論者のテーゼ考の考察

【田川和夫氏の「日本共産党史」より】
 田川和夫氏の「日本共産党史」に次のような一節がある。
 「十月革命後の世界資本主義の危機は日本資本主義をも襲った。最大の革命的危機は富山県から全国に波及した米騒動となって爆発し、労働運動もようやく本格的に組織化が進み始めた。そして『前衛党』が成立するべき客観的条件が成熟していたとはいえ、しかしながら、必ずしも日本共産党の結党は、腐敗し、堕落した社会民主主義=日和見主義とのたえざる思想的・政治的・組織的闘争、従来の一切の思想と実践に対する批判を通じて自己を確立していったのではなかった。

 むしろコミンテルンの指導を直線的媒介としてのみ結成されていった日本共産党、それは自己の胎内に国際的権威を神聖化する俗物的思想を始めから宿していたのであり、コミンテルンの変質は、そのまま日本共産党の中にも最も鋭い形をとって現われてくることになるのである。そして38年間の党史を通じてかかる俗物思想は常に拡大再生産され、38年間の歴史の中で、戦前・戦後を通じていくたびか党内の矛盾を爆発させながらも、ソビエト共産党の存在に支えられてのみ、自己を維持してくることができたのであった」。


 「『27年テーゼ』が出されるに及び、これらの論争は簡単に決着がついてしまったばかりでなく、労農派の猪俣津南雄などにしても、『27年テーゼ』を自己に有利な方向に解釈することによって反対派との闘争をはかるというコミンテルンに対する屈服は27年以降は特に救いようの無い事態にまで発展していった。すなわち、党それ自体を自己目的化するスターリン主義的党組織論はそのまま日本の土壌の上に移植され、コミンテルンに対する批判は反マルクス主義であるかのような風潮を生ぜしめ、それを次第に色濃くしていったのであった」。

 「従ってその機械的な反発として『労農派』という独自のマルクス主義潮流を一方に形成していったがそれとても世界革命の展望のもとに前衛党を建設する主体を欠いたものである以上、グループの範囲から抜け出ることはできなかった。そして27年以降は、コミンテルンの神格化がますます横行し、権威に寄りかかってのみ自己を立証せんとする党機構は抜き難いまでに成長し、しかも獄中に長い間隔離され、一種の精神主義がはびこったために、徳田・志賀らがますます権威主義として自己を確立していったのは必然的なことであった」。

(私論.私見)田川和夫氏の「日本共産党史」的観点について

 総評としては田川氏の位置付けで問題ないと思うが、末尾の「しかも獄中に長い間隔離され、一種の精神主義がはびこったために、徳田・志賀らがますます権威主義として自己を確立していったのは必然的なことであった」的批評には釈然としないものがある。れんだいこは、「徳球の家父長制権威主義」を宮顕らが批判したような角度で捉えるのには反対である。本稿のテーマとはかけ離れるが、少し言及しておきたい。

 徳球が駆け抜けた45.10.10日の獄中解放より50.8月までの北京渡航までの約5年間の軌跡は、戦後のどの時期よりも激動の時代であり、強いリーダーシップ無しには運動が展開出来なかった。そういう事情で発揮されたリーダーシップ性を「精神主義一般論」あるいは「権威主義一般論」で批判していくのはナンセンスであろう。あくまで徳球の「特殊な精神主義性」、「特殊な権威主義性」を摘出して、これを批判すべきだろう。

 れんだいこから見て、「徳球の家父長制権威主義」にはそれほど批判されるものは見当たらない。むしろ、そのように徳球を批判して史実から痕跡さえ消そうと無駄な努力をしてきた宮顕−不破系の50年の歩みの方が文字通りの「家父長制権威主義+私物化主義」であろう。ところが、こちらは批判されない。おかしなことだと思う。





(私論.私見)