取調べの様子と判決文、その後

 (最新見直し2014.8.25日)

【「国際諜報団事件」として発表される】
 ゾルゲらは「国際諜報団」として国防保安法、軍機保護法、軍用資源秘密保護法、治安維持法違反などにより起訴され、事件の取調べは1941.5月に予審に移されている。

 1942.6月司法省は、「国際諜報団事件」の取調べが一段階し、その中心分子たるリヒアルト・ゾルゲ〔ドイツ人、ソ連国籍〕、ブランコ・ド・ヴーケリッチ 〔ユーゴスラヴィヤ人〕、宮城与徳、尾崎秀実、マックス・クラウゼン〔ドイツ人〕ら5名にたいし、国防保安法・治安維持法・軍機保護法各違反等の罪名で予審請求の手続きをとったことを発表した。これが「ゾルゲ」事件について公表された最初のものであった。

 この時次のように罪状が述べられている。「本諜報団はコミンテルン本部より赤色諜報組織を確立すべき旨の指令を受け、昭和8年秋我国に派遣せられたるリヒアルト・ゾルゲが、当時既にコミンテルンより同様の指令を受け来朝策動中なりしブランコ・ド・ヴーケリッチ等を糾合結成し、爾後順次宮城与徳、尾崎秀実、マックス・クラウゼン等をその中心分子に獲得加入せしめ、その機構を強化確立したる内外人共産主義者より成る秘密諜報団体にして十数名の内外人を使用し結成以来検挙に至るまで長年月に亘り、合法を擬装し巧妙なる手段により、我国情に関する秘密事項を含む多数の情報を入手し、通信連絡その他の方法によりこれを提報したるもの」。

 被検挙者の中に当時著名なジャーナリスト・中国問題の専門研究者であり近衛文麿の側近の一人であった尾崎秀実、衆議院議員四回当選・総理大臣秘書官・汪政府顧問等の経歴をもつ犬養健、外務省および内閣嘱託の西園寺公一、「盟邦」ドイツの大使館内に重要な地位をえていたゾルゲその他のドイツ人などがふくまれていたことから、この事件の発表は支配層内にも大きな衝撃を与えるものであった。


 1審は1943年9月から翌44年3月にかけて東京刑事地方裁判所第九部で行われ(裁判長判事 - 高田正、判事 - 樋口勝満田文彦)、以下の判決が下された。ゾルゲ・尾崎ら被告の大部分は大審院上告したが、全て棄却され刑が確定した


【被告らへの極刑迅速裁判の様子】

 ゾルゲと尾崎の予審は1942.12月に終わり、翌1943.5月末に東京地裁の法廷で第1回公判が公開禁止ではじまった。弁護にあたったのは官選弁護人1名だけであった。尾崎の公判は超スピードで進められ、ひらかれた公判はわずか7回にすぎなかった。9月には別掲のような判決が下された(小代以下の判決はそれぞれ数ヵ月おくれた。宮城と河村は審理中に獄死した)。ゾルゲ、尾崎、クラウゼン、ヴケリッチの4名は国防保安法・軍機保護法・軍用資源秘密保護法・治安維持法違反であり、その他の者はこれらのうち1つないし3法の違反として処罰された。

 獄中から妻子に宛てた書簡を集録した「愛情は降る星の如く」は敗戦直後ベストセラーになったものの、冷戦状況などもあって真相究明は遅れたが、今日では「尾崎秀実著作集」5巻(77年)、「現代資料・ゾルゲ事件」4巻(62〜71年)などの刊行により、尾崎の優れた人間像や、その歴史的位置づけも明らかにされつつある。

 これはれんだいこならでは気づくことであるように思えるが、この直前に例の宮顕らによる「小畑中央委員リンチ致死事件」の公判が行われているが、この裁判の漫然悠長なる進行に較べて何と迅速強引に進められていったことであろうか。ちなみに、宮顕の最初の公判は、他の被告人達の一審判決を見届けた後の1940(昭和15)4.18日から7.20日までの6回開かれている。この公判を6回終えたところで宮顕の病状が悪化したとされており、公判は中断された。奇妙なことに、この時の宮顕の陳述は一向に実質審議をせぬまま周辺的な一般論を述べるに終始しており、いよいよ「リンチ事件」の実質審議に入らざるを得ないというところで中断している。

