1922年9月綱領

 (最新見直し2006.12.25日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 加藤教授により、「22年テーゼ」に先行して「1922年9月綱領」が存在したことが確認された。この綱領はソ連邦崩壊後漏洩されることになった機密資料の中から発見されたもので、加藤哲郎教授が「1922年9月の日本共産党綱領(上)(下)」論文中で、「モスクワに保存されていた日本共産党22年綱領問題」を検証している。

 コミンテルン文書館に保管されていた「1922年9月綱領」の発見は、定説の「日共の『日本共産党綱領草案=22年綱領』観」を覆すものであると云う。英文タイプ文書で、日本語文はなかった。「1922年9月の日本共産党創立大会綱領」(PROGRAM OF THE COMMUNIST PARTY OF JAPAN)(Adopted by the National Convention of the Communist Perty of Japan, Sept. 1922)と題名が為されており、「1922年9月、日本共産党全国大会で採択」と明記され、「General Secretary Aoki Kumekichi, International Secretary Sakatani Goro」の直筆手書き署名があり、さらに中央に星印、そのまわりに「日本共産党幹部之印、The Executive Committee of the Communist Party of Japan」と彫られた大きな朱色の丸印まで押されている。加藤教授は、「官憲の手に成る偽造文書とは考えられない」と判定している。

 これを素直に見れば、これは草案ではなく、正式に採択された「日本共産党綱領」ということになる。「これがモスクワに届けられ、旧ソ連邦共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所コミンテルン・アルヒーフに保存されていた」と云う。この文書がこのたび加藤教授らによりモスクワで発見されたことにより、これまで知られていなかった「まぼろしの1922年9月の日本共産党創立大会綱領」の存在が明るみに出ることになった。日本共産党創設期の重要文書の発見ということになる。

 2006.12.25日 れんだいこ拝



【「綱領草案」発表される】

 1922(大正11).9月、綱領草案(1922年9月綱領)が発表されている。 「1922年9月綱領」は、政治、経済、農業、外交の4部門に分けて社会分析を行い、党の要求をスローガン化させている。今日から見ていずれも先進的なそれであり、土地の公有的観点を取り除けばほぼ全ての要求が敗戦後の日本の統治システムの中に導入されていることを思えば感無量でもあり、他面戦後社会の構造分析を為す際の一つの示唆を与えているようにも思われる。

 
「1922年9月綱領」の採択に当り、「君主制廃止」スローガンを廻って議論が重苦しく為されている。辛うじて採択されたものの実際の日本の運動にはほとんど影響を与えなかった。この綱領は、モスクワで23年秋に作成され、24年に独英仏語で発表されたが、同様に影響力を持たなかったようである。


【日本共産党綱領】
 以下、加藤教授による英文オリジナルからの訳出文である。
 第3共産主義インターナショナルの支部である日本共産党は、非合法のプロレタリア政党であり、その目的[aim]は、ソヴェト権力を基礎としたプロレタリアート独裁樹立を通じての、資本主義レジームの打倒[overthrow of the Capitalist regime]である。

 日本は、東洋の資本主義諸国のなかで最も強力で、世界戦争中に占めたその有利な地位が、資本主義体制の突然の発展と拡張をもたらした。世界経済危機の圧力のもとで、日本資本主義は、すでにして不平等な搾取と迫害を、勤労大衆、労働者、農民及びその他の下層住民へいっそうしめつけようと、懸命にたたかっている。共産党は、これらプロレタリア大衆を強力な戦闘体へと組織し、政治権力と生産体制をプロレタリアートの手中に奪取するプロレタリア革命へと彼らを導く任務を自ら引き受ける。

 (労働運動)

 日本における労働者の運動は、なお揺籃期にある。労働組合運動は、日本の帝制[Japanese Zardom]のくびきのもとで、なお正常な発展線上に従ってこなかった。大多数の受動的で脅迫され未組織な大衆とならんで、自覚的で戦闘的な少数派分子がおり、その気質とイデオロギーは、ヨーロッパの労働者の最も進んだ部門のそれに匹敵するほど革命的である。未組織労働者のあいだでさえ、いかなる野蛮に抑圧された無産者[toilers]のなかにも広がり根付いているような、本能的反抗の感情がある。

 これらの本能的反抗と革命的要求に対して、共産党は、もっとも明白に定義づけられた目的[purpose]と、それを実現する[of realizin it]最も有効な諸手段を与えるよう努める。この目的のために、共産主義者は、組合の政策を支配できるように、すべての労働者の組織に浸透し、未組織大衆をプロレタリア的闘争へと教育し導き組織するように、彼らとの緊密な接触を保持しなければならない。

