449―122 | 戦後の南朝鮮人民闘争史 |
1943年末のカイロ宣言で、早晩日本帝国主義の敗北が必至であることを朝鮮人民は確信した。以降、解放の日を信じての地下活動が開始されていくことになる。呂運亨らが細心の注意を払いながらソウルを本拠地とする建国準備委員会をつくっていくことになる。相前後して各地方の郡単位にも指導機関が生まれている。 8.15日「解放の日」となった。「建国準備委員会」(委員長・呂運亨、副委員長・安在鴻)が設立され、政府樹立までの過渡的準備機関となった。「建国準備委員会」は、民族主義左派、社会主義勢力ら独立運動闘争経歴の持ち主らで構成されていた。 この日、「呂運亨・遠藤柳作(政務総監)会談」が開かれ、遠藤総監が日本人の生命・財産保護を要請したのに対し、呂は次の5条件を提示した。1・政治・経済犯釈放、2・3カ月間の食糧確保、3・治安維持・建国運動に不干渉、4・青年・学生の訓練に不干渉、5・労働者・農民の組織に不干渉。遠藤総監が受け入れ、行政権が事実上総督府から移譲された。 8.16日、呂運亨が、5千名の群衆を前に演説(遠藤との会談結果報告)。安在鴻がラジオ放送を通じて「国内・海外の3千万同胞に告ぐ」を声明。治安維持、食糧の確保と通過・物価の安定、政治犯釈放、親日派・在朝日本人問題の「当面の政策」を発表した。呂運亨は全政治勢力の結集をもくろみ宋鎮禹に参加要請した。しかし、宋は、情勢傍観あるいは左派主導を警戒した為か拒否している。 こうして、総督府とかけあって、約1万6千名の政治犯の即自釈放を勝ち取っている。治安維持組織として、建国青年治安隊(青年・学生2000名動員)が創設された。日本人に対する報復は10数件で、自制の努力が窺われる。 8.17日、「建国準備委員会」が中央部署として5部を置く。8.22日、1局12部に拡大。各地に支部が結成されていき、8月末までに145(当時、全国に247の市・郡)。38度以北にも平南建準支部が結成される。共産党平南委と合作し、平南人民政治委員会樹立に至る。 8.28日、宣言と綱領発表される。1・建準は進歩的民主勢力の統一機関。2・全国的な人民代表会議開催で政府樹立(門戸は開放されているが政府は建準中心に樹立)。綱領として、1・完全な独立国家の建設。2・民主主義的政権の樹立。3・国内秩序の自主的維持・大衆生活の確保。協同戦線体としての性格を有していた。民族主義右派系の宋鎮禹派は不参加。 解放されたコミュニストや民族主義者達は直ちに活動を開始し、活動拠点をソウルを中心として全国的に組織していく。この運動は次の諸勢力から構成されていた。1・民族主義左派の安在鴻・(金炳魯・)許憲などの愚ロープ。2・社会主義系の呂運亨系(朝鮮建国同盟)グループ。3・朝鮮共産党系の朴憲永系グループ(朝鮮共産党再建派の李康国・崔容達など系、古参幹部の多い朝鮮共産党長安派)。 次第に朴憲永らソウルコムグループが主導権を掌握していくことになる。これに、民族主義系が反発し、9.4日、安在鴻辞任、後任副委員長・許憲。 9.6日、建準が、ソウルに1300名を集め、全国人民代表者大会召集。朝鮮人民共和国樹立宣言(呂運亨、許憲、朴憲永作成)。9.8日、閣僚名簿が発表された。主席:李承晩△、副主席:呂運亨、国務総理:許憲、内務部長:金九△、外交部長:金奎植△、軍事部長:金元鳳△、財務部長:
9月初め、朝鮮共産党が再建された。10月北朝鮮に朝鮮共産党北朝鮮分局が創られる。あくまでソウル中央のもとでの分局という形であった。ソ連共産党の指導を仰いでおり、「ソ連は、我々社会主義者の祖国である。ソ連への忠誠、あるいはソ連の客観的に有利な条件の中で生み出された理論的認識、及び戦略戦術への信頼は絶対であるべきだ。自分達の任務はそれをいかに具体的に実践していくかなのだ」としていた。この姿勢は、当時のコミンテルン指導下にあった世界各国の共産党の共通認識であった。 自主的な地方政権機関が生み出され、やが人民委員会に統一されていくことになる。アメリカ軍が進駐してくる45.9.7日までの「空白期間」の動きである。 