32年テーゼ

【「32年テーゼ」の登場、その作成過程について】

  「日本共産党のその後(四)考」の稿で記したが、1932(昭和7)年頃、「祖国」ソビエトにおいてスターリンの粛清が吹き荒れ、「31年テーゼ草案」の提案者であったサハロフがトロツキストであるとして追放された。こうした煽りを受けてコミンテルンの方針もジグザグすることになり、「31年テーゼ草案」ほどなくして新テーゼの作成が模索されることになった。

 コミンテルン執行委員会では日本共産党テーゼ問題を重視し、常任委員会議で東洋部を主宰せるクーシネンが責任者となり、日本代表として片山潜、野坂参三、山本懸蔵、岡崎定洞、山本正美らの参加の元に討議が進められた。この間、日本共産党より提起された「31年テーゼ草案」に対し、その誤謬を指摘した論文が「コムミニストインターナショナル」誌、ソ同盟共産党機関紙プラウダに発表された。片山潜のメッセージも寄せていた。主として、「31年テーゼ草案」が日本の農業問題と天皇制に付きその役割を過小評価していることを指摘していた。

 翌1932(昭和7).5.20日号のコミンテルン機関紙「インプレコール」ドイツ語版(英語版は26日)に「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」(以下、「32年テーゼ」又は「5月テーゼ」と云う)が発表された。この「32年テーゼ」が、昭和26年の「51年綱領」までの日本共産党の指導テーゼとなる。

 コミンテルン西欧ビューロー所管でドイツ語で発表された原文をドイツ在住の国崎定洞が手に入れて日本に送り、それを河上肇が翻訳し、1932.7.10日付けの「赤旗特別号」として配布された(みすず書房版「現代史資料」の「社会主義運動」篇、河上肇の「自叙伝」参照)。
 
 「32年テーゼ」の問題性は、内容以前の問題として、この当時の日共指導部の意識がコミンテルンの指導と権威によって自己の正しさを裏付けようとする「国際的権威主義」に対する拝跪主義にあった。しかもコミンテルン自体が変質し、革命の祖国防衛という美名の下に大ロシア主義に転化してもなお「国際的権威主義」に基づこうとしたことにあった。この権威主義は日共の悪しき特質として別途論ぜられねばならない。

 「32年テーゼ」のより具体的な考察が、加藤教授の
「『三二年テーゼ』と山本正美の周辺」で為されているのでこれを参考にする。加藤氏は、概要「いわゆる『32年テーゼ』は、今日でも日本共産党の戦前における最高の戦略的達成とされているばかりではなく、同時期に発表された『日本資本主義発達史講座』(岩波書店)との基本的な内容的合致によって、戦前・戦後の日本の社会科学にも大きな影響を与えた」と客観評価を為している。 

 「32年テーゼ」の作成に直接関わった日本人は、片山潜、岡野(野坂参三)、1933年(昭和8)1月下旬に党委員長に就任した山本正美、源五郎丸芳晴(日本共産青年同盟委員長・日本共産党中央常任委員)の4名である。最新の研究では、32年テーゼに実質的に関わったのは山本正美だけとのことである。それはともかく、山本正美と源五郎丸の貴重な証言が残されており、それによると次のような経緯で「32年テーゼ」が作成されたことになる。

 概要「『31年テーゼ草案』はコミンテルン内で問題になり、当時のコミンテルンの役員であった二三の同志の意見に過ぎないもので、執行委員会・幹部会では未決定であることを告げられ、新方針作成の討議が進められていくことになった。この対立の背景には、社会主義直接革命を志向する『31年テーゼ草案』を良しとするサハロフ等のプロフィンテルン東洋部と、これを否定し二段階革命戦略から新テーゼを作ろうとするクーシネン指導下のコミンテルン東洋部の確執があった。その背景にトロツキー派とスターリン派の抗争があり、サハロフ等はトロツキー派として一掃されていくことになった」。

 「スターリン派のヤ・ヴォルク、オットー・クーシネン等が主体となり、昭和6年春頃よりコミンテルン西欧ビューローを所管機関として新テーゼの作成が進められていった。日本側からは、片山潜、岡野(野坂参三)、山本正美、源五郎丸芳晴等が参画した。『31年テーゼ草案』の再検討・新テーゼ準備は、1931年初め、遅くても春頃には始まった。その主要な問題は、当面する日本共産党の革命戦略そのものだった。つまり、前年夏のプロフィンテルン第五回大会以後の情勢変化や、31.9月の満州事変勃発ではなかった。新テーゼの根本精神は早くから決まり、長期に草案が検討されたが、『32年テーゼ』そのものは、32.3.2日のクーシネン幹部会報告以後作成された。当時のコミンテルン東洋部長ミフ、プロフィンテルン東洋部長のジョンソン=カール・ヤンソン、岡野(野坂)等がこの流れを支持した」。

