449―1252 「50年分裂」時の武装闘争

    Mun Kunsu『1951年「民戦の「武装闘争」開始」』経過 『1952年「民戦」の「武装闘争」』    

【「祖国解放戦争」への準備】
 在日朝鮮人運動は、祖国の危機に際して、少しでも祖国に役立つ行動をしなければいてもたってもいられない気運になった。

 「民戦」は、朝鮮戦争勃発の1年後、“日本における祖国解放戦争”に決起する。北朝鮮派軍事組織として、1951.6月「祖国防衛委員会
(祖防委)」を結成し、更にその下に、日本における武装闘争実行部隊として「祖防隊」を組織する。かくて、「民戦」・「祖防委」・「祖防隊」の三位一体組織が、朝鮮動乱時代を通じて親北朝鮮派として日本の民主革命達成を前面に押し出しながら暴力闘争を惹起していった。この体制は1955.5.24日の「民戦」第6回全体大会まで存続し、翌5.25日、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)に発展的に解消する。この期間を「民戦」時代という。

 但し、日本での親北朝鮮活動はすべて日共の指令によっており、「軍事方針」・「武装闘争」も同様であった。なぜ在日朝鮮人が、日共の指導下に入ったのかというと、在日朝鮮人の入党先が朝鮮労働党ではなく、日共とされていたことによる。これにより、日共は六・六追放後、党民族対策部(民対)を中心に朝鮮人運動の把握・方向づけをなし、共産党と共産党系大衆団体とのフラクション方式を準用しつつ「民戦」と共に朝鮮戦争に対応していくことになる。

 日共の指令の背後にはソ共・中共の意向があった。日共はいわば従属状態にあり、この構図の中で「武装闘争」が指令されていった。してみれば、
スターリン・毛沢東・金日成が実質的な司令部であり、それは明確に朝鮮戦争作戦の一環として、後方基地日本における撹乱が意図されていた。つまり、日本での武装闘争は朝鮮戦争における後方支援的「武装闘争」という意味が付与されていた。

 この武装闘争方針は、日朝共産主義者がプロレタリア国際主義の名のもとに共同して日本革命への展望を切り開くというそれまでの姿勢を少しずつ変更せざるをえなかった。「祖国解放戦争」という新しい課題がのしかかってきたが故である。この理論を確認するに当たって次のような経過を見せている。在日朝鮮人は、1951.2月の日共四全協で「在日朝鮮少数民族」と規定され、「少数民族は日本革命の同盟軍である」と位置付けられた。つまり、それまでの日朝共産主義者の混合志向に対し、「在日朝鮮少数民族」を分離させ、それぞれの民族的課題を明確にさせた上での同盟軍規定へとシフト替えしたように思われる。

 1951.8月頃、民対は「党綱領にもとづく在日諸民族の当面の綱領について」、「日本共産党の綱領にもとづく在日朝鮮人の綱領にたいして」という二つの試案を出し討議を重ねている。これはのちに1952.2.1日に祖防委から出されている「日本共産党綱領に基く在日諸民族の当面の綱領について」と同内容と思われるので民対側の主張として一部を紹介しておく。

 「在日諸民族の戦略自標は、日本の民族解放民主革命であり、自己の祖国における外国侵略の終止であり、独立と統一である。これなしには在日諸民族の苦しみは解放されない」、「以上の要求は、米帝とその擁立吉田政府を倒し、日本に民族解放民主統一政府を樹立することによって可能である」。要するに、朝鮮戦争において北朝鮮の勝利に導くよう日本の民族解放民主革命に邁進せねばならない、それが日朝共産主義者の究極の利益であるという観点を打ち出していることになる。

