プロレタリア文学史考

 (最新見直し2005.11.13日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 
 2003.5.17日再編集 れんだいこ拝



 1924年、人民主義的な考えを持つプロレタリア文芸連盟が成立し、これがプロレタリア文学運動の第一歩となった。

 1926年、日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸、機関紙『プロレタリア芸術』)と改組をする。これはアナーキストを除外し、理論的、思想的立場としてマルクス主義の方向をより明確にしようとしたものである。多喜二、葉山はこの時点では二人ともプロ芸にいた。

 1927.6月、福本主義(労働者の自然発生的な階級意識の成長を重視する山川均の考えを批判したもの。革命的分子の階級意識を外部から注入しなければならないとする理論)の影響から対立が起こり分裂、労農芸術家連盟(労芸、機関紙『文芸戦線』)が結成された。

 同11月、労芸内で山川派とそうでない人々との間で内部闘争が起き、非合法下に再建されていた共産党を支持する人々によって新たに前衛芸術家同盟、(前芸、機関紙『前芸』)が結成された。ここで多喜二は新たに組織された前芸に移るが、葉山は労芸に残ることとなる。

 のち三・一五事件(一九二八年)を機に前芸とプロ芸の合同による全日本無産者芸術連盟(ナップ、機関紙『戦旗』)が結成され、労芸とナップは対立の関係にまでなるが、労芸は次第に文学的な活力を失い始め、反対にナップは、新たに日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)を結成し文学運動はさらに共産主義的な運動へと発展していった。


児玉 悦子「小林多喜二論」

目次 | | 第一章 | 第二章 | 第三章

第二章



 多喜二がついたナップ側と葉山がついた労芸側の大きな違いとは、分裂の原因となった山川イズムと福本イズムにある。一九二〇年代前半の日本のマルクス主義の理論的指導者は山川均であった。その一方で、共産党の外ではあるが河上肇のマルクス主義理論が存在した。しかし一九二五年頃福本和夫の出現とともに福本イズムが広がってきた。福本和夫はそれまでの「川上肇の二元論」と「山川均の機械的な反映論」をともに批判し、「分離結合」説を唱え、強く結合するためには、まずはっきりと分離しなくてはならないとして、理論闘争の重要さを強調した。ちょうど一九二五年はプロレタリア文学運動が大きくなり始めた頃であった。この年日本農民組合が中心となり全国的単一無産政党樹立のための運動が起こったが、この無産政党の主導権を巡って、労働組合の総同盟系と、共産党系の対立が持ち込まれた。共産主義者たちは、具体的な項目としては自分たちと大して違わない総同盟系の綱領案の背後には、資本家的精神への屈服があるとし攻撃した。そうした共産主義者の活動の中で、山川の「折衷主義」よりも福本の「分離結合論」が共産主義者をひきつけることとなったのだ。
だのだろうか。そこでまず、多喜二が葉山をお手本とし、尊敬していたと見られる、作品中で伺える例を挙げてみたいと思う。
 『蟹工船』の第四章にこういった文章がある。

積取人夫は蟹工船の漁夫と似ていた。監視付きの小樽の下宿屋にゴロゴロしていると、樺太や北海道の奥地へ船で引きずられていく。足を「一寸」すべらすと、ゴンゴンゴンとうなりながら、地響きを立てて転落してくる角材の下になって、南部せんべいのよりも薄くされた。ガラガラとウインチで船に積まれて行く、水で皮がペロペロになっている材木に、拍子を食って、一なぐりされると、頭のつぶれた人間は、蚤の子よりも軽く、海の中へ叩き込まれた。

 この文章は私に葉山嘉樹の『セメント樽の中の手紙』(『文芸戦線』一九二六年一月)を連想させた。セメントを作る破砕機にはまり骨も肉も粉々にされて立派にセメントになった青年が恋人に送った手紙が小説となっている作品だが、多喜二が『蟹工船』を執筆し始めた頃は葉山嘉樹やゴーリキーなどの作品を熟読していて大きな影響を受けていたと十分考えられる。葉山独特の持つユーモラスな比喩手法をお手本にしたものであると考えられる。
 また多喜二が、葉山の代表作について「『海に生くる人々』一巻は僕にとって、剣を凝した『コーラン』だった」とまで慕っていたのは有名である。さらにあげれば、葉山嘉樹の『海に生くる人々』は『蟹工船』を書くきっかけとなった作品と言われていて、どちらも海上での船が舞台となっていること、船内では多くの労働者がいて、ブルジョア階級の支配人や船長などが労働者を遣っている。船内で未組織だった労働者が団結し、運動にまで発展するという、まことに題材や舞台が酷似し、今まででも数多くの人により批評の対象になっている。
 それではここで反対に、多喜二と葉山嘉樹の作品による大きな違いを簡単に分析してみる。
 多喜二は帝国主義国家の「辺境」における植民地的な搾取、未組織労働者の団結、国家と財閥と軍隊との関係、天皇制の問題などを『蟹工船』の作中で示そうとした。そしてそれを生き生きとした描写で見事にやってのけた。しかし同時に個人を集団のうちに解消してしまったところにこの作品の欠点がある。           
 多喜二はこの作品を作り上げるにいたって長時間を費やして調査をし、作り上げた作品である。作品では労働者の独自な階層的・個人的な容貌が充分にはっきりと示されていない。全体としてはダイナミックな出来上がりとなっているが、ここの形象がはっきりと印象付けられない結果となった。また強いていうならば、ブルジョアの浅川のみの個人の形象がはっきりしていて、中心となるはずのプロレタリアの人々の人物像はくっきりと描かれていないのだ。
 『海に生くる人々』の登場人物は一人一人のプロレタリアの人物像が鮮やかである。これは葉山が一九一六年に体験した航海をもとに描写などが文章で再現されたようなものであるためだ。この作品でも団結してストライキを起こしたり、警察に連行されたり、馘を切られたりなどと蟹工船内の労働者と同じような苦しみを味わっているが、個人としての意思や容貌が描かれているため、その苦悩が受難としての印象は受けない。しかし多喜二の『蟹工船』での場合、登場人物たちは地獄のような労働を強いられただけの受難だけの存在のように思える。
 このように『海に生くる人々』では葉山自身の経験をもとに忠実に書かれた作品であり、個人から周りや情景を見つめる手法となっているが、『蟹工船』は自分の体験を通して描いてはいないために、全体として一枚の絵のようなものになってしまい、そのため個人もよりいっそう集団に埋没してしまい立体的に浮き上がってはこないものとなった。
 多喜二は確かに葉山の作品の影響を強く受け、文学的にも尊敬をしていた人物であったであろう。しかし多喜二はこの頃から自分は葉山とは別の道を歩み始めるだろうということを分かり始めていたのだ。
 葉山が一八歳の頃ゴーリキーの作品に出会いその影響を強く受け、それまでのただの放蕩生活から立ち直った、というエピソードがある。(『ゴリキイを追慕する』一九三六年八月『文芸評論』より)しかし多喜二はこのエピソードについて、

(葉山嘉樹は)手のつけられないゴロではなくなったらう。だが、そのゴロは、葉山の身体の何処にもまだゴロゴロしてゐるのだ。(『葉山嘉樹』一九三〇年『新潮』より)

と述べ、続けて

  葉山は、いわば「親父」の時代の「体験作家」であって、僕ら「息子」の時代が来ている以上、「胆石のような『ゴロ』を何処かへ捨てゝ来」ないかぎり、僕らを逞しかったその腕で振り回すことはもはやできないだろう(『昭和文学の陥穽 平野謙とその時代』中山和子著 一九八八年)

