し続けた。
義輝は、剣聖・塚原卜伝より奥義「一の太刀」を伝授された使い手で、刀身に脂が巻いて切れ味が悪くなると次々と名刀を交換しては斬り続けた。足利季世記には「公方様御前に利剣をあまた立てられ、度々とりかへて切り崩させ給ふ御勢に恐怖して、近付き申す者なし」と記されている。その刀は、「鬼丸國綱」、「大包平」、「九字兼定」、「朝嵐兼光」、「綾小路定利」、「二つ銘則宗」、「三日月宗近」などの名刀ばかりであったといわれている。しかし、多勢に無勢。義輝が疲労し始めたところを狙われて槍の柄で脛を払われ、転倒したところを敵が襖をかぶせ、その上から槍で刺されて絶命した。義輝、享年30。 「五月雨は 露か涙か 不如帰 わが名をあげよ 雲の上まで」。将軍の権力回復を志した末の非業の死となった。義輝が最後に手にしていた太刀は、源頼光が大江山の鬼を退治したといわれる、「童子切安綱」であったといわれる。

【れんだいこの足利義輝の履歴】
 れんだいこが足利義輝に注目するのは「よほど英明有能な剣豪将軍の悲劇の死」を確認するためである。しかも、この「王殺し」の背後にバテレン勢力の陰謀が渦巻いていたと思うからである。これについては更に推敲することにする。

 2013.10.27日 れんだいこ拝

 2020.7.11日、PHP Online 衆知(歴史街道)剣豪将軍・足利義輝を苦しめ続けた三好長慶と松永久秀」。
 剣豪将軍とも称される13代将軍の足利義輝。その人生は苦難に満ちたものだった。義輝を苦しめた中心人物は三好長慶。そしてその配下で梟雄・松永久秀が台頭する…。

 大河ドラマ「麒麟がくる」によって、足利義輝と松永久秀に対する注目が高まっている。月刊誌『歴史街道』2020年7月号でも、「足利義輝と松永久秀―『剣豪将軍』と『梟雄』の正体」と題し、最新研究を踏まえて二人の実像に迫っている。 静岡大学名誉教授の小和田哲男氏は、将軍家に生まれた義輝と、出生地も定かでない久秀の対極的な二人は、共通する役割を果たしていたと語る。本稿では、同記事より剣豪将軍とも謳われる足利義輝を苦しめた二人の武将について言及した一節を抜粋して紹介する。 【小和田哲男 静岡大学名誉教授】 昭和19年(1944)、静岡市生まれ。昭和47年(1972)、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史、特に戦国時代史。大河ドラマ『麒麟がくる』の時代考証を担当。著書に『明智光秀・秀満』『戦国武将の実力─111人の通信簿』など、近著に『戦国武将の叡智─人事・教養・リーダーシップ』がある。

