清玄派対児玉派の暗闘史考

 (最新見直し2017.02.08日)

【清玄派対児玉派の暗闘史考】
 結局、田中清玄考の下りで述べることになったが、60年安保闘争当時、ブント運動を廻って、「清玄派対児玉派の対峙」が見られた事を指摘しておかねばならない。当時においてはどちらも民族派右翼とみなされていたが、歴史は下って、児玉派は民族派という衣装を着けた買弁派に過ぎなかったことが判明している。

 それはともかく、当時の状況はこうであった。岸首相は政権護持の観点から児玉誉士夫系右翼を活用した。岸と児玉の関係は、共に巣鴨プリズン帰りであり、戦犯追放解除時にCIAと何らかの特殊エージェント契約していた可能性が強く、そういう意味で根の深い仲間内ということになる。

 児玉は岸の意向を受け、「左翼から国会を護る」為に諸右翼団体の他に主だったヤクザに右翼連合の結成を指示した。 稲川会の集結は石井進に、山口組のそれは田中清玄に話をもっていった、とのことである。稲川会はじめ当時のヤクザ連合が馳せ参じた。しかし、山口組の田岡氏は、「極道は極道で、政治に手を出すのは下の下だ」といって、絶対に参加しなかった、とのことである。これは、あるいは田中清玄との繋がりで抑制されていたのかも知れない。

 これに対し、田中清玄は、「配下の武道家集団を全学連の護衛につけ、児玉系右翼の襲撃から護っていた」。ブントを廻る右翼団体との暴力戦に抗するために、田中清玄は秘書・藤本勇氏の空手グループを動員し、「突き、蹴るの基本から訓練」をして備えた。「日大の空手部のキャプテンで、何度も全国制覇を成し遂げた実績を持っていた。彼をボスにして軽井沢あたりで訓練をさせたんだ。藤本君がデモに行くと、一人で十人ぐらい軽く投げ飛ばしてしまう。『お前は右翼のくせに左翼に荷担してなんだ』なんて、だいぶ言われていたけど、『なにを言ってやがる。貴様らは岸や児玉の手先じゃねえか』って言ってね。デモをやると右翼が暴れ込んでくるんだ。それを死なない程度に痛めつけろ、殺すまではするなと。それでしまいには右翼の連中も、あいつらにはかなわんということになった」。

  田中清玄はその後、東声会の銃弾に倒れる。東声会は児玉系であり、読売の渡辺恒雄の名も一時役員に名を連ねている。つまり、児玉の配下に狙撃されて、危うく一命をとりとめたことになる。

 これらの史実は貴重ではなかろうか。れんだいこなりに評すれば、政府自民党のタカ派系が活用したのが児玉系右翼、ハト派系が活用したのが清玄系右翼で、この両者は暗黒社会でイニシアチブを廻り暗闘し続けていたのではなかろうか。

 2004.8.14日 れんだいこ拝
 角栄、小沢、CIA、こんな事でいいのでしょうか?、宇佐美保(立花隆・堀田力は、米国のパシリだった事を白状すべきです)」より一部転載しておく。
 「昭和の妖怪」の異名を持つ岸は、ファーイースト石油をインドネシアからの政治資金の還流に使った、といわれる。インドネシア側の首領は、プルタミナ総裁、イブン・ストウであった。このスマトラ生まれの小柄な軍人は、スカルノ時代から石油界に食い込み、メジャーと渡り合って、力を蓄えた。……ファーイースト石油を通じて、岸とストウはがっちりとつながっていた。この既得権者のスクラムに猛然と突っかかったのが、国士を自任する田中清玄(筆者注:角栄氏の資源外交に協力)だった。……当時晴玄はバンコクを活動拠点にしており、反スカルノ派のインドネシア人亡命者をタイ、マレーシアに百人ちかく送り込んでいる。晴玄はポハンに西ドイツの国防大臣を紹介し、西ドイツの武器が独立政権に流れた、といわれる。

 こうした動きがスカルノと親密な岸らの怒りを買った。岸と巣鴨プリズン仲間の児玉誉士夫の指令で、六三年十一月、晴玄は丸の内の東京曾舘前で東声会組員に狙撃された。三発の弾丸が命中し、内臓に九か所の傷を負った。聖路加病院に搬送された清玄は、医師十人がかりで腸を手術台の上に広げられ、十時間かけて丹念に傷を縫合されて一命をとりとめる。この銃撃事件は衆議院予算委員会でも取り上げられ、背後関係が質された。政府は「暴力団取り締まりの強化」を唱え、うやむやにした。

