「ゾルゲ事件」概要

 (最新見直し2006.3.30日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ゾルゲ事件とは、世界史的な衝撃事件であったロシア革命によるソビエト連邦の創出、続くコミンテルン活動の「紅い正義」が信じられていた時代の、それに殉じて身も心も捧げようとした革命家達による第二次世界大戦前夜の「在日赤色諜報団事件」のことを云う。その最高指導者がドイツのナチス党員その実ソビエト赤軍諜報員のゾルゲであり、その最高協力者が近衛内閣の有能なブレーンとして縦横な活動をしていた尾崎秀実(ほつみ)であった。この事件に関係したとして検挙された者は総計34名とされている。

 ゾルゲ事件は「20世紀最大のスパイ事件」と形容されており、「ゾルゲ事件・総合研究のページ」は次のように評している。
 「太平洋戦争前夜の日本を揺るがせた国際スパイ事件であり、歴史上数多いスパイ事件の中でも、その影響力の大きさは空前絶後であり、世界の歴史を変えたスパイ事件であるとの評価は現在でも不動のものである」。

 
主役ゾルゲは、1930年代より赤軍のスパイとして諜報活動を展開し、1933.9月、ドイツのフランクフルター・ツァイトゥング紙などの記者として来日、ナチス党員として駐日ドイツ大使館(駐日大使オットー陸軍武官)の私設情報担当となって活躍し、日本の政治、外交、軍部の動向、軍事に関する情報の入手、通報に努めた。 

 当時のヨーロッパ情勢はナチス・ドイツがソ連へ侵略を開始し、独ソ戦に突入していた。ドイツ軍は首都モスクワに迫りつつあった。スターリン率いるソ連は、三国同盟を結び強固な関係にあった枢軸国ドイツと日本に、東西から挟み撃ちされる危機に陥っていた。当時日本の軍部内では、太平洋戦争の方針を巡って激論が続いていた。陸軍は主敵をソ連に据えて「北方守備論」を唱え、海軍は主敵をアメリカに据えて「南方進出論」を唱えており、その他戦略戦術を廻って決着が着かなかった。この問題に決断を下すため、政府は御前会議を開催し、最終的に南方進出の道を選んだ。ゾルゲは、この情報を満鉄(南満州鉄道)調査部嘱託にして時の近衛文麿首相のブレーンであった尾崎秀実(おざき・ほつみ)から入手した。

 「日本は南方進出を最終決定。日本にソ連攻撃の意図なし」と打電したゾルゲの情報が如何に価値をもっていたか。
「日本の南進政策決定を事前にキャッチしてモスクワに打電している点で史上の功がある」。但し、史実を精査すれば、この報告に対してスターリン指導部はその価値を見出し得なかったとも云われている。そうであるとすると、ゾルゲの悲劇は計り知れない。このことを、ソビエト史専門東大助教授・菊池昌典氏は次のように述べている。
 「ゾルゲの悲劇性というのは、失敗したスパイというよりも、成功したスパイであるにも関わらず、その成果が祖国ソ連でほとんど生かされなかった、という悲劇性だと思うんですよ」。
 
 この辺りの微妙なところは不明であるが、いずれにせよスターリンはゾルゲからの電報の功もあり、日本の侵略に備えて極東に配置していた兵力を後顧の憂い無くウラル戦線に移動させることになる。遂にソ連は、1942年冬の訪れとともにウラル山脈の麓・スターリングラードでの激戦の末ドイツ軍を敗走させる。これが転機となり、独ソ戦の戦局は一気にソ連に傾き、第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの敗北を決定づけたとされている。


【ゾルゲが上海へ、尾崎と交流する】
 1930年1月、リヒャルト・ゾルゲがドイツの社会学雑誌の記者ジョンソンという触れ込みで上海へやって来た。この当時中国のコミンテルン組織は1927年の蒋介石の上海クーデター及び武漢政府の弾圧などのため破壊されており、その再建の為にやってきたという背景があった。身分はコミンテルンから赤軍参謀本部第4局に移されていた。

