れんだいこの「80年史」批判 |
(最新見直し2009.5.8日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「不破による姑息な党史改竄考」をまとめておこうと思いつつそのままにしていたが、そのひどさに辟易し虚しさを感じるばかりでれんだいこ自身はその労を取るのを避けてきた。が、世の中には真面目な方が居られる。「村岡到・ロゴスの会」の「『日本共産党の80年』を一読して」論文、「さざなみ通信」の「通信第30号」(03.3.13日発行)、「通信第31号」(03.4.26日発行)、「通信第32号」((03.5.31日発行)が「日本共産党の80年」を解析している。以下、これに依拠しながられんだいこ風に纏めて見ることにする。 ところで、僭越ながらいつものれんだいこ節を繰り返しておく。村岡氏及びさざなみ通信編集部その他諸氏がいくら日共論文を精査してみても、或る観点が欠如していれば役に立たない。「日共の党史改竄問題」を批判的に考究するにはその特殊性を踏まえて為さねば全てが徒労でしかない。日共の際限の無い右傾化主義の現状をいくら批判してみても、そのよってくる秘密まで解き明かさないと片手落ちと云うべきだろう。 その秘密とは何か。これを理解するためには、まず、宮顕―不破系日共党中央は左派運動に送り込まれた当局内通派である、という視点を持つ必要がある。次に、この連中が1955年の六全協を経て党中央を占拠して今日に至っている、という視点を持つ必要がある。次に、この一派が投降主義的マルクス主義という社民主義とは又違う変態理論を弄び、この観点の押し付けを通じて今なお更なる日本左派運動の穏和化を推進しようとしている、という視点を持つ必要がある。 結びとして、宮顕―不破系路線の最後の総決算が目下行われようとしている段階であり、規約改正、綱領改正、党史改正という三悪行に着手している、来る党大会はその追認式となるであろう、という視点を持つ必要がある。 この秘密を知れば、宮顕―不破系日共党中央の素性の胡散臭さをクローズアップさせない限り、彼らの故意確信犯ぶりを炙り出さない限り、彼らのデタラメぶりをいくら指摘しても役に立たない、個別対応は限が無い、むしろ彼らの意図の解析の方にこそ値打ちがある、という認識の獲得こそ必要とされているということが分かるであろう。世のあまたの論文の物足りなさはこの観点の無さに起因しているように思える。 よく似た例として、読売新聞社に内務官僚高官であった正力松太郎が乗り込み、以降、同社のジャーナル性を如何に逼塞せしめたかを喚起すれば良い。経営陣はその後、務台―小林―ナベツネと社長交代してきているが、マスコミの自律的発展に寄与するのではなく、偏狭な国家統制下にマスコミを組み敷かんとして営々汲々としてきた歴史でしかない。 「宮顕―不破による姑息な党史改竄」もこの流れと通底しており、彼らの非道ぶりをいくら論証しても甲斐が無い。むしろ、連中の確固とした意思を見据え、連中がその改竄を通じて何を企図しているのか、それが当局の意思と如何に通底しているのか、それが人民大衆の利益と如何に違背しているのか、の解析の方がよほど重要である。だが、残念ながら、この観点から考究されることが無い。愚かなことである。 本稿では、(1)・「党史改竄の検証」、(2)・「改竄方向の検証、改竄者達の意図解析」、(3)・「理論的諸問題」という三テーマを設定し、追跡していきたいと思う。 2003.5.7日、6.14日再編集 れんだいこ拝 |
【『日本共産党の80年』編纂の姑息性】 |
村岡氏は、「『日本共産党の80年』を一読して」で次のように述べている。「日本共産党は1月16日、突然なんの前触れもなく、党史『日本共産党の80年』を発表した。志位和夫委員長が記者会見して明らかにした。党中央委員会署名で、綱領や大会決定に次ぐ重要文献のはずであるにもかかわらず、内容はおろか、発行することについてさえ、この日まで一切なんの兆候もなかった。昨年12月には中央委員会総会が開催され、年頭には恒例の新年旗開きがあったが、そこでも一言半句も示唆もなかった。ここにこの党に拭いがたく染みついた閉鎖的体質が見事に貫かれている。