この期間に、朝鮮人民共和国という主権機関を建国準備委員会を母体として構成していった。この間約1ヶ月という短い期間の出来事であった。これを指導したのが「容共左派」的な呂運亭らの建国準備委員会であった。同委員会の実質的な主体は朝鮮共産党であった。建国準備委員会名簿を見ると、大統領・李承晩、人民委員・金日成ら。朝鮮共産党の指導者・朴憲永(パクホニヨン)は無役。但し、選挙を経ておらず、人民委員会の代表がソウルで大会を開き、決議・承認するという形式に乗っ取った「机上プラン」であった。日帝時代、抵抗の姿勢を貫いた朝鮮の政治指導者の全てを、イデオロギーを問わず、大連合させていた。全民族的な結集体。 アメリカ占領軍は、占領のその日から、人民委員会・朝鮮人民共和国を潰すことだった。北部に進出してきたソ連との対抗の必要上。直接軍政を敷いた。「米軍は逆に人民委員会を認める訳にはいかない。直接軍政をしいて、朝鮮人民共和国・人民委員会は何ら合法性がないと宣言する。日本帝国主義を負かしたのは、連合軍であり米軍である。ポツダム協定による責任はアメリカ・連合軍に対して果たされるべきものだ、だから朝鮮の今後を決めていくのは、朝鮮人民ではなくて連合軍なのだと高飛車にでた」。この時、ソ連はアメリカの為すがままに任せ、結局アメリカが強引に分断の既成事実をつくっていくのに追随し、人民共和国の否定に黙認を与える。 この時、共産党は、アメリカ軍を「解放軍」と規定して歓迎している。9月の米軍のソウル進駐に対して、朝鮮共産党名で歓迎声明を発している。しかし、アメリカ軍は上陸のその日から血なまぐさい弾圧を加え始め、その期待を裏切っていく。アメリカ軍が軍政を敷き、人民委員会に露骨な攻撃を仕掛けてき、大衆レベルで闘いが始まっていたが、朝鮮共産党の「解放軍」規定はその後も続き、46年初めになって変更する。しかし、日本共産党の転換よりは早い。 45.12月モスクワで米英ソ三国外相会談。朝鮮政権をどう構成させていくのかが話し合われ、「朝鮮人民に自治能力無し」の観点からの「5年間の信託統治」が決定された。朝鮮共産党は信託統治案に対して態度保留であったが、ソ連の忠告を受け賛成に切り替える。その背景には、米ソによる分離統治の合意があり、これに基づく裏指導があったとみなせる。 こうした経過に対して、南の大衆は大きな不信感を抱くことになった。反信託統治運動を金九が取り組む。46年米ソ共同委員会。 46年始め、朝鮮共産党は、自己の影響下に多くの階層別大衆団体を組織し、それらを連合させた「民戦」(民主主義民族戦線)という左派系結集軸を新たに作り出していく。「民戦」は、労働者のストライキや土地改革を展望する農民運動を指導する。46.5月「精版社事件」(朝鮮共産党の機関紙印刷所でニセ札を印刷し経済混乱を企図していたとする事件)をデッチ挙げ、それらを名目に朝鮮共産党を実質的に非合法化していく、朝鮮共産党の機関紙「解放日報」も地下配布体制へ追い込まれる。周辺の左派系商業紙も満足に出せなくされてしまう。こうして運動全体が非合法化された。 46年秋の9月、全国的なゼネスト。10.1日大*(テグ)の人民蜂起が勃発し、警察署を占拠し、巡査を武装解除するなど解放区が生まれる。周辺の農村にレポ、宣伝隊が送られ、影響が及び始めた。アメリカ軍政に立ち向かう政治闘争、組織された大衆行動の画期を為している。あわてた米軍は戦車で鎮圧に向かい、市街戦模様になる。約1ヶ月係り鎮圧された。以降、3ヶ月から6カ月おきに断続的に繰り返される。 |
