尾崎秀実獄中手記

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).5.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)

 尾崎秀実獄中手記が存在する。その獄中手記「愛情はふる星の如く」は1946(昭和21).9月に世界評論社から出版され、戦後大ベストセラーになった。



【尾崎秀実獄中手記】
 「sub525 ゾルゲ事件(尾崎秀実獄中手記)」、「尾崎秀実獄中手記」がサイトアップされており、貴重資料ゆえ転載しておく。(れんだいこ文法に則り書き直す) 
 【昭和研究会名簿(昭和14年3月現在)】

 コミンテルン並びに日本共産党に対する認識について 第二節 

 コミンテルン即ち国際共産党はロシア革命の成功に伴い誕生したもので、ロシアに於ける一九一七年の二月及び十月の両革命を期とし、ロシア共産党が政権を獲得するに及んで革命の指導者たるレーニンは第二インターナショナルとは全く別個に世界各国の共産主義者の参加を得て、一九一九年三月、モスコーに於て第三インターナショナルを結成したのであって、之が現在のコミンテルンであり其の本部をモスコーに置き、各国の共産党を支部として傘下に収めて居ります。

 コミンテルンは、世界革命を遂行して世界共産主義社会の実現を目的とする共産主義者の国際的組織であります。即ちコミンテルンは、世界各国の無産階級運動の指導部、参謀本部として多数の労働者農民を糾合し革命手段により、資本主義社会機構を打倒し、世界各国にプロレタリアートの独裁政権を樹立し、全世界のプロレタア独裁国家の結合を創設し、階級を徹底的に打破し以て共産主義社会の第一段階である社会主義社会を実現せんことを目的とした国際的結社であります。

 コミンテルンは、この目的実現の為革命の戦術戦略を規定し、常に其の支部たる各国共産党を指揮統制しているのでありまして、現に其の日本支部たる日本共産党に対しても昭和二年の所謂二七年「テーゼ」、昭和七年の所謂三二年「テーゼ」等、其の他を以て日本に到来すべき革命の性質を規定し、日本に来るべき革命はブルジョア民主主義革命で其の革命は急速にプロレタリア革命に転化するものとし、或は革命の性質は急速にプロレタリア革命に成長するブルジョア民主主義革命なりとして、天皇制の打倒をスローガンとすることを規定して居ります。

 従ってコミンテルンは、世界革命の一環として我国に於ても共産主義革命を遂行して我国体を変革し、私有財産制度を廃止しプロレタリア独裁を樹立し、此の過程を通じて共産主義社会を実現せんとするものであることは勿論であります。

 コミンテルンの日本支部たる日本共産党は、大正十一年、佐野学、堺利彦、荒畑勝三等に依り結成せられましたが、大正十二年夏、いわゆる第一次日本共産党事件として検挙せられ、次いで大正十五年十二月、福本和夫、渡邊政之輔、三田村四郎等により、いわゆる第二次日本共産党の組織が確立されましたが、これ又昭和三年、いわゆる三・一五事件として検挙され、その後度々再建に次ぐに検挙が繰り返されて組織を破壊され、ここ数年来は国内に於ける党の活動は全く無力無活動の状況に在ると考えられます。

 日本共産党は、コミンテルンの支部として其の指揮統制下にコミンテルンの目的とする世界共産主義社会の実現の為、日本に於て革命を遂行し我国体を変革し私有財産制度を廃止しプロレタリア独裁を樹立し、この過程を通じて我国に共産主義社会を実現せんとする結社であります。

 ゾルゲ諜報団の本質及目的任務について

 吾々の諜報活動はゾルゲを中心とした一団の活動でありますが、私の上海以来の経験判断からすれば、この一団はコミンテルンの特殊部門たる諜報部門とも称すべきものの日本に於ける組織である事は明瞭でありました。その理由は上海に於けるスメドレー女史の交渉から此のグループに参加するに至った事、鬼頭銀一事件の調書を入手して読んで見ると同人がコミンテンルンの命に依り活動した旨が明になっている事、吾々のグループの各人の国籍が雑多である事、米国共産党員なる宮城(与徳)が参加して居た事等から斯様に判断したのであります。その後日本に於けるゾルゲとの永い交際の結果、屡々狭義のソ連防衛の意味の諜報が要求されて居るのを知りましたので、私達の蒐集した情報はソ連政府にも直接利用せられて居るのではないかとも感じて居りました。

 但し此の事は、ソ連防衛は国際共産党としては最大の任務である点から言って、私の信念とは毫も矛盾する所はなかったのであります。要するに吾々のグループはコミンテルンに属するものと今日迄考えて来ているのでありますが、コミンテルンは現在の力関係から言えば殆どソ連共産党の指導下に立ち而もソ連政府の中核を為して居るのはソ連共産党であり、結局三者は一体を為して居る関係に立つと理解して居りますので、吾々の活動はコミンテルン、ソ連共産党及びソ連政府の三者に夫々役立てられるものと考えて居りました。

 吾々の機関と日本共産党との関係は直接的なものは何等ありません。私の理解では吾々の所属する如き諜報機関と各国の共産党との関係は一応分離せられ、その間には指導上下の関係はなく、只横の連繋が保たれて居る程度に過ぎず、組織的には各国に散在するこの種諜報機関はモスコーの中央に直属して居るものと考えられました。但し日本の場合に於ては党組織が破壊せられて居り、横の連繋さえ行われず全くモスコー本部との関係のみが存在していたのであろうと思います。

 抑々諜報機関なるものは各国の共産党自体に直属するものもある筈ですが、吾々の如き場合に於ては之と趣を異にし直接にモスコー本部に繋がる機関と考えられ、而も諜報活動を容易にすると共に諜報組織を破壊から防衛する為には其の国の共産党とは組織的に厳格に分離せられて居るものと解せられます。此の点はゾルゲかスメドレーの何れからかに支那の共産党活動に従事するなと忠告された事に依っても明であります。(中略)

 ゾルゲの身分に付ては、コミンテルンに属する外ソ連共産党ソ連政府の何れか又重複して夫等の特別部門に属するものと理解して居りましたが、同人の国籍に付ては独逸籍かソ連籍か或は二重籍ならばソ連共産党に属し且つソ連政府の内務人民委員部の保安部に属して居るのではないかとも想像して居りました。