 室町幕府を揺るがした、細川京兆家の内部抗争

 足利義輝と松永久秀は、何者だったのか。戦国時代において、彼らが果たした役割を明らかにするためにも、まずは登場前夜の時代背景について触れておきたい。 応仁元年(1467)から文明9月(1477)まで続いた応仁・文明の乱の後、室町幕府は不安定ながらも、かろうじて幕府としての体裁を保っていた。ところが明応の政変で、幕府の体制は崩れていく。 明応の政変とは、明応2年(1493)、管領の細川政元が、10代将軍・足利義稙を廃し、11代将軍に足利義澄を擁立した事件である。 家臣が将軍の首をすげかえたという点で、まさに「クーデター」と称すべき行為だが、幕府の実権が管領に握られていることが、誰の目にも明らかとなった。 もっとも、管領職を務める細川氏嫡流の京兆家も盤石ではなかった(代々の当主が名乗る右京大夫の中国式の呼び名「京兆」に由来する)。 細川政元には妻子がなく、養子に迎えられた高国、澄元、澄之の三者間で、家督争いが起きたからである。 永正4年(1507)、細川政元が澄之派の香西元長らによって暗殺されると、混乱の最中、細川高国が台頭する。高国は澄之を滅ぼし、さらにもう一人の養子である細川澄元を阿波へ追い落とし、家督を継いで管領となった。 一方で幕政を掌握した高国は、廃されていた足利義稙を将軍に復帰させるが、やがて義稙と対立。今度は大永元年(1521)に足利義晴(11代将軍・義澄の子)を12代将軍に擁立した。 だが、細川家中の内部抗争は終わったわけではなかった。 大永6年(1526)、高国によって阿波に追われていた細川澄元の子・晴元が、三好元長に擁立され挙兵。畿内に攻め込み、享禄4年(1531)に細川高国を滅ぼすのである。晴元は堺に本拠を置き、将軍・足利義晴とも一度は手を結び、管領に就任することとなった。 ところが、今度は細川晴元と、細川高国の養子である氏綱との間で、争いが始まる。そして将軍の足利義晴も、時には晴元と、時には氏綱と手を組むなど、離合集散を繰り広げていくこととなる。 現代にあてはめれば、政局によって政権や与党のトップが頻繁に交代するような有様で、将軍、管領ともに安定せず、幕府の屋台骨は傾いていくばかりであった。 そうした最中の天文5年(1536)、将軍・義晴の嫡男として生まれたのが、足利義輝であった。 義輝は天文15年(1546)、弱冠11歳という若さで元服し、13代将軍に就任する。しかし、彼を取り巻く情勢の厳しさを反映してか、それらの儀式は京都ではなく、近江の坂本で執り行なわれた。 それは、細川京兆家における、晴元と氏綱の抗争の煽りを受けたものであった。氏綱についた義晴が、細川晴元との戦いに敗れ、義輝とともに京都を出て坂本に逃れていたからである。 翌年、細川晴元を支援する近江の六角定頼に攻められた義晴は、晴元と和睦。これによって、義輝を連れて京都に戻ったが、その頃から、晴元の家臣だった三好長慶が急速に台頭してくる。そして松永久秀も、三好長慶の家臣として、歴史の表舞台に姿を現わすのである。

 三好長慶の台頭と足利義輝の苦難の始まり

 三好長慶は、足利義輝と松永久秀を語るうえで、欠くことのできない人物である。まずは、その足跡に触れておきたい。 大永2年(1522)、三好長慶は阿波国で生まれた。 父は三好元長で、細川晴元を管領に就任させた功労者である。ところが天文元年(1532)、一向宗門徒との顕本寺の戦いで、元長は主君・細川晴元の謀略により、自害に追い込まれてしまう。 これを受け、翌年、三好長慶は12歳で父の跡を継ぐが、天文3年(1534)10月、細川家の重臣・木沢長政の仲介で、父の敵でもある細川晴元に仕えることとなる。 天文5年、細川晴元に従って上洛を果たした三好長慶は、3年後の天文8年(1539)8月には摂津の西半国の支配を任され、越水城に本拠を置く。港湾都市として栄えていた兵庫港が近くにあり、長慶がその後、経済的にも飛躍していく大きな要因となる。 天文11年(1542)3月、不穏な動きを見せる木沢長政を、河内の太平寺の戦いで打ち破った三好長慶は、細川晴元の被官の中で筆頭の地位に昇る。 しかし、細川晴元が細川氏綱と対立した際、三好長慶は主君に反旗を翻して、氏綱を支援する側にまわった。 天文18年(1549)6月、三好長慶は江口の戦いで細川晴元方の兵を破り、晴元を京都から逐った。なお、晴元に与していた足利義晴と義輝は、このときも近江坂本へ避難し、京都は将軍、管領ともに不在となる。 だが、義晴・義輝父子も手をこまねいていたわけではなく、天文19年(1550)、慈照寺 (銀閣寺)の近くに中尾城、さらには北白川城を築き、京都復帰に向けて準備を進めていた。だがその最中に、義輝は父・義晴を病で失ってしまう。 義輝の京都復帰が叶うのは、その2年後の天文21年(1552)のことであった。 この年の1月、義輝や細川晴元を支援していた近江の六角定頼が死去。跡を継いだ義賢が、義輝と細川晴元の陣営、それに対抗する細川氏綱と三好長慶の陣営を調停、義輝はそれを受け入れ、京都への帰還を果たす。 ただし、細川晴元は和睦に応じず、若狭武田氏のもとに逃れ、細川京兆家の争いはこの時点でも終わっていない。 京都に入った義輝は、細川氏綱を京兆家の当主と認めた。一方、氏綱を擁立していた三好長慶も、この時点では、義輝とともに幕府を再興していくことを意図していたと思われる。 しかし、義輝は天文22年(1553)、再び細川晴元と手を結び、三好長慶と決裂してしまう。結果、霊山城を三好長慶に攻められた義輝は、近江の朽木へと落ちていった。 以後、永禄元年(1558)まで、義輝は朽木で再起を図り、三好長慶と対峙することになる。

