さざなみ通信の「80年史」批判 |
(最新見直し2009.5.8日)
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(私論.私見)
こういうなかで、日本共産党は一九二二年に創立されました。この国を「天皇を中心とする神の国」から「国民が主権をもつ民主政治の国」にしよう、国民の権利、とくに生活権を保障しよう、侵略戦争と植民地支配をやめさせよう――これが、戦前わが党の先輩たちが最大の任務としてかかげた目標でありました。しかし、この主張――いまでいえば当たり前の民主主義と平和の主張のために、日本共産党は生まれたその時から、その存在自体が弾圧の対象となり、非合法の政党とされたのであります。同じころ、世界各国で共産党は生まれましたが、最初から非合法にされたのは、今沖縄に集まりつつあるサミット諸国のなかでは日本だけのことでした。
「32年テーゼ」の連続革命論が、非連続の二段階革命論に改作され、「社会主義に進むための」戦略が、「すぐに社会主義に進まない」ための戦略に置きかえられ、「社会主義革命への強行的転化の傾向を持つ」はずの民主主義革命が「資本主義のわく内での民主主義的変革」に変えられてしまっている。
『70年史』はいわば、「32年テーゼ」の連続革命論的な内容の紹介を残したまま、不破流の再解釈をするという無理な記述になっている。そこで『80年史』は、そもそも「社会主義革命への強行的転化の傾向を持つ」云々の記述そのものをなくすことによって、この無理から見事に脱出することができた。こうなるともはや不破お特異の詐術であろう。
さざなみ通信は次のように云っている。概要「治安維持法下の戦前において、1600名以上の人命が失われ、数十万人が逮捕され、数百万人が警察に拘留された(『80年史』、66頁)。党は常に弾圧、逮捕、拷問、虐殺という危険におびやかされていた。こうした状況のもとで戦前の党がスパイ挑発者に対して査問せざるをえなかったことは、十分に理解できる。もちろんその査問の過程での暴力行使が認められるわけではけっしてない。しかし、全体としての大義は明らかに党の側にあった。そして、党もまたそうした立場を一貫して主張しつづけた。ところが、不破指導部は、戦前の党の困難と悲劇を勇気をもって擁護するのではなく、説明の面倒なことはさっさと歴史から削除してしまうことを選んだ」。
ところで、『80年史』は宮本の不屈の闘争についての記述を10分の1ぐらいに減らしている。「査問」という言葉が消えたことにより、小畑は「査問中」に死んだのではなく、単なる「調査中」に死んだことになった。
1930年代後半における人民戦線運動における野坂の立場について、『70年史』はこう述べている。「野坂は、1937年3月、『国際通信パンフレット』として、『日本の共産主義者への手紙』再版を発行した。『第二義的意義のある部分を削除』するとしたこの再版では、党が日本における反ファッショ統一人民戦線運動をすすめるさいの基本的な前提とした、『32年テーゼ』の戦略的な方針の中心である軍事的警察的天皇制打倒の任務などが削除されていた。天皇制打倒という展望をもたない戦略路線ぬきの人民戦線運動という右翼日和見主義は、野坂の主張に色濃く反映していた」(同前、119頁)。
さらに、終戦間際に延安で開催された中国共産党大会での野坂の発言について『70年史』はこう語る。「この大会で演説した岡野(野坂)は、日本帝国主義の敗北後、民主勢力による『人民政府の樹立』によって、民主的改革をすすめることや、混乱が予想された経済問題への対応策などをあきらかにした。岡野演説には、日本の民主的進路にとって決定的な意味をもった天皇制問題の性格を正しくとらえない弱点があった」(同前、143頁)。 このように、『70年史』は、天皇制打倒の戦略的課題を曖昧にする野坂理論を詳細かつ繰り返し批判している。これらの記述は、野坂の誤りに対する批判だけが度外れて突出しているという点で問題はなくはないが、しかしそれでも、天皇制打倒、君主制廃止の課題を一瞬たりとも曖昧にすべきではないという『70年史』の立場は、現在の日本共産党指導部の立場と照らし合わせるならば、感動的でさえある。
では『80年史』においてはこれらの記述はどうなったか? 言うまでもなくすべての残らず削除された。『80年史』は、天皇問題に関する野坂理論についてのみすべて完全に削除した。それは、ここでの『70年史』の記述が、まさに現在の党指導部の天皇制論をも断罪するものだからである。国民からの孤立を恐れて、天皇制の事実上の長期存続論に落ち込んだ現在の党指導部はまさに、「もっぱら天皇制のわく内での改良を説くもの」であり、「創立いらい一貫して君主制・天皇制の打倒をかかげてきた党の歴史にも反するもの」であり、「大衆追随の誤り」であるからである。『80年史』編纂者たちは、『70年史』におけるこの耳の痛い言葉をすべて取り除くことで、安心立命を求めたのである。
いったい、天皇条項は「主権在民の一つの具体化」なのか、「主権在民と矛盾したもの」なのか。現在の日本は「ブルジョア君主制の一種」なのか「主権在民の政治体制」なのか。『80年』はいろいろな箇所で綱領と矛盾するが、それだけでなく、『80年』の中ですらこうした混乱がある。『80年』発表にあたった志位委員長の記者会見では、「「天皇主権」の専制政治から、「国民主権」の民主政治への転換」ともいっているが、これは政治体制のことなのか(制度上「国民主権」のもとで専制政治が行われることだってあるだろう)。そもそも、「国民主権」は「主権在民」とイコールとはいえない(なお、綱領では「国民主権」という用語は使われていないし、『80年』でもほとんど出てこない)。
もっとも、このように現在の政治体制、憲法をめぐって混乱が見受けられるとはいえ、近年の党指導部の態度からすれば、天皇制容認という方向性は明らかだろう。もちろん、「党として天皇制を肯定してはいない」とか「将来の天皇制廃止を展望」などとはいうが、「現在の政治行動の基準」はあくまで「憲法の関係条項を厳格にまもらせる」ことに尽きる(『80年』83-84ページ)(もちろん、現在の情勢では重要かつそれ自体困難な課題であるのは確かであるが、この基準は相当伸縮自在である)。
第8回党大会での綱領制定に関する記述で、『80年』ではじめて加えられた記述もそうした党指導部の立場をよく表している(従来は、この部分では直接天皇制に関して言及されていない)。
「綱領は、『君主制を廃止』する問題を将来の大きな目標にしましたが、当面の改革の内容を定めた行動綱領には、これをふくめませんでした。そして、君主制の廃止が問題になるのは、民主的変革の先の段階という位置づけをはっきりさせました。」(160ページ)
「君主制廃止」は「民主的変革」の「先の段階」とはどういうことか? 「民主的変革」とは、綱領でいう「民主主義革命」なのか、そうでないのか。綱領において、「君主制の廃止」はたしかに当面の課題ではないにしても、「民主主義革命」の課題ではある。ここでも、用語が曖昧で意図的か否か混乱をまねく記述だが、わざわざこうした記述を追加している以上、強調点は、「先の段階」ということにあるのだろう。すくなくとも従来の「党史」では、第8回党大会の綱領に関する記述の部分では、(「民主主義革命」によって到達するところの)「独立・民主日本が、『名実ともに国会を国の最高機関とする』人民共和国の形態をと」る、と述べている(『65年』、新日本文庫(一)、295ページ。『70年』では、「人民共和国」ではなく「人民の民主主義国家体制」(上、298ページ))。
憲法上の自衛権を廻る評価。自衛権をめぐる記述にも大きな変化が見られる。記述したが、新憲法採択の際に反対した理由のひとつに「自衛権放棄」条項を挙げていた。党史は長らくこの事実を隠蔽していたが、『80年史』は「党は、憲法9条のもとでも、急迫不正の侵害から国をまもる権利をもつことを明確にするよう提起しました。しかし、吉田首相は9条のもとで自衛権はないとの立場をとり、党は、これを日本の主権と独立を危うくするものと批判して、草案の採択に反対したのでした」と記し、その理由付けとして、「その後、戦争を放棄し、戦力の不保持をさだめた憲法9条のもとでも自衛権をもっていることは、ひろくみとめられるようになりました」と書いている。自衛権思想→自衛隊の容認→是認へとシフト替えの結果、こういう記述変更が為されたことが分かる。何と恣意的なことか。
さざなみ通信は云う。「憲法9条下でも自衛権は認められるということは、自衛のための戦争も認められるし、そのための軍事力保持も認められるということにしかならない。戦後の革新派の憲法学者たちは、自然人の持つ「正当防衛権」を国家に安直に類推して認めるべきではないし(とりわけ帝国主義国には)、また戦後憲法の特質は従来型の自衛権に代わって平和的生存権を提唱しているのだという立場をとってきた。これが、戦後民主主義運動の中で獲得された護憲派の到達点である。だが、日本共産党指導部は、一般人が「自衛権」という言葉で連想しがちな「自分を守る権利一般」という誤認を利用しつつ、なし崩し的に自衛権行使、すなわち自衛のための軍事力行使への道を掃き清めている。前回の大会における「自衛隊活用論」はその最新の典型的事例である。今回の『80年史』が、新憲法採択のさいに共産党が反対した理由の2番目に言及したことは、実際には、憲法9条下での自衛権の容認をよりはっきりと党史の中で確立するためであった」。
現行憲法採択においての、党の反対理由の記述に大きな変化が見られる。(「日本共産党の八十年」に学ぶ(大塩平七郎)参照)
『70年』では、反対理由として、「この憲法が天皇の地位そのほかの反動的条項をもっているなど、日本の民主主義的変革を徹底させる立場からみて不徹底なものとなっており、それが将来の侵略と反動の方向を復活する足場となり、憲法改悪の拠点とされる危険を察知したからであった」(上、180ページ)とだけ述べられている。
これが、『80年』になると、反対の「大きな理由は二つありました」とされて、「天皇条項」と「自衛権」の問題が上げられている。党が反対したのは「自衛権」の問題だけでなく、「武装・中立」の観点からなのだが、さすがに「武装」の主張については隠されている。この変更は、近年の党指導部のいう、現行憲法下でも「緊急事態のもとで軍事力をもてる」などという発言、第22回大会での「自衛隊活用論」に沿ったものであろう。憲法9条問題については本通信第2号、3号、13号などでも取り上げられていることであり、ここで詳論しない。未読の方は一読していただきたい。
にもかかわらず、第22回党大会の「自衛隊活用論」については、「二十一世紀の早い時期に憲法九条の完全実施と自衛隊の解消に向かうための段階的な展望をしめしました。」(『80年』、306ページ)という一文しか記されていない。当面政権参加の展望がなくなったためであり(もともと大してなかったのだが)、党大会後の頃から(とくに「赤旗」で、すなわち内輪に向かって)「自衛隊活用」決議は「自衛隊の解消への道筋をより
全面的に明らかにした」などという説明がされるようになったが、この記述もその線に沿ったものである。とはいえ、それにしてもあっさりした一文ですませられたものである。後景化させていることの表れではあろうが、もちろん撤回されたわけではない。ふたたび政権入りが問題になるときには、第22回大会決議をも根拠に「自衛隊活用論」の立場が確認されるだろう。たんなる後景化に安心すべきでなく、同決議の撤回を要求していくべきことをあらためて確認しておく。
従属規定の踏襲。党創立80周年記念講演で示された不破史観(参照、「民族主義的自画自賛に終始した共産党史論」)の満展開。
『80年史』では、従来式の従属論を更に強めて、戦後日本が従属国になったこと自体が「きわめて異常な」ことだとしている。
党史において日本共産党の偉大な先駆性の代表的事例として紹介されている1960年の81ヶ国共産党・労働者党会議における日本共産党の主張がそれである。たとえば『70年史』では次のように紹介されている。
「党がこの会議で独自に提起した問題の一つに、高度に発達した資本主義国でありながらアメリカ帝国主義に従属している国の革命の問題があった。党代表団は、戦後の日本がおかれたような高度に発達した資本主義国の対米従属という状態は科学的社会主義の革命論の原則のあたらしい創造的な適用を必要としており、反帝反独占の民主主義革命は日本だけでなく、原則的には、高度に発達した資本主義国でありながらも事実上外国帝国主義への従属国の状態におかれている諸国の共通の課題であると主張した。この問題提起は、全体として賛成をえたが、イタリア、フランスの党代表は、ヨーロッパ諸国は日本と事情がちがうので、誤解を生まないために、ヨーロッパ以外という地域的限定をくわえることをもとめた。代表団は、原則的には、これは一国だけの例外的な現象や革命方向ではないと確信し、その意味ではほんらい地域的限定は不必要だと考えていたが、そういうさまざまな党のおかれた状態を考慮して、この点では固執しなかった」(『70年史』上、290〜291頁)。
ここではっきり示されているように、当時の日本共産党指導部は、発達した資本主義国なのに外国帝国主義の従属に陥るという現象さえ日本に限ったものではなく、むしろかなり普遍的なものであるとみなしていた。それどころか、ヨーロッパにさえそういう国があるという認識であったのである。これが、これまでの日本共産党指導部の認識であった。
ところが、実を言うと、先の引用文はほぼそのまま(ですます調になった上で)『80年史』にも受け継がれている(『80年史』、155頁)。『80年史』を編集した人々は、宮本時代の従来の「従属国」認識と不破史観の新しい「従属国」認識とがまったく矛盾していることに気づくことさえなく、しかも後者をいっそう単純化させた上で併記しているのである。
この部分もそれ以前の党史にはない追加である。その意味するところは、徳球系党中央の失態を指摘することで徳球系党中央の愚昧さを示唆し、よってその信頼ないし権威を落とし込めようとする魂胆にある。
続いて、政治局による有名な「所感」の話が出てくるが、ここでも「所感」に反対した宮本の功績や、論評の意義、「所感派」が自主独立派ではなかったことなどがくどくどと追加されている。『65年史』、『60年史』では、 「コミンフォルムの論評を受けて、党中央委員会政治局は、1月12日、『「日本の情勢について」に関する所感』を多数決で決定して発表したが、その内容は、国際批判の提起している問題を戦略上の問題として正しく理解しないあやまったものであった。政治局、書記局のなかにもこれに反対する意見があった」(『65年史』上、131頁。『60年史』、130頁)としていたところが次のように書き換えられている。
「1月12日、党中央委員会政治局は、『「日本の情勢について」に関する所感』を宮本らの反対をおしきり、多数決で決定して発表した。『所感』は、コミンフォルム論評が指摘した『野坂理論』の欠点はすでに克服されているとして、この点を明確にしておかなかった党活動上の欠陥をみとめつつ、『野坂理論』を『反愛国的』『反日本的な理論』とした論評の結論を『受け入れ難いもの』とした。『所感』は、論評の提起している問題を戦略上の問題として理解せず、日本の情勢と『野坂理論』として表明された誤った傾向への本格的再検討の意思もなかった。『所感』は、論評が日本の闘争の諸条件を考慮にいれていないことを『遺憾』としたが、それが自主的立場からのものでなかったことは、徳田派ら『所感』の支持者たちが50年6月6日の弾圧後、その首脳部の多くの北京亡命と前後した時期から、公然とソ連共産党や中国共産党の支持に追随して極左冒険主義=武装闘争の方針をとったことなどでもあきらかである。 当時、政治局のなかにも宮本顕治らこの『所感』に反対する意見があった」(『70年史』上、204頁)。
この文章の後段は無茶苦茶である。徳球系党中央がスターリン率いるコミンテルンの指導に対して遺憾表明したという日共運動創立以来初めての自主独立性に対して、これを否定することが出来ぬため、その後の徳球系党中央のコミンテルンへの同調性を指摘して「それが自主的立場からのものでなかった」と意義を落とし込めている。且つ、当時、コミンテルンの指導に従うべし論を唱えた宮顕ら国際派に対しては、「政治局のなかにも宮本顕治らこの『所感』に反対する意見があった」などと単なる事実のみ書き込んで逃げている。まことに姑息卑怯な書き方であろう。
この後に、これまでの党史では、1月18〜19日に第18回拡大中央委員会が開催され、そこで論評の「積極的意義」を認める決議が挙げられ、全面講和を求める「一般報告」を採択したという話が続いている。『65年史』も『60年史』も第18回中央委員会の話はこれで終わっているのだが、『70年史』ではこれに続いて、なお執拗に、18中委が論評の意義を認めたことの正当化がなされている。「18拡中委が、『所感』を支持せず、乱暴な干渉的批判という手法にもかかわらず、コミンフォルム論評の意義をみとめたのは、主として、論評を契機に、論評が提起している戦略的方針の解明とともに、それをはばんできた徳田らの粗暴な官僚的、セクト的党指導の刷新をすすめようという動機からであった。いわゆる『占領下の平和革命』論は、アメリカの全一的武力占領下で、政権獲得をあまく主観的に展望したもので、正しくないものであった。当然のことながら、この『理論』を批判することは、占領下の武装闘争を主張することと同じ意味ではまったくなかった。論評自体も、そういうことを主張せず、反対に当時の党の主張を同じく、政策的にも実践的にもポツダム宣言の全面実施、全面講和、独立と民主主義のための民主勢力の結集を基本路線として強調していた。また『一般報告』もあらゆる人民層を結集した民主民族戦線の必要性をのべていた」(『70年史』上、204〜205頁)。
さざなみ通信は、「まさに執拗としか言いようのないぐらい、論評の内容上の正しさ、その意義が述べられ、それを宮本らが支持したことの正当性が繰り返されている。その後の記述でも、『70年史』は相当の紙幅を費やして、コミンフォルム論評の正当性、宮本が受けた不当な扱い、宮本の正当な言動が詳細に展開されている。それをいちいち紹介するのはあまりにも煩雑であろう。言葉が多く費やされればされるほど、当時の宮本の行動にやましいところがあったことを逆照射している」と述べている。
もう一つだけ、『70年史』とそれ以前の党史との重要な違いを示す事例を紹介しておく。それは、1951年8月に出された2度目のコミンフォルム論評に対する評価である。『70年史』は、50年1月の最初の論評とこの2度目の論評とを比較して次のように述べている。
「この2度目のコミンフォルム論評は、党の統一の回復を妨害し、おくらせるうえで決定的な否定的役割をはたした。その点で、『占領下平和革命』論の批判に限定し、正しい綱領的展望をもとめていた当時の党内事情に適合した積極的側面をももっていた50年1月の第1回の論評と51年8月の2回目の論評には、重要なちがいがある。この二つの論評を同一視することは、50年問題の本質を見誤ることになる」(『70年史』上、211頁)。
第1回目と第2回目の論評はソ連と中国党による干渉という一連の流れの中で出ているにもかかわらず、このような本質的区別をすることで、あくまでも宮本の一貫した正しさを証明しようとしている。このような区別論はそれ以前の党史には存在しない。それ以前の党史では、単に2回目の論評は1回目の論評よりも「いっそう重大な干渉」であったとしか評価されていない。
以上見たように、『70年史』は、コミンフォルム論評に対する高い評価、それを宮本ら国際派が支持したことの正当性に相当な分量を割いている。それまでの党史には見られないこのような突出ぶりは、言うまでもなく、50年問題における宮本の一貫した正しさ、その正当性を全面的に論証し、そうすることでソ連資金問題から宮本と党を防衛するとともに、宮本史観を完成させることにあった。しかし、そうした主目的に付随して、この『70年史』においては、「50年問題」に関する複雑な見方も提示されている。第一に、コミンフォルムの第一論評の意義を高く評価することで、「50年問題」を単純に外国からの干渉に還元していないこと、第二に、執拗に「占領下の平和革命論」を批判していることからもわかるように、51年以降顕著になった極左冒険主義のみならず、それ以前の右翼日和見主義をも批判および克服の対象とみなされていたことである。
さて、『80年史』ではこの問題はどのように扱われているだろうか? まずコミンフォルム論評に対する『80年史』の評価を見てみよう。
「アメリカ占領軍による党や国民運動への弾圧がつよまっていたもとで、党内には、党の指導と活動が、日本政府と吉田内閣への批判と闘争にむかうだけの現状に疑問がひろがっていました。この論評がまさにこの時期に出されたために、党内外には、コミンフォルム論評を善意の助言――アメリカ占領下での党の戦略方針のあいまいさを指摘し、公正な講和の獲得による民族独立の課題へのとりくみや占領政策への明確な評価と態度を確立することの重要性を説いたまじめな忠告とうけとる気持ちが、ひろく生まれました。
しかし、コミンフォルム論評にこめたスターリンらのねらいは、表むきの文章とはちがって、日本共産党への中国流の武装闘争のおしつけをはかり、日本の党と運動を組織的にも自分たちの支配と統制のもとにおこうとした、きわめて陰謀的なものでした。……
こうした経過のうえにたって発表されたコミンフォルムの論評には、文面上、武装闘争の指示はありませんでしたが、実際には、これが、日本共産党にたいするソ連・中国合作の武装闘争のおしつけをめざす干渉作戦のはじまりとなったのです」(『80年史』、101頁)。
このように、コミンフォルム論評に対する高い評価が完全になくなっているだけでなく、「きわめて陰謀的なもの」として全面的に否定的に扱われ、論評の客観的意味を、それを出した側の動機・意図に完全に従属させて評価していることがわかる。『70年史』においても、この論評がソ連・中国両共産党の干渉の武器であったことは言われていたが、そのことに論評の意義を還元させてはいなかった。しかし『80年史』では、「50年問題」はほぼ全面的に外国からの干渉と陰謀という純粋に外的な要因によって引き起こされたものとみなされている。また、コミンフォルム論評が、当時党内で支配的であった「占領下平和革命論」に対する批判を含んでいたという点はまったく言われておらず、「アメリカ占領下での党の戦略方針のあいまいさを指摘」というまさに「あいまいな」表現にとどまっている。
論評それ自体に何の意義もなく、ただ陰謀の産物だとすれば、この論評を最初から高く評価していた宮本の立場はどうなるのだろうか? 『80年史』はその点について次のように書いている。
「コミンフォルムの論評を受けて、1950年1月12日、党中央委員会政治局は、宮本顕治らの反対をおしきって『「日本の情勢について」に関する所感』を多数で決定しました。宮本は、党の戦略的立場の不明確さを指摘した点にコミンフォルム論評の意義をみとめていました」(『80年史』、103頁)。
このように、「党の戦略的立場の不明確さを指摘した」という点は、コミンフォルム論評それ自体の客観的評価としてではなく、あくまでも宮本個人の主観的評価として記述されている。これは、宮本神格化という党史の最大の目的の一つが部分的に後景に押しやられていることを示している。
