2001年代当時 |
【森田実・氏の指摘】 | ||
森田実・氏は2007.2.27日付けブログで次のように述べている。これを転載しておく。
森田実・氏は、22007.12.29日付けブログで次のように述べている。
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【小泉内閣発足、外相に田中真紀子氏!】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
自民党の小泉純一郎総裁は4.26日午後、衆参両院本会議での首相指名選挙で、衆院287票の圧倒的支持を得て第87代の内閣総理大臣に選出された。指名後、小泉氏は直ちに組閣作業に着手。一本釣り人事などで田中真紀子元科技庁長官氏を外相に起用。民間の目玉として竹中平蔵慶大教授を経済財政担当相、遠山敦子元文化庁長官を文部科学相に起用した。女性閣僚は過去最高の5人。「熟女政権」との見方もあるが、政策合意の混乱や一部派閥に偏った起用から、党内には「バーチャル政権」「森派重用政権」との批判もあり、小泉革命は波乱含みの船出となりそうだ。 「派閥にこだわらず、適材を適所に起用したい。それに尽きる。(組閣は)順調に進んでいくと思う」 小泉氏は組閣の朝、東京・高輪の議員舎前で記者団に決意をこう語った。 閣僚人事では福田康夫官房長官(再任、森派)と片山虎之助総務相(橋本派)、平沼赳夫経済産業相(江藤・亀井派)、扇千景国土交通相(保守党)、坂口力厚生労働相(公明党)、川口順子環境相(民間)、柳沢伯夫金融担当相(堀内派)らが再任となった。 財務相には塩川正十郎氏(森派)。小泉総裁誕生の最大の功労者である田中真紀子氏(無派閥)は外相ポストでの起用。また、尾身幸次幹事長代理(森派)らが再入閣した。 民間からは、経済戦略会議メンバーで構造改革論者である竹中氏が経済財政担当相に決まった。竹中氏は日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)出身の経済学者で森喜朗首相のブレーン。教育改革を担当する文部科学相には、森派に近い元文部官僚で、女性初の文化庁長官や駐トルコ大使を歴任した国立西洋美術館館長の遠山氏が決まった。 注目の真紀子氏は外相に決定。日中国交回復を成し遂げた故田中角栄元首相の長女として、教科書問題や農産物などのセーフガード(緊急輸入制限措置)などで緊張感が高まる日中関係改善に配慮したものだが、自民党と政府双方から「舌禍が懸念され、国益を損ねる危険が高い」と反対論も出た。
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SKの社会を語る
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第十二回 中曽根康弘の暗躍<前編> 小泉純一郎の圧勝により幕を閉じた自民党総裁選。新しい内閣支持率は85%(毎日新聞調査 4月29日)と、歴代最高である。国民の期待を一身に背負った小泉内閣であるが、その成立の背後には一人の元首相の影があった。その名は中曽根康弘、1982年から87年にかけて首相であった男だ。 今回の総裁戦において中曽根は最初自派(江藤・亀井派、志帥会)の亀井静香前政調会長を支持していた。しかし小泉優勢の状況になると、小泉と会談を持ったりしていつの間にか小泉支持になっていた。 実は亀井の出馬を促したのは他ならぬ中曽根である。中曽根は以前「亀井君を首相にしてみるのも面白いではないか」と発言したこともある。つまり亀井の支持者・後見人である。では何故中曽根は小泉支持に走ったのか。その前に中曽根とはどのような人物かを紹介する。 中曽根は政治家として改憲主義者・親米のタカ派に分類される。しかし中曽根には1つの特徴がある。それは状況に応じて最も適切と思われる行動を取ることである。そのためには以前の主張を平気で翻し、同士や仲間を平気で裏切る。そして上手く流れに乗り、最後には持ち前の策略と強運で自分の願望を果たすのだ。 そのため中曽根は「政界の風見鶏」と呼ばれた。政界入りしたときから首相になることを目標としてきた彼は、権力の表舞台に立つためなら手段を選ばなかった。まさに「変身・適応の人」である。1947年改進党に入党した彼は、1955年の自民党結成後河野一郎(河野洋平前外相の父)派に属していた。しかし河野の死後派閥を引き継いだ中曽根は、河野と対立していた佐藤栄作に取り入って初入閣を果たした。 