2003年代当時



 (最新見直し2010.05.15日)

【木村喜助弁護士逝去】
 1.26日、木村喜助(きむら・きすけ=弁護士)氏が腹部大動脈破裂のため死去(享年74歳)。

 検事を経て、67年に弁護士登録。ロッキード事件で受託収賄罪などに問われ1、2審有罪となった田中角栄・元首相=上告中死亡=と、外国為替法違反で有罪が確定した榎本敏夫・元首相秘書官の弁護人を務めた。著書に「田中角栄の真実」などがある。[毎日新聞1月27日] ( 2003-01-27-22:07 )



 2月、週刊新潮2月27日号が、「『革マル派幹部』の釈放要望書に署名した5人の国会議員」と題する記事を掲載した。


【リクルート事件で、江副浩正被告に有罪判決】
 3.4日、リクルート事件で、江副浩正被告に有罪判決。

 リクルート裁判:事件から14年 政界の金権体質変わらず

 江副浩正被告に4日有罪判決が出たリクルート事件は、政財界にまたがる構造的な金権体質をあぶり出し、当時の竹下登政権を退陣に追い込むなど、その後の政治改革論議のきっかけになった。しかし、その後も東京佐川急便事件、ゼネコン汚職、KSD事件など「政治とカネ」の問題は絶え間なく続き、江副被告一審判決と同じ4日には自民党の坂井隆憲衆院議員の政策秘書が政治献金を不正処理していた疑いで逮捕された。リクルート事件から14年。政界の自浄能力の欠如は、今なお変わっていない。

 「リクルート事件から今日までいろんなカネにまつわる問題が続いている。しっかりそのことを受け止め、反省しながらやっていきたい」

 自民党の青木幹雄参院幹事長は4日の記者会見で、江副被告有罪判決の感想を語った。青木氏が秘書を務めた故竹下元首相は、故青木伊平元秘書らがリ社の未公開株(1万2千株)を受け取っていたことが引き金となって89年4月に退陣表明に追い込まれた。自民党は同年7月参院選で大敗。さらに92年に発覚した東京佐川急便事件をきっかけに竹下派(当時)が分裂し、93年には一時野党へと転落した。リ事件によって政界再編、連立政治の幕は開いた。

 94年には衆院の小選挙区制が導入され、95年1月から政党助成金制度がスタート。99年12月の政治資金法改正では、政治家個人への企業・団体献金が廃止された。しかし、カネのかからない政治の実現にはほど遠かった。中村喜四郎元建設相(94年・ゼネコン汚職事件)、中尾栄一元建設相(00年・旧建設省発注工事事件)、村上正邦元労相(01年・KSD事件)、鈴木宗男元官房副長官(02年・北方四島支援事業事件)と、自民党の実力議員が次々と逮捕された。今年も大島理森農相元秘書の口利き疑惑や、自民党長崎県連の違法献金事件が政権党を揺さぶっている。

 坂井議員の秘書逮捕が江副被告判決と重なったのは象徴的だ。未公開株を媒介にした「濡れ手で粟」に代わって、カネ作りの方法もさまざまになり、構造的体質にはほとんど変化がない。福田康夫官房長官は4日の記者会見で、坂井議員の秘書の事件について「また秘書にまつわることで、極めて遺憾に思う。政治全体の中でどうすべきかを考えていかなければならない」と語った。

 小泉純一郎首相は昨年来、公共事業受注企業からの献金制限を訴えているが、与党側は「企業献金は悪ではない」と及び腰だ。リクルート事件の風化とともに、金権体質を改善しようという意欲も失われている。

   【小林雄志】[毎日新聞3月5日] ( 2003-03-05-02:35 )