『80年』のもう一つの外形的特徴は、きわめて軽装で小さな著作になったことである。1988年に発表した『日本共産党の65年』と比べると本文の分量は3分の1になり、年表も省かれてしまった」。 同じ意味のことを「さざなみ通信bR0」は次のように述べている。まず、突然の発表について、「2003年の1月16日に『日本共産党の80年』(以下、『80年史』と略記)の発行が記者会見で発表された。これは多くの党員にとって少なからず驚きであったのではないだろうか。『80年史』が出版されるという情報は一般になかったし、それまで5年ごとに更新されていた党史出版事業が『日本共産党の70年』(以下、『70年史』と略記)以来とだえていたからである」、概要「党史の出版事業は、かつての最高指導者であった宮本顕治のお気に入りの事業であった。しかしこの事業は、宮本氏が政治の表舞台から退いてからあまり重視されなくなった。かつては、党史が発行されるかなり前からそのことが大々的に宣伝されていたものだが、今回はそのような動きはほとんどなかった。それだけに、今回の出版は一定の驚きをもって迎えられたのである」と述べている。 次に、中身が不破好みに私的に改竄されたことについて、「党史の出版事業は、かつての最高指導者であった宮本顕治のお気に入りの事業であった。党史は出版されるごとに分厚くなり、詳細になっていった。それは、その時々の政治的立場に左右されて、過去の見解が修正されたり新しい記述が入ったりしながらも、宮本指導下の日本共産党の正当性を歴史的に裏づけるものとして、党のイデオロギー的・思想的活動において中心的地位の一つを占めていた」、「『日本共産党の75年』の発行が飛ばされたことは、宮本史観から不破史観に転換する準備が、1997〜98年時点ではまだできていなかったということであろう。今回、わが党の新しい「正史」としてついに『日本共産党の80年』が出版されたことは、党の不動の指導者となった不破氏の支配力が過去の党史全体の解釈に及びはじめたことを示している」。 次に、内容が大幅に削減され本として薄くなったことについて、「今回の『80年史』を手にとった多くの人が驚いたのは、その薄さである。党史は年々分厚くなっており、『70年史』は年表も入れると実に3分冊、総頁1200頁をはるかに越える分量になっている。本文だけでも900頁近い量であり、かつて宮本指導部はこの分厚さに、わが党の理論的・歴史的研究の深さと、党の歴史の長さ、その活動の豊かさを見出していたものだった。しかし、今回の『80年史』は単行本版で総頁わずか325頁である」。 それは単に読みやすくするという理由によってではなく、「だが、理由はそれだけではない。不破哲三氏が完全に実権を握るようになった1995年以降、とりわけ、1998年以降の5年間というもの、あまりにも多くの点で党指導部の路線や方針が変更されたために、過去の主張や路線との整合性を維持することがますます難しくなった。宮本時代の共産党があれほど誇りにしていた党の理論的・実践的一貫性は、形式的にさえまったく維持できなくなった。不破=志位指導部が現在誇りにしているのは、融通無碍な柔軟性である。そのような立場からすれば、過去の歴史を詳細に説明することは、あまりにも無理な歴史の偽造を行なうか、あるいは場合によっては、党員にあまり知られていない重大な路線転換をわざわざ知らせる結果にさえなりかねない。このような危険を避ける最も簡単な手段は、党史全体を思い切って短くし、都合の悪い事実や、説明しにくい過去の言動についてばっさりと削ってしまうことである」。 総論として、「かくして、今回の党史が発行された。それは、以下に詳しく見るように、現在の不破=志位指導部の基本的立場を過去の党史の解釈にまで拡大しつつ、都合の悪い事実を党史から消し去ることによって、現指導部の正当性を確保するものである。しかし、この党史発行の意味はそれだけではない。それと同時に、それは、不破=志位指導部の今後の路線の基本線をも暗示している。今年予定されている次期党大会で、綱領の全面的改定が日程にのぼると思われるが、今回の『80年史』には部分的にそれを先取りしていると思われる叙述がいくつか存在する。