449―1252 朝鮮動乱発生前後の動き

【祖国統一民主主義戦線時代】
 「祖国統一民主主義戦線」とは、1949.6.25日から28日まで平壌で開かれた会議によって結成された。1946年に南北朝鮮のそれぞれの地域に別々に組織されていた「民主主義民族統一戦線」を単一の組織に一本化したものである。これは1949.3月から朝鮮戦争の準備の為に各方面に手を打っていた金日成が、戦争勃発にあたってその手足に使うために南北両地域の大衆組織を一本化したものである。戦争準備のきわめて重要な一環である。同戦線は北朝鮮において、立法機構である最高人民会議の代議員選出資格を認められている。

 この祖国戦線の結成大会で中央役員に日本から韓徳銖ただ一人が抜擢された。1949.8.15日に平壌特別市・朝鮮民報社で印刷され、祖国統一民主主義戦線中央常務委員会書記局によって発行された「祖国統一民主主義戦線結成大会文献集」(朝鮮語版)によると、中央委員99名の名簿一覧があり、韓徳銖は81番目に位置している。82番目は朝鮮民主主義人民共和国の副首相の洪命熹であり、韓徳銖はそれより一つ上位である。

【「朝連」の北朝鮮志向】

 「朝聯」は結成とともに親北朝鮮路線を指向し、北朝鮮の対日本外交での掛け橋の役割と、在日同胞の親北朝鮮化の先頭に立ちながら、北朝鮮に対する忠誠と支援活動を多角的に行ってきた。


【朝聯の強制解散】

 共和国創建1周年を迎える前日の1949.9.8日、GHQの指示を受けた法務府は「告示第51号」を出し、朝聯と在日本朝鮮民主青年同盟(民青)に対し「団体等規正令」を適用して解散命令を下す。こうして「朝連」は強制解散させられた。その対象範囲は朝聯と民青の中央本部、府県本部、支部、分会のすべてにおよんだ。占領軍の命令に反抗し、暴力主義的活動を行ったということがその根拠で、具体的事例として48年の共和国旗掲揚闘争や阪神教育闘争などを上げていた。

 解散と同時に朝聯中央総本部議長団のメンバーであった尹槿や韓徳銖・現総聯中央議長、顧問の金天海をはじめ19人、民青は南廷揚委員長を含む9人が公職追放処分を受けた(幹部36名の公職追放とある)。同告示で民団宮城県本部および建青塩釜本部にも解散命令が出されているが、これは朝聯、民青の弾圧を合理化する手段にすぎなかったとみなせる。

 この時、法務府は「解散団体の財産の管理及び処分等に関する政令」により朝聯の全財産(見積価格は当時の金額で2500万円相当)を接収している。接収財産には建物78棟、土地2万6815坪、現金16万8763円61銭、預金207万6225円50銭、有価証券類、そして机や什器、消耗品など組織が所有するすべての財産が含まれていた。 接収過程では同胞の住居や協同組合が置かれていた「台東会館」を強制接収しようとして、会館を死守しようとした同胞と武装警官が衝突した事件(「台東会館事件、50年3月」)なども起きている。

 また当局は朝聯解散直後、朝鮮学校337校に対しても閉鎖または改組通告を出し、強制閉鎖に踏み切っている。この弾圧で朝鮮人学校はほとんど改組・閉鎖処置をうけ、52年4月現在、わずか五校のみ認可された。朝鮮人学校は48年初頭が最盛期で、48年の弾圧で学校の半数と生徒の3割が失われ、さらに49年の弾圧で、残りの学校の半数と生徒半数以上が失われた。つまり少なくとも計35,000人の児童が民族教育の場を奪われ、これは以後の民族教育に大きな打撃を受けることになった。


 日本の新間報道言論等はこぞって弾圧を肯定的にとらえている。翌9.9日の朝日・毎日・読売等の論調がそれを証左している。韓徳銖「日本との友好交流のために」(『新朝鮮』6二頁、1955.9月)に拠れば、「(弾圧反対をとなえたのは)あるごく少数の共産主義者、それに同情する者以外にはあんまりなかった」とある。

 この弾圧は、在日朝鮮人の生活に直接の打撃を与た。李殷直「団体等規正令の陰謀を衝く」(「民主朝鮮」37頁、1950.5月)は次のように証言している。

 「朝連が解散されたとたんに、日本のヨタ者の親分連中が、もう朝鮮人なんか何でもないという意気込みを露骨にみせてきていて、そのために朝連関係の大衆が商売が出来ないというような打撃を受けているのです。それからまた、肉体労働をさせるような場所においても、なるべく朝鮮人を使わないというような事が現れて来ています」。

 日朝協会理事畑中政春は当時の日本人の気持を次のように述べている。

 「朝鮮人は早くいうと、弱い者いじめする朝鮮人一という形で第一期は映ったと思うんですよ。ところが今度はもっとも日本人が強いと思い、もっとも恐れていたアメリカのMPと真正面からぶつかっとるという朝鮮人を見た場合に、これは弱い者いじめをしておったと思っていた朝鮮人ではない、いちばん強い者にもぶつかっておる―こういう具合に日本人に印象づけられたと思う。その場合ある人は、英雄的に感じ、またある人は冒険主義的、極左的なものと感じた」、「しかし、その驚異はすぐ同情となり協力に発展するというところにはやっぱりゆかないですよ。いままでひどい奴だと思っておった人間がずいぶん変ったこともやるな、というので驚異を感じているという段階なんです。(『新朝鮮』1955.9、6二〜3頁)。