 「5月のコミンテルン執行委員会西欧ビューロー会議で片山潜・野坂参三のほか山本正美自身も出席して最終的に採択された。
山本は、コミンテルンから特に傍聴を許されて出席した。ドイツ、フランス、ポーランド、チェコスロヴァキア等コミンテルン指導部から任命された西欧諸国共産党代表と、日本代表として岡野(野坂参三)、議長として片山潜が出席し、『それ迄に草案が長期に亙り充分に審議し尽されて居るので極く短期間に字句等の問題は別として草案の根本方針は其のまま全員賛成の許に採用された」と述べている。


 山本正美は、戦後の回想「激動の時代に生きて」で次のように述べている。「正式な党の代表といわれる人が一人も参加しないで作成され、コミンテルン執行委員会名でなく、コミンテルン日本支部の指導と、32年テーゼの作成に当っていた東洋部でもない、それこそ縁もゆかりもないといえばいい過ぎだろうが、コミンテルンの一部局である西欧ビューロー名で発表されるといった状態は、どう考えてみても『民主主義的』であったとはいえないだろう。たとえば当時モスクワには片山潜と山本懸蔵がいたが、片山は前にもふれたような事情で日本問題の審議には前々から関与させられていなかったし、山本はプロフィンテルンの代表ではあっても、コミンテルンの代表ではないとして、党の指導の問題には最初から除外されていた。のちに共青の代表として源五郎丸芳晴が、次いで野坂参三が来たが――野坂は党の正式代表として入ソしたものでないことは風間の書き残したものから明らかだが、その後日本共産党の上部機関であるコミンテルン執行委員会が彼を正式代表として指名したようである――そのときには32年テーゼの骨格はすでにできあがっており、彼はその最終段階で関与したにすぎなかった。このような状態で、日本人として32年テーゼの作成過程に最初――実質的には途中――から関係したのは、肩書きは単なるコミンテルン東洋部の一日本人職員にすぎなかった私だけであったというのが実情である」(112ー113頁)。

 「32年テーゼ」作成に関わった日本人に国崎定洞の存在が指摘されている。「コミンテルンにおける日本問題の討議を進めるうえで、大きく寄与した人物として、当時ドイツ共産党日本語部の責任者で後にモスクワに亡命し粛清された元東大医学部助教授国崎定洞の名を上げ、このベルリン・ルートが、ヌーラン事件で上海ルートが断絶した後の32年テーゼ準備過程の資料・情報収集に重要な役割を果たし、且つ32年テーゼそのものが国崎定洞から河上肇のルートでモスクワからベルリン経由で日本に送られた」とある。

 野坂参三が日本共産党名誉議長時代に書かれた「風雪のあゆみ・第七巻」では、「32年テーゼ」作成過程について、以下のように述べられている。「『政治テーゼ(草案)』に代わる新たな綱領的文書の作成の過程では、コミンテルンの極東問題の責任者であったオットー・クーシネンを中心にして、コミンテルンの関係者はもちろん、コミンテルンが結集しうる部外の数多くの専門家もこれに参加した。片山潜やわたし、それにプロフィンテルンの山本懸蔵はもちろん、日本からのクートヴェ留学生で、そこを卒業後に一時プロフィンテルンの研修生をしていた山本正美も、この秋からコミンテルン勤務となって、主としてウォルクの助手としての立場から、この仕事に参加した。そのほか、すでに名の上がっているコミンテルンやプロフィンテルンの極東問題担当者も、当然これに加わった。そのほか、ソ連共産党をはじめとして、世界経済政治研究所、外国労働者出版所、外務省、それに『プラウダ』や『イズベスチヤ』『タス』などの関係者なども、折々に参加し、協力していたようだが、その詳細は記憶にない」(同書、54頁)。野坂参三の失脚にもかかわらず、日本共産党の現行公式党史『日本共産党の七十年』における「32年テーゼ」作成過程の記述を史料的に裏付けるのは、この野坂参三証言のみである。