 他の被告達は、1942(昭和17).7.18日に東京控訴院第二刑事部で第二審判決がなされ、同年12月上告棄却で刑が確定しそのまま下獄した。宮顕の公判再開は、偶然かどうか他の被告人達の確定判決を見届けるかの如く刑が確定した後の、秋笹獄死後の1944(昭和19).6.13日から11.30日にかけて15回開かれている。奇妙なことに、訊問調書一つ取らせなかった宮顕が、当事者全員の刑確定後で誰とも競合する事無く、15回にわたってとうとうと正義の単独弁明が許容されている。同年11.25日結審、12.5日東京刑事地方裁判所第6部で第一審判決。無期懲役を宣告された。翌1945(昭和20).5.4日大審院で上告棄却、無期懲役刑が確定し、6.17日網走刑務所に服役した。獄中11年10ヶ月となったが、麹町署、市ヶ谷刑務所を経て10年6ヶ月を巣鴨拘置所で未決囚として過ごし、最後の4ヶ月間を網走刑務所で過ごしている。


【判決文の法理論考】
 「日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動、第四編 治安維持法と政治運動、第四章 ゾルゲ事件」を参照する。

 この時の判決も法理論的には粗雑で、何としてでも処刑せんとして無理な解釈を通している。というのは、ゾルゲは赤軍第4本部に所属しその指令を受けていたのであり、この組織がコミンテルンの指令にもとづく諜報組織であってコミンテルンの目的遂行に協力する意図で活動したとして処断することは事実に反していた。なぜ「コミンテルンの指令」を持ち出したかというと、治安維持法で処罰の対象とする「国体を変革することを目的」とする結社というのは、日本共産党やコミンテルンについてはいえるにしても、ソ連や赤軍をもそのような結社と見ることはややオーバーラン的な解釈になる怖れがあったからである。

 これを、戦時下における法の過大な類推解釈で押し切り、治維法違反及び国防保安法・軍機保護法・軍用資源秘密保護法という4刑で、彼らを「利敵行為」として処断することになった。

 それにしても疑問は尽きない。適用された国防保安法(1941.5月施行)・軍機保護法(1937年および1941年改正)・軍用資源秘密保護法(1939年施行)・治安維持法(1941.3月改正)などの法律の該当項目は、ほとんど1937年以降に改正・追加されたものであるのに、たとえばゾルゲの犯罪事実には1930年以来の諸件がふくまれており、本来罪を問うことが困難であった。

 これをどう解決したかというと、概要「これら法律施行前の行為も、施行の後に為されたる爾余の所為とは、それぞれ包轄一罪の関係にあるを以って、各その所為の全部につき改正法を適用する」 (判決文)とした。

 これは、1941年の治維法改正にあたって、罰則の適用を犯罪時法によらず、判決時法によることを付則第2項で規定したことによるものであり、法施行以前の行為が法施行後の犯行と包轄一罪として処理されたことは、罪刑法定主義の原則が無視されていたことを示すものである。
(私論.私見)「掲示板『左往来人生学院』のLucius氏の2004.5.12日付投稿『ゾルゲ事件について』」考
 れんだいこの上記解釈につき、Lucius氏は、「左往来人生学院」への2004.5.12日付投稿「ゾルゲ事件について」で次のように指摘された。
28.ゾルゲ事件について。 Lucius 2004/05/12
 はじめまして。3990は投稿ミスです、すみません。ゾルゲ事件の「取調べの様子と判決文、その後」のページ、【判決文の法理論考】という項目についての指摘です。

 daitoasenso/what_kyosantosoritu_zorugegiken_sonogo.htm

 まず、法改正前の行為に改正法を適用する根拠を、「1941年の治維法改正にあたって、罰則の適用を犯罪時法によらず、判決時法によることを付則第2項で規定したことによるものであ」るとされていますが、これは誤りです。地裁の判決文には「被告人の上記所為中昭和十六年五月十四日迄の分は孰れも右改正に係る治安維持法施行前の犯行なれども、之と同改正法施行の後に為されたる爾余の所為とは夫々包括一罪の関係に在るを以って、右改正法附則第二項の適用を俟つ迄もなく各其の所為の全部に付同改正法を適用すべきものとす」とあり、附則第二項の適用はない旨が明示されています。

 #判決文の引用は、小野俊人他編『現代史資料1 ゾルゲ事件1』(みすず書房)からです。

 また、単一意思の発動に基づき同種の行為を継続したため包括一罪を組成するときは、途中で刑の変更があっても、行為全部に新法を適用するのが明治以来の判例(大判明治43年11月24日・刑録16巻2118頁)で、この判例は日本国憲法下の現在でも通用しているので、この事件での包括一罪の処理を根拠に「罪刑法定主義の原則が無視されていたことを示すもの」と主張するのは難しいと思われます。

 おそらく、法政大学大原社研のページから引用されたのだと思いますが、このページの「施行の後に為されたる爾余の所為とは、それぞれ包轄一罪の関係にあるを以って……各その所為の全部につき改正法を適用」という判決文の引用中、まさに「……」の部分が「右改正法附則第二項の適用を俟つ迄もなく」であり、直後の理由づけと矛盾する記述を省略している点で、あまり誠実ではないように感じるというのが正直なところです。

