449―126 戦後在日の帰化問題

 「戦後在日の帰化問題」と「参政権その他の権利確保問題」について、れんだいこは見解がまだ煮詰まっていない。難しい問題だという風に考えている。


強制連行者終戦直後にほぼ帰国

 永住外国人への地方参政権付与問題をめぐり、対象者を朝鮮半島から強制連行された人とする考え方が浮上しているが、その問題点について東京基督教大教授で現代コリア編集長の西岡力氏の意見を掲載する。

 自民党の野中広務幹事長の「かつてわが国が三十六年間植民地支配をした時代に、朝鮮半島から(強制)連行してきた人たちが、今七十万人といわれる在日を構成している」という発言を本紙で読み、事実に対するここまでの無知はないと驚きを超えて怒りすら覚えた。明確な事実誤認が三つある。

 第一は、昭和十四年から開始された朝鮮人内地移送計画により渡日した者とその子孫は現在の在日の中にほとんどいないという点だ。終戦時の在日人口は約二百万人であり、そのうち移送計画による労働者は三十二万人に過ぎない。占領軍の命令によって日本政府は引き揚げ船を準備し、運賃無料、持ち帰り荷物制限二百三十キロまでという条件で帰国させた。昭和二十一年末までに約百四十万人が朝鮮に帰っていき、自分の意志で残留を希望した

 約六十万人が日本にとどまった。引き揚げにあたっては移送計画により渡日した労働者が優先とされている。結果として、三十二万人の「連行者」はほとんどこのとき帰国している。このことは在日一世の渡日時期調査によっても裏付けられている。

 第二は、そもそも上記の朝鮮人内地移送計画の実態が「強制連行」などというものではなかったという点だ。計画期間中、在日人口は百二十万人増加する。各種統計を総合すると、このうち出稼ぎ渡航者とその家族が六十三万人で過半数となる。戦時中、労働者不足が激しかった内地に向かい朝鮮人は自分の意志で大量に渡航していたのだ。

 前記の三十二万人が終戦時における戦時動員労働者である。残り二十五万人は「官斡旋(あっせん)」「徴用」で渡日した後、現場を逃走し条件のよい飯場などで働く「自由労働者」(当時の用語)となった者である。

 昭和二十年内地における朝鮮人土建労働者を見ると、計画による動員労働者一に対して自由労働者七の割合であった。日本政府は移送計画実施期間中も内地に密航した朝鮮人を取り締まり朝鮮に送り返していた。こちらこそが本当の強制連行だ。「官斡旋」「徴用」は出稼ぎで建設現場などで働こうとしていた朝鮮人労働者の働き先を炭鉱、金属鉱山など軍事産業に転換させるというものであり、それは全渡日者のうち四分の一だけしか対象にできず、ほぼ失敗した政策だったのだ。

 第三は、戦前から継続して日本に在留しつづけている在日韓国・朝鮮人(子孫含む)でいまだに外国籍を維持したままの者は七十万人ではなく約五十二万である。日本政府は彼らに「特別永住」という他の外国人にはない特別に優遇した法的地位を与えている。社会保障制度も日本人と同じ扱いがされ、その地位は子孫代々まで保障されている。この五十二万人以外の在日韓国・朝鮮人はいわゆる戦後入国者だ。

 外国人地方参政権付与は基本的事実関係すら知らない与党幹部によって推進されている。事実に基づかない安易な贖(しょく)罪意識は百害あって一利なしだ。参政権が欲しければ帰化手続きにより日本国籍をとればよい。すでに二十三万人以上の韓国・朝鮮人がそれを選択している。


「講和」以後の外国人登録更新反対運動
 1952.4.28日、サンフランシスコ講和条約が発効した。これにより在日朝鮮人は名実共に外国人となった。在日朝鮮人の場合その取り扱いは厄介なことになった。戦前以来の歴史的な流れの中から在日朝鮮人が形成してきた民族教育、その独特のコミュニティーを廻って政府と在日朝鮮人組織が対立するようになる。つまり、通常の国際感覚でいう「外国人」として扱うには問題が多すぎたということである。

 9.27日付けの「東京都教育長通知」は教育における具体的な方向を次のように指針した。 「朝鮮人は当然日本の法令による義務教育を受ける権利を喪失すると共に朝鮮人子弟の就学は左記によることが適当と考える」として、@・市町村は朝鮮人児童の「学令簿の調整はしなくてもよい」、A・在学生については概要「卒業するまでは在学させることができるが、その学校の教育方針に従わせること」、B・新入学の取扱いは「次の条項により学校長の意見を出して入学を許可して差支えない」。イ、「日本の法令に従って教育をうける事を承諾した者に限ること」、ロ、「朝鮮語、地理、歴史等のいわゆる民族課目は教育しない事を承諾した者に限ること」、ハ、「学校設備に余裕があり、かつ学校の管理運営に支障がないことを認定したとき」、ニ、「入学希望者を入学させて学校の秩序が乱れない事が認定できるとき」。