つまり、今回の党史は、不破史観の確立と定着のための道具であるとともに、その路線の今後の展開と進化を部分的に先取りしたものでもあるのである」。 ところで、村岡氏の『日本共産党の80年』批判は未だ穏和すぎるように思われる。氏の指摘通りとすれば、不破一派の党史編纂の私物化を示してあまりあると云うべきだろう。日頃、外に向けては民主主義擁護派として立ち現われる不破系党中央が、内においてはかように非民主主義的私物化的党運営を為しているとするなら、これは露骨な二枚舌であり彼らの民主主義擁護の似非性が調査問責されねばならぬであろう。一体、不破の二面性においてどちらが本当の顔なのだろうか。無論、内に見せる顔のほうが正体だと云うべきだろう。 一体、「党中央委員会署名で、綱領や大会決定に次ぐ重要文献」である党史に対し、かような私物化的対応を為し得る不破一派の目論見を凝視すべきではないのか。世には、些事として許されることと絶対に為してはならないこととがある。機関運営主義を無視したこたびのような暴挙は重罪であり、看過しがたきこととして指弾されねばならない。不破は、なぜ何のためにかように姑息な遣り方に執心するのだろう。共産党中央指導者として有り得てならないことであり、厳しく弾劾されるべきである。 村岡氏の指摘によって明確にされたことでは有るが、穏和な批判はこの際相応しくないと思う。むしろおざなり批判に堕する恐れさえある。もっとも、こうした手法は、一人不破にとどまらず共産主義党派に普遍的に立ち現われる現象でもある。そういう意味では、特殊的に不破批判へ結びつけることが妥当かどうかという疑念の余地は残る。但し、そうであるからといって、我々が追及の手を緩めてはならない。仮に、このような手合によって国政が牛耳られるようなことがあると、それは暗黒時代の到来以外の何物でもなかろう。ましてやれんだいこは、特殊的に胡散臭さをも嗅いでいるからして徹底的に対決する道があるばかりである。 |
【「『日本共産党の80年』の総論」としてのデタラメ性】 |
分量が少なくされた党史の特徴として次のことが認められる。村岡氏は、『日本共産党の80年』の気付いたところの改竄個所についていくつか指摘しているが、れんだいこ風に解釈すれば次のように云える。一体、党史記述において、これを学ぶ者に有害無益な観点の押し付けと本質から外れた事項の記述が注入され過ぎている。従って、『日本共産党の80年』を読み学んでみても、血となり肉となることが無い。こういう代物でしかない党史が偶然に生まれているのか意図的に創作されているのか、その見極めが肝心である。当然、れんだいこは後者の説を採っている。これが争論である。 村岡氏論考は「日本共産党の80年」改竄個所についていくつか指摘しているが、現下党中央の胡散臭さを証する例証としてこれを活用しようとしない。むしろ全体的に見て好意的な是々非々観点で論述しているように見える。れんだいこはおかしなことだと思う。至らない者が至ろうとして努力した過程で種々の欠点があったとして、それらは大局的な流れの中で見られるべきであるという観点なら理解できる。だがしかし、「日本共産党の80年」でますます露骨になったパラノイア的詐術改竄ぶりに接してもなお、さような「全体的に好意」的観点に立とうとするのはむしろ不自然というべきであろう。胡散臭さをこそ凝視するのが通常の感性では無かろうか。 村岡氏は次のように云う。「私は一貫して、戦前の共産党の闘いについては、さまざまに限界があったにせよ全体としては大きく肯定的に評価する立場に立っている。彼・彼女らの闘いは日本に住む私たちの共通の誇るべき財産である」。これはれんだいこも同感である。続いて、「日本帝国主義の侵略戦争を阻止できなかったから、共産党にも戦争への責任があるなどという考え方はまったく非歴史的で没主体的な傍観者の戯言にすぎない」。これは、丸山眞男氏の「戦争責任論」に対して宮顕党中央側の反論を弁護しているように思える見解披瀝で問題である。 村岡氏は、「このことについては次の言葉をかみしめる必要がある」として次のように云う。概要「『ある趨勢の究極的な勝利が、なぜ、その進行を抑制しようとする努力が無力であることの証拠とみなされなければならないのか。変化の速度を落とさせたというまさにその点で評価されえないのか。