伊藤律とゾルゲ事件の接点考

 (最新見直し2007.8.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 伊藤律の概要履歴に付いては、伊藤律論を参照されたし。本稿で伊藤律を論ずる所以は、いわゆる伊藤律の供述がゾルゲ事件摘発の発端となったという俗説批判に向かう為である。これはもう一つのゾルゲ事件となっている。日本の左派運動の真の財産である徳球―伊藤律系運動は、こういう歴史的事件の一つ一つで捻じ曲げられ、米日反動の悪巧みにより誤解を生むように情報操作されてきている。そういう意味で、あらゆる角度から徳球―伊藤律系運動の意義を落とし込めようとする虚構を適宜暴くことは、是非に必要なことであると信ずる。

 れんだいこは、宮顕系日共が特にこの構図をプロパガンダし抜いてきた史実を疑惑する。伊藤律スパイ説を喧伝し、除名処分に付し、30年間に及ぶ岩窟王虜囚生活の後でさえ、党中央はその奇跡の生還を為した際にも同様のスパイ説を流布し、我関せずの居直り弁明に終始してきた。遅まきながら云わねばならない。スパイはお前達の方であり、その負の歴史には相応の責任が問われて然るべきであろう、と。

 付言すれば、れんだいこが宮顕を批判するのはかような史実に照らして、それが適正と信ずる故である。戦前の党内リンチ事件の被害者然り、戦後の伊藤律然り、その他諸々人士が排斥される時どういう汚い言葉で手法で罵詈雑言してきたか。それを思えばれんだいこの宮顕批判は理詰めで穏当に過ぎるほどであろう。ここでは、伊藤律の除名時の声明と帰国時の翻弄の仕方を見て欲しい。さすればれんだいこの言を納得されよう。


【伊藤律の党活動の歩み】
 伊藤律(いとうりつ、1913.6.27〜1989.8.7)は、1933(昭和8)年頃共青運動を経て日本共産党に入党している。当時の仲間達は岡部隆司、長谷川浩、小野義彦らで、党再建委員会を設立し活動している。この関係は終生の同志的交わりとなる。同年5月検挙され、特高の宮下弘(のちゾルゲ事件の捜査担当)に取り調べられ、共青中央の組織を自白した、とされている。34年12月に予審を終えて保釈出所、4月懲役2年、執行猶予3年の判決。

 1937(昭和12)年8月頃から、長谷川浩に協力して党再建活動に参加した。1933年末のリンチ事件以降、党中央は宮顕―袴田系に乗っ取られており、これに多数派が抵抗していったが1935年頃壊滅させられている。その後の党再建活動ということになる。

 全国購買組合勤務を経て、1939(昭和14).8.1日頃満鉄東京支社調査室の嘱託に採用されている。その2ヶ月前に尾崎秀実も高級嘱託として入社しており、同郷ということもあって交友を深めている。この頃満鉄調査部は、松岡洋右総裁の「置き土産」のような形で拡充され、国家の意思決定に重要な提言を為し得る能力を獲得しつつあった。こうした事情から左翼の転向組がこの前後にドッと採用され、伊藤律もその一人であったということになる。石堂清倫、西沢富夫、堀江邑一、海江田久孝らもその一人である。


【伊藤律の自供によりゾルゲ事件の発端となる説が流布される】
 伊藤律は、1939.11月治安維持法違反で特高警察に検挙されている。1940(昭和15).6.25−7.3日池田勇作、長谷川浩、岡部隆司、新井静子、青柳喜久代、松本キミらの党再建グループが一斉検挙されている。

 この時の取調べで、伊藤律が特高警察官・伊藤猛虎に対し「アメリカ帰りのおばさん」について自供(宮下の取り調べに北村トモの名を挙げ、との記述もある)、この北林トモの調査がゾルゲ事件の糸口となり41年のゾルゲ事件検挙へと繋がった、と云われている(「伊藤律端緒説」)。

 北林トモの自供で沖縄出身の画家・宮城与徳が逮捕され、宮城の自供からゾルゲ・尾崎グループの摘発に至った、というのがこの説の骨子である。尾崎秀樹(おざき・ほづき)によって唱えられ、松本清張もまた「革命を売った男・伊藤律」の中で補強、長年にわたってゾルゲ事件の「定説」として信じられていくことになる。