朝鮮共産党の活動が地下活動としても困難となり、北へ向かう。そこから南の運動を指導するようになる。党組織自体分離していなかったので、それは自然な成り行きであった。しかし、朴憲永の悲劇はここから始まる。朝鮮共産党北朝鮮分局は次第に独立傾向を帯びつつあった。46年春には北朝鮮分局は北朝鮮共産党と名乗り、実質的にソウル中央の統制から離れようとしていた。46年末になると共産党から労働党へ組織替えを行い、南北の党間の同格関係がつくられていった。この経過にソ連の指導があり、北朝鮮労働党がまず組織され、それにならって南朝鮮労働党が組織されていくことになる。但し、その後49年、朝鮮戦争直前の頃、激しい弾圧から逃れるようにして南朝鮮労働党幹部が北入りし、北朝鮮労働党に吸収合併され一本化し朝鮮労働党となる。南北労働党合同に際して、北が南を制し、解放直後の関係と逆転する。 その後の南は、国連朝鮮委員会の監視の下で「自由」な選挙を通じて建国化を目指すことになる。しかし、民族分断の危機を察知した金九らがこれに反対し、48.4月には北に出かけ民族統一の気運を盛り上げるよう奔走するが、李承晩派により暗殺される。 48.5月大韓民国で南の単独選挙の公示が為される。この選挙が民族分断の固定化につながるとみた批判派は実力による単独選挙反対闘争を展開する。官憲側が武力でこれを鎮圧し、南労党はパルチザン闘争に向かうことになる。その歴史的な闘いは、「済州島(チェジュド)4.3人民蜂起」であった。済州島は歴史的に左派が強く、人民委員会が隠然とした権力を持っていた。島民挙げての選挙阻止の蜂起が為された。米韓軍は軍隊を導入し、見境無しの徹底討伐戦に乗り出し、全島民の3分の1が犠牲になるという惨状を呈した。島民の一部はパルチザン闘争に向かい、徹底抗戦した。その抵抗は何年も続けられ、韓国の施政が及ぶのはずっと後になる。 済州島民の蜂起は韓国軍の中にも動揺を引き起こし、討伐に向けられようとした一部隊の反乱を促す(「麗水反乱事件」)。一大隊丸ごとが「済州島民を殺しに行くことに我々は加担できない」として反乱を起こし、鎮圧軍が出動してくるとそれと闘いながら山岳地帯に立ちこもり、智異山(チリサン)パルチザン根拠地という、南のパルチザン闘争の中でも済強力な拠点を築いていった。同じような軍隊の反乱は他の地域でも同時に起きており、各地でパルチザン闘争が開始された。韓国軍一大隊がまるごと、武器を携行したまま38度線を越えて、北に帰順した例もある。 48.8月、李承晩政権・大韓民国が建国される。続いて北には朝鮮民主主義人民共和国が建国される。どちらも、全朝鮮の政権という建前で発足した。 朴憲永ら南労党の主要幹部は、朝鮮民主主義人民共和国の枢要な地位につき、朴憲永は、外相に任じられていた。 49年、中華人民共和国が建国される。 これらが渦となり、やがて朝鮮動乱へと向かっていく。 |
【朝鮮動乱勃発】 |
日朝の戦後革命が流産し、朝鮮においてはその後遺症が北側のイニシアチブで整序されていった。日共内では党内が大揺れに揺れていた。かような時期の6.25日に朝鮮戦争が勃発している。当時どちらが先に仕掛けたかという点で「謎」とされた。双方が相手を侵略者と呼んで一歩も譲らなかったからである。
……この間、アメリカの帝国主義は、六月十五日、朝鮮で侵略戦争を開始した.朝鮮では、一九四八年九月北半部に朝鮮民主主義人民共和国が成立していたが、これを米・「韓」の連合兵力で撃破し、朝鮮半島全体をその支配下において、社会主義陣営の東方の一角に打撃をあたえようというのが、アメリカ帝国主義の野望であった.(72年党史-137)
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【朝鮮共産党指導者・朴憲永の悲劇】 |
53.8月朴憲永裁判が行われ、「アメリカのスパイであった」と断定され、処刑される。朴憲永処刑が公表されたのは、55.12月。 |
【朝鮮動乱の結末】 |
「1945年から50年まで、南の中で主として展開されてきたアメリカ帝国主義と朝鮮人民の抜き差しならない対立過程を引き継ぎ、それを全朝鮮人民の規模で一挙に総決算をつけるべき場として持たれ、しかも外力によってまたも手痛くねじ伏せられる結果に終わった」。この経過には、「不条理な外力をはねのけるべく正義の戦いを挑んだ朝鮮人民」という側面があり、これを見落としてはならない。 北側の戦略・戦術は、軍事的な短期決戦型であった。北の正規軍とこれに呼応する各地のパルチザン、南の人民の大衆的な蜂起が結合し、一挙急速に南半部を解放する、そういう展望を持っていた。開戦直後、急速に人民委員会が復活し、解放された地区では土地改革が行われ、パルチザンは山から下りて公然活動に合流していった。 その際、アメリカ帝国主義の反撃に対しては、ソ連がこれをカバーする手はずであった。しかし、意外な早さで集中的に物資が投入され、国連決議を取り付け、国連軍という名目で軍事派兵を為し遂げたアメリカ帝国主義の動きに対して、ソ連のそれはほとんど何もしていない。現代史の闇の一つとなっている。 朝鮮動乱の結果、却って南北固定化が定式化した。南北人民の間に癒しがたい傷痕、分断の壁が立ちはだかるようになった。 |