変化の速度は、変化の方向そのものに劣らず重要であることが多い』。これはカール・ポラニーの『大転換』からの引用であるが、私たちが歴史を把握する基本的観点はこうでなくてはならない。そのうえで、闘いの限界についても傲ることなく自己切開すべきなのである。白か黒かの二分法に陥って、<程度>や<形態>の重要な意味を見落とす短絡的な思考の水準で、共産党を非難する声が絶えないので、このことは特に強調しておくことが大切である」。 これについて、れんだいこは次のように思う。「白か黒かの二分法に陥って、<程度>や<形態>の重要な意味を見落とす短絡的な思考の水準で、共産党を非難する声が絶えない」のであれば、その水準の者達に対する村岡氏の批判は正しい。しかし、日共をこのレベルで批判する者なぞ居るのだろうか。むしろ、れんだいこ見解までは明確に至ら無くても、宮顕系の独善的な得手勝手ご都合主義的な公式主義的な歴史観に辟易した者が疑問を呈しているのではないのか。これが実相であるのに、村岡氏のような弁護論はあまりに偽善的過ぎやしないか。 志位は記者会見で、概要「『80年』も『歴史のリアリズム』と『何ものをも恐れない科学的社会主義の精神』につらぬかれている」と胸を張って云いぬいた。村岡氏は、「さらに徹底してほしいと願わずにはいられない」とコメント付けている。このコメントについても同様に思うが、「何が歴史のリアリズムであるものかは」、「おこがましくも『何ものをも恐れない科学的社会主義の精神につらぬかれている』とはよく云うは」と批判するのが論理の自然な流れだろうに。 |
【「『日本共産党の80年』の各論」としてのデタラメ性】
2003.1.16日、「日本共産党の80年」(以下、「80年史」と表記する。他の党史についても同様の表記を用いることにする)が発表された。 1.17日付け赤旗に拠れば、志位委員長が記者会見で、概要「この十年間でわが党が到達した新しい理論的・政治的立場」を踏まえて『80年史』が編纂された」と述べている。果たして、「この十年間でわが党が到達した新しい理論的・政治的立場」とはどのようなものであるのか、以下検討する。 |
用語変更。従来「国民」という用語と「人民」という用語が混在していたが、今回の党史においては「国民」という用語に統一されている。これは、先の大会における規約改定の基本方向と同じである。同じく、「大衆運動」「大衆闘争」という言葉は、「国民運動」という言葉に統一変更されている。先に、マルクス・レーニン主義と記されていたところを科学的社会主義に書き換えたのと軌を一にしている。
「前衛」という言葉の消失。規約改定による「前衛」規定放棄に伴って、過去の歴史にさかのぼって、「前衛」という用語の出てくる部分が削られたり、あるいは言い換えられたりしている。『80年史』の冒頭から「労働者階級の前衛」という言葉がなくなっているし、また「27年テーゼ」の解説においても、戦後の61年綱領の説明においても、ことごとく「前衛党」への言及が削除されている。これも規約改定の基本路線を党史解釈に拡張したものである。 「査問」という用語の抹消。これまでの党史では、戦前の小畑急死事件と宮本顕治の逮捕公判との関連で何度もごく普通に「査問」という言葉が登場していたが、今回は見事にすべて一掃されている。 アメリカ批判の「帝国主義」という言葉の後景、ソ連邦批判の「覇権主義」の繰り返し。 ロシア社会主義革命、コミンテルンの意義の過小評価、否定面の反共主義観点からのクローズアップ。戦前、戦後を通じた共産党の活動における国際的側面の大幅な縮小・割愛。その上で、ほとんど詐術的手法で次のように言い換えている。従来の党史においては、日本共産党の創立を一方で日本国内における労働者人民の進歩的闘争の発展継承として、他方で国際的な革命運動の一環として意義づけていたが、しかし今回の『80年史』においては、ロシア革命の勃発の意義、日本共産党創立の国際的意義づけについてはほとんど丸々削除され、あっさりと記述されている。 1923年3月の臨時党大会での「綱領草案」の偽造、「君主制の廃止」、「天皇制の打倒」という表記の隠蔽。 従前の党史では強調されていた側面であるが大きく後退している。従前の評価部分を削除し、その上で、「天皇(ミカド)の政府の転覆および君主制の廃止」及び「ブルジョア民主主義革命、ひきつづいて社会主義革命」に前進するという革命の展望を評価してた部分が巧妙に言い換えられている。(1)「君主制の廃止」表現が「天皇絶対の専制政治をやめさせる」になっている。(2)社会主義への急速転化に向かう「ブルジョア民主主義革命の達成」が、社会主義革命への展望を欠いた単なる「主権在民の民主政治をつくる民主主義革命」になっている。綱領草案には「主権在民」なる表現はないにも拘わらず。 |