 この当時、「民戦」派在日朝鮮人は、先進的人民民主主義の祖国をもつ公民としての誇りを確立しつつあった。その限りで祖国防衛・南北朝鮮の統一が民族感情として悲願であった。民戦は第2回大会以後「武装闘争」を実践していくが、その大会では次のように宣言している。概要「われらは解放以後、六年間、祖国の統一独立と自由のために果敢に闘争した。ことに、祖国解放戦争後は聖なる祖国防衛の為、総力を集結し闘争してきた。われらは、すべてが祖国の統一独立を祈り、民族の自由を祈り、今日の愛と幸福と栄光を祈る限り、英雄的朝鮮人の一部として、祖国と民族のため遂行されねばならず、われらの生きる道を求め、子と孫への幸福と安楽を祖先に報ずる途である。祖国と自由がない民族は悲哀と涙のみあり、団結と統一がなければ、奴隷と死の途があることを我々は知っている。我々には、常に輝かしい勝利があり、敵には永遠の死と滅亡がある。全同胞よ!尚一層英雄的に進め!」(民戦第2会大会宣言綱領、1951.2.12日)。

 この宣言綱領に対し、日共政治局の批判(1.10)を入れて、次のような「在日朝鮮民族の当面の要求(綱領)草案」が示されている(5.26)。概要「在日朝鮮民族の要求と闘いも、党の新綱領がもつ内容と完全に一致している。祖国朝鮮から侵略者米帝を追い出し、売国奴李承晩一味を一掃し、祖国朝鮮の統一独立と自由と平和を闘いとることが在日朝鮮民族の基本的な任務である。この基本的任務を遂行するために日本にいる者の具体的条件を考えねばならない。(日本にある)軍事基地を粉砕し、武器の生産と輸送を麻痺させ米侵略軍が日本を根拠地として作戦することができないようにしなければならない。反動吉田政府はアメリカ帝国主義に加担し、アジアヘの侵略勢カとして、再生しつつある。そして直接朝鮮に兵隊を送って朝鮮の同胞を殺戮している。従って在日朝鮮民族が吉田反動政府を打倒し、日本が民族解放国民政府を樹立するために、また日本におけるアメリカの占領制度を撤廃するための闘争に参加することは在日朝鮮民族が全民族的課題を遂行する上に最も具体的な内容をなすものである。

 民戦は全朝鮮人民の民族的課題――統一独立と自由と繁栄のために祖国統一民主主義戦線に呼応して闘う。そして朝鮮民族が敬愛する首領金日成将軍の周囲に結集し、朝鮮民主主義人民共和国の旗を高く掲げて進む。民戦は日本の労働者階級とその党――日本共産党によって指導された労働者、農民の同盟を主力とする民族解放民主統一戦線に積極的に参加しなければならない。日本共産党は、日朝両民族の結集した勢力と統一された行動の先頭に立つことを誓う」、「日本共産党は、在日朝鮮人の祖国防衛と解放のための面争を積極的に支持し、その闘いと提携するよう日本国民と日本労働者階級に訴える」。

 最後の部分は5月の民戦第六中委会での草案にはなかったもので、7月の祖防機関紙上の草案にはいっていたものである。あとでつけ加えられたとみられる。この追加がどちら側からの要求であれ、日共の民族民主革命、北朝鮮の祖国防衛闘争、南半部の解放を求めての革命的決起が促されていたことになる。 

 北朝鮮は次のようなアッピールを出している。 概要「諸君は朝鮮民主主義人民共和国の人民である。諸君はこのことをよくよく認識して、祖国の統一、独立と栄誉のためにすべてを捧げねばならない。祖国の同胞は、これらの闘争(=防衛のための武闘)に対して心から敬意を表している。だからこれらの闘争をもっと激化せさせ拡大し発展させなけばならない。これと同時に日本人民大衆及び在日中国人民との団結を強化し、闘争の国際性を堅持せねばならない」(『新朝鮮』1952.5.2日掲載、「在日同胞に訴う」北労働党政治部員金天海)。


「五全協」で軍事方針具体化させる】
 1951.11.17日、スターリンの介入により「50年分裂」事態が改称され、日共は「統一回復」を為し遂げた。日共はこれにより「五全協」を開き、緊迫する局面へ向けて意思統一する。新綱領草案が採択され、これにもとづいて「民戦」派の次のような「民族綱領」が作られた。「在日諸民族の提携」が云われ、概要「民戦は、全朝鮮人民の民族的課題のために祖国統一民主主義戦線に呼応して闘う。金日成将軍の周囲に結集し、日本共産党の指導をうけて民族解放統一戦線に参加し共同の敵米帝とその手先吉田李政権打倒のために闘う」(坪井豊吉「在日朝鮮人運動の概況」408頁)。

