武装共産党委員長時代の足跡

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).1.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 武装共産党時代の様子は、熾烈な再建と壊滅の党史の流れに記した。これを転載しておく。


【田中清玄-佐野博指導の「武装」共産党時代】 
 昭和3年の「3.15事件」、昭和4年の「4.16事件」という両弾圧を経て、これから逃げることに成功していた東京の第3地区委員長・田中清玄(当時22才)がモスクワから帰った佐野博と共に、二人を中心とする指導部を構成し、29(昭和4)年7月頃党を再建した。このときの共産党は通称「武装」共産党と呼ばれる。

 田中清玄は、弘前高校当時から北海道.青森の労.農組織作りを手伝うなどで頭角をあらわし、東京帝大在学中も各地から指導を請われる等精力的に活動をこなしていた。合気道.空手3段の猛者であったことも含め果敢な闘争指導能力が認められ一躍幹部へと登用されていった。渡辺政之輔に可愛がられオルグの指導を受け、以降党中央へ進出していく。この田中(東京地方第三地区責任者)と佐野博(佐野学ぶの甥で、共青中央委員長)、前納善四郎(東京合同労組フラクション責任者)らが党中央部を構成した。
 田中は自ら中央委員長となって中央部を組織し、弾圧で休刊となっていた赤旗の再刊(「赤旗」第28号を復刊)、無産者新聞の発刊により党勢の拡大に取り組んだ。労働運動面では細谷松太と連絡を取り、日本労働組合全国協議会(「全協」)を伸ばしていった。その他、友愛会の鈴木文治との接触、東大新人会の先輩・小宮山新一を通じて東大医学部内の組織化、京都・神戸・岡山等々の連絡網づくりに成功していった。党員も再度200名を越す勢いをつくり、党活動を順調に発展せしめていった。 

【1930年(昭和5年)】
 1月、和歌山県の二里カ浜で、日本共産党再建大会を秘密裏に開催することに成功している。ここで拡大中央委員会を開き、「合法的な選挙闘争同盟を結成し、選挙闘争を通じて日共の影響力を広めること。行動隊を組織してビラを撒くこと。検挙に対しては、拳銃、短刀などで抵抗すること」など武力的対応路線を指針させ、事実その通り実践していった。

 この頃、佐野を通じてコミンテルンとの連絡取りにも成功している。直接ルートは破壊されており、オムスが開いた中国共産党経由のルートを通じて、コミンテルン書記長クーシネン、四年コミンテルン極東部長やンソンとの遣り取りにまで及ぶことになった。

 2.26日和歌山市郊外で「和歌浦事件」が発生している。これは官憲が寝込みを襲い、居合わせた共産党中央部と官憲が激しく撃ちあった事件であった。

 5月、伊藤律(岐阜県土岐町出身)が旧制中学を4年で終え、一高へ入学している。時期は不明であるが、岩田が保釈になっている。

 5月、田中清玄は、日本共産党の代表として、和歌山県二里ケ浜での日本共産党再建大会の報告書を届けるため、バイオリストに身をなりすまし、コミンテルン極東ビューローのあった上海に渡航している。当時、周恩来がコミンテルン極東部長、アジア局長がフィンランド共産党の創立者クーシネン、極東担当はヤンソンであった。

 6月中旬、小曾根勢四郎が共青中央委員長に就任。

【武装メーデー】
 田中清玄執行部は、党史上初めて武装ストライキや武装メーデーを指針させたことに特徴が認められ、今日「武装共産党」時代と言われている。この時代の党運動は、「行動の場面においては、『行動隊』を編成して武装行動を表面化し、警察取締りに対する抵抗闘争を強化し、またメーデーの暴動化を計画した」。「東京市電争議の際における幹部の暗殺計画や車庫放火事件」、「川崎メーデー蜂起事件」、「中央メーデー暴動化」、「小銃弾薬類の略奪計画」など数多くの武装事件を既遂未遂し、多くの警察官を殺傷した。