その後「三角大福」(三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫)の4人が自民党内で権力闘争を繰り広げた1970年代、中曽根は彼らの中で上手く立ち振る舞った。時には田中・大平と、時には三木と、時には三木・福田と手を結ぶ相手を変え、中曽根は常に政治の表舞台にたった。そして1982年最終的には田中の力で首相になった。 内閣発足当初は田中の意向に沿った内閣を組閣して「田中曽根内閣」と批判されたが、田中が病で倒れると田中を見限って独自の内閣を組閣した。そして次世代のリーダー「安竹宮」(安部晋太郎、竹下登、宮沢喜一)を翻弄して1987年前首相の指名という形で竹下内閣を発足させた。その後田中派を引き継いだ竹下派(経世会 現在の橋本派 平成研究会)が数と金の力で自民党を支配するようになっても、経世会の実力者金丸信や竹下にひけを取ることなく、自らの影響力を保ちつづけた。 現在82歳の中曽根は、高齢になっても決して政界を引退することなく相変わらず縦横無人の活躍を続けている。ライバルだった大平、三木、田中、福田、金丸、竹下は既にこの世にいない。もはや自民党に中曽根に対抗できる者は完全にいなくなってしまった。そんな中曽根が狙うのは改憲という自らの主張の達成である。 ひところ流行った「石原新党結成」にも中曽根の意向が働いているという説がある。国民的人気の高い石原慎太郎東京都都知事を中心に鳩山由紀夫民主党党首や小沢一郎自由党党首、自民党の森派や江藤・亀井、山崎派ら憲法改正を主張する者達を一致させて改憲を行う。それが中曽根のもくろみである、という説だ。真偽の程は定かではないが、中曽根なら考えそうなことである。 このように中曽根という人間を分析するとその野望には果てがなく、常に自分の都合のいい行動を取っていることが分かる。それでは本題に戻ろう。今回の総裁戦における中曽根の行動にはどのような意図があったのだろうか。私なりにまとめてみた。 「総裁戦が間近に迫った3月、自民党内には次世代のリーダーとして平沼赳夫経済産業相を総裁候補として擁立する声があった。しかしこれに反対するものがいた。亀井と中曽根である。数と金の力に頼らない小泉が総裁となった現在とは状況は違うが、当時は政権運営には最大派閥橋本派の協力が必要不可欠であった。仮に平沼が総裁になると、1989年に発足した海部俊樹内閣と同じ状況になってしまう。 経世会の力を借りて首相になった海部は派閥(河本派 現在の旧河本派)のナンバー2であった。ナンバー2が総裁になったため、世代交代の流れにより派閥の会長であった河本敏夫は総裁になる機会を失ってしまった。また海部は経世会の傀儡として自らの意思を反映できない弱い総裁に甘んじなければならなかった。そして経世会の意向により海部は政権から降ろされると河本派は派閥としての力を失い、現在では13人という弱小派閥になってしまった。 平沼は現在派内ナンバー2の存在である。もし平沼が総裁となれば、派閥の親分亀井は総裁になる機会を完全に積まれてしまう。そして江藤・亀井派は最大派閥橋本派の意向に飲み込まれてしまい、派閥としての独自性を確保できなくなる。そうなれば江藤・亀井派の後見人中曽根の影響も必然的に低下する。それでは困るということで、亀井は自らが派閥の代表として権威を保ちつづけるため、中曽根は党内の影響力を保持しつづけるために、平沼を降ろして亀井を総裁候補として総裁戦に出馬させたのだ。 つまり亀井の出馬は派閥の親分としての権威と派閥の影響力を保つためだけのものに過ぎなかった。最初から勝つための出馬ではなかったことになる。その証拠に小泉優勢の状況になると小泉総裁の下重要ポストを狙うため亀井は本選を辞退し、中曽根は小泉と会談して小泉指示を打ち出す。小泉は総裁戦時に「靖国神社参拝」、「憲法第9条改正」と中曽根の主張にあった意見を発表している。中曽根にしてみても自分の願望をかなえられる内閣に影響力を残すのは得策であると判断したのだろう。」 以上が総裁戦における中曽根の行動分析である。首相を引退した後でも中曽根は「風見鶏」として振舞っている。今回の総裁戦の行動により、中曽根は今後の小泉内閣においても少なからず影響を与える存在となるであろう。 しかし中曽根はこれまでの風見鶏的な振る舞いにより、戦後政治に数々の悪影響を及ぼした人物でもある。これに関する詳細は次号掲載する。 【開発俊輔】 |