【@・『社会主義【生成期】論』考】 |
村岡氏は、「大笑いした箇所がある」として、次の文章の下りを引用する。「『社会主義【生成期】論』は、その当時においては、ソ連の現状にたいするもっともきびしい批判的立場でした」(224頁)。この記述に対して、「一体どこの世界で『もっともきびしい批判的立場』だったのか。共産党の外ではトロツキズムに限らず、ソ連邦への批判は当時にしてもはるか先に進んでいたのである。「スターリン主義批判」として広く浸透したこの点にこそ、日本新左翼運動の存在理由の一つがあった」筈で、嘘八百デタラメ記述であることを指摘している。 れんだいこは思う。ここは「大笑い」するのではなく、こたびの文責者・不破の病的なまでのすり替え詭弁術を弾劾すべきではないのか。「開いた口が塞がらない」サカサマ論述であり、丁度原水禁運動の「いかなる国の核実験にも反対してきたのは原水協である」との詐術と好一対を為している噴飯ぶりを指弾すべきところではないのか。 なお、「社会主義【生成期】論」というカテゴリー設定もいささか没歴史的であろう。従前はいわゆる「スターリニズム論」として論争されてきた経過があり、これに対して党中央見解を押し出して後、論ずるべきことであろう。このプロセスを捨象して「ソ連の現状にたいするもっともきびしい批判的立場でした」などとぬけぬけと云いぬける詭弁に卒倒させられるのはれんだいこだけだろうか。 |
【A・『スト権スト』考】 |
村岡氏は、「さらに呆れた部分がある」として、「スト権スト」に触れつつ次のように述べている。「1970年代の日本の政治情勢を記述した部分に1975年の『スト権スト』が登場しないのである! 『65年』には『8日間のストライキを敢行した』上(363頁)とともかくも書いてあったのに、全く触れなくなった。すでに何度も批判しているが、共産党が強調する1980年の社会党の『右転落』―『社公合意』への転換の背景こそこの『スト権スト』の敗北なのである。この削除の根本的根拠は、共産党の視点が国会内の動向や議員数の消長に過大に偏重しているからである。労働運動の展開に軸を置いていないと言い換えてもよい」。 村岡氏には失礼ながら、れんだいこから見れば、この程度の「歴史の偽造」は常習的なので、今やいちいちあきれたりしない。「凡そ全編が変調記述になっている」という認識のほうが手っ取り早いし、なお且つ正確な認識である。それほどにひどいという認識を我々は共有すべきではないのか。 |
【B・『自主独立路線』考】 |
村岡氏はよほどお人よしなのか、党中央の「自主独立路線」につき次のようにベタ褒めしている。「この視点に立脚して共産党の歴史を直視すると、『80年』でも一貫して強調している点であるが、ソ連邦と中国という二つの大きないわゆる『社会主義国』から重大で徹底した干渉・破壊工作を受けながら、それを跳ね返して『自主独立』を貫いた闘いは見事と評価するほかない。解体した社会党を見るまでもなく、世界の左翼組織でここまで闘い抜いた組織はどこにもないのである。いわゆるソ連派や中国派はいったいどこへいってしまったのか」。 この観点披瀝で、村岡氏の日共史の理解の程度が分かる。「自主独立路線」については、その功の面と負の面の史実的且つ理論的考察こそ為しておくべきことではなかろうか。れんだいこ史観に拠れば、結構胡散臭い。「自主独立路線」はなるほど日共党運動史上の歴史的転換であり、評価されるべきものである。しかし、宮顕がこれを唱えるのに胡散臭さがついて回っていることを明らかにしておかねば、あまりに片手落ちと云えよう。通常は、宮顕にとって深刻な自己批判抜きに為し得ない路線転換であった。