 3月、米英によるイラク戦争開戦。




 5月、終戦宣言。




 5.6日、個人情報保護関連5法案決議される。




 5.15日、イラク戦でブッシュが勝利宣言をした2週間後、有事法制関連3法案が衆議院で決議される。記名投票でなく、起立で民主党も含めた9割が賛成し通過した。6.6日、参議院でも通過する。アメリカでは、日本はついにルビコン川を渡ったと報道された。ここに、日本が「戦争をする国」への法的整備を完了した。来栖発言以来、軍事派の求め続けてきた有事関連法が成立した意味は大きい。


【思想史家の藤田省三さんが死去】
 5.28日、戦後を代表するリベラル派知識人の一人で、思想史家・元法政大教授・の藤田省三(ふじた・しょうぞう)さんが5月28日、肺炎のため亡くなった。75歳だった。

 1927年愛媛県生まれ。東大法学部卒後、法政大教授などをつとめた。東大時代の師の丸山真男氏の学問的系譜を受け継ぎ、西欧近代主義的な価値観を尺度に、「天皇制国家の支配原理」(66年)、「維新の精神」(67年)などで、天皇制、明治国家の体制原理などを分析、批判した。

 また、鶴見俊輔氏、久野収氏との共著「戦後日本の思想」(59年)、思想の科学研究会で取り組んだ「共同研究 転向」(59〜62年)でも知られる。60年安保では、知識人グループの一人として活動した。

 その後は、現代日本の精神的退廃を「『安楽』への全体主義」と名づけて絶望しながら、その思想的克服を模索する文章を総合雑誌などに発表した。「藤田省三著作集」全10巻(みすず書房)がある。

 天皇制の精神構造の分析転向研究で知られる思想史家。丸山真男氏に師事して政治思想史を学び、その学問的系譜を継ぎ、戦後を代表する思想史家として知的探求を続けた。近現代日本の政治体制の研究で知られ、市民運動にも参加。主著「天皇制国家の支配原理」で明治国家の体制原理を批判。また、井上清、遠山茂樹さんら戦後の歴史学研究会のメンバーや鶴見俊輔さんに影響を受けた。思想の科学研究会編「共同研究 転向」全3巻で中心的役割を果たし、精密な状況論を書いている。ほかに「維新の精神」「精神史的考察」「藤田省三著作集」(全10巻)など。

【旧社会党書記長 久保亘氏が死去】
 6.24日、旧社会党書記長や橋本内閣で副総理兼蔵相などを務めた久保亘(くぼ・わたる)元参院議員が鹿児島市の鹿児島大付属病院で死去した(享年74歳)。

 鹿児島県出身。広島文理科大卒。高校教師、県高教組委員長などを歴任。県議を経て、1974年、参院鹿児島地方区で旧社会党から立候補し初当選。参院当選4回。土井たか子委員長時代の90年に副委員長、93年に村山富市委員長の下で書記長。自社さ政権で第一次橋本内閣の副総理兼蔵相として入閣した。

 社民党でも「民主主義・リベラル新党」結成を提唱、新党運動の推進役を果たしたが、土井党首の路線に反発し、1997.1、同党を離党。民主改革連合を経て、1998.4月、新「民主党」結成に参加した。2001.7月、政界を引退した。同年11月、勲一等旭日大綬章。



 6月、警視庁公安部が、JR総連幹部の役員3名が、JR東海の助役に対する暴行容疑で、JR総連が本部を置く目黒さつき会館(旧動労会館、東京都品川区西五反田)を家宅捜索した。




 7.4日、イラク復興特措法成立。自衛隊派遣へ。




 9.3日、国会議事堂を雷が直撃。




 9.3日、警視庁公安部が、JR東労組員が「浦和事件で逮捕された7名の早期釈放を歌えるビラ」を東京都内のマンション内に不法に侵入しまいたとして、JR東労組本部などを家宅捜査した。