 「五全協」を経ていよいよ具体的軍事方針が打ち出され、火炎ビン闘争・警察署襲撃などの武装闘争が指令された。「祖防委」は北朝鮮との軍事的連絡があったようである。1951.6.25付け日共中央指導部より朝鮮人指導部にあてられた指令は次のことを伝えている。「朝鮮祖国防衛委員会と朝鮮祖国戦線統一協議会は六月ニ○日を限り統合されるべきもの」であり、名称を「朝鮮祖国戦線防衛委員会」とする。「統合後の任務」として「民戦活動の推進母体たること、反帝闘争を朝鮮で開始する後衛部隊たること、日共の闘争に協力し、特に革命準備部隊たること」その他があげられている。(『在日北鮮系朝鮮人団体資料集』法務研修所、1952年)。祖防委は戦争発生後すぐに組織されたが、祖防隊が実質上確立されるのは一年後であり、闘争が本格化するのは日共の武装闘争方針が具体化される1951.11月頃である。それは、民戦第2回大会以後、第3回大会にかけてである。

 この間「民戦」が代表し、@・祖国防衛・統一独立(「朝鮮民主主義人民共和国の死守」・解放戦争への参加・外国軍隊撤退・日本再軍備反対)、A・日本民族解放民主統一戦線への参加を基本方針として、祖国防衛、反ファッショ・平和擁護、民主民族権利擁護、戦線拡大強化の四大方針を具体化して、軍事基地反対、外国人登録令改悪反対、出入国管理令制定反対、日韓会談(=強制追放)反対、対反動闘争、生活擁護闘争、全面講和などを掲げて闘われている。


 1951.12月の2全大会で武装闘争が指令された。


【軍事闘争展開】
 こうして「後方撹乱」闘争が始まった。今日「極左冒険主義」と批判されているが、当時の情勢の然らしめる実践手法であったと評するのが妥当ではなかろうか。もちろん巧拙はある。例えば、日共=中核自衛隊と北朝鮮=祖防委が一本化されなかったがその理由及び根拠は不明である。この点につき、玉城素氏が『民族的責任の思想』(1967年)の中で次のように指摘している。「対立が頭在化しなかったのは、両者に観念的非合法主義と極左冒険主義という共通の基盤が存在したからである」。
 
 こうして日本全国で軍事闘争が勃発することになった。「民戦」内日本共産党グループも党の軍事方針に基づき「祖国防衛委員会(祖防委)」・「祖防隊」を非合法に組織し、別動隊の役割を果していくことになる。1952年がそのピークとなった。武闘の代表的なものは、下里村役場事件、大阪東成区民団系の爆弾工場への襲撃(1951.12.16)、滋賀県日野事件(12.8)からであり、大規模なものは1952.5月のメーデー事件、皇居前の血のメーデー、5.30記念闘争、6.17破防法反対人民大会、6.25吹田事件、6.30若松事件、7.7大須事件である。

 この時、北朝鮮系在日朝鮮人は、朝鮮戦争を「祖国解放戦争」ととらえ、日本における武力かく乱戦争行動の先頭に立った。これにつき貴重な証言が、宮地氏のサイト
「占領下の共産党軍事委員長」で当時の軍事責任者大窪敏三氏の回顧談として次のように述べられている。
 だからね、当時、破壊工作を含む純粋の軍事行動でいちばん働いたのは、在日朝鮮人だよ。在日朝鮮人の左翼は、朝連が解散させられたあと、祖防(祖国防衛委員会・祖国防衛隊)っていう組織をつくって、俺たち軍事委員会と協力して、破壊活動やなんかもやったよ。危険な任務は、あいつらが率先して引き受けてやってくれた。だって、やつらにとっちゃ、これは、祖国を守るための戦争なんだからね。挙銃や刀なんかの武器や爆発物の収集、忍者の使うマキビシみてえなパンク針とかの簡易な武器の製作、そういったもんの貯蔵・管理、そんなことも在日朝鮮人が中心になってやっていたよ」。