 この困難な仕事のなかで、党は、プロレタリア独裁樹立という究極的目標をしっかり保持しつつも、労働者の日常的諸闘争に積極的に加わるために、あらゆる機会に「統一戦線[the United Front]」という共産主義戦術を遂行して、その合法的諸活動を組織しなければならない。こうした路線でのその成功的闘争を通じてのみ、共産党は、プロレタリア大衆党、プロレタリアートの真の前衛党という性格を身につけることが期待できる。


 産業労働者のより積極的で影響力ある部門のいくつかは、アナルコ・サンディカリズムのイデオロギーという小児病に冒されてきた。彼らは「自由な労働者のレジーム」という幻想的考えを素朴に胸に抱いて、中央集権的組織とプロレタリア独裁樹立を含むすべての「政治的な」活動に反対し、なお少数派労働者を指導し影響を与える地位にあり、プロレタリアートの目前の必要のための不可分の努力と究極的勝利の双方に損害を与えている。

 これらの革命的分子には、我々の原理の問題ではいかなる譲歩をもなすことなしに、彼らのできるだけ多数を我々の目標と戦術にかちとるために、党によって最大限の忍耐と寛容をもって接近されなければならない。

 (農業問題)


 農業の領域では、窮乏化の過程が着々と進行し、小作と土地集中の顕著な増大をもたらしている。この傾向は、突然の産業発展・拡張によって拍車をかけられている。産業労働者の反抗的活動により目覚めされて、農村無産者は組織化し、彼らの階級敵と闘いはじめ、戦争によって引き起こされた切実な労働力不足によって彼らの地位が強化されたことを見出してきた。産業不況に入って後にさえ、小作人と農民は、彼らの闘争と組織化を続けている。彼らは、耕作を放棄せざるをえないような小作料の軽減を要求している。何千エーカーもの土地が、小作人によって放棄されてきた。そして地主たちは、雇用労働と農業機械の助けによって、その土地を自分で耕すよう余儀なくされている。

 こうした情勢を考慮し、とりわけ小農民と小作人が全人口の70パーセント近くを占め、彼らの助けなしにはプロレタリアの勝利は不可能であるというより基本的な事実をふまえて、日本共産党は、小作人の組織化においてイニシアティヴをとり、農村労働者が共産主義の理想を理解し、彼らの唯一の救済を社会革命のなかに見出すようになるように、農村におけるたゆまぬ宣伝と煽動を続けるべきである。

 (政治活動)


 この国における諸政党は、資本家階級の党である。しかしながら、彼らの支配は、封建日本の遺制である官僚と軍部の影響力によってチェックされている。したがって、この二つの勢力の対立と妥協が、今日の政治の骨格を成している。ブルジョア民主主義は、なおその最盛期にはいたっておらず 、普通選挙権は、なお闘争日程にのぼっていない[The Bourgeois Democracy is yet to see its palmiest day, and the universal suffrage to be fought for]。

 共産党は、議会制度それ自体はブルジョアジーの機構にほかならず、プロレタリア革命の道具としては頼りにならないという真理を完全に確信しながらも、にもかかわらず、議会制度の完成はプロレタリアートの闘争の正常な発展における基本的一階梯を成すという立場をとる。したがって党は、「民主主義の進歩[progress of Democracy]」を早めるように助ける、プロレタリアートの政治活動を組織する。

 しかしながら、我々の議会内外の政治活動は、我々の全般的な共産主義的宣伝・煽動の特徴を留めなければならない。それらは、一方でのプロレタリア的闘争の拡大・深化とブルジョア民主主義の欺瞞[hypocresy]・無益の暴露、他方でのプロレタリアートに対する彼ら自身の政府機構を創出する必要の示威、から成っている。そのようにしてのみ、党は、プロレタリアートが彼らの闘争の本質的に政治的な性格を確信し、彼らの闘争を最期の政治権力奪取へと持続することができるようになると信じる。そして、そのようにしてのみ、我々は、労働者・農民・兵士ソヴェトを基礎にしたプロレタリア独裁樹立を目的とする我が党の指導に、プロレタリアートが従うであろうと確信する。


 (軍国主義)

 東洋のドイツとして知られる日本帝国は、世界的に有名な軍事官僚制をもっている [The Japanese Empire, known as a Germany of the Orient, has its world-famous Militarilist Bureaucracy]。日本の主戦論者[Jingoes]たちは、アメリカ合衆国との戦争という考えにさえ、尻込みしていない。そして、彼らの自然な同盟者は、貪欲に市場を切望するブルジョア資本家である。