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第十一回(総裁予備選と金権主義) 第十回(小泉純一郎と三木武夫) 第九回(ポスト森の有力候補たち) 第八回(田中角栄待望論にひとこと) 第七回(自民党の存在意義) 第六回(永田町迷言録) 第五回(「灰色」の権力者たち) 第四回(村上元労相逮捕) 第三回(白川勝彦氏の新党構想) 第二回(宏池会分裂劇) 第一回(エストラダ大統領辞任問題) |
【米国・同時多発テロ】 |
9.11日午前(日本時間同日夜)、米国の経済中心地ニューヨーク・マンハッタン島南部の世界貿易センタービル2棟と首都ワシントン郊外にある国防省ビルにハイジャックされた飛行機が激突(前者に二機、後者に1機)、その他ペンシルベニア州などでもテロ発生が伝えられており、同時多発テロが発生した。計約3千人が死亡又は行方不明となった。今のところ犯行声明が出されておらず、今後の成り行きが注目されている。 |
【張学良氏死去】 |
10.14日午後8時55分(日本時間15日午後3時55分)、国民党と共産党の抗日統一戦線結成への歴史的転換点となった「西安事件」の主役、張学良(ちょうがくりょう)氏が滞在先の米ハワイの病院で14日肺炎のため死去した(享年100歳)。
中国遼寧省生まれ。1928年に東北軍閥の巨頭だった父張作霖(ちょうさくりん)氏が日本の関東軍によって爆殺されたため、東北軍総司令に就任。36年12月、西安で国民党の蒋介石・国民政府軍事委員会委員長(当時)を監禁し、抗日のため共産党との内戦停止を迫った「西安事件」を起こした。同事件は共産党が周恩来氏らを派遣して調停に当たり、抗日統一戦線が実現。これをきっかけに日中全面戦争となり、37年の盧溝橋事件へと広がった。張氏は事件の責任を問われて軍法会議にかけられ、禁固10年の判決を受けた。49年の中華人民共和国成立後は台湾に移され、90年まで軟禁生活が続いた。93年から台湾を離れ、趙一荻(ちょういちてき)夫人とハワイで暮らしたが、夫人は昨年6月に死去している。 |
「革マル派の非公然活動家である被告両名が、同派の独善的主張に基づき、内ゲバ等に備えるため、対立する中核派構成員の氏名、行動情報等を調査した行為は、極めて反社会的である。(中略)革マル派の電通労働者委員会の『パラソル会議』では、盗聴等の犯罪行為が報告されており、今回と同様の行為が全国的に行われてきたと考えられる。これは氷山の一角である。(中略)今回の犯罪は革マル派による計画的犯行である。NTTの信用にとどまらず、国民の通信に対する信頼を侵す行為であり、社会的にも責任は非常に重い。重要な個人情報が革マル派に知られることは由々しき事態である。(中略)両名に反省の情はまったくない。今後も革マル派の利益の為に行動することは必至である。 Y被告は、国鉄から昭和63年にNTTドコモに就職したが、革マル派組織のための非合法活動を続け、『パラソル会議』でも主賓の扱いだった。I被告に電話番号のメモを渡して情報漏洩を依頼しており、責任はより重大である。I被告は国鉄から昭和63年にNTTに就職したが、同様に革マル派のための非合法活動を続け、同派の電通労働者委員会の責任者として重要な役割を担ってきた」。 |
【革労協狭間派の最高幹部・革労協現代社派議長・狭間嘉明氏、肝臓がんで病死】 |
12.8日、革労協狭間派主流派の狭間嘉明・最高幹部(55)が川崎市内の病院で病死していたことが10日、公安当局の調べで分かった。狭間幹部は肝臓がんで昨年から入退院を繰り返していたという。公安当局などによると、狭間幹部は九州大学中退後、革労協の幹部に就任し、革労協が路線を巡って分裂した1981年、議長として狭間派を結成した。革労協狭間派は中核派、革マル派とともに過激派の主要勢力。公安当局は「ここ数年は患っていたことから、最近は直接指導する状況にはなく、組織に大きな変化はないのでは」とみている。 革労協は69年に結成され、81年6月、闘争方針の違いから、狭間幹部ら軍事優先路線を唱えるグループ「狭間派」と大衆闘争を重視するグループ反狭間派とに分裂した。狭間派は成田空港反対、反皇室闘争などを掲げ、ゲリラ事件を起こした。90年11月即位の礼に反対し、東京都内の警視庁独身寮に爆弾を仕掛け、警察官1人が死亡、7人が重軽傷を負うゲリラ事件を起こした(警視庁独身寮爆破事件)。「革命軍」名で犯行声明を出し、警視庁が同派の犯行と断定した。99年5月に、裁判闘争をめぐる対立からさらに分裂。狭間幹部が率いる主流派と反主流派に分裂、激しい内ゲバを繰り返し、これまで13件の内ゲバ事件が起き8人が死亡している。 |