 宮城は米国共産党員でありますが同人より聞くところに依ると、此度の活動をするに付き党員たる身分を抜いて日本に来た由ですから如何なる身分になっているか判り兼ねますがモスコーの中央には登録されて居るに違いないと考えられます。 

 私も永い間ゾルゲと関係し而も相当有効な活動を為し寄与する所が多くゾルゲより厚い信頼を受けて来た事情にあった上に昭和十年冬、西銀座の西洋料理店「エー・ワン」でゾルゲと会った際ゾルゲより「君の事は本国でも知って居るよ」と言われた事があり、その後も私の名がモスコーの本部に通って居ると理解される様な言廻しで話された事があるので、私も本部の特殊部門の正式メンバーとして登録されて居るに違いないと信じて居ります。党籍の問題については考えた事がないので、如何様になって居るか判りませぬが事実は党員又は夫れに準ずるもの或は夫れ以上かも知れませぬ。

  吾々のグループの目的任務は特にゾルゲから聞いた訳ではありませぬが、私の理解する所では広義にコミンテルンの目指す世界共産主義革命遂行の為日本に於ける革命情勢の進展と之に対する反革命の勢力関係の現実を正確に把握し得る種類の情報竝びに之に関する正確なる意見をモスコーに諜報する事にあり、狭義には世界共産主義革命遂行上最も重要にして其の支柱たるソ連を日本帝国主義より防衛する為日本の国内情勢殊に政治経済外交軍事等の諸情勢を正確且つ迅速に報道し且つ意見を申し送って、ソ連防衛の資料たらしめるに在るのであります。従って此の目的の為には凡ゆる国家の秘密をも探知しなければならないのでありまして、政治外交等に関する国家の重大な秘密を探り出す事は最も重要な任務として課せられて居るのであります。


【尾崎秀実獄中手記】
 「sub525 ゾルゲ事件(尾崎秀実獄中手記)」、「尾崎秀実獄中手記」がサイトアップされており、貴重資料ゆえ転載しておく。(れんだいこ文法に則り書き直す) 

 政府及政治指導部との関係について

 (1)昭和研究会関係について

 昭和研究会は、昭和十一年頃、後藤隆之助が個人的に創設したものでありますが、同会には創立当時より蝋山政道が関係し、同氏と友人関係にある朝日新聞論説委員、佐々弘雄も関係を持って居りました。当時支那問題の重要性は愈々加わり、昭和研究会内にも支那問題の研究部会を創設し之に支那問題の権威者を参加せしむることとなり、佐々と友人関係にあった私は同氏の紹介に依り、昭和十二年四月頃、同会に参加しました。私が参加した当時の支那問題研究部会の責任者は風見章氏でありました。同氏とは既に一度会ったこともあり、此の部会に参加することになって極めて親しくなりました。間もなく同年六月、近衛内閣の成立と同時に風見氏は内閣書記官長に就任し、同研究部会の責任者の地位を去ったので、その後は私が代わって責任者となり、約一年間は其の儘継続して月一回会合を開いて居りましたが、其の後同部会は東亜政治部会と改称され、次で民族部会となり昭和十五年九月の解散迄及んで来ました。

 最初の支那部会の顔触れは、風見章、田中香苗、中村常三、尾崎秀実、其の他四、五名。東亜政治部会になってからは、責任者・尾崎秀実、岡崎三郎、平貞蔵、小林策次郎、和田耕作、大西齊、土井章、樋口弘、事務局員・堀江邑一、大山岩雄、溝口岩夫。民族部会になってからは、責任者・尾崎秀実、岡崎三郎、橘樸、和田耕作、平貞蔵、原口某、平館利夫、山本二三丸。事務局員川合徹等でありました。

 又昭和研究会には外交部会があり、その責任者は初めは矢部貞治、最後は外務省の湯川盛夫となりましたが、会の顔触れは、矢部貞治、湯川盛夫、永井元駐独大使、伊藤述史、内田壽雄、佐々弘雄、益田豊彦、牛場信彦、牛場友彦等で、私も昭和十五年から委員となって居りました。

 尚昭和研究会には全部で十二の部会があり、私は二部会に関係して居たのですが、各部の連絡を円滑にする為昭和十五年八月頃、各部会の連絡部会が設けられ、私も民族部会の責任者として毎月一回開かれる此の会合に出席して居りました。

 (2)内閣関係について

 此の関係に付いては内閣嘱託関係の外、牛場、岸両秘書官を中心とする朝飯会、竝に近衛文麿公、風見章、犬養健、西園寺公一等との個人的関係を併せて申し上げます。

 一、先ず内閣嘱託関係に付き申し上げます。私は昭和十三年七月より昭和十四年一月第一次近衛内閣の総辞職迄の間内閣嘱託をして居りました。

 昭和十三年六月頃、官邸に牛場、岸両秘書官を訪ねて行った時、北京に計画中の外務省の経済調査機関入りを勧められている話をしたところ、両名を通じて此の事が風見書記官長の耳に入ったらしく、間もなく官邸に呼ばれて、同書記官長より、今は支那問題が万事中心であるから内閣に入って手伝って呉れと云われ、私は之を承諾して内閣の嘱託になったのであります。辞令は「調査事務ヲ嘱託ス」とあったと思いますが、仕事の内容は風見書記官長の補助者とでも云うべきもので、最初から之と云って決まった仕事はなく、その時々求められる儘支那事変処理に関する自分の意見を具申してきました。其の主なるものは、(イ)支那事変処理に関する意見。(ロ)支那事変処理の一方式としての対英工作の可能性に付いての意見。(ハ)支那事変遂行の経過に付いての観測意見。(ニ)汪兆銘工作に付いての意見。(ホ)国民再組織の一私案。等であります。

  内閣嘱託時代は毎日首相官邸に出勤し、秘書官室下の地階の一室で仕事をする外秘書官室や、書記官長室には常に自由に出入し書記官長、秘書官等から内閣に来ている文書中仕事の上で必要とするものを見せられ、或は私の方から申し出て必要なものを見せて貰うこともあり、又此等の人達と話をする機会も多かった訳でありまして、私はこれ等に依って現実の政治が如何に動きつつあるかを確実に知ることができました。左様な訳で内閣嘱託たる地位にあった関係から、此の重大な転換期に於ける国の政治の重要な動向を知り得たと同時に其の時々の政治情報等も容易に察知し得たのであります。此等の情報は勿論、ゾルゲに報告すると共に政治動向に関する私の意見も述べて居るのであります。