 ところで、「32年テーゼ」を共に作成したヤ・ヴォルク、マジャール、サファロフ、ミフらも、「テーゼ」に反対したロゾフスキー、ヤンソンらも、まともな裁判も受けられず、墓所も不明のままロシアの闇の中に葬り去られているとのことである。  


【「32年テーゼ」の理論的質について】
 「32年テーゼ」には重要な点で福本イズムを取り入れており、評価される面もあるしなお且つ限界も認められる。これが総評となるべきだろう。

 「32年テーゼ」は、革命戦略論において先の「31年テーゼ草案」の直接社会主義革命路線を批判し、再び「27年テーゼ」の二段階革命路線に戻していたが、「31年テーゼ草案」が戦前日共党史上評価に耐え得る内容を秘めていたことを思えば惜しくも流産させたことになる。

 その一方で、天皇制打倒を生硬に強調していた。帝国主義戦争の性格を分析し、日本の支配体制を「地主」及び「独占ブルジョアジー」そのブロックの上に相対的独自性を持つ「軍部およびこれと密接に関連し、部分的には金融資本から独立した天皇制」の役割を見据え、日本の国家権力を絶対主義の一種としての「絶対主義的天皇制」と規定した。これまで批判してきた福本の「絶対主義的天皇制論」を密輸入させていた。他方で、日本独占主義の帝国主義段階的位置づけを弱めていた。

 この規定から、「日本においては独占資本の侵略性が絶対主義的な軍事的・封建的帝国主義の軍事的冒険主義によって倍加されている」云々と分析し、「君主制の打倒と地主的土地所有の廃止のための闘争」が優先的課題となると指針し、当面する日本革命の性質を「ブルジョワ民主主義革命」と規定した。但し、「社会主義革命に強行的に転化する傾向を持つブルジョワ民主主義革命」へと関連付けていた。これを「強行的転化式二段階革命論」と云う。

 「32年テーゼ」は、明らかに、前年の「31年テーゼ草案」と比較してかなり穏和化した戦略・戦術を指針させていた。但し、「日本における『革命的決戦』が切迫しているという主観主義的な情勢評価」やセクト主義を批判しながら、セクト主義の最大の根源の一つであった社会ファシズム論をいっそうはっきり定式化するという矛盾を抱えていた。

 この新テーゼは、 他方で「天皇制打倒」を第一の任務として課すという強硬方針を掲げていたことから、運動としては急進主義的な面を取り込んでおり、その評価は分かれよう。但し、何が問題かというと、「天皇制打倒」即ち日帝打倒を強調しているが、それは日本の内在的社会分析から引き出されたというよりも、日帝の対ソ戦を危惧し戦争反対を叫ばせしめる必要性から天皇制の問題を第一義的にとりあげ、それを悪魔主義的に描くことにより日本帝国主義批判へと横滑りさせていたキライが見受けられる。

 つまり、日本自体の革命闘争の展望から導き出された「天皇制打倒」ではないという欠点があったということである。32年テーゼの性格は、ソ連を祖国とする擁護運動化であり、コミンテルンによる日共支配の中から生み出されたものであったということになる。ここに問題が認められよう。

 このように性格の違うテーゼが相次いで出された結果、この間日本共産党執行部の方針も一向に定まらず獄中党員もまた大きく困惑せしめられることになった。先に、「31年テーゼ草案」が、それまでの「27年テーゼ」を「日本資本主義の現状に対する評価の誤謬」と明言したとき、獄中の佐野・鍋山・市川は、「かかる国際的最高機関に於て承認された決議を後になって誤謬であるとか変更を必要とすると云ふことはあり得ないから『1927年テーゼ』の誤謬と云ふ事は絶対に許すベからざることと思ふ」と意見を述べていた(「政治テーゼ草案に対する佐野・鍋山・市川等の意見」)。

 しかし、「共産党は獄内・獄外を問わずこの31年テーゼ草案を一致して支持していた。3.15と4.16の合同公判における市川正一の代表陳述もこの思想につらぬかれている」(石堂清倫)とあるように「31年テーゼ草案」が新指針として受け入れられていったことも事実である。