【北村トモ密告の真偽について】

 伊藤律供述ゾルゲ事件発端説について、当時の特高担当宮下弘氏が貴重発言している。宮下氏は伊藤律の担当官とも云うべき関わりで、伊藤律を取り調べた経歴を持つ人士である。伊藤律失脚以降、党中央を乗っ取った宮顕共産党中央が頻りに「伊藤律スパイ説」を唱えていることに異を唱えている。これをどう見るかということになろうが、れんだいこは、「伊藤律をよく知る者として史実の偽造にがまんならず真実の伊藤律像を伝えたかった。宮下氏がこのことを主張して何の利益もないことであるからして、その指摘の信用性は高く大いに価値がある」と理解している。

 宮下氏は、「伊藤律陰の昭和史」の中で次のように云う。「(後の「ウィロビー報告」を見て)何だ、オレが書いた報告と同じ内容じゃないか、と思いましたよ。内務省に報告していますからね。また『特高月報』にも伊藤の供述と書いてありますよ。これは伊藤に(我々の側の)スパイという疑いがあるというどころじゃなく、スパイじゃないからあからさまに名前が出たんですよ。律が我々のスパイだったら。律の名前なんか内務省への報告などに書いたりしませんよ」。


 (私論.私見)「『特高月報』での伊藤律の供述掲載」について

 云われてみたらそうではなかろうか。「律が我々のスパイだったら。律の名前なんか内務省への報告などに書いたりしませんよ」という単純なことがなぜ理解されないのだろう。


 宮下氏は同書の中で更に次のように云う。「(1933年、伊藤律が一高中退で共産青年同盟の事務局長をしていた時捕まった最初の逮捕・取調べの際に)大崎警察署に留置されていましたが、如才無く立ち回り、取調べに対し、(警察に)分かってしまったことは仕方がないから、としゃべり、分かっていないことは絶対に言わない、といった具合に非常に明確なんです」。


 (私論.私見)「取調べ時の対応」について

 当時何らかの自供無しに特高当局が容赦することは無かった。宮顕の「氏名も名乗らず、一切の調書に応じず、それでいて他の被告の獄中の様子や調書を目を通し得て、公判法廷でとうとうと正義の弁明が為しえる」なんてことは有り得ないのであり、この有り得ないプロパガンダを信ずるから伊藤律のこの時の対応が見えなくなる。宮下氏に拠れば、「取調べに対し、警察に分かってしまったことは仕方がないからとしゃべり、分かっていないことは絶対に言わない」という態度を取っていたとのことである。これは伊藤律がかなり高等な対応をしていたということであり、むしろ評価されるべきであろう。


 宮下氏はいよいよゾルゲ事件との関わりの真相について述べている。同書の中で更に次のように云う。「(1940年、ゾルゲ事件の発端となったと言われている時の取調べの様子として)伊藤が再建準備委員会の中心にいることが分かった。みんなわかっちゃったですね。長谷川もしゃべったんですよ。伊藤が新井の後に結婚した東京交通組合の婦人部長であった松本きみも、既に逮捕されていた。それなのに、伊藤は黙って頑張っているんですね。そこで、私は伊藤猛虎に、もう全部分かっているんだと云ってやれ、といって取り調べさせたのです」、「(宮下になら話すから呼んでくれと云われて出向いた宮下は)そこで私は会ったんです。そして云ったんです。こちらが分かっていることについては、(供述に)ウソは無いようだが、それだけで君を帰すような手品は出来ない。前だって、転向する、と言って約束し、まじめにやっていると葉書までくれたが、結局は(私が)だまされたんじゃないか。帰してやると、上司に報告できないよも、と跳ねつけたんですよ、そんなことが二、三回あり、また頼む、といって来たんです」。


 (私論.私見)「頑強な抵抗ぶり」について

 これによると、伊藤律は党再建活動の中心人物であることが見破られており、ここでは書かれていないが為に何度も拷問攻めにされていた。しかし、頑として口を割らなかった。当時の仲間の重要人物であった長谷川、後の細君松本きみらが自白した後も「伊藤は黙って頑張っているんですね」とあるのが真実であろう。「私は伊藤猛虎に、もう全部分かっているんだと云ってやれ、といって取り調べさせたのです」とある。これも真実であろう。


 宮下氏はこういう伊藤律の並でない器量を踏まえて次のように誘導していく。「そこで、一つだけ活路を与えてやろうと思った。我々が知らないことで、君の階級的意識に恥じないこと、君が階級的意識に恥じることは言えない人間であることは分かるが、積極的には階級的意識に恥じないで、警察が知らないであろうこと、しかも重要な話をすれば、考えてもいい、と言ったんですね。そうしたら『そんなものはない』と云うんで、『無ければ駄目だよ。君に扉を開けてやる鍵はやれない』と突っぱねたんです。そして数日後、話したのが北林トモのことです。『アメリカのスパイがいる、調べて御覧なさい』というんですね」。