 軍国主義者の影響力の秘密は、彼らの愛国主義にある。 軍国主義者が学校と軍隊内で熱心に説いてきた愛国主義は、なお大多数の人々を掌握している。愛国主義の毒により盲目にされ聞こえなくされて、彼らはまだ、軍隊の真の機能が、資本主義的支配を維持し、資本家が生産者大衆をいつまでもより効率的に搾取し抑圧することであることを、理解できないでいる。

 共産党は、断固として軍国主義と闘う。党は、愛国主義の呪縛を断って、軍国主義者の権力の土台を転覆し、かくして革命的プロレタリアートの赤軍組織化への道を準備しなければならない。

 (朝鮮、中国、シベリア問題)


 日本共産党は、あらゆる種類の帝国主義政策に断固として反対する。党は、公然であれ秘密であれ、中国・シベリアへの侵略、これらの国々の政府への干渉、中国・満州・モンゴールにおける「影響圏」「既得権」及び類似の性格を持つすべての他の企てと実行に反対する。

 日本帝国主義のすべての犯罪の中でも最も悪名高いのは、朝鮮併合と朝鮮人民の奴隷化である。日本共産党は、たんにその行動を非難するだけではなく、朝鮮人民の解放のために必要なあらゆる措置を講じる。朝鮮独立のために闘っている朝鮮の愛国者の多数派は、ブルジョア・イデオロギーと民族主義的偏見から解き放たれてはいない。我々は、たんに朝鮮革命の勝利のためばかりではなく、彼らを我々の共産主義的原理に獲得するためにも、彼らと共同して行動することが必要である。朝鮮革命は日本における民族的危機をもたらすであろうし、朝鮮と日本の双方のプロレタリアートの運命は、二つの国の共産党の統一した努力によってもたらされる闘争の成功ないし失敗に依存するであろう。

 極東における三つの重要な民族である中国・朝鮮・日本は、彼らの政治的・社会的・経済的生活において互いに密接に関係し合っており、かくして、共産主義の目標へと共に行進する責務をもつ。プロレタリアートの国際連帯[iternational solidarity]、とりわけこれら三国の国際連帯は、たんにそれら諸国ばかりでなく全世界のプロレタリアートの勝利と解放のために、絶対欠くことの出来ない条件である。
 
               1922年9月、日本共産党全国大会で採択
 
                 署名 書記長[総務幹事]   アオキ・クメキチ
                    国際書記[国際幹事]  サカタニ・ゴロウ
 
                  朱印(日本共産党幹部之印)

【加藤哲郎教授の日本共産党綱領評】
 加藤哲郎教授は、概要次のようにコメントしている。
 今日の日本共産党の公式党史では、概要「日本共産党は、1922年7月15日に東京渋谷で創立大会を開き、党規約を採択し、コミンテルンへの加盟を決議、中央執行委員長に堺利彦を選出した」として、1921年4月堺利彦・山川均・近藤栄蔵らの日本共産党準備委員会「日本共産党宣言」、「日本共産党規約」の存在は認めている。が、綱領については、1994年版「日本共産党の七十年」は次のように記している。
 概要「コミンテルンは1922年6月の第二回拡大執行委員会で綱領作成の作業にとりかかり、その一環として日本共産党綱領作成のための委員会をつくり、片山潜の参加のもとに、日本共産党綱領草案の起草をすすめた。党は、その年の11月にひらかれたコミンテルン第4回大会に、高瀬清、川内唯彦を派遣し、日本共産党の成立を報告した。コミンテルン大会は、これを承認し、党は、コミンテルン日本支部・日本共産党として正式にみとめられた。

 1923年2月4日、市川での第二回大会で、コミンテルン第4回大会の報告、規約の改正、役員の改選などを行い、同年3月15日石神井での臨時党大会で、綱領草案を討議し、『君主制の廃止』など22項目の当面の要求は出席者によって確認されたが、綱領全体についての決定は大会後に持ちこされた。そして、綱領委員会でひきつづき審議することになったが、同年6月の第一次検挙のため、綱領草案は審議未了になった」。