と述べている。この年は一九三〇年頃で、多喜二が『蟹工船』を発表したのは一九二九年なので、この時期に多喜二の心の中で葉山の文学的才能は認めるが、自分とは違う道に進むだろうことをわかっていたに違いない。というよりも、多喜二自身が葉山よりも別の道を進もうと歩みだしたのである。この時代の日本の特殊な困難な情勢の要求する、「鉄」の「スターリン」型の道には、葉山のような「気楽」な「ゴーリキー」型の道は全く異なったものであったのだ。葉山の文学では『海に生くる人々』でも感じ取れるように、人間のままに欲求を表面化し、プロレタリアの人々はとにかくは生きていかなければならない!というような力強さは感じるが、『蟹工船』ではそれのみではなく、プロレタリアの人々の目指すべき道を明確に示していて、文全体は『海に生くる人々』よりは客観的かもしれないが、「前衛の視点」から作品を描いている。そうなることが多喜二にとって最終の重大な目標でもあったのだ。
 ここまで上げたような多喜二と葉山の違いそのものがまたプロレタリア文学運動でも言え、それが労芸とナップであった。それから日本プロレタリア文学界は、多喜二の支持するナップ系のマルクス主義運動がひた走りに大きくなっていくこととなる。
 ではここでさらに多喜二が「前衛の視点」として、文学を作り上げようとしていた例を具体的にあげてみよう。
 私は『蟹工船』を読んで気になったところがあった。この作品は最後の文章で
そして、彼らは、立ち上がった。−もう一度!

というような力強い描写で終わっている。しかしその後に「附記」が付けられているのだ。この「附記」は作品を書き終えたしばらくした後に改めて付け加えられたものであるらしい。なぜそれまでの力強い労働者たちのストライキと再び立ち上がった描写を描いていたのに続けて、「附記」という箇条書きを付け加えたのだろうか。
 思うに、未組織労働者たちが団結してストライキを起こし、失敗に終わったが改めて再び立ち向かう、というクライマックスはとても盛り上がりに長け迫力があるのだが、それで話を終えてしまっては、多喜二はただの自然主義作家となってしまうからではないだろうか。以前まで志賀直哉の文学に傾倒していた多喜二だが(志賀直哉宅訪問や、手紙のやり取りなどを学生時代から続けていた)二年ほど前から葉山嘉樹をはじめとするプロレタリア文学に関心をよせ、深い影響を受けることとなり、そのために労働者をテーマとする作品を多く書き始めた。志賀直哉によるリアリズムの特色の影響はとても大きなものであった事は、多喜二の作品にところどころ想像し易いほどの切実な現実描写が感じられることで明らかである。しかしプロレタリア作家である多喜二とっては、ただ暗黒の現状を書き表すだけの自然主義文学者とは異なり、それだけではなくて労働者たちがこれから立ち向かうべき道標や闘争の方向を示す必要があったのだ。そして「付記」の最後の一文に、

ムこの一篇は、「植民地に於ける資本主義侵入史」の一頁である。

とある。この一行で、作中の労働者たちだけではなく、現在のプロレタリアの人々にも闘争への方向を指し示したこととなるのだ。これが今日でもなお高い評価を得ている理由で、それまでになかった現実の労働者へと直接訴える手法をとっており、当時のブルジョアジーにとっても恐れられた方法であった。
 しかしこのように「前衛の視点」で作品を描くことが本当に正しいことだったのだろうか。私はこの時代のプロレタリアの人々にとって親しみやすかったのは、多喜二とは反対の葉山側の労芸ではないかと思う。それにもかかわらず、なぜナップ側が支持を得てのちの日本に大きく広まることとなったのだろうか。
 それは、この時代の読書層が重要な位置を占めている。本を実際しっかりと読むことができたのはせいぜいプチブルジョアジー階層の人々ぐらいで、労働者で読むことができたとしても、何らかの方法で運動に少しはかかわりを持っていた小インテリな人だろう。一日一六時間ないし一八時間の悪条件での労働を休みなく強いられたプロレタリアの人たちには読書をする時間的ゆとりも経済的ゆとりもなかったはずだ。このような本来本を読むべきはずの手元には届かず、深いところまでのプロレタリア問題を知らない階層が多くの読者となっていため、頭でっかちな運動へと発展していったのではないかと思う。
 葉山は『海に生くる人々』を発表する前年一九二五年に『淫売婦』(『文芸戦線』第二巻七号)を発表しているが、この時からすでに、自分はどんなにプロレタリアの人々に近付こうとしても結局のところ自分は彼らより上の層にいるため本当の深いところまでは理解できず、問題は深く困難で解決するのは容易ではないということをわかっていた。葉山は多喜二からみて「親父」であったために、「息子」よりも社会の変革の困難さはよくわかっていたのだろう。そのため農民・労働者を第一と考えた労芸へと道を進めたのだろう。しかし「息子」のように力強く社会を変革しようとする力もまたこの時代必要であった。そしてこの時代の読者が支持をしたのも事実である。ブルジョア階層にとっては、それからの文学活動はさらに脅威なものとなり、弾圧を強め始めたのがその証拠である。
 次の章では、その激戦期へと立ち向かっていった頃の運動の様子と、その後の運動がどうなっていったか、多喜二の後期の代表作品とも言える『党生活者』を同時に取り上げて、具体的に述べていこうと思う。







(私論.私見)


   プロレタリア文学運動論考
     秦功一

      序

    共産主義は否定の否定としての肯定であり、それゆえに人間的な解放と奪回の、すぐ  あとにくる歴史的発展にとって必然的な、現実的契機である。共産主義は次の未来の 必然的形態と力動的原理であるが、しかし共産主義はそれ自体が人間的発展の目標―   ―人間的社会の形態――なのではない。(傍点原文通り)   (マルクス「一八四四年の経済学哲学手稿」)

  多喜二が念願の日本共産党に入党する事ができたのは一九三一年一〇月のことである。それは将にナップ(全日本無産者芸術同盟)からコップ(日本プロレタリア文化連盟)へとプロレタリア文化運動団体が再組織されんとする時と同じくしていた。多喜二はこの時にはっきりと作家という立場を保ちつつも日本共産党員として政治活動へとその身を投じることとなったのである。

  勿論、東京へ出てくる以前の小樽時代より多喜二は労働組合への幇助、山本懸蔵の選挙
応援、執筆活動など数多くの政治活動を行ってきていた。加えて多喜二の作家として、政
治運動家としての素養はすべて小樽時代に地ならしされていたのである。プロレタリア作
家としては多喜二が蔵原惟人の創作理論を下地に主たる作品が殆ど全て書かれているとい
う事実―蔵原がプロレタリア文学方面においてナップからコップひいては日本共産党とし
ての一の理論家であった事を思い起こせば―言い換えれば組織理論の忠実な体現者であっ
たといえる。知られているように、多喜二は蔵原の提唱した「一九二八年三月一五日」の
描かれる原理論ともなった〈プロレタリアレアリズム〉の熱心なる信奉者であったし、実
際に、

  若し私に一つの「芸術的主張」というものがあるとしたら、それは同時に私たちの所
  属している「ナップ」の芸術的主張であるわけです。私はそこから一歩も出ないこと
  を恥かしがるどころか、その線から誤った方向へいゝ気になったおしゃべりをしてい
  ないかと、始終ビクビク しています。(「傲慢な爪立ち」)

