戦前テーゼ通史考戦前日共史(補足)戦前党綱領及びテーゼの変遷考
(「22年テーゼ」、「26.2月コミンテルン執行委員会幹事会指針」、「27年テーゼ」、「28年コミンテルン第6回世界大会指針」「31年テーゼ草案」、「32年テーゼ」考)

 (れんだいこのショートメッセージ1)
 本サイトで党綱領の変遷の概要を見ていくが、我々はここから何を学ぶべきだろうか。本来ここが一番肝心なところだが、ケッタイナ事にこういうところに研究が向かった例を知らない。もっとも、知らないのはれんだいこだけということもあるので、ご承知の方は教えてほしい。

 この考察が何ゆえ大事か。それは、一つに、党綱領は自前で作り上げねばならないということ。二つに、別組織を作ってでも、それを為すに足りる理論的能力の向上に営為努力せねばならないということ。三つ目に、新たな問題が発生すれば、共同テーブルで話し合わねばならないということ。これらはいずれも作風問題に収斂するが、恐ろしいことにというか馬鹿げていることに、日本左派運動はあまたの頭脳を抱えながらこの肝心要のところであまりに幼稚じみている経緯を見せてきている。ここのところの反省が為されない限り、日本左派運動は決して歴史の主人公にならないだろう、と思う。

 という観点かられんだいこの「戦前党綱領の変遷論評」に向かうことにする。もう一つその意義をを付言すれば、徳球系の跡目を簒奪した宮顕系党中央のあまりに馬鹿げた現党綱領の諸規定、例えば、従属規定論、無限後退式の二段階革命論、敵の出方論、議会万能主義論等々に的確な批判を為す為にも必要な観点となるだろう。

 2005.4.30日再編集 れんだいこ拝

 (れんだいこのショートメッセージ2)
 本サイトで、「戦前日共史(補足)戦前党綱領及びテーゼの変遷考」を試みる。論点が多岐にわたるので全てを網羅する訳にはいかない。そこで、明治維新の評価に始まる現状規定論、革命戦略戦術論に関心を絞りつつその変遷を追ってみたい。気づくことは、「学者バカ」を地で行く愚昧さをみせており、学べば学ぶほど迷路に陥り、無味乾燥駅へ辿り着く仕掛けになっている。

 いわゆる理論家、歴史家の理論に全く信が置けない。なしてこうなるのかは分からないが、そのサマは凡庸というよりも痴呆である。どこで分かるかというと、何とかして明治維新の評価を落としこめるように理論構成していることで判明する。本来なら、明治維新を高く評価し、これを学ぶことから始めねばならぬところ、逆に貶して関心を遠ざける。そういう理論学習を強いる。

 いわゆる左派がそういう理論をぶつことにより明治維新研究が放擲されてしまい、右派の一手専売にさせられてしまった。代わりに、ロクデモナイ粗雑な代物でしかないロシア革命史を手に採るように語る紙芝居士を大量生産することになった。こうなると喜劇には違いない。当人が大真面目に語れば語るほど悲劇となる。

 話を元に戻す。明治維新は、素直に見れば、絶大に偉大な「歴史的革命」であった。権威好きな者には、レーニンがそのように評価し、その後の動きを注視していたことを伝えておこう。れんだいこが観るに、史上数々指折り数えられる革命の中で最も首尾よく歴史の歯車を回転させたのが明治維新であり、他をもって比較する事例がないほどに素敵な革命であった。

 それを、封建革命かブルジョア革命か云々論議にうつつを抜かして歴史的価値を実証的に研究することを放棄してきたのが、日本左派運動のイデオローグ達であった。それは全くの思弁主義でしかない。そんなことは基本的にどうでも良いのだ。何もイデオロギーの型枠に嵌めてしまうことはないのだ。現実からイデオロギーを汲み出すのではなく、逆にイデオロギーから現実を一色の規定で括ろうとすること自体却って害であろう。むしろ、当時の人々が時代の矛盾と責務に対してどのように反応し、どう展望を切り拓いたのか、それを探ることが先決なのだ。

 その次に、芳醇なコクを持っていた明治維新の回天運動が、明治新政府によりどのように継承され、されなかったのか、捻じ曲げられたのか、切り捨てられたのか等々を考究すれば良い。その際の天皇制強権政治の害悪を跡付ければよい。あるいは、近代の真性ベクトルである民族主義の流れの中で、どう右往左往したのか跡付ければよい。

 それらの当たり前のことが出来ず、何やらシチ面倒くさく小難しくかといって無内容な駄弁を性懲りも無く延々と続けていったのが、何と本家・戦前日共のイデオローグ達であった。そのサマがこれまた何と戦後左派運動にも延々と続いている。そう思うから故に、戦前の体質から分析せねばならないという訳である。そういう構図で、どこまで能く為しえるか分からないが、「戦前日共史(補足)戦前党綱領及びテーゼの変遷考」を検証してみたい。

 2005.2.5日再編集 れんだいこ拝


 関連サイト「日本共産党の創立考(創立時の動き)」

【結党時の綱領討議の状況について】
 1922(大正11)年7.15日に第一次日本共産党が創立された際に、党綱領は継続審議となり採択されなかった。いやしくもというべきか、マルクス主義政党が綱領抜きに設立されるのは退廃であろう。が、逆にいえば、ロシア10月革命の驚天動地の衝撃、米騒動での大衆的革命機運の上昇という熱気の中でまずは党創立自体を自己目的に追求し、それには成功した、評価できるのはそこまで、というのが真相のように思える。

 ところで、党綱領を廻って何が紛糾したのかというと、主として「君主制の廃止」スローガンを入れるべきか入れざるべきかを廻ってであった。これが問題になる背景に1910(明治43)年の「大逆事件」(幸徳秋水らが検挙され翌年刑死の憂き目に遭った)の影響があった。当局の弾圧激化を徒に招くだけとの配慮からこのスローガンが採択されなかった。今日、日共党中央は或る時には、「創立時から、天皇制に一貫して反対してきた輝かしい伝統を持つ党」と称しているが、厳密な意味では問題がある。以下、この時の理論的諸課題を明記しておく。