 今日の日本共産党が初めての綱領的文書として公認する「綱領草案」とは、1924年のレーニンの死の頃、コミンテルン「共産主義インタナショナル綱領問題資料集」に初めて発表された「日本共産党綱領草案」を指している。その典拠が村田陽一編訳「資料集 コミンテルンと日本」第1巻の次の注記である。
 概要「日本共産党綱領草案起草の作業は第4回大会までにはまだ完了していなかったが、1921年6月の第3回拡大執行委員会のときにはすでに終了していた。正式には採択されなかったが、高瀬と川内によって日本にもちかえられて、1922年3月15日の石神井臨時党大会の審議にかけられたが、綱領の全文としては審議未了になった」。
 「(爾来、現下共産党中央のこの見解には、)党創立の時期、討議内容等々に関連して、学問的には深刻な論争があり、むしろ1921年春、日本共産党創立説が有力になってきた」。「それというのも、1922年7月創立説自体、1930−32年の日本共産党公判闘争のなかで初めて出てきたもので、コミンテルン文献では22年7月以前から『日本共産党』の表現が幾度も用いられていたし、7月15日創立大会開催を根拠づけるのも、高瀬清の晩年の回想『日本共産党創立史話』(青木書店、1978年)のみで、文献的根拠を欠くからである」。

 公式党史「日本共産党の七十年」は、モスクワで作成された「日本共産党綱領草案」を「党の最初の綱領的文書」として扱うが、1922年「創立大会」があったと仮定しても、学問的にはそこで「綱領」がつくられたかどうかが論点になっている。松尾尊兌、犬丸義一、村田陽一、岩村、川端氏らは、「規約(英国共産党暫定党規)が作成されたことは確実だが、綱領については不確実。戦前の証言は綱領を作成しなかった」、「正式の綱領は創立当時存在せず、きわめて簡単な行動綱領のみ暫定的にきめられたのであろう」と結論づけて、共産党中央見解党史を補強している。

 これに対して、加藤教授は「これまでの日本共産党史に関する論争問題の多くは、案外簡単に資料的裏付けを得て解決されるであろう」とコメントしている。加藤教授は、「日本共産党22年9月綱領の内容と特徴──天皇制問題の不在」と題して「日本共産党綱領」を次のように検討している。

 要約概要「第一に、この綱領は、1922年1月極東民族会議でのサファロフ報告・日本代表団政綱や、22年夏のヴォイチンスキー論文、22年末モスクワ作成とされてきた日本共産党綱領草案、27年テーゼ、31年政治テーゼ草案、32年テーゼ、36年日本の共産主義者への手紙、等々とくらべると、きわめて一般的かつ短文であり、歴史的叙述がなく、行動綱領も入っていない。わずかに、アナルコ・サンディカリズムに対する態度や統一戦線に当時の日本的・状況的特徴が反映されているが、君主制=天皇制については軍部官僚制と愛国主義イデオロギーに解消しており、普通選挙権への態度も曖昧である。『Japanese Zardom』、『東洋のドイツ』といった表現は、極東民族大会サファロフ報告を連想させるが、当時のありふれた表現でもある。この意味で、かつて隆盛した日本マルクス主義理論史・日本資本主義論争史・天皇制国家論争史風の問題設定からすれば、とりたてて特徴のない、つまらない内容である。

 しかしまたこれは、それまで国内で相互に対立していたいくつかの社会主義の流れをまとめあげ、コミンテルン日本支部としてモスクワで承認と援助を得るという実際的目標からすれば、『アナ・ボル論争』やブルジョア民主主義革命とプロレタリア社会主義革命の関係、日本の天皇制や当面する普通選挙権・議会制への態度等について詳論せず、当時のマルクス主義理解による一般的原理を述べるに留めているがゆえに、創設に加わったメンバーから異論の出にくい、『最大公約数』たりうるものである。筆者はそれゆえに、これは、日本共産党創立時の正式の綱領であったと判断する

 ではなぜ、見方によっては凡庸な(?)、一般原理にとどまるプログラム=綱領を、全国大会を開いたばかりの日本共産党は、モスクワに届けたのであろうか? それは、一つには当時のコミンテルンの綱領討論全体の特徴を、より低い次元で反映しており、そもそも綱領とはマルクス『共産党宣言』風のアピールなのか(前年4月の「日本共産党宣言」)、ドイツ社会民主党『エルフルト綱領』風の最大限綱領・最小限綱領を含むものなのか、日本の共産主義者たちには、わからなかったためであろう。当時コミンテルン執行委員会内に綱領問題委員会がつくられ日本問題もとりあげられるというモスクワ情報が伝わっていたかどうかは定かでないが(岩村登志夫『コミンテルンと日本共産党の成立』78頁は、野中誠之の来日からこれを示唆する)、たとえ伝わっていたとしても、どのような長さ・構成のどこまでふみこんだ綱領をつくるべきかは、彼らには判断できなかったであろう。モスクワでもなお、『綱領とはなにか』が、機関紙誌上で散発的に論じられている局面だった。