【尾崎が上海より帰国】
 1933.9月(時期未確認)、尾崎秀実は日本に戻り、大阪朝日新聞社の外報部に職を得た。

【ゾルゲの来日】

 1933.2.11日、フランス共産党員ブランコ・ド・ヴーケリッチはコミンテルンの密命を受け、横浜に上陸。フランスの写真雑誌ラ・ヴュウ及びユーゴスラビアの日刊紙ポリチイカの東京特派員という職名を持っていた。

 1933.5月、ゾルゲはモスクワからベルリンへ向かい、フランクフルト・ツァイツング紙の日本特派員の資格を取り、ナチス党員となった。アメリカに渡り、組織との連絡を取った上、カナダのバンクーバー経由で日本に向かった。

 1933.9.6日、ゾルゲが、ナチス党員でフランクフルト・ツァイツング紙の東京特派員という名目で、横浜に上陸した。東京麻布区永坂町30番地に居所を構え、日本における工作の第一歩を踏み出した。


【ゾルゲグループが連絡体制構築】

 10月初旬、アメリカ共産党員、画家の宮城与徳がロスアンゼルスから横浜に着いた。

 12月下旬、ヴーケリッチの仲立ちでゾルゲと宮城与徳が会談し、連絡体制を構築した。
 
 1934.2.11日、天津から大阪に戻った川合貞吉が、尾崎秀実と連絡を取り、至急組織の連絡体制の構築を要請。

 2月、ゾルゲと尾崎秀実が奈良の若草山で再会。本拠を日本に移したゾルゲと再会し、親密な関係に入った。次のように記されている。

 「ゾルゲ諜報団は、各国から送り込まれたコミンテルン・メンバーに加え、国際共産主義運動の実現に燃える日本人活動家たちによって構成された。中でもゾルゲが絶大の信頼を寄せた人物、当時朝日新聞記者であった尾崎秀実(ほつみ)は、近衛文麿首相の側近として日本政府の中枢まで潜り込み、決死の覚悟で次々と国家機密をゾルゲに通報していった。その中には日独防共協定、第2次上海事変、ノモンハン事件、そして、最高国家機密である御前会議の内容までが含まれていた。ゾルゲは、こうした情報に独自の分析を加えたものを、無線やソビエト大使館員を通じてモスクワのスターリンへ送り続け、やがて、日本の対ソ参戦回避と南方進出の提唱を謀るべく世界情勢を大きく塗り替えていく」。

【尾崎の政府中枢入り】
 その後、尾崎は、転勤工作で東京朝日新聞本社詰記者となる。東亜問題研究会の新設で東京本社に呼ばれ、中国問題の評論家として頭角を現わす。1936年末に突発した西安事件の本質をいち早くとらえたことで有名となる。この頃、尾崎は当時すでにすぐれたジャーナリストであり、中国問題の専門家として言論界に重きをなしていた。

 1937.4月、昭和研究会に加わり、風見章の知遇を得、翌年7月、朝日新聞社を退社、第1次近衛内閣の嘱託となり、近衛内閣の有能なブレーンとして首相官邸内にデスクをもち、秘書官室や書記官長室に自由に出入りしえたし、政界上層部の動向に直接ふれることのできる地位にあった。

 1939.1月、尾崎は朝日を止めて満鉄東京支社の調査室へ勤務するようになる。

 1940.7月の第2次近衛内閣の成立前後には、風見の依頼で国民再組織案を練るなど、国策に参与する機会をつかみ、36年以来本格化した諜報活動のなかで、高度の情報と正確な情報分析を提供して、ゾルゲらの日ソ間の戦争回避とソ連防衛のための活動を助けた。中国社会の全体的・動態的把握を試みて、中国の民族解放運動=抗日民族統一戦線の意義を解明した尾崎は、日本自体の再編成を必要と考え、東亜共同体論提起したが、ねらいは帝国主義戦争の停止と日中ソ提携の実現にあった。尾崎は第二次大戦での資本主義国家同士の相互破壊で革命の条件が熟すると信じた。その前提として、日中戦争の不拡大が当面の目標とされたのである。更に、共産化した中国と敗戦国日本との接近で日本を共産化し、東亜の新秩序を築くという「敗戦革命」を目指した風がある。そのために日米を開戦に導くよう軍部の「南進論」の理論武装として「南方諸国の民族解放」を唱えた形跡が認められる。