 ところが、そうした状況の上に今又「31年テーゼ草案」が否定されて「27年テーゼ」の主張と同じ「32年テーゼ」になったのであるから、獄中闘士たちの内心の動揺は大きかった。これが転向への伏線となっていく。
 日共公式党史『日本共産党の七十年』(1994年)は、次のように記述している。概要「32年テーゼは、1931年の政治テーゼ草案の誤りをただすとともに、27年テーゼをもさらに発展させたもので、わが国の革命運動のすすむべき道をしめす画期的な方針」、「日本帝国主義の前途を正確に見とおしたものであり、科学的社会主義の先見性をみごとに確証したもの」と高く評価している。その作成経過については、「コミンテルンでは、1931年から32年にかけて、片山潜、野坂参三、山本懸蔵ら党代表が参加して、日本問題の深い検討がおこなわれ」た結果だという。実質的な唯一の作成関与者山本正美の名前は、政治的理由で抹殺されている。
 (27年テーゼのものか32年テーゼのものか分からない。とりあえず記しておく)
 「日本のブルジョアジーは、全国家機構を、そのあらゆる封建的付加物と残存物のままに、資本主義搾取の組織と擁護のために利用して、第一級の帝国主義勢力となっている。従って、革命は天皇制の打倒を中心とした封建制度の一掃を目指すブルジョア民主主義革命を完成し、強行的速度をもって直ちに資本主義制度を打倒するための社会主義革命へ突き進まなければならない。この為に労働者を主力に、労働者と農民、特に貧農との同盟を造り、その周囲に都市の零細商工業者までも含めた勤労市民大衆を結集して革命を推進する」。

 これをもう少し詳しく見ると、「日本のブルジョア民主主義革命は強行的速度を持って社会主義革命に転化するであろう。何となれば、近代日本国家は種々の封建的特質と残存物とにも拘わらず正しく日本資本主義の最も集中的なる表現であり、その幾多の最も中枢的な神経を包容しており、それ故に、それに対する打撃は又全体としての日本資本主義体制に対する最も力強い打撃となるであろうからである。すなわち、これによってみると、日本におけるブルジョア民主主義革命は社会主義革命への過程における一段階に過ぎない。例えブルジョア民主主義革命を指導するとしても、プロレタリアートは決してその階級的展望を見失いはしない。反対に、正しく社会主義革命への転化の展望こそが、プロレタリアートにとって闘争のあらゆる段階において決定的である」と述べていた。

 第三に、「日本資本主義の動態分析」であった。それまでの「日本資本主義の急激な没落論」、「日本資本主義安定論」を排して、「27年テーゼ」は、「日本帝国主義はなおその発展の上向線上にある。とはいえ、その地位の矛盾、その一層の前進を阻む諸困難の堆積は脅威的性質を帯び始めている。そのことは何よりもまず資本主義恐慌の特別の先鋭化にあらわれている」と規定していた。その後の日本資本主義の動向は「27年テーゼ」の規定の正確さを証明している。
 日本の天皇制は、一方では主として地主として寄生的封建的階級に立脚し、他方ではまたブルジョアジーに立脚し、ーーーこれらの二階級と訓密な永続的ブロックを結んでいる。

 天皇制は現在の搾取階級独裁の主要支柱である。その粉砕は日本に於ける主要なる革命的任務中の第一のものとみなされねばならぬ。日本共産党の陣列内で以前主張されていたように、天皇制の役割を過小評価することや、議会及び政党内閣を天皇制から独立した独自のブルジョア国家形態であるんの如くにみて、これらのものを天皇制と対置することは誤謬である。

 不満、抗議、闘争のあらゆる兆候を戦争と天皇制に対する政治闘争に導かなければならない。


 「日本問題に関する新テーゼ発表に際し同志諸君に告ぐ」
 親愛なる同志諸君! 我々は最近コミンテルン西欧ビューローの署名になっている日本問題に関する新テーゼを入手した。コミンテルン最高指導部の決定であるこの新テーゼは来るべき革命の性質を規定している点に於いて最も重要な意義を有する。そればかりでなく、かかる戦略の規定から出発して幾多の具体的戦術的任務をも指示している。されば善革命的労働者農民は最大の注意を以ってこれに対さなければならぬと同時に、その実践的活動に対する正しい指針として直ちに取り入れねばならぬものである。

 同志諸君!
 我々は新テーゼがどうして出来上がったかについて先ず語らねば為らぬ。何故なら多くの同志達には新テーゼが「突如」として作成されたかに見えるかも知れないからである。新テーゼのよき理解への第一歩としてその作成過程を語ることは我々の任務であろう。