コミンフォルムの第1回目の論評と第2回目の論評と本質的区別論に関してはどうだろうか? その部分を読むと、『80年史』はそのような区別論をいっさいとっていないことがわかる。
「このように、コミンフォルムの2回目の論評は、徳田・野坂分派の支配を決定的なものにしようともくろまれたものでした」(『80年史』、111〜112頁)。
このように、宮本の正当性を言うために無理に持ち出された両者の本質的区別論が完全に姿を消している。
以上見たように、『80年史』が、『70年史』でのコミンフォルム論評認識を基本的に否定し、外国党からの干渉と徳田・野坂分派の分派的策動という図式に純化させていることがわかる。このような認識の変化は、『80年史』における「50年問題の歴史的教訓」という部分でよりはっきりと示されている。そこでは、「50年問題の歴史的教訓」は、第一に、日本共産党が「いかなる外国勢力からの干渉もゆるさないという自主独立の立場を確立したこと」、第二に、「武装闘争論の誤りが、徹底的に証明されたこと」である、とされている。このような単純なまとめ方は、それ以前の党史にはなかった。この2大教訓に付随する形で、「党の分裂と外国からの干渉をゆるした大きな根の一つに、当時の党内につよくあった反民主的な気風があった」という点も指摘されている(『80年史』、127〜128頁)。
『80年史』における以上のような「50年問題」認識は、ソ連が社会主義の過渡期社会でさえなく、単なる専制国家であるという認識と結びついていると思われるが、いずれにせよ『80年史』の「50年問題」論もまた、現在の党指導部の路線を歴史的に正当化するという目的に奉仕しているのである。
「レーニン死後、スターリンは、市場経済をつうじて社会主義をめざした『新経済政策(ネップ)』の路線をたちきり、一九三〇年代には、農民を強制的にコルホーズなどにおいこむ『農業集団化』を強行しました。」(55ページ)
このようなネップに関する記述は『70年』までには見られないものであり、近年の不破議長の「理論」の反映である。中国・ベトナムの市場化への賛美も同様である。終章では、不破議長の党創立80周年講演から、「世界を前向きに動かす大きな力」の3つとして、@「非同盟諸国をはじめとした、……アジア、中東、ラテンアメリカ諸国の社会進歩への大きな胎動」、B「日本をはじめとした〔なぜ「日本をはじめと」するのか?〕発達した資本主義国における……社会変革の運動」と並べて、A「中国、ベトナムなど、『社会主義をめざす国』における、『市場経済を通じて社会主義へ』という、かつてレーニンが提起して最後まで歩きぬいた国はひとつもない、あたらしい事業への挑戦」を上げている(321ページ)。さながら今日版「三大革命勢力」のようである。
「『社会主義をめざす国』としては、ベトナム、中国、北朝鮮、キューバの四つの国が存在してい」るはずだが(不破哲三『綱領路線の今日的発展』、下、40ページ)、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)、キューバは「世界を前向きに動かす大きな力」には入っているのかどうか。「など」というのは、例示なのか無意味な接尾語なのか。
そもそも、第20回党大会以来用いられている、「社会主義をめざす」という規定の本来の意味を確認しておこう。
「『社会主義をめざす』という言葉は、その国の人民あるいは指導部が社会主義を目標としてかかげている事実をあらわしているだけで、これらの国ぐにが社会主義、共産主義にいたるいわゆる過渡期に属していることを、一律に表現したものではない……
その国が現実に社会主義社会にむかう過渡期にあるのか……国ごとの個別の研究と分析であきらかにすべき問題だと考えています」(同大会報告)
「社会主義をめざす」とはこのような意味でしかなかったはずだが、第22回党大会決議では、この規定の趣旨が踏みにじられ「資本主義の体制から離脱した国々、すなわち『社会主義をめざす国々』」と表現されたり、中国・ベトナムの市場化が社会主義への過渡であるかのように賛美されたりするようになっている。
それでは、いったい、いつ・どの程度「国ごとの個別の研究と分析」がなされたのか? たしかに中国・ベトナム・キューバに党幹部が訪問したりはしているが、深い個別具体的な分析結果が出されているとはいいがたい。中国に関していえば、関係修復後のわずかな訪問がせいぜいである。たかが5日間の中国旅行では到底「国ごとの状況の個別の具体的な分析」(不破哲三、同前)にとって代わることはできないだろう。
かつて宮本顕治氏は、たとえば71年には約2週間に渡ってルーマニア社会主義共和国を訪問し、「パレードや各地の訪問をつうじて、ルーマニアの労働者階級と各界の広範な人民が、チャウシェスク同志を先頭とするルーマニア共産党中央委員会の周囲にかたく団結して、意気高く、社会主義ルーマニアのいっそうの前進のため、全力をあげて奮闘している姿を、具体的に知ることができました」といい、「あなたがたの活動が、全体として、社会主義建設の理想についての新しいはげましをあたえる要素をもっていた」と賛辞を送っていた(「赤旗」1971年9月5日、宮本顕治「日本共産党とルーマニア共産党の兄弟的友情のための集会での演説」、『自主独立の道』新日本出版社、1975年、所収)。その後も党幹部が幾度となくルーマニアを訪問してきたし、不破氏も84年に訪問し、各地を視察している(「赤旗」1984年6月17、20日付)。とはいえ、日本・ルーマニア両国共産党友好の日本側主役はあくまで宮本氏であった。はたして、日本・中国両国共産党友好の日本側の主役である不破氏はどれほどの違いをみせてくれるのだろうか。
さらに、76年の第13回臨時党大会で制定された「自由と民主主義の宣言」について、「社会主義と市場経済の結合が、世界でどこでもまだ問題になっていない時期に、『宣言』は社会主義日本でも市場経済を活用することを明確にしました」(228ページ)と記している。もちろん、このような記述も従来にはないものである。そもそも制定当時の「自由と民主主義の宣言」には、「市場」という言葉自体どこにも存在していないのであって、「結合」「活用」を云々する以前の問題である。
近年の不破議長の『国家と革命』非難もいくつか反映されている。
「(「『五〇年問題』の歴史的教訓として」第二に、武装闘争論の誤りが、徹底的に証明されたことです。……武装闘争論は、理論的には、レーニンが『国家と革命』でしめした、「議会の多数をえての革命」の原理的否定という誤った論断にねざしていました)(127-28ページ)
「党は、六十七年四月二十九日の論文『極左日和見主義者の中傷と挑発』で、……レーニンの『国家と革命』などの言説を絶対の真理扱いすることに反対し、マルクスいらいの科学的社会主義の理論と運動のなかに、民主的議会をかちとり、そのもとで「議会の多数をえて革命にすすむ」方針が一貫して流れていることをあきらかにして、この無法な攻撃を理論的にもうちやぶりました」(193ページ)
いずれも、従来の「党史」では『国家と革命』についてはまったく触れられてはいない部分である。綱領についても、「日本の社会と政治のどんな変革も、『国会で安定した過半数』をえて実現することをめざす、としました」(159ページ)といって、従来以上に法律絶対を強調している。
そもそも綱領にしろ、論文「極左日和見主義者の中傷と挑発」にしろ、そこで貫かれているのは「敵の出方論」であり、「平和革命唯一論」も「暴力革命唯一論」も否定しているということである。論文「極左日和見主義者の中傷と挑発」でも、党綱領制定過程についてふれて次のように述べている。
「わが党は、革命の平和的移行を『唯一の道』として絶対化する修正主義者の右翼日和見主義的な『平和以降必然論』に原則的な批判をくわえるとともに、……平和移行の可能性を全般的に否定する極左日和見主義的な『暴力革命唯一論』をも正しく克服し、……革命の移行形態の二つの可能性を全面的に考慮にいれたマルクス・レーニン主義的見地を確立したのである。」(「極左日和見主義者の中傷と挑発」、『日本共産党重要論文集』5、87-88ページ)
「日本の政党のなかで、統一戦線と統一戦線政府の樹立を党の基本方針として綱領に明記しているのは、日本共産党だけである〔です―『80年』〕。」(『70年』上、298ページ、『80年』161ページ)
そして、『80年』ではこのあと、「日本社会はいろいろな考えの人びとから成り立っており、それぞれの時期に、社会のさまざまな流れを代表するいろいろな政党がうまれます。そういう政党・団体が一致する目標で協力・共同し、一歩一歩前進していく、これが党綱領のすえた基本的立場でした。」といい、社会党が「綱領的文献で社会党の『単独政権』をめざすとしてい」たことを暗にけなしている(159ページ)。
「日本社会はいろいろな考えの人びとから成り立って」いるとか、「社会のさまざまな流れを代表するいろいろな政党」が存在するのはいうまでもない。だが、いうまでもなくそのなかには反動的党派も数多く存在するのであって、そのような政党・団体と「一致する目標」など存在しないかごく限定的・末梢的である。「さまざまな流れ」といっても、資本家階級の基盤の上でのものもあれば(「自民党」「自由党」「民主党」のように)、労働者階級の基盤の上でのものもある(共産党や新社会党など)。前者は、基本的には階級闘争の対象である。「いろいろな考えの人びと」から成り立っているからといって、それをそのまま前提にすればよいというものでもない。労働者階級の中にも反動的な思想の持ち主はたくさんいるだろう。それは、その考えを前提にしては共同などできないかごく限られるのであって、思想闘争が必要とされるのではないか。
さらに、新たに追加された、ほとんど意味不明な記述も見られる。
「綱領は、社会は国民多数の世論の成熟にともなって段階的に発展するという立場を貫いていました。この立場は、……民主主義の問題でも、国民のあいだで問題が成熟する度合いにおうじて、いろいろな時期に、いろいろな提起がありうることを明確にしたものでした。」(160ページ)
一般的にいえば、「いろいろな時期に、いろいろな提起がありうる」のは当然すぎる話であって、あらためて「明確に」するまでもないことである。だが、このような記述が加えられたのは、「国旗・国歌法制化」容認などのような近年の行動が念頭にあると考えられる。それにしても「問題が成熟」というのもよくわからない表現である。文章の流れでいえば、「世論の成熟」を受けているのだから、「意識」なり「世論」ではいけないのか?
ソ連邦などへの酷評がより徹底したものとなっている。『70年』においてすら、ソ連邦の「社会主義的民主主義の原則に反する重大な誤り」にもかかわらず「第二次世界大戦での社会主義ソ連の役割が、反ファッショ連合勢力の勝利という結末に大きな役割を果たした」ことは評価していたが(『70年』上、143ページ)、『80年』ではもはやこのような記述は伺えない。全体として、「『超大国』の1つとして世界でわがもの顔にふるまっていた」(225ページ)とか、「米ソの覇権主義」(251ページ)などという表現をみると、あたかもソ連邦がアメリカ帝国主義と同等かそれ以上の「悪の枢軸」であるかのようである。じっさい、ソ連・中国と「生死をかけてたたかった」(164ページ)という、従来からのものではあるが、アメリカ帝国主義や日本独占資本との闘いでも見られない最大級の表現が使われ、自主独立は「二十一世紀に生きる党の貴重な財産」とされている(これは、『80年』の基調の1つでもある)(180ページ)。
ソ連邦について、従来にない記述も追加されているが概してネガティブなものである。たとえば、日ソ中立条約を結んだことで「枢軸諸国以外で『満州国』を事実上みとめた、数少ない国の1つになりました」(『80年』57ページ)とか(事実上認めたというだけならそこまで遅らせる必要はない。たとえば、35年には東清鉄道を「満州国」に売却している)、コミンフォルム論評について『70年』では「当時の党内事情に適合した積極的側面をももっていた」とされていたのが(『70年』上、211ページ)、「日本共産党への中国流の武装闘争のおしつけ」を図り「日本の党と運動を組織的にも自分たちの支配と統制のもとにおこうとした、きわめて陰謀的なもの」(『80年』、101ページ)ともっぱら批判面が強調されている。
一方、ソ連邦社会自体ついては、「専制と人間抑圧の社会」「覇権主義と官僚主義・専制主義」「ソ連型の政治・経済・社会体制による人間への暴圧」等々、勇ましいレッテルは並んでいるが、内容は乏しい。チェルネンコ時代の日ソ両党共同声明はかろうじて出てくるが(『80年』、258ページ)、『70年』でも積極的なものとされていた宮本・チャウシェスク共同宣言(『70年』271-72ページ)をはじめ、ソ連・東欧諸国の党との交流はほとんど出ても来ない。
「党の崩壊につづいてソ連邦が崩壊しつつある。……レーニンのいった自由な同盟の、自由な結合がソ連邦にはなかったんだから、私たちとしてはもろ手をあげて歓迎とはいいませんが、これはこれとして悲しむべきことでもないし、また喜ぶべきでもない。きたるべきものがきたという、冷静な受け止めなのです。」(宮本顕治「世界史の到達と社会主義の生命力――ソ連共産党、ソ連邦はなぜ破綻したか」、『前衛』92年3月号、『日本共産党国際問題重要論文集 24』、182ページ)
また、92年新春インタビューではなお「ソ連史のなかには、医療の無料化とか社会保障などレーニンの時代のよい遺産があとまでかなり残っていたことや、また、ヒトラーのファッショ戦争への闘争とか輝かしい記録もあるので、全部を清算主義的にみるべきではないことも留意すべき」とも述べている(「赤旗」1992年1月1日付、同前、217ページ)。「腐っても鯛」という例えをも否定するような、近年の不破議長の発言には「全部を清算主義的」に見ているものが多々見受けられる。そもそも1つの国家の崩壊というのは、たとえそれがいかに必要であり必然とあろうと相当な苦しみを伴うものであろうし、それを単純に無邪気に喜べるものかという問題もあるが、それをおくとしても、現に存在する資本主義と異なる体制であるソ連邦の崩壊がもたらした、非資本主義の世界が存在しうるという意識への打撃等々の重みを考えるべきではないか。
なお、付け加えておけば、党員が宣伝で「ソ連が崩壊したとき、わが党はもろ手を上げて歓迎しました」という言い方をするようなことは見られたし、専従などがそれを止めたりしていたような例は寡聞にして知らない。したがって、党外の人間が「ソ連邦崩壊を日本共産党は歓迎したんでしょ」という理解をしていても、ありうる話であり、現にそのようなことはあった。党の過去の記事などを確認すれば、「ソ連邦崩壊歓迎」というような党声明を逸脱した表現も発見可能かもしれないが、当時の党の立場は上記の通りであることを確認しておけば足りる。
以上、目についた部分をいくつか見てきたが、ここで指摘したのはあくまで、従来の立場からのなしくずし的変遷などの問題であり、そこには新しい理論的解明を必要とする問題も含んでいるかもしれないし、党指導部が明確な立場にたっていないということもありうるだろう。それなら、そう明らかにすればよいのであって、小手先の表現で糊塗すべきではない。志位委員長が記者会見で述べた「何ものをも恐れない科学的社会主義の精神誤りや制約にたいしては自己分析性を発揮するという精神」が貫かれていないということである。
今回は不破・志位指導部といえる体制になってからの歴史の記述の部分(だいたい9、10章)はあまり扱えなかった。この間の一連の「さざ波通信」で扱われているということもあるが、あらためて検討すべき点がないというわけではない。それについては、今後の議論に期待したい。
最後に、一読して最初に気がついたことを記しておこう。今回の「党史」は大幅な改訂が加えられたが、それは『50年』以来不変だった最初の一文も免れることはできなかった。すなわち、「わが国の進歩と革命の伝統をうけついで、日本労働者階級の前衛によって創立された」日本共産党は、「主権在民の民主政治の実現と侵略戦争反対の平和の旗をかかげて誕生〔どうやって?〕」したことになった。「前衛」の看板を下ろしたのにふさわしい改訂ではある。
このように、『80年史』では、「平和的手段による変革を否定した」51年綱領の立場をしりぞけたとしか言われていない。しかし、この部分の記述は、それまでの党史では次のようになっていた。
「また、革命の移行形態については、『51年文書』の一面的で誤った規定を排すると同時に、平和的手段による革命の道が無条件に保障されていると考える『平和革命必然論』をもしりぞけ、平和的手段による革命の達成をあくまで追求しながら、あれこれの不法な暴力でこの道をとざそうとする『敵の出方』に必要な警戒をおこたらないという、原則的な見地を明確にした」(『70年史』上、266頁、強調は引用者。以下同じ)。
このように、『70年史』で「しりぞけた」とされているのは、むしろ、「平和的手段による革命の道が無条件に保障されていると考える『平和革命必然論』」の方であった。いずれにせよ、『70年史』では、平和革命の可能性を否定する議論も、平和革命が無条件に保障されているとする議論もしりぞけ、「敵の出方論」という原則的な見地を明確にしたことが、重要な事実として指摘されていたのである。このような立場は、それ以前の党史でも基本的に同じである。たとえば、『65年史』では以下のようになっている(『60年史』でも同じ)。
「また、革命への道すじについては、『51年綱領』の『強力革命唯一論』を排すると同時に、平和的手段による革命の道が無条件に保障されていると考える『平和革命必然論』をもしりぞけ、平和的手段による革命の達成をあくまでも追求しながら、暴力でこの道をとざそうとする敵の出方に必要な警戒をおこたらないという、原則的な見地を明確にした」(『65年史』、158頁)。
「敵の出方論」は党綱領路線の基本的要素であり、党は基本的に一貫してこの立場に立ってきた。このような原則的立場を今回の『80年史』でこっそり削除したことは、今日の不破指導部の基本姿勢および党綱領改定の方向性を示している。
『80年史』はこの記述に続いて、綱領草案をめぐる討論を紹介している。そして、この討論において二つの問題が論争点になったとしている。その二つとは、「アメリカに対する日本の従属関係の評価」と国内での反独占の任務をめぐる論争点である(137頁)。『80年史』は、綱領草案反対派(主としては春日派)がこの二つの争点をめぐって、従属規定に反対するとともに、反独占なら社会主義革命であるという立場をとったことを紹介している。しかし、これまでの党史では、実は、これらの争点のみならず、もう一つ重大な争点が紹介されていた。たとえば『70年史』はこう述べている(『65年史』、『60年史』でもほぼ同じ)。
「春日庄次郎、内藤知周ら……は、……また、革命の移行形態の問題でも、国際情勢の有利な発展など外部的な要因を理由に、反動勢力の暴力行使の危険性を無視する『平和革命必然』論を社会主義へのただ一つの道として定式化することを主張した。」(『70年史』上、266頁)。
ここでも平和革命必然論に対する批判がなされている。だが、こうした記述は『80年史』では完全に削除されている。当時の文献を調べればすぐにわかるように、平和革命必然論をめぐる論争は、党章草案をめぐる議論で中心的なテーマの一つであった。たとえば、第7回党大会の綱領問題をめぐる論争についての報告(報告者は宮本顕治)は、「9、革命の平和的移行について」という特別の章を立てて、3頁にわたってこの問題について詳しく論じている(『前衛特別号 第7回党大会決定集』、175〜178頁)。『80年史』は、このような歴史的事実を完全に切り捨ててしまっているのである。
『80年史』は安保闘争の記述の後に、新綱領(61年綱領)を制定した第8回党大会の記述に移っている。ここでは実に多くの政治的な書き換えや削除や追加が見られる。まずは、春日派と構造改革論をめぐる記述を見てみよう。『80年史』は、党綱領をめぐって除名された春日派について次のように記述している。
「この会議(61年3月の中央委員会総会――引用者)では、5人の中央委員、2人の中央委員候補が、当面する革命の性格を反帝反独占の民主主義革命とする草案の見地に反対して、反独占社会主義革命とする見地に固執し、この決定に反対しました。かれらは、その主張の根底にアメリカ帝国主義の侵略性の過小評価、独占資本主義国の革命は社会主義革命しかないとする教条主義があると批判され、まともに反論できなくなっていました。そして自分たちの破たんをとりつくろうために、イタリア共産党の『構造改革』論などをしきりにもちだしましたが、これは、自主独立の立場に反する対外追従的な傾向と深い関係がありました」(『80年史』、157〜158頁)。
この部分とほぼ同じ記述が『70年史』にも存在する。しかしながら、『80年史』は、過去の党史の記述を受け継ぎつつも、政治的な取捨選択を行ない、いくつかの重要な部分を削除している。
まず、「独占資本主義国の革命は社会主義革命しかないとする教条主義」という部分だが、『70年史』では「独占資本主義国の革命は社会主義革命しかないとする権力問題ぬきの教条主義」(『70年史』上、293頁)となっていた。つまり、春日一派が批判された主要な点の一つは、アメリカ帝国主義の支配を革命的に覆すという権力問題を抜きにして、直接、社会主義革命が可能であるかのように主張した点であった。ところが、この肝心要の「権力問題抜きの」という一文を削除してしまうと、全体の趣旨が、あたかも、社会主義革命を先送りすることが党綱領草案の立場であるかのように読めてしまう。
さらに、春日派がイタリア共産党の「構造改革論」を持ち出したことについて、『80年史』では単に、「自主独立の立場に反する対外追従的な傾向と深い関係」があったとしか言われていないが、『70年史』では次のように批判されていた。
「これらの党幹部(春日派のこと――引用者)と党内外の一部の論者たちは……完全に破たんした『一つの敵』論や『社会主義革命』論のほころびをつくろうために、イタリア共産党の『構造改革』論などをしきりにもちだしてきた。そして一方では日本の独立の課題は革命なしに統一戦線政府の段階で改良として達成されるし、他方では経済上の改良のつみかさねによって、社会主義への自然成長的移行がなされると主張するなど、まさに二重の改良主義を露呈した。この主張は、自主独立の立場に反するかれらの対外追従的な傾向と深い関係があった」(『70年史』上、293頁)。
このように『70年史』では、「構造改革論」の改良主義的性格が中心的に批判され、「対外追従的」性格については、追加的な論点として述べられているにすぎない。にもかかわらず、『80年史』では、改良主義的性格の批判が完全に削除され、批判点としては二義的な論点であるはずの対外追従批判のみが残されている。
ちなみに、『70年史』における「この主張は、自主独立の立場に反するかれらの対外追従的な傾向と深い関係があった」という記述は、実は、『70年史』で初めて挿入された文言である。つまり、『70年史』以前には、構造改革論に対する批判としてはただその改良主義的本質が言われていただけなのである。『70年史』になってはじめて追加的論点として挿入されたものが、『80年史』では中心的論点となり、以前から一貫してあった改良主義批判が『80年史』ではごっそり削除されている。これが、現在の不破路線にあわせて歴史を書き換える政治的な取捨選択でなくて何だろうか?