それを一片の反省弁明も無く、今後は「自主独立路線」で行くとの宣明を為し、その後定着したのであり、この経過のうち「自主独立路線宣明」をのみ激賞するなぞは、あまりにも軽薄過ぎよう。 れんだいこは何がいいたいのか。分からない旨の方も居られると思うので説明しておく。戦後日共運動史上、「自主独立路線『的』」で在り得たのは、戦後直後の党運動を指導した徳球―伊藤立系の運動であった。これが明確に表出したのが、1950年の「スターリン論評」を廻っての党内ゴタゴタであった。党内は「スターリン論評」をどう受け入れるのかを廻って、真っ二つに割れた。徳球―伊藤立系は「所感」を出し、「自主独立路線『的』」に立ち回った。故に以降「所感派」と呼ばれる。これに対し、「『スターリン論評』に忠実に従うことこそ国際共産主義者の責務である」とする観点から、党中央を最も激烈に糾弾したのが何を隠そう宮顕その人である。故に以降「国際派」と呼ばれる。 国際派の立場から党内分裂劇を仕掛けた張本人宮顕はその後1955年の六全協で党中央の実権を握った。その後直接的には、原水禁運動における「部分的核実験停止条約」の扱いを廻ってソ共と対立し、その絡みで親中共を通した。ところが、その中共とも直接的には、文化大革命を廻って対立するようになり、辿り着いたのが「自主独立路線」であった。果たして、徳球系党中央時代に己が為した言辞の自己批判抜きにこれを為しえるものだろうか。れんだいこはあり得ないことだと指摘したい。 |
【C・『日本の戦後政治体制』考】 |
村岡氏は、「日本の戦後の政治体制あるいは政治システムに関する評価問題」を廻る、党史の記述変化に注目している。『65年』では、「新しい憲法の制定によって、天皇制は法制的にもその絶対主義的性質をうしない、戦前のような権限をもたないブルジョア君主制の一種にかえられた」(上巻、111頁)とあり、且つ「日本共産党の新憲法草案」はあるが、「憲法」は柱には立たられていなかったが、『80年』では、「第3章 戦後の出発と日本共産党の二、憲法の制定と政治体制の根本的変化」と設定し直され、節の建て方そのものが「『65年』とは決定的に異なっている」。この節の結びは次のように書かれている。「日本国憲法は、1946年11月3日に公布されました。/こうして、日本の情勢は、戦前の天皇が主権者であった専制的な政治体制から、戦後の主権在民の政治体制に根本的な変化をとげることになりました」。 |
【D・『ソ連邦の評価問題』考】 |
「社会主義生成期」説とも関係してくるが、村岡氏の云う通り「事は深刻な理論問題である」。何しろ、日共史の場合、過去へ遡ればのぼるほどソ連邦を社会主義の模範国とするスターリン礼賛的立場が明らかとなる。それを「80年史」では、「ソ連の現状にたいするもっともきびしい批判的立場でした」とぬけぬけと記述するのであるから、如何様な手品を使ってくれているのかに興味が湧く。 党中央自身の弁明では、ソ連邦評価の展開史は次の通りである。1950年の「50年問題」に際して、「スターリンらの支配のもとで、他国の併合や支配をねらう覇権主義と国民を抑圧する専制主義の体制に変質していました」(102頁)とのことであるが、疑わしい。次は、「77年10月の第14回党大会」で、「現存する社会主義はまだ『生成期』にあるにすぎない」と認識した。これは当時、目からうろこが落ちる」すばらしい理論と自画自賛していた、とのことである。80年代末の「東欧諸国の激動にさいして」、「東欧諸国では、第二次世界大戦後、ソ連の覇権主義によってソ連型の政治・経済・社会体制がおしつけられた」(262頁)た説明しているようだ。 1990年7月の第19回党大会では、「ソ連の体制は対外的には大国主義・覇権主義、国内的には官僚主義・命令主義を特徴とする政治・経済体制に変質した」(268頁)と述べているらしい。1994年の第20回党大会では、綱領の記述を変更し、「綱領は……スターリンらによって旧ソ連社会は社会主義とは無縁な体制に変質したことをあきらかにしました」(286頁)。また「覇権主義と官僚主義・専制主義の破産」とも書き、「ソ連覇権主義という歴史的な巨悪の解体を歓迎した」(この表現はソ連邦崩壊直後の宮本顕治議長の発言である)。