というなにか読み手に反発感を抱かせるほどのその心情を吐露している。私が論じようと
する「党生活者」も全くその延長線上にあるのである。
  「党生活者」にはこれまでの研究史上で「工場細胞」「オルグ」と続くひとつの流れと
して〈組織内小説〉と見る傾向がある。「工場細胞」「オルグ」「党生活者」(ここに「独
房」を入れても良いと思う)という多喜二のプロレタリアート大衆のためのプロパガンダ
を目的とした小説群は事実その舞台をそれぞれ工場内に取っている事、そしてそこでの工
場細胞という党の名においての啓蒙・扇動者等を描いている事などからこの視点に私も追
従するものである。更にはこの一連の作品が〈芸術大衆化〉の問題と切り離す事のできな
い関係にある事を考慮しながら論述していこうと考えるのである。というのもこれまでの
「党生活者」論は戦後すぐに湧き起こった、『近代文学』同人と『新日本文学』同人の間
で取り交わされた第二次政治文学論争において問題とされた主人公「私」の「笠原」に対
する取り扱いに長い間引きずられてきた感が否めないからである。確かに平野謙が「一つ
の反措定」において提示した《小林多喜二の生涯が様々な偏向と誤謬とを孕んだプロレタ
リア文学運動のもつとも忠実な実践者たることから生じた時代的犠牲を意味してゐた》と
いう見解から《小林多喜二と火野葦平との表裏一體と眺め得るやうな成熟した文學的肉眼》
が必要であるとした考えは日本共産党が無謬であるとされていた当時から考えて画期の発
言であった事は疑いのない事であるが、澤地久枝によって「笠原」のモデルであったとさ
れる伊藤ふじ子の調査が容易に私達の手に入る事になった今日、これまでの組織悪・ヒュ
ーマニズムの観点から「党生活者」を論ずるのではなく、プロレタリア文学運動という枠
の中で小林多喜二が組織の論理をどのように創作という形で実行に移し、その結果生まれ
た「党生活者」中の「私」と「笠原」の問題、ハウスキーパー問題がどのように読み換え
られるかがこの作品を読み直す事になるのだと考えている。
 

      T  革命運動組織のなかの「党生活者」

    私にはちょんびりもの個人生活も残らなくなった。今では季節々々さえ、党生活のな
    かの一部でしかなくなった。

  これは「党生活者」中での「私」が地下生活に入った後の生活を評したものである。小
林多喜二は一九三一年一〇月から一九三三年二月二〇日に築地警察署で特高警察に虐殺さ
れるまで忠実にそして精力的にプロレタリア文化運動を担う日本共産党員として権力に対
抗した。その実体験から「党生活者」は描かれたのである。多喜二の実体験とはどのよう
なものであったか、弾圧下での非合法生活がどれほど困難を極めたかは想像するに難くな
い。毎日数回の街頭連絡を行わなければならなかった生活を多喜二は実弟の三吾にあてた
書簡の中で実際に書き送っている。

    同封の金は、金が生命である僕が贈る金だと思って、(何故なら、時には、なすの漬
    ものだけで三日も過ごすことがあるのだよ。)(後略)
                                                               (三吾宛て一九三二年八月二一日付書簡)

このような《個人的な生活が同時に階級的生活であるような生活》を切望していた多喜二
は結局、これらプロレタリアのための文化運動によって生命を研磨され、果ては拷問での
死を迎えることなどから量っても、《小林多喜二の生涯がさまざまな偏向と誤謬とを孕ん
だプロレタリア文学運動のもつとも忠実な実践者たることから生じた時代的犠牲を意味し
てゐた》ことは確かに説得力のある言葉に聞こえる。だからこそこの言葉が何を意味して
いるのか。
  「党生活者」はいわゆる党のフラクションメンバーが「倉田工業」において労働者達を
宣伝・扇動し、そして細胞を獲得していくという形で構成されていて、後半は主に「私」
と「笠原」との生活の場を中心に描かれている。序文で述べたように「工場細胞」「オル
グ」と続いた工場を舞台にした一連の作品と同位に立つ種のものであるといえるだろう。
がしかし「党生活者」では工場に関しての叙述が少なく、そこには多喜二が地下生活に入
っているという理由があるのである。
  多喜二が「党生活者」を脱稿したのは「党生活者」文末にもあるように一九三二年の八
月二五日。それ以前から彼は日本共産党党員として活動を積極的に進めており、日本共産
党の党員としてコップにおいて文化運動のフラクションとしてその責務を果たしていた蔵
原惟人、中野重治、窪川鶴次郎、村山知義、宮本百合子などが一九三二年三月四月の時点
で一斉に検挙された際に検挙を逃れた宮本顕治、手塚英孝、今村恒夫らとともに地下活動
に入っていた。その直後に三二年テーゼが発表され、更に作家同盟の第五回大会も開催さ
れ多忙を極めていた時期に取りかかられた。その地下活動に入る直前に多喜二は藤倉工業、
すなわち「党生活者」中の舞台となっている「倉田工業」のモデルであると考えられる工
場と接触を持っている。それを裏打ちする記事を多喜二が築地署で虐殺されたすぐ後の『赤
旗』に見ることができる。

      私達は、何しろ十三時間労働を強ひられているので、集合の場所さへ探すことは出
    来なかつたが同志小林は非常に親切に、何から何迄世話を焼いて呉れた。
      馘首が二十日先きに迫ったとき「小林多喜二の小説の話を聞く会」といふ名目で公
    然と二十名余りの男女工を集めることに成功した。
                                                                        (「同志小林多喜二の虐殺に際して」)

この多喜二の藤倉工業の接触のことを日本労働組合全国協議会(全協)の指導者として藤
倉工業に派遣された小澤路子も

      その頃、文学少女らしいパラシュート部の何人かが、多喜二を「小父さん」と呼ん
    で座談会を開いたことがあるらしい。(「「党生活者」と藤倉工業について」)

ということを述懐している。
  この藤倉工業は「藤倉工業と麻布界隈」によると一九一〇年(明治四三)に横須賀海軍
鎮守府から潜水艇用防水服製造工場に指定され、後には《陸軍衛生材料廠より手術台のゴ
ム引布、氷枕、氷のう》も生産している。その後も大正五年に海軍省艦政局の命令で撃留
気球、自由気球、阻害気球、航空船を製造。シベリア出兵の再に防毒マスクを陸軍に納入
するなど軍需工場と化していた感がある。
  藤倉電線社史「フジクラ100年の歩み」には次のような記述がある。

    藤倉電線護謨合名会社は東京都下大崎町大字大崎251番地(現・品川区)に新工
    場を建てて移転し、(後略)/藤倉電線護謨合名会社は、その後、大正2年(191
    3) に藤倉合名会社と改称、 9年には資本金100万円の藤倉工業株式会社(現在の
    藤倉ゴム工業)となった。

この文章中の藤倉工業株式会社というのが当時の正式名称であり、その工場が作品の舞台
となったのである。この下大崎というのは現在の品川区五反田三丁目にあたる。
《藤倉工業入社は、城南方面に働く婦人の羨望の的であった。》というような賃金も悪
くない工場であったこの藤倉工業を「党生活者」舞台としたその背景には、当時の日本軍
国主義の暴挙の契機といえる満州事変が多喜二が藤倉工業を訪れる前年の九月に勃発
しており軍需工場では総動員の体制に入っていた事以上にその総動員体制の中へ〈党の大衆化〉
〈下からの統一戦線戦術〉という名の下に飛び込まんとしていた日本共産党の方針が深く
遠因している。
  一九二七年七月に日本共産党が渡辺政之輔、鍋山貞親、などを擁してモスクワのコミン
テルンに赴き一九二六年末に第三回党大会で決定した党を再建するための政治方針を二七
年テーゼに於いて批判するまでに日本共産党の紛れもない主流理論であった福本イズムす
なわち解党主義の山川イズムに対抗する為に導入した、党をインテリゲンチアによって運
営して行こうという考えで労働者階級と党との間に決定的な乖離を産んだこの理論はその
後に以後日本共産党がとった執政の内の代表的な失策として伝えられていくのだが、この
誤謬がその後の日本共産党にとっての一つの大きな課題となる工場、農村に入って労働者、
農民と深く結びつくといういわゆる〈党の大衆化〉〈下からの統一戦線戦術〉が至上の課
題としてその後の日本共産党の使命ともなっていったのである。
  『赤旗』を見るとはじめてはっきりと共産党員の拡大をうたったものが一九三一年五月
一七日付けの記事につぎのようにある。その記事の題は「「党員採用に現れた極左的偏向
 セクト主義を生産せよ―党員を一万人に増やせ!―」(以下「党員を一万人に増やせ」)
《党組織の拡大強化、党の大衆化!これこそ吾党当面の最大の、そして集中的義ムだ。/
●メーデー斗争のシメククリを怠るな!●/組織だ!組織だ!もう一度組織するんだ!/
●組織に於ける極左的偏向セクト主ギを清算せよ!/●工場細胞を組織せよ!/●党員を
一万人にふやせ!》このように当時の党指導部は党の人員拡大に躍起になっていて、他の
号でも工場細胞の組織、党員拡大の語がいくつも見うけられる。この政策の具体的な実現
としてコップが結成されるのであるが、この党員拡大、党大衆化の理論はコップに文化サ
ークル所属せしめそしてその上で文化サークルの構成員である労働者、農民を啓蒙してい
くという理念で実践された。
  この理論を実践に移すために、コップの創立する実質的な提言として発案されたのが蔵
原惟人の古川壮一郎という変名で『ナップ』一九三一年一月に発表された「プロレタリア
芸術運動の組織問題  ―工場・農村を基礎としてその再組織の必要―」(以下「組織問題」)
というプロレタリア文化運動組織史において重要な位置を占める論文である。この論文の
中で蔵原はそれまでの芸術運動におけるナップの欠陥を指摘している。