 当時、在日朝鮮人の意気込みは次のアッピール文をみればよく判る。概要「第23回統一中央メーデー流血事件は米帝国侵略者等の植民地政策に対する織烈な反米抵抗闘争であり、買弁吉田政権の植民地化とファッショ政策に対する民族解放と独立闘争の日本革命史上、一大転換期を告ぐる鐘声であり、また全世界を震撼せしめた人民の蜂火でもある。人民広場(神官外苑)には朝鮮民主主義人民共和国の国旗を先頭に人民旗数百を押立てて革命歌と万才の声は天地を振動せしめた」(民戦中央音記局「メーデー事件に関する呼訴文」1952.5.5日)。これは、日本人民の大衆的実力闘争のはじまりとしてうけとめられた。
 
 井上清・小此木真ニ郎・鈴木正四共著『日本歴史』(1953.1)では次のように記述されている。
 「日本歴史のまったく新しい段階への跳躍台である。……日本国民がいまようやくにして……少数の前衛のみではなく広範な国民大衆が、決然たる実力闘争によってかちとろうとするにいたったというてんにおいてこそ、メーデー闘争は、日本歴史のまったく新しい段階のはじまりをつげるものである」。

 闘争内容に右翼民団などが攻撃目標になっており、<朝鮮人内対立>の数値が他の年度の約10倍となっている。

 この結果、在日朝鮮人活動家が多数検挙され、多大な犠牲をこうむった。いわゆる「3大騒擾事件」における被検挙者中の在日朝鮮人人数が判明しているが、()1952年5月1日「メーデー事件」の在日朝鮮人130人/1232人、()1952年6月24日「吹田事件」の在日朝鮮人92人/250人、有罪の在日朝鮮人26人/46人、()1952年7月7日「大須事件」の在日朝鮮人150人/269人、実刑判決在日朝鮮人2人/5人となっている。

 この時期の日共と、在日朝鮮人「民戦」・「祖防委」・「祖防隊」との組織・指令関係は、どうなっていたか。日共の武力かく乱戦闘指令部は、非公然の国内地下指導部組織「党中央ビューロー」・「軍事委員会Y」であった。その下部組織として、「地方、府県、地区ビューロー」・「地方、府県、地区軍事委員会Y」が形成されていた。「武装闘争」実行部隊は、「中核自衛隊」が全国で500隊、8000人から1万人組織され、、その中で戦闘的な共産党員を選抜して「独立遊撃隊」が結成されていた。その内のかなりは、レッドパージになった労働者党員であった。

 「中核自衛隊」・「独立遊撃隊」は日共側戦闘組織で、「祖防委」「祖防隊」は在日朝鮮人日共側の武装闘争組織という位置付けであった。「祖防委」・「祖防隊」の具体的武力かく乱行動は、「党中央ビューロー」志田→「民戦」日本共産党グループ指導者・李恩哲→「府県・地区の在日朝鮮人共産党員」という、“軍事的無条件実行命令”により行なわれた。「武装闘争」遂行においては、別行動だけでなく、両組織の統一行動もあった。

 学生党員を参加させて「山村工作隊」も組織され、「人民艦隊」が日本―中国・北朝鮮間の密航を担当した。「北京機関」には千数百人から2千人もの日共党員がいた。「人民艦隊」が、総計数千人を密航・往復させている。その密航ルートは、北朝鮮経由コースと、直接の中国コースとがあった。


 1952.4.28日サンフランシスコ講和条約発効。在日朝鮮人が日本国籍喪失。


【軍事闘争の不発後遺症展開】

 しかし、七月破防法が成立、徳球の「一揆主義的行動」ヘの批判かおこなわれて、戦術転換が始められる。

 朝鮮人内部では、この時期と前後して、武闘の進行過程での民対―祖防委と民戦との間で、実力闘争の指導をめぐり対立が明るみにされている。一つは1951.5.10日、民対全国代表者会議で決定された「在日朝鮮人運動当面の任務」の中で次のようにのべられているような祖防委の位置づけ上の混乱があった。 「祖国防衛闘争が真剣に組まれなかった地方(関東)では祖防委の仕事を民戦に代行せしめたり、また民対が祖防委の仕事を請負っている地方(関西)では祖防委の無用論がでた」。