 同士諸君が既に知る如く我が中央委員会は1931年中旬「政治テーゼ草案」を発表した。我々は草案発表に際しての檄の中で、1927年7月テーゼに関する論争が我が党内及び国際的指導部内で行われていることを述べた。而して我々のテーゼ草案は、「7月テーゼ」の有した歴史的並びに実践的功績を抹殺する為ではなく、それとは反対にコミンテルン綱領発表に関連して行われていた戦略に関する論争及び前述の論争への積極的参加、国内に於ける思想的統一を目指したものであり、闘争発展の推移と経験とに立脚して補足、訂正し、我が党の政治的組織的強固化、ポルシェヴィキ化を促進せんが為であった。

 当時我々は次の如く述べた「我々は日本共産党の革命的伝統と日本プロレタリアートの中に包蔵されている膨大な革命的エネルギーと、権威あるコミンテルンの指導とに鞭撻され、激励されつつ、革命的信念に燃えてこの新しい政治テーゼ作成に着手した」と。

 4.16事件後漸く再建されたばかりで遭遇した7.15事件直後の文字通り困難な時期に際会し、破壊された組織の再建と、党から除名された解党派等色々の反革命的分子との闘争、支配階級側からの追及、社会ファシスト共の裏切りとの闘争を続けながら我々はその草案を作り上げた。我々は当時かくの如く行動することに依って我々の陣営の政治的並びに組織的活動の統一をもたらすことが残された同志達の革命的任務であると云う信念に立脚した。

 我々は政治テーゼ草案を発表すると同時にそれに対する同諸君の討論を喚起した。それは、日常闘争の激発とその指導の過程で行われた。我々は非合法的条件の可能な限り広い範囲で指導的同志達の全国的会議を開いた以外には、主として文書による討議の展開に俟たざるを得なかった。討議に参加せる同志諸君は部分的補足、訂正を送付して来たが基本的には我々の草案に一致した。

 そしてそれが一日も早く党大会(それはコミンテルンよりの代表者の参加を必要とする)で成案を作成し、コミンテルンの承認を求めるということに決定されていた。だが党大会開催の準備は途中に於いて挫折するに至った。その事は我々に対する軍事的警察的天皇制の追及・迫害・圧迫のみに基因するものではなく、我々の組織の弱さ、活動の不十分に負うところが少なくない。

 更にコミンテルン及び獄内の同志達の間で討論が行われていたことも亦急速に大会を開催することを延期すべき理由の一つであった。とはいえ、かかる事情はこの問題に関する討議を専ら文書に依らざるを得なくした。

 我々の草案は国内的には諸政策の統一的基礎として役立って来た。蓋(けだ)し共産党員は一瞬たりとも統一的実践を怠ることに最大の憎悪と憤怒とを感じ、最高の階級的罪悪なりと考えるからである。然しながら、前述せる如く本問題に関する討議は国内のみで行われたのではなく、国際的にも行われていた。革命の鉄火の中で、大衆的蜂起の先頭に立って数百万を動員せる階級闘争に依って鍛錬され、レーニ二ズムで武装せる日子最適指導部の同志達は、我々の理論的展開と実践的成果とに鋭い批判を向けつつ、熱心に、精力的に本問題の最終的決定のために努力した。

 我々はそのことを「コムミュ二スト・インターナショナル」誌上並びにソ同盟共産党中央機関紙「プラウダ」紙上等に発表された日本問題に関する諸論文、特に最近に於ける同志ヴォルク、オカノ、アキの諸論文、同志片山からのメッセージ、手紙、更に我々の本テーゼ発表直前に翻訳発表した「コムミュ二スト・インターナショナル」本年3.30日号の巻頭論文等に於いて見ることが出来る。これは云うまでもなく我が党中央機関紙「赤旗」に発表された我々の諸政策、戦術、実践(それは我々の草案に立脚していた)に対する徹底的な、だが懇切な批判であった。

 かくのごとくここに発表される新テーゼは約2ヵ年にわたる理論的検討と日本に於ける階級闘争の発展に対する慎重な批判とを基礎に(而して如上の意味で、日本の同志達の熱心な参加の下に)決定されるに至ったものである。

 故に1927年7月テーゼ、我々のテーゼ草案、新テーゼの相互関係は階級闘争の歴史的、理論的、実践的発展、即ち日本に於ける(国際情勢との関連を含める)政治上、経済上の情勢の変化と我が党自体の政治的組織的発展のノ見地から、そしてかかる見地からのみ理解されねばならぬ。いわゆる「純学術的見地」からの考察は本問題に関する正しい理解を妨げこそすれ何らの貢献を与えるものではない。