@ 党創立の是非論  労働運動との絡みで党創立の時期尚早論が発生しており、その是非論を廻って紛糾した。
A 君主制廃止の是非論  「君主制(我が国では天皇制)に対する態度問題」を廻って見解が纏まらなかった。
B 当面の革命戦略論  当面の革命をブルジョア革命とプロレタリア革命のどちらを目指すのか、その相関論を廻って議論が多出し纏まらなかった。
C 「アナ・ボル論争」総括論  「アナ・ボル論争」をどう総括するのか。これも難しい問題であったが、真剣に議論されることは無かった。

「22年テーゼ」について

 1922(大正11)年11.5日よりコミンテルン第4回大会がモスクワで開催された。コミンテルン第4回大会は、日本共産党の創立を正式に承認し、これによって日本共産党はコミンテルンの一支部としての公認資格を得ることになった。

 この時、活動方針として、コミンテルン議長のブハーリンによって直々に起草された「日本共産党綱領草案」(以下、「22年テーゼ」と云う)が与えられた。高瀬がこれを持ち帰り、日本共産党へ指示された。こうして、この「22年テーゼ」が、日共運動の最初の党綱領となる。

 党中央は、綱領審議委員会を設け、委員長・佐野学、委員・山川、堺、近藤らのメンバーで審議を進めていくことになった。翌1923(大正12).5月、臨時大会で議題にされたが議論が纏まらず、大会後の中央委員会に持ち越された。しかし、6.5日の一斉検挙に遭い、結局正式の決定を見ぬまま「27年テーゼ」へと向うことになる。

 「22年テーゼ」は次のように指針していた。

@ 明治維新の評価  「明治維新は封建秩序を維持した封建革命であったのか、不徹底ながらもブルジョア革命を達成したのか」を廻って明白に規定しなかった。
A 「残存封建制規定」 概要「日本の資本主義は今なお前代の封建的関係の痕跡を持っており、封建制度の残存物は今日なお国家の機構において優位を占めている」。
B 「国家権力の質規定」  概要「国家機関は、なお商工ブルジョアジーの一定部分と、大地主とからなるブロックの手に握られている」。日本の国家権力を、概要「天皇、地主、資本家の三者による三位一体権力」と規定した。
C 立憲君主制の評価  欧米流の立憲君主制−政党内閣制との比較検討。
D 資本主義の現状と見通し  世界資本主義の没落を強調する激烈没落論(ヴォイチンスキー)。世界資本主義の相対的安定論(ブハーリン)
E 「革命戦略・戦術論」  「順序式二段階革命論」。概要「当面の革命はブルジョア革命を急ぐべきであり」、プロレタリア革命との関係については、「ブルジョア革命の完成はブルジョアの支配の転覆及びプロレタリア独裁の実現を目標とするところのプロレタリア革命の直接の序曲となりうるであろう」。
F 「当面の運動方針」  @・君主制の廃止、貴族院の廃止、A・普通選挙権の実施、B・8時間労働制の導入、C・土地国有、D・ソビエトロシアの承認等々政治・経済・農業・税制・国際関係に関する22項目の行動綱領を提示した。
 日本共産党綱領草案(1922年ブハーリン起草テーゼ)

 日本共産党は万国共産党の一般的要求から出発して、日本資本主義の特殊性を考慮しなければならぬ。戦争の破壊作用に他国の如く影響されなかったが故に、戦時中特別の繁栄に成功した日本資本主義は、だが同時に甚だ著しく旧封建的関係の特徴を示している。土地所有の著しい部分が今日に於いてもなお半封建的大地主の手中にある。しかしこの大地主の最大のものは日本政府の首長たる天皇である。

 それと共に大農の所有する広大な土地を自己の農具を持つ農民が地代(小作料)を払って耕作するのを見る。しかしこの地代は農民の土地滅失の増大する結果絶えず騰貴し、いわゆる飢餓地代となっているのである。かかる封建的関係の残存物は大地主と一定部分の商工資本家とのブロックの手中にあるところの国家権力の構成に一層鋭く表現されている。

 国家権力の半封建的性質は貴族の大きな重要性とその指導的役割並びに日本国家の全憲法の性質の中にあらわれている。かかる事態に於いては単に労働者階級、。農民及び小ブルジョアジーが国家機能処理の可能性を奪われているのみならず、現政府の反対派たるいわゆる自由主義的ブルジョアジーの著しい部分もまたこれを奪われている。

 資本主義の発展に伴って自由主義ブルジョア的反対派の要求もまた高まっている。この要求は普通選挙と国家権力の民主化との要求に集中される。他方、資本主義の強力な発展はブルジョア革命の進展に附して、労働者階級並びに広汎な農民層を闘争場裡に出現せしめる。かくてこの民衆層はこの国の生活における能動的な政治的素因となる。軍需工業の荒廃の結果として戦後に於いて現われた猛烈な経済恐慌は階級闘争と一般に政治的危機とを極度に先鋭化せしめた。

 かかる条件の下に於いて最もありそうなのは社会的発展の行程が、現在政治制度、種々の社会的勢力と階級がこれに反対し合流しているところの現存政治制度の徹底的破壊に向うであろうということであるとはいえ、強固な労働階級と地代の窮迫を追及する革命的農民大衆とが既に存在している時期にブルジョア革命の完成がもたらせるのであるから、ブルジョア革命の完成はプロレタリア革命の直接的序曲に転化するであろう。しかしてこのプロレタリア革命の目的はブルジョア支配の打倒とプロレタリア独裁の実現とである。

 プロレタリアートの独裁の為の闘争を目的とする日本共産党は、現存政府に対する闘争を真に遂行し得る一切の社会的勢力を糾合するという活動を持っている。けだし現在の政府の打倒は独裁の為の労働者階級の闘争の不可避的一段階を形成するからである。