(私論.私見)
(1)北朝鮮の独自路線
a)金日成政権下の社会主義改革
北朝鮮臨時人民委員会(46.2.8。金日成政権)
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│第1次北朝鮮人民会議開催(47.2.21)
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北朝鮮人民委員会(47.2.22)
「民主改革」←民主基地論(北に民主主義根拠地、南に革命→統一)
土地改革令(46.3.5)
約1カ月間に地主の土地は実質的にすべて没収、約100万町歩(日本人・民族反逆者は全面没収、朝鮮人も自作地5町歩以上は没収)
小作70万戸に無償分配
*急激なスピード(わずか20日間)=遊撃隊方式:やれるときにやって農民に印象を残す(和田春樹説)
*ほとんど流血事件なし、南とは違う社会体制へ踏み出す
*農民の生産意欲上昇:1949年までに穀物39%、綿花・繭・豚3倍、牛1.6倍
20カ条政綱(3.23):親日派一掃、重要産業国有化、8時間労働
労働法令(6.24)。その他、有給休暇・産休・社会保険。男女平等権法(9月末)
親日派・民族反逆者規定(3.7)=人民裁判で親日派の社会的地位剥奪、財産没収→反対派越南、民主改革順調に
8月末に90%企業国有化、工業生産高急増(1946:100→1949:337)
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社会主義体制へ基礎固め
一連の改革は金日成の名で→北朝鮮人民に強い印象。すでに個人崇拝の萌芽
北朝鮮労働党結成(46.8.28)=左派勢力統一
北民戦(46.7.22):議長団:金奉、金日成、崔庸健、金達鉉
b)米ソ共同委員会決裂(1947.7.10)→米、朝鮮問題を国連に提訴(9.17)
金日成演説(47.8.15):モスクワ協定にもとづく朝鮮民主主義臨時政府の樹立提唱
金日成、UNTCOKの38度線以北への立ち入り拒否(48.1.9)
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以後、独自の政権樹立作業進展
(2)分断政府の樹立
a)北朝鮮人民会議特別会議(48.4.29)
南北連席会議終了(4.23)後。南朝鮮代表として朴憲永らがオブザーバーとして出席
朝鮮民主主義人民共和国憲法採択
朝鮮臨時憲法制定委員会(47.11)→憲法草案が北朝鮮人民会議で討議(48.2.7)
b)第2次南北連席会議(南北朝鮮諸政党および社会団体指導者協議会。48.6.29〜7.5)
最終日に、南朝鮮単独選挙・大韓民国政府否定、南北を通じた総選挙による最高人民会議組織、中央政府樹立、外国軍隊の即時同時撤退などの決定書を採択
*第2次南北協商では南に対抗し北でも単独政権樹立準備
金九・金奎植は北だけの政権樹立に反対、参加拒否(会議終了後、批判声明=南北協商の終わり)
c)第5次北朝鮮人民会議(7.10)
憲法施行、朝鮮最高人民会議代議員選挙実施を決定
選挙日は8.25に。北では99.88%投票、212名選出。南は南朝鮮人民代表者大会(8.21〜26。海州)7)で、360名選出→計572名の最高人民会議代議員決定
d)朝鮮最高人民会議第1次会議(9.2)
議長:許憲(南労党)、副議長:金達鉱(北朝鮮青友党)、李英(勤労人民党)
憲法採択(9.8)