 これまでにも日本政府は、朝鮮人の民族教育を「共産主義教育」を行っているなどと一方的にきめつけ、1948、49年に弾圧を加えていた。その結果、日本の教育体系に組みこみ、或は一部の自主学校を除き閉鎖させていた。このたびの「東京都教育長通知」は、「朝鮮人児童に対し、外国人てあるから当然日本の法令による義務教育を受ける権利を喪失する」とした点で、露骨な排外主義を表明していた。このニュースが朝鮮人に伝えられるや、陳情と抗議運動がまきおこることになる(1953.1.30日、『解放新聞』記事)。

 外国人登録令も登録「法」に改められ、これは、出入国管理令制定と共に、講和後から今日まで在日朝鮮人(在日外国人)に対する監視と追放の役割を果している。出入国管理令の適用については、1952.4.28日を境それ以前に生れた者と、のちに生まれた者との間に、在留資格.在留期間の点で差異を設けている。しかし、管理令の柱になっている強制追放の適用は何んら変らない。この「講和」条約以後の外国人登録更新に対して、民戦は強制追放.強制収容.韓国徴兵をめざすものとして抗議運動を展開した。(民団の動きは、一時期批判するが全体として登録それ自体に反対しなかった)。

 この運動を二つの時期にわけて概観してみることにする。

 第一期(八月末から一○月中旬)
 全体として、登録自体の拒否を基本に据え、行政闘争を行っている。また、この登録反対運動には、旧朝連の財産奪遠も含まれ、一部の県で朝連の看板の掲揚がみられた。篠崎『在日朝鮮人運動』によると、初期段階の闘争に変化があったとみている。九月末、民戦中央はこの運動を登録更新のための写真代獲得.一括申請.朝鮮人代表の立会い等を要求する条件闘争として始めたが、一○月初めになって全面的に拒否闘争に転換したとなっている。その原因も日共民対の批判によるといわれている。『解放新聞」の社説「外国人登録証更新を反対する」(9.27)はこの登録更新反対を破防法反対にまで高めていくことを提唱している。

 のちにも、この運動への批判がなされており、戦術上の混乱がみられる。概要「運動のもっとも大きな欠陥は同胞達が広範に動員されているのに比ベ、運動が大衆自体の運動になっていなことである。このため一部大衆の中には『どうせ、登録更新をするようになるのだから犠牲を出す必要がない』と落伍する現象があらわれている」、「第二に運動自体が同胞達の生活と密接に関連した運動として展開することなく、単純に『登録更新をするのかしないのか』という運動として展開されることに起因する欠陥である」(同、10.18日付け社説「登録更新反対運動を前進させよう」)とある。

 次の社説も「条件闘争」の動きに対して牽制を加えている。 「一部同胞の中には闘争を条件獲得にだけおさえようとする傾向とそれと反対に自他 の力量及実際情況をかえりみずに、最後決戦するような傾向がある」(同、10.25日付け「再度、登 録更新拒否闘争に対して」)。このあたりの議論は実際の運動に即して深める必要があろう。特に「強制追放」への大衆の危機感を背景にしながら、生活擁護の要求をどのように具現化していくのか、日本の再軍備反対、朝鮮の統一独立とどう結節するのか、理論の問題でなく具体的な運動の像を描き出すことであろう。
 第ニ期(一○月下旬から一二月)
 民戦は一○月ニ三日、法務省との交渉を行い、強制追放しないこと、韓国徴兵に利用しないことなどの要求条件を承認させた。そして、第七回中央委員会(一○.二四)以後、闘争内容はこれまでの登録拒否から更新への有利な条件獲得闘争(写真代、日当支給、立会人要求など)に収束されていく。ただ岩手県盛岡などの少数の地域では、なおも断固反対の声をあげていた。

 この戦いは多くの遺産を残している。一つには、新たな未組織の地域に親睦会が結成されたことである。ニつには民団員を民戦側に獲得していることである。大阪では大量の民団員が民戦下に入ったと報告され、九州、島根、栃木ではこの運動に民団員が参加しているといわれる(『解放新間』一一.五)。三つには一、二と関連するが、次の地域で組織が強化されたと報告されている。島根県美濃.鹿足郡、岡山、北海道千歳、東京都足立区、栃木、新潟。四つには、行政闘争における成果である。例えば千葉県(一○.二七)では、書面による「登録変更欄には住所変更の外他の項は記入しない」など一○項目について確答をえている。さらに同、佐原市では「登録証の常時所持と提示を強要しない」などの覚書をうけている。この他、千葉県茂原市や、大阪府布施市、泉大津市、吹日市などにおいても写真代獲得、代理者による一括申講.更新事務に代表を立合わせるなどの成果をえている。新潟では、登録事務の代行まで行っているという。さらに静岡では家屋修理費.越年資金なども獲得している。この成果が、今日に継承されていないのをみるとき、単に行政側のその場限りの懐柔政策の結果によるのかどうか。また、のちにどのように抹殺されていくのか検討する必要があろう。五つには朝.日、或は日.朝連帯についてである。地方にみると、広島県では民戦の合法化を県民大会に正式参加することで示している。岩手県では日本の盆踊りに民族舞踊と歌をもって参加している。(↓九.一九)広島県で日朝親善文化祭がもたれ、愛知県では朝鮮人学校の運動会に日本人児童六○○名が参加している。(↓一○.二二)この他、青森(一○.一)、静岡(一二.二○)で報告され、常盤炭鉱への支援も行われた。(一二.六)