 後年、田中清玄自身が次のように述べている。

 「今更申す迄もない事だが、自分には諸君を『極左冒険主義的ハネ上がり』」であるなぞと、世論の尻馬に乗って極めつける丈の資格は全く無い。嘗つて、自分等の突っ走った、昭和5年の共産党の武装、和歌浦の党中央本部と警官隊との乱射事件、並びに川崎市メーデー武装デモ、仮国会議事堂焼き討ち計画等々数々の武装行動と、官憲殺傷48件にも上るテロ行動を顧みれば、とてもおこがましくて諸君等に非難を浴びせる事などは到底出来ない」(「武装テロと母 全学連指導者諸君に訴える」『文藝春秋』1960.1月号)。

 武装メーデーとは、約300名の労働者が「土地を農民へ」、「8時間労働制」、「治安維持法反対」、「帝国主義戦争反対」のスローガンを掲げ、竹槍.日本刀.拳銃.匕首.石包み等を手にして武装させ、日本共産党と大書した赤旗を掲げて行進したところ、警官隊の襲撃を受け、双方武器を持っての大乱闘となった事件のことを云う。17名が逮捕され、他は逃げ散ったと云われている。

(私論.私見) 「武装メーデーの評価」について
 「武装メーデーの評価」を廻って、宮顕系党史あるいはその亜流は、極めて冷淡に概要「このような『武装』共産党の、極左的な武装方針は、共産党や労働者の実際を考慮にいれておらず、いたずらに弾圧を招いたり労働者を失ったりして現実には逆効果であった。革命運動に重大な損害を与えた」と評している。驚くことに、いわゆる新左翼系も又この観点を踏襲した記述が多い。

 しかし、れんだいこは違う観点を持っている。「武装メーデーの功罪」の判定は難しかろう。むしろ、急進主義運動で対権力闘争をひるむことなく展開し、直接対決した珍しい史実を残している訳で、それは誉れな財産となっていると評価することも可能であろう。史実の語るところ「革命運動に重大な損害」を与えたのは、宮顕が主導した「小畑中央委員リンチ致死事件」の方がズバリそのものであろう。その当事者の宮顕が、田中清玄指導に悪態つくとはナンセンス極まりない。

【「武装」共産党執行部壊滅させられる】
 この執行部時代はスローガンや戦術は先鋭化したが、特高の追撃も一層厳しさを加えることとなり、赴くところ大衆闘争との接点が失われていくことになった。この時以降の傾向として、党活動は、労組等の組織建設の替わりに街頭連絡を主とするようになった。党の活動が地下へ地下へと余儀なくされつつ追い込まれていくことになった。

 6月、佐野学が上海で逮捕されている。この時、「士は恥ずかしむべからず、殺すべし」と漢書して気概を示している。この執行部は、武装メーデーの直後から自己批判にとりかかりながら各地を転々としていた。

 翌1930(昭和5年).7.14日、武装共産党時代の委員長・田中清玄氏が検挙される。14日から17日にかけて武装共産党時代のメンバーの大半が検挙されるにおよび壊滅させられた。これを手引きしたのが共青中央委員長・小曾根勢四郎であったとされている。「田中検挙後1ヶ月を毛利の官舎で過ごしていたことが知られている」とあるので間違いないと思われる。
(私論.私見) 「武装」共産党時代の先鋭化について
 この流れに付き田中清玄委員長の指導責任を問うのは酷なように思われる。むしろ党的精神を非妥協的に推進すればこのようにしか為し得なかったのであり、時局柄がそれほど厳しく苛酷に推移しつつあったと受け取るべきであろう、むしろ他の委員長時代に比して真紅の精神で良く闘った、と私は評価している。現在の党史では、「田中清玄、佐野博など革命運動の経験の少ない小ブルジョア的な活動家が党指導部の中心を占め」、「マルクス.レーニン主義とは無縁な極左冒険主義の誤りが生まれた」と記しているが、「労働者の中で組織作りをやり、数多くの争議を成功裡に指導した清玄を、そんな体験を皆目持ち合わさぬ宮顕が、小ブル呼ばわりするのは傍ら痛い」と解すべきではなかろうか。