首府ソウル、全朝鮮を領土(実効的支配は38度線以北のみ、南朝鮮は米帝国主義の支配する傀儡政権)
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朝鮮民主主義人民共和国成立(1948.9.9)
首相:金日成、副首相:朴憲永(兼外相)・金策(兼産業相)・洪命熹、民族保衛相(軍事担当):崔庸健
*従来の北だけの政権に南出身者(南労党系=朴憲永グループ)も加わる→しばらくは金日成・朴憲永連立政権
*満州派は軍事面に結集=1948.2.8朝鮮人民軍創設、師団長はすべて満州派
*党・政府はソ連派、延安派→金日成はこの上に乗って党と国家運営
1948.12ソ連軍撤収完了
南 | 南北に関する出来事 | 北 | |
1945 | 9・8米軍、仁川に上陸 | 8・15日本、無条件降伏 | 8・16ソ連軍、青津に上陸 |
9・11米軍政庁成立 | 9・6朝鮮人民共和国宣布 | 10・3ソ連軍民政部設置 | |
1946 | 10.1 10月人民抗争 11、23南労党結成 | 2,8臨時人民委発足 8,28北労党結成 |
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1947 | 7,19 呂運亨暗殺 | 10,22米、ソ共同委、無期休会 11,14国連、朝鮮での総選挙 決議 |
2,21北朝鮮人民会議 開催 |
1948 | 4,3済州島4・3蜂起 | 4,19南北連席会議、平壌で | 2,8朝鮮人民軍創建 |
5,10南だけで総選挙 | 3,27第2回党大会 | ||
8,15大韓民国成立 | 8,25朝鮮最高人民会議選挙 | ||
10,19麗水・順天反乱 | 9,9朝鮮民主主義人民 共和国成立 |
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1949 | 6,29金九暗殺 | 3月金日成・朴憲永訪ソ | |
1950 | 3,10農地改革法公布 | 6,25朝鮮戦争勃発 | 4〜5月金日成・朴憲永訪ソ・中 |
7,7韓国軍、国連軍に編入 | 9,15仁川上陸作戦 | 12,7中朝連合司令部発足 合意 |
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8,18政府プサンに移転 | 10月中国人民志願軍参戦 | ||
1951 | 2,11居昌良民虐殺事件 | 7,10停戦会議本会談開始 | 11月許ガイ降格、副首相に |
10,20第1次韓日会談開始 | |||
1952 | 1,18李承晩、平和ライン宣布 | 12,15党中央委全員会議、 党派分子批判 |
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1953 | 1,5李承晩訪日 | 7,27停戦協定調印 | 7,6許ガイ自殺 |
8,15ソウルに首都戻る | 8,6南労系10人死刑判決 | ||
10,1韓米相互防衛条約調印 | 9,1金日成訪ソ訪中11,10 | ||
1954 | 11,29四捨五入改憲 | 11,1党中央委、農業集団化 決定 |
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1955 | 8.8証券市場開設 | 12、15朴憲永死刑判決 | |
1956 | 5.5申翼煕大統領候補急死 | 4.23第3回党大会 | |
8月金日成批判粉砕 | |||
1957 | 7.1国連司令部、東京からソウル移転 | この年第1次5ヵ年計画開始 | |
1958 | 1.13進歩党幹部スパイ容疑で拘束 | 9月千里馬運動本格化 | |
2,22新民法公布(60,1,1施行) | 10.26中国志願軍撤退完了 | ||
1959 | 4.30京郷新聞廃刊処分 | 8.13在日朝鮮人帰還協定調印 | |
1960 | 3.15大統領選挙、馬山で不正糾弾デモ | 2月金日成、青山里農場現地指導 | |