 (3)所謂「朝飯会」について

 第一次近衛内閣の首相秘書官となった牛場友彦は、昭和九年頃、近衛公が渡米した時、蝋山政道等と共に随行した関係で近衛公と親しくなり、第一次近衛内閣の成立に際して首相秘書官に起用されたものであり、岸道三と牛場秘書官と高等学校時代の親友であったところから当時広東に居ったのを呼戻され、首相秘書官に据えられたのであります。私は牛場とは高等学校、大学を通じての同級生で昭和十一年、加州ヨセミテに於て開催された太平洋問題調査会第六回大会には同会の書記であった牛場の橋渡しに依り私も選ばれて日本代表の一人として出席しました。近衛内閣成立後間もない頃、牛場、岸両君は新聞記者、評論家、学者等で政治経済に明るい者を物色し此等の人達より意見や情報を得る為に時々蝋山政道、平貞蔵、佐々弘雄、笠信太郎、渡邊佐平、西園寺公一、私等を夕食に招待し懇談を交わして居りました。その席には風見書記官長も出席したこともありました。

 蝋山政道は以前より近衛公のブレーンの一人として知られて居り、平貞蔵は満鉄大連本社で岸と同僚の間柄に在って親しい仲であり、佐々及び笠は朝日新聞社に於ける私の同僚であった上に佐々は、蝋山、平とは旧友の間柄にあり、又渡邊は岸と高等学校以来の友人関係にあり尚西園寺は牛場とオックスフォード大学以来の友人で私とは特に親しい関係にありました。この顔触れは牛場、岸及び私が其の周囲から選び出した人達で、何れも実際政治に深い関心を持っている者であります。

 私が内閣嘱託になった頃私、岸、牛場で相談した結果、比較的時間の融通のつく朝八時頃に右の人達に集って貰い政治についての希望や意見を開陳し両秘書官を通じて近衛内閣を扶けて行くことになり、毎月二回位宛招集して朝食を共にしながら政治外交、経済を初め色々な時事問題に付き相互に意見の交換を行って来ました。昭和十四年初頃からは毎月水曜日の朝集会合することになり爾来検挙の一ヶ月半前に及びましたが其の頃からは時局が重大化した関係もあり以後暫く中止の状態となって居たのであります。

 此の朝飯会は、第一次近衛内閣時代は牛場秘書邸で数回。第一次近衛内閣総辞職後の三ヶ月は万平ホテルで二、三回、昭和十四年四月頃以降昭和十五年十一月頃迄は駿河台西園寺公爵邸で数十回、其の後は、首相官邸日本間で十数回開いて居ります。

 尚昭和十五年初頃からは牛場、蝋山、西園寺、私と親交のあった同盟編集局長松本重治も参加し又犬養健も前後を通じ十回位、松方三郎は二回位出席して居ります。

 朝飯会は相当長期間に亘る会合ではあり、其のメンバーには近衛公の側近者である岸、牛場、西園寺、松本等が居り又牛場、西園寺、松本、犬養等の如く外交に関連を持ったものがあったので、これ等の人達から日本の政治外交等に関する価値の多い情報を入手し得たのでありまして、この会合は私の諜報活動の上に相当の成果を挙げさせて来たものと謂うことが出来ます。

 次に、第二次近衛内閣の成立直後の昭和十五年八月から書記官長官邸で朝飯会を開く様になりました。顔触れは、富田書記官長を中心に幹事役帆足計、和田耕作、犬養健、笠信太郎、松本重治、尾崎秀実、内閣嘱託岸本某、中村某、興亜院嘱託神田孝一で不定期に帆足計の通知に依り会合して居りました。会合の目的とするところは、富田書記官長が大陸問題、政治経済問題等に明るい人達と懇談して色々な情況を聴取しようと云うに在ったと思います。この会合は同年十月位で自然解消になりました。

 (4)西園寺公一との関係について 

 西園寺公一はオックス・フォード大学の卒業で昭和九年頃外務省の嘱託をした事があり、昭和十一年、太平洋問題調査会の事務局員となるに及んで外務省を辞め、同調査会の第六回大会に出席、帰朝後、「グラフィック」、「世界会報」等を発行して居りました。近衛公との間は先代との関係で親しく昭和十三年夏始った汪兆銘工作には最初から犬養、松本等と共に関係し熱心に此の工作に尽力し、その結果、近衛公とは政治的に一層緊密となりました。又西園寺は前外務大臣松岡洋右とは父の旧藩の関係もあり松岡氏が昭和十五年七月、外務大臣に就任後は選ばれて外務省の嘱託となりました。私は昭和十一年七月、太平洋問題調査会第六回大会に出席の途次乗船大洋丸で船室を同じくした関係で知り合い加州ヨセミテ滞在二週間及帰途を同人と起居を共にした為め親しくなり、私の朝日新聞社時代には殆ど毎日の様に訪問を受け私も公爵邸に出入りし、同人も縷々私の家を訪問すると云う次第で、又、昭和十一年西園寺が雑誌「グラフィック」を発行する様になってからは私も之を協力し屡々寄稿して居りました。左様な次第で西園寺は私に対して非常な信頼を掛け親友として取り扱い、秘密に属することでも私に対しては何等警戒をせず打明ける様でしたから同人の政治的地位が高まるにつれ私は同人から重要な情報を入手し得た次第であります。