 ちなみに、共産党の武装化は当時の国際共産主義運動の司令塔であったスターリンの指示によっていた事が今日では明らかにされている。この指示が不適切であったかというと一概には言えない。同時期に中国共産党も武装化を企て、紆余曲折を経ながらも中国革命成功の道筋を創り上げている。双方「コミンテルンの操り」であったにせよ、中共のように自国の革命闘争を勝利に導くのか、日共のように破産せしめられていくのかは、やはり当事者の能力に関係しているのではなかろうか。
(私論.私見) 「武装」共産党時代の評価考
 田中清玄佐野博による党の再建は、昭和3年の「3.15事件」、昭和4年の4.16事件」という両弾圧で壊滅的危機に陥った直後の戦前の党活動の立て直しに逸早く着手し成功させたという功績を持っている。これが正しい評価である。その後の軌跡として、田中氏は獄中闘争後転向し、戦後になって民族派の国際的政商と転じたことにより、宮顕系党史から口を極めて悪態をつかれているが、この功績は史上に確立されており、隠蔽偽造できるものでは無い。

 なお、私論を述べれば、戦前の日本共産党の党運動は、「武装共産党」時代の終焉でもって実質上敗北で終わったと見なしている。以降は、内向きの戦いに終始したことによる。この認識がないと、「査問事件」の特質の解明も理解を誤る。法廷における宮顕の弁明を聞けば、対スパイ掃討戦の意義を歴史的に解き明かし、如何に重要な闘争であったかを強調するが、当時の党運動の構図からすれば奇態な指針であったことが判明する。

 「武装共産党」時代以降の党は、何らの大衆闘争を組織することが出来ない状況に追い詰められており、よしんば対スパイ掃討戦が重要であったにせよ、それは数少なくなった党員の再結集と党運動の再建的見地からなされねばならない限定性のものであるべきであったであろう。

 ところが、まさにこの時党中央にスパイ松村がのしあがり、一仕事をやり遂げた後忽然と姿を消した。その後に入れ替わるかのように宮顕の党中央潜入が為され、狂気の対スパイ掃討戦が展開されていくことになった。しかも、その矛先は、党中央労働者派の小畑と大衆組織のうち最後の戦う砦ともなっていた「全会」、「全協」の戦闘的組織とその精鋭活動家に対して集中していたのである。宮顕の饒舌を聞けば騙されるが、やっていることを調べれば明白となる。この時点で、以上の認識を共に確認しておきたいと思う。

 小池 新の 2019/12/22 「戦前の武装共産党トップ「昭和のフィクサー・田中清玄」が生きた“転向の時代”とは 拷問、脅迫……思想は「命を懸けて守るもの」だった」。本編「『武装メーデー』事件」を読む
 解説:共産主義からの「転向」とは?

 今回のテーマは、この「昭和の35大事件」で既に取り上げた「赤色戦線大検挙」の三・一五事件(1928年)と、「ギャング共産党事件」で書いた大森銀行ギャング事件(1932年)の間に挟まった時期の共産党絡みの事件。本編の筆者は、「武装化」に反対し、戦後は日本共産党で衆院議員も務めており、スパイ「M」についての証言などは貴重。これ以上付け加えることはない気もするが、実際に暴力事件となった川崎での事件を公的資料から見てみよう。

 「共産党は昭和5年5月1日のメーデーを武装メーデーとして大衆蜂起を計画した」と「神奈川県警察史中巻」は記述している。メーデーの会場は川崎稲毛神社境内。神奈川県警察部は警察官180人で警戒に当たった。「午前9時半、集合人員は2000名に達した。同9時55分、メーデー実行副委員長近藤武男が開会宣言のため、壇上に上がろうとした。その時、突如会場表入り口から黒詰め襟服を着た18~19名の一団が『日本共産党日本共産青年同盟』と大書した数本の旗をなびかせながら乱入してきた。彼らの手にはそれぞれ竹やり、仕込み杖、大型ヤスリ、短刀、ピストルなどが握られていた。これを発見した(川崎署)内宮(藤吉)警部指揮の一隊は、ただちにこれを制止し、携帯凶器の押収にかかり、反抗する一団との間に乱闘が開始された」「突然銃声が響いて、内宮警部が倒れた。ピストルを撃ったのは首謀者、鶴見の日本石油の工員阿部作蔵(26)であった」(同書)。彼は逃げようとしたが、現場付近で逮捕された。