 結果的に弾圧する側が、日本社会の民族排外主義を利用し、再に朝連を単に「暴力主義」団体である如く宣伝することにより弾圧を合理化し、日・朝離間の楔を打ちこんだことになる。

 
この時期の闘争で民団側は、「大韓民国」の国号の採用を要求して20日間ほど中央交渉を行っている。日本政府は外国人登録中の「朝鮮」というのは全Koreaという意味であるとして採用を拒否している。しかしのちにGHQの圧力により、実体をもたないが「大韓民国(韓国)」の使用を認めている。


在日朝鮮人のその後の動き
 これに対し、抗議運動と行政訴訟をもって抵抗を図るが、「訴訟」自体も団規令の「枠外」として認められず、おしきられてしまう。朝連解散の政治的意味は何であったのか。朝連は北・共和国の成立以後、北国旗闘争などを敢行し、共和国支持の立場を明かにしてきた。1948年の阪神教育闘争においては米軍との衝突を起している。こうした経過から団体規正令の最初の適用として朝連に弾圧が加えられた。以後「レッドパージ」ははげしさをまし、日本のファッショ化を促成していくことになる。

 
朝連解散後の在日朝鮮人運動は三六人の幹部公職追放・財産接収・朝鮮人学校閉鎖処置により打撃をうけるが、組織再建運動は既存の団体を利用しながらなされた。それは朝鮮人団体協議会結成(五○.四)から朝鮮戦争勃発を機に在日朝鮮統一民主戦線(民戦)結成へと展開する。

【「朝鮮戦争」勃発】

 1950.6.25日、突然、朝鮮において軍事衝突が勃発し、いわゆる「朝鮮戦争」が始った。北では初期「祖国解放戦争」といい、南では「韓国動乱」とよばれた。今日では、スターリン・毛沢東の承認・指令の下に金日成を指導者とする北朝鮮の方から仕掛けた祖国統一戦争であったことが判明している。

 在日朝鮮人の関心は戦争に釘づけされた。ニ日後には当初予定の在日朝鮮民主民族戦線(=民戦)の結成を先行するかたちで、祖国防衛委員会(のちに「隊」も)が結成され、従来の日共中央民対がその指導部分を構成した。右翼民団においても八月に在日韓僑自願軍本部設置がなされ、のちに直接、戦争に参加している。思想的には異なるが朝鮮戦争は左右の朝鮮人に積極的な行動をとらせている。


【民戦時代】

 北朝鮮系在日朝鮮人は、朝鮮戦争勃発半年後に当たる1951.1.9日に在日朝鮮人の統一戦線体として「在日本朝鮮民主主義統一戦線(民戦)」を非公然に結成した。この組織は、日本を占領した連合国総司令部(GHQ)の指令により1949.9.8日に解散させられた在日朝鮮人連盟(朝連)にかわる合法的な組織で、「朝聯」が瓦解したのちのさる1950.6.16日、朝聯系幹部60余名が集まり、北朝鮮の「祖国統一民主主義戦線(祖国戦線)」の路線に従う「在日本朝鮮民主民族戦線準備委員会(民戦準備委)」を結成し、6.25戦争が勃発すると「在日本朝鮮統一民主戦線(民戦)」と改称した。

 そこから、「民戦」が朝鮮戦争時期の北朝鮮系・左翼系在日朝鮮人のすべての運動を担うことになる。この時綱領中に「我々は朝鮮民主主義人民共和国を死守する」を掲げている。1年後の1951.12月の第2回民戦大会では前綱領中から「共和国を死守する」の項が削除されている。これは指導部内の対立の結果の表われであり、また大衆次元の意識を反映したものであろう。事実、民戦は北と一線を画する「中立」系民族主義者達(統一民主同志会)もひきいれ、重要幹部にするなど戦線拡大の方針を取っている。

 しかし、これが原因で韓徳銖らの批判が展開される。論議は三月の民対側の反批判、四月の韓らの再批判に表われている。韓らの批判は「朝鮮民主主義人民共和国を承認しないものは、それが反米、反李承晩、反吉田勢力であっても、民戦の構成員とすべきでない。」また「愛国的か人民的かを判断するのは、共和国の政策と施策をかかげて闘うか闘わないかにかかっている。」「反動吉田内閣打倒は内政干渉である。」などである。

 これに対し民対側は、「共和国の守護防衛を防害しているかのように歪曲している」、「吉田内閣打倒が内政千渉というのは妄言である」というような反批判で答えている。この議論はのちに、国際的変化(=平和共存)、日共路線転換、共和国の海外公民規定などにより、韓らの共和国の権威をかりた批判が勝利することになる。






(私論.私見)