 日本共産党はブルジョアデモクラシーの敵であるとはいえ、過渡的合言葉として日本政府の打倒と君主制の廃止というスローガンを自己のものとし、普通選挙の執行のために闘わねばならぬ。党は共産主義運動の発展段階に於いて左右し得る勢力を徹底的に糾合し、その指導を確保し、日本プロレタリアートのソビエト権力のため一層広汎な闘争のために道を開くということをしなければならぬ。

 不可避的に大農政府に対する強暴な反対派に移って行くに違いないところの広汎な農民層を利用することが特に主要である。自由主義的及び急進的ブルジョアの種々なる集団は、それで又常に農民大衆を獲得することに努力するであろう。それ故に共産党は大地主に対する一切の行動に於いて農民を支持し、この運動を一切の手段を尽くして促進、発展せしめ自由主義的ブルジョア的改良主義者の中途半端と不徹底を暴露する活動を持っている。

 労働者階級の党は天皇の政府に対する闘争に際して、よしこの闘争が民主主義的合言葉の下に遂行されるにせよ、如何なる場合にあっても傍観するを許されない。党の活動は一般的運動の不断の深化、一切の合言葉の先鋭化、並びに現存政府に対する闘争の経過中における最重要な地位の獲得である。

 この第一の直接的任務が解決され、次に以前の同盟者の一部が打撃を加えられた階級や層の側に移行し始めるや否や、日本共産党は革命を前進せしめこれを深化し、労働者農民ソビエトによる権力の獲得を実現するよう努力しなければならないであろう。党は又、プロレタリアートと農民の階級組織を創造、確立拡大し、プロレタリアートの武装を促進することによってこれを為さなければならぬ。それ故に民主主義的合言葉は日本共産党にとっては取りも直さず天皇政府に対する臨時的闘争手段を意味する。即ち、この闘争の過程に於いて現存政治制度の打倒という最も直接的任務が達成せらるるや否や直ちに無条件に放棄しなければならぬ手段を意味する。

 かかる考えから出発して日本共産党は次の如き最も緊要な要求を掲げる。

 A 政治敵領域に於いて
 1、君主制の廃止
 2、貴族院の廃止
 3、18歳以上の一切の男女に対する普通選挙権
 4、一切の労働者同盟、労働者党、労働者クラブその他の労働者組織に対する完全な結社の自由
 5、労働者階級に対する完全な出版の自由
 6、屋内、屋外における労働者集会に対する完全な集会の自由
 7、示威運動の自由
 8、自由罷業権
 9、現在の軍隊、警察、憲兵、秘密警察等の禁止

 B 経済敵領域に於いて
 1、労働者に対する8時間労働制
 2、無所得保険を含む労働者保護
 3、市価による労賃額の規定、最低賃金の確保
 4、工場委員会に対する生産管理、企業家及び国家に対する労働階級の公的機関として労働組合の承認

 C 農業の領域に於いて
 1、天皇、大地主、教会の土地の没収即ち無償没収とこれが国家への移管
 2、貧農な村の為の国家的土地基金の制定、特に以前自己の農具を持った小作人として耕作していた一切の土地を私有財産としてではないが農民に渡すこと
 3、累進所得税即ち所得による課税の規定を全ての一層高い所得段階が著しく高率な私税負担を負う如くする
 4、特別奢侈税の設定

 D 対外策の領域に於いて
 1、あらゆる侵略経過の中止
 2、朝鮮、支那、台湾、及びサガレンより全ての軍隊を撤退すること
 3、ソビエトロシアの承認

 日本の労働者階級は現政府打倒の途上に於けるプロレタリア独裁の建設のための闘争に於いて、それが一の統一的な集中化された指導をもつ時に於いてのみ勝利を占めることができる。ある革命的分子(無政府主義者、サンジカリスト)がかかる指導に対して叫ぶ抗議は、この分子が闘争の決定的瞬間に於いて不可避的に発生する全情勢を思い浮かべることを理解していないという事情に結びついている。遅かれ早かれこの闘争は、強固な集中的機関を左右している国家権力との直接的衝突にまで立ち至るに違いない。この機関の権力は意思の統一と組織された勢力の統一によってのみ達成されるところの革命的プロレタリアートの行動の最大の計画性を要求する。それ故に日本共産党の最も緊切な活動は労働組合を獲得し、この組織に党の影響をしかと植え付けることにある。

 このことは先ず何よりも、労働組合に於ける黄色、愛国主義的、社会改良主義的指導者のなお存在する全ての影響の除去と、労働組合に組織された広汎な大衆の間における共産党の権威の昂揚とを要求する。党は、企業家並びに国家に対して向けられた労働者の全ての行動を支持し未だなお微々たる労働者の全ての運動における指導を確保する義務がある。党は全力を尽くして労働者との強き結合を追及し労働者からの隔離を招来し得る全てのことを避けねばならぬ。

 日本の労働組合に於いて無政府主義者やサンジカリストがなお影響を持っている限り党はこれと固きブロックを結び、共同闘争の遂行の為に結合しなければならぬ。同時に党は闘争の正常を阻止せんとする彼の側に存在する偏見を克服するようにこの労働者階級の革命的分子を援助しなければならぬ。

 党は又なかんづく貧農の広汎な層を自己の影響下にきたらす手段を採用する義務がある。ブルジョア的反対派的運動に関しては党はこの運動を利用するが、同時にその不徹底を無慈悲に批判し又労働階級の運動の増大に驚いたり、リベラル。ブルジョアジーが確かに犯すに違いない裏切り的行為を暴露する義務がある。

 共産インタナショナルの支部としての日本共産党は、労働者の世界同盟の旗の下に国際プロレタリアートの最後の勝利と世界独裁に向って進軍する革命的プロレタリアートの強力な軍隊の一闘争部隊としてその義務を果たすであろう。
 1923.3月臨時党大会が開かれ、「22年テーゼ」の採択を期したが又も「君主制の廃止」スローガンを廻って議論が紛糾、継続審議となった。結局、第一次共産党時代においては「君主制の廃止」スローガンは日の目を見ることなく潰(つい)えている。