 第二、以上の説明に依って我が党中央委員会は勿論のこと、全党員の本テーゼに対する態度は明白である。上級機関の決定には無条件に服従しなければならぬ。このことは、その決定を歪曲することなく、些(いささ)かの躊躇もなく直ちに実行する事を意味する。これき共産党の全組織を貫く行動の鉄則である。口先だけの服従は実践上の拒絶であり、行動の指針としてのマルクス=レーニン主義を歪めるものであり、生きた階級闘争の指導を空虚な「理論的」遊戯に代えんとするものである。

 正しい実践は決定に対する正しい理解に基づかねば為らぬ。だが、正しい理解は実践に拠ってこそ体得される。我々は先ず本テーゼに具体に指示してある一つ一つの政策の実行に取り掛からねばならぬ。この実践の中で軍事的警察的天皇制に対する・資本の搾取と圧迫に対する・寄生的地主的土地所有制に対する血みどろの闘争の中でよりよく、より深く理解されねばならぬし、且つ理解されるのである。

 党中央委員会は本テーゼの正しい説明、普遍化、理解の為の仕事に関し全責任を負うと同時に、本テーゼに対するあらゆる攻撃と反対、偏向、歪曲に対して徹底的に、決定的に闘争する。

 第三、***


 我々に課せられた重大な任務である。中央委員会はコミンテルンの指導の下に統一的意思の下にこの責任ある任務遂行の先頭に立つものである。同志諸君!  テーゼの正しき理解と普遍化のために、ポルシェヴィキ的自己批判の上に立って大衆闘争の先頭に立て! 新テーゼに基づいて目前に迫れる8.1デーの成功的遂行を期せ! 広汎なる被搾取者、被圧迫者大衆の間に我が党の綱領、政策を持ち込め! 新テーゼの正しき実践の為に近づきつつある日本の革命の勝利を期して進む我が日本共産党の飛躍的発展の為に、光輝ある党大会を大衆的に準備せよ。


【日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ】
 日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ    国債共産党日本支部 日本共産党中央委員会

 一、日本帝国主義によって火蓋を切られた強盗戦争は、人民大衆を一の新たなる歴史的危機にー世界虐殺戦の終結以来の最大の危機にー投げ入れつつある。満州の占領、上海及び支那のその他の地方に於ける血腥き諸事件、一般に日本の強盗帝国主義の企てた全軍事行動は、現在の世界経済恐慌の諸関係の下に最大の帝国主義強国の一つによって行われた最初の、広汎な計画を持つ軍事的進出である。開始されたこの帝国主義戦争は、資本主義世界の一般的危機並びに経済恐慌の全深刻さ、世界帝国主義のあらゆる対立の未曾有の先鋭化を反映している。それは最も重要な意味を有する新たな政治的震カンの全時機の端を開いた。最近の日支事変の結果として、異常に複雑化した国際情勢が生まれた。それに関連して、国債共産党の一切の支部、第一に日本の革命的プロレタリアート並びにその共産主義前衛にとつて、最高度に責任ある諸任務が生ずる。

 日本帝国主義の現在の領土拡張戦争は、日本帝国主義の発展の以前の諸段階の総てと直接の関連を持っている。異常な攻撃欲をその特徴とせる強盗的二本帝国主義は、植民地略奪と戦利品とを、資本蓄積と地震の*固化との最も主要な源泉の一つとして来たのである。

 日本が資本主義の軌道に移行せる際に天皇制ー反動的な半封建的官僚と大土地所有者とーが勝利したことは、帝国主義列強に対する日本の不平等な地位(高圧的条約)を廃除せんための初期の闘争をば、弱い隣接民族を略奪するための闘争という形態を取らしめ、近代的日本帝国主義の強盗政策のために道を拓く結果となった。

 日本帝国主義は1895年には朝鮮を支那から切り離し、台湾を領得し、支那に3億5千万円の償金を課した。義和団の蜂起の鎮圧に際しては、日本帝国主義はこれをその強盗政策の為に利用しつくした。1904年の戦争の結果ツアールのロシアが南満州で租借していた領土をロシアから奪い去り、南満州鉄道をその掌中に収めた。それに引き続く時期に日本帝国主義は朝鮮を最終的にその植民地となし、アジア大陸に於けるその将来の進出のための前哨に収めた、等々。

 世界大戦時には、日本帝国主義は更に一層の領土拡張をなした。1915年には支那に向って支那を日本の植民地に陥れんとする有名な21か条の要求を提出した。1922年のワシントン会議に於いて、日本帝国主義はアメリカの圧迫の下に、これらの要求の可也の部分を放棄し、三東から撤兵する等々のことを余儀なくされた。しかし日本帝国主義は決してその企図を思い切ることなく、その強盗計画の実現の為に適当な時機を俟つために、その力を集めてきた。