 日本人側からの動きとしては泉大津において抗議運動に日本人の参加かある。又大阪市東成区で日本人三団体が区役所に抗議。生野区では町会長などが密造酒て検挙された朝鮮人の釈放を要求して抗議している。日朝連帯の中には青森にみられる如く、日朝間の結婚による、日本人の動きも含まれている。『解放新間』は次のことを伝えている。「青森県では日本婦人と結婚している同胞が全体同胞の八○%になる。最近、これら 朝鮮人を夫にもつ日本婦人達が自分の夫と夫の祖国を守るとして自分達の親籍と共に強 制追放反対委員会結成。」(一一.二五)

 ところが一○月下旬以後、登録拒否の声が収束するにつれて、「密造酒」取締などの名にかりた警察の弾圧が逆に増大していることは注意を喚起する必要がある。兵庫↓八.二七、北海道↓九.一二、福岡↓九.一六、神奈川↓九.二○、広島↓九. 二六、大阪府河内郡↓一○.七、吹田市での警察の戸別訪問↓一○.一、福岡↓一一. 七、青森↓一一.二○、大阪市生野区で三六ケ所↓一一.二六、栃木↓一一.二八、茨 城↓一二.三、宮城↓一二.八、広島↓一二.九、千葉↓一二.一二、岡山↓一二.一 七

 この他、栃木県では日本の学校で朝鮮人児童への暴行事件か発生している。一一月八日、田村町で小学四年生の朝鮮人少年が日本の児童一○数名から「朝鮮人のバカ」「朝鮮はよその国に来て悪いことをする」「朝鮮はみんな殺してしまう」といって乱打をうけたのである。これは氷山の一角にすぎない。程度の差はあれ、このような体験をもたない朝鮮人はおそらく一人もいないであろう。今日においても、むしろ大きな問題となることなく、日常的現象としてある。このような中では逃避の意味も含めて祖国朝鮮を夢想することは当然のなりゆきである。「解放」後三二年たった今でも日.朝の統一的対応が望まれている。

 朝鮮人の闘争の高揚期には、いつも極右の動きも活発である。(↓一一.一五、朝鮮人追放署名の動きをみよ。)

 民戦はこうした戦いの最中である一二月一八日から一九日にかけて第三回大会を開催した。これは始めて集会届を提出した合法的集会である。規約.綱領に朝鮮民主主義人民共和国政府のまわりに結集することなどが追加され、再度、その基本方向を再確認した。そして、日朝共闘が叫ばれ、日朝親善月間が決定された。その基調には次の情況認識があった。「日本にいる朝鮮民族の統一独立のための反米.反帝反ファッショ闘争は長期間にわたった闘争が必要である。」それゆえに「日本人民と固く団結してこそあらゆる権利を守ることができるのであり、……終局的勝利を固く保障できる。」また「在日朝鮮民族が朝鮮民主主義人民共和国のまわりに一層固く団結し、民戦に総結集し、あらゆる困難を克服し、米国、日本、李承晩の反動勢力に反対する総抵抗闘争を果敢に展開してこそ終局的勝利を戦取できる。」(民戦組織宣伝部長李大宇(金忠権)「在日朝鮮人運動の一年」『解放新聞』一二.三○)すなわち「共通の敵、米帝と吉田反動勢力を打倒」することであるという。(同、『解放新間』五三.一.二○)

 これらは翌年一月一日から三月一日にかけて日朝平和運動として展開されていく。この方向を示すものとして次の『解放新聞』の社説(一.一五)をあげておこう。特に日朝親善運動の基本的視点をみることができる。 『日朝親善運動を推進させるために』「日朝両国人民達の親善、団結が祖国の統一独立と自己生活を守るために要求されて いるだけでなく、日朝両国人民の親善、それ自体が在日朝鮮人運動において一つの目的 になっているためであった。……しかし、我々は過去八年間の努力で充分な成果をえる ことができなかった。……その原因を考えるならば……我々自体の行動と態度にも重要 な原因があるのを、我々は忘れてはならない。即、口では両国人民の親善団結と共同闘 争をとなえながら、日本人民の要求と感情を無視し、自己の要求だけを一○○パーセン トも満足させることを要求する独善的態度と行動が大きな原因の一つになっている。… …日本人民達の支持をうけない動員力と行動力と勇敢性は極めて危険である。さらに日 本人民達の要求と感情を無視する独善的態度は極めて有害なものである。この点は今回 の月間闘争が志向している政治目標に先だって在日同胞が必らず克服しなければならな い基礎的な問題であり、欠陥である。……」




(私論.私見)