同じく、春日一派に対する批判の中で『70年史』は次のように論じていた。
「春日一派は分派活動を合理化するために複数前衛党論を提起したが、歴史の経過そのものによって複数前衛党論はみじめに破産した」(『70年史』上、295頁)。
この部分は、共産党の「前衛党」規定自体が消失したことにともなって削除されている。
『80年史』もそれ以前の党史も、春日派の除名について記述した後に、第8回大会で採択された新綱領の基本点について説明している。そして、61年綱領の核心である「二つの敵」論と二段階革命論についての説明がなされている。この部分は、『70年史』以前の党史と『70年史』では大きく異なっており、その変化の基本点は、32年テーゼに関する記述と同じく(前号の『さざ波通信』の論文を参照のこと)、「資本主義の枠内での民主的変革」という側面を強く押し出すようになったことである。『80年史』はこの流れをいっそう徹底している。
まず、『60年史』における当該部分を紹介しておこう(『65年史』も同じ)。
「綱領は、真の独立と民主主義をめざす人民の民族的、民主主義的なエネルギーを積極的に評価すると同時に、独立と民主主義をたんなる改良のわく内でなく、根本的変革の課題としてとらえ、反帝・反独占の民主主義革命、人民の民主主義革命の達成――独立、民主、平和、中立の日本の建設を通じて社会主義革命へすすむという、日本の革命の展望を明確にしめした」(『60年史』、177頁)。
この記述から明らかなように、ここでの強調点は、「真の独立と民主主義をめざす」という課題を「たんなる改良のわく内でなく、根本的変革の課題としてとらえ」て、それを革命的に実現するという点であった。しかしながら、この記述は、『70年史』では次のように大きく変化している(太字部分が追加変更箇所)。
「綱領は、真の独立と民主主義をめざす人民の民族的、民主主義的なエネルギーを積極的に評価すると同時に、資本主義のわく内での真の独立と民主主義の徹底をたんなる改良のわく内でなく、根本的変革の課題としてとらえ、反帝・反独占の民主主義革命、人民の民主主義革命の達成――独立、民主、平和、中立の日本の建設を当面の任務とすることを明確にした。そして民主主義革命の段階をへて社会主義革命へすすむという、日本の革命の展望を明確にしめした」(『70年史』上、297頁)。
このように「資本主義のわく内での」という言葉が追加されている。さらに、これでも足りないと思ったのか、『70年史』は次のような一文を追加している。
「反帝反独占の民主主義革命の路線は、日本社会の現実の矛盾を人民にとってよりよい方向に打開する法則的な道すじにそって、必要な段階をへながら社会変革をすすめるという科学的社会主義の運動論にもとづくものであった。すぐ社会主義をめざすのではなく、日本の社会が当面した諸問題を国民多数の利益にそって、圧倒的多数の国民の団結の力で打開する方向をさししめした点に、反帝反独占の民主主義革命論の先駆性があった」(『70年史』上、297頁)。
しかし以上のような綱領解釈は事実を歪めるものである。当時における綱領問題責任者であった宮本顕治の大会報告の中には、民主主義革命を「資本主義のわく内」での改革だとする議論はいっさいなく、逆に、民主主義革命が社会主義革命への過渡であるとする議論がなされている。たとえば、第7回党大会における宮本報告はこう述べている。
「人民権力の下でのこのような売国的独占資本の人民的統制と国有化への移行をめざす措置は、社会主義への過渡的要素であるが、それがどの程度すすみうるかは、力関係にかかわるところが多いだろう。……重要産業の独占企業の国有化は社会主義への過渡的契機をふくんでいるが、人民連合独裁がはっきりプロレタリア独裁に発展転化するに応じて社会主義的部分となることができるのである」(『前衛臨時増刊 日本共産党第7回党大会決定報告集』、171〜172頁)。
「もちろん人民連合独裁とプロ独裁の間に万里の長城をきずくことは正しくない。前者は後者への過渡的な一時的な権力であり、それ自体が後者の萌芽形態である。それは当然、民族解放民主統一戦線内のプロレタリアートの指導性の強化、民族的民主的諸課題の達成の度合いに応じて急速にプロレタリアート独裁の機能を果たす人民民主主義権力に発展する性質のものである。……重要なことは、まず第一に、民族的民主的諸課題と社会主義への過渡的任務の達成をつうじて社会主義的諸変革に前進するという基本的コースを見失わないこと……」(同前、172頁)
このように、綱領が想定していた人民民主主義革命とは、こう言ってよければ資本主義のわく内での「民族的民主主義的課題」と、それにはおさまらない「社会主義への過渡的任務の達成」の両者を実現する革命だということである。ここで言う「過渡的」とはもちろん、資本主義から社会主義への過渡のことである。つまり、資本主義の枠を突破しているが、完全に社会主義的であるわけでもないものが「過渡的」性格を持つ課題である。だからこそ、「人民連合独裁とプロ独裁の間に万里の長城をきずくことは正しくない」し、この民主主義革命は、社会主義革命へと「急速にひきつづき発展」し「連続的に社会主義革命に発展する必然性をもっている」(61年綱領より)と想定されたのである。
61年綱領が革命の段階性に固執した理由はさまざまであるが、いずれにせよ、それは、人民民主主義革命が「資本主義の枠内での変革」であるからではなかった。段階性に固執した理由の一つは、第7回大会で宮本顕治が説明しているように、人民民主主義革命の段階では、農業や中小企業の分野に資本主義的関係が残されるからである(『前衛臨時増刊 日本共産党第7回党大会決定報告集』、171頁)。つまり、人民民主主義革命はすでに独占資本の支配の打破という点で「資本主義の枠」を突破しているが、農業や中小企業分野ではまだ資本主義的関係が残るので、資本主義的関係全般を廃絶する革命とは区別されると61年綱領はみなしているわけである。実際には、ロシアの10月革命でさえしばらく農業や中小企業分野では資本主義的関係が残されたように、社会主義革命というのは何も社会のあらゆる分野において資本主義的関係を廃絶することを目標とするものではない。実際、後に党指導部は、社会主義革命後も農業や中小企業レベルでは資本主義的諸関係が残されると言うようになった。その意味で、当時の指導部の考えは一面的であるが、いずれにせよ、61年綱領も当時の党指導部も、人民民主主義革命が「資本主義の枠内の改革」などではなく、すでに「資本主義の枠」をその最重要の部分で突破するものであることを当然の前提としていたのである。
このように、『70年史』の段階ですでに、綱領における二段階連続革命論が二段階不連続革命の方向へと大きくずらされていた。しかし、こうした変化は、『70年史』ではまだ徹底されていない。というのは、「独立と民主主義……をたんなる改良のわく内でなく、根本的変革の課題としてとらえ」るという過去の党史の記述がそのまま残っていたからである。しかし、『80年史』ではもっと徹底されている。『80年史』では当該部分は次のように書き換えられている。
「綱領は当面の変革について、民主主義革命論の立場をとり、とくにその内容として、日米軍事同盟を中心にしたアメリカへの従属関係をなくし、大企業の横暴な支配をうちやぶることを要としました。当時、発達した資本主義諸国の共産党の圧倒的多数が社会主義革命論の立場をとっているもとで、資本主義の枠内での民主的変革という方針をきめたことは、科学的社会主義を理論的基礎にした党としての独自の探求の成果でした」(『80年史』、160頁)。
このように、「たんなる改良のわく内でなく、根本的変革の課題としてとらえ」るという規定がなくなっただけでなく、「独占資本の人民的統制と国有化」という綱領的課題は、「大企業の横暴な支配をうちやぶる」というきわめて曖昧な表現に変えられている(ちなみに、民主主義革命段階での「独占資本の国有化」という課題が削除されるのは、1994年の第20回党大会においてである)。そして、61年の党綱領が「資本主義の枠内での民主的変革という方針をきめた」ことにされている。しかも、この『80年史』では、人民民主主義革命を通じて「社会主義革命に進む」という61年綱領の決定的な点が除かれている。かろうじて、先の引用に続いて次のようにあるだけである。
「また、綱領は、社会は国民多数の世論の成熟にともなって段階的に発展するという立場をつらぬいていました。この立場は、民主主義革命から社会主義革命への段階的発展を展望するだけでなく、民主主義の問題でも、国民のあいだで問題が成熟する度合いにおうじて、いろいろな時期に、いろいろな問題提起がありうることを明確にしたものでした」(『80年史』、160頁)。
「将来、社会主義への変革が問題になるときにも、目標が一致するすべての党派、団体、個人と共同する立場を明記しました」(『80年史』、160〜161頁)。
「いろいろな時期に、いろいろな問題提起がありうる」という無内容かつ無限定な規定など61年綱領のどこにもないが、いずれにせよ、人民民主主義革命を通じて「社会主義革命に進む」という主体的規定が完全に消失してしまい、社会主義革命の段階があたかも主体的な努力や志向と無関係に客観的にいつか「問題になる」かのように記述されている。こうして、民主主義革命から「急速にひきつづき」社会主義革命に発展させるとした61年綱領の革命的性格(革命の二段階性に固執するという弱点を持っていたとはいえ)が大きく改ざんされて説明されているのである。
『80年史』における新綱領の説明部分に見出せる「歴史の書き換え」は、革命の性格をめぐる諸問題をめぐる記述だけではない。革命期における国会の役割と連合政権に関する記述にも重大な問題が見出せる。
革命と国会
まず、『80年史』は「綱領は、日本の社会と政治のどんな変革も、『国会で安定した過半数』をえて実現することをめざす、としました」(『80年史』、159頁)と書いいるが、これも事実に合致しない。まずもって61年綱領のどこにも、「日本の社会と政治のどんな変革も、『国会で安定した過半数』をえて実現することをめざす」などと書かれていない。綱領が書いているのはこうである。
「この闘争において党と労働者階級の指導する民族民主統一戦線勢力が積極的に国会の議席をしめ、国会外の大衆闘争とむすびついてたたかうことは、重要である。国会で安定した過半数をしめることができるならば、国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具にかえ、革命の条件をさらに有利にすることができる」。
「国会で安定した過半数」をえることは、民主主義革命の前提条件ではなく、あくまでも「革命の条件をさらに有利にする」要因として位置づけられている。あたりまえの話である。なぜなら適法的に「民族民主統一戦線政府」を樹立するうえで、必ずしも「国会で安定した過半数」は必要ないからである。たとえば、国会に主要な三つの潮流が存在し、それぞれが統一した首相候補を推薦し、投票の結果として、過半数に及ばないが相対多数をとれば、当然、その首相を中心に組閣がなされ、合法的に「民族民主統一戦線政府」が樹立されるだろう。あるいは、二つの主要な勢力が国会にいて、過半数ぎりぎりで民族民主統一戦線はが多数になるかもしれない。「国会で安定した過半数」というのはあくまでも、革命をより有利にする条件であって、その前提ではないのである。
さらに、この『80年史』の叙述では、「国会の安定した過半数」は民主主義革命の段階だけでなく「日本の社会と政治のどんな変革も」というように勝手に拡張されているが、そもそも61年綱領には、社会主義への変革過程に関して「国会で安定した過半数」云々の記述はない。過去の党史でも、このような無限定な記述は存在しない。
国会に関してさらに重要なのは、過去の党史では革命期における国会の問題をめぐって必ず書かれていた「国内外の大衆闘争とむすびついてたたかう」ことや「国会を反動支配の道具(機関)から人民に奉仕する道具(機関)にかえる」という重大な論点が『80年史』で完全に削除されていることである。この二つの点がなければ、共産党指導部がこれまで誇ってきた「人民的議会主義」は単なる「議会主義」に堕してしまう。
連合政権の問題
『80年史』は全般的に過去の党史を著しく短縮しているが、連合政権の問題に関してはむしろその記述が増大している。とりわけ『80年史』は次のように述べている。
「綱領は、社会発展のすべての過程で、統一戦線と連合政権に依拠することを、一貫した方針にしました。綱領は、当面の民主的な変革の段階でも、将来、社会主義への変革が問題になるときにも、目標が一致するすべての党派、団体、個人と共同する立場を明記しました。そして、この共同が国民多数の支持をえたときには、統一戦線勢力による連合政権をめざすことを、政治と社会を変える大方針にすえました」(『80年史』、160〜161頁)。
この記述にはいくつかの重要な問題がある。
まず第一に、61年綱領をよく読めばわかるように、綱領のどこにも「連合政権に依拠」するなどとは書かれていない。唯一あるのは「労働者、農民を中心とする人民の民主連合独裁の性格をもつこの権力は」という部分だけである。しかしここで言う「連合」とはあくまでも「階級間の連合」という意味であって、「諸政党間の連合政権」という意味ではない。理論的には、諸階級間の連合に依拠した共産党の単独政権も可能性としては排除されないし、党綱領もその可能性を排除していない。あたりまえの話ではなかろうか。たとえば、共産党以外のすべての諸政党が反動の陣営に入り、共産党が単独で国会の相対多数を占め、政府をつくることができるようになったらどうするのか? その場合でも無理やり、どこかの党を政権に引き入れて「連合政権」にするのか? 綱領が示した原則的立場は、人民民主主義革命においては人民内の諸階級(労働者、農民、中小ブルジョアジー、都市勤労市民など)の統一戦線ないし連合に依拠し、その統一戦線にもとづく政権を構成するということだけである。もしこれらの諸階級が独自の政党のうちに利益代表され、それらの政党が民族民主統一戦線に参加するときには、この統一戦線政府は当然ながら連合政権になる。しかし、他の諸階級が独自の政党に利害代表されず、共産党を支持した場合には、必ずしも連合政権にはならないのである。
当時の共産党は、社会党と違って、単独政権をめざすという立場をとらなかった。これは、しかし、けっして「連合政権をめざす」という意味ではない。「単独政権をめざさない」ことと「連合政権をめざす」こととは、まったく異なることがらである。共産党綱領はこの点で自らの手を縛らないように工夫されている。ちなみに、過去の党史では、すでにこの両者が混同されはじめており、「あたらしい日本をきずく人民の政府は、共産党の単独政権ではなく、当然、民主的党派の共同による統一戦線政府である」(『70年史』上、298頁)というように少し不正確な記述がなれるようになっているが、「連合政権に依拠する」とか、「連合政権をめざす」とまでは書かれていない。統一戦線政府と連合政権を意図的に混同するようになり、あたかも民族民主統一戦線政府が「連合政権」と同一であるかのような説明がなされはじめたのは、『80年史』より以前にさかのぼるが、党史として明確に書かれるようになったのは、今回の『80年史』がはじめてである。
第二に、『80年史』は人民民主主義革命の段階だけでなく、「社会発展のすべての過程で、統一戦線と連合政権に依拠する」と書いているが、これも61年綱領の立場ではない。61年綱領には「社会主義建設の方向を支持するすべての党派や人びとと協力」するとは書かれているが、「連合政権」に依拠するとは書かれていない。これは二重の意味でそうである。つまり、第一に「協力する」ことと「連合政権をつくる」こととは別であるという意味で、第二にこの「協力」も「社会主義建設の方向を支持する」党派が他にいる場合にかぎられているという意味で、である。「社会主義建設の方向を支持する」党派が他にいるなら、協力するのはあたりまえである。その党派が国会に議席を持つほど強力ならば、連合政権になるかもしれない。だが、そのような党派が存在しない場合には、協力は不可能であるし、そのような党派が存在しても国会に議席を持つほど強力でなければ、連合政権にはならないだろう。61年綱領は連合政権の可能性を排除しないという立場ではあっても、「連合政権に依拠する」ことを絶対化する立場でもないのである。実際、過去の党史においても、社会主義政権も連合政権に依拠するというような記述はなく、「協力を重視する」としか書かれていない。
さらに、『80年史』においては、この連合政権論に関して、先に引用した部分に追加して、次のような記述が見られる。
「日本社会は、いろいろな考えの人々から成り立っており、それぞれの時期に、社会のさまざまな流れを代表するいろいろな政党が生まれます。そういう政党・団体が一致する目標で協力・共同し、一歩一歩前進していく、これが党綱領のすえた基本的立場でした」(『80年史』、161頁)。
くどいほど、「いろいろな」「それぞれの」「さまざまな」という形容詞が用いられている。しかし、61年綱領は、このような没階級的で無限定な「協力・共同」の立場をとっていないし、ましてや「一歩一歩前進する」という立場もとっていない。すでに何度も述べているように、61年綱領の立場は、人民の民主主義革命を「急速にひきつづいて」社会主義革命へと発展させる立場であり、その方向に向けて党が主体的に最大限努力することをうたっているものである。『80年史』のような無限定な「協力・共同」論も「一歩一歩」主義も、現在の不破指導部の立場を過去にまで反映させるものである。
前号の『さざ波通信』に掲載された京谷論文が指摘しているように、『80年史』における党綱領の説明部分では、君主制廃止の課題が「民主的変革の先の段階」に持ち越されている。正確を期すため、『80年史』のその部分を引用しておこう。
「民主主義を徹底する立場から、綱領は、『君主制を廃止』する問題を将来の大きな目標にしましたが、当面の改革の内容を定めた行動綱領には、これをふくめませんでした。そして、君主制の廃止が問題になるのは、民主的変革の先の段階という位置づけをはっきりさせました」(『80年史』、160頁)。
この記述には、二つの重大な問題がある。まず第一に、「君主制の廃止」は綱領において、記述上、行動綱領を列挙した部分にはないが、それは「行動綱領」の一部ではない、という意味ではない。もともと第7回大会に提出される前の党章草案では「君主制の廃止」は行動綱領に入っていたが、それは第7回大会に提出されるときに本文に移された。この点について、第7回大会の宮本報告はこう述べている。
「同じく上段終りから3行目の『君主制を廃止する』と同頁終りの『人民共和国を樹立するためにたたかう』までを本文(5)の部分にうつした。これは、『行動綱領の基本』のうち、いまからただちにとりあげていくことと、権力の獲得の時期に解決される課題とを区別してのべよという意見をとり入れたのである」(『前衛臨時増刊 日本共産党第7回党大会決定報告集』、136頁)。
このように「君主制の廃止」はあくまでも行動綱領の一部であるが、「いまからただちにとりあげていくこと」と「権力の獲得の時期に解決される課題」とを区別するために、本文に移されたにすぎないのである。その証拠に、この綱領問題報告の中で、宮本書記長(当時)は、日本共産党が当面掲げる諸要求として、行動綱領に書かれた諸要求とならんで「君主制の廃止」の要求も入れている(同前、122頁)。
第二に、行動綱領に入るかどうかは別にしても、いずれにせよ「君主制廃止」の要求は、民主主義革命の課題であって、「民主的変革の先の段階」の課題ではない。だいたい「民主的変革の先の段階」とはいったいどの段階のことか? 社会主義の段階のことか? いや、社会主義の段階ならそう書かなければならない。「民主的変革の先の段階」とは、いつとはわからぬ遠い未来を漠然と示唆するものである。
『80年史』が綱領での明確な記述を無視して、「君主制の廃止」を「民主的変革の先の段階」という不確定の未来にまで先送りしたことは、おそらく今後の党綱領改正の基本方向を示唆するものであろう。
最後に、以上に検討した諸問題以外の問題について簡単に触れておきたい。
まず、これまでの党史に一貫して存在した二つの論点が『80年史』では削除されている。一つは、党綱領が将来の共産主義像について明確に規定していた事実、および、綱領が国際情勢をめぐって帝国主義に反対する国際統一戦線の立場を打ち出していたことである。この共産主義論と国際統一戦線論は、多少、表現が変わりながらも、『60年史』にも『65年史』にも『70年史』にもあったが、『80年史』では完全に削除されている。
また、こうした革命路線を実現する上で決定的な要素として、「強大な大衆的前衛党の建設」の必要性について書かれていたが、『80年史』では次のように表現が変えられている。
「さらに、綱領は、変革の事業の発展にとって、強大な党の建設が『決定的な条件』となることをしめしました」(『80年史』、161頁)。
このような記述変化は前回大会における「前衛党」規定の規約からの削除から生じているのだろうが、当時の党綱領には(そして現行綱領にも)「強大な大衆的前衛党の建設」について書かれているのだから、そのことをきちんと紹介しておくべきだろう。
『80年史』においても、それ以前の党史においても、ソ連と中国からの干渉とそれに対する闘争には大きなスペースが割かれて紹介されており、その中で共産党の自主独立路線が発展し強固になっていたことが詳しく紹介されている。これは、日本共産党の最も重要なアイデンティティの一つでもあるし、その闘いそれ自体はもちろん積極的な意味を持っているし、当時における党指導部の闘いは総じて正当なものであった。もしソ連追随派ないし中国追随派がわが党の指導部を握っていたら、今日、共産党は完全な泡沫勢力になっていたかもしれない。