 9月、自民党総裁選で小泉首相支持派と独自候補の藤井孝男元運輸相支持派が対立。




 9月、総裁選で、亀井静香らに圧勝。第88代首相に再選される。中曽根、宮沢が引退。




 9月、初の訪朝。金正日総書記と会談。




 10.3日、テロ対策特措法改正案決議される。 




 10月、JR東労組とJR総連が、週刊新潮2月27日号の「『革マル派幹部』の釈放要望書に署名した5人の国会議員」記事に対し、発行元の新潮社を相手取り、東京地裁に損害賠償などを求め提訴した。この問題で、東京地裁は、記事の真実性、真実相当性を認め、JR東労組とJR総連の請求を棄却した。両者が控訴し、二審の東京高裁は、一審判決を支持し、且つJR革マル派問題を論じることの公共性、公益性をも認める判決を出した。JR東労組とJR総連が最高裁への上告を断念し、高裁判決が確定した。


【蒋介石夫人の宋美齢さんが死去 最後の「宋3姉妹」】
 10.24日、故蒋介石・台湾総統夫人の宋美齢さんが、米ニューヨークで死去(享年106歳)。中国現代史に名をとどめた「宋3姉妹」最後の生き残りだった。

 戦前の中国経済を支配した浙江財閥・宋家の3女として上海で生まれ、米国で大学教育を受けた。1927年に中国国民党指導者の蒋氏と結婚。蒋氏が内戦停止と抗日を求める張学良氏に捕らえられた36年の西安事件では、自ら西安に飛び、夫の釈放に奔走した。

 米議会での抗日戦争への支援を呼びかけた演説など、戦前、戦後を通じて対米関係で強い影響力を持った。49年、国民党が国共内戦に敗れて台湾に移ってからも、「中華民国」のファーストレディーとして華やかに活動した。75年に蒋氏が死去すると、台湾を離れ、米国に移動した。

 義子の蒋経国総統が死去した88年、台湾出身の李登輝総統が国民党の実権を握るのを阻止しようとしたこともあった。00年の総統選挙では国民党の連戦氏の支持を呼びかける手紙を発表した。だが、李政権下で進んだ民主化で「蒋王朝」時代は過去のものとなり、影響力は失われた。

 宋三姉妹の長姉、宋靄齢さんは中華民国財政部長を務めた孔祥熙氏と結婚。次姉の宋慶齢さんは「国父」孫文氏と結婚、中国共産党寄りの立場を貫き、後に中華人民共和国の副主席になった。それに対して宋美齢さんは「大陸反攻」を掲げた蒋介石氏に従い、3番目の夫人として結婚。

 日中戦争中の36年12月、抗日のため共産党との内戦停止を求める張学良(故人)が蒋を監禁した西安事件の際は夫の救出に急行、調停により蒋を釈放させることに成功した。1949年、共産党との内戦に敗れた国民党政権は台湾に逃れ、台湾海峡を挟んで姉妹が敵対した。蒋が75年に死去した後は主に米国に滞在した。



 11月、小泉政権発足後初の総選挙。自民党が議席を減らす。社民党は選挙前勢力の18議席から6議席に激減する惨敗を喫した。社民党の土井党首は小選挙区で落選し、比例区で復活当選した。




 11.13日、 社民党の土井たか子党首が党本部で記者会見し、総選挙での大敗の責任をとって、党首を辞任することを表明し了承された。 土井氏は記者会見で、概要「選挙は誠に厳しい結果で、党再生に全力をあげて立ち上がらなければならない結果だ。敗北の責任を負っているのは党全体の責任がある党首の私であり、党首を辞任することを決意した。今後については平和憲法を守り、社会的に弱い立場の側に立って行動するために、社民党の一議員として頑張っていきたい」とコメントした。




 11月、外交官2名がイラクで殺害される。




 12月、米軍がイラクのフセイン大統領とおぼしき人物を拘束。




 12.19日、イラク派兵の基本計画が発表された。航空自衛隊の先遣隊の派遣命令が出て、海上自衛隊と陸上自衛隊の待機命令が出された。この日、あわせて重要なことが三つ閣議決定された。ミサイル防衛網システム(MDシステム)導入、武器輸出禁止三原則の解禁、防衛計画の大綱の改定である。いよいよ戦時体制へと移ったことになる。














(私論.私見)