 のちの1952.7.28日の民戦全国書記長会議では実力闘争偏重への批判と、各地の祖防委との対立の例か報告されている。多くは局長結語(七・二八)にみられるように、民戦のイニシアティブが民対祖防グループに握られているというものであった。

 この論議を地域別にみると、東京都は「緊密な連絡で対立はない」といい、武闘がなかったか、もしくは対立が明らかになっていないのは、山形、岩手、宮城、茨城、岐阜、静岡、新潟、石川、広島、岡山、香川、愛媛、大分、福岡、奈良、兵庫、京都府であった。大仮府は「実力闘争を中心に活発な活動をやってきたので、平和署名は六万三千票が獲得されたにすぎない」とのべている。

 対立があったのは、長野、愛知(=大須事件)、富山、和歌山、山ロ、烏取である。多くは祖防委が「勝手に」軍事方針を出して、実力闘争をおこし、またはそれを押しつけているというもので、民戦側は不信任決議と拒否で対応している。愛知=大須事件では県民戦は「この軍事活動方針を全然知らなかったので党に抗議したが後の祭であった」とのべている。

 
これらの結果、「日常闘争を全然しない」ので組織が弱体していると報告された。富山では「毎日、隊員が火炎びん投擲訓練に従事し、そのため大衆指導の日常闘争を放棄している」という。また、恥ずべきことに山口県では祖防幹部の不正(カンパの半分である120万円以上を「女遊びで消費」)があり、下関祖防責任者の「スパイ活動」が報告されている。のち、戦術上、これまで軽視した合法闘争を重視する政策がとられる。平和闘争一日朝連帯一民権擁護闘争が総選挙闘争と結びつけられて展開された。



朝鮮戦争休戦協定調印
 日共と「民戦」による軍事闘争期間は1年9カ月間続き、1953.7.27日の朝鮮戦争休戦協定調印で終息する。朝鮮停戦後は、北朝鮮南日外相の対日声明における平和共存、内政不干渉、日本政府の公認、そして在日朝鮮人への共和国公民規定があり、日共の転換(1.1主張)をへて運動は大きく変わることとなった。その内容は、朝鮮の解放=反帝民族解放・全人民的民主革命闘争の延長として在日朝鮮人運動を位置づけ、共和国の指導のもとに海外公民として反米.反李(↓反朴)、完全統一独立の闘いの結集を指針させていくことになった。

 この時従来の運動を批判して、停戦後の民戦は日本革命が目的化され共和国を軽視し大きな害毒を流したとした。これらは@・北半部の社会主義建設の強化を期待し、A・朝日国交正常化による、B・平和擁護、C・民族権利の擁護へと結実する。1955.5月の在日朝鮮人総連合会(総連)の結成はその定着を示す。以後、帰国運動が付加されるが、基本的に変化はない。

 3全大会以後、民戦解消までの時期(〜1955.5)は公然化するようになり、「日朝親善運動」を前面に押し出し、日韓会談反対・朝鮮停戦獲得・軍事基地反対・三反闘争(反米・反吉田・反再軍備)となって現われる。


【軍事闘争の否定的総括】
 1955.1月、「日共在日朝鮮人運動について」が発表され、そこでは次のように述べられている。
 「在日朝鮮人の運動に日本革命の片棒をかつがせようと意識的にひき廻すのは明らかに誤りである」。「党に入党した同志諸君については党の目的と規律に従って行動すべきである」。

 3.3日、「政策転換と当面の活動方針」が発表され、朝鮮人党員に次の決定が為されている。
 「われわれの任務はあくまで祖国の統一にある」。「新綱領は日本革命のためのものでおり、われわれは祖国を保持するために活動すべきで、その目的が違ってくるから党籍を離脱する」。「在日同胞の日本政府に対する要求は、生活擁護と民主的権利の保持である。従って政治闘争や革命闘争に直接参加する必要もなければ、またしてはならない」。





(私論.私見)