 清玄は、語っている。「あの時、児玉はもう一度、岸の独裁政権を作ろうとして、河野一郎並びに米国のCIAと組んで動いていた。岸は戦前からの軍をバックにした強権主義者の頭目で、害毒の最たるものだった。軍部的なものの復活ですよ。この動きを一番妨害したのが僕だった。それで佐藤栄作さんや山口組の田岡一雄組長から『児玉が君を狙っているから用心した方がいい』と言われていたんです」(『田中清玄自伝』)……


【大山倍達と田中清玄の関係考】
 「大山倍達と田中清玄の対談(1984年)」を転載しておく。
 はい、今回はですね…大山倍達総裁が非常にお世話になったという田中清玄先生と大山総裁の1984年に行われた対談「特別企画―清玄・倍達新春放談 空手は世界平和の原動力」をご紹介します。 ちなみにメッチャ長文ですw

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 田中清玄先生(たなかきよはる/一般的にはせいげんと読まれる)は、戦後の昭和史に詳しい方はご存じでしょうが、知らない人の方が多いかも知れません。 なので、軽く紹介したいと思います。田中先生は1906年北海道生まれ、東京帝大入学後の27年、日本共産党に入党。 共産主義者となり書記長にまでなる。 田中書記長下の共産党は「武装共産党」と呼ばれ、官憲殺傷事件を50件以上起こしたとされる。1930年、共産主義者の息子の改心を促す為に母が自害し、間も無く治安維持法で逮捕される。 同志の転向や母の死などを切っ掛けとして獄中で34年、天皇主義への転向を宣言、41年に出所、四元義隆の紹介で禅僧の山本玄峰を訪ね、修業を重ねる。終戦直後、天皇制の護持を唱え、皇居で昭和天皇と面会、3つの進言をし、実現させた。 終戦直前の45年1月に建設会社の神中組を設立(48年に三幸建設となる/田中開発工業とは別?)、復興事業や米軍の仕事を請負ながら反共運動を支援し、フィクサーとして(一説にはCIAエージェントでもあったと言われる)活躍する。 60年には全学連に資金提供なども行っており、63年に東声会組員に銃撃されるも一命を取り留める。 その後も東南アジアや中東に太いパイプを構築し、特に日本政府の油田事業に貢献した。 93年死去。と言う感じですかね。 武道的には函館中学時代には大東流柔術(多分大東流合気柔術)で皆伝の域に達し、1927年、東大で船越義珍、大塚博紀両名より空手を学ぶ。 共産党時代は警察を相手に何度も大立ち回りを演じ、本人によれば武器や空手で2,30人は殺したと言う。 後に東大拳法会会長や和道流後援会長を務め、和道流八段となる。 また極真会館主催第3回、第4回世界大会では大会顧問や相談役を務める。

 大恩ある田中先生を前にして流石の大山総裁も謙って、異論は唱えず御用聞きになってますw読んだ限り、時系列や事実誤認も多々ある様に思いますが…それではどうぞ。

 「空手一筋に生きたい」と
大山  田中先生と初めて会ったのは、終戦の時でしたね。
田中  そう。 わたしが陣中組(※原文ママ)という土建業をやっていたときだった。その頃、わたしは、戦争は敗けているし、早くやめなければいかんと思っていた。 わたしが教えを受けた玄峰老師もその意見であり、天皇陛下、鈴木貫太郎さん(終戦時の首相)も同じだったんです。 そして、戦争をやめて韓国を独立させる。 軍の一部にもそういう声があったんですが、東条(英機)や、岸(信介)がそれをつぶしていた。
大山  先生、そのとき台湾も独立しなきゃいかんというとったですね。
田中  そうそう。 そういった。 それで玄峰老師と鈴木貫太郎さんのとり持ちで、「これからの日本は、食料とエネルギーだ。 食料を増産し、石炭を掘らなきゃいかん」ということになった。 それで、そのため会社をつくれ、というんで神中組をつくったわけだ。もう敗戦とわかりましたから、わたしの家は静岡県の三島に置いて、会社は横浜、東京など十何カ所につくりました。 ちょうどそのころ、キミが飛び込んできたんだな。
大山  その頃の先生のバイタリティーといったら、今どころじゃなかったですね。 すごかったですね。 先生は、「明治三十九年生まれの丙午だから」とよくいってましたね。 「オレは火の馬だ、高杉晋作と同じ火の馬だ」って。でも、わたしはあのころ何もなかったから、先生に迷惑ばかりかけていましたね。 先生だけじゃなくみんなに迷惑をかけた。
田中  あのころキミを見たとき、「これは魅力ある青年だなあ」と思った。 「何をやる」と聞いたら「空手一筋で生きたい」といっていた。 それまで政治家なんかに会って失望していたんだね。 それで、小さいころからやっていた空手をやりたいといったんだね。
大山  そうでした。