 したがって、1922年夏時点で日本共産党正式結成を志す人々がさしあたり必要とした綱領とは、コミンテルンとの関係では、『加入条件21か条』を認めて日本支部として承認されることであり、旧来の規約との関係では、21年暫定執行委員会全48条規約のいう『党の原則と戦術』、『党憲章』(第3条)──英語ではprinciples and tactics of the party , the party constitution=規約そのもの──、同じ22年夏創立大会で採択されたとされる全24条『英国共産党暫定党規』に従えば、『無産階級の独裁によって資本主義を撤廃し、社会主義を実現する』(第2条)という一般的目的レベルでの『共産党インタナショナルの主義及び政策』、『綱領と規律』(第3条)であった。

 当時のコミンテルン『加入条件21か条』第15条には、『いまなお旧い社会民主主義的綱領を保持している諸党は、できるだけ短期間にその綱領を改訂し、自国の特殊な諸条件に適合しながらも、共産主義インタナショナルの諸決定の精神に立つ、共産主義的綱領を作成する義務がある。……各党の綱領は、共産主義インタナショナルの定期大会または執行委員会の承認をえなければならない』とあったが、そのような意味での公式綱領を持つ支部=各国共産党はロシア共産党(ボリシェヴィキ)以外生まれていなかったし、日本では『旧い社会民主主義的綱領』さえなかった。そもそもコミンテルン指導部自体が、統一した綱領観を持っていなかったのである。当時の日本の共産主義者が、メンバーの意見の『最大公約数』を綱領と考えたとしても、何の不思議もない。

 (中略)1922年夏に日本で作られた日本共産党綱領は、このような意味及び次元での「綱領」であり、「プロレタリア独裁樹立」を究極目標とし、労働者の政治活動への参加を認める程度の合意形成で足りる、と理解されていたのであろう」。

 加藤教授は、「22年綱領の起草者・署名者──山川均起草、荒畑寒村・堺利彦署名?」で、「この22年日本共産党綱領は、本当に1922年9月に、正規の全国大会で採択されたものであろうか?事実とすれば、大会での正式綱領採択という決定内容においても、7月15日とされてきた創立大会開催日についても、旧来の日本共産党史研究は、大きく書き換えられることになる。このレベルで、従来の研究が主として依拠してきた、第一次共産党参加者と目される人々の回想・証言が、改めて検証されなければならない」と問い、次のように述べている。

 先に松尾・犬丸説を引いて紹介したように、当時の関係者の証言には、創立時の日本共産党に規約のみならず綱領もあったという証言は、ないわけではない。野坂参三は、堺利彦から第一項目「君主制の廃止」をきりとった「行動綱領」をみせられたといい(『風雪のあゆみ』第4巻、新日本出版社、1977年、86-87頁)、鈴木茂三郎は、初対面の山川均から無造作に「第一次共産党の綱領」を示されたと証言している(「わが交遊録」『鈴木茂三郎選集』第4巻、労働大学、1971年、24頁)。

 高瀬清は、主著『日本共産党創立史話』では触れていないものの、『近藤栄蔵自伝』(ひえい書房、1970年)に付された座談会「『暁民共産党』と第一次共産党」では、「あとで『英国共産党綱領』といわれる」綱領があり、コミンテルン第4回大会で「持っていった綱領は討議されました。そのうえでブハーリンによる修正が起草された」、「日本から持っていった綱領には天皇制の問題が書いてない。それを補正するという意味でブハーリンが修正案を出したわけです。日本に持って帰って討議にかけるという条件があるんですから。綱領はきまったのです」という(478頁)。

 また、志賀義雄は、浦田武雄からの伝聞として「必要な綱領規約案はやはりつくっていたそうです。最近、浦田さんに聞いてもそういっていました。日本共産党の方針書をすべてモスクワ製とする一部の史家は、日本帝国主義の逆宣伝を半ばうのみにしているのです。その中に、君主制の問題は書いてなかった。というのは、これを書くと危ないから、わかり切ったこととしてふれないでおこうということであった」と述べている(『日本共産主義運動の問題点』読売新聞社、1974年、69-70頁)。