 「(結果として、伊藤律がゾルゲ事件を引き出すことになってしまったことについて)端緒になってしまったことは確かです。伊藤律にしても、心外なことではなかったか。満鉄に就職したのも、岐阜の同郷で一高の先輩でもある尾崎秀実に世話になった。尾崎が捕まるような、そんな馬鹿なことを言いますか。イモヅル式というか、神風が吹いたようなもので、ゾルゲ事件の発覚は全く不思議なくらいでしたね」。

 「確かに人間的な面ではもろいところもあったが、階級的な闘士としては弱くない。強靭で、粘着力が強く、ポキポキ折れるのではなく、押されれば引っ込むが、別の場所で起き上がるんですね。例えば、僕に好意を持っているような様子を見せるが、僕は好意を持っているようには思わなかった。転向していないから、仕方がないが僕を利用してやるという気持ちが、そこにあると思った」。

(私論.私見)「北林トモ供述」について

 この宮下発言をどう読み取るべきか。れんだいこは、次期日共の指導者として輿望を担いつつあった伊藤律が特高の策略に篭絡された経過が問わず語りに漏洩されていると見る。ゾルゲ事件関係者の監視はこの頃既に行われており、何も伊藤律の供述を必要とすることは無かった、と見ている。宮下発言に拠れば、伊藤律は密告したというのではなく何気なく北林トモのことを『アメリカのスパイがいる、調べて御覧なさい』と自ら示唆したと云う。しかし、伊藤律に北林トモの関して何らかの発言をさせるよう誘導した可能性の方が強い。しかしてそれは伊藤律の思慮を越える当局の罠であり、それにうまく嵌められた、とれんだいこは見ている。この辺りは伊藤律証言、その他参考資料から解明していく必要のある闇の部分ではあるが。



【釈放後の伊藤律の歩み】
 伊藤律は8月末病気のため警察拘留の一時停止で釈放(書類送検へ)。概要「このまま放り込まれていては体が持たない。逃げはしない。転向するから釈放してくれと頼み、警察医が診察した結果、『監獄の病院に送るか、釈放するしかない。このまま獄中においたのできは生命の危険がある』と診断の結果、警察拘留の一時停止で釈放された」とある。

 この時の調書と思われるが次のように記載されている。概要「伊藤律(当時29歳満鉄東京支社調査部)は、俊敏にして共産主義に対する信念堅固なるものあり。検挙後数ヶ月にして、警視庁の峻烈なる一面、温情ある取調べに対し、遂に翻然転向を決意し、漸次の犯行を自供するに至れり」(内務省警保局編「社会運動の状況」昭和16年)。

 10月頃満鉄東京支社調査室ら復職。この時「日本における農家経済の最近の動向」を書き上げ、「満鉄調査月報」や「時事資料月報」に発表されている。この論文はかなり好評で、後にゾルゲ事件で逮捕される尾崎秀実に高く評価された。これが機縁となり、「何度か彼の私宅に呼ばれ、いろいろ話し合った」とある。

 1941.9.28日9.28日北林トモ検挙、10.10日宮城、10.13日秋山幸治と九津見房子、10.15日尾崎、10.17日水野成、10.18日ゾルゲとクラウゼン、ブーケリッチら一斉検挙、10.22日川合貞吉が検挙されている。引き続き1942.4.28日までに合計35名(うち外国人4名、女性は6名)が検挙投獄された。

 丁度この時期の9.29日伊藤律は、起訴のため久松署に再検挙されている。10.1日獄中より満鉄退社を申し出ている。


(私論.私見)「ゾルゲ事件関係者の一網打尽的検挙の最中の伊藤律再検挙」について

 つまり、ゾルゲ事件関係者の一網打尽的検挙の最中に伊藤律もまた検挙されている。この当時の伊藤律は満鉄東京支社調査室でひたすら業務しており、高い評価を受けている。ここでの検挙事由は見当らない。ゾルゲ事件とどう関わるのか真相は闇であるが、当局の手の内までは分からない。

