449―124 冷戦体制の煽りで祖国分断化

 「8.15解放」に酔いしれた在日朝鮮人の高揚する気分に次第に暗雲が襲っていった。朝鮮本土が北と南に分断され体制間対立に巻き込まれていったことに起因する。北朝鮮に金日成政権、南朝鮮に李承晩政権が樹立され、この両政権は対立こそすれ統一することは不可能という様相を見せていった。

 これに伴い在日朝鮮人にあっては、金日成政権、李承晩政権のいずれを支持するのかで対立が発生していった。金日成政権を支持するグループとして朝連が、李承晩政権を支持するグループとして民団が結成されていった。史実は、民団は朝連運動の中ではじき出された「脱落者」を中心に構成された風がある。「初期民団の特徴は、財政の不確立、幹部不足を土台に団長の個人的利害追求による基本的指導理念及び、組織体制の欠如が支配的であった。それ故、団長の個人差によってその反共主義、日本政府との結びつきの程度、朝鮮建設運動や同胞権益擁護対策等の意味内容はまちまちである」()。

 民団の歴史は次の通り。

第一期 1946.1〜10 民団前身の新朝鮮建設同盟(建同)の時期

 1945.11月の朴烈釈放が契機となって、それまで朝連を追放された者や建青の一部が合流して建同を結成した。祖国の完全独立、民族の協和(日鮮融和)、王道(東亜連盟協和会)を主張する。反朝連運動が中心。(最盛時七千人)。民団の派閥は大きく二つである。(A)・朴烈支持派=曹圭訓−金載華−金今石。(B)・朴烈反対派=鄭翰景−元心昌−丁賛鎮一鄭寅錫−曹寧柱−権逸。これらの質的差異は必らずしも明確ではない(鄭哲「民団」41頁)。

 朝鮮建国促進青年同盟(建青)は、初期朝連組織運動の中で成長し、四五年一一月に分離結成された。最盛時は二万といわれる。綱領は朝鮮の完全独立と在日同砲の民主安定等をうたい、幾多の朝連との激突をおこしている。五○年八月からは民団の傘下団体となっている。大韓青年団と改称し、さらに六○年七月に在日韓国青年同盟へと質量ともに発展した(篠崎平治「在日朝鮮人運動」)。


第二期 1946.10〜1948.9 在日朝鮮居留民団の結成

 在日朝鮮人の日本定着化に対応して三二の群小右翼団体を合同して在日朝鮮居留民団を結成した。

 居留民団の目的一、我々は在留同胞の居住安定を期す。一、我々は在留同胞の教養向上を期する。一、我々は国際親善を期す。日本政府や朝鮮の動向に失望して「我々の問題を解決するものは、唯六○万在留同胞である」として総司令部と連携のもとにすすめられる。運動は本国の情勢の推移に従い、内部でおこる単独選挙反対・南北協商の声をおしつぶしながら、朝連との対決が中心に展開される。この時期、信託統治問題を機に朝連から脱退者を多数吸収し、以後の基礎になる。

第三期 1948.9〜1965 大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)成立

 1948.8.15日の大韓民国成立、9.9日朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)成立。

 民団にとって財源確保の意味からも積極的なつながりを求め、政府の承認をえるに至る。名称も大韓民国居留民団とし、綱領も新たに韓国との一体化が始まる。綱領。一、我々は大韓民国の国是を遵守する。一、我々は在留同胞の民権の擁護を期する。一、我々は在留同胞の民生安定を期する。一、我々は在留同胞の文化向上を期する。一、我々は世界平和と国際親善を期する。

 以後、韓国―駐日代表部―民団という方向づげが加えられるが、これをテコとして、韓国旅行のための旅券手数料の徴収(財源)と併行して一般経済人との結合がなされていく。一時期、参与会員制に変更するが失敗している。

 1958年末〜59年にかけては北朝鮮への帰還に反対して運動が展開されている。南朝鮮における親日朴政権の登場は民団内の親日派の台頭を容易にし、悪名高い権逸民団長の時代をつくった。

 1965年、内外の反対運動を日本政府と一致して弾圧しながら韓日条約を締結させた。これを「心から…支持し歓迎」し、「栄えある韓日新時代を迎える」と声明し、民団の方向を明らかにする。民団運動は在日朝鮮人の真の要求に答えるものではない。少くとも指導層は一貫して日本政府の弾圧のさそい水となり、その反動的役割を果している。





(私論.私見)