      重大な欠陥とは何か?一言で言えば、わが国の芸術運動が、これまで、真に大衆的
    なプロレタリア的な基礎を有しなかったということである。ナップ所属の作家同盟な
    り、劇場同盟なり、美術家同盟なり、また映画同盟、音楽家同盟なりが、企業内の労
    働者にその組織的基礎を持っていなかったことである。

この問題は何を示しているかといえばそれまでにプロレタリア芸術とは労働者のための芸
術でなくてはならないという趣旨のことが再三再四いわれてきており、その思想に基づい
ての考えであると思えるのだが、それまでナップは『戦旗』読者会や演劇同盟のドラマ・
リーグといった形でしか一般大衆と文化組織とが接点を持っておらなかったことを指して
おり、その上それら『戦旗』読者会などが実質的にナップの方針決定の上で意見反映され
ていたかといえばされていなかったことを踏まえてのことなのである。そもそもナップと
いう組織は極論してしまえば様々な文化運動グループの寄せ集まりで、思想の上ではマル
クス・レーニン主義に基づいて芸術運動を進めていこうではないかという一つの共通理解
項が出来上がっていたが、それ以上のすなわち次に引用する前掲の蔵原の論文に提案され
ることには立脚していなかった。しかしながらだからといって私はナップの芸術運動が失
敗に終わっているというものではない。実際に文学の分野においてはその運動理論の論争
土俵であり、創作の場でもあった機関紙『戦旗』において多喜二の「一九二八・三・一五」
「蟹工船」、江馬修「甲板船客」、窪川いね子「彼女らの会話」、立野信之「赤い空」、
中野重治「春先の風」「鉄の話」、三好十郎「疵だらけのお秋」、徳永直「太陽のない町」
など挙げればきりがないほどの一大潮流を文学史の上でその足跡を残している。
  先に引用した蔵原の《企業内の労働者にその組織的基礎を持っていなかった》という言
葉は言い換えれば企業内の労働者を中心とする基礎によってプロレタリア芸術運動は進め
ていかなければならないということになる。これは先に示したとおり〈党の大衆化〉〈下
からの統一戦線戦術〉に関連してのものになってくるのだが、それを次の一文に見ることができる。

    一般に、文化団体、特殊的には芸術団体は、左翼労働組合以上に大衆的なものでなけ
    ればならない。(中略)言いかえればそこには左翼労働組合の支持者のみではなく、
    広く未組織および右翼・中間派の労働者が組織されなければいけない。(「組織問題」)

これはそれよりのナップの体質から一歩抜け出すことを目指すもので、この中には大きな
問題点として大きくプロレタリア文化運動にイデオローグが持ち込まれ、共産主義の宣
伝・扇動媒体として捉えられてきていることがひとつ注目できる点である。

    特に、最近ブルジョアジーおよびファシストが、その芸術政策によって、労働者を獲
    得しようとしている今日、それに対抗するに、真のプロレタリア芸術をもってするこ
    とは、芸術運動に従事する者の義務である。(「組織問題」)

これは先ほど述べた文化運動が共産主義革命達成の一手段として講じられていった、若し
くはそう考えられていったということの立証となるであろう。プロレタリアと対立するブ
ルジョアジー若しくはファシストとの対立図式をそのまま文化運動に当てはめその防波堤
として認められていることは間違いない。前述した『赤旗』の「党員を一万人にふやせ」
という記事がぴたりと符牒を合わせていることもいかにこれより急速に構成されていくコ
ップと日本共産党との繋がり結合が強いものであるかということを示している。
  この蔵原の論文を受けて『ナップ』紙上では「一九三一年に於けるナップの方針書」が
一九三一年四月号に掲載されている。蔵原の論とほぼナップの方針が合致している。

    本年度における我がナップの中心任務は、一切の芸術活動の基礎を工場農村に打ち立
    てることによつて、××的プロレタリアートの文化・教育活動の一部となることにあ
    る。かくして芸術運動の××主義化と、広汎なる大衆獲得の事業はいよいよ押し進め
    られるであろう

これらの二つの文化運動に関する理論は何を背景に打ち立てられたかというと、それは一
九三〇年八月に蔵原惟人が紺野与次郎らとともに参加したプロフィンテルン(国際労働者
会議)第五回大会でアジ・プロ会議に於いて決定されたテーゼによるところが大きい。こ
のテーゼは「プロレタリア文化=及び教育の諸組織の役割と任務」という題で一九三二年
二月号のコップ機関紙『プロレタリア文化』に掲載されており、そこから組織問題につい
て決定されていることをみると、

    労働者階級の上層のためのものときめられている改良主義『文化クラブ』とは反対に、
    ××的『文化活動』は最も広汎な労働者大衆を捉へるべきである。

    改良主義者の指導下にある労働者階級の文化組織には特別な注意が払われなければな
    らない。これらすべての組織の中には、××的反対派及び××党のフラクシヨンが構
    成されねばならない。(中略)我々は常に、社会ファシズム及び公然たるブルジヨア
    独裁の諸国に於ては、文化=教育諸組織が、労働者階級にとつて目的そのものではな
    く、目的への手段であるといふことを忘れてはならない。それはプロレタリア大衆の
    ××的教育への手段であり、これら大衆を資本主義に対する闘争へ動員するための手
    段である。

と、先述の理論がこのテーゼに基づくことは最早議論の余地はないと思う。私がここで注
目したいのはこのテーゼは日本のみならず全世界の革命党に向けてのものでコミンテルン
が《文化=教育諸組織が、労働者階級にとつて目的そのものではなく、目的への手段であ
るといふことを忘れてはならない。》という点について言明していることである。手段。
すべては文化的指導を受けていないものへのオルグの為の手段であると、プロレタリアー
ト独裁への革命のための手段であるとコミンテルンが、日本共産党が決定していたことで
ある。多喜二はこれを《創作方法を党派性によって武装すること》とし《文学に於けるレ
ーニン的段階》(傍点原文通り)であるとしている。そこには革命のために〈政治の優位性〉
が必要とされていたとしてもすべてがその手段という点に収斂されていくということに疑
問を感じる。そこにプロレタリア文化運動がコップがナップ時代への文化的隆盛を越えて
いけなかった点が隠されているように思う。言い換えれば結局は《目的のためには手段は
選ばぬ》ということに繋がっていったのではないかと考えるからである。
  しかしながら前述の「組織問題」の蔵原理論にたいして誰しもが全面賛成したわけではな
かった。当時ベルリンに滞在していた勝本清一郎は一九三一年一一月号『ナップ』に「ベ
ルリンからの緊急討論」と題してあまりに日本の当時の情勢にそぐわないものだとして駁
論を送っている。