 12.8日、日米開戦。

 1942(昭和17)年.6.4日伊藤律の予審終結、公判へ。6.28日保釈出所。「著述と翻訳で暮らしを立てる」ことになった。11月伊藤律が証人として東京地方裁判所に呼び出されている。12.28日伊藤律が東京地裁の第一審判決で懲役4年の実刑判決。上告。(長谷川浩は懲役6年、岡部隆司は死去)。11月懲役3年の判決。東京拘置所で服役。優遇され雑役係となった。

 1943(昭和18).6.29日伊藤律、大審院の上告棄却で原判決破棄、差し戻し(弁護士資格に問題)。東京高裁へ。

 11.11日伊藤律に東京地裁で懲役3年の実刑判決。12.20日東京拘置所に服役。翌春、豊多摩刑務所に移る。思想犯は第5舎と呼ばれる特別の建物の独房に入れられ、当初は封筒張りの仕事をさせられている。この時西沢隆司と相方になり、糊付けをしたようである。そのときの荷造り屋が大泉兼蔵であった。その後農業班に卸され、2、3ヶ月で教務課の図書係(雑役)に代わった。

 1944(昭和19).1月ゾルゲ・尾崎の死刑確定。



【米陸軍省が「ゾルゲ事件報告書」を突如発表、伊藤律にスパイ容疑を被せる】

 1949.2.10日、アメリカ陸軍省は突如、「極東における国際スパイ事件」と題する3万2千語に上る文書を発表した。通称「ウィロビー報告」と呼ばれている。この報告書は、ゾルゲ事件は伊藤律の密告により始まったとして、伊藤律とゾルゲ事件との関係を示唆し、次のような機密文書を意識的に漏洩している。「ゾルゲ一派は日本共産党とは連絡がないものと思われていた。しかし共産党の北林トモは明らかにこの一派の命令に従っていた。共産党員伊藤律は彼女が共産党を裏切ったと思い込み、彼女に仕返しすることを望んだ。そこで彼女がほんとうにスパイであるとは知らずに、警察に彼女をスパイであると通報した。警官は1941年9.28日、彼女を逮捕し、10月には関係者全部を検挙した」。

 つまり、「ゾルゲ事件の発覚に伊藤律の責任があり、その伊藤律が現在日本共産党の中央委員をして飛ぶ鳥を落とす勢いを見せている」という、伊藤律を痛打する内容となっていた。アメリカ陸軍省の「ゾルゲ事件報告書」は次期党指導者として党内基盤を固めつつあった伊藤律の政治的立場をぐらつかせた。そういう意味での政治的な文書であった。以降党内に「伊藤律スパイ説」がまことしやかに囁かれ続けることになり、徳球没後の失脚以降批判の材料に使われ、これが53.9月の除名に至る伏線となる。

 新聞各社がこの情報に飛びつき、「発端は伊藤氏取り調べ」、「伊藤律氏が密告す」と報じた。伊藤律は「私は関係無し、矛盾に満ちたデマ作文」と反論したが、伊藤律へのボディブローとなった。翌2.11日党中央はこれを躍起となって打ち消し、赤旗紙上で「ゾルゲ・尾崎事件の真相 共産党関係なし 特高憲兵警察の邪悪な謀略」を発表し、「伊藤律密告説」を打ち消している。


(私論.私見)「ウィロビー報告」の政治的役割について 

 この伊藤律とゾルゲ事件の関係に付き、今日判明している事実は、特高が有能党員の片鱗を見せていた伊藤律の経歴に傷を負わそうとして用意周到な仕掛けが為された結果、伊藤律がそうした罠を見抜けず誘い込まれたという経過である。しかし、この当時にあってはそういうことは不明で伊藤律のなにやら胡散臭さのみ浮き上がらせられるという政治的効果を生んだ。

 アメリカ陸軍省ルートの政治的エポック期のタイミングであることの胡散臭さのほうを見るべきであろうが、そういうことにはならず、統制委議長宮顕の伊藤律追撃の好材料として利用され、1949年末には伊藤律査問に向けての政治局合同の会議まで開かれている。



【50年分裂時の伊藤律】
 1950年の党中央分裂では徳球の片腕となり、所感派(主流派)を指導する。マッカーサー司令部による6・6追放で地下活動に入る。これ以降当局との闘いもさることながら、国際派とりわけ宮顕グループとの死闘戦に突入する。徳球が北京へ密航して以降実質上の党中央最高指導者として切り盛りした。1951年秋国内活動を「臨中」指導部に任せ、徳球の後を追っかけるようにして中国に渡った。早速「北京機関」に参加し、その中心的人物として活動を始める。