 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-169.html

 以上、ご参考まで。

 これに対し、れんだいこは次のように応答した。
Re:28.ゾルゲ事件について。 れんだいこ 2004/05/12
 Luciusさんちわぁ。ご指摘有難うございます。久しぶりに読み直しまして少々書き換えいたしました。このようにして整備されていくのがれんだいこの理想です。今後とも何かとよろしくお願い申し上げます。以下。れんだいこの検討結果です。

 つまり、判決では「附則第二項の適用はない旨」が明示されているのに、「附則第二項の適用」とみなした上で「罪刑法定主義の原則無視」批判するのは変調ではないかと指摘を受けたことになる。

 これを補足して次のように述べられている。「単一意思の発動に基づき同種の行為を継続したため包括一罪を組成するときは、途中で刑の変更があっても、行為全部に新法を適用するのが明治以来の判例(大判明治43.11.24日・刑録16巻2118頁)で、この判例は日本国憲法下の現在でも通用しているので、この事件での包括一罪の処理を根拠に『罪刑法定主義の原則が無視されていたことを示すもの』と主張するのは難しいと思われます。

 おそらく、法政大学大原社研のページから引用されたのだと思いますが、このページの『施行の後に為されたる爾余の所為とは、それぞれ包轄一罪の関係にあるを以って……各その所為の全部につき改正法を適用』という判決文の引用中、まさに『……』の部分が『右改正法附則第二項の適用を俟つ迄もなく』であり、直後の理由づけと矛盾する記述を省略している点で、あまり誠実ではないように感じるというのが正直なところです」(以上)。

 れんだいこが読み取るのに、「単一意思の発動に基づき同種の行為を継続したため包括一罪を組成するときは」との但し書き付きであるが、「途中で刑の変更があっても、行為全部に新法を適用するのが明治以来の判例で、この判例は日本国憲法下の現在でも通用している」との理解にこれまた疑問無しとしない。

 日本国憲法第39条には「何人も、実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない」とのいわゆる「遡及処罰の禁止(不遡及の原則)・二重処罰の禁止」規定が設けられており、本来これが近代刑法の到達点であるように思われる。

 このことを「罪刑法定主義の原則」と言い換えていると解することができる。「この判例は日本国憲法下の現在でも通用している」とすれば、それは悪習であり、「附則第二項の適用精神の残存」と考えるべきではなかろうか。

 判決文を理解するのに、改正法附則第二項の適用を「俟つ迄もなく」というのは、改正法附則第二項の非適用を意味しているのではなく、そう解釈するのは字面的理解であって、概容「法改正前の行為と改正後の行為との間の包括一罪関係論」でもって実質的に「改正法附則第二項の適用」しているのでは無かろうか。

 いわば両者は建前と本音の間柄で、建前の言辞に拘る必要は無いと考える。結局「改正法付則第二項」処理されており、これは「罪刑法定主義(近代刑法)の原則無視」であり、「改正法付則第二項」が直接的であれ間接話法的であれこういう形で適用され猛威をふるったことを示している、と解すべきように思う。

 これに対し、Luciusが次のように応答した。
Re:28.ゾルゲ事件について。 Lucius 2004/05/14
 こんばんは、レスありがとうございます。れんだいこさんの解釈を拝読しましたが、改正法附則第二項の趣旨、及び包括一罪という処理の性質について、理解に相違があるようなので、その点につき再度投稿させていただきます。

 まず、昭和16年に改正された治安維持法の附則第二項は「第一章ノ改正規定ハ本法施行前従前ノ規定ニ定メタル罪ヲ犯シタル者ニ亦之ヲ適用ス」と規定しています。引用元の著者はこれを遡及処罰を定めたものだと理解しているようですが、第二項には但書があり「但シ改正規定ニ定ムル刑ガ従前ノ規定ニ定メタル刑ヨリ重キトキハ従前ノ規定ニ定メタル刑ニ依リ処断ス」と規定されています。

 この規定は、旧法が廃止されたとしても、改正前の旧法下で罪を犯した者については、引き続き旧法の刑の範囲で処罰する旨の経過規定です。旧法下で罪を犯した者について、新法で加重された刑を科すことは、他ならぬ附則第二項但書の規定によって不可能なのです。いったいどのように考えれば、この規定が遡及処罰を可能にするための規定だと読めるのでしょうか。

 引用元の著者が、但書を読み落とす誤読をしたのか、それとも誰かが誤読して書いたものを、確認もせず漫然と引用したのかは知りませんが、判決文の理解以前に附則第二項の趣旨を全く誤解しているもので、論外といっていいでしょう。