4.26李承晩下野8.23張勉内閣成立 | 8.14金日成、南北連邦制提案 |
北朝鮮と北朝鮮軍の歴史をひもとけば、強硬派、穏健派とはっきり分けると混乱するが、ヘゲモニー争奪のための派閥争いが絶え間なく存在した。金日成は、この派閥争いを自分に有利に利用し、反対派を粛清するのに成功した。8.15解放後、6.25戦争を前後して存在した派閥は、大きく4つが存在した。
第1に、金日成を中心とし、パルチザン部隊において主として金日成と共に戦った者達で形成された派である。第2に、中国八路軍出身者を中心とする延安派である。第3に、沿海州出身の高麗人を中心とするソ連派である。第4に、李承Y、朴憲永を中心とする南労党派である。
解放後と6.25戦争時、金日成派が主として軍の核心的地位を占めた。崔庸健民族保衛相、姜健軍総参謀長、金策前線司令官等、軍部の実権を掌握した。延安派とソ連派出身の将星達が多かったが、主として軍団長、師団長級の地位を占めた。南労党派は、軍事指揮権を掌握することよりも、軍隊内の文化教養事業を担当した。
金日成派は、軍首脳部を掌握している有利な条件を利用して、一度に南労党派を除去するために、6.25戦争失敗の原因を朴憲永、李承[火華]を始めとする南労党派に負わせた。彼らを「米国の雇用間諜」と呼び、粛清した。
1950年度の軍粛清事業の目標は、延安派であった。北朝鮮軍の軍団長、師団長級の指揮を多く占めていた中国八路軍出身の将星、高級将校達が金日成の独断主義的な1人体制と政策に反感を持つや、1956年に延安派に対する大々的な粛清の風を引き起こして、軍隊内にいた将星、高級将校を処刑し、政治犯収容所に閉じこめた。この時期、人民軍保衛局に勤務していた者の言葉によれば、逮捕現場で将軍達の肩章をはぎ取り、軍用トラックに乗せて保衛局監房に閉じこめ、尋問が終われば、尖ったハンマーでこめかみを殴って殺したという。
1960年初めには、ソ連派を軍部から除去した。1960年代末に入り、再び粛清が始まったが、それは、同じ金日成派内で発生した。中国満州で武装闘争を進行した金日成系列と国内で反日運動を行った国内派(甲山派)間にヘゲモニー争奪戦が始まり、党・国家の2位、3位の序列にあった朴クムチョル、金ドマン、李孝淳等、数十名が反党、宗派分子と呼ばれて、粛清された。これは、北朝鮮に金日成の唯一独裁体制確立のための序幕であった。
1968年と1969年には、軍部の大々的粛清があった。粛清の対象は、金正日後継体制樹立に不満を持った勢力であった。金正日後継体制樹立のため、何よりも重要なのは、軍部を掌握することであるため、その障害となったのは、当時の民族保衛相金昌鳳大将、総政治局長であり、対南担当責任者により操縦された許鳳学大将、1軍団長崔ミンチョル上将、7軍団長チョン・ビョンカプ上将、6軍団長金ヤンチュン、海軍司令官ユ・チャンゴン上将等を始めとし、パルチザン部隊の出身者として大部分が金日成とは異なる部隊にいた成員だった。この粛清の突撃隊は、当時、少し押されていた金日成と同じパルチザン部隊出身者であった。金日成の伝令兵(親衛兵)出身である呉振宇大将、李乙雪上将、全文燮上将、李ドゥイク上将、崔インドク上将、チ・ギョンス上将達であった。
この時期を見れば、金昌鳳、許鳳学を中心とする勢力は、強硬、改革派と見ることができ、呉振宇を中心とする派は、穏健、保守派だと言うことができる。金昌鳳派は、金正日の後継体制に不満を持っており、外国に依存した軍の現代化を主張し、韓国に対する武力赤化路線を堅持した。また、軍作戦指揮、軍行政に対する朝鮮労働党の度を過ぎた干渉と介入を我慢できないと考えた。1969年に行われた人民軍党第4期第4次全員会議の資料によれば、その当時、金昌鳳は、労働党中央委員会と人民軍総政治局と連結していた電話線を途絶させようとした。呉振宇派は、軍の現代化実現を外国に依存してはならず、自国の力で行わなければならないと主張し、軍に対する朝鮮労働党の領導を強化しなければならないとした。また、武力による赤化革命遂行には時期尚早だと主張していた。結局、金昌鳳、許鳳学勢力は、反党、反革命、宗派分子と烙印を押され、100%粛清された。