【軍部の動向に対する懸命な諜報活動】

 1939年、ドイツ軍のポーランド侵攻を契機に第2次世界大戦が勃発すると、ゾルゲはモスクワ発緊急指令として、独ソ戦に関する日本軍の動向を探る命を下される。重大指令を粛然と受け止めたゾルゲと尾崎は、あらゆるルートを駆使して日本の対ソ戦回避を画策する。その成果として、ヒットラーのソ連侵攻や日本の南進政策決定を事前にキャッチしてモスクワに打電している。

 
この情報価値は次のことにあった。当時ナチス・ドイツは、イギリスを除く全ヨーロッパを支配下に収め、その余勢を駆ってソ連へも侵略を開始していた。独ソ戦はドイツの優勢のままに推移し、ソ連はウラル山脈西部のほとんどの地域を失い、首都モスクワを脅かされつつあった。ドイツと日本はイタリアを含めた三国同盟を結び新参枢軸国として世界を席捲しつつあった。こうして、ソ連は、西でドイツ、東で日本との闘いに挟撃されることになった。ソ連指導部は、対ドイツ・日本との二正面作戦を避け、対ドイツ戦に的を絞る必要があった。

 元朝日新聞記者の白井久也氏の「未完のゾルゲ事件」(1994年)には次のように書かれている。

 「独ソ開戦で、ドイツの同盟国である日本は、どう動くか? モスクワから改めて日本の対ソ参戦決意を探れという指令が届いた。ゾルゲは、謀報団のメンバー全員に命令を発し、日本の最終意志決定の方向を全力をあげて探らせた。在京の各国大使館や海外から派遣された外国人のジャーナリストも、対ソ戦に引き込もうとするドイツの働きかけに対して、日本はどう反応するのか、必死の謀報活動を展開した」

 この戦略に当時の日本の陸海軍内部の対立が大きく関係していた。太平洋戦争の方針を巡って陸軍は「北方進出論」、海軍は「南方進出論」を主張していたが、これがどう決着するのか喉から手が出るほど知りたい情報であった。「北方進出論」とは、共産主義国ソ連との闘いを最優先せねばならないとする理論であり、「南方進出論」とは、資源小国の日本は多種多様な資源の供給路を確保するために南洋諸島へ進出すべしとする理論であったが、この問題に決断を下すため政府は御前会議を数次開催し、最終的に南方進出を決定した。

 「日本は南方進出を最終決定。日本にソ連攻撃の意図なし」。ゾルゲはこの情報を尾崎秀実から入手し、モスクワに向けて打電した。それは、超一級の情報だった。ウラル山脈に舞台を移した独ソ戦で、当時絶望的な戦いを強いられていたソ連はこの情報により、日本の侵略に備えて極東に配置していた兵力をウラル戦線に移動させることができた。やがて1942年、冬の訪れとともにソ連はウラル山脈の麓、スターリングラードでの激戦の末ドイツ軍を敗走させる。これが転機となり、独ソ戦の戦局は一気にソ連に傾き、第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの敗北を決定づけたとされている。

 ところで、スターリンのこの時のゾルゲ情報の活用については異説がある。「当面日本がソ連に進撃しないという報告」は1941.6.22日に始まったドイツの侵略への対抗策としてこれは戦略上最高級の情報であったが、この報告に対してスターリン指導部はその価値を見出し得なかった、とも云われている。「スターリンは日本の南進を知り、シベリア狙撃兵軍団を東送しモスクワ前面でヒトラーを阻止したとされるが不確かである。スターリンは実際には極東に大戦中40個師団を継続して配置していた。これは関東軍のいずれの時期をも上回る」と云う指摘もある。つまり、ゾルゲの情報は生かされなかったということになり、悲劇は計り知れない。

 迎えた1941.9月、御前会議において日本軍の南進策が決定し、任務の完遂に安堵するゾルゲと尾崎。そして、ようやく任を解かれようとした矢先の10月、期せずして二人は治安維持法違反ほかの罪で逮捕される。
開戦前夜ゆえに「国民の士気に影響する」との理由で逮捕の情報は秘匿され、数年経ってからようやく発表されるという秘密裏の事件となった。


