449―141 宮顕系日共のその後の対北朝鮮路線
 これは推測であるが、「在日朝鮮人の帰国事業」が一段落するまでの期間、宮顕党中央は北朝鮮楽園論にシフトし、これが一段落するや排外主義的な民族主義政党の原則的立場に戻ったのではなかろうか。「帰国事業」は、1959(昭和34)年より1971(昭和46)年までをピークとするので、この期間は比較的良好な党関係が維持されていたのではないかと思われる。「帰国事業」の一段落後、日共が如何に手のひらを返していくか、これがその後の「宮顕系日共のその後の対北朝鮮路線」となる。


 1973年「赤旗」が平壌から撤退。「覇権主義的な干渉と攻撃」を受けたとして朝鮮労働党と対立。

 1983年ラングーン事件で断交状態へ。代わって、社会党が朝鮮労働党と友党関係を築いていくことになる。

 1985年頃の関係が次のように明かされている。平和友好祭の国際版であり、世界の民青・共青や学生団体、先進国のマイノリティ青年組織などが一堂に会し交流する「第12回世界青年学生祭典(於:モスクワ)」(中国とアルバニアの共青等は一切ボイコットしていた)が開かれ、社青同や総評青年部、日本青年団協議会、文団連(うたごえ団体など)とともに民青同系全学連(団長・小池晃・東北大、現参議院議員、副団長・千田善、現バルカン研究家)も参加した。


 [JCPW掲示板]で「わかもの社」氏が2001.5.11日付け投稿「朝鮮半島への私的関わり/あるいは、左翼の「優先順位」思想について (1)」が次のように記している。

 
 全学連代表団はモスクワ出発前に東京本郷のふたき旅館で2泊の合宿をしましたが、実に、そこで厳命されたのが「北朝鮮代表団との接触禁止」でした。和田正名氏だったと思いますが、旅館に講演に来ていただいて、72年に北朝鮮当局が「日本の民主勢力」に対して、キムイルソンへの「誕生祝い運動」をするよう押しつけてきたのが、現在の音信不通状態の発端、という説を初めて聞いたのが、この時でありました。

 ぼくは、学生自治会の代表として来ているのだから、どこの人とでもとにかく交流して、それで自分なりに学生に報告したほうがいいんでは?と、中坊以来の共産マニア性を感じながら講演を聴いていましたが、当時は教条的党員(!)だったし、接触禁止は全学連内党グループとしての指令でもあったので従いました(が、関心は抑えきれなかった ^^;)。

 祭典では、初日の五輪スタジアムで就任まもないゴルビーの演説があり、彼がその場で一方的核凍結を宣言するなど、一般マスコミでもちょっとしたニュースになりました。全学連代表団は、祭典日程を通じてサンディニスタのニカラグアやベトナム、主催国ソ連の各団体と交流・討論しましたが、他方であらゆる機会を捉えて「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」署名を採りました。実はそのなかで、偶然ですがある討論の席で北朝鮮の学生と隣り合わせになり、署名してもらったあと若干の対話になったのです。何のことはない、在日で関西の私学に行ってる人でした。北朝鮮の公民として祭典に参加しているとのこと。「アノ国は分かり難い」どころか、身近なので驚きました。

 さて宿舎に帰ってから、団長の小池氏に顛末を報告したのですが、まあそのくらいの接触はしゃあないという弾力的な返事。彼は今はどうかわかりませんが、代々木の石頭を批判したり、署名数ばかりに気を取られて他国の青年と満足に交流しない民青代表団を「成果主義」だといったり、当時は教条的でない人物としてまぁ内輪ではウケてました。

 さてぼくは石川県の学校に行ってましたが、帰国してほどなく、県内・小木(おぎ)漁港から出た漁船が、公海上で北朝鮮警備艇に銃撃される事件が起きました。わが党石川県委員会は、小木を訪れ、朝鮮労働党や国家と日本共産党とは厳しく関係を絶っている旨伝えていましたが、北朝鮮とわが党とは所詮同根なんじゃないかという偏見に苦労していたのを見て、感心していました。もうこのころには、チュチェ思想批判等のわが党パンフも出揃い、70年前後の軋轢の経緯を知ることができました。





(私論.私見)