取調べの様子と判決文、その後 |
(最新見直し2014.8.25日)
【「国際諜報団事件」として発表される】 |
ゾルゲらは「国際諜報団」として国防保安法、軍機保護法、軍用資源秘密保護法、治安維持法違反などにより起訴され、事件の取調べは1941.5月に予審に移されている。 1942.6月司法省は、「国際諜報団事件」の取調べが一段階し、その中心分子たるリヒアルト・ゾルゲ〔ドイツ人、ソ連国籍〕、ブランコ・ド・ヴーケリッチ 〔ユーゴスラヴィヤ人〕、宮城与徳、尾崎秀実、マックス・クラウゼン〔ドイツ人〕ら5名にたいし、国防保安法・治安維持法・軍機保護法各違反等の罪名で予審請求の手続きをとったことを発表した。これが「ゾルゲ」事件について公表された最初のものであった。 この時次のように罪状が述べられている。「本諜報団はコミンテルン本部より赤色諜報組織を確立すべき旨の指令を受け、昭和8年秋我国に派遣せられたるリヒアルト・ゾルゲが、当時既にコミンテルンより同様の指令を受け来朝策動中なりしブランコ・ド・ヴーケリッチ等を糾合結成し、爾後順次宮城与徳、尾崎秀実、マックス・クラウゼン等をその中心分子に獲得加入せしめ、その機構を強化確立したる内外人共産主義者より成る秘密諜報団体にして十数名の内外人を使用し結成以来検挙に至るまで長年月に亘り、合法を擬装し巧妙なる手段により、我国情に関する秘密事項を含む多数の情報を入手し、通信連絡その他の方法によりこれを提報したるもの」。 被検挙者の中に当時著名なジャーナリスト・中国問題の専門研究者であり近衛文麿の側近の一人であった尾崎秀実、衆議院議員四回当選・総理大臣秘書官・汪政府顧問等の経歴をもつ犬養健、外務省および内閣嘱託の西園寺公一、「盟邦」ドイツの大使館内に重要な地位をえていたゾルゲその他のドイツ人などがふくまれていたことから、この事件の発表は支配層内にも大きな衝撃を与えるものであった。 1審は1943年9月から翌44年3月にかけて東京刑事地方裁判所第九部で行われ(裁判長判事 - 高田正、判事 - 樋口勝・満田文彦)、以下の判決が下された。ゾルゲ・尾崎ら被告の大部分は大審院へ上告したが、全て棄却され刑が確定した。 |
【被告らへの極刑迅速裁判の様子】 |
ゾルゲと尾崎の予審は1942.12月に終わり、翌1943.5月末に東京地裁の法廷で第1回公判が公開禁止ではじまった。弁護にあたったのは官選弁護人1名だけであった。尾崎の公判は超スピードで進められ、ひらかれた公判はわずか7回にすぎなかった。9月には別掲のような判決が下された(小代以下の判決はそれぞれ数ヵ月おくれた。宮城と河村は審理中に獄死した)。ゾルゲ、尾崎、クラウゼン、ヴケリッチの4名は国防保安法・軍機保護法・軍用資源秘密保護法・治安維持法違反であり、その他の者はこれらのうち1つないし3法の違反として処罰された。 |
【判決文の法理論考】 | ||||||||||||||||||||||||
「日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動、第四編 治安維持法と政治運動、第四章 ゾルゲ事件」を参照する。 この時の判決も法理論的には粗雑で、何としてでも処刑せんとして無理な解釈を通している。というのは、ゾルゲは赤軍第4本部に所属しその指令を受けていたのであり、この組織がコミンテルンの指令にもとづく諜報組織であってコミンテルンの目的遂行に協力する意図で活動したとして処断することは事実に反していた。なぜ「コミンテルンの指令」を持ち出したかというと、治安維持法で処罰の対象とする「国体を変革することを目的」とする結社というのは、日本共産党やコミンテルンについてはいえるにしても、ソ連や赤軍をもそのような結社と見ることはややオーバーラン的な解釈になる怖れがあったからである。 これを、戦時下における法の過大な類推解釈で押し切り、治維法違反及び国防保安法・軍機保護法・軍用資源秘密保護法という4刑で、彼らを「利敵行為」として処断することになった。 それにしても疑問は尽きない。適用された国防保安法(1941.5月施行)・軍機保護法(1937年および1941年改正)・軍用資源秘密保護法(1939年施行)・治安維持法(1941.3月改正)などの法律の該当項目は、ほとんど1937年以降に改正・追加されたものであるのに、たとえばゾルゲの犯罪事実には1930年以来の諸件がふくまれており、本来罪を問うことが困難であった。 これをどう解決したかというと、概要「これら法律施行前の行為も、施行の後に為されたる爾余の所為とは、それぞれ包轄一罪の関係にあるを以って、各その所為の全部につき改正法を適用する」 (判決文)とした。 これは、1941年の治維法改正にあたって、罰則の適用を犯罪時法によらず、判決時法によることを付則第2項で規定したことによるものであり、法施行以前の行為が法施行後の犯行と包轄一罪として処理されたことは、罪刑法定主義の原則が無視されていたことを示すものである。 |
