449―1253 六全協後の日共の方針転換

 1955年の六全協による宮顕の党中央登壇により、日共運動はその面貌を変えていくことになる。それは、全分野・戦線にわたっての徳球系運動の暴力的な解体であった。しかしながら、れんだいこがくどいほどこれを指摘しているのに検討されること無く、相も変らぬ十年一日の日共批判が横行している。漬ける薬がないとはこのことだ。難しくさも博学識インテリ性を衣装する割には、肝心のこの認識の転換が出来ない。この事例は、連中は本当に頭が賢いのだろうか、その弁にも拘わらず本当は逆なのでは無かろうか、という思いを忽然と湧かせてくれる。

 さて、本題に入る。六全協以降日共は体制内化式穏和化運動へ転換する。以下、その様を見ていくことにする。

 2003.9.22日 れんだいこ拝


【宮顕時代における在日朝鮮人グループの排除のされ方】
 1958.7.21からの第7回党大会で、在日朝鮮人グループの最後の代表であった保坂氏が中央委員候補からも除外され、この時の党大会以来日共は国粋主義へ純化している。

 保坂氏について、次のような秘話が明かされている。朝鮮で育ち中国で活動した安斎庫治(中央委員、幹部会員候補、六七年除名)は後年次のように「反省の心をこめて語っていた」。
 「(共産党は)戦前、戦後をつうじて、朝鮮の同志たちを闘争のいちばん困難なところ、直接いのちを張るような危険なところへとかりたてた。そういうところに、意識しなかったにせよ、民族排外主義の要素があった。と同時に、皇道思想が流れているのではないのか」(増山太助『戦後期左翼人士群像』の72頁、保坂浩明と車永秀)。

 革命運動に民族、人種差別はないというのは建前だけで、アメリカ白人が黒人革命家との握手を拒否した(プロフィンテルン書記長のロゾフスキー著書に出てくる)例と共通した差別は、日本革命でも同じであったことになる。

 保坂(日本人医師と恋愛結婚で改名)氏は戦中に一高、東大を出た秀才で、五回大会(1946.1月)で他の三人の朝鮮人とともに中央委員候補(中央委員20人中に序列第3位の金天海・政治局員、同候補20人中4人)となった。彼は最初の生産管理を闘った京成電鉄から京浜の東芝や読売争議など労働運動に集中し、1949年には東北地方委議長として、平警察署占拠―「九月革命論」にそって6月の東神奈川の人民電車事件に呼応した―など、極左戦術とひきまわし指導でも有名だった。

 六全協後の総括会議で、「自分の闘争指導には極左的傾向」があったと認め、「自分は朝鮮人であるが故に終始差別された」、「その無念さがあのような形で爆発した」と述懐して場内を粛然とさせた、という(74頁)。

 「私は彼と三年間くらい活動をともにしたが、その権力主義、出世主義に怒って先輩同志ながら意見書をつきつけたことがある。が、その死後の遺稿集で、典代夫人との恋愛中に、同じくひそかに恋していた交番巡査が彼の出身を調べて、『朝鮮人のくせにお嬢さんに接近するなぞ許せない』と彼女の面前でなぐり倒した、というくだりを読んで、そこまでやられたのかと憤然とした」。




(私論.私見)