こうした動きがスカルノと親密な岸らの怒りを買った。岸と巣鴨プリズン仲間の児玉誉士夫の指令で、六三年十一月、晴玄は丸の内の東京曾舘前で東声会組員に狙撃された。三発の弾丸が命中し、内臓に九か所の傷を負った。聖路加病院に搬送された清玄は、医師十人がかりで腸を手術台の上に広げられ、十時間かけて丹念に傷を縫合されて一命をとりとめる。この銃撃事件は衆議院予算委員会でも取り上げられ、背後関係が質された。政府は「暴力団取り締まりの強化」を唱え、うやむやにした。
清玄は、語っている。「あの時、児玉はもう一度、岸の独裁政権を作ろうとして、河野一郎並びに米国のCIAと組んで動いていた。岸は戦前からの軍をバックにした強権主義者の頭目で、害毒の最たるものだった。軍部的なものの復活ですよ。この動きを一番妨害したのが僕だった。それで佐藤栄作さんや山口組の田岡一雄組長から『児玉が君を狙っているから用心した方がいい』と言われていたんです」(『田中清玄自伝』)……