【「26.2月コミンテルン執行委員会幹事会指針」について】
 1926年2月、コミンテルン執行委員会幹事会は、「日本問題の決議」(以下、「26.2月指針」と云う)をしている。これが先駆となってこれから述べる「27年テーゼ」の作成に向かうことになる。「26.2月指針」は、1924年から25年の護憲三派内閣の成立に続いて憲政会単独内閣が成立したことを評価して、「世界戦争の間に日本の資本主義は急激な発展を遂げ、爾来地主のヘゲモニーのもとにあった資本家・地主のブロック政権は、今や完全にブルジョアジーがそのヘゲモニーを握るに至った」と規定し直していた。「27年テーゼ」は「26.2月指針」のこの点に関する規定を継承し、更にこれを明白にしていくことになる。

【「福本テーゼ」について】
 従来、テーゼ考において、1926.12.4日の共産党再建大会(第二次共産党結成大会)を指導した福本イズムをそれとして評する観点が見られない。しかし、れんだいこ史観によると、22年テーゼと27年テーゼの谷間に咲いた福本テーゼを顧慮せずんばおれない。もっとも、福本テーゼという言葉は史上に存在しない。それを用いるのはどうかと思うが、第二次共産党結成時の党理論として位置づけ、これを福本テーゼと呼ぶのに何ら差し支えないと思うので、以下れんだいこの造語により福本テーゼと云うことにする。

 では、福本テーゼにはどのような特徴が見られるのか、これを概略しておくことにする。その1・日本資本主義急速没落論の否定。その2・平板的二段階革命論から急速転化型二段階革命論への深化。つまり、まずはブルジョア民主主義革命という論に対し、急速にプロレタリア革命に転化するブルジョア民主主義革命の展望を打ち出した。その3・山川イズム的合法主義運動ではなく、前衛的組織論の下での運動を指針させた。これに基づく「山川氏の方向転換論の転換より始めざるべからず」論文が熱狂的に支持された。その4・明治維新のブルジョア革命性の評価。従来、封建革命として重視されなかったが、これを積極的に評価していた。その5・明治維新後の体制を絶対主義的天皇制と規定した。従来、封建的天皇制と近代的ブルジョア体制との両極端の論旨か無かったが、動態的に絶対主義的天皇制と規定した。その6・直接社会主義革命論の否定。

 概要以上のような特質を認めることが出来るように思われる。ここではこれ以上言及しないが、そのいずれも大いに議論されるべき内容を持っているように思われる。だがしかし、この福本テーゼがコミンテルンに否定されることにより一挙に放擲されていくことになる。

【「27年テーゼ」について】
 「27年テーゼ」の作成経緯については、「福本イズムの席捲、第二次共産党再建される」を参照。ここでは理論的考察をする。

 「27年テーゼ」の意義について、「市川正一の血涙の公判弁明録」は次のように賛辞している。概要「上海テーゼを引きついで、大衆から遊離したセクト集団にすぎない共産党を、現実の社会に接近させる、という目的に立っていた。そしてその内容は、世界情勢から日本の情勢にいたるまでの、日本では行われていなかったような高い水準での分析であった」、「日本共産党は、27.7月の決議によってはじめて思想的にも政治的にもボルシェヴィキの線に入り、そうして民主的中央集権主義の具体化のために、組織的に最も重要な工場細胞の基礎の上に党を正しく据え、日本の共産党にコミンテルンの線に沿うた抜くべからざる正しい礎石を据えたのである」。

 総評として、「市川正一の血涙の公判弁明録」は、「27年テーゼ」を次のように評価している。概要「『27年テーゼ』が今日の日本のプロレタリア運動に如何に実際に大きな前進的な役割を演じたかは、今日においては何人(なんびと)も疑うものはない。ただこのテーゼを振り返ってその不十分な点を拾いあげ、あの27年当時においてはこの点はかくかくにすべきであったというような、回顧的な高等批評的な非難をするものがあるが、これは断じてコミュニストの採るべき態度では無いと思う。今日このテーゼを振り返ってみていろいろの非難をすることは人各々の好き勝手であるが、当時においてはこれが日本のプロレタリア運動にとって最高の力の表現であり最高の指導方針であったこと、そしてそれが実際の運動を少しも妨害しなかったどころか偉大なる前進的の役割を演じたことを強調しておく必要がある。このテーゼが何ゆえにかく偉大な役割を演じたかを説明するに当っては、幾分このテーゼの眼目について述べる必要がある」。

【「22年テーゼと27年テーゼの違い」について】
 ところで、「22年テーゼ」と「27年テーゼ」の違いはどこに認められるか。この査定が難しい。なぜ「27年テーゼ」が生み出される必要があったのかの解析に入る。

 最重要なところは、日本の国家権力の質規定に当たって、「22年テーゼ」が概要「日本資本主義のヘゲモニーが、商工ブルジョアジーと大地主とのブロックに掌握されているとみなしつつも、前近代的封建的諸関係の方が国家の機構において優位を占めている」としていたのに対し、「27年テーゼ」は概要「日本の国家権力は、資本家と地主のブロックの手中にあるとしつつも、その指導権(ヘゲモニー)は資本家が握っている」と変更を加えていることにある。

 (原文を読んでいないので、この解説が正しいのかどうか分からない。福本の「革命回想」に拠れば、概要「このテーゼは、日本を半封建社会と位置づけ、天皇制と結びついた封建社会残存物を一掃する民主主義革命からはじめなければならないとし、ブルジョア民主主義革命から適時、社会主義革命へと転化していくことが必要である」との従前規定を踏襲している、との観点が示されている。よって、32年テーゼの関連が不明のまま記す)

 国家権力の規定問題がなぜ重要かというと、その主体が誰であるかによって革命戦略・戦術が変更されることにある。「22年テーゼ」の規定に拠れば、未だ国家権力の過半は封建的諸勢力に握られている訳だから、プロレタリアートの闘争は第一義的に「反封建主義=民主主義革命闘争」を志向せんとすることになる。「日本におけるブルジョア民主主義革命の完成はブルジョア支配の転覆及びプロレタリア独裁の実現を目標とするプロレタリア革命の直接の序幕となりうるであろう」という位置付けであった。れんだいこは、これを仮に「順序式二段階革命論」と名づける。