 (5)犬養健との関係について

 犬養は故犬養毅の長男で現在衆議院議員の地位に在り南京新国民政府の顧問を致して居ります。同人と私の関係は昭和四年六月南京に於て挙行された孫文祭典に父毅と共に参列した際、当時私も上海に居たので知合い、その後は会う機会もありませんでしたが、西園寺と犬養が親友の間柄にあった関係で支那事変勃発の少し前頃から私と西園寺の関係が深くなるに連れ私と犬養との交渉も頻繁となり始め殊に、犬養は父親同様支那問題に異常な関心を持って居り支那事変以後は支那問題の専門家である私に対して種々意見を求め相談すると云う風で私と同人との関係は極めて親しくなって行きました。汪兆銘工作が始ってからは犬養は頭初より之に関係し爾来支那問題に終始して来たのであります。私は昭和十三年十二月、犬養と共に風見書記官長の後援に依り山王下「山王ビル」内に支那研究室を設けましたが昭和十五年初からは風見氏に代って犬養が後援者となり同人より毎月二百円宛維持費の支給を受けて来ました。犬養は昭和十五年初頃からは殆ど南京、上海に居り時々上京して来ますが、その時は私は屡々同人と会い私の方から国内情勢を犬養からは大陸の情勢殊に南京政府の問題、南京、上海の情勢等を主にして話し、意見の交換を行って居ります。犬養は私を信頼するに足る友人として取り扱い殊に支那問題に関しては私を良い相談相手として種々意見を求めて居たのであります。

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 東亜連盟戦史研究所
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 「正統史観年表」の大東亜戦争と共産主義

 『大東亜戦争とスターリンの謀略』 三田村武夫 著 より引用

 著者の三田村氏は、昭和3年(1928)から7年まで、内務省警保局に勤務、社会主義運動取締の立場から、共産主義の理論と実践活動を精密に調査研究する事務に携わった。同7年から10年(1935)まで、拓務省管理局に勤務し、国際共産党の活動に関する研究に没頭。11年(1936)には衆議院議員選挙に立候補、爾来10年間、こんどは逆に反政府、反軍部的政治闘争に専念し、遂には巣鴨までいった方です。
 ◆尾崎秀実の手記

 コミンテルン即ち国際共産党はロシア革命の成功に伴い誕生したもので、・・・略・・・世界各国の共産主義者の参加を得て1919年3月モスコーにおいて第三インターナショナルを結成しこれが現在のコミンテルンであり、その本部をモスコーに置き、各国の共産党を支部として傘下に収めております。コミンテルンは世界革命を遂行して世界共産主義社会の実現を目的とする共産主義者の国際的組織であります。・・・略・・・現にその日本支部たる日本共産党に対しても昭和二年のいわゆる二十七年「テーゼ」、昭和七年のいわゆる三十二年「テーゼ」などその他をもって日本に到来すべき革命の性質を規定し日本に来るべき革命はブルジョア民主主義革命でその革命は急速にプロレタリア革命に転化するものとしあるいは革命の性質は急速にプロレタリア革命に成長するブルジョア民主主義革命なりとして、天皇制の打倒をスローガンとすることを規定しております。従ってコミンテルンは世界革命の一環として我が国においても共産主義革命を遂行してわが国体を変革し、私有財産制度を廃止しプロレタリア独裁を樹立しこの過程を通じて共産主義社会を実現せんとするものであることは勿論であります。・・・略・・・コミンテルンの政策はソ連政府の国際政策に強く支配されているばかりでなく自主的にもその世界革命完成の目的のためにその中心をなす唯一の現有勢力たるソ連国家を守りその存在を維持するための政策をとらざるを得ないのであります。・・・略・・・吾々のグループの目的任務は特にゾルゲから聞いた訳ではありませぬが私の理解する所では広義にコミンテルンの目指す世界共産主義革命遂行のため日本における革命情勢の進展とこれに対する反革命の勢力関係の現実を正確に把握し得る種類の情報ならびにこれに関する正確なる意見をモスコーに諜報することにあり、狭義には世界共産主義革命遂行上最も重要にしてその支柱たるソ連を日本帝国主義より防衛するため日本の国内情勢特に政治経済外交軍事等の諸情勢を正確且つ迅速に報道し且つ意見を申し送って、ソ連防衛の資料たらしめるにあるのであります。従ってこの目的のためにはあらゆる国家の秘密をも探知しなければならないのでありまして、政治外交等に関する国家の重大な秘密を探り出すことは最も重要な任務として課せられているのであります。・・・略・・・昭和九年の晩春、奈良公園内の指定の場所でゾルゲと再会したのであります。その際ゾルゲから日本における諜報活動に協力方を依頼されたので私は再びゾルゲと共に諜報活動をなす決意をし同人の申込みを快諾して爾来検挙に至るまでの間諜報任務に従事してきた次第であります。
 ◆ロボットにされた近衛

 昭和十八年(1943)四月のある日、筆者が荻外荘に近衛公を訪ね、
戦局、政局の諸問題につき率直な意見を述べて懇談した際、「この戦争は必ず負ける。そして敗戦の次に来るものは共産主義革命だ。日本をこんな状態に追い込んできた公爵の責任は重大だ!」と言ったところ、彼はめずらしくしみじみとした調子で、第一次、第二次近衛内閣当時のことを回想して、「なにもかも自分の考えていたことと逆な結果になってしまった。ことここに至って静かに考えてみると、何者か眼に見えない力にあやつられていたような気がする・・・」と述懐したことがある。彼はこの経験と反省を昭和二十年(1945)二月十四日天皇に提出した上奏文の中で、「軍部、官僚の共産主義的革新論とこれを背後よりあやつった左翼分子の暗躍によって、日本はいまや共産革命に向かって急速度に進行しつつあり、この軍部、官僚の革新論の背後に潜める共産主義革命への意図を充分看取することの出来なかったのは、自分の不明の致すところだ」と言うのである。言いかえれば、自分はこれら革命主義者のロボットとして踊らされたのだと告白しているのだ。・・・略・・・資本主義国家の権力的支柱をなすものはその国の武力即ち軍隊である。したがって、この資本主義国家の武力、軍隊を如何にして崩壊せしめるかが、共産主義革命の戦略的、戦術的第一目標とされる。
そしてこの目標の前に二つの方法があるとレーニンは言う。その一つは、ブルジョア国家の軍隊をプロレタリアの同盟軍として味方に引き入れ革命の前衛軍たらしめること、第二は軍隊そのものの組織、機構を内部崩壊せしめることである。つまりブルジョア国家の軍隊を自滅せしめる方向に導くことである。また、レーニンの戦略論から、戦争そのものについて言えば、共産主義者が戦争に反対する場合は帝国主義国家(資本主義国家)が、世界革命の支柱たるソ連邦を攻撃する場合と、資本主義国家が植民地民族の独立戦争を武力で弾圧する場合の二つだけで、帝国主義国家と帝国主義国家が相互に噛み合いの戦争をする場合は反対すべきではない。いな、この戦争をして資本主義国家とその軍隊の自己崩壊に導けと教えている。レーニンのこの教義を日華事変と太平洋戦争に当てはめてみると、共産主義者の態度は明瞭となる。即ち、日華事変は、日本帝国主義と蒋介石軍閥政権の噛み合い戦争であり、太平洋戦争は、日本帝国主義と、アメリカ帝国主義及びイギリス帝国主義の噛み合い戦争と見ることが、レーニン主義の立場であり共産主義者の認識論である。したがって、日華事変及び太平洋戦争に反対することは非レーニン主義的で共産主義者の取るべき態度ではない、と言うことになる。事実日本の忠実なるマルクス・レーニン主義者は、日華事変にも太平洋戦争にも反対していない。
 ◆資本主義国家の共産主義者がとるべき態度