しかしながら、『80年史』は、これまでの党史と違い、この両党の干渉政策に対する闘争に、これまでの党史よりもはるかに大きな、ある意味で最大級の位置づけを与えるにいたっている。単純に量的に見ても、第6章の「綱領路線にもとづくあたらしい前進――1960年代」のうち、「3、二つの大国からの干渉との闘争」は全体の3分の2近くを占めている。また、その「3」の冒頭部分を見ても、その位置づけの高さがわかる。
「1960年代、日本共産党は、ソ連、中国の二つの大国から、党そのもの打倒をめざすはげしい干渉攻撃をうけました。党はこれと正面からたたかって干渉をうちやぶり、自主独立の立場をうちかためてゆきました。このたたかいをつうじて全党は政治的理論的にきたえられ、党の組織的発展の力にもなりました。
干渉や無法な攻撃はゆるさない、どの国、どの党とも対等の立場で話し合う、一致点での交流をすすめ、必要な場合には相手がだれであれ堂々と議論する、という今日の党の外交活動の基本が、このたたかいのなかから生まれました。また、このときの論争をつうじて、マルクスいらいの科学的社会主義の理論を再吟味し、それを発展的に継承する立場を確固としたものにしました。これらは、21世紀を生きる党の貴重な財産となっています」(『80年史』、179〜180頁)。
この一文は、過去の闘争を振り返って総括しているというだけでなく、一つの決定的に重大な問題をも含んでいる。それは、当時における干渉に対する党の闘いを、現在の反動的な「野党外交路線」の根拠にしていることである。これはとんでもない牽強付会である。
当時においては、あくまでも、共産党、労働者党、あるいは民族解放勢力、進歩的・民主的党派との交流を基本としていたのであって、共産党を非合法化して弾圧しているような反動的国家の高官や独裁政権を支えている反共政党も含めて、「どの国、どの党とも対等の立場で話し合う、一致点での交流をすすめ」るというような立場では断じてなかった。しかも、当時における闘争において、わが党は、当該国の政権や政権党や反共政党を美化したり無批判に交流したりするソ連共産党指導部や中国共産党指導部の立場も厳しく批判していた。現在、不破指導部が進めている「野党外交路線」は、60年代におけるわが党の輝かしい闘争を踏みにじる行為に他ならない。
さらに、『80年史』では、このときの闘争について、次のような途方もなく大げさな評価さえなされている。
「“社会主義の本家”を自認し、マスコミもふくめて世界の大勢がそうみなしていたソ連共産党が、国際的に日本共産党に『異端』の烙印をおし、国家機関まで動員して襲いかかってきたのにたいし、当時まだ小さな党であった日本共産党が、一歩もひかずにたたかい、干渉攻撃をうちやぶったことは、まさに20世紀の歴史的偉業というべきものでした」(『80年史』、186頁)。
たしかに、当時の党の闘いは立派である。われわれはそれに敬意を表する。しかしだからといって、それを「20世紀の歴史的偉業」と言うのは、あまりにも夜郎自大で、傲慢な規定ではなかろうか。「20世紀」には多くの歴史的偉業がある。世界最初の社会主義革命であった1917年のロシア革命を筆頭に、ファシズムに対する闘争と勝利、中国革命、ユーゴ革命、キューバ革命、ベトナム侵略戦争における解放勢力の勝利、等々、等々。いくら両大国の干渉に対する日本共産党の闘争が立派であったとしても、それはあくまでも日本一国の問題であり、その「偉業」の影響力は世界史的視野で見れば著しく制限されている。それを、自ら「20世紀の歴史的偉業」とまで称するのは、あまりにも自惚れにすぎるというものである。
ちなみに、以前の党史では、「20世紀の歴史的偉業」などというような大げさな評価は存在しない。
1970年代前半における党の豊富な歴史全般について、詳細に『80年史』と過去の党史とを比較検討することはできない。ここでは、1970年代の日本共産党の基本路線を綱領にもとづいて具体化する基本となった第11回党大会と、党史における一つの転換点となった1972年の新日和見主義についてのみ見てみよう。
第11回党大会
共産党はこの時期、選挙ごとに倍々ゲームを繰り返し、急速に国内政治のなかで重大な勢力となっていった。また党は組織的にも、また大衆運動に対する影響力の点でも、破竹の勢いで前進していった。こうした共産党の急速な伸張に驚いた政府自民党や右派マスコミは、本格的な反共攻撃を開始した。こうした状況の中で1970年7月に開催された第11回党大会は、さまざまな理論的・実践的諸問題を解明しなければならなかった。
『80年史』もこれまでの党史も、第11回党大会を「発達した資本主義国での革命の新しい可能性を探求」したものとして高く位置づけている。この大会において、日本の将来の革命がロシア革命の繰り返しではなく、日本独自の特徴を持つこと、将来にわたる複数政党制、政権交代制が堅持されることが明らかにされた。
こうした将来像についての記述は、『80年史』もそれ以前の党史も基本的に同じである。しかしながら、これまでの党史では第11回党大会の意義としてそれ以外の重要論点も叙述されていた。それは、1、ベトナム戦争がインドシナ全域に広がったことを受けて、ベトナム侵略反対の反帝国際統一戦線の結成と強化がひきつづき「すべての反帝民主勢力のもっとも緊急な国際的課題」であると提起されたこと、2、ニクソン・ドクトリンと69年の日米共同声明にもとづいて対米従属下の日本軍国主義・帝国主義の復活強化が進んでいること、3、公害問題など国内の諸問題の解明、などである。さらに、『70年史』では、これらに加えて、「敵の出方」論について詳細な説明がある(『70年史』上、406頁)。しかし、これらの諸論点はすべて『80年史』では省略されている。国際活動の紹介の後退、「敵の出方」論の消失という『80年史』の基本姿勢は、ここでも貫徹されている。
新日和見主義事件
この1970年代前半において、党の歴史にとってきわめて重大な転換点となったのは、1972年に起きた新日和見主義事件であった。これは、大衆運動の未曾有の高揚と青年学生運動の急進化という時代的背景の中で、党内部でも上からの官僚的統制を超えて、より積極的に大衆運動の急進化を担いその先頭に立とうとする傾向が生じた。当時の民青同盟および学生支部における中心的な活動家集団がそうした傾向を体現していた。それは、近い将来における政権参加を計算に入れはじめていた当時の党指導部にとって、きわめて危険なものに見えた。党指導部は、この傾向が明確な潮流となり、いずれ分派になって、党指導部に反抗するようになるのを恐れた。指導部は、「双葉のうちに」この傾向を摘み取ることを決意した。こうして、党史において「新日和見主義」事件という奇妙な名称をもった、民青同盟中央委員会全体と多くの青年学生活動家をまきこむ前代未聞の大規模な「反党分子」の摘発と査問劇が展開されたのである。
この事件は、すでにこの『さざ波通信』で何度も指摘しているように、その後の青年学生分野における党の停滞と後退を生み出す最大の要因となった。青年学生分野における最も自主的で戦闘的な部分が根こそぎ破壊され、党の大衆運動分野から排除され、無力化された。新日和見主義者として摘発された党員の圧倒的多数は、主観的には党に忠実であったために、この人権侵害的な査問に従順に応じ、自己批判を書かされるはめになり、その後、20数年におよぶ沈黙を強いられたのである。
この事件は、戦前の査問事件とはまったく性格の異なる、根本的に犯罪的で、許しがたいスターリン主義的粛清劇であった。党に忠実で最も熱心な活動家であった同志たちを大量に党本部に監禁し、長期間にわたって査問したこの事件は、党史における最大の汚点の一つである。そして、この時の当事者たちが、20数年の沈黙を破って、いかに根拠のない罪状にもとづいていかに過酷で犯罪的な査問がなされたかを詳細に公表した今日、新しい党史は、何よりも真っ先にこの事件を直視し、はっきりと党指導部の誤りを認め、この時「摘発」された同志たちの名誉を回復するべきだったろう。過去の誤りを恐れず直視する科学的社会主義の党を自称するならば、このことこそ新しい党史の最も重大な課題にするべきであったろう。
過去の党史においては、この新日和見主義事件は、当時の解釈どおりの説明がなされていた。たとえば、『70年史』は次のようにこの事件を総括している。
「ところが70年代初頭、党と民青同盟の一部にあらわれた新日和見主義・分派主義者が、この方針を妨害し、青年・学生運動と民青同盟は一時期少なからぬ損害をこうむった。
72年5月、広谷俊二らの『新日和見主義分派』が摘発された。かれらは、党と同盟にかくれて民主青年同盟中央委員会内に反党・反同盟の分派を組織し、民青同盟にたいする党の指導に反対して、民青同盟を党に対抗する反党分派活動の拠点に変質させようとした。この『新日和見主義』、分派主義のアメリカ帝国主義美化論や日本軍国主義主敵論、党勢拡大を独自の課題としてとりくむことに反対する危険な傾向にたいし、72年7月の第7回中央委員会総会(第11回党大会)、同年9月の第8回中央委員会総会(第11回党大会)は、新日和見主義、分派主義の問題を解明し、これとの闘争の重要性を強調した。党は、理論上、政治上、組織上の徹底した批判と闘争をおこない、『新日和見主義分派』を粉砕した。この闘争は、民青同盟が一時期の組織的停滞を克服し、あたらしい発展と高揚の方向をかちとるうえでも、重要な契機となった」(『70年史』上、438〜439頁)。
まさに「新日和見主義分派」と呼ばれた人々は「粉砕」された。党指導部は勝利の凱歌を上げた。だが、それは、「民青同盟が一時期の組織的停滞を克服し、あたらしい発展と高揚の方向をかちとる」契機になるのではなく、逆に民青同盟の生命力を奪い取り、それがやがて衰退していく決定的な契機となった。
さて、『80年史』ではこの新日和見主義事件はどのように叙述されているだろうか。何らかの改善、歴史の再評価は見られるだろうか。だが、この事件についての記述を探した読者はがっかりすることだろう。この事件に関する記述は『80年史』には一行もないのである。自分たちにとって都合の悪い歴史を、自党の歴史記述から完全に抹殺する態度こそ、まさにスターリニズムに特徴的な性質である。『80年史』は、新日和見主義事件についてのこれまでの解釈を繰り返すことができなかったが、それと同時に、それについての新しい説明をする勇気もなかった。彼らは、歴史からこの事件をこっそり削除することを選んだのである。
1970年代後半の党史に関しても、すべての問題を論じるわけにはいかない。そこで、この時期の二つの大会における重要な理論的問題にしぼって論じたい。
第13回臨時党大会と市場経済
この時期、自民党や公明党、民社党などからの反共攻撃はますます激烈なものになっていた。日本共産党はますます、将来の社会主義像に関して「自由と民主主義」の要素を強調することを余儀なくされた。こうした中で、これまでの理論的到達点を集大成するために、1976年7月に第13回臨時党大会が開催され、この分野での綱領的な文書である「自由と民主主義の宣言」が採択された。
この「自由と民主主義の宣言」についての説明は、『60年史』および『65年史』では、三つの自由についての簡単な説明に限られていたが、『70年史』では、分量が大幅に増大し、三つの自由の内容について詳細に説明されるとともに、ソ連の憲法との対比でその意義を語るものになっている(『70年史』下、49〜51頁)。
さて、『80年史』ではどうなっているだろうか。『80年史』では、全体としての縮小化にともない、三つの自由についての詳細な説明はほとんど省かれ、「『宣言』は、党綱領にもとづいて発展させてきた日本の社会発展と進歩的未来にかかわる多面的な探求を基礎に、それをいっそう発展、充実させ、自由と民主主義について、日本の政党の歴史上はじめて包括的な宣言として結実させたものです」(『80年史』、228頁)としか書かれていない。
しかし、『80年史』には、この記述のあとに次のような追加的説明がなされている。
「社会主義と市場経済の結合が、世界でどこでもまだ問題になっていない時期に、『宣言』は社会主義日本でも市場経済を活用することを明確にしました」(『80年史』、228頁)。
前号の京谷論文がすでに指摘していることであるが、第13回臨時党大会で採択された「自由と民主主義の宣言」にはそもそも、「市場経済」という言葉自体が存在せず、したがって、「社会主義と市場経済の結合」や「市場経済を活用」を「明確」にすることなどできようもなかった。実際、それ以前の党史にはこのような説明は一言もない。念のため、1976年当時の「自由と民主主義の宣言」の該当部分を引用しておこう。
「(ハ)独立・民主日本でも、社会主義日本でも、日本の高い生産力、国民の高い教育水準と労働意欲を活用し、公害のないつりあいのとれた経済発展によって、国民の求める多様な商品を生産し、衣食住のすべてにわたって国民生活を豊かにする。商品も豊富で、質をよくし、サービスも心のこもったものに改善し、個人個人の商品選択の自由は、広く保障される。
社会主義的計画経済は、生産力をむだなく効果的に活用して、国民生活と日本経済の豊かな繁栄を保障するための手段であって、国民の消費生活を統制したり画一化したりするいわゆる『統制経済』は、経済民主主義とも、社会主義日本の経済生活とも、まったく無縁のものである」(『前衛臨時増刊 日本共産党第13回臨時大会特集』、66頁)。
このように、「市場経済」は出てこない。また他の部分にも出てこない。しかし実をいうと、1989年の第19回党大会で、この「自由と民主主義の宣言」にはかなり大幅な変更がなされ、上で引用した文章の二つの段落のあいだに次の一文が挿入されるようになったのである。
「社会主義日本では、農漁業・中小商工業など私的な発意を尊重するとともに、計画経済と市場経済とを結合して、弾力的で効率的な経済の運営がはかられる」。
つまり、『80年史』が力説するのとちがって、「市場経済との結合」については、「社会主義と市場経済の結合が、世界でどこでもまだ問題になっていない時期」である1976年ではなく(本当に「問題になっていない時期」であったかどうかはきわめて疑わしいが)、世界中で大いに問題にされるようになった1989年になってはじめて、「自由と民主主義の宣言」に挿入されたのである。
これは意図的な操作だろうか、それとも執筆者たちの勘違いであろうか。だが、集団的に執筆され、おそらく党内で何度も推敲を重ね、満を持して出版された『80年史』に、このような初歩的なミスが混入されているとは思われない。意図的なものであると考える方が妥当だろう。
第14回党大会と社会主義「生成期」論
日本共産党の理論的「先駆性」を実際よりもはるかに誇張して見せる『80年史』の傾向は、第14回党大会における社会主義「生成期」論の説明にも見られる。
「党は、77年10月の第14回党大会で、ソ連などの実態の検討にたって、現存する社会主義はまだ『生成期』であるにすぎないという見解を決定していました。党はその後、崩壊前のソ連は社会主義への過渡期でさえなく、そもそも社会主義といえるものではなかったという見地に到達しますが、『生成期』論は、その当時においては、ソ連の現状に対するもっともきびしい批判的立場でした」(『80年史』、224頁)。
この一文は、最後の明らかに誇張された自己評価(「当時においては、ソ連の現状に対するもっともきびしい批判的立場」云々)以外にも、いくつか検討すべき問題を含んでいる。順に見ていこう。
まず第一に、党がソ連が社会主義でも何でもなく、反人民的な専制体制であったという見解を正式に打ち出したのは、ソ連が崩壊した後の第20回党大会(1994年)のときである。このとき、党綱領の一部改定についての報告をした不破哲三氏は、第14回党大会で打ち出した「社会主義生成期論」について次のように説明していた。
「私たちは、『生成期』論を提唱したさい、ソ連社会がただ過渡期の途中にあるというだけでなく、そこには、スターリンその他の誤った政策によって複雑な制約や否定的傾向が刻まれており、それを克服しないかぎり社会主義社会への前進はない、ということも厳しく指摘しました。……当時はまだ、旧ソ連社会に対する私たちの認識は、多くの逸脱と否定的現象をともないつつも大局的にはなお歴史的な過渡期に属するという見方の上にたったもので、今日から見れば明確さを欠いていたことを、ここではっきりと指摘しなければなりません」(『前衛臨時増刊 日本共産党第20回大会特集』、113頁)。
この不破報告は、「ソ連が社会主義社会ではそもそもなかった」という新見解以上に、党内で驚きをもって迎えられた。なぜなら、党の「社会主義生成期論」が、ソ連などの国々が社会主義の範疇の中の「生成期」にあるという意味ではなく、「社会主義への過渡期の途中にある社会」という意味であったと、突然きかされたからである。しかし、第14回党大会決議およびそれに関する不破哲三氏自身の説明を見れば明らかなように、ソ連などの国が「社会主義社会」であるという点に関しては何ら異議は唱えられていなかった。というよりもそもそも、当時の日本共産党のカテゴリーの中には社会主義革命後の「過渡期」社会という概念さえなかった。念のため、第14回党大会の該当部分を引用しておこう。まず第14回党大会決議はこう述べている。
「60年にわたる社会主義の現実の展開は、社会主義制度の優位性をしめす多くの達成をなしとげた……。現代の世界では、一連の国での社会主義革命の勝利により、十数ヵ国、人口12億をこえる社会主義の世界が形づくられる……」(同前、73頁)。
また、この決議に関する不破哲三氏の報告でも次のように述べられている。
「ソ連はアメリカにつぐ生産力をもった世界第二の工業国に発展し、社会主義国の数は十数ヵ国に広がり、12億をこえる人びとがそこで生活しています。それぞれの社会主義国が、過去をのりこえて発展してきた過程に、多くのすばらしい前進と達成があることは、疑問の余地がありません」(同前、145頁)。
このように、十数ヵ国が社会主義国であり、12億をこえる人々が社会主義国に住んでいるということに、いかなる疑問も出されていない。問題なのは、遅れた資本主義から出発したために、まだ多くの否定的傾向を持っており、「マルクスやエンゲルスが人類の社会主義的未来を結びつけたすべての進歩的な諸特徴が全面的にその力を発揮する段階には、まだ到達していない、ということ」(同前、145頁)であった。このように、第20回党大会における不破報告が、17年前の自分の報告(大会で全委員一致で採択された正規の決定)をなし崩し的に改ざんしたことは明らかである。
さて、以上のことを踏まえて今回の『80年史』の叙述を見てみよう。それを見ると、「現存する社会主義はまだ『生成期』であるにすぎないという見解を決定し」たと述べている。つまり、「社会主義」であるという認識を前提にして、それがまだ「生成期」であるという見解を打ち出したと説明している。つまり、第20回党大会の不破報告の「生成期」論解釈がさりげなく修正されているわけである。
第二に、「党はその後、崩壊前のソ連は社会主義への過渡期でさえなく、そもそも社会主義といえるものではなかったという見地に到達します」という記述の奇妙さである。「ソ連は社会主義への過渡期でさえない」のなら、「そもそも社会主義といえるものではない」のは当たり前である。「過渡期でさえない」という規定の方がより広い規定なのだから、この規定の中にはすでに「社会主義ではない」という規定も含まれる。正しく表現するのなら、こう言うべきだろう。「党はその後、崩壊前のソ連は社会主義ではなく、そもそも社会主義への過渡期でさえなかったという見地に到達します」。これなら、日本語として妥当な表現であろう。
このような奇妙な表現になったのは、第20回党大会における不破氏の「生成期」論解釈の影響を受けたためであると思われる。
第三に、最後の一文にある「『生成期』論は、その当時においては、ソ連の現状に対するもっともきびしい批判的立場でした」という誇張された自己評価の問題である。ここで言う「もっとも」とは、どの範囲での「もっとも」なのか? もしそれが、当時のマルクス主義世界全般の中で「もっとも」だとするなら、ナンセンスのきわみであろう。第14回党大会が開催される50年近くも前から、トロツキーは、ソ連はまだ社会主義社会ではなく、多くの歪みと堕落をともなった過渡期にあり、しかも社会主義よりもはるかに資本主義のほうに近いという判断を下していた。あるいは、トロツキズムから派生したさまざまな左翼理論家たちは、ソ連は社会主義でないだけでなく、労働者国家や過渡期でさえなく、新しい全体主義的国家体制であるという批判や、国家資本主義であるという批判を下していた。それこそ、「生成期論」よりもはるかに厳しい批判的立場がいくらでも存在したのである。
このようなことは、まったく常識の部類に属する事柄である。にもかかわらず、『80年史』は、過去の党史にさえないこのような誇張された自己評価をすることによって、またしても歴史を偽造しているのである。
『さざ波通信』の第32号をお届けします。
今回は1本のメイン論文と1本の通信員による投稿論文、2本の雑録論文で構成されています。1本目は、この間連続して掲載している「不破史観の確立と発展――『日本共産党の80年』の批判的検討」の(下)です。この論文の検討時期は、『70年史』の範囲(1992年)で終わっています。それ以降の時期に関する『80年史』の検討については、別稿で行なう予定です。また投稿論文は、『80年史』を概観しつつ、そこに現れている指導部の混迷を指摘しています。