      同志古川の組織案は、従来の我々の間違つた組織の文化団体を、今にしてなほ、真
    に正しく大衆的に開放することを躊躇している、文化的セクト主義の残骸をまだ引き
    摺つているものだと指的せざるをえない。

これは詳しく何を指摘しているかというと、組織の中で《不用意に二重組織をつくり出す
ことは、かへつて甚だしく危険でさへある。》(勝本)という二重構造を造り出してしま
う可能性を示唆している。果たしてこの危惧は的中してしまう。

    よく文化運動のあちこちで、「コップの意見はこうだ」とか「コップの人がこういっ
    た」などということがいわれたが、これはコップ中央部――日本プロレタリア文化連
    盟中央協議会のことを指すので、なにか各団体とは異った別個の団体でもあるかのよ
    うな口吻がみえたが、これなどコップが成立されたときからすでにコップ中央と一般
    成員との間にある種の間隔があったことを暗示するのではあるまいか!なんとなれば、
    各同盟員の成員はその同盟員であるだけでなく当然コップ員であり、「コップの人」
    であるわけだが、そうとは自覚せずにコップ中央部の機関のメンバーを特殊扱いにし
    ていたのであった。ナップ時代にはこの間隔はなかった。ナップ員であることと作家
    同盟員たることとは遊離していなかった。

と池田寿夫は「日本プロレタリア文学運動の再認識」の中で述懐している。これはコップ
の構造に問題があるのである。その基本構造として一つに『プロレタリア文化』創刊号に
掲載された「日本プロレタリア文化連盟規約草案」の中に見ることができる。

    第四条  本連盟は本連盟の綱領・規約に賛成したる諸プロレタリア文化団体を以って
                構成す

とあるようにこれは前提に蔵原が主張していたような、その同盟員すべてがコップの構成
員であるということがあるものとして各同盟単位でコップを構成するということなのであ
るのだが池田寿夫の文にあるようにその同盟員たちに自分たちはコップの成員であるとい
う感覚が限りなく薄かったのだ。私はこの由因にコップ中央協議会の中央委員構成方法を
考えていかなければならないことを思う。
  多喜二は冒頭で述べたとおりコップが結成される直前に日本共産党に入党し、作家同盟
の党グループ員となっており、更にその後一一月一五日の作家同盟の拡大中央委員会で芸
術協議員に選出され明らかに党より文化運動におけるフラクションを担うものとして認識
されていた。私が何を言わんとするかというと、コップの中でその指導的位置にいる人々
は〈党〉の人という観念があったのではないだろうかということなのである。ここにも二
重構造に拍車をかけて感があることは否めない。日本共産党には〈鉄の規律〉が存在し、
大衆との間には大きな間仕切りがあったことを党も認めているのである。

    第一、党の組織者や細胞が党員の資格を非常に高くしている。理論的並に実践的に
    百%主ギをとつている。(「党員を一万人に増やせ」)

ここには共産党員になることへの敷居の高さというものが高く聳えていたことがみてとれ
る。次の立野信之の言葉は共産党に近い場所に居るものでさえも、いかに党へ入党する事
は思い切りが必要であったかを物語っている。

    (前略)当時の文化団体の置かれている情勢からすれば、多喜二や私のような位置に
    あった者は、当然入党することが積極的であり、階級的であったのだ。それは階級運
    動に携わるものの生きた生き甲斐であり、最高の名誉でなければならなかった。

    しかしそれらの人達はほとんどみな文化人である。文化人で再建される党・・・・・・そこ
    に私は、脆弱なものを感ずる。危なっかしい、と思う(「小林多喜二」)

ここで立野は文化人が党を運営していくことの脆さを感じたということだが、ここに最も
コップの構造の、ひいては当時の文化運動を通しての共産党の運動の、革命運動の不安定
な土台がひろがっているのではないか。加えて言うなれば、コップの主たる運動家を日本
共産党に入党させナップ時代には合法であった文化運動組織を実際において非合法へと追
いやったことにその失策があるのだ。その失策がシンボライズされて浮かび上がってきた
のがハウスキーパー問題といえるだろう。コップがその土台に亀裂を生じはじめた時期と
重なり合わせてハウスキーパー問題は浮上しはじめ、コップ時代の革命運動の様々な欠陥
を我々に見せるのである。
 

      Uハウスキーパー問題に表象される革命運動組織
  〈ハウスキーパー〉という語句は、昭和八年『婦人公論』の三月号の中で「主義と貞操」
という特集が組まれている中の文章に幾つか見ることができ、当時の商業新聞の中にも共
産党非難の記事の中には常套手段として使われていた。しかしながらハウスキーパー問題
が日本共産党内外の人々によって批判的に取り上げられはじめたのは一切それらへの自由
な論議がファシズム勢力によって閉ざされていた時代が終わって後のことだった。第二次
政治文学論争の中でその問題が批判されて以来、日本共産党研究史において無視すること
の出来ない立花隆の大著「日本共産党の研究」の中でも大きく取り扱われ、戦前の日本共
産党を考える上では欠かすことが出来ない事象となっている。
  女性、若しくは愛情という問題について日本共産党として取り上げたのは案外として古
いことである事とはいえない。一九二六年の一二月四日に山形五色温泉での日本共産党再
建のための第三回大会で認めることとなった二七年テーゼによって党の大衆化と党機関の
確立が決定される。それと同時期に起こっていた労働組合婦人部設置問題の中へ飛び込む
形で翌年の七月三日関東婦人同盟が共産党の門屋博らにより被指導組織として結成される
のである。これが日本共産党が婦人運動に具体的に関わらんとした端緒であると思われる。
ここで日本ではまだ組織的革命組織が組織されていなかった頃の労働者解放運動家達の
女性運動に対する考えが如実に表れていると思われる話を紹介したいと思う。《私が考え
ている婦人参政権のことを話しますと、三人から「それはフェミニストだ!そんなことよ
りも、今、たいせつなのは労働者の解放だ!」とやられました。》これは後に共産党にも
入党した女性運動家丹野セツがまだその思想を開花させきらない頃のことであるが、ここ
には平塚雷鳥や市川房枝達により前進しはじめていたといえる女性意識の中における革命
的運動家達でさえこういった状況であったことは、後の革命運動家達の〈愛情の問題〉を
革命組織の中で結局のところ圧殺してしまう要素を多喜二の活躍した時代までも孕み続け
る下地があったといえるだろう。
  そもそもハウスキーパーのような女性が家屋探しや資金調達、文字どおりの男性党員へ
の生活奉仕の仕事はどういった形で行われていたか。生活費、運動費のために女給にした
「笠原」に対して《たゞ交通費を貰いに行くことゝ、飯を食いに行くことだけ》になる関
係が「党生活者」中には見られるのだが、実際ハウスキーパーというものを、小説の題材、
人物を普遍化して見ること、またプロレタリア文学を創作上において普遍的に描くことは
無意味であろうし、多喜二が、ひいてはプロレタリア文学一般にその多大な影響を与えた
「芸術的方法についての感想」の中で蔵原惟人も言っていることであるので多喜二にして
もそういった考えを念頭においては書いていないことを承知の上でハウスキーパーの実際
例を考えることは無意味なことではない。

   党大衆化の過程で「婦人党員をつくれ」ということになる。それまで(注  日本共産党が
     再建される頃、一九二六年頃を指す〈引用者〉)の婦人党員は志賀の細君、是枝の細君、丹野さ
   んくらいでしょう。(「丹野セツ」)