 第一次大戦勃発直後の1914、5年頃レーニンは頻りに敗戦主義を説き、同じボルシェビキ(ロシア共産党)の同志をすら驚かせたが、彼の最も軽蔑したのは、いい加減で、戦争を終わらせ、革命の有望な前途をブチ壊す平和論者と良心的な反戦主義者であった。「われわれ革命的マルクス主義者にとってはどちらが勝とうが大した違いはないのだ。いたる所で帝国主義戦争を内乱に転化するよう努力することが、われわれの仕事なのだ」。「現代の戦争は、帝国主義国家相互間の戦争、ソ連及革命国家に対する帝国主義国家の反革命戦争、プロレタリア革命軍の帝国主義国家に対する革命戦争の三つに分類し得るが、各々の戦争の実質をマルクス主義的に解剖することはプロレタリアートのその戦争に対する態度決定に重要なことである。上の分類による第二の戦争は一方的反動戦争なるがゆえに勿論断固反対しなければならない。また第三の戦争は世界革命の一環としてその正当性を支持し帝国主義国家の武力行使に反対しなければならないが、第一の帝国主義国家相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョア的内乱戦たらしめることを活動の主要目的としなければならない」。

 帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1)自国政府の敗北を助成すること。
(2)帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること。
(3)民主的な方法による正義の平和は到底不可能なるが故に、
戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。である。
 
 「現在の帝国主義国家の軍隊はブルジョア国家機関の一部ではあるが、最近の傾向は第二次大戦の危機を前にして各国共に人民の全部を軍隊化する傾向が増大してきている。この現象は搾取者と被搾取者の関係を軍隊内に発生せしめるものであって、大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従えば、ブルジョアの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきにあらずして進んで入隊し、これを内部から崩壊せしめることに努力しなければならない」。・・略・・・

 レーニンが最も熱心に、精魂を打ち込んで指導してきたコミンテルン第一回大会及び第二回大会に際し、自ら筆をとった綱領草案その他党幹部に与えた指示、一般の共産主義者に示した文書などから特に注目すべき点を拾ってみよう。彼は先ず、革命家の道徳的体系を説いて、「政治闘争においては逃口上や嘘言も必要である」ことを公然と主張し、「共産主義者は、いかなる犠牲も辞さない覚悟がなければならない。あらゆる種類の詐術、手管、及び策略を用いて非合法的方法を活用し、真実をごまかし且つ隠蔽しても差し支えない」。

 「共産主義者は、ブルジョア合法性に依存すべきではない。公然たる組織と並んで、革命の際非常に役立つ秘密の機関を到る所に作らねばならない」。

 「われわれは即時二重の性格をもつ措置を構ずる必要がある。党は合法的活動と非合法的活動を結びつけねばならない。・・」と言っている。要するに「革命」という目的のためには、ブルジョア社会に存在する一切の道徳的規範を無視して、逃げ口上も、嘘も、あらゆる種類の詐術も、手練手管も、策略も用いよ、また真実をごまかすことも、隠蔽することも、悪魔とその祖母と妥協することも必要だ・・・と言うのである。
 ◆日本における謀略活動

 近衛公が上奏文で言う、到達した結論とは具体的にどんなことか。先ず第一に挙げねばならない事件は、尾崎秀実とリヒアルト・ゾルゲ(表面の身分はドイツ大使館員であったが実はコミンテルン本部員で、日本に派遣された秘密機関の責任者)によって構成されたコミンテルン直属の秘密謀略機関である。尾崎秀実は世上伝えられている如き単純なスパイではない。彼は自ら告白している通り、大正十四年(1925)東大在学当時既に共産主義を信奉し、昭和三年(1928)から七年まで上海在勤中に中国共産党上部組織及びコミンテルン本部機関に加わり爾来引き続いてコミンテルンの秘密活動に従事してきた真実の、最も実践的な共産主義者であったが、彼はその共産主義者たる正体をあくまでも秘密にし、十数年間連れ添った最愛の妻にすら知らしめず、「進歩的愛国者」「支那問題の権威者」「優れた政治評論家」として政界、言論界に重きをなし、第一次近衛内閣以来、近衛陣営の最高政治幕僚として軍部首脳部とも密接な関係を持ち、日華事変処理の方向、国内政治経済体制の動向に殆ど決定的な発言と指導的な役割を演じて来たのである。世界共産主義革命の達成を唯一絶対の信条とし、命をかけて活躍してきたこの尾崎の正体を知ったとき、近衛公が青くなって驚いたのは当然で、「全く不明の致すところにして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候」と陛下にお詫びせざるを得なかったのだ。