以後、北朝鮮軍では、軍に対する労働党の領導を確固に実現するための対策として、軍団、師団、連隊に政治委員制を、大隊、中隊には、政治指導員制を打ち立て、師団、軍団、人民武力部に党委員会秘書処を置くようにした。人民武力部の行政局にあった幹部局をなくし、総政治局に幹部部を置くようにする等、各級部隊政治部の偏在を高め、その地位と役割を高める措置を取った。
一方、1980年代にも派閥争いがあった。即ち、1980年代中葉に入り、北朝鮮軍は、再び派閥争いに巻き込まれた。派閥の形態は、主として軍事指揮官と政治一群間の対立と葛藤であった。前総参謀長呉克烈大将を中心とする人民軍総参謀部と人民武力部長兼総政治局長呉振宇大将と総政治局組織担当副局長李奉遠上将を中心とする人民軍総政治局との争いであった。1969年以後、軍隊内の政治機関、政治一群の地位と役割が高まるや、軍事指揮官達は、当然萎縮した。政治一群は、自分の職権を悪用し、各種非理と不正腐敗をしでかし、軍事指揮官達を見下し、少しの欠陥があっても、それを過剰に処罰、失職させた。これに対する軍事指揮官達の不満が1980年初めからさらに高まり、1980年終盤に入り、爆発し始めた。
呉克烈中心の派は、軍の改革、開放を主張し、呉振宇、李奉遠中心の派は、これを不適当だと考えた。呉克烈派は、1986年、呉振宇が交通事故に遭い、職務に有利となったことを利用し、軍に対する大々的な改革を指導した。軍改革の核心は、人民軍総政治局を始めとする政治機関の縮小を行った。これを隠蔽するために、先ず総参謀部の局、部署に対する統廃合を断行した。1〜2個局を統合し、総局型式の機構を作り、軍事、行政指揮官の地位を浮上させた。検数局と兵器局を統合して、修理生産総局に、外貨稼ぎを専担する25総局を作る等、果敢な措置を取り、総局長は、人民武力部副部長又は副総参謀長を兼任させた。軍事行政機構改編を先行した後、政治機関、保衛機関の縮小と減員を実施した。総参謀部政治部、保衛部の人員を大幅に削減して、級数を下方調整し、武力部庁舎外に移転させた。同時に、軍団、師団政治部の人員を減員する措置を取った。
この外にも、軍の現代化のため、ソ連から軍事援助と協力を受けるための事業を大きく推進した。呉克烈は、北朝鮮にソ連軍衛星通信結束所と「ラモナ」空軍偵察基地設置とソ連軍偵察機の北朝鮮領空通過と不時(非常)着陸を承認する代わりに、北朝鮮側が要求する現代的な武装装備を売ることとコンピュータ、電子戦専門家を養成する「美林大学」設立、北朝鮮軍将校のソ連軍事教育機関での養成等を協力するように提議した。ソ連国防省は、軍事的に北朝鮮を完全に自国の手の内に入れようとする利害関係から、この提議を受け入れ、北朝鮮が要求する最先端の武器、戦闘技術機材の販売を許容した。これと共に、北朝鮮地域に派遣された者達の軍事人員管理名目で軍事顧問団を派遣した。
初代顧問団団長には、前白ロシア軍管区副司令官であったウェリドザノフ中将がなり、1986年から1990年まで事業を行った。その後任者には、ソ連国防省で勤務していたチュマコフ中将がなった。この外に、北朝鮮軍海軍とソ連軍太平洋艦隊間で、2回に渡り、共同海上軍事訓練をウラジオストクと羅津近海で進行する等、実質的な軍事協力体系が構築されていた。呉克烈派のこのような行動に不満を抱いていた李奉遠派は、呉振宇が病床から回復したのを契機に利用し、呉克烈派に対する総反攻を展開した。彼らは、呉克烈派のこのような行動を反党的、反国家的な行為と烙印を押し、「呉克烈の罪行」資料をまとめた。その内容を見れば、次の通りである。
第1に、呉克烈派が軍に対する労働党の領導を弱体化させようとしたことである。呉克烈が軍内の政治機関を縮小したのみならず、中隊政治指導員をなくさなければならないと主張していた事実を捏造した。
第2に、北朝鮮軍の作戦指揮権をソ連軍に渡すことによって、北朝鮮全体をソ連に売り渡そうとしたことである。軍の現代化を口実にソ連軍の作戦基地を北朝鮮に入れようとし、ソ連軍の軍事人員を駐屯させようとしたことである。