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田中  それでわたしは、そのときこういったんだ。 「それでやんなさい。 しかし、辛いぞ。 空手は派閥が多いし大変だぞ」と。その頃わたしは、和同流(※原文ママ)に関係していたので、和同流から「田中清玄顧問はけしからん。 空手の異端者を擁護している」と文句をいってきてね。 だから逆にいってやったんだ。 「なに、異端者だって。 宮本武蔵は何といわれたか。 あれも異端者といわれたじゃないか。 ほかにも流派の開祖者はみんな異端者といわれたじゃないか」と。あんときはケンカだったね。 でも、わたしは最後まで君を支持する旗を降ろさなかった。 結局、それがよかった。
大山  あのときはほんとにありがたかった。 先生は、よくわれわれのようなヘソ曲がりの面倒をみてくれましたからね。 わたしのような者でも見捨てないで、よく世話してくれましたよ。
田中  そう買いかぶりなさんな。 明治生まれはヘソ曲がりなんだ。 それだけですよ。
大山  いや普通だったら、わたしなんか臭い物にはフタをしろって、適当にやられていたですよ。
田中  南北朝鮮統一を促進させるには中国を動かさなきゃいけない。 空手道も、あんたの空手道を世界の空手道にしていかなきゃいかん。 極真流なんていわない。 大山空手でいいですよ。 そういう風に考えて、わたしはあんたを支持してきたんです。 あんたは、紹介者も何もなしに、わたしのところに飛び込んできたんだったね。
大山  そうです。 そのころ敗戦になって、わたしは兵隊から帰ってきて、今でいえばツッパリ。 ぐれていたんですよ。 そのとき、たまたまある人からとても立派な先生がいると聞いて、「会って下さい」と、先生のところに飛びこんでいったんです。 これが初めての出会いでしたね。
田中  そう、そう。

 支部は世界に八〇〇個所
大山  先生のところには、拳法をやる人だとか、中国拳法とか、空手とか柔道、剣道をやる人とかが、ごっそりと集まってきていると聞いたもんですから……。
田中  敗戦で引き揚げてきた軍人や、戦時中の警察なんかにいい人がいるのに、誰も引き取り手がないんですよ。 それに腹が立って、自分で全部引き受けた。 一万人ぐらいいたかねえ。
大山  いつも姿勢をビシッとした人で、剣道の達人という人がいましたねえ。 あれは軍人だったんですね。 復員してきたけど、やることがないという人で、珍しい人ばかりが集まっていましたね。それで、わたしもスープぐらいはすすれないかと思って、先生のところに行ったんですよ。
田中  その人たちもその後、自衛隊に行ったりね。 戦前の藤原機関の藤原岩市(元・陸軍中佐、元陸上自衛隊第十三師団長)もそうだったね。 彼は戦犯でひっぱられたけど、誰も殺していないので、たくさん嘆願書が出て釈放になった人です。大山さんは、うちでもアッという間に若手の大将になっていた。
大山  そういっても過言じゃないですね。 (笑) どっちかというと、わたしも先生によく似ていて、ヘソ曲りの方だったから。
田中  ヘソも曲がっていたが、ツムジも曲がっていたなあ。 「どうだ、古い空手の師範につかないか」といったら、「いや私は私の道で行きます。 生き方が自ずから違います」 といった君の言葉が印象的だったなあ。 だからわたしは「それなら自分の信じる道を行きなさい」と。 理由はいくつかありましたよ。 古い空手ではだめだとかね、一つの流派にかたまってどうするんだとか。ところで、大山君は今、世界にどれくらい支部があるんだね。
大山  世界一二三ヵ国に八〇〇の支部があります。 共産圏にまでありますよ。 ないのは、北朝鮮と中共なんかの数カ国ぐらいで、あとは全部あります。(中略)