 第二にとりあげられるのは、いわゆる「企画院事件」の真相である。この事件も戦後世上に喧伝された「軍閥政府弾圧の犠牲」として簡単に片付けることは大変な間違いである。戦時中企画院のいわゆる革新官僚が経済統制の実権を握り、戦時国策の名において「資本主義的自由経済思想は反戦思想だ」「営利主義は利敵行為だ」と主張し、統制法規を濫発して、全経済機構を半身不随の動脈硬化症に追い込んできたことは誰でも知っているが、その革新官僚の思想的背景が何であったかは、殆ど世間に知られていない。ところが、この企画院事件は、昭和十年(1935)にコミンテルン第七回大会で決定された人民戦線戦術にもとづき、国家機構の内部に喰い入った共産主義者のフラクションで、表面の主張は、当時国家の至上命令とされていた「戦争に勝つために」を最高のスローガンとし、国際資本主義体制・・即ち現状維持的世界秩序の打倒を目的とした日華事変の歴史的意義とその進歩性を認め、東亜新秩序建設のための諸国策を強力に推進してきたが、その内面的意図即ち思想目的は、資本主義制度を根本的に改変し、社会主義革命完成のための客観的、社会的条件を成熟前進せしめる「上からの革命」を意図したものであった。近衛公が上奏文の中で、「軍部内一味の革新運動、これに便乗する新官僚の運動、およびこれを背後より操りつつある左翼分子の暗躍」と言った頭の中には、おそらくこの企画院事件の内容もその一部として描かれていたにちがいない。

 第三に昭和研究会の正体である。昭和十一年(1936)、「新しい政治、経済の理論を研究し、革新的な国策の推進に貢献する」ことを目的として発足したこの会は、近衛内閣と不可分の関係に立ち、軍部とも密接な関係を持っていわゆる革新国策の理念的裏づけをなし、近衛新体制生みの親として大政翼賛会創設の推進力となり、日本の政治形態を一国一党の軍部官僚独裁組織に持って行ったことは周知の事実であるが、この会の組織は尾崎秀実を中心とした一連のコムミニストと、企画院グループのいわゆる革新官僚によって構成され、その思想の理念的裏づけは、全くマルクス主義を基底としたものであったのだ。・・・略・・・

 第四としては、軍部内に喰い込んだ謀略活動ですが、支那事変の中途で、武藤章氏(尾崎とは特に緊密な連絡があった)が軍務局長となるや、左翼の転向者が、彼の周囲にブレーンとして参加したこと。この頃から陸軍省の部局に転向共産主義者が召集将校として起用され、統制派政治軍人の理念はこれがためにさらに大東亜共栄圏の理念へと飛躍したということです。この点に関し、近衛公は上奏文の中で「軍部内一味の革新論の狙いは必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(これを右翼というも可、左翼と言うも可なり、右翼は国体の衣を着けた共産主義者なり)は意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵しおり、無知単純なる軍人これに躍らされたりと見て大過なしと存候」と言っている。
 ◆中国の抗日人民戦線と日華事変

 昭和五年(1930)八月十四日付の「中国共産党当面の任務に関する宣言」の一節に、「今や帝国主義諸国家相互の矛盾は尖鋭化し、各国は各々戦争を準備し、植民地を強奪せんとする空気が充満している。かかる国際的政治情勢は既に明らかに資本主義の暫定的安定を破壊し、正に新たなる帝国主義世界戦争と、新たなる全世界の革命闘争を促進すると共に、
一切の帝国主義制度の死滅を促進しつつある。かかる状勢の下にあって、中国革命は全世界革命の中において頗る重要な地位を占めている。中国の広大な勤労大衆の反帝国主義闘争は必ずや世界革命の普遍的爆発を促進し、各国無産階級の武装暴動を誘起するであろう。吾らは、ソヴィエト連邦擁護、帝国主義戦争反対、植民地革命完成のスローガンの下に、中国革命を世界革命と合体せしめ、共同して帝国主義に対する戦勝を闘い取らねばならぬ」と言っているが、この主張は言うまでもなく、コミンテルンの基本的立場であって、今次の大戦を経て中共政権確立へと貫かれてきたものである。しかして、この基本的立場は、日華事変を通じ中共政権確立への過程において如何なる戦略戦術となって現れたであろうか。・・・略・・・コミンテルン第七回大会で中国当面の敵は日本であると決定し、この日本に対抗するために中国共産党及び中共軍に対する援助を決議し、更に「中共」に対し、日本帝国主義打倒のために、民族革命闘争をスローガンとして抗日人民戦線運動を巻き起こすべしと指令したのである。そこで「中共」はこの新方針に従い、抗日人民戦線運動の具体的方策を決定し、昭和十一年(1936)八月一日付けで「抗日救国宣言」を発表し、全中国に亘って「統一国民防府及抗日連合軍の創設」を呼びかけたのである。・・・略・・・この抗日救国宣言は全中国に非常な衝撃を与え、抗日戦線統一への世論が高まりつつあったとき、同年十二月突如として起こったのが西安事件(張学良の蒋介石監禁事件)である。この西安事件によって蒋介石は永年自己政権(国民党政権)の敵として討伐を続けてきた「中共」と妥協しここに「国共合作」が実現した。即ち蒋介石は「中共」の要求を全面的に容認して、「容共抗日政策」を採用し、抗日即時開戦を提唱して抗日人民戦線の結成を促進し、遂に日華事変勃発拡大の口実を日本側に与え、その一面の条件をつくり出したのである。

 日華事変に関してコミンテルンが「中共」及び中国民衆に与えた文書は無数にあるが、その中で「日華事変は、中国全土に非常な波動を起こし、事変の帰結如何にかかわらずコミンテルンは極東に勢力を確保することが可能であり、また中国におけると同様日本にも騒乱を惹起して終局の勝利を得ることを確信している」と言っている。コミンテルンの世界革命綱領実現の見地から言えば、極東の安定勢力として強大なる日本帝国が存在することは何としても大きな障害である。極東革命完成のため一度は日本と戦わねばならぬであろう。とすれば、中国と日本を噛み合わせて全面戦争に追い込み、日本の実力を試すことは重要なことだ、と同時に、日本の実力を消耗させればさせるだけコミンテルンの革命勢力にとって有利である。日華事変によって蒋介石政府がもし負けてもコミンテルンの立場は何等の痛痒も感じない。否むしろ望むところで、敗戦の後に来るものは赤化革命の前進である。更に日本についても同様で、戦局の進展如何によっては、一挙に日本を撃破崩壊せしめることも可能である。と見るのは当然である。日本においては、「英米帝国主義の傀儡蒋介石軍閥政権打倒」東亜解放の聖戦」を叫んで軍閥戦争を理念づける共産主義者があり、中国においては、「抗日救国」「日本帝国主義打倒」を叫んで日華全面戦争を強力に指導する「中共」の人民戦線戦術があり、両者激突してコミンテルンの希望通りに日本帝国政府と蒋介石政権を崩壊せしめたのだ。「中共の勝利と新政権」の確立はこの謀略の成功を実証するものと言えるであろう。
 ◆アメリカにおける秘密活動

