2004年代当時 |
【故田中角栄元首相の秘書・早坂茂三が死去】 |
6.20日、故田中角栄首相秘書で政治評論家の早坂茂三(はやさか・しげぞう)氏が、肺がんのため東京都中央区の病院で死去した(享年73歳)。 早大卒業後、東京タイムズの政治部記者から、62年に当時蔵相だった田中元首相の大臣秘書官になり、その後も政務担当秘書を務めた。85年に田中元首相が脳こうそくで倒れたのをきっかけに独立し、政治評論家として活躍した。著書に「オヤジとわたし」、「田中角栄回想録」、「宰相の器」などがある。(毎日新聞) |
【鈴木善幸元首相が死去】 |
2004.7.19日、自民党の元衆院議員で元首相の鈴木善幸(すずき・ぜんこう)氏が逝去した。93歳だった。 1911年1月11日、岩手県山田町生まれ。網元の家に生まれた。35年、農水省水産講習所(現東京海洋大)を卒業した。漁業組合運動に身を投じ、32年、三陸海岸一帯を襲った大津波を目のあたりにしたことが政治家を志した。47年4月の総選挙に社会党公認で出馬し初当選。社会革新党をへて民主自由党に移った。吉田茂元首相の率いる次回総選挙から民自党(当時)に転じて以後、連続16回当選を果たした。 その間、52年に自治政務次官、60年には第1次池田内閣に初入閣して郵政相。64年、第3次池田内閣の官房長官に就任。病気退陣した池田氏から佐藤栄作氏へのバトンタッチに裏方の一人として尽力した。 その後も佐藤内閣で厚相(第2、3次)を務め、68年から9期、自民党総務会長。官僚出身者の多い「宏池会」にあって、党人派として他派とのパイプ役を積極的に果たし、大平内閣の実現に力を注いだ。厚相、農相、党総務会長などを歴任。福田内閣では農相として日ソ漁業交渉を仕上げた。通算当選16回。党務では、68年以来、総務会長を繰り返し務め、党内の「まとめ役」だった。 80年6月、衆参同日選挙のさなかの大平元首相急死のあと、宏池会を引き継ぎ、従来から太いパイプのあった田中角栄元首相の後押しで、7月、第70代首相に就任。2年4か月の首相在任。80年から2年あまり首相を務め、行革・財政再建に取り組んだ。首相指名を巡る「自民党40日抗争」で深刻な亀裂の入った党内の融和を目指し、「和の政治」を掲げ、内政では政策面では大平内閣の行革・財政再建路線を踏襲し、「増税なき財政再建」、「84年度までの赤字国債脱却」を公約に掲げた。マイナス・シーリングによる予算編成を行う一方、土光敏夫経団連名誉会長(当時)を会長とする臨時行政調査会(第2次臨調)を発足させ、歳出削減に取り組んだほか、国鉄など3公社の分割・民営化の答申を受け、道筋をつけた。行財政改革に取り組み、参院選の全国区を比例選に改める公職選挙法の改正などの業績を残した。 しかし、81年5月の鈴木訪米の際の日米共同声明に盛り込まれた「日米同盟関係」の表現をめぐって「日米同盟には軍事的な意味は含まない」との解釈を示し、首相と外務省が対立、伊東正義外相(当時)が辞任。ワシントンでの記者会見で「シーレーン防衛」を約束し、日米共同研究に道を開いた。文部省の歴史教科書の検定に対して中国、韓国が日本に抗議、決着まで1カ月以上もかかった。 総裁再選が確実視されていたにもかかわらず、82年10月12日、党総裁選で再選が確実視される中、「退陣することで党内の結束と融和、人心の一新を求めたい」と電撃的に表明。総裁選への不出馬を表明、退陣した。財政再建などの公約実現が困難になるなど政策課題が行き詰まったことや、内政、外交面での行き詰まりが首相退陣の引き金になったと言われた。しかし、赤字国債の追加発行に追い込まれ「赤字国債脱却」の公約は破たん。日米共同声明の解釈をめぐる81年5月の伊東正義外相辞任や、82年夏の教科書検定問題などで外交手腕にも疑問が投げかけられ、同年10月、党総裁選不出馬を表明、退陣した。 その後、84年秋の総裁選で中曽根康弘氏の再選を阻止するため、竹入義勝・公明、佐々木良作・民社両委員長らとともに“二階堂(進氏)擁立劇“を画策。衆参同日選後の86年9月、派閥は宮沢喜一氏(当時蔵相)にゆだねた。89年10月、田中角栄元首相の政界引退から2週間後、突然「世代交代の大きな波は着実に進んでいると肌で感じている」と政界引退を表明、90年2月の総裁選に出馬せず、後任に長男俊一氏を充てた。(毎日新聞) [7月19日22時4分更新] |