 しかし、党創立以降の実践から、このような規定では社会主義闘争が担えないという批判が生まれ始め、コミンテルンは「22年テーゼ」の手直しに着手することになった。「26.2月テーゼ」はこの点に関して、「日本ではブルジョア民主主義革命がプロレタリアートのヘゲモニーのもとに労働者と農民とによって遂行されなければならぬ、すなわちブルジョア民主主義革命はプロレタリア社会主義革命に急速に転化する基礎を持っているのであるから、共産党は労働者・農民などのあらゆる進歩的民主的要求の先頭に立って最も積極的に犠牲的に活動しなければならぬ」としていた。

 これを受けて「27年テーゼ」規定が創造されることになった。「27年テーゼ」は、概要「日本資本主義の世界大戦中における発展の結果、日本の国家権力は資本家と地主との反動的ブロックの手にあって、従来はそのヘゲモニーが地主的勢力のもとにあったが、今や完全にブルジョアジーの手に移り、そのヘゲモニーのもとに反動的ブロック政権が運用されるに至ったことを強く示している」として、「日本の国家権力は、資本家と地主のブロックの手中にあるとしつつも、その指導権(ヘゲモニー)は資本家が握っている」と規定し直すことにより、日本マルクス主義運動に社会主義革命のプログラムを提起することになった。概要「日本のブルジョアジーは、全国家機構を、そのあらゆる封建的付加物と残存物のままに、資本主義搾取の組織と擁護のために利用して、第一級の帝国主義勢力となっている」。

 しかし、いきなり社会主義革命に向かうのではなく、概要「当面の革命は天皇制の打倒を中心とした封建制度の一掃を目指すブルジョア民主主義革命を完成し、強行的速度をもって直ちに資本主義制度を打倒するための社会主義革命へ突き進まなければならない」、概要「天皇制と結びついた封建社会残存物を一掃する民主主義革命からはじめなければならない。この為に労働者を主力に、労働者と農民、特に貧農との同盟を造り、その周囲に都市の零細商工業者までも含めた勤労市民大衆を結集して革命を推進する」。

 「共産党を前衛として指導の中心に立てるとともに、統一戦線戦術によって、労働組合および大衆政党を内部から扇動していかねばならない。かくしてブルジョア民主主義革命から適時、社会主義革命へと転化していくことが必要である」と指針し直していた。れんだいこは、これを仮に「強行転化式二段階革命論」と名づける。「順序式二段階革命論」から「強行転化式二段階革命論」への転換、ここに、「27年テーゼ」の意義且つ限界が認められる。

 こうして、「27年テーゼ」は、22年テーゼ以来の理論的発展を獲得していた。なおこのテーゼにおいても、概要「特に現代の日本においては、革命の客観的条件が非常に成熟しているにも拘わらず、一方においてレーニンが革命の主観的条件と名づけたものが非常に未熟である。テーゼは、この主観的条件の成熟の為の闘争、すなわち共産党の拡大強化、その指導的役割の高度化、大衆の間における政治的指導の重要さを非常に強調」していた。

 この規定に対し、「市川正一の血涙の公判弁明録」は次のように評している。概要「『22年テーゼ』は日本国家の半封建的な性質を地主勢力のヘゲモニーという点に帰して日本の現政府は地主勢力であると規定していたが、『27年テーゼ』はこの見解より一歩進んでいる」。概要「27年テーゼは、日本の資本主義の歴史的発展と世界資本主義における位置づけがおこなわれ、国家権力の構成と階級関係が分析され、党は明治維新とともに成立した君主制の廃止を宣言し、労働者・農民の政府にとってかえる決意を表明したことは、日本にはじめて革命的立場の基準を設定したのであった」(飛田1981)。
 第二に、「君主制廃止」スローガンが公然明記されたのは、「27年テーゼ」によってであり、このことも注目される。「しかし、一方で、その天皇制の分析は、単にロシアのツアーリズムとの類推からなされているだけであるなどの限界も存在した」という欠陥を持っていた。

【「28年コミンテルン第6回世界大会指針」について】
 28.7月から9月の初めにかけてコミンテルン第6回世界大会がモスクワで開催された。この大会は1924年の第5回大会以来の4年間における国際革命運動の経験を集積した上に開かれた大会であって、又最初のプロレタリア世界綱領たるコミンテルン綱領を討議決定すべき重大な大会であった。

 この大会では、第一にコミンテルンの綱領、第二に国際情勢とコミンテルンの任務に関するテーゼ、第三に国際情勢の中心である帝国主義戦争の危機に関するテーゼ、第四に植民地革命運動に関するテーゼ、最後にソビエト連邦の情勢に関する決議が議題にのぼった。こういう重大な諸決議に対して、全世界の隅々から集まった代議員は長時間の熱烈な討議を行い、これら全ての画時代的意義のある綱領やテーゼが決定された。日本の代議員団はもとより全世界の同志達に伍して積極的にこの討議に参加して、これらの綱領ないしテーゼの作成に力を尽くしたのであった。

 大会は日本の革命運動の発展に対して注意を払い、その国際情勢に関するテーゼの中で「日本問題に関する決議」(「28年コミンテルン第6回世界大会指針」、以下、「28年指針」と云う)が為され、日本共産党の大衆化、労働組合・農民組合への指導強化指針を示していた。その他方で、合法的労農政党と共産党の峻別を為し、「労農党及びいわゆる左翼政党に対して、共産党はその根本的な大衆的性質を明らかにし、共産党のみがプロレタリアの党であり、労働者・農民の唯一の味方であることを強調しなければならぬ」と述べている。

【「31年テーゼ草案」について】
 第二次共産党も壊滅させられ、その後を再建した田中清玄らの「武装共産党」も解体させられ、1931(昭和6)年1.8日、風間委員長らによる「非常時共産党」が再建された。この時、「31年テーゼ草案」が発表されており、これを考察する。