雑録論文は2本です。1本目は、先日行なわれた第6回中央委員会総会の志位報告におけるイラク問題についての批判的検討です。イラク戦争をめぐって、志位報告が、国連の役割を過大評価し、フランス、ロシアなどの政府や国連憲章を美化していることを厳しく批判しています。
雑録論文の2本目は、同じ6中総で提案された党綱領改定の日程について検討したものです。党綱領の全面的改定が予想されているにもかかわらず、まったく小さく扱われ、ほとんど情報もないことなど、党綱領をないがしろにしている党指導部の姿勢を批判しています。
次号は、6月に開催が予定されている7中総で提案される党綱領改定案が中心になるでしょう。それに合わせて、投稿欄でも特別討論欄をもうける予定です。
1980年代以降の『80年史』の記述に特徴的なのは、党大会に関する記述が驚くほど短く簡略化されていることである。党大会のたびごとに、そこで提起された見解の理論的先駆性や実践的意義について誇ることを常としてきた共産党にとって、このあまりにもあっさりとしたそっけない記述は、奇妙な印象を与える。過去の党史においては、80年代以降の党大会に関する記述は、それ以前の党大会に関する記述にもまして詳細に紹介されていた。現在の党の路線に最も密接にかかわっているのは、昔の党大会よりも、より最近の党大会なのだから、最近の党大会についてそれなりの紙幅を割いて紹介することは、ごく自然なことである。
たとえば、第16回党大会直後に出された『60年史』は、第15回党大会に3頁、第16回党大会には、一番最近の大会ということもあって、7頁も割いている。『65年史』は、第15回党大会に3頁半、第16回党大会に6頁も割いている。『70年史』では、第15回党大会に4頁、第16回党大会にも4頁以上を割いている。また、いずれの党史においても、両大会の歴史的意義、そこで提起された新しい理論的立場の重要性などについて詳細に論じられている。しかし、『80年史』は、どちらの大会についても、5〜7行しか割いておらず、それらの大会の歴史的意義についても、そこでの新しい理論的提起についても、ほとんど語られていない。両大会が開かれたことの事実紹介といった感じである。とくに顕著なのは、第16回党大会をめぐる記述である。
第16回党大会は、現存社会主義について、社会主義無謬論と社会主義完全変質論の二つの誤りを批判するという立場を強く押し出したことで有名である。たとえば、この大会の報告者であった不破哲三氏は、次のように述べている。
「社会主義諸大国の大国主義、覇権主義の誤りを問題にする場合、私たちは、科学的社会主義者として、つぎの2つの見地を原則的な誤りとしてしりぞけるものです。
一つは、社会主義大国が民族自決権の侵犯などの誤りをおかすことはありえないとする『社会主義無謬論』です。……
もう一つは、あれこれの社会主義大国が覇権主義の重大な誤りを犯しているということで、その国はもはや社会主義国ではなくなったとか、その存在は世界史の上でいかなる積極的な役割も果たさなくなったとかの結論をひきだす、いわゆる『社会主義完全変質論』です。16年前、宮本委員長を団長とするわが党代表団が、中国で毛沢東その他と会談したさい、ソ連の評価をめぐって、もっともするどい論争点の一つとなったのが、この問題でした。わが党は、社会主義大国の覇権主義にたいして、世界の共産主義運動のなかでも、これをもっともきびしく批判し、もっとも原則的にこれとたたかっている党の一つですが、その誤りがどんなに重大なものであっても、指導部の対外政策上などの誤りを理由に、その国家や社会が社会主義でなくなったとするのは、『社会主義無謬論』を裏返しにした、根本的な誤りです」(『前衛臨時増刊 日本共産党第16回大会特集』、92頁)。
これまでの党史でもこの点はきちんと紹介されていた。たとえば、『60年史』は次のように述べている。
「大会は、社会主義大国が民族自決権の侵犯などの誤りをおかすことはありえないとする「社会主義無謬論」と、指導部の対外政策上などの誤りを理由に、その国家や社会が社会主義でなくなったとする「社会主義完全変質論」の二つの誤りを批判し、いかなる社会主義国家でも、労働者階級と人民が存在し、科学的社会主義の大義と原則を擁護しようとする努力が基盤をうしなわないかぎり、あれこれの逸脱を克服して、人民の共感と支持のもとに発展的な前進をとげる展望と可能性をもっていることをあきらかにした」(『60年史』、497頁)。
この記述は『65年史』でもまったく同じである。『70年史』ではもっと充実しており、上の文章を掲載したあとにさらに次のような文章をつけ加えている。
「87年の第18回党大会であらためて確認されたように、社会主義の逸脱をただす復元力は、自動的に作用するものではなく、また復元力の作用する大前提がうしなわれれば、社会主義国の重大な変質にいたることを、第16回党大会の見地は予見していた。
当時、イタリア共産党は、「10月革命に始まった社会主義の発展のこの局面は、その推進力を使い果たした」とする清算主義にたって、ソ連の覇権主義、命令主義の体制の問題とロシア革命の道の破たんとを同一視し、結局、『第三の道』の探求という名で科学的社会主義の否定と社会民主主義への接近という危険をはらむ見地を表明していた。党は、このような見地に根本的批判をもっていた。その後のイタリア共産党の社会民主主義への転落は、日本共産党がもっていた危惧に根拠があったことを証明した」(『70年史』下、165頁)。
このように、『70年史』は、イタリア共産党の例も出して、第16回党大会が打ち出した「二つの誤り」に対する批判の理論的・歴史的意義を明らかにしていた。しかし、ソ連完全変質論を後知恵的に採用するに至った1994年の第20回党大会以降に執筆発表された『80年史』は、第16回党大会に関する記述を数行に縮めることで、この説明しにくい問題をあっさりと回避してしまった。念のため、『80年史』における第16回党大会記述を見てみよう。
「82年7月、党は、第16回党大会をひらきました。
大会は、国際的課題として核戦争阻止、核兵器全面禁止・廃絶のとりくみの強化をきめるとともに、臨調『行革』を批判し、軍事費と大企業奉仕の二つの聖域にメスを入れる財政構造の転換、国民本位の効率的な行政をめざす民主的行政改革、対米追従外交と手をきり非同盟・中立政策にもとづく自主的経済外交への転換などを提起しました。
あたらしい中央委員会は、議長に宮本顕治、委員長に不破哲三、書記局長に金子満広をえらびました」(『80年史』、237頁)。
たったこれだけである。国際的課題としては、核兵器の問題しか取り上げられておらず、肝心の社会主義論に関しては一言もない。
国内問題に関しても同じような問題がある。過去の党史では、日本資本主義が対米従属のもとで帝国主義的復活をとげつつある問題について、第16回党大会の重要な提起として詳しく紹介されていたが、この問題についても『80年史』では一言も語られていない。
都合の悪い歴史、あるいは現在の党路線と食い違うような理論的認識はことごとく党史から抹殺する、これが、著しく短縮された『80年史』の最も重要な役割であったことが、以上のことからしても明らかである。
都合の悪い理論的見解の抹殺という点では、この80年代前半期における併党論批判についても言える。
日本共産党は1984年に、「科学的社会主義の原則と一国一前衛党論」という長大論文を発表し、ソ連や中国の複数前衛党論(併党論)を厳しく批判するとともに、一国には一つの共産党だけが許される、それは労働者階級を指導するという前衛党の性格からして当然の科学的社会主義の原則であると主張した。
「一国一前衛党の立場こそが、科学的社会主義の創始者、先駆者たちの基本的、大局的な立場であった」。
「前衛党とは、階級全体の利益を代表し、そのたたかいを指導するからこそ前衛党なのである。マルクス、エンゲルスがあきらかにした見地は、これであった。一国に『複数』の前衛党を想定することは、階級をばらばらにし、プロレタリアートを自覚的な階級として結集することを不可能にし、結局階級全体を指導する前衛党の存在そのものを否定することになる」。
「レーニンの活動を歴史的にふりかえるならば、レーニンが、ロシアの革命闘争のはじめの段階から科学的社会主義の立場にたつ単一の党が労働者階級の解放闘争を指導するという一国一前衛党の見地を当然の原則として終始つらぬいたこと、この一国一党の内容的到違点が政治的、思想的にも組織的にも統一された「新しい型の党」であり、分派の存在を許さない民主集中の党であったことは明白である」(強調引用者、以下同じ)。
このような立場はもちろん、80年代になってからはじめて提唱されたものではなく、現綱領が確定された1960年代初頭以来のものである。たとえば、『アカハタ』の1964年8月2日号に掲載された「現代修正主義者の社会民主主義政党論」では、次のように述べられている。
「前衛党とは、そもそも労働者階級の前衛を単一の組織に結集しそれをつうじて階級全体を指導するからこそ前衛党なのである。したがって「複数」の前衛を想定することは、結局階級全体を指導する前衛党の存在そのものを否定することになる。この議論がマルクス・レーニン主義党の指導的役割が革命の勝利にとって不可欠の前提であることを否認する解党主義の議論であることは明瞭であろう」(『日本共産党重要論文集』第1巻下、246頁)。
文章を読み比べれば明らかなように、1984年の文章と1964年の文章が、内容のみならず表現もほとんど同じであることがわかる。1960年代以来の主張を改めて1980年代に語ることになったのは、ソ連などの干渉が結局失敗し、ソ連派の単一の前衛党をつくる試みが破綻したことをうけて、日本共産党ともソ連派の「党」ともどちらも対等に付き合おうとするソ連共産党のご都合主義的な路線を批判するためであった。
こうしたソ連のご都合主義を厳しく批判することはまったく正当であり、理論的にも実践的にも重要であった。問題はその批判を、「一国一前衛党」というドクマにもとづいて行なったことであった。ソ連のご都合主義や干渉主義を批判するのに、「一国一前衛党」論を持ち出す必要はいささかもなかった。とはいえ、ソ連式の併党論(他国の共産党に干渉して一部を分裂させ、もとの部分と分裂部分を対等に扱うやり方)を批判することは重要な意義を持っていた。
当時の最高指導者であった宮本顕治氏は、この複数前衛党批判を非常に重視しており、第19回党大会(1990年)の冒頭発言では、61年綱領確定の二つの意義の一つとして、この一国一前衛党論を挙げたほどである。
「綱領確定の意義を簡潔にふれるならば、一つは、当面の革命を人民の民主主義革命と規定したことであります。もう一つは、この間発生した複数前衛党論を拒否して、一国一前衛党の立場をあらためて明確にしたことであります」(『前衛臨時増刊 日本共産党第19回大会特集』、17頁)。
ここまでの高い位置づけは、宮本氏独特のものであろうが、いずれにせよ、一国一前衛党論は日本共産党にとって61年以来の根本的な原則の一つであったのであり、党の歴史から抹消することの絶対にできない基本的立脚点であったのである。だからこそ、この時期の併党論をめぐる論争は、過去の党史においてきちんと紹介されていた。『70年史』は次のように述べている。
「日本共産党は1984年にはいってから、共産主義運動のなかで一つの国に複数の前衛党が併存してもかまわないとする「併党」論がソ連や中国など社会主義大国を中心にあらわれてきた問題を一全協などで批判してきたが、7月、これを全面的に詳細に批判した「科学的社会主義の原則と一国一前衛党論――「併党」論を批判する」を発表した。
論文は、「併党」論がもともと一国一前衛党論の原則を前提としている各国共産党の自主独立、同権、内部問題不干渉という共産主義運動の原則を根底からくつがえす最悪の分裂主義、干渉主義の合理化論であると特徴づけ、「併党」論の有害な本質をあきらかにすることは、覇権主義、分裂主義から各国の革命運動の自主性を擁護し、世界の共産主義運動の正しい前進をかちとるうえで、きわめて重要な国際的意義をもつことを強調した」(『70年史』下、201〜202頁)。
こうした記述は『80年史』では完全に抹消されている。上の引用が語るとおり「きわめて重要な国際的意義」をもつはずのこの「併党論批判」=「一国一前衛党論」が『80年史』で一言も触れられなくなったのはなぜだろうか? その理由はおそらく二つある。
一つは、前衛党という規定そのものが前回の第22回党大会で規約から削除されたからである。もっとも、自党の歴史を誠実に記述しようとするのなら、今は採用していない規定でも過去に採用していた事実を率直に紹介するべきであったろう。第二に、この「科学的社会主義の原則と一国一前衛党論」の中で、「労働者階級を指導してこそ前衛党」という「前衛党=指導する党」という思想があまりにもあからさまに、はっきりと語られていたからである。第22回党大会の規約改正に向けた7中総報告において、不破哲三氏は、「前衛党=指導する党」というのは誤解であると言い放った。この発言自体が、過去の歴史の歪曲以外の何ものでもないが(その点に関する批判として、『さざ波通信』の過去の論文を参照のこと)、その「歴史の歪曲」を読者の目から隠すためにも、「科学的社会主義の原則と一国一前衛党論」を党史から抹殺する必要があったのである。
第17回党大会
過去の党史に比べて3分の1に簡略化された『80年史』は、単に都合の悪い歴史や理論的解釈をまるごと削除してしまっているだけでなく、しばしば、現在の立場から見ても記述してよさそうな重要な事実をも抜かしてしまっている。
たとえば、1985年の11月に開催された第17回党大会に関する記述を見てみよう。この大会のいちばん重要な提起は核兵器廃絶に関する取り組みであり、国際的には、反核国際統一戦線の構築を「あらためて厳粛に呼びかけ」るとともに、国内的には「非核の政府」の樹立を主張した。またこの第17回党大会は、核兵器問題のみならず、多くの重要な理論的・実践的提起を行なっている。『70年史』に記述されているだけでも、ざっと次のような提起がなされた。
1、戦後40周年であることをふまえて、第2次世界大戦の教訓を4点にわたって明確化したこと。2、社会主義諸国の「併党」論と覇権主義を厳しく批判し、それが資本主義国の革命的発展に否定的な役割を果たしていること。3、中曽根内閣の「戦後政治の総決算路線」が軍国主義と日本型ファシズムの時代を再現しようとし、日米軍事同盟体制国家づくりを狙っていること、4、日本政治の翼賛政治化が進んでいるが、日本社会の「深部の力」に確信を持つべきこと、5、革新3目標を現状に合わせてさらに発展させたこと、6、「国政選挙での一進一退」の問題を解明し、それを党の政治路線の誤りとみなす立場を批判したこと(同時に東大院生による「分派行動」を「敗北主義」として糾弾)、7、党綱領を改定して覇権主義の克服を明記したこと、8、「資本主義の全般的危機」という規定を綱領から削除したこと、9、核兵器廃絶の課題を綱領の「行動綱領」部分に明記したこと、10、対米従属のもとでの日本独占資本の「帝国主義的特徴」が経済面のみならず、軍事、外交、経済の全面にわたっていることを明らかにし、日本独占資本が「世界の帝国主義陣営のなかで」「軍事、外交、経済のあらゆる面で積極的・能動的」役割を果たし、日本人民を抑圧するとともに、他民族をも抑圧していることなどを、綱領に補強したこと、11、規約を改正して、「真のヒューマニズムと同志愛に満ちた党生活」を確立し、党員の第一義的課題として党大会や中央委員会決定を速やかに読了すること、などである。
しかしながら、『80年史』における記述は次のようなごく簡単なものになっている。
「1985年11月、党は、第17回党大会をひらき、中曽根内閣の『戦後政治の総決算』が、軍国主義と日本型ファシズムを再現しようとするものであり、日米軍事同盟体制国家づくりを危険な段階におしすすめようとしていることをあきらかにしました。
大会は、綱領を一部改定し、『覇権主義の克服』を綱領上の課題として明記するとともに、軍事、外交、経済のあらゆる面で積極的・能動的役割をはたしている日本独占資本の現状の分析を補強し、『資本主義の全般的危機』という誤った規定を削除しました」(『80年史』、240頁)。
このように、核兵器問題については無視されるとともに、『70年史』では紹介されていた11の論点のうち3と7と8と10の4点しか紹介されていない。しかも、最後の「10」に関しては、日本独占資本の「帝国主義的特徴」にかかわるものであることが『80年史』で省略されているため、「軍事、外交、経済のあらゆる面で積極的・能動的役割をはたしている日本独占資本」という記述がまったく意味の曖昧なものになっている。
天皇在位60周年と象徴天皇制批判
1986年に中曽根内閣のもとで、天皇在位60周年の大キャンペーンがおこなわれ、昭和天皇があたかも即位以来ずっと「平和の人」であったかのような歴史歪曲と天皇制美化の宣伝が大々的に繰り広げられた。『70年史』は、この問題を重視し、このキャンペーンについて次のように書いている。
「86年3月の第2回中央委員会総会(第17回党大会)は、『天皇在位60年キャンペーン』についての党議員の追及にたいして、中曽根首相が治安維持法流の皇国史観を展開したことをきびしく批判し、絶対主義的天皇制と不可分な天皇個人の戦争責任問題の追及とともに、党綱領が明確にしているとおり象徴天皇制が憲法の主権在民に反する存在であることをあきらかにしていく重要性を強調した」(『70年史』下、244頁)。
このような記述はもちろんのこと、現在の不破=志位指導部にとってはきわめて都合の悪いことなので、『80年史』ではまるごと削除されている。
また、この80年代後半は、日本共産党指導部がとりわけ天皇問題を重視した時期であった。たとえば、1988年11月に開催された第3回中央委員会総会(第18回党大会)において、宮本議長は象徴天皇制を主権在民の観点から批判することの重要性を強調した。『70年史』は次のように述べている。
「党は、11月、第3回中央委員会総会(第18回党大会)をひらいた。宮本議長は冒頭発言で、天皇裕仁が戦前の暗黒支配、侵略戦争、植民地統治、軍国主義の責任者であり、戦後は、象徴天皇制が、日米支配層のあたらしい反動支配の道具としての役割をはたし、アメリカによる沖縄の占領継続を希望し、広島への原爆投下を容認するなど、愛国精神を書いた象徴的存在となったとのべ、天皇問題を主権在民の立場からとりあげていくことを強調した」(『70年史』下、323頁)。
以上のような記述ももちろん、『80年史』では削除されている。
この時期の大きなトピックスの中で同じく都合の悪いものは、1987年4月に発表された「宮本・チャウシェスク共同宣言」である。当時、すでにチャウシェスク・ルーマニア共産党書記長は残虐な独裁者として国際的にかなり知られており、ルーマニアの国内体制が東欧の中でも最悪の部類に属することは、しばしば話題にのぼっていた。ルーマニアの赤旗特派員もそのことを党指導部に伝えていた。にもかかわらず、ルーマニアの政権が民衆によって打倒されチャウシェスク夫妻が銃殺されるわずか2年半前に、わが党の宮本議長(当時)はチャウシェスクと仲よく共同宣言を発表したのである。しかも、宮本議長は当時、記者会見などでルーマニアを自主独立の社会主義国で平和愛好国であるとして持ち上げることまでやった。たとえば、この共同宣言を発表したときの記者会見で宮本氏は次のように述べている。
「ルーマニアというのは、社会主義国で、平和愛好国なんです。核兵器も置いていないし、外国軍隊もいません」(『日本共産党国際問題重要論文集』第17巻、294頁)
ルーマニア国内の深刻な問題を本当に理解していたなら、このようなセリフは出てこなかっただろう。こうした事実は、共産党が日ごろ自慢している「先見の明」とはほど遠いし、共産党のいう「自主独立路線」の危うさをも暴露するものであった。たしかにルーマニアは「自主独立」であった。しかし、その「自主独立」なるものは、飢餓輸出による対外債務の返済をはじめとする、国内における残虐な搾取と抑圧の体制に立脚したものであった。ちょうど、かつての中国や北朝鮮の自立路線が、もっとも多くの経済的混乱と破壊と抑圧を引き起こしたのと似ている。
『70年史』は、すでにルーマニアの体制が民衆によって打倒された後に発行されたが、この「宮本・チャウシェスク共同宣言」についてもきちんと触れている。『70年史』は、1頁近くにわたって詳しくこの共同宣言を紹介するとともに、次のような言い訳を記している。
「共同宣言は、重要な意見の相違があっても、その党が日本共産党と日本の民主運動にたいする干渉・破壊活動をおこなわないかぎり、国際的な大義のかかった課題での一致点での共同という第10回党大会できめた、外国の共産党と関係をむすぶ基準にもとづいたものであり、ルーマニアの党の路線全体への支持や内政問題への肯定を意味するものでないことは当然であった」(『70年史』下、271〜272頁)。
説得力のあまりない言い訳つきとはいえ、この共同宣言についてちゃんと記述されていることは一定評価しうるだろう。しかし、過去の誤りを恐れず直視する共産党なら、本来、この時の日本共産党指導部の認識の限界を率直に指摘し、今後の教訓とするべきであった。では、『80年史』はこの共同宣言についてどう評価しているだろうか? 『80年史』は、他の多くの都合の悪い事実にたいしてと同様、そもそもこの事実について歴史から削除することによってこの問題を解決した。日本共産党は、世界のどの共産党よりもルーマニア共産党と親密な関係にあり、多くの点で意見が一致しているとされてきた。1987年の共同宣言のさいの記者会見で、宮本氏は両党の親密な関係について次のように得々と語っている。