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尻馬に乗っての"田中攻撃"
田中  自民党では田中派だ、三木派だ、福田派だ、と政権のために醜いケンカをしている。 田中判決のときの福田のあのテレビの放送。 田中さんが所信を述べたでしょう。 それに対して、福田さんが怒り心頭に発して、「はしにも棒にもかからない奴だ、田中は」なんていっている。あのテレビを見て、今まで福田を信じていた人が、「こんなつまらない人間だったのか。 憎しみだけじゃないか」と思ったでしょう。 うちの孫が「あれは仏の顔じゃない。 百鬼羅刹で人は救えない」というんです。
大山  ほんとですね。
田中   「あんな政治家とつきあうのはやめなさい」とうちの孫がいうんです。 これは国民の大多数がそうだったようですね。 福田の人気もガタ落ちで、「田中さんかわいそうだ」というんだ。 同じ釜の飯を食ってるんですよ。 田中は一銭も自分のふところに入れていない。 民社党にも社会党にもいってるんですよ。検事もいろいろ調べて、それを知ってるんです。 あの秘書の榎本敏夫が、だからやるなら政治資金規制法(※原文ママ)にしてくれとしゃべっている。 それだと微罪で軽い。 でも、田中角栄はガンとしてきかない。 政治資金規制法だと、受け取った金を誰にやったかハッキリさせなければならない。公明、民社でも、田中さんから資金をもらった連中は、田中さんを神様のように思っているんです。 竹入君(公明党委員長)も、表面では攻撃しているけど本気じゃないでしょう。 全部、金は出ているんだから政治資金規制法で「つけ忘れた」ということでいいだろう。 弁護士がいくらそういっても、「自分だけ逃れりゃいいというわけにはいかない」と田中さんはいって、ガンとしてきかない。
大山  ええ、誰に金をやったかいわないためですね。
 (中略)
田中 田中 ギリシャのパルテノン神殿の数倍も大きいのが、今は見る影もなくなっている。 宗教も救いでなくなってるんですよ。 キリスト教同士が殺し合い、イスラム教徒同士が闘い合い、殺し合っている。今は一番知識が発達しているのに、人間が今、一番堕落し、自滅のところにきている。 これを救うものは何か。 共通の道を発見していくことです。 大山君は、空手の世界にそれを実行してるんです。
大山  いやぁ、まだまだ……。
田中  大山極真流ではなく、もう"大山空手"といった方がいいじゃないですか。 同じ空手をやる者同士で、流派のことなどで争うなんていけません。
大山  おっしゃる通りです。 流派にこだわっていてはいけない。

 空手は世界平和の力になる
田中  もう一ついいたいのは、もう狭い見方で、米ソの対立だとか、米ソが極だとかと政治家がいっている。どっちにつくかなんてやっている。 しかし、核兵器を持った米ソが妥協して、世界支配をしたらどうなる。 アジアもアフリカも永久に植民地になってしまう。 これに気づいているから、ヨーロッパはアメリカ、ソ連離れをしている。アジアはねえ、日本、韓国、中国、ベトナムなどの東南アジアの結合ですよ。 ヨーロッパは、アラブ、アフリカと連帯したり、アメリカ圏、ソ連圏に対抗していけるし、この四つが強大な力になったら、核兵器も何もかも廃止することもできますよ。 米ソだけなら二ヵ国に妥協されたら、われわれは何もできない。 二国だけが資源と核兵器を持って世界を支配するというのはやめなさい。 何もなかったら相手はいうこときくもんか。
大山  そうです。 この前ねえ、選挙演説の時、中曽根さんいいことをいってましたよ。 「歯舞、色丹には、軍隊も何もないから、ソ連が入って島をネコババしたんです」と。 だから日本にも、漁民や日本を守る力がなくてはダメです。 それがなくて、軍備拡張反対だとかなんとかいったってナンセンスですよ。自分の家を自分が守らないで誰が守る。 自分の国を自分が守らないで誰が守りますか。 だから、国を守るぐらいの力は必要だと思っていますよ。
田中  そう、その通り。
大山  わたしたちが通りすがりに悪い奴に脅迫されても、自分に力があって脅迫されるのと、ほんとに力がなくて、こわくて脅迫されるのでは、全然違うんです。 だから、国の安泰のために軍隊は必要だと思いますよ。 いや、アジアを侵略するためにとか、そういうことじゃなくて、自分の領土を守るためにですよ。
田中  しかも、われわれはアジアの一員なんだ。 紛れもない事実だ。 この顔が白人になりますか。 (笑)インドネシアの一二〇〇年続いた王家のハマーン国王の子が、自分の土地を農民に開放して永久副大統領になりましたよ。 スカルノに反対で、スハルトと一緒にインドネシア革命をやったんです。 大物ですよ。 今度、一緒にインドネシアに行きましょう。
大山  インドネシアは、ウチの空手がものすごく強いんですよ。
 (中略)
田中  わたしはスハルト大統領とはずっと親しくしている。 一昨年も昨年も会ってますよ。 革命当時からのつき合いで二〇年だ。 日本軍が育てたんですよ、向こうの軍学校は。だから、さっきいったアジア、ヨーロッパ、アラブの統合はだね、政府が反目しても、民間が、スポーツで結合することもできるんです。 空手はその結合の大きな力ですよ。 そういう大きな意味がある。政府も動かして、世界の人々の融和のバックボーンとしての空手。 結び合いの道具になる。 だから一月の空手大会には、挨拶もそういう点に重点をおいてやります。
大山  世界大会の時ですね。 いつも心づかいいただいてありがとうございます。