【2004.8月時点の自民党各派の新勢力】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2004.8.5日、旧橋本派、二階グループ以外の自民党各派・グループの定例の会合が開かれ、参院選で初当選した新人議員の入会があり、各派の新勢力がほぼ確定した。日本歯科医師連盟からの1億円提供問題で揺れる旧橋本派は最大派閥にとどまったものの、参院選前から10人減の83人。小泉純一郎首相の出身派閥の森派は参院選前より6人増の77人と、参院選敗北の中で「独り勝ち」の状況で、他派閥からは「膨張主義」との指摘も上がる。 ◆自民党派閥の新勢力(5日現在)◆
|
【訃報:四元義隆さん96歳=元三幸建設工業社長】 |
6.28日、戦前の「血盟団事件」に連座し、戦後は歴代首相の「陰の指南役」と言われた元三幸建設工業社長、四元義隆(よつもと・よしたか)氏が老衰のため死去していたことが分かった。享年96歳。葬儀は既に近親者で済ませたという。自宅は神奈川県鎌倉市山ノ内419。 鹿児島県出身。東京帝国大法科(現東京大法学部)在学中から右翼思想を強め、1932年に井上準之助元蔵相らが暗殺された血盟団事件に連座して懲役15年の判決を受けた。恩赦で出獄後、近衛文麿元首相の書生や鈴木貫太郎首相の秘書を務め、戦後も、そりが合わなかったとされる田中角栄氏を除き、吉田茂や池田勇人、佐藤栄作、中曽根康弘、細川護煕の各氏らと親交を持ち、歴代首相の陰の指南役と言われた。 中曽根氏とはともに座禅を組んだり、85年8月の靖国神社公式参拝の際にアドバイスしたという。また、細川護煕元首相が神奈川県湯河原町に持つ「近衛山荘」の光熱費を三幸建設工業が一時期負担。乱脈経営で破綻(はたん)した旧安全信組の非常勤理事も務めた。細川氏が94年4月に辞任表明する2日前、中山素平、平岩外四両氏とともに東京都内のホテルで会い、退陣を進言したとされる。55年に三幸建設工業(東京都中央区)の社長に就任。2000年から会長となり、昨年4月に退任した。 |
【米国大統領選で不正集計露見する】 |
11.8日、米大統領選で電子投票を使った地区の中に、民主党員が圧倒的に多いのにブッシュ大統領が勝利したり、投票総数の6倍以上をブッシュ氏が得票するなど奇妙な現象が起きていたことが分かった。市民団体「ブラック・ボックス投票」によると、光学読み取り式投票機を使ったフロリダ州カルホーン郡では、登録有権者8350人中82.4%が民主党員で、共和党員は11.9%。 投票率71.4%での推計ではブッシュ氏709票、ケリー氏4911票だったが、結果はブッシュ氏3780票、ケリー氏2116票で、ブッシュ票が予測より433.2%も増えた。 一方、オハイオ州フランクリン郡ガハナ地区では、638人しか投票しなかったのに、タッチスクリーン式の投票機がブッシュ氏4258票、ケリー氏260票とはじき出した。 ジャーナリストのトム・ハートマンさんは「出口調査はケリー氏勝利を予測していた。出口調査と結果がかい離するようになったのは電子投票が導入されてからだ」と指摘。不正投票の疑いも含めて調査すべきだと訴えている。 (毎日新聞) - 11月8日0時0分更新 |
【日共の不破夫妻のデンマークのマルグレーテ2世女王夫妻招待の夕食会に招かれ参列】 |
11.17日、日共の不破夫妻が、東京元赤坂の迎賓館で、デンマークのマルグレーテ2世女王夫妻招待の夕食会に招かれ参列した。日本側の主賓は天皇皇后夫妻で、夕食会への参加は、日本の政党関係では不破夫妻だけだったとのこと。不破は、見知っている人として俳優の岡田真澄氏や外務省から宮内庁に移っていた役人がいたと伝えている。(筆坂秀世著「日本共産党」141P参照) |
![]() |
なぜ不破が招かれたのか、何やら臭い。 2006.4.21日 れんだいこ拝 |