 次に、包括一罪についてですが、これは別に特殊な罪数処理ではありません。たとえば、会社の経理担当社員が、会社の金銭を十回にわたって持ち出して費消した場合、十回の横領行為があるから十個の業務上横領罪が成立すると解するのではなく、包括して一個の横領行為と評価し、一個の業務上横領罪が成立すると解するというのが典型例です。

 当然のことですが、一罪を犯した者と数罪を犯した者とでは、後者の方が刑が重くなります(併合罪の規定が適用され、刑の上限が五割増しになる)。また、包括一罪に含まれる行為が裁判後新たに発覚したとしても、原則として別に処罰することはできません。

 このように、包括一罪という処理は基本的に被告人の利益のためにあるもので、評価上分離するのが不適切なために一罪とされるのです。この理は、包括一罪の途中に刑を加重する法改正があった場合でも変わりません。もし改正前後に犯罪が分断されるとすれば、旧法下の行為と新法下の行為についてそれぞれ犯罪が成立し、併合罪の規定によって、重い新法の刑をさらに五割増しした刑で処断されることになります。

 法改正という偶然の事情によってそのような不利益を受けるいわれはありませんから、改正前後にまたがる包括一罪であっても分断されないとする判断は妥当なものです。ゾルゲ事件の治安維持法違反の罪についても、単一意思の発動による同種行為の継続であり、一罪として処断すべきだとする判断に誤りがあるとは言えません。


 また、旧法下の行為については遡及処罰にあたるのではないかとの疑問についてですが、もともと包括一罪に含まれる行為はそれぞれ単独でも犯罪が成立するところ、新法施行後にも新法下の犯罪を実行している以上、新法の規定を適用すること自体が直ちに遡及処罰にあたるとは言えないでしょう。

 もちろん、行為の一部が刑の軽い旧法下で行われたという点は、量刑上斟酌すべきだとは思いますが、だからといって包括一罪について新法の適用が全て排除され、全体について旧法を適用すべきだとまで言うのは行き過ぎです。


 以上の理解を元に、れんだいこさんの解釈を検討します。

>  このことを「罪刑法定主義の原則」と言い換えていると解することができる。「この判例は日本国憲法下の現在でも通用している」とすれば、それは悪習であり、「附則第二項の適用精神の残存」と考えるべきではなかろうか。

 「附則第二項の適用精神」なるものは誤読による幻覚であり、当該判例が罪刑法定主義に違反すると断じることもできないのは、前述した通りです。

>  判決文を理解するのに、改正法附則第二項の適用を「俟つ迄もなく」というのは、改正法附則第二項の非適用を意味しているのではなく、そう解釈するのは字面的理解であって、概容「法改正前の行為と改正後の行為との間の包括一罪関係論」でもって実質的に「改正法附則第二項の適用」しているのでは無かろうか。

>  いわば両者は建前と本音の間柄で、建前の言辞に拘る必要は無いと考える。結局「改正法付則第二項」処理されており、これは「罪刑法定主義(近代刑法)の原則無視」であり、「改正法付則第二項」が直接的であれ間接話法的であれこういう形で適用され猛威をふるったことを示している、と解すべきように思う。

 判決文が附則第二項の適用がない旨を明示しているのは、本事案の治安維持法違反の各所為は包括一罪として評価すべきであり、数罪として旧法下の行為について個別に処断することはしない以上、経過規定である附則第二項を適用する必要はないという文字通りの意味です。

 「改正法附則第二項は遡及処罰を定めた規定である」「包括一罪について全て新法を適用するのは遡及処罰である」などの理解を前提として判決文をそのように曲解するのは、それこそ字面的理解に基づく邪推だと私には思われます。

#私が批判しているのは、この判決の法理論を罪刑法定主義違反と断定している点、及び
#これをもって「戦時下において罪刑法定主義の原則が無視されていたことを示すもので
#ある」とする根拠としている点です。治安維持法を擁護する意図もなければ、戦時下の
#司法当局を擁護する意図もありません。誤解のないよう、念のため。

 これに対し、れんだいこは次のように応答した。
Re:28.ゾルゲ事件について。 れんだいこ 2004/05/15
 Luciusさんちわぁ。

 このたびの投稿で、「昭和16年に改正された治安維持法の附則第二項」が、「第一章ノ改正規定ハ本法施行前従前ノ規定ニ定メタル罪ヲ犯シタル者ニ亦之ヲ適用ス」、「但シ改正規定ニ定ムル刑ガ従前ノ規定ニ定メタル刑ヨリ重キトキハ従前ノ規定ニ定メタル刑ニ依リ処断ス」と規定されていることを知りました。

 「附則第二項」の条文内容につき具体的に教えていただき感謝します。れんだいこの従前見解はこの具体的内容を知らぬままのそれです。但し書きによれば、実質的には不遡及的対応を指示している「良心」的規定のようです。この但し書きがどう生かされるのかがポイントになると思います。