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自分本位で徹底的な交流を
田中  わたしは、この人物と思ったら、誰が何といおうと、悪口いおうと、支持します。 (笑) 田中角栄さん、されに大山さん、みんな立派だから。山口組の田岡さん(前組長=故人)とのつき合いもそうだった。 田岡さんは、韓国の人と部落の人を特別にかわいがった。 それも公然と。 山口組はなかなかやかましくて、他の組の人を入れなかったんです。 でも韓国の人には寛大だった。 でも、条件は厳しくて「素人に手を出すな。 麻薬に手をつけるな、麻薬をやったら切る。 生業を持て」の三つの掟があって、田岡さんが守らせるようにしてましたね。
大山  ほう、そうでしたか。 立派なものですね。
田中  それと組員に、国を愛することも教えてやりましたね。 だから、神戸興業社をやったり、土建をやったり、港湾運送業をやったりしてました。 藤木さん(横浜の港湾荷役会社経営)とも兄弟分でしたよ。
大山  先生は戦前、ずっと刑務所に入っていて、山口組の若い連中と一緒だったこともあるんでしたね。
田中  そう。 わたしは長く入っていたから牢名主になっていて、あそこ(山口組)の若いもんの世話をしてやったりしましたよ(笑)。 それに朴烈という韓国人で、戦前、天皇陛下をねらって捕まった男が入ってきましたが、獄中ではずっと差別待遇されてました。 (アナーキストから)転向したので死刑から無期になったんですが、すいぶん差別されていたので、わたしは「韓国人だといっても立派な人だ。 かわいそうじゃないか」といって、できるだけかばって世話をしてやりました。
大山  そういうところが、いかにも先生らしいですね。
田中  わたしは思想的に右へいったり左へいったり、ともかく規則をぶちこわしたい方だから、刑務所の規則も守ったことがないですよ(笑)。朴烈君は獄中生活が長かったから、羊かんを食べたがってね。 それでヨッシャってんで、看守をうまくごまかして刑務所の中に羊かんを持ちこんで食べさせてやった。 朴君は涙を流して喜んでくれましたよ。敗戦後、わたしが身元引受人になって出獄しました。 南(韓国)は彼を重要視していましたが、彼は李承晩(元韓国大統領)さんと合わなかったんですね。
大山  どうしてですか。
田中  李承晩さんは親米なのに対して、朴君はアジア派だったからです。 だから朴君は「オレは李承晩の韓国には帰らない。 南北を一本にして統一国家を作りたい。 北は共産主義で間違っているが、北にはリ・トウキンなどの古い友人がいるかrあ、自分が行って説得してくる」といって、わたしのところにも相談に来たんです。
田中  ほう、たいへんな情熱家ですね。

 大山倍達田中清玄2.jpg衝撃的だった朴烈君の死
田中  だからわたしは忠告したんだ。 「あんたの主張は正しい。 オレも支持はするが、北へ行くのはやめなさい。 共産主義なんてそんな甘いもんじゃないよ。 行ったら殺されるかもしれんぞ。 もっと時期を見てやりなさい」と。朴君は、奥さんをもらって新宿区下落合に住んでいたんです。 そこからわたしのいる三島にも来たので、最後迄説得したけれど、愛国の情やみがたしだったんでしょう。 彼は「殺されてもわたしはやります」といって、祖国へ帰っていった。 ところが、案の定、北朝鮮の金日成にやられた。 スパイとして殺されてしまった。
大山  殺されたんですか。
田中  死刑になった。 彼はスパイなんかじゃなかったんですよ。 かわいそうなことをしてしまいました。 慰霊祭をやってやろうと思っているんです。 わたしが出獄のときの身元引受人になっているから、わたしが主催者になるつもりだが、大山さんも名前を出してくださいよ。
大山  わかりました。 わたしは朴烈さんの子供は、韓国の将校だということを聞きましてね。 わたしが陸軍士官学校にいったときに、彼の子供が陸軍士官学校に入っているということを聞いたので、今は将校になっていると思いますよ。
田中  へえ、そうだったの。
大山  朴なんという名前がわかりませんが、いるハズです。
田中  そんな話、初めて聞いたね。 それ、調べておいて下さい。
大山  わかりました。 田中先生にはもっといろいろ発言していく場をマスコミが作らなきゃいけませんね。 この前、ある代議士に会ったら、「国会の赤じゅうたんを闊歩するのは国会議員ではなくて新聞記者だ。 日本の政治は政治家がやってるんじゃなくて、新聞社がやってるよ。 これはマスコミ自身が襟を正して考えなきゃいけない」。 わたしは田中角栄さんには会ったことはないけれど、いまはペンの暴力ですよ。 ほんとは、内心同情しながらも悪口をいわないとついていけないと思ってるんですね。日本全体の、こういう傾向はわたしたち自身、大いに反省しなければなりませんね。
田中  そうだよ。
大山  でも、先生のような方は長生きしてもらいたいですね。 国宝級ですよ。 何かあったらアジアの損失です。 お世辞でなく。
田中  いや、ありがとう。