 本資料との関係で注目されるのは、荒畑寒村の第4回予審訊問調書(1930年2月18日)である(『現代史資料』第20巻、みすず書房、1968年)。

 「其後の第一次日本共産党組織綱領方針等が、其大会[極東民族大会]の趣旨に照応する様に作られたものとは思って居りませぬ。例えば、其の綱領の如きも極めて簡単な公式を採用せるに過ぎざる暫定的のもので、私の知って居る限りでは第一次共産党は遂に正式の綱領を持たなかったのです」(11頁)。
問 第一次日本共産党ノ創立大会ハ大正十一年七月デアツタノカ。
答 其頃デアツタト思ヒマス。
問 其創立大会ニ於テ被告ハ同党ノ中央委員トナツタカ。
答 左様デアリマス。選任セラレ私ハ就任ヲ承諾シマシタ。
問 第一次日本共産党ノ目的ハ。
答 無産者独裁ニヨリテ共産主義的社会ヲ建設スルコトガ第一次共産党ノ綱領デアリマシタ。其綱領ヲ実現スルコトガ目的デアツタト云ヘマセウ。
問 其綱領ノ実現ニハ君主制ノ廃止、私有財産制度ノ否認ガ過程トナルノデハナイカ。
答 理論的ニ追究サレレバサウデアルト申ス外ハアリマセヌ」(12頁)。

 正式の綱領は持たなかったが、「極めて簡単な公式を採用せるに過ぎざる暫定的」綱領の存在を認めている、とも読める。ただし犬丸義一は、これを極東民族大会日本代表団がブハーリンから示された「帝政の廃止」を含む「行動綱領」と読むが、それは野坂参三『風雪のあゆみ』第4巻の「君主制の廃止」要求が当初から日本共産党の綱領的第一要求であったことを根拠づける記述に、引きつけすぎている。加藤『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)で詳述したように、野坂参三『風雪のあゆみ』は、当時日本共産党議長・名誉議長であった著者野坂と日本共産党公式党史を正統化するための、虚実混淆の「伝説」である。

 今日では、極東民族大会でブハーリンが日本代表団に「天皇の廃止」を求めたという徳田球一予審訊問調書(『現代史資料』第20巻、71頁)に発する「神話」も解体したし(岩村前掲書79頁以下、川端前掲書315頁以下)、そもそも第一次共産党が天皇制打倒をメイン・スローガンにしたという話自体、疑ってかからなければならない。むしろ、ここに紹介した「天皇制の問題が書いてない」1922年9月日本共産党綱領であれば、当時の党員たちの暫定的な出発点・合意点たりうるであろう。

 それではこの綱領は、いつ、どのようにして作られたのであろうか? 筆者はこれを、9月に、ただし正規の「全国大会」での字句の検討などは経ずに、指導部数名により起草・決定され、モスクワに届けられた、と考える。それは、コミンテルン第4回大会への代表(高瀬・川内)の離日時期であるが、高瀬がそれを帯同したか、それとも上海ないしウラジオストック経由のルートで密使により届けられたか、いずれかであろう(たぶん後者)

 ではなぜ「全国大会採択」となるのか、それは、極東民族大会出席者が帰国し伝えたコミンテルンの意向を受けて、22年6月以降9月までに、7月15日とは特定できないが7月の渋谷高瀬下宿での会合を含む幾度かの会合がもたれ、そのどこかで、おそらく口頭で上記綱領の骨子が指導部から説明されて、ほとんど討論されることなしに、指導部に起草が一任されたもの、と考えられる。したがって、それら一連の準備会合のうちで、どれを「全国大会」とするかは、党指導部の解釈の問題となる。

 その種の会合としては、鈴木徹三『鈴木茂三郎(戦前編)』(日本社会党機関紙局、1982年)で「橋浦時雄日記」から引かれた22年「六、七月頃幡ヶ谷における幹事会における山川氏執筆の英国共産党暫定規約(カモフラージュ名)が検討され、党の銅印も発表された(吉原太郎がもたらしたもの)」会合、「この頃山川、徳田、吉田一の三人による片山指令の党改組なるものの」会合(142頁)、高瀬・橋浦証言の7月15日「創立大会」ないし「細胞代表者会議」、その後と橋浦が回想する「山川氏宅」で山川が指導部の分担を割り振った会合、などが知られている(『寒村自伝』290ー291頁)。高津正道の「堺、山川、荒畑、橋浦、吉川、私などが組織の秘密の会合を市内のあちこちで持って協議した」という回想もある(高津『旗を守りて』笠原書店、1986年、203頁)。荒畑寒村が大久保百人町の自宅で党創立会合を開いたかもしれないと述べた間接証言もある(志賀義雄前掲書、113-114頁)。9月にも同種の会合があっても、なんの不思議もない。

 最後に、署名者・起草者の問題がある。「General Secretary Aoki Kumekichi, International Secretary Sakatani Goro」とは何者であろうか? 結論的に言えば、筆者は、このInternational Secretary Sakatani Goroを堺利彦と特定し、General Secretary Aoki Kumekichiは、従来公認党史においてさえ「初代委員長」とされてきた堺利彦ではなく、荒畑寒村と判定する。ただし綱領自体を起草したのは、堺でも荒畑でもなく、おそらく山川均であろう。署名に付された朱印は、橋浦時雄が回想する幡ヶ谷の準備会議で山川執筆の規約が検討(承認?)されたさい吉原太郎がもたらしたという「銅印」であろう。当初のモスクワとの連絡に用いられた、日本共産党の公印と考えられる。