【ゾルゲの対モスクワ打電の様子】
 検察側の調査によれば、本機関は、ソ連擁護のためにコミンテルンの手により日本国内に設置され、ソ連共産党中央委員会および赤軍第四本営に直属して日本の政治、外交、軍事、経済等の機密を探知し、これをソ連共産党最高指導部すなわちソ連政府最高指導部に提報していた秘密諜報集団であり、その主要な任務は、日本の対ソ攻撃からのソ連の防衛ないし日本の対ソ攻撃の阻止に役立つ諜報の探知蒐集であり、その中には、1933年末ゾルゲの渡日前にソ連首脳から与えられた一般的任務、35年ゾルゲが報告のため約20日間モスクワに滞在した際に上部から与えられた具体的任務、随時無電によって与えられた指令、および対日諜報機関設置後日本国内に発生した重要事件にもとづいて本機関みずから課した任務があった。蒐集した情報を無選択にモスクワに通報したものではなく、豊富適確な資料を集め、これを総合判断して一定の結論を出しそれに意見を付して報告していた。

 「sub525 ゾルゲ事件(尾崎秀実獄中手記)」は次のように記している。
 「蒐集した主要な情報は34.7月から41.10月まで100項以上(約400件)にわたり、これを無電または伝書使による写真フィルムの手交によっておこなっていたという。無電による発信回数(および語数)は39年50回(約2万3千語)、40年60回(約2万9千語)、41年21回(約1万3千語)にのぼったが、東京の上空をとびかうこれら暗号文の電報は検挙にいたるまで日本の官憲はついに本体をつきとめることができなかった。

 日本における活動期間は1933年から41年まで約8年にわたっているが、グループが強力な組織となって機能が発揮できるようになったのは36年の秋ごろからであった。組織のメンバーはすべてどこの国の共産党員でもなく、また諜報活動以外、政治的性質をもった宣伝や組織機能に従事することは固く禁じられており、どんな個人や団体にもけっして政治的な働きかけをしないという方針は忠実に守られたが、ただ一つの例外は、近衛グループの中で対ソ平和政策をとらせるように努力した尾崎の積極的な行動であった。検察側が事実に反してゾルゲらをコミンテルン本部の指令にもとづく諜略組織ときめつけたのは、赤軍やソ連を治安維持法にいう結社とすることができないためであったといわれる。事件後、オットーは42年にドイツ大使の地位を失い、北京に去った。

【特高によるゾルゲ一派逮捕】

 (「ウィキペディア・ゾルゲ事件」その他参照)

 関係者の検挙は1941.9.27−28日、警視庁特高第1課と外事課の共同による和歌山県下での北林トモ夫妻の検挙にはじまり(伊藤律によるといわれる密告であったと云われているが、伊藤律落とし込めの謀略の可能性が高い)、10.10日、宮城与徳。この際に行われた家宅捜査で数多くの証拠品が見つかっている。10.13日、秋山幸治と九津見房子。宮城は取調べの際に自殺を図るが失敗し、以後は陳述を始め、尾崎秀実やリヒャルト・ゾルゲなどがスパイであることが判明した。在日ロシア人のアレクサンドル・モギレフスキー(ヴァイオリニスト)、同じくレオ・シロタ(ピアニスト)、その娘ベアテ・シロタ・ゴードン(のちの日本国憲法の起草者の一人)、クラウス・プリングスハイム(指揮者)の次男クラウス・フーベルト・プリングスハイム、関屋敏子(声楽家)などの音楽関係者もスパイ容疑をかけられた

 捜査対象が国際的になることが判明した時点で、警視庁特高部では特高第1課に加え外事課が捜査に投入された。尾崎とゾルゲらの外国人容疑者を同時に検挙しなければ外国人容疑者の国外逃亡や大使館への避難、あるいは自殺などが予想されるため、警視庁は一斉検挙の承認を検事に求めた。しかし、大審院検事局が日独の外交関係を考慮し、まず尾崎の検挙により確信を得てから外国人容疑者を検挙すべきであるとして警視庁の主張を認めなかった。このため尾崎の検挙を先行して行った。