 「31年テーゼ草案」は、後にも先にも党が直接プロレタリア革命を戦略志向させたのはこの時限りとなる、党史上初めての一段階(直接)革命論によるプロレタリア社会主義革命を指針させていた。

 次のように述べている。概要「日本資本主義はすでに高度に発達し、帝国主義の段階にあり、その支配権力は、金融資本の覇権の下におけるブルジョア地主の手中にあるが、この政権は迫りつつある深刻な経済的危機、植民地の反抗、ソ連邦の成功、太平洋における諸問題等によって不安と動揺に晒されており、同時に、農村における土地問題の解決に迫られているが、この解決はブルジョアには不可能である」、「したがって、当面する革命の性質は、ブルジョア民主主義的任務を広範囲で包容するプロレタリア革命でなければならぬ」。実践的には、「資本主義没落説」の生硬なまでの強調とこの観点から来る社会ファシズム論による社民との闘いを重視させ、その限りで相対的に天皇制打倒のスローガンが穏和化されていた。

【「32年テーゼ」の登場、その作成過程について】

  「日本共産党のその後(四)考」の稿で記したが、1932(昭和7)年頃、「祖国」ソビエトにおいてスターリンの粛清が吹き荒れ、「31年テーゼ草案」の提案者であったサハロフがトロツキストであるとして追放された。こうした煽りを受けてコミンテルンの方針もジグザグすることになり、「31年テーゼ草案」ほどなくして新テーゼの作成が模索されることになった。

 コミンテルン執行委員会常任委員会議で東洋部を主宰せるクーシネンが責任者となり、日本代表として片山潜、野坂参三、山本懸蔵、岡崎定洞、山本正美らの参加の元に討議が進められた。こうして翌1932(昭和7).5.20日に「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」(以下、「32年テーゼ」と云う)が発表された。コミンテルン西欧ビューロー所管でドイツ語で発表された。この「32年テーゼ」が、昭和26年の「51年綱領」までの日本共産党の指導テーゼとなる。

 「32年テーゼ」の問題性は、内容以前の問題として、この当時の日共指導部の意識がコミンテルンの指導と権威によって自己の正しさを裏付けようとする「国際的権威主義」に対する拝跪主義にあった。しかもコミンテルン自体が変質し、革命の祖国防衛という美名の下に大ロシア主義に転化してもなお「国際的権威主義」に基づこうとしたことにあった。この権威主義は日共の悪しき特質として別途論ぜられねばならない。

 「32年テーゼ」のより具体的な考察が、加藤教授の
「『三二年テーゼ』と山本正美の周辺」で為されているのでこれを参考にする。加藤氏は、概要「いわゆる『32年テーゼ』は、今日でも日本共産党の戦前における最高の戦略的達成とされているばかりではなく、同時期に発表された『日本資本主義発達史講座』(岩波書店)との基本的な内容的合致によって、戦前・戦後の日本の社会科学にも大きな影響を与えた」と客観評価を為している。 

 「32年テーゼ」の作成に直接関わった日本人は、片山潜、岡野(野坂参三)、1933年(昭和8)1月下旬に党委員長に就任した山本正美、源五郎丸芳晴(日本共産青年同盟委員長・日本共産党中央常任委員)の4名である。最新の研究では、32年テーゼに実質的に関わったのは山本正美だけとのことである。それはともかく、山本正美と源五郎丸の貴重な証言が残されており、それによると次のような経緯で「32年テーゼ」が作成されたことになる。

 概要「『31年テーゼ草案』はコミンテルン内で問題になり、当時のコミンテルンの役員であった二三の同志の意見に過ぎないもので、執行委員会・幹部会では未決定であることを告げられ、新方針作成の討議が進められていくことになった。この対立の背景には、社会主義直接革命を志向する『31年テーゼ草案』を良しとするサハロフ等のプロフィンテルン東洋部と、これを否定し二段階革命戦略から新テーゼを作ろうとするクーシネン指導下のコミンテルン東洋部の確執があった。その背景にトロツキー派とスターリン派の抗争があり、サハロフ等はトロツキー派として一掃されていくことになった」。

 「スターリン派のヤ・ヴォルク、オットー・クーシネン等が主体となり、昭和6年春頃よりコミンテルン西欧ビューローを所管機関として新テーゼの作成が進められていった。日本側からは、片山潜、岡野(野坂参三)、山本正美、源五郎丸芳晴等が参画した。『31年テーゼ草案』の再検討・新テーゼ準備は、1931年初め、遅くても春頃には始まった。その主要な問題は、当面する日本共産党の革命戦略そのものだった。つまり、前年夏のプロフィンテルン第五回大会以後の情勢変化や、31.9月の満州事変勃発ではなかった。新テーゼの根本精神は早くから決まり、長期に草案が検討されたが、『32年テーゼ』そのものは、32.3.2日のクーシネン幹部会報告以後作成された。当時のコミンテルン東洋部長ミフ、プロフィンテルン東洋部長のジョンソン=カール・ヤンソン、岡野(野坂)等がこの流れを支持した」。

 「5月のコミンテルン執行委員会西欧ビューロー会議で片山潜・野坂参三のほか山本正美自身も出席して最終的に採択された。
山本は、コミンテルンから特に傍聴を許されて出席した。ドイツ、フランス、ポーランド、チェコスロヴァキア等コミンテルン指導部から任命された西欧諸国共産党代表と、日本代表として岡野(野坂参三)、議長として片山潜が出席し、『それ迄に草案が長期に亙り充分に審議し尽されて居るので極く短期間に字句等の問題は別として草案の根本方針は其のまま全員賛成の許に採用された」と述べている。