 これらの根拠を示すためには、別の資料を紹介しなければならない。詳しい紹介は次回以降にするが、コミンテルンに公式に加わったばかりの1923年の日本共産党は、ひんぱんにモスクワに公式報告書を提出していた。

 それらのなかには、同じ公印を使った文書だが、「Sakatani Goro」をInternational Secretaryではなく、今度はGeneral Secretaryに選んだことを示す23年2月市川大会報告書、コミンテルンから綱領作成指令・草案が届いて、それを討議し審議未了となったことを弁明しつつ、「同志Aoki」をコミンテルン第3回拡大執行委員会総会への代表としてモスクワに派遣することを告げた23年3月石神井大会報告書、なども綴じ込まれていた。これらによって、犬丸・松尾・岩村氏らがあれこれと論じてきた論争点のいくつかが、第一次資料によって決着することになる。

 まず、1922年夏の「International Secretary Sakatani Goro=堺利彦」の根拠であるが、これは比較的簡単である。日本共産党綱領と同じオーピシの後ろのジェーロの冒頭文書(f.495/op.127/d.61/1-3)は、「Feb.18, 1923 An abstract of the proposed report to the Comintern」と題された公式報告書で、22年綱領と全く同じ公印が押され、「全国大会が東京近郊で2月1日に開かれた。執行委員5名、各専門部から7名、細胞を代表する62名の代議員が出席した」として、その議題を紹介し、新執行部選出を告げている。

 その文書の末尾の署名が、「G.S. Sakatani Goro, I.S. Hanada Yoshio」となっており、GS=General Secretary, IS=International Secretary であるから、23年2月大会で新たに選ばれたGSが、22年夏のISと同一人物であることがわかる。この23年2月市川党大会については、出席者数・氏名などいくつか論争点はあるが、日本での従来の研究でも代表者(総務幹事長)に堺利彦が選ばれたことは一致している。したがって、堺のモスクワ向けの党名が「Sakatani Goro」であったことになる。ついでにいえば、この市川大会でIS=国際幹事になったのは佐野学で、「Hanada Yoshio=佐野学」となる。

 「General Secretary Aoki Kumekichi=荒畑寒村」の根拠は、やや複雑である。そもそも第一次共産党の最高指導者は堺利彦といわれるが、堺は、22年夏全国大会で選ばれた「委員長」ではなく「国際幹事」であった。General Secretary(旧ソ連風に訳せば「書記長」) とモスクワに報告されたAoki Kumekichi とは誰になるのか? これについては、高瀬清が22年7月会合で「暫定役員として総務幹事に山川、荒畑、高津、国際幹事に堺、会計幹事に橋浦、規律委員に吉川の諸氏を決定」(『日本共産党創立史話』175頁)と回想し、荒畑寒村『寒村自伝』に引かれた橋浦時雄の「荒畑、山川、高津の三人が総務幹事、堺さんが国際幹事、私が会計幹事になったことは、山川氏宅において山川氏が割振ったものでよく記憶に残っています」という証言がある(『寒村自伝』論争社、1961年、290-291頁)。いずれも堺利彦が「委員長」になったなどとは言っておらず、堺は「国際幹事」で「総務幹事」は山川均・荒畑寒村・高津正道の3人であったという。

 ではGeneral Secretaryとして党を代表し、IS=堺と共に綱領に署名したAoki Kumekichi は、3人の総務幹事中の誰になるのか? 堺が1871年生の日本社会主義の最長老であることは誰の目にも明らかだが、高津は1893年生、荒畑1887年生、山川1880年生、これだけでも総務幹事中の幹事長格は、山川均である。ましてや橋浦によれば、この役員人事を決めたのは、開催月日は書いていないが(7月高瀬宅会合後の)山川宅での会合で、山川自身が「割振った」ものである。全24条規約の起草者も、山川均とされる。高瀬回想では「どんな文書でも山川さんが書いたんです。わるくいえば堺・山川の党だった」「コミンテルン第4回大会にこの決定を報告する代表の選定に入ったが、この問題は堺、山川、近藤の三氏に委任」されたともいう。これら一連の証言からすれば、日本共産党のGS=Aoki Kumekichiの最有力候補 は、山川均となる。