そして、この大会で「生成期」説をお蔵入りさせることになった。そこでは「ソ連は社会主義への過渡期でさえない」(224頁)とされた。2000年11月の第22回党大会では、「ソ連型の政治・経済・社会体制は社会主義とは縁もゆかりもない体制であり、……人間抑圧の社会体制の出現を絶対にゆるさない」(308頁)と確認した。最後の章でも「ソ連型の政治・経済・社会体制による人間への暴圧をけっして許さない」(324頁)と強調している。 しかし、こういう詭弁を反証する例は掃いて捨てるほどある。『65年』では、第二次世界大戦における「ソ連の指導者スターリンの功績を否定することはできない」(91頁)と評価していたのもその一つ。それより何より、いわゆる新左翼のスターリニズム批判に対して、どういう態度を取っていたのであるのか、当時の言説を引っ張り出せば一目瞭然だろうに。 結果的に、新左翼の指摘の方が正しかった。通常ならば、日共党中央は自己批判すべきである。ところが、事情を知らぬ者を誑かす為にのみとしか考えられないが恥知らずにも「ソ連の現状にたいするもっともきびしい批判的立場」を堅持し、「ソ連覇権主義という歴史的な巨悪の解体を歓迎したのが我が党である」などと云う。これが公的立場の最高指導部の見解披瀝だと思うと、ゾッとするのはれんだいこだけだろうか。 |
【E・『市民』考】 |
村岡氏はユニークな箇所を衝いている。綱領には「勤労市民」はあるが、「市民」は登場しないと云う。「『主権在民』の民主政治」は3年前に初めて使い出した用語である。『80年』でも「市民」は日本では1949年に1度だけ顔を出す(95頁)が、それ以外には存在していない。ところが、外国の分析になるト、『80年』では、中国の天安門事件やソ連邦のクーデターでは「市民」が登場するし、アフガニスタンにも犠牲者としては「市民」は登場する(なぜかルーマニアには「住民」しかいないらしい)。ところが、日本では1960年の安保闘争において「労働者、学生、大学教授、文化人、高校生、業者、母親など広範な層」148頁()が参加したのに、ここには「市民」は存在しない、と云う。 ただ、「市民」は存在しないのに、「市民道徳」だけはは1973年の「民主連合政府綱領」で一筆したと記されている(226頁)。その直前に第11回党大会で「プロレタリア的ヒューマニズムにたった党風」とか「人民的な議会主義」を提起したと書いてあるが、最近の「赤旗」では「プロレタリア」や「人民」死語になっている、と云う。これについて、村岡氏は、「なぜ当時は必要不可欠だったのかを反省する必要がある」とコメント付けている。 「生存権」については同様な現象が見られると云う。ついに『80年』に登場しなかった。代わりに、敗戦直後に共産党が提案した「新憲法の骨子」に「人民の生活権」と書いてあったと紹介している(77頁)が、「人民の生活権」は、この「新憲法の骨子」についてより多く引用している『65年』では引用から外れていた(「人民」だけでなく「万人の生存権」にこそ意味があるのだ)。76年の『自由と民主主義の宣言』で「生存の自由」を提起したと書いてあるが、最近の「赤旗」では「生存の自由」は使われず、「生存権」が多用されている、と云う。 要するに、この党中央は過去の言説に責任を負う姿勢は微塵も無く、ご都合主義で用語のカメレオン的使い分けを得手としているということだろう。問題は、それを許すのか許さないのかただ呆(あき)れるのか、ということだろう。 |
【『日本共産党の80年』の胡散臭さ】 |
村岡氏は次のように述べている。組織のあり方について、第22回党大会で「『前衛』という誤解されやすい用語を削除しました」(307頁)と書いているが、『80年』には「民主集中制」はたった1度書かれているだけである(138頁)。規約に謳っている組織の原理を強調して説けないとは? 一体これはどういうことであろうか。なお、「政治理論誌」の誌名がなお『前衛』であることは、何とも不首尾なことである、と指摘している。 村岡氏は他方で自主独立路線的転換を絶賛的に好評価しつつ、上述のような欠陥を訝るというスタンスを採っている。れんだいこは、不破特有の姑息性をそこに見る。 |
(私論.私見)