 「竹やり77本、大型ヤスリ3本……」党の再生と革命を焦った結果

 近藤副委員長も、青年同盟のメンバーを制止しようとして大型ヤスリで刺され、他のメーデー参加者2人も竹やりで突かれて負傷した。80人の警察官が応援に駆け付け、8人を逮捕。ようやく騒ぎは収まった。内宮警部が左頸部貫通銃創の重傷を負ったほか、警察官5人が負傷。現場で竹やり77本、大型ヤスリ3本、仕込み杖2本、短刀4本、ピストル1丁が押収され、逃走した10人も後日、全員逮捕された。「首謀者阿部は日本共産党青年同盟京浜地区のオルガナイザーで、上部からメーデー対策の指示を受け、数回にわたって同志を集めて謀議し、メーデーの暴動化を計画した」「打ち続く検挙によって細るのみの共産党が、党の再生と革命を焦った結果の一種の自壊現象であったといえよう」と同書は指摘している。この事件の報道も記事差し止めとなり、解禁されたのは半年以上後の1930年11月29日付夕刊。「去るメーデーに 極左派の騒擾事件」「乱闘の限りを盡す」(東京朝日)、「竹槍・ピストルで警官襲う 記事解禁」(東京日日)などと大きく報じられた。号外を出した社も。

 「武装共産党時代」と名付けられるほどの武装集団へ

 当時日本共産党委員長だった田中清玄氏は戦後の座談会で、本編に書かれている通りに弁明したが、1993年出版の「田中清玄自伝」では微妙に変化する。

 「再建後の日本共産党の書記長だった時に、スターリンは『日本共産党は武装すべし』という指令を出してきた。私自身がこの指令をモスクワから受け取ったんです。この指令にしたがって、後世の史家から我々は『武装共産党時代』と名付けられるほどの武装集団となり、官憲殺傷五十数件という過失も犯したんです」、「ところがスターリンは今度は『日本共産党は極左冒険主義だ。けしからん』と叱責してきたんです。私はこのモスクワからの、責任回避に終始した指令を受け取って『いまさら何を言うか』と心底から怒りが込み上げてきました」。これに対する反論は本編に書かれている。真偽は確かめようがなく、水掛け論だろう。

 田中清玄氏は事件から2カ月後の1930年7月、治安維持法違反容疑で逮捕され、3年後の1933年7月、獄中で転向する。「つかまる前に起きた母の諌死と、それをきっかけにした共産主義への疑問がありました」と「自伝」で語っている。田中の母は「お前のような共産主義者を出して、神にあいすまない。お国のみなさんと先祖に対して、自分は責任がある。(中略)自分は死をもって諫める。お前はよき日本人になってくれ」という遺書を残して割腹自殺したという。田中は戦後、政財界に食い込んでインドネシアの石油利権などをめぐって暗躍。「右翼の大物」「フィクサー」と呼ばれるようになった。

 すごみと愛嬌の落差から見えたフィクサーの片鱗

 田中清玄氏には1度会ったことがある。1983年10月初め。ロッキード事件での田中角栄元首相に対する一審判決を10月12日に控えて、メディアは東京・目白台の田中邸前に「張り番」態勢を敷いた。地方から記者の応援をもらい、交代で人や車の出入りをチェック。私はその「仕切り」を担当した。先輩記者の命令で、張り番のシフトを終えた記者は、陸運局で田中邸を訪れた車の所有者を調べ、電話で「何の目的で行ったか」を聞く。ある日、外から社に戻ると、後輩の「張り番記者」の1人が電話口で目を白黒させている。1台のライトバンの所有者として登録されていた会社にかけたらしい。代わって電話に出ると、ドスの効いた声で「おまえら、何の権利があってこんなことをしてるんだ!」とすごい剣幕。「合法的な取材活動です」と答えたが、「けしからん。説教してやるから、すぐこっちへ来い」。教えられた表参道のマンションの一室に行くと、秘書兼護衛らしい身長190センチ近くの若い男が。しばらくして現れたのは、小柄で枯れ枝のようにやせているが眼光の鋭い、70代と思える和服の男性。趣旨を説明したが、すぐ「何を!」と怒り出す。どうなるかと思っていると、「ちょっと付いて来い」。連れて行かれたのは近くの割烹。コロッと態度が変わり、笑いながら「さあ、飲め」と言う。「実は最近本を出してなあ」。要するに紹介記事を書いてほしかったようだ。「田中元首相を激励に訪問」という短い記事と、本の紹介記事を出したが、そのすごみと愛嬌の落差からはフィクサーの片鱗を見た気がした。