「それから、なぜ、こういうことが可能なのかということは、これは、みなさん方にお配りした資料にもあることですが、両党の71年以後今日までの期間に往来が40回近くあるんです。そして、両党の見解はこの間でも一致しているか、あるいは非常に近いということが特徴です」(『日本共産党国際問題重要論文集』第17巻、293頁)。
日本共産党とルーマニア共産党との密接な友好関係は、チャウシェスク政権が打倒される1989年まで基本的には続いている。1987年の共同宣言から2年たった1989年1月20日、日本共産党中央委員会とルーマニア共産党中央委員会は再び共同文書を発表し、87年の共同宣言の意義を確認するとともに、新思考路線に反対する立場を表明した。これは、ルーマニアを訪問した金子満広書記局長が宮本顕治の親書をチャウシェスクに渡し、その親書に対する賛意をチャウシェスクが述べることで実現するにいたったものである。この事実についても、『70年史』はさりげなくだが、いちおう触れている(『70年史』下、337頁)。しかし、『80年史』ではもちろん、この事実も抹殺されている。
こうして、『80年史』は交流の歴史をすべて完全に抹殺し、最後の、チャウシェスク政権の打倒とそれを日本共産党が歓迎した事実だけが紹介されるようになったのである。ちなみに、『70年史』においては、チャウシェスク政権崩壊後、ルーマニア問題をめぐって、党内外から、ルーマニアのチャウシェスク政権に対する以前の無批判的で親密な姿勢に対する批判が多数寄せられたことを紹介し、それらの批判が不当な反共攻撃であり、党が一連の論文を通じて断固反撃して粉砕したことなどが述べられているが(『70年史』下、369〜370頁)、『80年史』ではそのくだりは完全に削除されている。そもそもチャウシェスクとの蜜月時代の交流の記録がまるごと削除されているのだから、この時期をめぐる論争についても削除しなければならなかったのであろう。
1985年にソ連共産党の書記長となったゴルバチョフは、ソ連共産党第27回党大会の開催された1986年から「ペレストロイカ」や「新しい思考」論を唱えはじめ、その路線に沿った一連の改革を実行しはじめた。この新しい路線は、一方では、しだいに行き詰りつつあったソヴィエト官僚体制に対する民衆の不満と抵抗を反映するものであり、この行き詰まりを支配官僚の地位を維持したまま漸次的に改良しようとする試みであり、他方では、フルシチョフ時代の対米協調路線と同じく、アメリカ帝国主義と資本主義世界市場に対する順応と迎合を表現するものであった。
日本共産党指導部は当初、このペレストロイカ路線について、その最終的評価は未来に属するものとしながらも、「レーニンの精神への回帰」、社会主義の民主主義的改革につながりうるものとしてかなり好意的にみていたし、それに対する期待を繰り返し表明していた。たとえば、1987年11月に開催された第18回党大会の冒頭発言において、宮本議長は次のように述べている。
「ソ連共産党第27回大会いらい、ゴルバチョフ書記長の指導下で展開されているペレストロイカ――建て直しについて、私はこれまでいろんな機会に好意と期待をもってみまもる、とくに国際分野での実現を期待するとのべてきました。レーニンの生存中を除けば、ソ連邦の歴史で、社会主義の精神での自己点検と建て直しを、このように本格的に課題としているのは、はじめてでしょう。ここで正しい前進と成功がなされるならば、よりひろく社会主義の役割が発揮されるでしょう」(『前衛臨時増刊 日本共産党第18回大会特集』、22〜23頁)。
このように宮本議長はペレストロイカに対して日本共産党が好意と期待を持ってみていたことをはっきりと証言している。この同じ冒頭発言で、世界の一体説を批判し核兵器の廃絶には資本主義国における人民大衆のたたかいが必要であることを述べつつ、次のように述べている。
「ロシア革命70周年に際してのゴルバチョフ書記長の演説のなかで、ペレストロイカがレーニンの理念の継続として強調されています。それが、科学的社会主義の精神を今日の時代に内外に豊かに発揮するということであるならば、私がここで強調した国際問題での様ざまなゆがみにたいして、躊躇なく勇気ある光が当てられるべきであると期待しても、不自然ではないでしょう」(同前、24頁)。
ゴルバチョフの誤った「新思考」の代表的例としてその後批判されることになるロシア革命70周年のゴルバチョフ演説についてさえ、宮本氏はこのように好意的に紹介しているのである。こうした好意的態度は、1988年1月1日付『赤旗』の新春インタビューではいっそうはっきりしている。ここでは、70周年演説と同じく、後に根本的に誤った協調主義的見解を唱えたものとして糾弾されることになるゴルバチョフの著作『ペレストロイカ』にさえ好意的に言及されていることに注目していただきたい。
「河邑 いまの問題にかんして、党大会の場で宮本議長は、ソ連のペレストロイカにふれられ、ペレストロイカがレーニンの初心にかえるということを掲げるのならば、反共野党などにたいする態度をレーニンの初心からどう律するのかという問題を提起されましたね。
宮本 私も、その後、米ソ首脳会談についての文献も読みました。とくにゴルバチョフ書記長が書き下ろした『ペレストロイカ』という本も読みました。彼は、レーニンの精神でソ連の体制を立て直すことを本気で考えている。熱心なんですね。くりかえし、くりかえし、レーニンの精神ということを言っています。そういう点では私は、あの熱意と馬力が正しく生きることを非常に希望しているわけです。
一方、ゴルバチョフ書記長は大変困難であるということも率直に言っています。つまり、社会主義国だけに最小限の生活保障があるし、大衆は社会主義がいいと思ってきたので、いろんな停滞――社会主義ほんらいの可能性を発展させていないとか、社会主義らしくないことにたいして、いまのペレストロイカのよびかけが言うような敏感さをみんながもっているわけではない。あるいは幹部のなかでは、いままでもっていた特権を放したくないという惰性もあるというわけです。それらともたたかい、全体としてとても真剣です。
同時に、私が大会でのべたように、INF条約のように、従来は核軍備管理だったものが、初めて核軍縮、種類がいくつにしろこの分野では完全廃絶という合意に達したというのは、ペレストロイカの精神が国際外交でも発揮したということの表れだと思います。
2000年までに核兵器を廃絶するというゴルバチョフ書記長の有名な86年1月の声明にしても、われわれは一定の意見をもっているけれども、ともかく期限を切って核兵器を廃絶せよということを国際政治の具体的課題として言いだしたことは、画期的なことです。国際政治においてもそういう真剣さがあるということはみなくてはならないと思います」(『日本共産党国際問題重要論文集』第18巻、35〜36頁)。
この『ペレストロイカ』という著作ではハンガリー事件やチェコ事件、アフガン事件についても肯定されており、そのことは後に新思考路線が古臭い覇権主義にもとづいていることの証拠とされ、過去の党史においてもそう書かれていた(「この点でもゴルバチョフの覇権主義への無反省ぶりはきわだっていた」、『70年史』下、295頁)。しかし、この1988年の新春インタビューでは、この決定的な問題については、ごく短く、しかも驚くほど弁護調で触れられているだけである。
「ただ、過去のソ連が外国に軍事的に介入した国際的な諸事件でのいろいろな問題については、さりげなく表面的に批判的でなくふれられており、いいたくない、はっきりいいにくい面もあるのでしょう」(『日本共産党国際問題重要論文集』第18巻、36頁)。
そして、このマイナス面を相殺するかのように、ただちに次のようにつけ加えられている。
「しかし、ソ連は真理の独占者ではないということを第27回党大会でいいました。ソ連絶対論というものを、みずから肯定しなかったという点も、画期的なことです。それまでは、みなさんも覚えていらっしゃると思いますが、残念ながら、日本共産党にたいするフルシチョフの干渉があっていらい、われわれは重大問題で、たとえばチェコスロバキア侵略とか、アフガニスタン軍事介入とか、ソ連の国際外交にたいして批判的にならざるをえなかったわけです。そういうとき、ソ連側の報道からよくきいたのは、“日本共産党は、周知の特殊の立場を表明した”といういい分です。日本共産党は、いろいろなところで、自分の見解を表明してきましたが、それを“特殊な立場”で片づけられたわけですね。
タス通信などにはいまでもそれがあります。さきの党大会についての報道で『大会ではいくつかの国際問題と世界の共産主義運動の問題についての日本共産党指導部の特殊な立場がのべられた』と、タスは相変わらず書きました。察するに、国際政治の問題について、まだソ連の見地を絶対化するという、ソ連の第27回党大会以前の見地で働いているジャーナリストがまだいるということでしょう。
ただ、ゴルバチョフという人は、なかなか自己省察力もあって、いたるところで自分は『時代の産物』だといっています。自分も政治局貝も、みな『時代の産物』なんだ、だからそういう時期の制約は免れられないんだといっています。自分を相対的にみる姿勢というものが、あの本にもでています。そういう点は指導者としては非常に重要な資質であると思うんですね」(同前、36〜37頁)。
これが、1988年初頭時点での日本共産党のペレストロイカ評の基調だったのである。この姿勢は、その後、ソ連による社会党美化問題や、ロシア革命70周年記念演説における「4つの質問」をめぐる論争をめぐってしだいに批判的なものになっていく。しかし、たとえば、1988年の2月19日における宮本議長の日本記者クラブ講演「世界と日本の方向をどうみるか」においても、宮本氏はまだ、「私どもは、社会主義国にたいしてその長所の発揮を願い、そしてゴルバチョフ書記長のようなペレストロイカの試みが成功することを希望します」と述べている(同前、108頁)。この講演の中で、記者の質問に答えて、宮本氏はさらにこう答えている。
「私はいまのソ連の政権というのは、核軍縮だけでなく、一般軍縮についても踏み切ると思います。アフガニスタン問題など、前の政権が起こしたことですから手直ししにくいだろうけれども、ゴルバチョフ書記長はあそこを何とか抜け出したいということを度々、いろんなところで表明しています。そういう点では、われわれが批判している問題その他は一挙には片付かないけれども、漸次、社会主義の精神からみて、平和で民族主権尊重の政策をとりたいと思っているということは、彼の書物やわれわれの接触したことからみてそう思います」(同前、133頁)。
このように、国際問題に関してもゴルバチョフに対する信頼が表明されている。このような期待論は、その後の事態の展開を見ればかなり一面的で、希望観測的なものであったことは明らかである。たしかにアフガニスタンからのソ連軍の撤退は実現したが、介入そのものに対する自己批判は行なわれなかったし、バルト三国に関しては再び軍事介入が行なわれてさえいる。
さらに共産党は、同年3月に志賀一派に対する批判論文を2本続けて『赤旗』と『赤旗評論特集版』に掲載し、ソ連の指導部が新しい方向性に足を踏み出しているのに志賀一派は今なお「古い思考」にしがみついているという批判を加えている。また4月27日の『赤旗』「主張」でも同じようにゴルバチョフの路線への期待が表明されている(同前、234〜237頁)。このように、少なくとも、1988年5月までは、日本共産党のペレストロイカ論はおおむね肯定的なものであったのである。
さて、党史の方はこの過程をどのように書いているだろうか。まず『70年史』は、いちおう、日本共産党がペレストロイカの提唱当初においては、それに対する期待を表明していたことについて、遠慮がちに触れている(『70年史』下、269頁)。しかし、すでに述べたように、ゴルバチョフの『ペレストロイカ』については、当初、宮本議長自身がその著書を高く評価していた事実には触れることなく、厳しい批判だけを加えている(誤った新思考路線を打ち出し、古い覇権主義にはまったく無反省である、云々)。この点で、歴史の正確な再現とは言いがたいものであるが、それでも、当初期待を表明していた事実については隠さずに書いていることは一定評価できる。
では、『80年史』はどうか? 『80年史』は、日本共産党が当初期待を表明していた事実、かなり高い肯定的評価を与えていた事実について何も語っていないどころか、あたかも日本共産党が最初からゴルバチョフの新路線に批判的であったかのような印象を与える叙述をしている(『80年史』、259〜260頁)。
さらに、『80年史』は「日本共産党は、87年11月にひらいた第18回党大会で『新しい思考』路線への批判を開始しました」(『80年史』、260頁)とさえ述べている。たしかに、すでに述べたように、第18回党大会の宮本冒頭発言において、世界一体説や人民の闘争抜きに核兵器をなくすことができるかのような主張に対する批判がなされている(『前衛臨時増刊 日本共産党第18回大会特集』、23〜24頁)。だが、この批判においては、ゴルバチョフについても、「新しい思考」についてもまったく名指しされていない。さらに、それと同時に、冒頭発言は、すでに引用したように、ペレストロイカに対する高い肯定的評価を与えていたし、この側面が第18回党大会におけるペレストロイカ評の基調だったのである。この点でも、『80年史』はさりげなく歴史的事実を歪曲している。
期待から極端な批判へ
1988年5月ごろまで続いた、ゴルバチョフの新路線への日本共産党の期待姿勢は、同年5月の不破副議長の訪ソとゴルバチョフとの会談、その後も執拗にソ連メディアによって社会党美化が行なわれたこと、などを契機として、しだいに批判的なものとなり、8月以降は、20年前の「現代修正主義」批判のときの左翼的戦闘性を思い出したかのように、この「新しい思考」に対する全面的な批判キャンペーンが開始されるようになった。そのときの批判の趣旨は大筋において正当なものであったが、10月になると宮本議長が「新しい思考」を「レーニン死後の世界の共産主義運動における最大の誤り」という明らかに誇張した規定を行なうまでになり、希望観測的な「期待」から極端な批判へと飛躍する。
まずもって、いくらゴルバチョフの「新しい思考」論に問題があるにしても、スターリンによる大粛清や、ナチスとの不可侵条約締結や、中国の文化大革命や、東欧でのハンガリー事件やチェコ事件、アフガニスタン侵攻など、あらゆる巨大な歴史的誤りを凌駕して「レーニン死後最大の誤り」と特徴づけることは、まったくバランスを欠いた極論であった。しかも、「レーニン死後」という限定も意味が不明である。レーニンが死ぬ前には、世界共産主義運動にそれ以上の誤りがあったということなのか? もちろん、それについては何も語られなかった。
当時、ほとんどの党員がこの宮本発言に大いに戸惑いを感じた。しかし、当時の共産党はすでに宮本顕治の暴走に歯止めをかけるような状況にはまったくなかった。上田耕一郎氏は、「レーニン死後の最大の誤り」という表現を用いるときには、あえて「イデオロギー分野における」という限定をつけたが、それがせいぜいできる精一杯の「抵抗」であった。こうして、「レーニン死後最大の誤り」なる表現は、当時、党内で「新しい思考」について論じるときには必ず用いなければならない合言葉のようになり、中央委員会総会でも確認されるに至った。
さて、党史だが、宮本時代に執筆編集された『70年史』は、この「新しい思考」論をめぐる記述の中で次のようにこの「レーニン死後の最大の誤り」論についてもちゃんと触れている。
「『宮本議長の80歳を祝う会』(88年10月19日)での答辞で、宮本議長は『新しい思考』について、『私はこれは、レーニンが死んだ以降の世界の共産主義運動の最大の誤りだと考えます』と断言した。この発言は、当時ゴルバチョフの『新思考』路線への幻想が党内外にまだ大きく存在したなかで、大胆かつ先駆的な発言であった」(『70年史』下、323頁)。
「党は、11月、第3回中央委員会総会(第18回党大会)をひらいた。……国際活動では、『宮本議長の80歳を祝う会』での発言につづいて、『新しい思考』の問題点がいっそう明確になるなかで、その『誤りの性質は社会発展の根源である各国人民の闘争の軽視、否定という点で、未曾有かつ広範』であるとし、あえて『レーニン死後の最大の誤り』だときびしく批判し、中央委員会総会として確認した」(同前)。
このように、『70年史』は、宮本顕治のこの思いつき的規定を「大胆かつ先駆的」なものとして評価している。さて『80年史』はどう書いているだろうか? 驚くべきことに、「大胆かつ先駆的」であったはずの「レーニン死後の最大の誤り」という規定について一言も書かれていないだけでなく、そもそも「新思考」との関連では宮本顕治の名前さえ出ていない。その代わり、当時副議長だった不破哲三のみがこの問題では活躍したことになっている。
「88年5月の日ソ両党定期協議で、不破副議長は、社会党がソ連によい顔をするからといって、ソ連側がそれで結構と美化するなら、日本の国民運動を妨害し、外部から干渉することになると、きびしく指摘しました。これにたいして、興奮したゴルバチョフは『荷物をまとめて帰国してもらいたい』と言いはなつという、ごう慢な態度さえとりました。
ソ連共産党は、88年、『新しい思考』を党の公式の見地として採用し、レーニンの主張と行動をもちだして、これを合理化しようとしました。日本共産党は、不破副議長の論文「『新しい思考』はレーニン的か」(88年9月)、「レーニンの名による史的唯物論の放棄――『人類的価値』優先論を批判する」(同10月)、「若きマルクスは新協調主義の援軍となりうるか――「『全人類的価値』優先論とマルクス」(89年1月)などで、『新しい思考』が、『全人類的価値』の名のもとに核兵器廃絶など今日の世界が直面している諸課題にたいする世界諸国民の闘争の抑制を説き、これを世界の運動におしつける点で、覇権主義の『古い思考』だと正面から批判しました。さらに、ゴルバチョフの論文「社会主義思想と革命的ペレストロイカ」(99年11月)にたいし、90年1月、不破委員長の論文「『新しい思考』路線はどこまできたか」で、米ソ協調主義を極端化させていると批判しました」(『80年史』、260〜261頁)。
このように、宮本氏のイニシアチブは完全に消失し、不破氏がもっぱら「新しい思考」論とたたかったかのようになっている。宮本主導から不破主導へと歴史叙述が転換された明白な一例である。
イタリア共産党の変質
『70年史』は、「新思考」路線について、イタリア共産党の変質との関連で再び詳細に論じている。少し長いが引用しておこう。
「イタリア共産党は[1989年]3月、第18回大会をひらいた。大会は『人類生き残りの問題』に焦点をあて、『相互依存の新しい世界』のための『対話』、『協調』の重要性を強調する一方で、前大会文書ではかかげられていた核兵器廃絶の課題を欠落させた。また、『共産主義運動という概念は今日では意味を失っている』として、社会民主主義政党との共同をめざした。組織問題では、『民主主義的中央集権制』の規定が規約から削除され、『分派禁止』条項が撤廃された。イタリア共産党が『新しい思考』に同調し、共産主義政党としての立脚点を自己否定するにいたったことは、事前から明白であったため、党中央委員会は全人類的価値優先論の誤りを指摘し、『あなたがたの大会を注視するものです』という内容のメッセージを送った。大会は、ソ連共産党のゴルバチョフ書記長や西独社民党幹部ら4ヵ国の外国代表あいさつをビデオで会場の特設スクリーンに映した。党代表の阪本英夫幹部会委員は、イタリア共産党に、特定の党を優遇する不当な措置にたいして抗議を申し入れた。緒方靖夫国際部長は『赤旗』(3月27日、28日に論文『イタリア共産党第18回大会が示したもの――共産主義政党の立脚点から離反した古くて「新しい路線」』を掲載し、この大会への批判的分析をおこなった」(『70年史』下、337頁)。
こうした記述は『80年史』ではまるまる削除されている。その理由はおそらく、緒方靖夫氏をはじめとする党の理論家たちが当時書いたイタリア共産党批判論文の中身にあると思われる。たとえば緒方氏は『70年史』で紹介された論文の中でこう述べている。
「党規約改定問題では、今大会まで有効であった規約からの「社会主義社会」の削除、思想的理論的源泉からマルクス、エンゲルス、レーニンの名の消去の提起すらおこなわれたことは、社会民主主義政党との共通の基盤づくりへの熱心さを内外に印象づけました」(『イタリア共産党はどこへ行くか』、46〜47頁)
周知のように、この論文が書かれた11年後に、日本共産党もまた規約から「マルクス、エンゲルス、レーニンの名の消去」を行なったのであった。日本共産党の場合、民主集中制はより強化されて残ったが、それ以外の点では、日本共産党の規約改正はイタリア共産党のこの時の規約改正とあまりにもよく似ていたのである。
1980年代末から1990年代初頭にかけての時期は、いわゆる「社会主義」諸国にとって歴史上最大の激動の時期であった。ゴルバチョフの新路線にもはげまされて、東欧諸国で次々と民衆が官僚独裁権力に反対して立ち上がり、共産党一党独裁体制が崩壊していった。これは、一方では、これらの官僚国家の中で長年にわたって積み重ねられてきたさまざまな矛盾の爆発の結果であり、民衆の支持を獲得することのできなかった傲慢で抑圧的な官僚体制の自壊の過程であると同時に、他方では、民衆がこの官僚体制を社会主義と等置していたことで、必然的に変革の方向性は資本主義にもとづくブルジョア民主主義社会へと収斂していった。