 この時の様子を伊藤律は次のように伝えている。伊藤は、51年秋口密航し北京の党機関に入ったが、この時既に、表面上穏やかなうちにも徳球対野坂・西沢間に底流での対立が横たわっていることをキャッチした。徳球書記長が野坂に対し、表面上はつとめて平静な態度をとっていたが、強い批判と不信を抱いている様子が知れた。徳球書記長は娘婿の西沢に対しても嫌悪しており、既に精神的に絶縁していた。概要「西沢と野坂は同じ思想だ。彼を日本へ帰してしまおうと思う」とまで云い切っていたが、逡巡しているうちに徳球が倒れることになった。

 1952年頃宮顕を頭目とする当時の国際派の連中は、徳球のアキレス腱として伊藤律を標的にして、非難.攻撃を集中していた。この件を廻って、モスクワでの徳球―スターリン会談でも議題に挙げられている。5月頃徳球はモスクワへ詣でスターリンと会談したが、この席上伊藤律問題が討議され、徳球は次のように発言している。概要「律は戦時中誤り(転向のこと−注)を犯したが、ゾルげ事件については政治局で調査済みである。律スパイ説は敵の反共デマである。彼は戦後よく働き、努力している有能な幹部であり、アメリカ帝国主義のスパイなどではない、と説明して先方も納得した。が、今後も画策する奴があるかも知れないから用心せよ。徳田は北京に帰ってきてから私にこう語った」(1982.10.13日長谷川浩宛書簡)。


 ちなみに徳球対西沢の対立に興味深い史実が「伊藤律回想録」で明かされている。それによると、徳球対西沢の対立は、51年春のモスクワ訪問の時から先鋭化したようで、微妙に宮顕問題が絡んでいた。西沢が宮顕との妥協を進言したのに対し、徳球が断固これを受け付けず、以来徳球は西沢を娘婿としても義絶すると言明するに至ったと云う。徳球対宮顕の対立の凄まじさを物語っていよう。


【伊藤律スパイとして除名される】
 1953.9月北京機関の藤井冠次は野坂の命で帰国し、伊藤律に代わって国内闘争を指導していた志田重男に会い、伊藤律処分声明を伝える。9.15日伊藤律除名公告が突如為された。この時徳球書記長は回復見込みの無い病状を呈しており、国内の同志に対して、徳球も参加の上での査問結果であるかのように偽装されていたが知る由もなかった。この伊藤律の失脚で、宮顕の党中央登壇の舞台が回ってくることになる。

 9.21日アカハタ紙上に「伊藤律処分に関する日本共産党中央委員会声明」が発表され、伊藤律を裏切り者=特高のスパイと断定した上で除名処分としていた。一見して宮顕の手になる文章であることが見て取れるしろものである。「個々の党組織を敵に売り渡すスパイの役割」が指弾され、「彼の党及び国民に対する許すことの出来ない犯罪行為は、党機関の査問に対する彼の自供並びに、党中央委員会と統制委員会の調査した諸事実によってバクロされた」、「彼の階級敵犯罪行為は、1938年、彼が最初に検挙されたときに、敵に屈服して以来、戦前、戦後を通じて一貫して続けられてきた」、「戦後、彼が党内で果たした反階級的行為は、アメリカの占領という事情によって、さらに政治的となり、単に個々の党組織を敵に売り渡すスパイの役割から、党の政策をブルジョア的に堕落させ、党内において派閥を形成して、党の組織の統一を混乱に導き、党を内部から破壊し、米日反動勢力に奉仕することにあった。それは政策面においては、彼の農業理論、社共合同論、2.1スト後における新しい労働運動の盛り上がりに際して執った職場放棄の極左的な挑発行動の煽動、及びストライキ運動に対する極端な日和見主義的抑制等においてあらわれ、組織の面においては、党中央並びに地方の諸組織内に彼の個人的派閥を形成することによって、実行にうつしていた」等々と記されている。