 1948年2月号の『カソリック・ダイジェスト』(日本版)に「アメリカを蝕むもの」「モスクワの指令下に米国上層部に喰入るソ連秘密警察」と題する注目すべき記事がある。この記事の筆者はエドナ・ロニガンと言う女の人で1933年から35年まで農業金融局に、35年から40年まで財務省に勤務し、・・・略・・・この記事の内容は、アメリカ連邦政府内における共産主義者の活動を極めて大胆に述べたもので、ロニガンは先ずアメリカの国会委員会がこの問題を取り上げた意義を述べ、「国会は今、ソ連秘密警察のアメリカにおける目的と活動は何か?という実際問題を検討している・・・事実はこうである。ソ連秘密警察は、米国の政策をして自ら墓穴を掘らしめるため、その手先の者をアメリカの重要な地位につける仕事にたずさわらせているのだ」、「ソ連秘密警察は1933年以来、連邦政府に浸透しようと努力してきた。その最初の細胞は明らかに農務省に設立されたのである。要員は大学の細胞から出た。スターリンは、1929年という遥か以前から、即ち不景気が危篤期に入ったと気づいたとき、彼は党員に命じてアメリカの大学にもぐりこませたのである。このことはニューヨーク州議会のラブ・コーダート委員会報告に証明されている。

 各々の細胞は分裂して、他の細胞を生み出した。ソ連秘密警察の指導者たちは、連邦政府内部の『機構図表』を持っており、党員を次から次と重要な地位に移したのである」「網状組織によって地位につけられた人々のうち、ある者は『純真』な人々であり、ある者は、夢想的な革命論者であった。しかし、大抵は、網状組織に好意を持たれれば速やかに昇進できることに気づいている小利口な、悪がしこい人々であった」。「有能なソヴィエトの手先がなすべき事は、スパイではなく、政治指導者の信頼を博することであった。彼らの仕事は、高官や、その夫人達と親しくなることであり、友好的に、魅力的に、敏捷に、理智的に、同情的になることであり、昼夜にわたって、一層大きな責任を引き受ける用意をすることであったのだ。そして、やがて、そのような責任ある地位が彼らに与えられたのである。・・・略・・・」。「この網状組織によって選ばれた人々は、意見が分かれているあらゆる問題においてアメリカの政策を指導し始めた。ファーレィ(民主党領袖)が落伍した後、彼らは重要産業地方の投票を得る仕事を引き継ぎ、その報酬として戦争の政治的指導権をにぎったのである。連戦連勝の米軍は、スターリンの希望通りの処で停止した。彼らは満州と北朝鮮を共産党に与えた。・・」と言っている。解説によると「アルジャー・ヒスは・・・・ルーズベルトが大統領になって思い切ったニュー・ディール政策を開始すると直ぐ、政府の仕事に関係し、1936年には連邦検察局から国務省に移り、敏腕を買われ、37,38年頃にはセイヤー国務次官の右腕として活躍、その後幾多の国際会議に出席し、1945年ヤルタで開かれたルーズベルト、チャーチル、スターリンの三巨頭会議には顧問として参加した」。・・・略・・・「・・・1948年の春、下院の非米活動調査委員会で、当時タイム誌の編集幹部をしていたウィテカー・チェンバースが、自分はかつて共産党の情報伝達係をしていたことを告白すると同時に、米国政府上層部にも共産分子が喰込んでいると指摘してヒスの名を挙げた。チェンバースの言うところによると、1934年の初夏、ワシントンのあるレストランで、ピータースと呼ばれている人物と会った。ピータースというのはソ連のスパイの総責任者でバイコフ大佐の別名である。大佐のそばに背の高い男が立っていた。それがヒスであった。チェンバースはそれ以来ヒスと直接連絡してヒスの手から政府の機密書類を手に入れていた」というのである。
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日本人に謝りたい
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-374.html

【尾崎秀実獄中手記】
 「sub525 ゾルゲ事件(尾崎秀実獄中手記)」、「尾崎秀実獄中手記」がサイトアップされており、貴重資料ゆえ転載しておく。(れんだいこ文法に則り書き直す) 
 昭和研究会常任委員

 大蔵公望 唐沢俊樹 賀屋興宣 後藤文夫 後藤隆之助 佐々弘雄 田島道治 高橋亀吉 東畑精一 那須皓 野崎龍七 松井晴生 三木清 山崎靖純 蝋山政道

 昭和研究会委員

 青木一男 有田八郎 石黒忠篤 今井田清徳 大河内正敏 風見章 河上弘一 小日山直登 膳桂之助 瀧正雄 谷口吉彦 津島寿一 津田信吾 暉峻義策 古野伊之助 三浦鉄太郎 村田省蔵 湯沢三千男 吉田茂 吉野信治

 世界政策研究会委員

 有田八郎 青木一男 大蔵公望 唐沢俊樹 賀屋興宣 後藤文夫 後藤隆之助 佐々弘雄 膳桂之助 田島道治 高橋亀吉 東畑精一 那須晧 野崎龍七 松井春生 三木清 三浦鉄太郎 山崎靖純 吉田 茂 蝋山政道

 (事務局関係)

 堀江邑一 岩崎英恭 大山岩雄 大浦威 酒井三郎 菅沼秀助 溝口勇夫 水野成 山崎和勝

 東亜政治研究会委員

 岡崎三郎 大西斉 尾崎秀実 後藤隆之助 小林幾次郎 佐々弘雄 田中香苗 平貞蔵 土井章 中村常三 波多野幹一 樋口弘 谷川興平 蝋山政道 笠信太郎 和田耕作*

 (事務局関係)