 思想が「命を懸けて守るもの」だった時代

 1930年代は「転向の時代」と呼ばれた。いま手元の辞書を見ると、「転向」は「(1)方向・針路・方針・立場・態度・好みなどを変えること」とあり、その意味で普通に使われる用語だ。しかし、(2)には、この事件の時代に特別の意味を与えられた解釈が書かれている。「それまでの思想的立場、特に共産主義思想を捨てて、他の思想を持つようになること」。思想の科学研究会編「共同研究 転向」の鶴見俊輔「序言」は、転向を「『権力によって強制されたためにおこる思想の変化』と定義したい」と書いている。

 軍国主義が進み、治安維持法が存在した時代、特高(特別高等警察)などの脅迫や拷問を受けて強制的に、あるいは自発的に思想を捨てた人がいれば、非転向を貫いて敗戦まで獄中に留まった人もいた。中には思想に殉じたかのように命を落とした人も。転向した人も、多くはそれを「罪」や「恥」として抱えながら、その後の人生を生きた。転向は形の上では「自発的だった」ことが重い意味を持っていたといえる。現代の多くの人間は、「思想とは命をかけて守るものなのか」と驚き、考えさせられるだろう。そうしたことが日常だった時代だった。

 センセーショナルに報じられた「転向声明」

 三・一五事件に続いて、共産党員ら約600人が検挙された「四・一六事件」(1929年)で逮捕された日本共産党委員長の佐野学と委員の鍋山貞親が、統一訴訟での一審判決後、控訴審開始前の1933年6月8日、「共同被告同志に告ぐる書」と題した「転向声明」を発表。10日付の朝刊各紙でセンセーショナルに報じられた。声明で2人は、モスクワのコミンテルンが諸国の労働者の生活と闘争から離れいて、指令が有害だとして「民族的一国社会主義」を主張。中国大陸への侵略戦争を肯定し、戦争への積極的参加が進歩的行動だとした。さらに、天皇制についても、民族的統一を表現するものとして支持することを表明した。「共同研究 転向」所収の高畠通敏「一国社会主義者」は、その転向を「それから既に四半世紀経過した今日、われわれはこのニ人の転向が及ぼした時代への影響の深さを充分に測り知ることができる」と書いている。「日本帝国主義が満州への侵略を開始することによって、その後十五年打続く戦争への口火を切ったのは、そのニ年前のことだった。そしてそれ以来日本共産党は、戦争に対する唯一の積極的抵抗勢力だった」。その「輝ける指導者」とされた2人の思想の放棄が社会に与えた影響は甚大だった。田中清玄氏の転向表明は約1か月後。「直接のきっかけは佐野・鍋山の転向声明」と語っている(「田中清玄自伝」)。

 前後して、中尾勝男、高橋貞樹、三田村四郎、風間丈吉らの日本共産党幹部も次々転向を表明。翌1934年の控訴審判決で佐野、鍋山、三田村は無期懲役から懲役15年に減刑された。「司法省行刑局が佐野・鍋山の転向声明を『思想教化の好材料』として全国刑務所に謄写配布した結果、約一カ月のうち、未決囚の三〇%(一三七〇人中四一五人)、既決囚の三四%(三九三人中一三三人)が転向を上申した」(「一国社会主義」)という。