 という事で対談でした。 大山倍達総裁と田中清玄先生の関係は、メジャーになる前は別に隠したりしてはいなかったのですが、70年代になるとあまり話が出なくなります。 80年代になって「月刊パワー空手」で大山総裁の足跡を辿るという基佐江里さんの連載が始まってからですかね、名前が出る様になったのは。 それから、でしょうか、この対談の後に開催された第3回世界大会では挨拶を寄せたりしてます。 この時の大会の役員はメッチャ豪華で、国王2名、王族3名、元米国元大統領1名、各国首脳3名、元/現役国内大臣6名(総理大臣を含む)。 他にも国内外の議員とか、大学教授や宗教家や元ヤクザや警視庁の役人とか…w そして多分田中先生のルートだと思いますが、インドネシアの将軍とかもいらっしゃいます。

 で、対談序盤に武道家の話がありましたよね。 これ、多分なんですが、当時田中先生の元で働いていた養神館の塩田剛三先生、太氣拳の澤井健一先生とはここで出会ってるんじゃないかなぁと。 時期的には46年〜50年のどこかだと思いますが。 田中先生を知ったのは東亜連盟か、朴烈氏が初代団長を務めた在日本朝鮮居留民団辺りからでしょう。

 大山倍達田中清玄6.jpg目白の大山邸建設中の写真

 で、目白時代の大山総裁の家、通称「目白御殿」を建築したのは田中先生の三幸建設で、劇画にある様にアメリカで稼いだ金で建てた訳じゃなく、渡米前に建築されてます。 この目白御殿建築中の写真がありますが、大山総裁は澤井先生と一緒に写ってますね。 手持ちの写真では右端の方が切れてるんですが、田中先生に見える様な気も…。大山総裁の戦後は、所謂戦後の裏面史にも繋がっており、多大な興味を持っている方もいるかと思います。 政治的に大きな役割を果たしたかどうかは不明ですが、生前にこういった側面の大山倍達を語って欲しかったですね。それでは、また。

 参考文献:
第3回オープントーナメント全世界空手道選手権大会 国際空手道連盟 財団法人 極真会館 1984年
月刊空手道 1957年 新年号 空手時報社 1957年
政界往来=Political Journal 1984年2月号 政界往来社 1984年
別冊宝島1150号 時代を動かした闇の怪物たち 昭和・平成 日本「黒幕」列伝 宝島社 2005年
武道日本 森川哲郎著 プレス東京 1964年
巨人 大山倍達の肖像 -ゴッドハンドの軌跡 国際空手道連盟極真会館監修 コア出版 1984年
大山倍達正伝 小島一志、塚本佳子共著 新潮社 2006年
田中清玄自伝 田中清玄・大須賀瑞夫著 筑摩書房 2008年
seitoron/seikaikuromakuron/tanakaseigenco/gomon.htm

 「★阿修羅♪ Ψ空耳の丘Ψ12]」の「事実とニュース[5]」を転載しておく。
 1960年代の安保闘争のとき、アイゼンハワーが来日することが決まり、反対派が騒然としてそれに抗そうとしたとき、アメリカの要請で児玉誉士夫がその鎮圧を仰せつかり、自民党の大野伴睦と河野一郎にそれぞれ山口組と稲川会の組員の東京への集結を指令した。稲川会の集結は石井進に、山口組のそれは田中清玄に話をもっていった。ところが、田中清玄はその命に従わなかったようなのだ。これは、彼が後に転向をしたとはいえ、共産党を代表する人間の一人だったということが無縁なことだったとは僕には思えないのである。彼はそのために仁義に悖ったとして東声会の銃弾に倒れるのだが、その東声会のクラブの役員名簿には、やはり児玉誉士夫の舎弟だった読売の渡辺恒雄の名も一時つらなっていた。

 ”岸および中曽根と深い関係にあったのが右翼のボス、児玉誉士夫だった。中曽根の親分の河野一郎も児玉とは切っても切れないつながりをもっていたが、その児玉の配下に狙撃されて、危うく一命をとりとめた田中清玄は、亡くなる間際に、「麻薬問題、暴力団問題は日本の政治を根底から改革し、革新しなければ解決しません。自民党の竹下や金丸それに小沢、それからそれに拝跪しているうすぎたない連中が、見てくれだけでごまかしの政治改革をやったって、何の役にも立ちません。かえって蔓延させるだけだ。こういう連中が政治家を辞めること、これが一番だ。それからこういう政治の腐敗勢力にくっついている一部のジャーナリズムも問題だ。これは国を滅ぼす」と怒りをぶちまけている。[孤高を恐れず/佐高信著]”