 ブルジョア=地主的日本の増大しゆく征服欲は、間断なく他の帝国主義大国の意図と要求とに衝突した。支那に於いて日本の開始した戦争は、かかる諸対立を一層激化した。太平洋沿岸、就中支那では世界大戦以後世界資本主義の諸対立が特に先鋭化しているが、これらの地方は現在では益々帝国主義的強盗の利害関係の険しい衝突地域となりつつある。支那に於ける戦争は、正にその勃発の最初の日から、新たな世界虐殺戦の迫り来る危険を、日本及びその他の国々の間に於ける(帝国主義列強の総てを網羅するに至らずとするも)直接の軍事的衝突またはかかる衝突の極度の強行的準備の迫り来る危険をかってない程に現実のものとするところの諸勢力を切って離した。

 二、それと同時に、世界帝国主義の政策にとって顕著な要因をなすものは、現在では、ソビエト同盟に対する戦争のために帝国主義列強の統一戦線を作らんとする企画の強化である。我々はプロレタリア独裁の国に対する世界帝国主義の武力干渉の直接に差し迫れる危険に当面している。この戦争の道具は国際連盟である。ソビエト同盟に対する戦争によって、国際ブルジョアジー及び彼らの代理人たる社会民主主義者は何よりも先ず国際プロレタリアートがその解放のために、恐慌からの革命的活路のために行う闘争を、挫折せしめようとしている。一切の国々に於ける勤労大衆の眼前には二つの世界ー一方では腐朽し、死滅しつつある資本主義と、他方では益々*堅固になり勝利しつつある社会主義と-の闘争が開始されている。資本主義のこの上なく激烈な現在の世界恐慌を背景にしてソビエト体制の一切の長所は特に鋭く浮かび上がり、社会主義建設の成果は特に輝かしい光の中に現われている。プロレタリヤ独裁の国の工業化は、未曾有の速度を以って前進しつつある。農業の社会主義的改造と、密集せる共同経営化と、またこれらを基礎として行われつつある階級としての富農の廃除に関しては、非常な大成功が遂げられた。社会主義経済の基礎の建設は完了した。第二次五カ年計画を実現するための諸前提は既に出来上がった。しかもこの計画によって階級なき社会主義社会の建設は充分に確保され、人類の歴史に一の新たな時代の端が開かれるのである。

 現在の経済恐慌によって、大衆的失業と、言語に絶する窮乏と残酷を極むる搾取とを忍ぶべく定められている資本主義諸国の勤労大衆にとっては、ソビエト同盟は、恐慌からの革命的活路のため、資本主義撤廃のための闘争の必要を示す雄弁な実例であり、確乎たる証明である。だが帝国主義者共の計画は、要するに社会主義建設を失敗せしめ、ソビエト同盟を絞殺して、総ての国々に於ける労働者農民大衆を更に一層無慈悲に搾取するため、労働者農民大衆の経済的及び政治的奴隷化の体制を*堅固化するために道を拓かんとすることにある。特に目立っているのは二個の帝国主義的憲兵ーヨーロッパの憲兵たる帝国主義フランス及び極東の憲兵たる帝国主義日本ーの同盟であって両者共にソビエト国家に対する出兵の発頭人たる役割を受け持って居るのである。

 日本帝国主義は極東すら攻撃することによつて、それと同時に又は間もなくそれに引き続いてフランス及びその隷属国(ポーランド等々)が西武からソビエト同盟を攻撃するための諸条件を作ることになっている。日本が支那に於けるその略奪戦争に於いて、他の帝国主義列強及び国際連盟から全体として受けた支持は、先ず何よりも以上の如き反ソビエト計画によって証明される。支那の役割に共同する用意の有るイギリスは日本による満州の占領に反対しないでいるが、それはイギリスが一部分はアメリカ帝国主義の鼻をあかそうという考えによって導かれているのだが、やはり主としては反ソビエト戦線の参加者としてのその利害によって導かれているのである。支那全体を自己の従属下に置こうと努力しているアメリカは、それ故に、今日までのところ日本に対しまだ公然たる積極的方策をとるら至っていないけれども、日本帝国主義に対しては激しい対立をなしている。アメリカは一方に於いては戦争が長引く結果として日本が弱まるのを待つし、他方ではイギリスと日本との接近を恐れているのだ。だがそれにしてもアメリカ並びにその他の帝国主義列強は、何よりも先ず日本帝国主義がソビエト同盟に対する戦争に於いて前哨の任務を引き受けることを望んでいるのだ。