こうした事態の直後の時期に開催された第19回党大会(1990年7月開催)においては、何よりもソ連・東欧の体制に対するより踏み込んだ評価、社会主義論の新たな解明と展開、東欧諸国の崩壊を受けて急速に増大しつつあった「社会主義崩壊論」に対するイデオロギー闘争などが焦点となった。大会は、社会主義を学説、運動、体制の三つの側面から解明した。『70年史』は、この大会における社会主義論について次のように紹介している。
「大会は、『現存の社会主義体制をみるさい、レーニンが指導したロシア革命の最初の時期と、スターリンによる逸脱が開始されて以後の時期とを区別して分析的にみることが必要である』と指摘して、レーニンの死後『ソ連の体制は対外的には大国主義・覇権主義、国内的には官僚主義・命令主義を特徴とする政治・経済体制へと転換させられていった』ことを解明し、そのうえで『日本共産党は、科学的社会主義の生命力が体制的にもかつて発揮されたことに確信をもちつつ、体制としての本格的な前進はこんごの課題であること、それだけに発達した資本主義国・日本で活動するわが党の役割が重要である』と強調した」(『70年史』下、378〜379頁)。
以上の引用文は第19回大会決議をおおむね性格に紹介していると言える。 さて、『80年史』ではこの点についてどう紹介されているだろうか。以下に引用しよう。
「大会は、社会主義を学説、運動、体制の三つの見地を区別してつかむ意義をあきらかにして、レーニンの死後、『ソ連の体制は対外的には大国主義・覇権主義、国内的には官僚主義・命令主義を特徴とする政治・経済体制』に変質したと解明しました。この解明は、ソ連・東欧の激動を旧体制の崩壊を材料にした社会主義崩壊論を攻勢的にうちやぶっていくうえで、重要な意義をもちました」(『80年史』、268〜269頁)。
一見すると、両者の叙述には、『80年史』がやや短くなった点を除けば、それほど大きな違いはないように見える。しかし、慎重に見ると、『70年史』と『80年史』では重要な違いがある。『70年史』では、あくまでも現在ソ連に存在するのは社会主義であることを前提に(「現存の社会主義体制をみるさい……」という引用文を見よ)、その社会主義の枠内で「対外的には大国主義・覇権主義、国内的には官僚主義・命令主義を特徴とする政治・経済体制へと」転換させられていったという論理構造になっている。しかし、『80年史』では、「現存の社会主義体制をみるさい……」という引用文がなくなるとともに、「『ソ連の体制は対外的には大国主義・覇権主義、国内的には官僚主義・命令主義を特徴とする政治・経済体制』に変質した」と書かれている。
ここでのポイントは、「変質」という表現である。第19回党大会決議では、『70年史』で引用されているように、「変質」という表現は使われずに、「転換させられていった」という表現が用いられている。共産党の伝統的な用語法においては、この違いは重要である。「変質」という言葉は、「社会主義完全変質論」でいう際の「変質」を想起させるものであり、社会主義とは別の社会構成体に変化したことを意味する用語である。それゆえ、日本共産党は現存社会主義についてこの言葉を用いるさいには、きわめて慎重であり、第20回党大会までは、「一定の分野での変質」という以上の意味ではけっして使わなかったし、しかもその矛先は基本的に中国共産党であった。それゆえ、第19回党大会決議では、ソ連の体制はいちおう社会主義であるという前提は変わっていなかったので、「変質」という言葉は使われずに「転換させられていった」という別の言葉が用いらているのである。
ところが、『80年史』では、「変質」という言葉が用いられているために、第19回党大会決議について十分知らない読者が読めば、あたかもすでに第19回党大会の時点で、共産党が、ソ連の体制が社会主義から別の社会構成体に「変質」したという見地を表明していたかのような印象を与えるものになっている。これもまた、さりげない「歴史の歪曲」である。
東欧諸国の官僚体制を次々とくつがえしていった東欧革命の波は、本丸であるソ連にもおよばないわけには行かなかった。1991年8月にソ連の一部官僚がこの激流を官僚的にせきとめようと無力なクーデターを引き起こし、それがかえってソ連共産党の支配体制の崩壊を一挙に早めた。このクーデターはわずか3日で破綻し、街頭を埋め尽くす民衆によって阻止されたクーデター軍はたちまち民衆側に寝返ったか、中立的立場をとった。軍隊に見捨てられた連邦官僚はたちまち空中分解し、実権はあっさりと、ロシア連邦の指導者であったエリツィンの手に渡った。
クーデター側に捉えられていたゴルバチョフは、ほんの数日前まで全ソ連の英雄だったが、解放されてみると、今では民衆の英雄がエリツィンになっており、自分の政治的生命がエリツィンに握られていることを知った。ゴルバチョフは意気消沈して、自己保身のためにソ連共産党の一方的な解散を宣言した。こうして、下からの民衆の大規模な運動によって打倒された東欧と違い、ソ連共産党は、その組織的・イデオロギー的力と物質的基盤の大部分を温存したまま、上からの一方的な解散によって形式的に存在しないこととされたのである。
ソ連共産党は、連邦共産党としては存在しなくなったが、各国ごとの共産党としてはそのまま生き残った。しかも、この形式的解散措置によってむしろ、共産党のスターリニスト官僚とその官僚的・抑圧的な組織構造はそのまま残された。生き残った各国共産党は、スターリニストと民族主義者の巣窟となり、共産党改革の最後の可能性をも破壊することになった。
本来必要であったのは、ゴルバチョフの自己保身のための上からの「解散」劇などではなく、下からの末端党員およびその周辺の良心的世論を主体とした徹底した自己改革と自己粛清であり、過去の歴史における数々の犯罪と誤りを徹底的に自己切開し、その責任者たちを党の責任において処罰・除名し、幹部を全面的に入れ替え、党の内部体制を徹底的に民主主義的なものに変革し、たとえ10分の1、100分の1に縮小したとしても、党内の腐敗分子、特権官僚、下劣な民族主義者、救いがたいスターリニスト、権力犯罪者などを一人残らず放逐することであった。
にもかかわらず、そうした下からの変革を未然に防ぐために、ゴルバチョフは上からの解散によって、自らも大きな責任を負っている共産党の権力犯罪に蓋をしようとしたのである。このようなクーデター的で反民主主義的な「解散」劇を支持することは、まともな共産主義者、民主主義者なら絶対にできないはずであった。ところが、8月のクーデターとソ連共産党の解散という思いもかけぬ情勢の激動に「腰を抜かした」宮本指導部は、中途半端な態度をとって反共派につけ入る隙を与えるぐらいならば、誰もが予想しないようなきっぱりとした調子でこの解散を支持することで、難局を乗り切ろうと考えた。
こうして、宮本顕治氏による「もろ手を上げて歓迎する」という例の驚くべき発言がなされたのである(8月31日付毎日新聞によるインタビューでの発言)。この発言の翌日、常任幹部会はこの宮本発言をそのまま採用した、「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する――ソ連共産党の解体にさいして」という声明を発表した。形式的にも内容的にも絶対に支持できない「解散」に関して、右翼も顔負けの「もろ手を挙げて」(すなわち、無批判的かつ全面的に)歓迎するという信じがたい声明を出したのは、世界の共産党・労働者党の中で日本共産党だけであった。
この宮本の戦術は、右翼勢力が上げたこぶしの下ろしどころを突然失って当惑させたという意味で、なるほど一定の効果をもった。しかし、それは、日本共産党自身のこれまでの活動の全体と発言のすべてに矛盾するという代償を払ってのことであった。これ以降、共産党指導部は、いかに日本共産党がソ連共産党と命がけでたたかってきたかについて『赤旗』などで長期連載したり、大特集を組んだり、あらゆる集会や宣伝物で強調したりして、反ソ連キャンペーンに躍起になった。
しかし、日本共産党によるソ連共産党批判があくまでも、誤りを犯した兄弟党、同志に対する厳しい批判という枠を出ていなかったことは、あまりにも明白であった。たとえば、この「歴史的巨悪の党」という規定が打ち出されるわずか4年前に発表された無署名論文「日ソ両共産党関係を素描する――10月革命70周年にあたって」という、これまでの日ソ両党関係を総括する重要論文は、1964年に始まるソ連からの干渉と論争の歴史を振り返るにあたって、わざわざ次のように書いている。
「いまここで、干渉と論争の20年を簡潔にふりかえるのは、もちろん両党関係のいっそうの発展を望む観点からである」(『日本共産党国際問題重要論文集』第17巻、329頁)。
また、すでに紹介した第16回党大会における「社会主義完全変質論」批判もまた、ソ連共産党の二面性をともに理解しようとする日本共産党の一貫した立場の延長線上にあるものである。このときの党の立場は、「ソ連社会主義」に対する認識がまだきわめて不十分とはいえ、「歴史的巨悪の党」などという無内容な極論に比べればはるかにまっとうな立場であったと言えるだろう。
また、日本共産党は、ソ連による干渉後も、ソ連共産党側が反省と対話の姿勢を見せた場合には、ただちに対話に応じてきたし、しばしば共同宣言を出してきた。そのうちの一つである1984年12月の日ソ共同声明は、とりわけ高く評価された。この共同声明の一方の当事者であった宮本顕治議長(当時)は、直後の『赤旗』新春インタビューの中で次のように述べている。
「これまで社会主義国にかんしては、『文化大革命』とかアフガニスタン問題とか、ほんらいの社会主義の立場ではないことを、われわれが弁明的に触れなければならなかったことが多かった。こんどは、社会主義だからこそこういう決断ができるんだという社会主義の理性、その光というものを、当然のことながら大きく評価できるようになったということは非常に喜ばしいと思うんですね」(『日本共産党国際問題重要論文集』第15巻、11〜12頁)。
このように評価したのは、「歴史的巨悪の党」が滅びるわずか7年前のことである。このとき、宮本顕治氏は、「歴史的巨悪の党」の頭目であるはずのチェルネンコを「レーニンにつぐ平和の戦士」と呼んだだけでなく、チェルネンコから実に「暖かい」もてなしをも受けている。宮本自身がそのことを記者の質問に答えて得々と述べているので、ちょっと長くなるがそれを紹介しておこう。
「問い チェルネンコ書記長はことし満73歳になるわけです。その健康不安が世界的に注目されているわけですが、宮本さんはこんど長時間にわたってチェルネンコ書記長と会談されたわけで、書記長の会談におけるやりとり、あるいは対応の仕方、話し方、そういうことからチェルネンコさんの健康はどういう状態と判断されたか、まあお医者さんでないわけで(笑い)、それほどくわしい観察はされなかったかもしれませんが、そのへんの印象を一つしゃべっていただきたいと思います。もう一つは、こんど日本共産党が久しぶりに代表団を組んで訪ソしたわけですけれど、その代表団のソ連における待遇が、どんなものだったか(笑い)。宮本さんは、たとえばどこへ泊まって、どういう食事が出てきたか(笑い)、そういうようなことを、ちょっと参考のためにお聞きしたい。
宮本議長 私は日本の医者の代表団でいったのではないので、あまり医学的な観察はむねとしなかった。問題は政治的にどうかということです。第1回の党首会談が終わって今後どうするかという問題が出たときに、ソ連側の国際担当は、これからあとはチェルネンコ書記長や私など党首をのぞくあとの者で適当にやりたいということをいったのです。私は、これは党首会談であり、最後までやはり党首が責任をもつべきだという態度を堅持した。そしてもう1回党首会談をやって共同声明を確認しようではないかと私がいった――そのときチェルネンコ書記長は、周りのものに相談することもしないで自分の決断で「ハラショー(結構だ)」といいました。
そういう点では、彼は政治的なりーダーシップをちゃんともっている。しかも、形だけでなんとかすまそうというのではない。やはりこの機会に問題を正確につかみ、真剣なものをつくろうという熱意がありありと見えた。それで、3時間半になったわけですが、彼の場合こういう長い会談はこれまでなかったというんです。確かに、そういう会談に耐えるということは相当だったと思うのです。
しかも、リーダーシップを完全に、また正しくもっている。たとえば、最後の、2回目の会談をやったときに、共同声明について、この文書には世界的規模、地球的規模のことがうたわれている、国際政治のグローバルな問題で双方が一致してのべたことを評価すると、非常に高い視野から会談というものを位置づけて、そして非常に重視している。判断力の幅が広いことも感じました。もちろんソ連共産党の路線に忠実ということは当然です。ただ一致点が大事だということはちゃんとわきまえて、よくやったと思います。そういう点ではわれわれに、話はわかるという新しい期待をもたせた。
それから、待遇という面ですが、われわれの代表団はかなり多人数だったのです。正式の代表が8名で、その他、随員、『赤旗』カメラマンなどが行った。むこうの迎賓館は定員5、6名で、迎賓館には入らなかったのです。私は前回は迎賓館に入ったんですが、こんどソ連側は迎賓館とホテルに半々に泊まるかという提案もしてきましたが、私はやはりバラバラになっては連絡が悪いので こういう交渉というものはしょっちゅういろんな事が起こってくるものですから、いっしょに泊まることにした。そこは、ソ連共産党の新しいホテルです。そこには日ごろ使わないスペシャル・ルームというものがありまして、それを私たちに使わせるなどしました。往復の飛行機も、私は元気ですが、年齢を考えて、ファースト・クラスの半分を仕切って、特別機に使うような執務用の机をつくり、寝台を置いてくれた。それから、ソ連製のシャンペンを特別に(笑い)、最後にくれた。これはおそらくチェルネンコ書記長あたりが、彼はあとでいい新年をといってましたから、手配したのではないかと思います。
それから、友好的、同志的というのは、うそではありません。それは、この問題にかんしては同志的、友好的ということなのであって、ほかの問題、千島問題などもち出すとそういうことにならないでしょうが(笑い)」(同前、152〜154頁)。
これが、「歴史的巨悪の党」であるはずのソ連共産党の最高指導者と、それと「30年にわたって命がけで闘ってきた」はずの日本共産党の最高指導者との、「ほほえましい」エピソードである。たしかに「友好的、同志的というのは、うそでは」ないのである。
この声明以後、両党関係はしだいに親密なものになった。先に紹介した「日ソ両党関係を素描する」は次のように書いている。
「この共同声明以後、日ソ両党間の交流は、急速にと言ってよいほどに拡大している」(『日本共産党国際問題重要論文集』第17巻、340頁)。
同論文はそう書いて、両党間の交流を「日記風」にたどっている。そして、以上の歴史を振り返ったあとに同論文はこう述べている。
「日本共産党は、核戦争阻止、核兵器廃絶の問題自体に関しても、両党のいっそう緊密で力づよい協力の発展を希望している。また、『わきにおいた』ままになっているそれ以外の国際的な重要課題でも同様の協力が開始されるようになることを期待している」(同前、341頁)。
さらに、同論文は、ソ連社会についてもこう述べている。
「われわれはまた、10月革命70周年にあたり、70年前に遅れた資本主義国から出発した社会主義のソ連が、人民の生活、教育、医療などの分野で今日までに築きあげてきた大きな成果を土台に、政治的経済的文化的にいっそう前進・発展することへの期待を表明する」(同前、341〜342頁)。
最後に、「30年にわたり命がけてソ連共産党とたたかってきた」という総括を完全にくつがえす文章を、この「日ソ両党関係を素描する」から引用しておこう。
「おおざっぱであるが、これまでたどってきたように、65年間の日ソ両党関係のうち、主要な部分は友好と協力の関係である。3年前に緒についた現在の友好・協力関係をさらに発展させると同時に、その関係をいっそう強固にするためにも、それ以前の20年をきっぱりと総括すべき時期にきている」(同前、344〜345頁)。
その後、新思考をめぐって再び論争の時期が訪れるが、いずれにせよ、「歴史的巨悪の党」と「30年にわたって命がけでたたかってきた」という総括がいかに、歴史の現実と一致しない一面的なものであるかは明らかである。
さて、党史の方だが、『70年史』においては、「もろ手を挙げて歓迎」という途方もない規定が、基本的に宮本顕治によって最初に発せられたものであり、その後、党の常任幹部会声明で踏襲されたのだという事実がきちんと語られている(『70年史』下、409頁)。ここでも、「新思考」の場合と同じく、バランスを欠いた極論の提唱者が宮本顕治であり、党指導部全体がそれに奴隷的に追随している構図がはっきりと示されていた。『70年史』においては、この宮本発言にとどまらず、この時期のイデオロギー闘争の先頭に立ってそれを指導していたのは宮本であり、節目節目に宮本が重要な発言を行なうことで、党の基本路線が定められていったという印象(事実においてもそうだが)を読者に与えるものになっている。
では、『80年史』はどうか? 『80年史』では、8月31日の宮本発言のみならず、基本的に宮本顕治の名前がことごとく抹消され、ただ、党の常幹声明などの公式の声明類だけが記述されている(『80年史』、264頁)。
また、『70年史』では、「もろ手を挙げて歓迎」を表明した9月1日の常幹声明において、単にソ連共産党の解散を歓迎する議論だけでなく、同時に、今回の変革は歴史法則的なものではなく、歴代指導部の誤りの積み重ねによって生じたものにすぎないこと、ロシア革命の世界史的意義を清算主義的に否定されるべきではないこと、発達した資本主義国である日本における革命は新しい展望を切り開くものであることなどについても書かれていたことが紹介されている。しかし、『80年史』では、この部分については完全に削除され、9・1常幹声明があたかも、ソ連共産党の解散歓迎論だけを主張していたかのような記述になってしまっている。
以上で、基本的に、『70年史』の叙述と重なる部分の検討は終りである。『70年史』は1994年5月に発行されており、その記述も1992年7月15日の党創立70周年の時点で終わっている。したがって、それ以降は、『70年史』との比較ではなく、単純に事実との比較が中心にならなければならない。
われわれが詳細に見てきたように、『80年史』は、全体として短くすることをつうじて、多くの都合の悪い過去を消し去るとともに、あちらこちらで歴史のさりげない(時に露骨な)歪曲を行なっている。われわれが取り上げ指摘したものは、おそらくそうした削除と歪曲の一部にすぎない。今後、もっと詳細かつ多面的に『80年史』が検討批判されることを期待したい。
さて、本稿は、基本的に過去の党史との比較をつうじて『80年史』を論じることを課題としており、それゆえ、『70年史』の叙述時期が終わった時点でいちおう終りにしておきたい。しかしながら、基本的に不破哲三氏が党の実権を握るようになったこの1993年以降の時期に関する『80年史』の記述には、看過できない多くの意図的な事実歪曲や、重要な史実の書き落としなどが散見される。そこで、この時期の『80年史』の検討は、次号で稿をあらためて論じることにする。
近年ではほぼ十年ごとに党史の書きかえが行われている。考えてみれば、さかのぼって「党の歴史」が書きかえられること自体が奇妙なことであるが、「党の歴史」そのものは変えようがない事実であるから、「書き換えられた内容」はむしろそのときどきの「党指導部の変わり方そのものの反映」というべきかもしれない。
「日本共産党の八十年史」(以下「八十年史」)については、すでに本サイトの投稿欄やさざ波通信30号でも語られている。特に前号の京谷通信員の投稿論文やS・T編集部員の論文は綿密に検証が行われたものであり、私は、短期間にこれだけたいへんな仕事をされた両氏に敬意を表したいと思う。
また、編集部の「お知らせ」によれば、今号でもS・T編集部員の後編が掲載されるとのことであり、貴重な指摘もあると思われる。
この投稿論文で、私は「八十年史」を概観し、総論的なことや現在の党指導部の総路線、いうなれば「党指導部の変わり方」について語りたいと思う。
日本共産党指導部の右傾化が指摘されてすでに久しい。さざ波通信トップページを見ると「1999年2月開設」とある。このころに、指導部の右傾化が顕著になり、党内の一部に存在した異論が顕在化するようになったことを示している。
党内の異論が近年、質的な変貌を遂げてきたかにみえる。かつて、中央レベルでは「志賀義雄氏らの除名」、「西沢隆治氏らの除名」など政治路線が争点となるようなものもあったし、袴田里見氏や広谷俊二氏など、党活動の基本的なあり方をめぐる厳しい対立もあったが、党の基礎的なレベルにかぎっていえば、党中央に対する批判や疑問は70年代からすでに存在していたものの、当時は主として党勢拡大を自己目的化する活動方針に対するものであったり、あるいは党内民主主義をめぐるものがほとんどであった。つまり、私のような基礎組織に属する党員にとっては、中央の政治方針や政策的な点について異論を抱くことはそれほど多いことではなかったということである。これは、2つの敵の規定、2段階連続革命の理論、革命運動における議会の位置づけなどが、基本的には綱領路線の上に立ち、その具体化として政治方針がつくられ、政策化されていたことによるであろう。