 10.1日伊藤律の妻きみの次のような絶縁声明がアカハタに掲載されている。この声明について、袴田里見は「聞くところによると、夫を採るか党をとるか、と査問された挙句に書かされたということだった」(「私の戦後史」)と伝えている。声明文は次の通り。「私は9.21日付アカハタ発表の党中央委員会声明『伊藤律処分に関する声明』を絶対支持し、心からの憤激をもって、今後ますます強まるであろう米日反動の政策に対して闘うことを誓います。率直に言って、事実を聞かされた時は、大きなショックを受けました。結婚してから15年間、どんなに苦しいことがあっても、彼が革命の為に生命を捨て、闘っているということが、私の支えでした。(中略)しかし、彼は自分自身の出世主義に陥り、党の集団主義の原則を破り、あまつさえ、米日反動スパイとして敵とつながり、党と国民の利益を完全に裏切ったのです。この本質を理解したとき、今まで彼に対して持っていた私の愛情と信頼は一瞬に崩れ、憎しみに変わりました。二人の子供も将来成長した時、父親としてでなく階級的裏切り分子として彼をみるようになるでしょう。(後略)」。

 1953.10.14日亡命先北京で客死した59才。後ろ盾を失った伊藤律は野坂、西沢らの暗躍により中国で投獄される。まもなくスパイとして除名される。以降、消息不明となり、死亡説も囁かれていた。これが、中央委員.同書記局員.同政治局員.アカハタ主筆と異例の抜擢でたちまち最高指導部にのしあがり、徳球書記長に重用されて絶大な権力をふるった伊藤律の末路であった。伊藤律の除名は2年後の「六全協」で再確認され、以降事あるごとに伊藤律スパイ説が宮顕党中央より執拗にプロパガンダされていくことになった。

(私見・私論)「伊藤律処分に関する声明」の内容について

 「伊藤律処分に関する日本共産党中央委員会声明」は貴重な歴史資料足り得るように思われる。この声明文は誰の手になるものであろうか。れんだいこには、宮顕特有の書き方であることが分かる。となると、この時点で、宮顕が事実上党中央の一角に潜り込んでいることになる。ということは次のような認識を可能にさせる。この当時、表見的には徳球−志田系執行部時代であるが、志田執行部はその誕生時点の早くより宮顕勢力との緊密な連動によって運営されていたのではないか、と言う推論が成り立つのではなかろうか。一般に宮顕が党中央に返り咲くのは1955年の六全協によってと理解されているが、正確には1953年秋頃には既に志田系執行部内に食いついているということになる。これはかなり重要な指摘であると自負する。

 この声明には次のような記述の下りがある。「単に個々の党組織を敵に売り渡すスパイの役割から、党の政策をブルジョア的に堕落させ、党内において派閥を形成して、党の組織の統一を混乱に導き、党を内部から破壊し、米日反動勢力に奉仕する」役目を、伊藤律に被せている。まさに宮顕こそこの御仁であるが、自分の党内的姿を伊藤律に投影し、これを口汚く罵るこの手法と論理に辟易せざるを得ない。


 宮顕は、伊藤律スパイ説を流布することにより徳球批判に向けていくことがその狙いに有った。次のように述べている。「彼を重用した徳田の政治責任も、中央委員会の連帯責任も何ら問われなかった。伊藤律個人一切に責任を負わせる官僚主義特有の自己保身法が示されていた」。つまり、かように伊藤律を落としこめてもなおも不満であるらしい。

 尾崎秀実と異母兄弟の関係にある尾崎秀樹(1999年逝去)は文芸家としてその地位を確立していたが、ゾルゲ事件に強い関心を持ち、1959(昭和34)年「生きているユダ」を著し伊藤律スパイ説に立つ論を展開している。



【伊藤律奇跡の生還、党中央の醜悪な弁明】

 1980.8.23日新聞各紙の夕刊は、一面トップで、伊藤律の生存ニュースを報じた。毎日新聞社編「伊藤律陰の昭和史」では、この間、伊藤律の息子の淳が北京に赴き、「スパイの濡れ衣を晴らす」ことに執念を燃やす律と、「今更古い話を蒸し返されるのは迷惑」と主張する淳との間で、綱引きが為されたと伝えられている。

 8.30日党中央は、「伊藤律の帰国を廻る問題について」と題する広報部発表をしている。概要「日本共産党中央委員会が、伊藤律の身柄を中国側に預かってくれと依頼した事実はありません。伊藤律への措置は、1950年の分裂の後、徳田球一を中心とした『一方の側』の『亡命者の政治集団』が、勝手にやったことで、伊藤律の帰国が今日の日本共産党に何らかの重大な影響を与えるかの如き論評は、まったく的外れのものです」。


 1980.9.3日伊藤律奇跡的な帰国。密航以来29年ぶりの帰国であった。

 党中央はすばやく反応し、記者会見して、無署名論文「歴史の真実と伊藤律の『証言』」(赤旗に3回連載)と野坂による「『北京機関』に関する伊藤律の『証言』について」論文を発表した。

