性懲りもなく、おっちゃんの「仇敵」灘本昌久氏が、京都部落問題研究資料センターメールマガジン
vol.019に掲載したコラムを紹介させて頂きます。
□コラム□ 北朝鮮の呼称 「『北朝鮮』の呼称広がる―新聞もテレビも…正式国名から変更」 (朝日新聞、2003年1月9日付)
以前から、不思議に思っていたのだが、ニュースで北朝鮮のことを報じる時に、必ず「…北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国では」という風に正式呼称を付けるのはなぜだろうか。他の国も正式呼称を使っているのなら、北朝鮮にも正式呼称を使うべきだろうが、隣接する大韓民国にたいしてでさえ「韓国」と省略しているくらいなのだから、「北朝鮮」と呼んでそれほど不都合なことはないだろう。「北朝鮮」という言い方に、特別の悪意はないのだからかまわないのではないだろうか。
辞典類を引いても、どうして北朝鮮だけ正式名称を付記するのかを説明している辞典は少ない。単に、「朝鮮民主主義人民共和国の別称」とか「俗称」とか書いてあるだけである。そして、説明してある数少ないものに『エンカルタ総合大百科 2003年版』(マイクロソフト社、DVD版)がある。そこでは、次のように説明されている。「正式国名は朝鮮民主主義人民共和国だが、日本では通常『北朝鮮』とよばれている。ニュースなどでは、最初に言及するときに『北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国』といい、くりかえすときは『北朝鮮』とするのが慣例となっている。これは、日韓基本条約(→日韓条約)にもとづいて、大韓民国を朝鮮半島における唯一の合法政府とみなす日本政府の立場を反映し、国名ではなく地域名をもちいた表現だが、この立場に反対する人々は『共和国』という通称をもちいる。同国は日本に対して、再三『北朝鮮』の呼称をやめるよう要求している。」
つまり、これによると正式名称で呼んでも、「北朝鮮」を使うこと自体がいけないように読める。しかし、世界の約3分の2の国が「共和国」なのだから、「朝鮮民主主義人民共和国」の略称に「共和国」は無理だろう。韓国だって政治体制としては共和制だし。(そもそも北朝鮮にはすでに民主主義は皆無、人民はないがしろにされ、共和制さえ捨てて世襲制に移行しているので、国の実態と正式名称そのものが完全に乖離し、手のほどこしようがないが、その点は今回は置いておく)。
しかし、そうなると「西ドイツ・東ドイツ」「北ベトナム・南ベトナム」「北イエメン・南イエメン」などに言及するときも、それぞれ「ドイツ連邦共和国・ドイツ民主共和国」「ベトナム民主共和国・ベトナム共和国」「イエメン・アラブ共和国・イエメン人民民主共和国」という紛らわしい正式名称を使わなくてはならないし、南北・東西に分かれていなくても、たとえば「イギリス→グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国」というどこの国だかわからなくなるような正式名称を使うことになってしまう。
北朝鮮をめぐる呼称問題に違和感が多くの人にあったはずなのだが、朝鮮総連や北朝鮮政府からの抗議に押されて長らく、「北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国では…」というニュース原稿がまかりとおってきた。ところが、このところの北朝鮮への風当たりの強まりのなかで、見直されつつあるようである。上記、『朝日新聞』1月9日号は、最近の呼称の見直しを紹介している。それによれば、NHKは原則として「北朝鮮」を使う。共同通信は主要記事の頭に1回正式名称を用い、その他は「北朝鮮」を使う。『朝日新聞』は、外交記事などで正式名称を使うことがあるが、通常「北朝鮮」を使うことを、年末12月28日の社告で表明している。産経新聞は既に1996年から、読売新聞は1999年から「北朝鮮」のみを使っている。フジテレビは、以前から「北朝鮮」のみ。この他、各メディアが、急速に原則を見直しつつある。
『朝日新聞』の上記の記事によれば、各社が足並みをそろえたのは、1972年の札幌冬季オリンピックの前年に開かれたプレ五輪で、北朝鮮側からの正式な要請が五輪組織委員会にあり、新聞協会でも話題になって、初出併記が定着したようである。
ところで、『朝日新聞』の社告「おことわり 朝鮮民主主義人民共和国の国名表記について<社告>」は次のような文面である(全文)。「『朝鮮民主主義人民共和国』の国名については、中国、韓国のように関係者が納得する適切な略称がないなどの理由から、『朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)』と表記してきました。しかし、北朝鮮という呼び方が定着したうえ、記事簡略化も図れることから、今後、外交記事などでは引き続き従来通りの表記を使う場合もありますが、その他の記事では『北朝鮮』という呼称を使います。」
この文を読むと、「北朝鮮」呼称の定着と記事簡略化という二つの理由をあげているが、あまり説得力はない。北朝鮮呼称の定着は大昔の話であり、今に始まったことではない。また、記事の簡略化という点では、なぜ「朝鮮」ではないのかという疑問には答えられない。事の本質は、従来の北朝鮮をめぐる呼称の原則自体が誤っていたのであり、今回の見直しで、ベトナムやドイツとならぶ普通の国になったということであろう。そして、今までの各メディアに主体性が欠如していたことも反省しておかなくてはならない。
上記の見直しにたいして、朝鮮総連国際局は「『北朝鮮』は国家を表す言葉ではなく、朝鮮半島の北の部分を指す言葉だ。非常に不適切、不当な表現なので、今後、各報道機関に是正を求める」(『朝日新聞』1月9日)そうであるが、やめたほうがよい。腫れ物に触るような待遇の要求は、本当の平等にはつながらない。
南北朝鮮の意地の張り合いと、日本の主体性のなさが、結局真の人権を損なうという例が、NHKハングル講座開設の経緯に見ることができる。1976年に学者・文化人がNHKに「朝鮮語講座」の開設を求めたところ、民団が組織を挙げて「韓国語講座」開設運動を展開。NHKが「朝鮮語講座」開設で内定したところ、韓国のマスコミが「朝鮮という語は差別的名称」などとして政治問題化し、結局見送りとなった。そして、84年になってやっと「アンニョンハシムニカ(ハングル講座)」としてスタートした(以上の経緯は、『朝日新聞』2001年1月9日付)。今は「韓国語」という言葉がそれなりに普及したが、以前は、大学の学部の名称としても、また言葉の名称としても「朝鮮語」が一般的であったので、「朝鮮語」でよかったのだと思う。ハングルというのは、文字の名前であって、言語の名前ではない。日本語講座を「ひらがな講座」ではおかしいだろう。ハングル講座開設をめぐっては、北朝鮮系の講師をとるか、韓国系の講師をとるかでも綱引きがあったと聞く。日本側が両者の機嫌をとろうとするから話がもつれるのである。意見はよく聞いた上で、日本の側が主体的に考えて、最終結論を下すべき問題である。そうすれば、朝鮮語という、一般的に需要もあり、また在日朝鮮人・韓国人の民族文化にとっても重要な「朝鮮語講座」がもっと早く出来ていたに違いない。人権擁護には主体性が必要であり、主体性には摩擦を恐れない精神の強靭さが必要なのである。 (灘本昌久)
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