 山本正美は、戦後の回想「激動の時代に生きて」で次のように述べている。「正式な党の代表といわれる人が一人も参加しないで作成され、コミンテルン執行委員会名でなく、コミンテルン日本支部の指導と、32年テーゼの作成に当っていた東洋部でもない、それこそ縁もゆかりもないといえばいい過ぎだろうが、コミンテルンの一部局である西欧ビューロー名で発表されるといった状態は、どう考えてみても『民主主義的』であったとはいえないだろう。たとえば当時モスクワには片山潜と山本懸蔵がいたが、片山は前にもふれたような事情で日本問題の審議には前々から関与させられていなかったし、山本はプロフィンテルンの代表ではあっても、コミンテルンの代表ではないとして、党の指導の問題には最初から除外されていた。のちに共青の代表として源五郎丸芳晴が、次いで野坂参三が来たが――野坂は党の正式代表として入ソしたものでないことは風間の書き残したものから明らかだが、その後日本共産党の上部機関であるコミンテルン執行委員会が彼を正式代表として指名したようである――そのときには32年テーゼの骨格はすでにできあがっており、彼はその最終段階で関与したにすぎなかった。このような状態で、日本人として32年テーゼの作成過程に最初――実質的には途中――から関係したのは、肩書きは単なるコミンテルン東洋部の一日本人職員にすぎなかった私だけであったというのが実情である」(112ー113頁)。

 「32年テーゼ」作成に関わった日本人に国崎定洞の存在が指摘されている。「コミンテルンにおける日本問題の討議を進めるうえで、大きく寄与した人物として、当時ドイツ共産党日本語部の責任者で後にモスクワに亡命し粛清された元東大医学部助教授国崎定洞の名を上げ、このベルリン・ルートが、ヌーラン事件で上海ルートが断絶した後の32年テーゼ準備過程の資料・情報収集に重要な役割を果たし、且つ32年テーゼそのものが国崎定洞から河上肇のルートでモスクワからベルリン経由で日本に送られた」とある。

 野坂参三が日本共産党名誉議長時代に書かれた「風雪のあゆみ・第七巻」では、「32年テーゼ」作成過程について、以下のように述べられている。「『政治テーゼ(草案)』に代わる新たな綱領的文書の作成の過程では、コミンテルンの極東問題の責任者であったオットー・クーシネンを中心にして、コミンテルンの関係者はもちろん、コミンテルンが結集しうる部外の数多くの専門家もこれに参加した。片山潜やわたし、それにプロフィンテルンの山本懸蔵はもちろん、日本からのクートヴェ留学生で、そこを卒業後に一時プロフィンテルンの研修生をしていた山本正美も、この秋からコミンテルン勤務となって、主としてウォルクの助手としての立場から、この仕事に参加した。そのほか、すでに名の上がっているコミンテルンやプロフィンテルンの極東問題担当者も、当然これに加わった。そのほか、ソ連共産党をはじめとして、世界経済政治研究所、外国労働者出版所、外務省、それに『プラウダ』や『イズベスチヤ』『タス』などの関係者なども、折々に参加し、協力していたようだが、その詳細は記憶にない」(同書、54頁)。野坂参三の失脚にもかかわらず、日本共産党の現行公式党史『日本共産党の七十年』における「32年テーゼ」作成過程の記述を史料的に裏付けるのは、この野坂参三証言のみである。

 ところで、「32年テーゼ」を共に作成したヤ・ヴォルク、マジャール、サファロフ、ミフらも、「テーゼ」に反対したロゾフスキー、ヤンソンらも、まともな裁判も受けられず、墓所も不明のままロシアの闇の中に葬り去られているとのことである。  


【「32年テーゼ」の理論的質について】
 「32年テーゼ」には重要な点で福本イズムを取り入れており、評価される面もあるしなお且つ限界も認められる。これが総評となるべきだろう。

 「32年テーゼ」は、革命戦略論において先の「31年テーゼ草案」の直接社会主義革命路線を批判し、再び「27年テーゼ」の二段階革命路線に戻していたが、「31年テーゼ草案」が戦前日共党史上評価に耐え得る内容を秘めていたことを思えば惜しくも流産させたことになる。

 その一方で、天皇制打倒を生硬に強調していた。帝国主義戦争の性格を分析し、日本の支配体制を「地主」及び「独占ブルジョアジー」そのブロックの上に相対的独自性を持つ「軍部およびこれと密接に関連し、部分的には金融資本から独立した天皇制」の役割を見据え、日本の国家権力を絶対主義の一種としての「絶対主義的天皇制」と規定した。これまで批判してきた福本の「絶対主義的天皇制論」を密輸入させていた。他方で、日本独占主義の帝国主義段階的位置づけを弱めていた。

 この規定から、「日本においては独占資本の侵略性が絶対主義的な軍事的・封建的帝国主義の軍事的冒険主義によって倍加されている」云々と分析し、「君主制の打倒と地主的土地所有の廃止のための闘争」が優先的課題となると指針し、当面する日本革命の性質を「ブルジョワ民主主義革命」と規定した。但し、「社会主義革命に強行的に転化する傾向を持つブルジョワ民主主義革命」へと関連付けていた。これを「強行的転化式二段階革命論」と云う。

 「32年テーゼ」は、明らかに、前年の「31年テーゼ草案」と比較してかなり穏和化した戦略・戦術を指針させていた。但し、「日本における『革命的決戦』が切迫しているという主観主義的な情勢評価」やセクト主義を批判しながら、セクト主義の最大の根源の一つであった社会ファシズム論をいっそうはっきり定式化するという矛盾を抱えていた。

 この新テーゼは、 他方で「天皇制打倒」を第一の任務として課すという強硬方針を掲げていたことから、運動としては急進主義的な面を取り込んでおり、その評価は分かれよう。但し、何が問題かというと、「天皇制打倒」即ち日帝打倒を強調しているが、それは日本の内在的社会分析から引き出されたというよりも、日帝の対ソ戦を危惧し戦争反対を叫ばせしめる必要性から天皇制の問題を第一義的にとりあげ、それを悪魔主義的に描くことにより日本帝国主義批判へと横滑りさせていたキライが見受けられる。