 「世間は軍国主義に塗りつぶされていく」

 塩田庄兵衛「家族国家の重み―『転向』―」は「転向の筋書きはおよそ次のようなものであった」と紹介している。「共産主義運動に参加した労働者、農民、知識人、学生が治安維持法違反で特高警察に検挙される。拷問で痛めつけられ、不衛生な留置場や孤独な監房でさいなまれる。職を失い、学籍を失う。肉親は世間を恥じ、獄中の安否を気遣って面会所でかきくどく。『家』の問題は最も悩ましい。中国での戦争はエスカレーションを続け、世間は軍国主義に塗りつぶされていく。革命は遠のいた。不動の星座に見えた佐野、鍋山も転向したではないか。獄中で読まされた両巨頭の転向声明は、共感できる点を含んでいる。自分は生きねばならない。教誨師が説教に来て仏教の本を貸してくれる。深遠な精神の世界がそこに開けている。悪うございました。マルクス主義は間違っていました。これからは日本人の心に立ち返ります、とお辞儀して、この心境、思想の変化を手記にしたためる。自己批判不十分と認定されると、何度でも書き直しをさせられる。こうなれば五十歩百歩、当局の気に入るように書くほかない。『誠意』がお上に通ずると、起訴留保、あるいは執行猶予、仮出獄などの『温情』で報いられてシャバに出られる」。

 「転向の文学」という言葉が生まれた

 1930年代以降、転向を指摘されたり、噂されたりした思想家、社会運動家、作家、芸術家は枚挙にいとまがない。水野成夫(戦後、フジテレビなど社長)ら日本共産党関係者をはじめ、江田三郎(戦後、社会党書記長)、三木清(哲学者)、大宅壮一(評論家)、太宰治(作家)、中野重治(作家)、埴谷雄高(作家)、三好十郎(劇作家)……。「転向の文学」という言葉まで生まれた。鶴見の「序言」は「『転向』という言葉は、司法当局のつくったものであり、当局が正しいと思う方向に個人の思想のむきを変えることを意味した。ここには、個人の側からすれば屈服の語感がこもっている」「かなりの地位を占める政治家、学者、宗教家が、まずはじめには非転向でとおしてきたかのように論陣をはり、誰かからその転向点に関する資料を提出されると、急にくるりとむきなおって、『生活のために仕方がなかった』と言う例を、戦後の日本は数多くもっている」と指摘する。「家族国家の重み」は転向しなかった例として宮本顕治(戦後、日本共産党委員長)や河上肇(元京都帝大教授)を挙げているが、やはりそれは少数派だった。

 「転向の時代」から80年経った今の日本は

 「序言」が転向研究の共通の価値観として挙げているのは次のようなことだ。

(1)転向は必ずしもそのままでは悪いことではない
(2)転向の道筋をはっきりさせる手続きをとることが、本人にとっても公共に対しても有用
(3)転向を研究・批判する者にとって観点の自由な交流を図っていく集団的努力が必要であり、従って、転向の批判も最終的結論に達せず、いくつかの観点が残ることもあり得るし、今後の改訂に対しても開かれている
(4)転向の事実を明らかに認め、その道筋も明らかに認めるとき、転向は私たちにとって、ある程度まで操作可能になり、転向体験をいままでよりも自由に設計し操作する道が今後開かれるようになるだろうし、そのとき、転向体験はわれわれにとって生きた遺産になる――。

 「転向の時代」から80年以上がたち、「序言」の指摘からも60年。転向の全体像は明らかにならないまま、歴史の闇に消えて行きつつあるのかもしれない。しかし、はたして転向は、いまの時代の人間とは全く無関係の過去のことと片づけられるだろうか。

 【参考文献】
▽神奈川県警察史編さん委員会「神奈川県警察史中巻」 神奈川県警察本部 1972年
▽田中清玄「田中清玄自伝」 文藝春秋 1993年
▽思想の科学研究会編「共同研究 転向 上」 平凡社 1959年
▽塩田庄兵衛「家族国家の重み―『転向』―」=「昭和史の瞬間 上」(朝日選書 1974年)所収





(私論.私見)