 アンゼンハワーの来日が中止になると、自民党はヤクザ衆の東京集結の費用にあてる筈だった資金を他に回してしまった。それで、巨費をたてかえていた親分たちが怒ったのだが、児玉誉士夫が謝って済ましたのだという。

 ところで、竹下登の皇民党事件は次のようなものでもあったようである。稲川会というのは、検察庁の初代の検事総長が退官後この暴力団の顧問弁護士になってもいるように、佐川急便疑獄が起きなければ、今頃巨大に肥え太り国家的な権力を持つに至っていたであろうとも言われている暴力団である。しかし,この佐川疑獄では東京佐川の渡辺社長のヒモであったと言われている小沢一郎も、また中曽根も何故か検挙されていない。そして、後にこの連中は「皇民党事件」で再び浮上するのだが、皇民党を裏で手繰ったのは他ならぬその中曽根だと言われている。彼は「世界平和研究所」なる軍事シンクタンクに竹下が予定通り資金援助をしなかったことに腹を立てたらしいということである。この軍事シンクタンクは、軍事や原爆の解析用に使用するNTTのスパコンの輸入が本来は核心であった「リクルート事件」を発生させているのだが、その構成メンバーをみれば、日本において、軍事というものが財界と如何に密接に関与しているかということがよくわかるものにもなっているのだが・・・・・。”だから、NTTの民営化の真相に触れた二冊の本が、圧力により発売禁止になった事実が示すように、スパコンと核の関係に触れることは最大のタブーだった。核武装を実現したい中曽根はエネルギー政策を踏み台に使い、プルトニウムの蓄積を推進すると共に、スパコンの核実験による解析技術が欲しかったのであり、世界平和研究所がデータベースを完全に握って、支配の地歩を築くためにスパコンが必要だったのである。

 この頃に流れた噂はアメリカン・カップに勝つために、世界最高のヨットを設計する上で、日本の造船技術とスパコンを組み合わすという話だった。波と風と船がぶつかった時に高速で乗り切るには、動態力学のシュミレーションが必要であり、その計算にはスパコンを使いこなせばよい。中曽根の頭には帝国海軍の思い出があるし、基地にする鳥羽は藤波の地元でもあるから、若い社長連中にヨットを作らせて野望を実現するのである。[平成幕末のダイアグノシス/藤原肇]”

 ”この(リクルート事件)疑獄はスパコンがらみのNTT事件だったのであり、世界平和研究所の軍事研究に使うスパコンの問題に加え、リクルートと日経がNTTと組んで、新しい情報中枢を作って民間参謀本部になる、きわめて巧妙な陰謀までが関係していた。そこには日本の将来にとって危険な企みがあり、その野望が改憲を狙う国家主義のグループと結んだ、なし崩しの再軍備に発展する意図を秘めていた点で、巧妙に仕組まれたソフトなクーデターでもあった。

 T型(技術集約型産業社会)時代の汚職はジーメンス事件やロッキード事件のように、ハードの代表である兵器が主体になるが、リクルート事件の場合は同じハードでも、情報商売と結びついたコンピューターが主役で、K型(知識集約型産業社会)社会の到来と密着したパターンを持っていた。だが、民活を使った土地投機と結んだだけでなく、未公開株を使った金儲けと関係していたために、陰謀は実現せずに買収と収賄からなる汚職で終わり、すべてがウヤムヤな形で雲散霧消したのである。[日本が本当に危ない/藤原肇著]”

 皇民党に直接働きかけたのは豊田一夫であり、その系列の殉国青年隊にはオウム真理教事件で名前が出て来る山口敏夫がいた。また海部敏樹もこの殉国青年隊にいた。同じくその団体にいた浦田勝という人物は、小沢一郎が「灰皿を取り替えただけ」という場面の後に、皇民党に行って話をつけたという。

 竹下は何者かのマスコミへのリークにより、目白台の田中角栄宅に行き門前払いをくらわされるところをテレビで放映され天下の物笑いにされているのだが、この皇民党というのは、そもそもロッキード事件の時に田中角栄を盛んに攻撃していた右翼団体の系列に属しおり、田中角栄の味方気取りはおかしいということである。また僕が驚くのは、こういうテレビカメラも含めた演出が、xxxxxの好きなそれと一緒だということでなのである。最近の皇民党の車は実に洒落た右翼らしからぬカラーリングが施されていて驚くのだが、何故僕がそんなことを知っているのかというと、xxxxxともつるんでいるらしい皇民党がわざわざ駐車違反をしに来ているからである。現在は以上のような表と裏の世界が渾然一体となった危険な交わりに、カルト団体「創価学会」も加わっているというわけである。