>  この規定は、旧法が廃止されたとしても、改正前の旧法下で罪を犯した者については、引き続き旧法の刑の範囲で処罰する旨の経過規定です。旧法下で罪を犯した者について、新法で加重された刑を科すことは、他ならぬ附則第二項但書の規定によって不可能なのです。いったいどのように考えれば、この規定が遡及処罰を可能にするための規定だと読めるのでしょうか。

 了解です。

>  引用元の著者が、但書を読み落とす誤読をしたのか、それとも誰かが誤読して書いたものを、確認もせず漫然と引用したのかは知りませんが、判決文の理解以前に附則第二項の趣旨を全く誤解しているもので、論外といっていいでしょう。

 ということになりますね。弁護余地を残すとすれば、「附則第二項」が実際にどのように機能したのかという観点から、「遡及処罰を可能にするための規定」とみなしたのかも知れません。

 とはいえ、そのように解釈するのなら、「附則第二項」の条文を開示した上でそう説明しないと不親切ですね。れんだいこ的見解が生まれることにもなります。

>  このように、包括一罪という処理は基本的に被告人の利益のためにあるもので、評価上分離するのが不適切なために一罪とされるのです。この理は、包括一罪の途中に刑を加重する法改正があった場合でも変わりません。もし改正前後に犯罪が分断されるとすれば、旧法下の行為と新法下の行為についてそれぞれ犯罪が成立し、併合罪の規定によって、重い新法の刑をさらに五割増しした刑で処断されることになります。

>  法改正という偶然の事情によってそのような不利益を受けるいわれはありませんから、改正前後にまたがる包括一罪であっても分断されないとする判断は妥当なものです。ゾルゲ事件の治安維持法違反の罪についても、単一意思の発動による同種行為の継続であり、一罪として処断すべきだとする判断に誤りがあるとは言えません。

 こういう混み入ったところになるとれんだいこは教えてもらうばかりです。

> また、旧法下の行為については遡及処罰にあたるのではないかとの疑問についてですが、もともと包括一罪に含まれる行為はそれぞれ単独でも犯罪が成立するところ、新法施行後にも新法下の犯罪を実行している以上、新法の規定を適用すること自体が直ちに遡及処罰にあたるとは言えないでしょう。

 刑の重きに向けて適用されないのなら、おっしゃるように「新法の規定を適用すること自体が直ちに遡及処罰にあたるとは言えない」ということになると思います。

>  もちろん、行為の一部が刑の軽い旧法下で行われたという点は、量刑上斟酌すべきだとは思いますが、だからといって包括一罪について新法の適用が全て排除され、全体について旧法を適用すべきだとまで言うのは行き過ぎです。

 ここはどうでせうか。新法処罰は新法後のものに適用され、旧法時代のものは旧法に基づいて判断されるべしとした方がすっきりすると思います。秩序的にはそうあるべきではないかなと考えます。本件の場合、「附則第二項但し書き」があるからよいようなものの。

>  以上の理解を元に、れんだいこさんの解釈を検討します。

> >  このことを「罪刑法定主義の原則」と言い換えていると解することができる。「この判例は日本国憲法下の現在でも通用している」とすれば、それは悪習であり、「附則第二項の適用精神の残存」と考えるべきではなかろうか。

>  「附則第二項の適用精神」なるものは誤読による幻覚であり、当該判例が罪刑法定主義に違反すると断じることもできないのは、前述した通りです。

 了解です。

>  判決文が附則第二項の適用がない旨を明示しているのは、本事案の治安維持法違反の各所為は包括一罪として評価すべきであり、数罪として旧法下の行為について個別に処断することはしない以上、経過規定である附則第二項を適用する必要はないという文字通りの意味です。

>  「改正法附則第二項は遡及処罰を定めた規定である」「包括一罪について全て新法を適用するのは遡及処罰である」などの理解を前提として判決文をそのように曲解するのは、それこそ字面的理解に基づく邪推だと私には思われます。

 Luciusさんのご指摘の趣旨は分かりました。れんだいこもこの観点から理解し直すようにしたいと思います。

 ただそうすると次の疑問が湧いて参ります。判決文が「夫々包括一罪の関係に在るを以って、右改正法附則第二項の適用を俟つ迄もなく各其の所為の全部に付同改正法を適用すべきものとす」なる文面は、せっかくの「附則第二項但し書き」の「良心」的規定を無視する為に編み出された論理ということになりますまいか。

 れんだいこの理解の限界に近づいており自信がなくなりますが、結局やはり昭和16年の改正治安維持法によって旧法下の被告の処罰に重罰化の影響があったのか無かったのかの精査研究が要るということになるのではないかと思われますがいかがでせうか。