結果、この争いにおいて呉振宇、李奉遠派が勝ち、呉克烈勢力が粛清されることになった。呉振宇、李奉遠派は、呉克烈がこのような措置を金正日と合意して行ったことを知っていたため、この事実を金正日のみならず、金日成に直接報告した。金日成の批判の指示が下るや、金正日は、為す術がなく、呉克烈勢力を軍から除去しなければならなくなった。しかし、心の中では、金日成を唆した呉振宇と李奉遠に対する良くない感情を持っていた。何故かというと、当時、呉克烈と共に、偵察局長チャン・ソンウ中将、作戦局長金英春中将、参謀政治部長チョン・ヨンス中将、副総参謀長李ドンチュン中将、アン・ユンチャン中将等、数十名の将星と高級将校が降級されるか、軍服を脱がされ、撤職除隊した。
1990年代には、国内の勢力争いを終息させるための対策が現れた。金正日が1991年12月、人民軍最高司令官となり、軍に対する本格的な整備事業に着手した。金正日は、軍内に固執的に存在してきた派閥争いと軍事指揮官と政治一群間の意見衝突と摩擦を解消するため、各種措置を取り始めた。1969年以後、金日成が軍隊内の政治機関、政治一群に信任を与えるや、彼らは、党制度を使い、軍事指揮官達を見下し、軍事指揮官の固有の任務である軍事作戦指揮にまで干渉し始めた。
このように、軍事指揮官の地位が弱体化し、軍風(軍綱紀)が弱体化し始めた。金正日は、1993年、人民武力部機構体系改編を断行し、総政治局から幹部部を分離させ、人民軍幹部局を作り、作戦局と偵察局の処長を大佐編制から少将編制に高める等、軍事指揮官に力を与え、軍指揮と関連する命令、指示は、人民軍作戦局を通して下達し、報告を受ける体系を立てた。
また、1988年、呉克烈派として左遷されていた金英春を総参謀長に、チャン・ソンウを3軍団長に、上方調整配置した。現段階において、北朝鮮軍内に強硬派、穏健派があると断定するのは困難だが、強硬性向と穏健性向を持った人物はいると見ることができる。強硬性向を持った人物としては、総政治局長趙明録次帥、総参謀長金英春次帥、作戦局長金河奎大将、総政治局組織副局長玄哲海大将を入れることができ、穏健性向の人物は、第1副部長金鎰[吉吉]次帥、副部長呉龍訪大将、5軍団長金明国大将、総政治局宣伝副局長朴在京大将、3軍団長チャン・ソンウ大将である。金正日は、軍部の強硬、穏健性向を持った人物と軍事指揮官、政治一群間の意見を狭めて、談合を行い、北朝鮮軍が左にも、右にも偏らないようにするため、非常に苦労している。
最終更新日:2003/01/05
朝鮮半島の北半を占める社会主義国家。「北朝鮮」とも呼ばれる。
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資料:解放前後の主要政治勢力
親 日 派 | ┐ | |||||
│ | 韓国民主党(1945.9.16) | |||||
┌ │ |
民族改良主義者[南] 宋鎮禹、金性洙など東亜日報グループ |
│ ┘ |
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民族主義右派 | ├ │ |
大韓民国臨時政府(臨政)[在中→南] 金九など韓国独立党(臨政主流派) |
||||
└ | 李承晩系[在米→南] | |||||
┌ | 安在鴻系[南] | ┐ | ||||
民族主義左派 | ├ | ![]() |
│ | |||
└ | 金元鳳系[在中→南] 民族革命党。臨政非主流派 | │ | 中道 | |||
│ | ||||||
┌ | 呂運亨系[南] 朝鮮建国同盟 | ┘ | ||||
社 会 主 義 | │ | ┌ | 国内派[南北]=朴憲永系 | |||
└ | 共産主義者 | ├ | 満州派[在ソ→北]=金日成系 | |||
├ | 延安派[在中→南北] 朝鮮独立同盟。金![]() |
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└ | ソ連派 [在ソ→北] |