「佐々淳行(伝説の警視正)の実父である佐々弘雄が務めていた朝日新聞社には、佐々弘雄の同僚には、ゾルゲ諜報団の団員としてゾルゲ事件で処刑されることとなる尾崎秀実、上司には、朝日新聞社の副社長で玄洋社(右翼結社)の社員だった緒方竹虎、緒方竹虎の腹心として朝日新聞社の専務取締役に石井光次郎がいました。当時の朝日新聞社で、ゾルゲ諜報団に所属していた尾崎秀実が、玄洋社に所属していた緒方竹虎の部下であったという事実は、非常に興味深いことです。日露戦争の時代、玄洋社に所属していた明石元二郎(陸軍大将、ロシア革命の黒幕)が、ウラジーミル・レーニン(ソ連共産党の初代指導者)に対して革命のための資金を提供して、ロシア革命を成功させて出来た国が、共産主義国家のソ連であります。この歴史的な事実を考えれば、間違いなく、緒方竹虎は、尾崎秀実の正体やリヒャルト・ゾルゲ(ソ連の伝説的なスパイ)の存在を全て知っていたはずです。

 ここで疑問に思うことは、緒方竹虎こそが、リヒャルト・ゾルゲをサポートしていた黒幕ではないか、といった疑惑です。緒方竹虎は、終戦直後、A級戦犯として捕えられ、巣鴨拘置所に投獄されますが、アメリカ政府、とりわけ、CIA(アメリカの諜報機関)と汚い裏取引をして釈放され、戦後になると、CIAエージェントとなってポカポン(POCAPON)というコードネームを貰っています。第二次世界大戦前は玄洋社に所属し、第二次世界大戦後はCIAエージェントとなっている緒方竹虎は、この時点では、差し詰め、2重スパイといえますが、仮に、緒方竹虎が、リヒャルト・ゾルゲを日本に招き入れ、尾崎秀実の活動を保護していたならば、間違いなく、緒方竹虎も、ゾルゲ諜報団の一味ということになります。また、玄洋社の社員でもあった陸軍軍人の明石元二郎がロシア革命を成功させたという事実は、大きな意味を持っています。何故ならば、玄洋社に属した明石元二郎がロシア革命を成功させたという事実は、『日本の右翼団体が共産主義国家ソ連を作った片翼であった』という意味を持っているからです。無論、ソ連の建国の資金源は、日露戦争を控えた大日本帝国の右翼団体による、単独の資金援助ではなくて、当時はユダヤ人を弾圧していたロシア帝国のロマノフ皇帝家に対する、ユダヤ財閥の復讐心と財力も原動力として働いていて、ユダヤ金融資本と大日本帝国の右翼団体が両翼となって、裏で工作を行い、ロシア革命を引き起こし、ソ連を建国したというのが正解です。ユダヤ人を弾圧するロマノフ皇帝家に対する、ユダヤ大財閥のロスチャイルド家の怒りと憎しみは、燃え盛る炎のように激しいものでした。

 ユダヤ大財閥のロスチャイルド家の傘下にある、アメリカとドイツを拠点に活動するユダヤ金融財閥のウォーバーグ一族の出身のジェイコブ・ヘンリー・シフ(ユダヤ人銀行家)は、日露戦争の際、当時は日銀副総裁であった高橋是清(後の内閣総理大臣)に500万ポンドの戦費を賄い、合計で2億ドルもの融資を日本に対して行い、やはり、明石元二郎と同様にロシア革命を計画するウラジーミル・レーニンとレフ・トロツキー(ボリシェヴィキ革命家) に対してそれぞれ2000万ドルの資金を提供して、帝政ロシアの打倒を企てています。ユダヤ金融資本と日本の右翼団体が、車の両輪となって引き起こしたのがロシア革命であったのです。

 この、玄洋社とユダヤ金融資本の連携プレーによるソ連建国の裏側を知っていれば、明石元二郎と同じく玄洋社の社員であった緒方竹虎が、日本で諜報活動をするゾルゲ諜報団を支援していたのではないか、という疑いが、自然と出るのではないでしょうか。現に、朝日新聞社で、緒方竹虎の右腕であった石井光次郎は、過去、台湾にて、台湾総督府秘書課長兼外事課長を務めていますが、そのときの台湾総督が明石元二郎であり、石井光次郎が秘書として使えた相手が明石元二郎でありました。

 言うまでもなく、石井光次郎は佐々弘雄と尾崎秀実の同僚でもありました。緒方竹虎と明石元二郎の両方に仕えた人物が朝日新聞社の最高幹部であった石井光次郎でした。緒方竹虎の実子の緒方四十郎は日本銀行の理事を務めていますが、この緒方四十郎の妻の緒方貞子(国際連合難民高等弁務官、旧姓は中村貞子)が、池田大作(創価学会の教祖、本名は成太作)やミハイル・ゴルバチョフ(ソ連の最後の最高指導者)と共に、秘密結社的なシンクタンクであるローマクラブの会員であり、緒方貞子の大叔父が、佐々弘雄や尾崎秀実と同様に近衛文麿の政策研究団体である昭和研究会に所属して、ゾルゲ事件への関与容疑で拘引された犬養健(法務大臣)であったことや、犬養健の父親(緒方貞子の曾祖父)の犬養毅(内閣総理大臣)が、頭山満(玄洋社の総帥)と無二の親友であったことや、犬養一族には、電通の兄弟企業である共同通信の社長を務めた犬養康彦(共同通信の社長)がいることも忘れてはいけません。明石元二郎は1910年には、韓国統監を勤める寺内正毅(後の初代朝鮮総督、内閣総理大臣)の下で、憲兵(大日本帝国陸軍直下の警察)司令官と警務総長を兼務し、韓国併合の過程で武断政治を推し進めています」。