現在、私たちが見ることができる唯一の「顕在化した党内異論」はさざ波通信である。この意味でさざ波通信は投稿欄も含めて日本共産党を映し出す鏡の役割を果たしているようであり、日本共産党指導部の変節の歴史を端的に示している。
この創刊号(99年3月)では1998年参院選での共産党の躍進と自民党の惨敗を受けて打ち出された「安保廃棄という共産党の政策を棚上げにした暫定政権構想」が批判されている。また、この直後に出されたさざ波通信号外では「日の丸・君が代の法制化を求めた」党指導部が厳しく批判された。この他にも、「消費税廃止」の廃止、さらには「3%に戻すことの棚上げ」など消費税をめぐる混迷、有事の自衛隊活用論、天皇の母の死や皇太子の子の誕生をめぐる天皇制の受容、国労問題に対する反労働者的な対応。近くは、イラク戦争をめぐる無批判な「国連決議の絶対化」、無限定の国連中心主義的対応……。プロレタリア国際主義の欠落と偏狭な民族主義。嘆息と苦痛なしでは書き続けることが困難なほどである。これらの中央指導部の政治的変質が近年の基礎組織レベルでの異論を生み出す底流にある。かつての「党の活動方針をめぐる異論、党内民主主義に関する異論」などと比べると質的な相違がみられ、もはや党の路線全体にかかわるものとなってきている。
「安保(廃棄)棚上げ」の暫定政権構想は、98年参院選での自民党惨敗、共産党の躍進という情勢の中で突如出されたものである。躍進をしたといっても日本共産党は得票も議席もわずかなものでありながら、おそらくこのころの党指導部の目には「『政権』(=単に行政権の頂上に参加するだけのこと)への参加」というきらびやかな幻想がちらついたに違いない。
国会内に議席を占めるほとんどの政党や議員は、政権与党になることや大臣になることに絶ちがたい誘惑を感じる。このため、政党間や派閥間のかけひき、離合集散が議会政治の常となる。このようにして形成された政権では、そこにどのような政党が参加しようともその時々の支配の大枠をはみ出す政策を実現することは不可能である。
「共和国であろうと、君主制であろうと、ブルジョアジーが国家権力をにぎり重要産業をにぎって、大多数の国民にたいして、政治的にも経済的にも階級支配をおこなっている状態(ブルジョア独裁)を打破」(不破哲三著『人民的議会主義・上』174頁・新日本新書版)することなくして、勤労人民の根本的利益を守る政策の実現のみならず、「資本主義の枠内における改革」「ルールある資本主義」の実現といえどもほとんど不可能であろう。
かつての村山内閣──社会党首班において、安保を容認し、自衛隊を閲兵する社会党党首の姿をみれば、大局的には、このような形での政権参加は「その党が掲げた政策の実現を意味するのではなく、その党が掲げた政策の変更」を意味しているに過ぎないことがわかるはずである。また、現政権に参加している公明党にしても、その支持基盤とする社会の底辺の人々の利益に反する政策を推進し、イラク戦争にも荷担する役割を担っている。ちょうどこの投稿を書いている最中に、さざ波通信をのぞいたところ、「公明党が、ある時は与党になり、ある時は野党になるたびに、私たちは選挙のたびに言うことを全く変えなくてはならない。私には残念なことに、そんな器用さ、あるいはずる賢さはない。」(創価学会員としての困惑・2003/4/10)という投稿があった。共産党とて同じことで、もし万一、共産党が安保棚上げの政府に参加していたならば、このイラク戦争に反対という姿勢を貫くことができたかどうかはなはだ疑問である。
政治の変革についての日本共産党の基本的な考え方は、たとえば以下の綱領の2、3の引用でも明らかになる。
当面する党の中心任務は、アメリカ帝国主義と日本独占資本を中心とする反動勢力の戦争政策、民族的抑圧、軍国主義と帝国主義の復活、政治的反動、搾取と収奪に反対し、独立、民主主義、平和、中立、生活向上のためのすべての人民の要求と闘争を発展させることである。そしてそのたたかいのなかで、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配に反対する強力で広大な人民の統一戦線、すなわち民族民主統一戦線をつくり、その基礎のうえに、独立・民主・平和・非同盟中立・生活向上の日本をきずく人民の政府、人民の民主主義権力を確立することである。 (中略)
民族民主統一戦線の勢力が、積極的に国会の議席をしめ、国会外の大衆闘争とむすびついてたたかうことは、重要である。国会で安定した過半数をしめることができるならば、国会を反動支配の機関から人民に奉仕する機関にかえ、革命の条件をさらに有利にすることができる。
党は、国民の多数を民族民主統一戦線に結集し、その基礎のうえに政府をつくるために奮闘する。この政府をつくる過程で、党は、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配を打破していくのに役だつ政府の問題に十分な注意と努力をはらう。一定の条件があるならば、民主勢力がさしあたって一致できる目標の範囲で、統一戦線政府をつくるためにたたかう。
単純化に図式化すると、「人民の要求と闘争を発展させる・闘う組織をつくる」ことと深く結びつけて議会内の闘いを展開するということが根底にあり、これが日本共産党の誇るべき伝統であった。この思想は、「日本共産党は護民官」などの代行主義的発想と両立することはない。
広汎な民衆の闘いと切り離され、支えるべき闘いの組織もないところで、政権参加をしたところで、結局は「その党が掲げた政策を実現することはできず、その党が掲げた政策を変更する」以外にはない。
今日の日本共産党(指導部)は八十年の歴史を経て、民衆の闘いと切り離されたところで、議会内のかけひきに明け暮れ、「選挙だけがすべて」であるかのような活動方針のもとに「票ほしさ」になりふり構わず狂奔する、ありふれた「ごく普通の議会内政党」であるかのような感を呈するに至った。私見ではあるが、今日の不破・志位指導部を特徴づけるとすれば第一に「無原則な議会主義への転落」あげなければならないであろう。
その後の国政選挙、先の統一地方選挙における深刻な後退はこのことと無縁であろうはずがない。そして、もっとも革命的、活動的な党員の離党や活動の消極化を招き、熱心な支持者の支持を失う最も大きな要因となっている。
綱領は、ロシアの社会主義革命は、革命当初の時期には、世界の進歩に貢献する業績を残したが、その後、スターリンらによって旧ソ連社会は社会主義とは無縁な体制に変質したことをあきらかにしました。そして、ソ連・東欧諸国の支配体制の崩壊は、科学的社会主義の原則をなげすて、それから離反した覇権主義と官僚主義・専制主義の破産だと解明し、ソ連覇権主義という歴史的な巨悪の解体は、大局的な視野でみれば、世界の革命運動の健全な発展へのあたらしい可能性をひらいたものだと評価しました。(『八十年史』287頁)
「『八十年史』のソ連、東欧諸国に対する評価」についての私の見解はひとまず保留するが、ソ連、東欧諸国の崩壊(極論すればソ連の崩壊)は、「大局的な視野でみれば、世界の革命運動の健全な発展へのあたらしい可能性をひらいたもの」という評価はあまりにも一面的であるが、その側面があることは否定できない。
1917年のロシア革命があったればこそ、世界各国に共産党、労働者党が誕生したのであるし、マルクス主義(マルクス・レーニン主義というべきか)が、世界的な権威を獲得したのも、ソ連の存在なしに語ることはできない。
歴史的事実としても、第二次世界大戦において、ファシズムをうち破る上で果たしたソ連の役割、ヨーロッパ各国共産党や中国共産党の役割は大変に大きなものであった。この点については、さざ波通信第30号「不破史観の確立と発展――『日本共産党の80年』の批判的検討(上) 8、ソ連とヨーロッパ共産党の反ファシズム闘争」を参照されたい。
ソ連社会が、八時間労働制、女性の地位の向上、教育、医療など社会生活の上でのさまざまな権利、社会保障において、多くの不十分さを伴いながらも、先駆的な役割を果たしたこともまた紛れもない事実であった。アメリカ合衆国を除く、多くの先進資本主義国における労働運動は長いあいだ社会主義の強い影響を受けていたし、多少とも「自制した」資本主義が存在し得たことも、ソ連の存在なしに語ることはできない。
中国革命の成功、革命後のキューバの自立、ベトナム革命(ベトナム戦争)の勝利も、ソ連の存在なしには考えられないことであった。
これらのことは、いずれも否定的な側面を持ちながらも、社会進歩における積極的な貢献であり、スターリンらのソ連指導層の誤謬とは区別して論じられるべきものであり、「ロシア革命とソ連の存在」は20世紀の歴史に巨大な足跡を残したのである。
今日的視点でながめれば、マルクス・エンゲルスらの展望したプロレタリア革命、社会主義と、実際に誕生した一国革命のロシア革命、ソ連社会主義とは大変な相違があることは明らかである。
この相違は、ソ連が現存していたときからすでに部分的には認識されていたものではあったが、「現にソ連が存在する」という事実──私的所有の廃絶、労働者階級の権力の存在、勤労者の利益を優先する政治、等々──が、この相違が大したものではなく、「ソ連は社会主義である」とする観念の最大の根拠であった。いうなれば「社会主義が現存する」という事実の重みであった。ほかならぬ不破氏もこのことを大いに喧伝したし、ほとんどの共産党員もこのことを信じて疑わなかった。
『八十年史』は、ソ連が崩壊した今日、「旧ソ連社会は社会主義とは無縁な体制に変質した」とか「ソ連・東欧諸国の支配体制の崩壊は、科学的社会主義の原則をなげすて、それから離反した覇権主義と官僚主義・専制主義の破産だ」とか、「ソ連覇権主義という歴史的な巨悪」であるなどの議論を行っている。しかし、これらは、ロシア革命、ソ連の誕生から崩壊までの歴史の総括に基づいたものではない。その最大の根拠は「ソ連の崩壊」という、これもまたほとんど「事実の重み」だけを根拠としたものと言ってよい。
ソ連の崩壊が、我々に与えた「世界の革命運動の健全な発展へのあたらしい可能性」の最大のものは、「ソ連が現存するという事実によって支えられた従来の理論の再検討、再構築の必要性を認識させた」ことにほかならない。「社会主義の全否定」のような風潮の中で、社会主義の可能性を解明するためには「ソ連社会主義の全面的総括」が不可欠であると私は考える。
『八十年史』から垣間見ることができる「不破指導部の変わり方」は、この歴史的課題に正面から取り組もうとせず、「ソ連は社会主義とは無縁なものであった」と片づけ、「社会主義は将来の問題」として、歴史の彼岸に追いやることによって切り抜けようとしている。しかも、「世界資本主義が深刻な危機的状況にある今こそ社会主義の旗を高くかかげるべきという時に」である。
さらに、「ソ連の崩壊」に端を発する「社会主義の否定」は、社会主義の思想と深く結びついてきた反戦平和の運動や労働運動の退潮、各階層各分野の大衆運動の著しい退潮と軌を一にするがごとき傾向を示してきている。このような中で、「ソ連は社会主義とは無縁なものであった」という苦しい言い訳をする「社会主義を語ることができない」共産党にどうして支持が寄せられるであろうか。
これも私見ではあるが、今日の不破志位指導部の第二の特徴は救いがたいほどの理論的混迷である。
日本共産党は、八十年前、非合法の党として出発しましたが、今日、四十万人をこえる党員、二百万人近い「しんぶん赤旗」読者をもち、発達した資本主義国の共産党のなかで最大の勢力の党となりました。(『八十年史』325頁)
「しんぶん赤旗」は1980年ごろがピークで、300万部をゆうに越えていたはずである。また、党員数は1980年代の半ばには「50万人に近い」とされた時期がある。ピークに比べれば激減であるが、『八十年史』が言いたいことは、ソ連崩壊後、イタリア共産党は分裂、消滅し、フランス共産党は得票率3、4%の少数政党に後退した中で、「日本共産党は健闘している」ということであろう。確かに「発達した資本主義国の共産党のなかで最大の勢力の党」になったことに間違いはなかろう。
<どのようにしてできた党か>
日本共産党は、イタリア共産党やフランス共産党と成長の仕方が明らかに異なる点がある。目標を立てて期限を設けて、計画的に党勢を拡大するという「ユニークな」路線をとって成長を遂げてきた。おそらく党歴が30年を越える党員であれば、多くの人がよく知っている事実であるが、党勢拡大運動はまことに厳しい「活動」であった。職場、地域、学園で普通に活動している党員であれば、定期的に一定の党員を増やし、新聞を拡大することを継続的しかもほぼ無限定に続けることはもともと困難なことである。「計画的な党勢拡大」は「これ」をやるという路線であった。ふつう党員は、それぞれのところでかかえる大衆運動をやっているから、あるところまでは拡大が進む。これが一定のところまで進むとそれ以上は拡大ができない壁に突き当たる。ところが、これを許さないというのが「計画的な党勢拡大路線」である。ある程度の拡大が進むと壁に突き当たるのは当然であり、もう少し大衆運動をやるなどして周りの人々とのつながりをひろげなければならない、と思うようになることも当然である。しかし、これを党中央は「壁論」とか「段階論」などといって厳しく批判した。
拡大運動(月間)の時には、地区の会議で支部毎に目標を決めさせる。しかし、現実にはなかなか進まないので、さらに期限を細分化した節(ふし)を設ける。地区機関の専従活動家が地区内の支部(細胞)を分担して担当し、支部会議にも出席して拡大の意義を説き、こと細かに目標を設定する。拡大月間の期限が近づくと毎日地区機関へ行くなり、電話なりで拡大の成果を報告する。地区の担当専従は厳しく点検する。これを日報体制といった。いま考えると、マインドコントロールに近いものがなければ、あのような活動はできないと思うが、当時の心理状態はそんなところであった。ときには活動者会議ということで、深夜に招集されることもめずらしくはなかった。新聞を取ってくれそうな人が周りにいない場合には町中で歩いている、何の面識もない人に呼びかけるような拡大運動もあった。「計画的な党勢拡大路線」を始めたころの「革命運動に必要なところに必要な党をつくる」という党建設の基本はもはや忘れ去られていた。
また、いまの「しんぶん赤旗」の読者には想像もつかないだろうが、「○○県△△地区目標達成!!」といった記事が一面トップに載ったものであった。読者に「こんな記事を読者に読ませるの?」と言われたことがよくあったが、このような記事が「党活動欄」おさまるようになったのはかなり後のことであった。
いくら努力してもなお期限内に目標が達成できない場合がある。そうすると、達成できなかった県党や地区党は拡大月間を独自に延長して党員を叱咤激励することになる。これが時としてたいへん長期にわたることがある。私の経験では、一年のうち半年近くを「拡大月間」として過ごさなければならないときもあった。これに国政選挙、地方選挙、補欠選挙が加わるので党員が職場、地域、学園で周りの人々といっしょにそれぞれの課題で活動することが時間的にも、精神的にもおよそに不可能になる。こうして「計画的な党勢拡大路線」は党員と周りの人々との生々きとした結びつきを破壊し、大衆闘争や大衆運動を著しく困難にする。「やりすぎれば反対物に転化する」典型的な事例である。
目標が達成できないときには、「原因を掘り下げ、自らを点検せよ」とばかり、厳しい自己批判を要求される。これは基礎組織の党員に対してだけではない。基礎組織の党員を厳しく点検する地区機関の専従活動家にはもっと厳しい追及が待っている。もともと無理なことをやっているのであるが、「計画的な党勢拡大路線が間違っている」と気づかない限り、目標を達成できなかった自らを厳しく責めることになる。こうして健康を損ね、若くしてリタイアしなければならなかった人を私は何人か見ている。医者に行ってもどこが悪いかはっきりしないので「自律神経失調症」という病名をもらった人が多く、「自律神経失調症は常任(専従)病」と言われたほどであった。私の友人でも、結局、大学を続けられなくなった人も何人かいる。
さらに、地区機関がどうしても目標を達成するために、拡大もしていないのに「拡大する予定」部数を先に申請(「決意申請」といった)してしまうことさえ行われた時期があった。拡大できなければその代金は支部が負担することになる。私は当時学生支部に所属していた。現在のように配達網ができておらず、配達はおもに手渡しであった。この負担だけではなく、新聞を配達しないことがあり、当然新聞代をもらえない。夏休みなどに支部の党員がアルバイトをしたり、小遣いを削って機関紙代をおさめたこともあった。
宮本氏が始めた「計画的な党勢拡大路線」は、確かに党を大きくした。しかし、どれほど多くの党員、「拡大運動はできない」けれども真面目な、あるいは有能な党員が党を離れていったことか。特に経営(企業や役所の)支部の壊れ方は際だっていた。経営支部の壊れ方は今日まで一貫して続いている。
組織路線上でいえば、今日の党はこのようにして大きくなった党である。この党活動の路線は、比喩的に言うと「ザルに水を入れるようなもの」であるから、休むことなく拡大し続けなければならない。したがって、続ければ続けるほど党と周りの人々との生々きした関係は損なわれ、党勢拡大そのものも進まなくなる。
「計画的な党勢拡大路線」による党勢拡大は、組織路線として一般化できるようなものではないから、党が大きくなる条件がなくなれば進まなくなる。今日のような生やさしい方針では絶対に拡大は進まない。1980年代半ばごろから、すでに拡大が進まなくなったどころか、減少傾向にまったく歯止めがかからなくなった。また、党員の高齢化や消滅寸前の民青同盟やなどの深刻な組織路線上の問題は、ソ連崩壊の政治的影響もあるけれども、「計画的な党勢拡大路線」の破綻であることも明らかである。
党建設の分野でも、重要な発展かおこなわわました。九九年六月の中央委員会総会では、「総選挙をめざす党躍進の大運動」を提起し、そのなかで、九三年いらい発展させてきた「支部が主役」の立場でこの運動をすすめると同時に、支部と党機関が血をかよわせた循環型の活動の知恵と経験を生かして、国民との交流・結びつきをひろげるようよびかけました。大会は、これらをふまえ、あたらしい規約を新鮮な力として、五十万の党づくりを内容とする五カ年計画をきめ、……。(『八十年史』307頁)
現在の党員拡大運動は「支部が主人公」などというけれども、極言すれば「実際は新聞配達や、選挙のときの支持拡大、ビラ配り、ポスター貼りの人手がほしい」というところである。また、現在の拡大運動はほとんど地方議員に依存するものとなっている。議員が拡大運動や配達活動に没頭すれば、おのずと議会活動は二の次になり、広汎な住民との結びつきを確保することが困難になる。
40万人などという党員数は実はまったく架空のもので、党費納入党員は何%か、定期的に支部会議に出席する党員はどれぐらいいるか、職場の組合活動に積極的に参加している党員はどれぐらいいるかを調べれば、おどろくべき低い数字になるに違いない。
「大衆的『前衛』党」という党建設上の基本的な理念についての論議は別にして、少なくとも、職場や地域で多くの人々と生々きとした結びつきを持ちうる党をつくるためには、何としても破綻した「計画的な党勢拡大路線」を直ちにやめなければならない。「計画的な党勢拡大路線」は党を大きくしたけれども、党を大きくした「その路線」が今日の党勢衰退の原因ともなっていることが、なかなか志位氏にはわからないらしい。志位氏は基礎組織に足を運んで、単なるパフォーマンスではなく、党員大衆の意見をつぶさに聞くことである。
長年、このような党活動に慣らされた党員は、職場や地域の人々がどのような要求を持っているかにさえ関心がない人が少なくない。ともあれ、現在活動している党員に依拠するよりないのであるから、彼らが職場や地域、学園に目を向け、周りの人々の切実な要求をつかんでいっしょに活動できるように指導、援助することから始めなければならない。職場や地域の人々から疎遠になった支部に活力が存在することはない。逆に、支部や党員が職場や地域の人々と深く結びついたときには必ず生々きと活動するようになる。今回の統一地方選挙でも後退の重要な要因として「党指導部が期待したほど一般党員が動かなかった」ことがあげられるであろう。党幹部は基礎組織に足を運び、なぜ彼らが活動に参加しなかったかをつかまなければならない。
ソ連崩壊は、党中央指導部が「巨悪の崩壊」と言おうが、「ソ連は社会主義とは無縁」と言おうが、現在日本共産党は、現行綱領確定後、最大の逆風にさらされている。その意味では、私は党の各種選挙での後退はある程度は避けがたいものがあったかもしれないと思う。しかし、これに輪をかけたのは、本稿で冒頭にあげた「無原則な議会主義への転落」であったと思う。私はここに「八〇歳を迎えた日本共産党・指導部」の政治的破綻をみる。
また、党中央指導部は、この逆風に直面して「ソ連社会主義の歴史的総括を行い、否定すべきもの、擁護すべきものを明らかにし、社会主義の理論、思想を再構築する」ことによって闘い抜く道という選択肢を放棄し、世の大勢に迎合し右傾化することによってかわそうとした。いわば理論的破綻である。
今日の日本共産党は良くも悪くも「計画的な党勢拡大路線」によって出来上がった党である。日本共産党が直面する組織的な衰退は、その組織路線の破綻であり、実践活動の破綻である。
党中央が進める路線の破綻が、政治的にも実践的にも、これほど明確になった時期はかつてない。先日の六中総では、はたせるかな、また満場一致であった。日本共産党の革命的強化、変革のエネルギーはもはや党中央指導部には残っていないのかもしれない。しかし、全党的にみればなおその可能性はあると私は思っている。