> #私が批判しているのは、この判決の法理論を罪刑法定主義違反と断定している点、及びこれをもって「戦時下において罪刑法定主義の原則が無視されていたことを示すものである」とする根拠としている点です。治安維持法を擁護する意図もなければ、戦時下の司法当局を擁護する意図もありません。誤解のないよう、念のため。

 これは承知しております。世の中万事、論理には整合性が要る。蛇足ですが、人間の脳の仕組みがそれを要求しているのだと思います。これなしでは思考のみならず行動が機能し得ない。当然、支配当局とて例外なくこれに縛られております。

 このれレールをはみ出してなんら違和感を覚えず「神学論争は無意味」なる論で居直ることができる者がいるとすれば、正真正銘の暴力魔ではないでせうか。

 Luciusさんのご指摘の緻密性は、この場合は治安維持法の、論理の整合性を確認しようとしているのだと思います。これを認識せずに徒な批判を為して済ますことは有害無益というご指摘ではないかと受け取らせていただいております。

 2004.5.15日 れんだいこ拝

4005 返信 遅くなりましたが…… Lucius 2004/05/20 08:14
to れんだいこさん

 レスありがとうございました。

>  ということになりますね。弁護余地を残すとすれば、「附則第二項」が実際にどのように機能したのかという観点から、「遡及処罰を可能にするための規定」とみなしたのかも知れません。

 そうですね。たとえば極端な話、治安維持法違反の行為を旧法下で100回、新法下で1回犯した者について、包括一罪で新法を適用した上、重くなった法定刑の上限で処断したりすれば、実質的な遡及処罰であり量刑不当の非難を免れません。それに近いような事案が当時多かったのであれば、附則第二項は骨抜きであり、遡及処罰が横行していたと言えるかもしれません。

>  ここはどうでせうか。新法処罰は新法後のものに適用され、旧法時代のものは旧法に基づいて判断されるべしとした方がすっきりすると思います。

 アメリカのように、成立する各犯罪ごとに量刑を決めて合算する併科主義を取っていれば、そうするのが一番合理的だと思います。しかし、日本の刑法では一番重い罪の刑だけを科し、他の罪については、一番重い罪の罪の刑の上限を増やすことでまかなう加重主義を採用しているので、分けてしまうと逆に刑が一番重くなってしまうのです。

 仮に単純化して、一連の行為について旧法が7年以下の懲役、新法が10年以下の懲役としているとした場合、包括一罪で新法適用(ゾルゲ事件と同じ)とすると、処断刑は10年以下の懲役です。ところが、一連の行為を二つに分けて旧法下の行為について附則第二項を適用すると、旧法下の行為は7年以下の懲役、新法下の行為は10年以下の懲役となり、重い後者を選択して上限を5割増しした、15年以下の懲役で処断されることになります。

#「併合罪のうちの二個以上の罪について有期の懲役又は禁錮に処するときは、その最も重い罪について定めた刑の長期にその二分の一を加えたものを長期とする。ただし、それぞれの罪について定めた刑の長期の合計を超えることはできない。」(刑法47条)

 というわけで、「包括一罪にしない」というのが一番被告人に不利益になってしまうので、この処理そのものについては特に疑問はないというのが私の立場です。

 残るのは、包括一罪として処理することを前提とした上で、全体に新法を適用する(10年以下の懲役)よりも、全体に旧法を適用する(7年以下の懲役)方が、附則第二項の趣旨に適合するのではないかという指摘です。

 新法適用とする立場は、最初に書いたように新法下に1回でもかかれば、実質的な遡及処罰を可能にするという欠点があります。逆に旧法適用とする立場は、旧法下に1回でもかかれば、その後新法下で100回繰り返しても、旧法の刑でしか処断できなくなるという欠点があります。

 旧法適用とする立場の方が人権保護という観点からは優れているとは思うのですが、たとえば、麻薬犯罪(外国からの輸入)の罰則強化の場合などを考えてみると、一概に包括一罪に新法を適用する立場を非難するのも難しいなというのが私の実感です。

#刑が(旧法下から継続して犯行)<(新法下で犯行)というのはどうも、と。

>  れんだいこの理解の限界に近づいており自信がなくなりますが、結局やはり昭和16年の改正治安維持法によって旧法下の被告の処罰に重罰化の影響があったのか無かったのかの精査研究が要るということになるのではないかと思われますがいかがでせうか。

 一番最初に書いた通り、法改正をまたいだ犯行を認定された被告について、量刑がどうなっていたかを精査する必要はあるでしょうね。見渡してみれば、一気に重罰化したような印象があるのかもしれません。

>  Luciusさんのご指摘の緻密性は、この場合は治安維持法の、論理の整合性を確認しようとしているのだと思います。これを認識せずに徒な批判を為して済ますことは有害無益というご指摘ではないかと受け取らせていただいております。