 10.15日、尾崎。10.17日、水野成。10.18日、外事課が検挙班を分けてゾルゲ、ブランコ・ド・ヴーケリッチ、マックス・クラウゼンの外国人3名の容疑者を同時に検挙した。この際、クラウゼン宅からは証拠として無線機が発見されている。10.22日、川合貞吉が検挙されている。翌1942(昭和17)年、3.15日、
尾崎の同僚であった朝日新聞東京本社政治経済部長・田中慎次郎、4.28日、同部員・磯野清が検挙された。1942.4.28日までに合計35名(うち外国人4名、女性は6名)が検挙投獄された。この時、ゾルゲは同盟国ドイツの駐日大使オットー(陸軍武官)の私設秘書で、元朝日新聞記者の尾崎秀実は時の近衛文麿首相のブレーンとして日中戦争に関与していた。

 グループの逮捕後、尾崎の友人で衆議院議員4回当選・総理大臣秘書官、且つ汪兆銘・南京国民政府の顧問も勤める犬養健、同じく友人で近衛文麿内閣嘱託であった西園寺公一、ゾルゲの記者仲間でヴーケリッチのアヴァス通信社の同僚であったフランス人特派員のロベール・ギランなど、数百人の関係者も参考人として取調べを受けた。但し、ゾルゲが当時の同盟国であるドイツ人であり、しかもオイゲン・オット大使と親しいことや、前年にイギリスのスパイの疑惑で逮捕されたイギリスのロイター通信社の特派員のM・J・コックスが、特高による取調べ中に飛び降り自殺したこともあり、特に外国人に対する取調べは慎重に行われたという。

 ゾルゲの個人的な友人であり、ゾルゲにドイツ大使館付の私設情報官という地位まで与えていたオット大使は、ゾルゲが逮捕された直後から、友邦国民に対する不当逮捕だとして様々な外交ルートを使ってゾルゲを釈放するよう日本政府に対して強く求めていた。しかし、間もなく特別面会を許されたオットは、ゾルゲ本人からソ連のスパイであることを聞き知らされている。これを受けてオット大使はヨアヒム・フォン・リッベントロップ外務大臣に辞表を提出したが拒否された。さらにその後1941年12月に日本がイギリスやアメリカなどの連合国と開戦し、ドイツもアメリカとの間に開戦したこともあり、繁忙の中で大使職に留まり続け、ようやく1942年11月になりフォン・リッベントロップ外務大臣より駐日大使を解任された、その後南京国民政府の北京へと家族とともに向かい、そこで終戦までの間を暮らした。

 内務省警保局によれば、このうち「諜報機関員」17名、「情を知らざる者」18名であった。ゾルゲの訊問調書によれば、彼の直接の協力者は尾崎・宮城・ヴケリッチ、しばらくのあいだギュンター・シュタイン(積極的同調者)、技師としてクラウゼンだけであったという。「諜報機関員」17名の氏名、年令、職業、検挙年月日は左の通りである。
年令 職  業

検挙年月日

北林 とも      57 洋裁業  41.9.28
宮城 与徳 40 洋画家   41.10.10
秋山 幸治 53 無職 41.10.13
九津見房子 53 会社員 41.10.13
尾崎 秀実  42 満鉄調査部嘱託 41.10.15
水野  成 33 坂本記念会支那百科辞典編集員 41.10.17
リヒアルト・ゾルゲ  48  フランクフルター・ツアイトング日本特派員 41.10.18
マックス・クラウゼン 44 通信技師・螢光複写機製造業  41.10.18
ブランコ・ド・ヴケリッチ 38 フランスの通信社「アヴァス通信社」の通信補助員 41.10.18
川合 貞吉  42 中共党員会社員(大日本再生製紙) 41.10.22
田口右源太 40 ロープ原料商   41.10.29
アンナ・クラウゼン 43 無職(マックス・クラウゼンの妻) 41.11.19
山名 正美 41 会社員(東亜澱粉) 41.12.15
船越 寿雄  41 支那問題研究所長 42.1.4
河村 好雄 33 満州日日新聞上海支局長 42.3.31
小代 好信  34 会社員(博道社洋紙店)  42.4.11
安田徳太郎 45 開業医、医学博士 42.6.8

 なおこの事件に関連して、1942.6月、上海において「中国共産党諜報団事件」として中西功、西里竜夫ら10名(うち中国人3名)が検挙された。

 但し、事件は開戦前夜ゆえに「国民の士気に影響する」との理由で逮捕の情報は秘匿され、数年経ってからようやく発表されることになる。






(私論.私見)