 9.11日党本部で都道府県委員長会議が開かれ、宮顕委員長が、異例の公開で会議を取り仕切った。宮顕は、冒頭挨拶の中で次のように述べている。「伊藤律は明らかなスパイだった。数多い同志を売ったばかりでなく、特高とも連絡をしていた。除名は律の供述と十分な傍証をもって確認した。この発表についてはこの30年間、本人からの異議は受け取っていない。律がマスコミで大変な大物扱いされ、律の口次第で歴史が変わるかのように云われている。分裂の状況に乗じて律がうまく立ち回ったという点はあっても、律が党史の重要な曲がり角をつくりあげたものはない。我々は、党から除名された者を拘束する権限は一切無い。だから律の帰国にも介入していないし、今後の私生活を『平和な老後を過ごしたい』というなら、それも彼の勝手である」。


(私見・私論)「宮顕声明」の内容について

 逐条解説する。
宮顕 「伊藤律は明らかなスパイだった」。
れんだいこ こう云い切る以上、逆に云われても仕方なかろうね。
宮顕 「数多い同志を売ったばかりでなく、特高とも連絡をしていた」。
れんだいこ これはお前のことでは無いのか。
宮顕 「除名は律の供述と十分な傍証をもって確認した」。
れんだいこ 「律の供述」だと? なるほど袴田らに取りに行かせたが、律はその際提示された取引を断固として拒否したと主張している。小畑の際にも左様な言辞を弄んだが、伊藤律がどんな供述したのか。明らかにして見たまえ。「十分な傍証」だと?傍証で十分なものがあるかい。
宮顕 「この発表についてはこの30年間、本人からの異議は受け取っていない」。
れんだいこ 何と言うことを云うのだ。どうやって伊藤律が異議を伝えることが出来たと云うのだ。
宮顕 「律がマスコミで大変な大物扱いされ、律の口次第で歴史が変わるかのように云われている。分裂の状況に乗じて律がうまく立ち回ったという点はあっても、律が党史の重要な曲がり角をつくりあげたものはない」。
れんだいこ そう悪し様に云うからには、逆に云われる場合もあるという責任でそう云っているのだな、それならよし。
宮顕 「我々は、党から除名された者を拘束する権限は一切無い」。
れんだいこ 君に拘束されるのだけは勘弁願うよ。
宮顕 「だから律の帰国にも介入していないし」。
れんだいこ それが自慢になるかよ。
宮顕 「今後の私生活を『平和な老後を過ごしたい』というなら、それも彼の勝手である」。
れんだいこ この恫喝は尋常では無い。下手にしゃべり動くなら容赦しない、弁えろという言外の意味合いだろうが、怖いねまったく。
 
 伊藤律幽閉の当事者であった野坂は、「伊藤律の問題について」で苦しい弁明をしている。9.19日付け赤旗は、野坂参三議長の次のような声明を載せている。これまで公式的に伊藤律とは東京で別れて以来会ったことがないとしてきていた野坂が、伊藤律生還という事態に対して種々弁明している。そのハイライトは、「こうして西沢と私とは、『北京機関』内部の問題と同時に、今言ったような過去における彼の行動、特にゾルゲ事件に彼の発言、行動がきっかけをつくったというのが事実とすれば、これは重大問題だと考えました。そして、この際、伊藤律の問題を『北京機関』の問題として取り上げなければならない、ということを、私と西沢で決めました。その時は、徳田君のほうは脳溢血で倒れて、これには関与できない状態になっていました。そこで、周恩来など中国側の最高幹部とも協議して、伊藤律を『北京機関』から離し、別のところに住まわせて、十分に時間をかけ、深くこれらの問題を調査する必要があるという結論に、我々は到達したのです。これが1952年の10月ごろです。伊藤が北京に来てから、丁度1年目ぐらいです」、「私も1959年に中国の国慶節の為に短期間中国に行ったことがあり、その時、伊藤律がどうなっているか尋ねたことがありました。その時には中国側からは何の返事も無く、その後もありませんでした」。

 この野坂のコメントは、野坂の暗躍により伊藤律が虜囚とされた事実、その後袴田ら何人もの日共特務官が獄中に出向き、「転向」を迫っている事実、伊藤律が獄中からの叫びを中共を通し何度も日共に届けている事実等々に対し、ほぼ完璧なウソである。党中央がその気であれば、この時野坂の責任を問い、野坂の全活動履歴を洗い直すことが可能であった。しかし、同じ穴のムジナ宮顕にそういうことが出来る訳も無かろうが。