これは当時の日本共産党に入党していた女性の希少さを示すものであり貴重な証言である
といえる。従ってこの頃にはハウスキーパーは実質その形を組織の中で現象としてまでに
は顕わにしてはいない。
  それが目にみえて顕われてくるのは女子学連でオルグを受けた人々が実際運動に参加し
てくる頃からで、その女子学連とは通称名でありそもそもは社会科学研究、マルクス主義
の研究会としてから東京女子大の波多野(福永)操、日本女子大では清家(寺尾)としら
によって進められた女子学生組織のことである。この女子学連が一九二五年秋より学生社
会科学連合会(学連)と連絡を取っており、その関係から後には女子学連から多くのハウ
スキーパーを輩出するのである。当初の最高責任者であった波多野操も党員として、当時
の党幹部であった是枝恭二と結婚しており、波多野はそれを《実際はハウスキーパーなん
ですけど》と明言している。波多野の後にも幾人もの党員のハウスキーパーにさせられた
人々がいるわけだが、させられたというのは次の清家の自伝にある証言をもってしてのこ
となのである。

    党員は党員同志でなければ結婚は許されぬことになっており、それも上部機関の許可
    が必要だという規律があった。(「伝説の時代」)

それが例え天皇制帝国主義国家からの弾圧に対する予備線のものであったとしても、この
規律が学生ながらマルクス主義研究を経てある程度の教養を持っていた彼女たちをハウス
キーパーへと追いやってしまった状況を作ったのではないだろうか。理論武装に努めた彼
女たちをこのように死に体にしてしまったのは党方針の問われるところである。また清家
の自伝には党資金獲得のために女性を給仕やダンスホールで働かせたり裕福な家の女性に
家の金を持ち出させたことが《盛んに》あった事が書かれている。女子学連の人々もその
例外ではなかった。波多野の後に女子学連の中心分子として活動し、当時党フラクション
キャップであった浅野晃のハウスキーパーとなり、一九二九年五月に三・一五事件で検挙
された水野成夫、門屋博、南喜一などの党員達が獄中で日本共産党の解党を主張する上申
書を書くという事件に連座した夫の行動に苦悶し結果、ノイローゼとなって狂死した伊藤
千代子の場合にしてもそうであった。「伊藤千代子の死」には千代子の学費である親の仕
送りの金を浅野が当時普通選挙に労農党から立候補していた山本懸蔵の選挙運動費として
使うために千代子から奪っていた事が示されている。この様な状況下で現実に女性運動家
たちは足を削がれ手を削がれていった。
   主人公佐々木安治をその地下生活においてその生活を支えた「笠原」という人間をハウ
スキーパーだとして、プロレタリア文化運動、日本共産党の革命運動を政治と文学の問題
にまで昇華させて『近代文学』派の人々はそれを非難してきた。しかしここでは「党生活
者」の「笠原」のモデルとなった伊藤ふじ子という人物の不透明性から「党生活者」とい
う小説の中に描かれたそれそのものとをやや混同して断じている傾向が見うけられる。こ
れは正しい見方なのであるか。捩じ曲げたものとなっているのではないだろうか。ここで
はそのために「党生活者」創作上に大きく影を落としていると思われる伊藤ふじ子という
人間を見ることに強い魅力を感じるのである。しかしながら伊藤ふじ子について書かれた
ものは非常に少ない。ある座談会では貴司山治が多喜二虐殺の報を聞いて駆けつけた時に
同じくそこに居合わせた伊藤ふじ子について次のように述べている。

    笹本と、カメラの人とで小劇場へ行つたら原君が非常に昂奮して泣いて叫んでいた。
    そうして、名前のわからない質素な、貧しいナリをして、顔の黒い女が泣いていた。
    (中略)原君にわけを聞くと、「小林のおかみさん」だと原君が僕にささやいた。(中
    略)その女を馬橋(小林の家)にやつた筈だ。

この女性が多喜二の妻であった伊藤ふじ子である。その後確かにふじ子は多喜二の両親兄
弟が住む馬橋の実家へ立ち寄っている。小坂多喜子はふじ子が多喜二の遺体と実際に馬橋
の家で対面したときの状況をこう語っている。

    いきなり多喜二の枕元に座りこむと、その手を両手に取って自分の頬にもってゆき、
    人目もはばからず愛撫しはじめた。髪や頬、拷問のあとなど、せわしくなですさり、
    頬をおしつける。(「小林多喜二と私」)

この多喜二への激しいそして最後の愛情表現はむなしくも彼女に同情を寄せるものは誰も
おらず、ただその後は馬橋の家でおろおろするばかりで結局いつのまにかそこから姿を消
していたということである。
  多喜二には田口瀧子という多喜二の中においても小林家の家族の中においても心から彼
の伴侶として許していた女性がいた。瀧子は小林家で同棲したこともありそれだけに多喜
二の母親にとっては多喜二の相手は瀧子しかいないという思いがあったのであろう。母親
セキにとっては多喜二の突然の死を聞いた直後にその遺体の前で「私は多喜二と一緒に暮
らしていたものです」といわれたにしてもそれが何の想いに変わろうかということは想像
するにあまりある事である。信じられない想いが溢れんばかりであったであろう。そうし
てふじ子は誰ともこの愛人を失った寂寥感を分かち合えなかった。だから森熊猛氏夫人と
なり過去のこととなっても多喜二のことに関しては口を閉ざし続けたことは当然のことで
あった。
  伊藤ふじ子は戦後加熱するその論争の中でも実態がつかめず非合法生活の中でのことゆ
えに長くその人となりが謎とされてきていた。唯一の手がかりである手塚英孝の「小林多
喜二」のみを参照するしかない状況であったのだが澤地久枝の詳細なる調査によってその
履歴、人格がややはっきりと形どられたのである。
  その「小林多喜二への愛」によれば、ふじ子は多喜二と出会う頃銀座の図案社で働きな
がら文戦劇場の女優として何度か舞台にも立つことのある左翼運動に関心を示す女性であ
ったようだ。いわゆるシンパと呼ばれる類になるだろうか。プロレタリア演劇に関係する
者達は彼女のことをエロットと呼んだ。このあだ名に彼女の性格の一端が表れている。エ
ロットとは日本プロレタリア劇場同盟の略称プロットをエロスとかけたもので高野治郎は
ふじ子のことを次のように語っている

    彼女は男性関係がオープンで(肉体)関係が事実としてあったかどうかは別にして、
    そういった関係を想像させるものはあったね。誰とでも親しくなり、手を組んで歩け
    る女性だったんだ。あの時代にだからね。自由奔放な女性という感じだったね。
                                                                                      (「小林多喜二への愛」)