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れんだいこの上記解釈につき、Lucius氏は、「左往来人生学院」への2004.5.12日付投稿「ゾルゲ事件について」で次のように指摘された。
これに対し、れんだいこは次のように応答した。
これに対し、Luciusが次のように応答した。
これに対し、れんだいこは次のように応答した。
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4005 | 返信 | 遅くなりましたが…… | Lucius | 2004/05/20 08:14 | ||
to れんだいこさん レスありがとうございました。 > ということになりますね。弁護余地を残すとすれば、「附則第二項」が実際にどのように機能したのかという観点から、「遡及処罰を可能にするための規定」とみなしたのかも知れません。 そうですね。たとえば極端な話、治安維持法違反の行為を旧法下で100回、新法下で1回犯した者について、包括一罪で新法を適用した上、重くなった法定刑の上限で処断したりすれば、実質的な遡及処罰であり量刑不当の非難を免れません。それに近いような事案が当時多かったのであれば、附則第二項は骨抜きであり、遡及処罰が横行していたと言えるかもしれません。 > ここはどうでせうか。新法処罰は新法後のものに適用され、旧法時代のものは旧法に基づいて判断されるべしとした方がすっきりすると思います。 アメリカのように、成立する各犯罪ごとに量刑を決めて合算する併科主義を取っていれば、そうするのが一番合理的だと思います。しかし、日本の刑法では一番重い罪の刑だけを科し、他の罪については、一番重い罪の罪の刑の上限を増やすことでまかなう加重主義を採用しているので、分けてしまうと逆に刑が一番重くなってしまうのです。 仮に単純化して、一連の行為について旧法が7年以下の懲役、新法が10年以下の懲役としているとした場合、包括一罪で新法適用(ゾルゲ事件と同じ)とすると、処断刑は10年以下の懲役です。ところが、一連の行為を二つに分けて旧法下の行為について附則第二項を適用すると、旧法下の行為は7年以下の懲役、新法下の行為は10年以下の懲役となり、重い後者を選択して上限を5割増しした、15年以下の懲役で処断されることになります。 #「併合罪のうちの二個以上の罪について有期の懲役又は禁錮に処するときは、その最も重い罪について定めた刑の長期にその二分の一を加えたものを長期とする。ただし、それぞれの罪について定めた刑の長期の合計を超えることはできない。」(刑法47条) というわけで、「包括一罪にしない」というのが一番被告人に不利益になってしまうので、この処理そのものについては特に疑問はないというのが私の立場です。 残るのは、包括一罪として処理することを前提とした上で、全体に新法を適用する(10年以下の懲役)よりも、全体に旧法を適用する(7年以下の懲役)方が、附則第二項の趣旨に適合するのではないかという指摘です。 新法適用とする立場は、最初に書いたように新法下に1回でもかかれば、実質的な遡及処罰を可能にするという欠点があります。逆に旧法適用とする立場は、旧法下に1回でもかかれば、その後新法下で100回繰り返しても、旧法の刑でしか処断できなくなるという欠点があります。 旧法適用とする立場の方が人権保護という観点からは優れているとは思うのですが、たとえば、麻薬犯罪(外国からの輸入)の罰則強化の場合などを考えてみると、一概に包括一罪に新法を適用する立場を非難するのも難しいなというのが私の実感です。 #刑が(旧法下から継続して犯行)<(新法下で犯行)というのはどうも、と。 > れんだいこの理解の限界に近づいており自信がなくなりますが、結局やはり昭和16年の改正治安維持法によって旧法下の被告の処罰に重罰化の影響があったのか無かったのかの精査研究が要るということになるのではないかと思われますがいかがでせうか。 一番最初に書いた通り、法改正をまたいだ犯行を認定された被告について、量刑がどうなっていたかを精査する必要はあるでしょうね。見渡してみれば、一気に重罰化したような印象があるのかもしれません。 > Luciusさんのご指摘の緻密性は、この場合は治安維持法の、論理の整合性を確認しようとしているのだと思います。これを認識せずに徒な批判を為して済ますことは有害無益というご指摘ではないかと受け取らせていただいております。 ご理解いただき、ありがとうございます。お話で敵役を間抜けに描いても主人公が賢く見えるわけではないのと同様、誤解に基づいた批判は説得力を欠きますし、あまりに初歩的で故意と疑われるような誤解だと、他の主張についてまで疑わしく見えてしまいますから……大原社研のページはこの事件についてネット上で見られる一番詳しい資料だけに、特にもったいないと思うのです。 #そう思って大原社研にもメールを送ったのですが、未だ音沙汰なしです……(笑) 最後になりましたが、前回の投稿では「邪推」「曲解」などと不穏当な表現を使ってしまい、失礼をいたしました。あらためて自分の投稿を読み返してみて、不快にさせてしまったのではないかと冷や汗をかいております。ご容赦いただければ、幸いです。ではでは。 |