 堀江邑一 大山岩雄 酒井三郎 溝口勇夫 水野成

 東亜経済ブロック研究会委員

 猪谷善一 妹川武嗣 加田哲二 景山誠一 金原賢之助 高橋亀吉 千葉秦一 友岡久雄 松井春生 三浦鉄太郎 山崎靖純 湯川盛夫 吉田寛 笠信太郎 和田耕作

 (事務局関係)

 堀江邑一 岩崎英恭 山崎和勝

 文化問題研究会委員

 後藤隆之助 三枝博音 佐々弘雄 清水幾太郎 菅井準一 杉本栄一 中島賢蔵 中山伊知郎 林達夫 船山信一 三木清 矢部貞治 笠信太郎

 (事務局)

 堀江邑一 大山岩雄 酒井三郎 菅沼秀助

  政治動向研究会委員

 伊藤述史 市川清敏 稲葉秀三* 勝間田清一* 桐原葆見 後藤文夫 後藤隆之助 佐々弘雄 平貞蔵 暉峻義策 橋本清之助 林広吉 平井羊三 古野伊之助 山崎靖純 三輪寿壮 三木清 吉田茂 蝋山政道 笠信太郎

 (事務局関係)

 堀江邑一 大山岩雄 酒井三郎 菅沼秀助 溝口勇夫

 経済情勢研究会委員

 青山二郎 稲葉秀三 内山徳治 奥山貞二郎* 勝間田清一 木村禧八郎 鹿喰清一 田村勘次 田部井俊夫 平井羊三 帆足計 正木千冬* 笠信太郎 和田耕作

 (事務局関係)

 堀江邑一 岩崎英恭 大浦威 山崎和勝

 労働問題研究会委員

 稲葉秀三 大河内一男 大沢三郎 風早八十二 桐原葆見 田村勘次 鶴島瑞夫 中島仁之助 平井羊三 穂積七郎 美濃口時次郎

 (事務局関係)

 堀江邑一 岩崎英恭 大浦威

 農業問題研究会委員

 石橋幸雄 碓氷茂 遠藤三郎 勝間田清一 川島一之助 近藤康男 島田日出夫 鈴木徳一 田村勘次 千葉蓉山 辻誠 角田藤三郎 東畑精一 野尻重雄 三輪寿壮 橋本清之助

 (事務局関係)

 堀江邑一 山崎和勝

 教育問題研究会委員

 岩松五良 石井通則 井上秀子 大塚惟精 大島正徳 香坂昌康 木村正義 城戸幡太郎 後藤隆之助 児玉九十 後藤文夫 鈴木徳一 佐藤寛次 鈴木達治 西村房太郎 周郷博 田沢義鋪 三井透 細谷俊夫 宮崎清 宗像誠也

 (事務局関係)

 堀江邑一 酒井三郎 菅沼秀助

 外交問題研究会委員

 有田八郎 青木一男 芦田均 伊藤述史 伊藤正徳 石田礼助 大蔵公望 後藤文夫 後藤隆之助 佐々弘雄 佐多忠隆* 佐藤安之助 西園寺公一 高橋亀吉 高木八尺 平貞蔵 永井松三 那須皓 林久治郎 波多尚 古垣鉄郎 松井春生 益田豊彦 山川端夫

 * の人物は企画院事件で検挙された革新(共産主義)官僚である。


 「マルキスト尾崎秀実の天皇観」参照

 1944(昭和19).4.5日、尾崎は、上告棄却後、大審院に出した上申書の中で天皇制について要旨次のように述べている。
 「裁判長は『死をもって国家に詫びよ』といわれたが、手遅れが甚しくとも、私個人としては、真に生れ立ったばかりの純乎たる皇国臣民たり得たりと信ずる今こそ、生きる限り生きて国家の運命を祈り続けることこそ正しい行き方だと思われます」。
 「私の政治的意図はかなり複雑でありまして、それは私が単純な共産主義者でなかったからです。私はつねに国家主義・民族主義である一面を持っていました。共産主義政治方式の応用と、この立場とが現実の歴史的段階において両立し得ると秘かに考えていたのです」。

 尾崎はこのあと、二つの歌をあげている。
 大君に 仕へまつれと 我を生みし 我が垂乳根ぞ 尊とかりける(佐久良東雄の歌)
 よもの海 皆はらからと 思う世に なぞ波風の 立ちさわぐらん(明治天皇)

 尾崎は取り調べ中、「万世一系の天皇をいただく国体として永遠に日本は栄えるだろう」と述べた。

 昭和十七年二、三月頃書かれた「獄中手記」の中で、天皇のもつ重みを指摘し、「共産革命にあたり天皇制打倒は不適当」と要旨次のように述べている。
 「日本の資本主義の現段階の特色は資本家(地主)=軍部(官僚)といった結びつきが政治推進力の本質的な中核をなしており、日本の政治支配体制の上で天皇の憲法上の地位の持つ意味は擬制的なものに過ぎなくなりつつあるように見うけられます。共産主義者としての戦術的考慮から見ても、天皇制打倒をスローガンとすることは適当ではないと考えます。その理由は日本での天皇制が歴史的に見て直接民衆の抑圧者でもなかったし、現在でも皇室自身が直接搾取者である感じを民衆に与えていないという事実でも明瞭です。問題は日本の真の支配階級である軍部資本家勢力が天皇の名において行動する仕組みにどう対処するかです。世界的共産主義社会が出来たとき、天皇制が制度として否定され解体されることは当然ですが、日本民族のうちに最も古い家として天皇家が何らかの形で残ることも否定しません」。

 尾崎が死刑に処せられた三カ月後の昭和二十年二月十四日、近衛文麿は天皇に提出した上奏文のなかで次のように述べている。
 「少壮軍人の多数はわが国体と共産主義は両立するものと信じているものの如く、共産分子は国体と共産主義の両立論をもって軍人を引きずろうとしつつあるものに御座候。軍部内一味の革新論を取り巻く一部官僚及び民間有志(これを右翼というも可、左翼というも可、いわゆる右翼は国体の衣を着けし共産主義者なり)は、意識的に共産革命にまで引きずらんとする意向を持ち、無知単純なる軍人はこれに躍らされたりと見て大過なしと候」。

 そのうえで、「一億玉砕は共産主義者の陰謀である」として早期終戦の御勇断を陛下に上奏した。




(私論.私見)