  ふじ子はこのようにまさに自由奔放な女性であったようである。私はこのイメージがマ
イナスイメージに働いて「笠原」という女の作品中に表れるすべての悪しきイメージが伊
藤ふじ子と重ねられたのではないかと思うものだ。《如何にも感情の浅い、粘力のない女
だった。》このように形どられる「笠原」のイメージがそのモデルであるふじ子にそのま
ま被せられてきた。確かにふじ子には軽薄を連想させる性分が充分あったであろうことは
当時のふじ子を知る古賀孝之の言葉を見てもわかる気がする。《しかし当時の僕には伊藤
ふじ子が「有名病」にかかっているとしか思えなかったので》ある。
  このような印象を持たざるをえなかった彼らには本当にふじ子がどのように多喜二と相
対していたかは邪推は免れ得ないところかもしれない。古賀はふじ子のことを《ハウスキ
ーパーとしてすら適格者でなかったと思う。》とまで述べており、ふじ子という人間は戦
後多喜二に関する口を封じたことによって「笠原」のモデルである人間ということで本人
の知らぬところでその人間性を決定されていったのである。
  ふじ子は昭和五六年四月二六日脳卒中で倒れ帰らぬ人となった。彼女の遺品となったハ
ンドバッグのなかには手塚英孝の『東京新聞』昭和五三年二月二一日付の記事「晩年の小
林多喜二」の切り抜きが入っていた。その記事には伊藤ふじ子が「笠原」のモデルである
ということは憶測にすぎないという意味のことがかかれていて、多喜二がふじ子の解雇手
当を人づてに受け取ったときの涙を浮かべて感激したことなども書かれていた。彼女が死
の間際に書き残したと思われる遺稿が残っている。その遺稿の出だしには彼女の師匠であ
った加藤楸邨の句《鰯雲  人に告ぐべきことならず》が記されている。彼女はこの句に《私
のために作られた様な気がして心に染みて好きな句です。》という私観を述べている。彼
女にとって多喜二との束の間の生活は人に知らせることのないものだと決めていたのであ
ろう。この短い遺稿の続きには多喜二との思い出それも多喜二がユーモア溢れる人間であ
ったことを書き記している。ここには読んだものだけが知ることのできる彼女の多喜二へ
の愛情を窺い知ることができる。
  「党生活者」中には「伊藤」が色仕掛けで「倉田工業」の工員を集めるという叙述がな
されているが、ここにも目的達成のために手段を選ばず女性の利点を生かしてのオルグ、
革命運動が展開されている。ここで多喜二が苦悶してそれを描いたかということはあまり
問題ではない。当時ハウスキーパーは存在した。現に立野信之も党の指導者であった田中
清玄が一人の女性をハウスキーパーだとはっきり明言して紹介されたことを思い出してい
る。伊藤ふじ子の場合もまたハウスキーパーの一つの形であったといえる。ふじ子が多喜
二が死んだことによってその存在を〈政治の優位性〉の立場により革命運動から抹殺され
公然と多喜二を弔うこと、語ることを封ぜられた状況は、残されたものを救い上げること
の出来なかったその組織を表象する事実なのである。
 

      V風俗としてのハウスキーパーと道徳
  一般的に芸術大衆化論争とはナップ内において一九二六年に中野重治、蔵原惟人らナップ
の理論家達によって引き起こされた文学論争を指すのであるが、現実においてはその論
争はその後も連綿として続く論争の惹起点でしかなかったのである。その継続上に多喜二
も徳永直、宮本顕治との間で〈大衆化〉について理論闘争を展開している。徳永直の「プ
ロレタリア文学の一方向」というコップ作家同盟にとっての《大衆向長編小説》の必要性
を説いたその論文に対して多喜二は直ちに駁論を発表しているがそれによると、レーニン
の《文学は党のものとならなければならない》という言葉から《プロレタリアートの頭部
である党の立場に立たなければならないこと、共産党の世界観を我々の(作家の)世界観
としなければならないこと》(傍点原文通り)をもって答えている。すなわちこれが「党派性」
なるもので、党の世界観イコール共産主義の、マルクス主義の世界観となるものとして彼
の創作上の懐中の石となっているのである。宮本顕治も徳永の論文に対し同様の駁論を寄
せている。徳永はその後「「大衆文学形式」の提唱を自己批判する」という文章において
《吾々の文学は「党」の立場にたつ「大衆の文学」なのである》として「プロレタリア文
学の一方向」で展開した持論を覆すこととなる。これは一九三〇年四月に『戦旗』誌上で
報告された「芸術大衆化に関する決議」に依るところが大きく、多喜二、宮本の緒論もそ
れに基づくものとなっている。ここで森山重雄に従えば、多喜二は一九三〇年に共産党資
金援助と「蟹工船」の不敬罪問題で豊多摩刑務所に収監されているわけだが、この時に田
辺耕一郎に向けて自分がそれまで《半分職業的になりかけて、堕勢だけで作品を書いてい
る》こと《結局「綴方文学」》でしかなかったことを自省し《誰もが今迄見ることのなか
ったような作品を書いてゆけるようになる》ことを決意していたことが読み取れるにもか
かわらず、その後の徳永と論争を交わすに至っては《小説のプロットとか大衆に愛される
文学形式とかの次元に逆戻りしてしまった》のである。この多喜二の作家的段階の上昇を
期待できた獄中での心情を彼は徳永との大衆化の論争の中で思い起こさなかったのか。思
い起こさなかったはずはない。それには〈党派性〉という多喜二にとっては抗し難い自己
の絶対物が立ちはだかっていたのである。この〈党派性〉こそが彼にとってプロレタリア
文学にとり、欠かし得ないものであり、又「党生活者」を書かせた要因となるのである。
  コップが結成される前後、すなわち一九三一年前後には〈愛情の問題〉を主題に取り上
げた作品がプロレタリア作家達の手によって書かれている。例えばそれは片岡鉄兵「愛情
の問題」、徳永直「「赤い恋」以上」、江馬修「きよ子の経験」、立野信之「四日間」と
いったところである。これら一連の作品の〈愛情の問題〉を取り上げたプロレタリア作品
群は〈芸術大衆化〉〈生きた人間〉というスローガンに基づいて書かれたもので所謂芸術
大衆化論争に密接に関係している。その他にもハウスキーパーを描いたものについてはや
やプロレタリア作家の描くところとは性格を異にしながらも、いわゆる同伴者作家らによ
って広津和郎「風雨つよかるべし」、野上弥生子「迷路」などによっても示されており、
日常における〈愛情の問題〉の緊密性をあらわしているといえよう。
  この内の片岡鉄兵の「愛情の問題」には主人公の女性闘士である「妾」が「石川」とい
う男性闘士に肉体関係を迫られて別の男性闘士「皆木」への愛情からその自分の持ち場を
捨て「皆木」のもとへ走るがそこで「皆木」に個人主義を諭されその非階級闘争性を否定
される状況をおよそ図式的に描いた作品である。この作品に対し、蔵原惟人は「芸術方法
についての感想」に《プロレタリアートにとっては家庭や恋愛の問題は、その関心の一部
ではあるが中心的問題ではない。》として「愛情の問題」は《作品の中心的主題として取
り上げられるのではなくて、全体的階級闘争の一部として取り上げられ、取り扱われなけ
ればならない》としている。この問題についても結局落ち着くところは〈階級闘争〉の為
のということになり、全ては〈党派性〉へと帰結していくのである。このように思想とし
てのマルクス主義をその創作方法と結びつけて方法論として論ずることはできたのだが結
局〈愛情の問題〉に現れる組織においての人間救済の芽を摘み取っていたのである。当時
モラル問題がプロレタリア文壇のみならず文壇全体で様々な形となって生起していたがこ
の〈愛情の問題〉もその一類型といっていい。これらモラルの問題は共産主義文学を新た
なる一方向を生み出すための礎石となるべきものであった。しかしながらマルクス主義理
論家たちはそれを拒んだ。折角にも新たなる方向を生み出さんとしていた波紋を自らの手
で封じてしまったのである。これを理論の段階にまで昇華させればハウスキーパーもまた
違った問題の取り扱われ方をしたであろうし第二次政治文学論争も異なった形で現れた
であろう。
  ハウスキーパー問題を当時の共産主義革命運動においての一つの風俗としてみるならば
次の戸坂潤の言葉は多いに私に示唆を与える。《風俗とは道徳的本質のもので思想物とし
ての意味をもつものだ》然り、ハウスキーパー問題は若き日本共産主義の思想が生み出し
た産物なのである。それは日本の革命運動が生み出したコップや全協、その他多くの産物
と兄弟の位置にあるものといってよい。Tで述べたように様々な問題がナップからコップ
の改組の途上で止揚されていった。その中でこの女性問題だけが浮上せられることもなく
コップの胎内へ近代の所産である家父長制そのままに取り残されていったのである。そも
そも風俗とは思想と連絡するものでその思想を表象する具現物なのである。しかしながら
風俗は一表象物であって決して思想そのものではない。単純に言って風俗とは思想を表し
ているものに過ぎないのだ。すなわちこの問題に関していえばハウスキーパー問題とは一
側面として革命運動内だけでなくそこに関わった空間全てにおける思想物に過ぎないので
ある。そしてこの思想物は《道徳的本質》を内面の基調として具備している。ここで農村
における日本的習俗を少し考えてみるに、農村において小作争議が無数に行われた昭和初
期には日本古来の淳美風俗ということが盛んに言われた。百姓が洋服を着ること自転車に
乗ることは自己中心的な個人主義に陥っていてこれこそが淳美風俗を破壊する原因である
という、今日からすればおよそ馬鹿げた論旨ではあるが「不在地主」などにも描かれてい
るようにそれこそが小作争議を引き起こす原因であるということが信じられていたし現実
これらが講演や文章の形になって彼らの周りを取り巻いていたのである。実際それが新た
なる習俗という形で多面的に現れていた。この現在からすれば馬鹿げたことであると思え
るところに問題は関わってくる。農村の日本的習俗とはおよそ我々の手を離れた非日常の
ものとして存在し、様式や服装でさえその固有性を失いみな一元化しつつある。これには
皆中流階級意識が作用していると考えるのだがここでは深入りしない。別にこの例にして
も何であってもよい。国語・方言問題、環境の問題であってもいいのである。要はこの様
に思想状況によって意図的にせよ偶然にせよ風俗や習俗・習慣というものは変わってくる
変幻的なものだということが言いたいのである。またこれら風俗とは《社会の本質の一所
産であり一結論にすぎぬにも拘らず、それが社会の本質的な構造の夫々の段階や部分に、
いつも衣服のように纏わって随伴している》のである。そしてこの風俗を直接に造りあげ
る人的な、実態の不透明なものが道徳とかモラルとか呼ばれるのである。
  ここで「党生活者」空間に立ち戻って考えれば、我々はこの「党生活者」中の「笠原」
の扱いについて非難することはセクシュアリティー、ジェンダーと女性学が発達してきた
中では容易いことである。そしてこれが現在を取り巻いている道徳といえるべきもので、
私達は現在においても男性的機構の中で生きていることを忘れてはならない。勿論ハウス
キーパー問題においても女性運動家達が家屋探しや飯炊きをすることによってその男性優
位のヒエラルキーを拡大再生産していったことと同じ様に現在の女性を含めた我々こそが
この男性的機構を強化しているのである。ここに着眼しなければならない。政治の優位と
いう道徳観念によって男性女性如何に拘らずハウスキーパー問題においての道徳的本質を
覆い隠し、それを強化してきたことに問題がある。ここにある無意識下における道徳造型
への加担・強化を鳥瞰しそこへ繋がる行為を克服すること、我々が各個においてある問題
に対し無関係であると断定するのでなくどのようにその問題と関わっているのか、それを
追求することこそが「党生活者」に内在する普遍的な《道徳的本質》を見極めていくこと
になるのである。
                                                                                                                (了)
 