【各被告へ下された罪刑】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
各被告に下された判決の罪刑は次の通りである。
大審院に上告した者もすべて弁論なしに検事の意見を聴いただけで戦時刑事特別法第29条によりその理由なしとして上告棄却された。ゾルゲの場合は上告趣意書が法定期間におくれたため、1944.1月に上告棄却となり、尾崎は同年4月に上告棄却となっていずれも死刑が確定。 宮城与徳、船越寿雄、河村好雄は巣鴨拘置所で獄死。ヴーケリッチと水野(仙台刑務所)と船越は終戦の年に獄死し、北林は病気後仮出獄して、終戦直前に死亡。浜津良勝は終戦と同時に出獄したが、牢後の疲れでまもなく死亡。副島竜起の消息は不明。 宮城には1965年1月19日、当時のソ連政府から大祖国戦争第二等勲章が授与される事が決定した(尾崎も同様に叙勲されている)が、当の宮城が1943年に獄死。遺族の消息も不明で、2010年1月にようやく姪の所在が確認されロシアから伝達された。ゾルゲ事件の取り調べを行った大橋秀雄(元警視庁警部補(当時))が保管していた調書、ノート、ゾルゲから大橋への書簡ほか数千点の資料が遺族から沖縄国際大学へ寄贈され、保管・公開される予定である。 |
【戦後における事件の見直し】 |
敗戦後1945.10月になって、獄中の生存者8名は他の政治犯たちと一緒に釈放され、ながいあいだ国民の眼からとざされていた事件の内容がようやく明らかになりはじめた。ゾルゲ事件の関係資料は、旧特高関係者にとっては公職追放の理由になるのでほとんど焼却ないし秘匿された。 |
【「ウィロービー報告」の政治性】 |
マッカーサー占領軍司令部はゾルゲ事件生存者に関心をむけ、その態度はしだいに保護から看視にかわった。1949.2月、アメリカ陸軍省は「極東における国際スパイ事件」なる極東軍司令部の報告書(ウィロービー報告)を発表し、「これは米国内のスパイ活動に注意せよと警告することを目的としたもので、共産主義に同情を示すアメリカ人を警告するよう」語ったが、その中にアグネス・スメドレーとギュンター・シュタインの名が挙げられたことから、社会的な物議をかもした。 |
【ゾルゲ事件見直しのその後】 |
1964.9月には、ソ連の代表的な諸新聞が、「共産主義者にして諜報員、英雄であった同志リヒアルト・ゾルゲ」をしきりに紹介しはじめた。それはいわゆる「中ソ論争」の盛んだったさなかであり、スターリンの個人崇拝批判の強調と関連していた。 9月下旬にはフランスの映画監督イブ・シャンピの映画「ゾルゲ博士、あなたは誰か?」(日本名では「真珠湾前夜」)がモスクワではなばなしく封切られた。 11.6日、ソ連最高会議幹部会はゾルゲに「ソ連邦英雄」の称号を授与する布告を発表した。 1965.1月には、ゾルゲに協力した三人にソ連邦勲章が授与され、ドイツ民主共和国に在住するマックス・クラウゼンには「赤い旗」勲章、アンナ・クラウゼンには「赤い星」勲章、ユーゴスラヴィヤ人ヴケリッチには「第一級愛国戦争」勲章が与えられた。またアンナ・クラウゼンにはドイツ民主婦人同盟名誉章が授与された。 1998.11.7日半世紀余の時を経て、国際シンポジゥム「20世紀とゾルゲ事件」が東京(於:飯田橋・東京シニアワーク)で開催された。ゾルゲ事件に関して、“国際”と銘打ったシンポジゥムが開かれたのは、日本では初めてのことである。おそらく世界でも初めて。 このシンポジゥムでは、ロシア側二人(日本共産党研究者ユーリー・ゲオルギエフ氏他)、日本側二人(トロツキー研究者・石堂清倫(いしどう・きよとも)氏他)、計四人のパネリストが報告を行なった。いずれの報告にも、ソ連崩壊後、ここ数年の間にロシアで開示が進んでいる公文書類から得られた新発掘情報が随所に盛り込まれた。「闇の男・野坂参三の百年」著者の小林峻一氏も参加。当日は約三百人の参加者で、会場は満席となった。年配の男性が多いなかで、女性や若い人の姿も見られた。 シンポジゥムでは、「ゾルゲ病」という耳慣れない言葉が使われた。ゾルゲやゾルゲ事件というのは、ひとたび知ってしまうと、ますます知りたくなって深みにはまりこみ病みつきになってしまう麻薬のようなものだというのである。世紀も変わり目にさしかかっている今もなお、半世紀以上も昔の人物や事件がなぜそんなに人々を魅きつけるのであろうか? 私見を一言でいえば、二十世紀の激動する歴史のダイナミズムを一身に集めて体現したようなゾルゲの苛酷な運命と、未だ解明されざる多くの謎にその理由があるのではないだろうか、とある(引用) 渡部氏が「伊藤律端緒説」を覆す研究成果を発表したのは(自著「偽りの烙印」を除けば)この時が最初である。 2002年9月7日、講演会「激動の20世紀とゾルゲ事件〜いま明かされるゾルゲ事件の新事実」(於・文京区民センター)が開催される。 |
(私論.私見)