 中曽根は1972年に「赤紙」復活を唱えているのだが、この年、NHKはCCIR(国際無線通信諮問委員会)にHDTV(ハイビジョン・テレビ)の研究課題の提案をした。そして、その開発を始めるのだが、当時HDTVの研究開発は日本でしか進められていなかった。HDTVは伝送する情報量が多く、普通の地上波で送ろうとすると5チャンネル必要であった。そこで、2チャンネルで済む衛星放送となるのだが、このNHKの衛星放送が当初は「電波が届きにくい地域への放送対策」という名目で始められたというのは今では知っている人はほとんどいないだろう。ところが、・・・・・・。NHKのHDTVは、上記の核開発のためのスパコンとセットで他国が行う核実験をその高精細映像に収め、核弾頭の研究開発をするために開発が始められたものだという。

 1987年、川崎市が「ハイビジョン都市づくりへ向けて」という宣言を発表し、翌88年には郵政省が、川崎市を先例とする「ハイビジョン・シティ構想」を発表するが、このリクルート事件にはもう一つの信じ難い事実も>あります。それは、この事件は、神奈川県警の共産>党員宅の盗聴事件で最初動いていた朝日の川崎支局の人間に、その神奈川県警の捜査ニ課の警部が「川崎駅前のリクルート・テクノピアを調べた方が、盗聴事件より大きなスキャンダルがものに出来る」と>言ったのが事件発覚の発端となったというものです。というのを思い起こしていただければ、これが単なる偶然なのか、いぶかしく思われることだろう。

 西村真吾は、国際勝共連合と縁の深い民社党出の人間だが、先達て、週刊誌の「プレイボーイ」誌で、核武装論をぶちあげ、防衛庁の政務次官を放免された。「プレイボーイ」誌は、少し前に月刊版の方でも、中曽根人脈でありオウム教人脈でもある、やはり核保有論者の現東京都知事の石原慎太郎を特別記事で誉めそやしていた。それにしても、西村真吾と実弾を積んで魚釣島に行った仲であるのに、何故現東京都知事の要職にある石原慎太郎の核保有論が取り沙汰されないのか不思議といえば不思議なことである。だが、こういう人間たちが、政界や財界では例外的な謀反分子と考えるのは、全く逆の、事実とは反したものだといっていいだろう。

 中曽根康弘の、「世界平和研究所」は、政官財の錚々たるお歴々が役員に名を連ねていて、それは何故「ケイザイ」の「日経」などが戦争を考えるのか?という疑問が氷解するようなメンバーなのである。また、岸信介は首相時代の1957年に「日本は核兵器保有が可能である」と発言しているが、その4年前には、「誘導弾懇談会」が発足しており、これは無論核弾頭を装備する誘導ミサイルの製造計画のことであった。この極秘軍事ビジネスは、三菱が主導しこんにちに至っているが、現在は行革委員会委員長となった三菱重工の飯田庸太郎にそれは引継がれている。

 ひとたび事故が起ればアジアが廃墟になるほどのプルトニームが集まる青森県・六ヶ所村の、核燃料サイクルも当然の如く主幹事会社は三菱重工であり、また、プルトニーム「平和」利用の口実として使われ、莫大な税金がそそぎこまれてきた、1995年にナトリーム洩れ事故を起こして破綻した敦賀の「もんじゅ」も、三菱重工が主幹製造会社である。

 連中はいつその核武装を既成事実化するかと常に隙を窺っているようだ。西村真吾の一見失言や暴言だったと映る核武装論の公開も、市民の反応を見る為の、連中の深遠謀慮だったのではないかと僕には思える。その際、そのような硬派でないような雑誌の方が、市民の、そのなかでも若年層などの反応が、見易いとも考えたのかもしれない。こういう世の中の反応を見るというのは、これまでも、様々な場面で繰り広げられてきた、戦争犯罪などに対する国会議員の「暴言、そして辞職」というもので行われてきたように思う。「噂の真相」誌が似たようなことを少し書いていたが、僕の考えは、この西村らの属している逆流集団は政官財マスコミの複合体であり、もっと巧妙で詐欺的だというものである。ともあれ、少しでも世の中に核武装を容認するような気配が見られれば、今回の亡国国会となった数々の悪法案のように、すぐさま法制化してしまおうとの魂胆なのであろう。僕が思うに、その時に反論を唱えるマスコミは、今回の亡国国会の時と同じように、「事実上は存在しないに等しい状態」だろう。






(私論.私見)