 ご理解いただき、ありがとうございます。お話で敵役を間抜けに描いても主人公が賢く見えるわけではないのと同様、誤解に基づいた批判は説得力を欠きますし、あまりに初歩的で故意と疑われるような誤解だと、他の主張についてまで疑わしく見えてしまいますから……大原社研のページはこの事件についてネット上で見られる一番詳しい資料だけに、特にもったいないと思うのです。

#そう思って大原社研にもメールを送ったのですが、未だ音沙汰なしです……(笑)

 最後になりましたが、前回の投稿では「邪推」「曲解」などと不穏当な表現を使ってしまい、失礼をいたしました。あらためて自分の投稿を読み返してみて、不快にさせてしまったのではないかと冷や汗をかいております。ご容赦いただければ、幸いです。ではでは。

【各被告へ下された罪刑】
 各被告に下された判決の罪刑は次の通りである。
リヒアルト・ゾルゲ    死刑     44.11.7日執行
尾崎 秀実        死刑     44.11.7日行
マックス・クラウゼン   無期懲役終身 45.10.9日釈放
ブランコ・ド・ヴケリッチ  終身    45.1.13日獄死(網走)
宮城 与徳        公訴棄却 43.8.2日獄死(巣鴨) 未決拘留中
河村 好雄        公訴棄却 42.12.15日獄死(巣鴨) 未決拘留中
小代 好信        懲役15年 45.10.8日釈放
田口右源太        懲役13年   45.10.6日釈放
水野 成         懲役13年  45.3.22日獄死(仙台)
山名 正美        懲役12年 45.10.7日釈放
船越 寿雄        懲役10年  45.2.27日獄死
川合 貞吉        懲役10年 45.10.10日釈放
久津見房子        懲役8年 45.10.8日釈放
秋山 幸治        懲役7年 45.10.10日釈放
北林 とも         懲役5年 45.2.9日釈放 釈放直後死亡
アンナ・クラウゼン    懲役3年 45.10.10日(?)釈放
安田徳太郎       懲役2年(執行猶予5年)
西園寺公一       懲役1年6ヵ月(執行猶予2年)
菊池 八郎       懲役2年 (釈放日不明)

 大審院に上告した者もすべて弁論なしに検事の意見を聴いただけで戦時刑事特別法第29条によりその理由なしとして上告棄却された。ゾルゲの場合は上告趣意書が法定期間におくれたため、1944.1月に上告棄却となり、尾崎は同年4月に上告棄却となっていずれも死刑が確定。

 3年後のロシア革命記念日に当たる1944.11.7日ゾルゲと尾崎は、巣鴨拘置所で絞首刑された。
「2人は日本の敗色が濃くなる中、昭和19年11月7日ソ連にとって記念すべきロシア革命の日に処刑台の露と消えた」とある。ちなみに、処刑された尾崎秀実は、日本ペンクラブ会長などを歴任した作家の故・尾崎秀樹(1999年死去)の異母兄にあたる。

 宮城与徳、船越寿雄、河村好雄は巣鴨拘置所で獄死。ヴーケリッチと水野(仙台刑務所)と船越は終戦の年に獄死し、北林は病気後仮出獄して、終戦直前に死亡。浜津良勝は終戦と同時に出獄したが、牢後の疲れでまもなく死亡。副島竜起の消息は不明。

 宮城には1965年1月19日、当時のソ連政府から大祖国戦争第二等勲章が授与される事が決定した(尾崎も同様に叙勲されている)が、当の宮城が1943年に獄死。遺族の消息も不明で、2010年1月にようやく姪の所在が確認されロシアから伝達された。ゾルゲ事件の取り調べを行った大橋秀雄(元警視庁警部補(当時))が保管していた調書、ノート、ゾルゲから大橋への書簡ほか数千点の資料が遺族から沖縄国際大学へ寄贈され、保管・公開される予定である。


【戦後における事件の見直し】

 敗戦後1945.10月になって、獄中の生存者8名は他の政治犯たちと一緒に釈放され、ながいあいだ国民の眼からとざされていた事件の内容がようやく明らかになりはじめた。ゾルゲ事件の関係資料は、旧特高関係者にとっては公職追放の理由になるのでほとんど焼却ないし秘匿された。

 「祖国を救うために命を賭けて行動した愛国者」尾崎秀美にたいしては一周忌につづいて追悼講演会が盛大に開催され、彼の獄中書簡集「愛情はふる星のごとく」はベストセラーともなって広範な読者を獲得した。


【「ウィロービー報告」の政治性】

 マッカーサー占領軍司令部はゾルゲ事件生存者に関心をむけ、その態度はしだいに保護から看視にかわった。1949.2月、アメリカ陸軍省は「極東における国際スパイ事件」なる極東軍司令部の報告書(ウィロービー報告)を発表し、「これは米国内のスパイ活動に注意せよと警告することを目的としたもので、共産主義に同情を示すアメリカ人を警告するよう」語ったが、その中にアグネス・スメドレーとギュンター・シュタインの名が挙げられたことから、社会的な物議をかもした。