 9.26日赤旗は、宮顕の「戦後史における日本共産党」講演を掲載した。宮顕は、この講演の中で伊藤律に触れて、「伊藤律は警察につかまっては警察の機嫌を取り(笑い)、また党に入っては家父長的な幹部の機嫌を取るというような点で、出色の才能をもっていた(笑い)」、「伊藤律はそのまわりで幹部の不和を煽ったり、おべんちゃらをいって徳田書記長の誤りを助長した」と人格批判を繰り広げている。


 こうした共産党中央の一連の対応の後、「伊藤律証言」が朝日新聞と週刊朝日に連載された。除名後27年間の沈黙を破る伊藤律自身の言葉が披瀝された。

 10月初旬伊藤律、小松雄一郎に「獄中27年の記録」語り始める。12月まで続き、朝日新聞がこれをもとに12.22日より7回連載で概要「伊藤律の証言 故国の土を踏みて」を発表する。
 



【渡部富哉氏の「偽りの烙印」が、伊藤律端緒説の虚構を剥ぎ取る】
 「伊藤律端緒説」の虚構が明るみにされる日がやってきた。社会運動資料センター代表・渡部富哉氏による執念のゾルゲ事件研究が世の迷妄を打ち破った。彼は、さまざまな文献を調査し、「伊藤律逮捕前から特高警察によって北林トモが既にマークされていた」事実を突き止めるた。このことは、「伊藤の供述によって北林が逮捕された」というこれまでの通説を根底から覆すものになった。このあたりの事情は「偽りの烙印」(渡部富哉・著、五月書房)に詳しい。

 それに拠れば、特高警察の捜査関係文書の当初は北林トモについて日系米共党員「某女」としか記載されていなかった。が、伊藤の逮捕と時を同じくして「アメリカ帰りのおばさん」に表現を変えている。その事情について、渡部氏は、伊藤律が端緒であることを「装う」ため、伊藤に「アメリカ帰りのおばさん」に会った、との供述をさせ、それに合わせる形で「某女」→「アメリカ帰りのおばさん」への記述変更が行われたのではないか、と云う。この推測が正しいかどうかは別にしても、北林が「某女」という表現で、そのマークや身辺捜査が伊藤の逮捕より1年も前に始まっていたことが裏付けられたことになる。つまり、「伊藤の供述がゾルゲ・尾崎グループ摘発の端緒でないことは明白になったといわなければならないのである」。

 伊藤律が着せられていた「濡れ衣」は、こうしてついに剥ぎ取られた。伊藤律端緒説は崩壊したのである。では、北林トモ・宮城与徳を警察に「売った」のは果たして誰なのか? 渡部氏のその後の追跡に拠れば次のようになる。日本の特高警察文書がなぜかロシアに渡っていて、その中に伊藤律の取り調べを担当した伊藤猛虎の表彰に関する文書があったという。表彰の理由について「ゾルゲ事件捜査で多大な功績を上げた」と書かれているとあるが、それよりも重大なことはこの文書がゾルゲ事件の捜査開始を「1940年6月27日」としていることである。

 「伊藤律端緒説」論者が拠り所にしてきたのは、元特高警察官・宮下弘の「回想」であり、宮下氏は一方で伊藤律のスパイ性を否定しているものの、他方で伊藤律の取り調べが「1941年6月上旬」に行われ、その供述を元にして同年「6月下旬」に北林トモの逮捕にこぎつけたと述べており、伊藤律自供説を補強していた。が、新たにロシアで発見された文書の意味するところは宮下発言を否定する。

 さて、「ある人物」の疑惑であるが、同じ特高警察の表彰に関する文書の中に河野啓なる警部補についても記載があり、そこには「宮城与徳の個人的な知人を取り調べて宮城を自供に追い込んだ」との表彰上申理由が述べられているという。個人的な知人とは誰なのか・・・それは解明されていないが、渡部氏は疑惑の人物として松本三益という名前を挙げている。

 いずれにしても、伊藤律端緒説の根拠となってきたのが一特高警察官の個人的「回想」であるのに対し、警察内部から公文書の形を取ってそれと異なる事実が出てきたわけである。渡部氏の主張はさらに補強される一方、伊藤律端緒説の根拠が崩壊したことは確実であろう。ゾルゲ事件・総合研究のページ参照)




(私論.私見)