 三、ブルジョアー地主的日本は戦争発頭人たる役割を受け持って居るが、これは全く日本帝国主義の性質に合致する。日本に於いては独占資本主義の侵略性は絶対主義的な軍事的=封建的帝国主義の軍事的冒険主義によって倍加されている。日本及び(帝政)ロシアに於いては近代的金融資本の独占が、軍事的勢力の独占によって、広大なる領土の独占によって、外国諸民族、若しくは支那その他を略奪するための特別な便宜の独占によって、一部は補足され、一部は代位されている』(レーニン、1916年)。

 日本帝国主義が支那に対するソビエト運動を粉砕するために、支那の厖大な部分を又は出来える限り大なる部分を自己の植民地に転化するために、より強固な経済基礎を作り、原料資源、特に軍事工業及び軍需品のための原料資源を奪い取るために、またアジア大陸に於ける自己の地位を固め、かくて太平洋制覇のための新戦争に対し武装を整えんがためにその軍事的勢力の独占を利用することにある。


 日本帝国主義の軍事的進出は、重苦しい、激烈な経済恐慌によって激化されたところのその総ての内部的諸矛盾の激しい先鋭化と直接に関連している。日本の独占資本は、まだ前資本主義的諸関係の濃密な網によって纏われている。日本帝国主義の相対的な経済的弱点とその内部的諸矛盾の異常なる尖鋭さは、このことによって説明される。国内市場の狭隘さの原因となっているところの、国内に於ける封建制の強力な残滓、農民に対する半封建的な搾取方法とプロレタリアートの搾取の植民地的水準は、工業恐慌と農業恐慌との結合をもたらし、都市及び農村に於ける経済恐慌の未曾有なる尖鋭さをもたらした。日本の地主及び資本家は、支那に於ける戦争によって、恐慌からの活路を見出し高まりつつある大衆の革命運動を抑圧し、自己の植民地領有を拡大して支那の勤労大衆に対する尚一層の植民地的搾取を開始しようと企んでいる。

 四、日本の共産主義者は、外部に対する日本帝国主義の侵略性と、その国内政治との間に於ける不可分的な関連外部に対する帝国主義的強盗戦争や、植民地の奴隷化と国内に於ける反動との間に於ける不可分の関連を理解せねばならぬ。日本帝国主義は戦争の道を進みつつ、軍事的=警察的天皇制の支配制を、勤労者に対する前代未聞の専制と暴力支配との統治を維持し強固にし、農村に於ける農奴的支配を強化し、大衆の生活水準を尚これ以上に低下せしめんと志している。

 戦争は必然的に国内の階級対立を極度に先鋭化している。それは日本のプロレタリアート及びその共産党に、戦争反対の闘争を労働者農民及び一切の勤労者の最も緊急な日常利益の為の闘争、彼らの経済的及び一切の奴隷化に反対する闘争と結びつけ、かくして帝国主義戦争を内乱に転化し、ブルジョア=地主的天皇制の革命的転覆を招来することの任務を課している。

 日本帝国主義の強盗戦争は、日本に於ける革命を遠ざける代わりに、最も間近く近寄せている。早くも戦争の当初に於いて支那の確立のため、その分割反対のための支那国民の頑強を抵抗と犠牲的な闘争に並んで、日本の軍隊内に於いても、また日本内治に於いても、帝国主義戦争反対の動揺が沸き立った。これらすべてのことは、日本帝国主義の冒険的計画が惨めな失敗を嘗めるであろうことを、充分可能ならしめる。かかる条件の下に於いて異常に重大な責任ある役割が日本共産党に課せられている。事件の今後の進行並びに、革命運動の今後の発展は著しく且つ決定的に、共産党の力と堅固さとに、何百万の勤労者を党のスローガンの下に結集し、彼らの闘争の先頭に立つその能力に、依存するであろう。だから日本共産党の思想的及びその他の勤労者層の広汎な大衆との今日まで未だ著しく弱い結びつきを拡大し強化するために、その一切の力を緊張することを要する。党は、如何なる犠牲を払っても、大衆の高まり行く活動性に対するその立ち遅れを一掃し、来るべき革命に確信を以って立ち向かいうる真実の大衆党とならねばならぬふ。
 二、当面せる革命の性質

 五、




(私論.私見)