 発表の10日あまり後、ロイヤル長官は、事件発表は一部広報部員の手違いであったと発表し、前年にできたゾルゲ事件真相究明会は閉鎖され、スメドレーにスパイの罪を負わすことは不正であり誤りであることが言明された。これにたいして、アメリカ下院の非米活動調査委員会は1951.5月、日本からの報告書に責任ある総司令部情報部長ウィロービー少将に喚問状を送り、また吉河光貞特審局長も非米活動委員会に出席してウィロービーとともに詳細な証言をおこなった。

 なお、アメリカ陸軍省のゾルゲ事件発表に関してアメリカの一新聞社説は次のように論じた――「帝国主義の日本政府が暴力とサギと惨虐によって大東亜共栄圏なるものをつくり上げようとしていた時に、この政府をスパイしようとする志願者が多数現われたとしてもそう不思議がるにはおよばない。かかる帝国主義の方向をたどりつつあった日本を神聖化しようとすることは、その結果がすでに証明しているように、日本にとっても悪いことである。スパイ活動の対象となった当時の日本政府のため涙を流すなど全く無益なことである」(ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン、1949.2.12)。


 以上の見解には故意か偶然かまでは分からないが重要な見落としがある。「ウィロービー報告」は、戦後の日共活動の指導部を形成していた徳球系指導部のbQの地位にあった伊藤律への政治的打撃が意図されていた。別章伊藤律とゾルゲ事件の接点考でこれに触れることにする。


【ゾルゲ事件見直しのその後】
 1964.9月には、ソ連の代表的な諸新聞が、「共産主義者にして諜報員、英雄であった同志リヒアルト・ゾルゲ」をしきりに紹介しはじめた。それはいわゆる「中ソ論争」の盛んだったさなかであり、スターリンの個人崇拝批判の強調と関連していた。

 9月下旬にはフランスの映画監督イブ・シャンピの映画「ゾルゲ博士、あなたは誰か?」(日本名では「真珠湾前夜」)がモスクワではなばなしく封切られた。

 11.6日、ソ連最高会議幹部会はゾルゲに「ソ連邦英雄」の称号を授与する布告を発表した。

 1965.1月には、ゾルゲに協力した三人にソ連邦勲章が授与され、ドイツ民主共和国に在住するマックス・クラウゼンには「赤い旗」勲章、アンナ・クラウゼンには「赤い星」勲章、ユーゴスラヴィヤ人ヴケリッチには「第一級愛国戦争」勲章が与えられた。またアンナ・クラウゼンにはドイツ民主婦人同盟名誉章が授与された。

 1998.11.7日半世紀余の時を経て、国際シンポジゥム「20世紀とゾルゲ事件」が東京(於:飯田橋・東京シニアワーク)で開催された。ゾルゲ事件に関して、“国際”と銘打ったシンポジゥムが開かれたのは、日本では初めてのことである。おそらく世界でも初めて。

 このシンポジゥムでは、ロシア側二人(日本共産党研究者ユーリー・ゲオルギエフ氏他)、日本側二人(トロツキー研究者・石堂清倫(いしどう・きよとも)氏他)、計四人のパネリストが報告を行なった。いずれの報告にも、ソ連崩壊後、ここ数年の間にロシアで開示が進んでいる公文書類から得られた新発掘情報が随所に盛り込まれた。「闇の男・野坂参三の百年」著者の小林峻一氏も参加。当日は約三百人の参加者で、会場は満席となった。年配の男性が多いなかで、女性や若い人の姿も見られた。

 シンポジゥムでは、「ゾルゲ病」という耳慣れない言葉が使われた。ゾルゲやゾルゲ事件というのは、ひとたび知ってしまうと、ますます知りたくなって深みにはまりこみ病みつきになってしまう麻薬のようなものだというのである。世紀も変わり目にさしかかっている今もなお、半世紀以上も昔の人物や事件がなぜそんなに人々を魅きつけるのであろうか?

 私見を一言でいえば、二十世紀の激動する歴史のダイナミズムを一身に集めて体現したようなゾルゲの苛酷な運命と、未だ解明されざる多くの謎にその理由があるのではないだろうか、とある(引用)


 渡部氏が「伊藤律端緒説」を覆す研究成果を発表したのは(自著「偽りの烙印」を除けば)この時が最初である。

 
2002年9月7日、講演会「激動の20世紀とゾルゲ事件〜いま明かされるゾルゲ事件の新事実」(於・文京区民センター)が開催される。




(私論.私見)