 つまり、日本自体の革命闘争の展望から導き出された「天皇制打倒」ではないという欠点があったということである。32年テーゼの性格は、ソ連を祖国とする擁護運動化であり、コミンテルンによる日共支配の中から生み出されたものであったということになる。ここに問題が認められよう。

 このように性格の違うテーゼが相次いで出された結果、この間日本共産党執行部の方針も一向に定まらず獄中党員もまた大きく困惑せしめられることになった。先に、「31年テーゼ草案」が、それまでの「27年テーゼ」を「日本資本主義の現状に対する評価の誤謬」と明言したとき、獄中の佐野・鍋山・市川は、「かかる国際的最高機関に於て承認された決議を後になって誤謬であるとか変更を必要とすると云ふことはあり得ないから『1927年テーゼ』の誤謬と云ふ事は絶対に許すベからざることと思ふ」と意見を述べていた(「政治テーゼ草案に対する佐野・鍋山・市川等の意見」)。

 しかし、「共産党は獄内・獄外を問わずこの31年テーゼ草案を一致して支持していた。3.15と4.16の合同公判における市川正一の代表陳述もこの思想につらぬかれている」(石堂清倫)とあるように「31年テーゼ草案」が新指針として受け入れられていったことも事実である。

 ところが、そうした状況の上に今又「31年テーゼ草案」が否定されて「27年テーゼ」の主張と同じ「32年テーゼ」になったのであるから、獄中闘士たちの内心の動揺は大きかった。これが転向への伏線となっていく。
 日共公式党史『日本共産党の七十年』(1994年)は、次のように記述している。概要「32年テーゼは、1931年の政治テーゼ草案の誤りをただすとともに、27年テーゼをもさらに発展させたもので、わが国の革命運動のすすむべき道をしめす画期的な方針」、「日本帝国主義の前途を正確に見とおしたものであり、科学的社会主義の先見性をみごとに確証したもの」と高く評価している。その作成経過については、「コミンテルンでは、1931年から32年にかけて、片山潜、野坂参三、山本懸蔵ら党代表が参加して、日本問題の深い検討がおこなわれ」た結果だという。実質的な唯一の作成関与者山本正美の名前は、政治的理由で抹殺されている。
 (27年テーゼのものか32年テーゼのものか分からない。とりあえず記しておく)
 「日本のブルジョアジーは、全国家機構を、そのあらゆる封建的付加物と残存物のままに、資本主義搾取の組織と擁護のために利用して、第一級の帝国主義勢力となっている。従って、革命は天皇制の打倒を中心とした封建制度の一掃を目指すブルジョア民主主義革命を完成し、強行的速度をもって直ちに資本主義制度を打倒するための社会主義革命へ突き進まなければならない。この為に労働者を主力に、労働者と農民、特に貧農との同盟を造り、その周囲に都市の零細商工業者までも含めた勤労市民大衆を結集して革命を推進する」。

 これをもう少し詳しく見ると、「日本のブルジョア民主主義革命は強行的速度を持って社会主義革命に転化するであろう。何となれば、近代日本国家は種々の封建的特質と残存物とにも拘わらず正しく日本資本主義の最も集中的なる表現であり、その幾多の最も中枢的な神経を包容しており、それ故に、それに対する打撃は又全体としての日本資本主義体制に対する最も力強い打撃となるであろうからである。すなわち、これによってみると、日本におけるブルジョア民主主義革命は社会主義革命への過程における一段階に過ぎない。例えブルジョア民主主義革命を指導するとしても、プロレタリアートは決してその階級的展望を見失いはしない。反対に、正しく社会主義革命への転化の展望こそが、プロレタリアートにとって闘争のあらゆる段階において決定的である」と述べていた。

 第三に、「日本資本主義の動態分析」であった。それまでの「日本資本主義の急激な没落論」、「日本資本主義安定論」を排して、「27年テーゼ」は、「日本帝国主義はなおその発展の上向線上にある。とはいえ、その地位の矛盾、その一層の前進を阻む諸困難の堆積は脅威的性質を帯び始めている。そのことは何よりもまず資本主義恐慌の特別の先鋭化にあらわれている」と規定していた。その後の日本資本主義の動向は「27年テーゼ」の規定の正確さを証明している。


(私論.私見) 【れんだいこの「戦前党綱領の変遷論評」】

 以上、党綱領の変遷の概要を見てきたが、我々はここから何を学ぶべきだろうか。本来ここが一番肝心なところだが、ケッタイナ事にこういうところに研究が向かった例を知らない。もっとも、知らないのはれんだいこだけということもあるので、ご承知の方は教えてほしい。

 この考察が何ゆえ大事か。それは、一つに、党綱領は自前で作り上げねばならないということ。二つに、別組織を作ってでも、それを為すに足りる理論的能力の向上に営為努力せねばならないということ。三つ目に、新たな問題が発生すれば、共同テーブルで話し合わねばならないということ。これらはいずれも作風問題に収斂するが、恐ろしいことにというか馬鹿げていることに、日本左派運動はあまたの頭脳を抱えながらこの肝心要のところであまりに幼稚じみている経緯を見せてきている。ここのところの反省が為されない限り、日本左派運動は決して歴史の主人公にならないだろう、と思う。

 という観点かられんだいこの「戦前党綱領の変遷論評」に向かうことにする。もう一つその意義をを付言すれば、徳球系の跡目を簒奪した宮顕系党中央のあまりに馬鹿げた現党綱領の諸規定、例えば、従属規定論、無限後退式の二段階革命論、敵の出方論、議会万能主義論等々に的確な批判を為す為にも必要な観点となるだろう。


 (以下、略)




(私論.私見)


日本資本主義の特徴を、1・欧米に追いつき追い越せ式富国強兵策。2・勤労大衆の生活水準の劣悪化。3・隣接諸民族、国家の収奪的対外進出。総じて軍事的・警察的権力機構。天皇制。「一見、ロシア・ツアーリズムと同値させた」。かかる事情。ポルシェヴィズムの影響。レーニン主義からスターリン主義への転換の無自覚。暴力革命理論の機械的公式的適用と挫折。