 
 

    資料

  底本
「小林多喜二全集」(全七巻)  新日本出版社  一九八二年六、七、九、十、一二月  八三年一月

    補註

2    小林多喜二「一九二八年三月十五日」『戦旗』  一九二八年一一、一二月に分載。 こ の原稿は蔵原のもとにはじめ送られて、蔵原の手により最後の部分が削除され『戦旗』に掲載された。
3    蔵原惟人「プロレタリア・レアリズムへの道」『戦旗』  一九二八年五月号
4    小林多喜二「傲慢な爪立ち」『時事新報』  一九三〇年五月一九日
5    小林多喜二「工場細胞」『改造』  一九三〇年四月号から六月号まで分載
6    小林多喜二「オルグ」『改造』  一九三一年五月号
8    小林多喜二「独房」『中央公論』  一九三一年七月夏季特集号
9    平野謙「ひとつの反措定―文藝時評―」『新生活』  一九四六年四、五月合併号
10  澤地久枝「小林多喜二への愛」 『文藝春秋』  一九八一年一二月号
11  多喜二が実弟三吾に宛てた一九三二年八月二一日付の書簡。  「小林多喜二全集第七巻」所収
13  著者名には「マツ子投」とだけある。「同志小林の虐殺に際して」『赤旗』  一九
       三三年三月十五日
14  小澤路子「「党生活者」と藤倉工業について」「定本小林多喜二全集」第四巻月報
       所収  一九八二年十月
18  当初この論文はナップ内において工場内、農村での組織はナップによっては成され
       るべきではなく党によって成されるべきだという反論の為発表を見合わされていた。
       その反対論へ説得的意味を持つものが「藝術問題の組織問題再論」である。(『ナ
       ップ』  一九三一年八月号)
19  小林多喜二「蟹工船」『戦旗』一九二九年五月号  江馬修「甲板客船」『戦旗』一
       九二八年八月号  窪川いね子「彼女らの会話」『戦旗』一九二八年七月号  立野信
       之「赤い空」『戦旗』一九二八年六月号  中野重治 「春先の風」『戦旗』一九二八
       年八月号「鉄の話その一」『戦旗』一九二九年三月号  三好十郎「疵だらけのお秋」
       『戦旗』一九二八年八月号  徳永直「太陽のない街」『戦旗』一九二九年六月号
20  小林多喜二「プロレタリア文学運動の当面の諸情勢及びその「立ち遅れ」克服のた
       めに」《日本プロレタリア作家同盟の第五回大会のために執筆された中央委員会一
       般報告である。(中略)執筆月日はあきらかでない。しかし、この報告を書きおえ
       た直後から地下生活に移っているところからみると、一九三二年四月前後の執筆の
       ように推定される。》(定本小林多喜二全集六巻解題より)
21  宮本顕治「政治と藝術・政治の優位性に關する問題」『プロレタリア文化』  一九三二年一〇月号、一一・一二月合併号、一九三三年一月       号に分載
22  池田寿夫「日本プロレタリア文学運動の再認識」三一書房  一九七一年二月
23  「日本プロレタリア文化連盟規約草案」『プロレタリア文化』一九三一年一二月号
24  立野信之「小林多喜二」  蔵原惟人編「日本プロレタリア文学案内2」三一書房  一
       九五五年九月
27  「日本問題に関する決議」を通称「二七年テーゼ」と呼ぶ。「現代史資料14」所収  みすず書房  一九六四年一一月
29  谷本清(蔵原惟人)「芸術的方法についての感想」『ナップ』  一九三一年九月号に前編同一〇月号に後編を掲載
33  小坂多喜子「小林多喜二と私」『文芸復興』  一九七三年年四月
34  手塚英孝「小林多喜二」筑摩書房  一九五八年二月
39  小林多喜二「文学の党派性」確立のために」『新潮』  一九三二年四月号  この《文 学は党のものとならなければならない》という言葉は多喜二の解釈である。正確には「党組織と党文献」(「党組織と党文献」マルクス=レーニン主義研究所  レー ニン全集刊行委員会「レーニン全集第一〇巻」大月書店  一九六四年一〇月)にある《社会民主主義的文献は党文献とならなければならない》である。
40  宮本顕治「プロレタリア文学における立ち遅れと退却の克服へ」『プロレタリア文 学』  一九三二年四月号  山田清三郎

44  広津和郎「風雨つよかるべし」『報知新聞』一九三三年八月三日から翌年三月一七日まで連載。
46  小林多喜二「不在地主」は「防雪林」の改稿として執筆され『中央公論』一九三二  年一一月号に発表されたが作者に無断で削除された為『戦旗』同一二月号に「戦い」
       として削除部分が発表された。