 三好政権の中で頭角を現わした松永久秀

 将軍の足利義輝を京都から追い落とした三好長慶は、細川氏綱を傀儡とし、幕府の実権と畿内の覇権を握った。 本拠を越水城から同じ摂津の芥川山城に移した三好長慶の、この時点での支配領域は山城、丹波、摂津、和泉、淡路、讃岐、阿波の七カ国にも及んだ。 これは「三好長慶政権」と呼ばれ、「織田信長に先行する天下人」と称されることもある。さらにいえば、政権のその独自性から、「織田信長政権の先取り」と評することもできる。 その独自性とは、幕府権力や将軍権力をバックボーンにもたないことだ。三好長慶は後の信長と同じように、将軍権威を必要とすることなく、幕府が裁断すべき争論を裁決しており、将軍も管領も「あってなきがごとし」という状態となったのである。 細川氏は最後まで将軍権威を必要としたが、長慶は必要としなかった。これが「三好長慶政権」の特徴だ。 このような政権を樹立した三好長慶のもとで台頭したのが、松永久秀である。 久秀の前半生は、まったくわかっていない。一応、永正7年(1510)とも、永正5年(1508)の生まれともされ、出身地は山城国西岡や摂津国五百住など諸説あり、定かでない。 確かなことは、久秀が天文10年(1541)より前に、三好長慶の配下に加わったことである。その翌年、久秀が軍勢を率いて南山城に攻め込んだことが、文書から確認できるからだ。 当初は三好長慶の右筆(書記役)を務めていた久秀だが、やがて弟の松永長頼とともに軍事面で力を発揮していき、その地位を高めていく。特に天文20年(1551)4月には、三好長慶と敵対する細川晴元を相国寺の戦いで打ち破っており、久秀の株は大いに上がった。 永禄2年(1559)には、三好長慶の命を受けて大和に攻め込み、筒井氏の所領や、大和守護の座にあった興福寺の所領を奪って、大和の統一を進めていく。 その頃から久秀は、大和の西に位置する信貴山城を本拠とし、永禄3年(1560)には奈良に多聞山城を築いている。 こうして大和を支配した久秀は、寺社、大名、公家、あるいは幕府との交渉に力を発揮するなど、「三好長慶政権」のトップに近いところまで昇っていった。それは、三好長慶が久秀の実力を認めていたということでもある。 譜代の家臣でないにもかかわらず、久秀は永禄4年(1561)、三好長慶と同じ従四位下の官位を与えられ、将軍・義輝からは足利氏の桐の紋の使用も許された。 外様や身分の低いものを登用するとき、普通は名門家の名跡を継がせることが多い。しかし久秀は、松永姓のままで異例の待遇を得たのである。 三好長慶には、従来の古い秩序には囚われないところがあったようだ。そのあたりも、織田信長に似ていたと思われる。







(私論.私見)