 しかし、よく知られているように、山川は第一次共産党との積極的関わりを、晩年まで否定し続けた。多少とも事実関係に触れた『社会主義』第62号(1956年10月)の座談会では、「西、田所、上田の三青年から党結成の報告を聞いて初めて知った」と述べて、盟友荒畑寒村さえ「とうてい私の承服し得ざるところ」と書いた(『寒村自伝』、291頁)。

 同時に『社会主義』座談会で、岩井章が「共産党が結党したのは大正十年ですね」と述べたのに対し「いや十一年です。十一年の夏ころだったでしょう」と、1921年春の準備委員会ではなく22年夏を創立時期にしている(28頁)。また綱領との関わりでは、しばしば引かれるように、『前衛』22年7/8月合併号の山川論文「無産階級運動の方向転換」を市川正一の3・15公判陳述「日本共産党闘争小史」が「日本共産党の党議決定」としたのに対して「党の意向など頭から考慮に入れていなかった」(42頁)と答え、23年石神井大会で山川が天皇制打倒に反対したとする俗説に、次のように反論する。

 「少なくとも私のところの細胞では、この細胞は論客ぞろいでしたが、天皇制が議論になったことは一度もありません。第一その綱領[日本共産党綱領草案]のことはウワサを小耳にはさんだという程度で、正体の本文を見たことがなかったのです。それから数年後、昭和二、三年ごろでしょう。フランスで出版された各国共産党の綱領を集めた本で初めてそれを読み、これだなと思ったくらいです。ところが後年になって、共産党側ではこの時、私が天皇制打倒に反対したようなことを言い触らしているようです。日本の共産主義運動の歴史を書いたアメリカの本にも、共産党側の神話をそのまま取ってそう書いてます。石神井大会には私は出ていないし、その他の機会、たとえば堺さんや荒畑さんなどとの私的な話の中でも、天皇制の問題を論議したことは一度もなかった。私が天皇制のことに触れたのは、『労農』創刊号の論文で、ほんの一と言触れたのが初めてです、あの一と言は裁判の時に食い下がられて困ったのですが──歴史をつくり変えることは共産党の学[風]習ですが、これなども共産党のつくった神話の一つです」(33頁、後に『山川均自伝』岩波書店、1961年、395頁)。

 しかし、「君主制の廃止」をかかげたいわゆる22年綱領草案ではなく、ここに紹介した「天皇制の問題を書いてない」22年9月綱領なら、山川均起草でもおかしくない。筆者は現段階では、その内容的特徴からして──署名者Aokiではなく──、綱領起草者については、山川均と推定する。英文タイプ文書なため、筆跡鑑定は困難で、あくまで推定に留まるが(当時の指導者たちの英語力、英文タイプ保持者と字体の特徴等から、タイピストを特定できる可能性はある)。

 同時に、生まれたばかりの日本共産党は、ボリシェヴィキ型の「書記長」制度をまだ持っていない。「加入条件」である「民主集中制」理解も牧歌的だった。綱領にGSと署名できるのは、山川・荒畑・高津の3名で、「総務幹事長」は決まっていないようである(犬丸前掲書180頁は「堺利彦が委員長(General Secretary)となったという点ではほとんど一致」とするが、それは直後の高瀬『創立史話』の引用と矛盾する)。

 ただし、橋浦時雄は、1957年の荒畑寒村からの問い合わせの後、56年に書き出した回想録を66年に「第一次共産党事件の経緯」としてまとめている。そこでは、1921年春の日本共産党準備委員会=第1期の役員を「準備会の幹事に堺、山川、荒畑、高津、近藤栄蔵、橋浦が当り、堺国際、山川総務、橋浦会計などがきまった。荒畑は京都で下獄してその年の末に出獄した」としたうえ、第2期=22年初めから7月15日「第一回大会」までに「荒畑出獄、総務主席就任、近藤栄蔵幹事辞任」と記し、第3期=7月15日以降23年2月市川大会までの時期について、「堺国際、荒畑総務主席(関西部兼任)、橋浦会計(兼産業部)、高津政治部、浦田農民運動部、吉川規律委員会長等が選任」されたと回想している(「橋浦時雄日記」鈴木徹三前掲書、141-142頁)。これが正しいとすると、「山川総務」は21年準備委員会の段階で、22年は荒畑寒村が「総務主席=General Secretary」であったことになる。そしてこの方が、執行委員会が互選で「総務幹事長1名、総務幹事2名、国際幹事1名、会計幹事2名」を決めるという創立時全24条規約第14条にも近い(松尾前掲論文、86頁、ただし橋浦66年回想では、山川・高津が総務幹事であったかどうかは不明)。なお、典拠は不明だが、警察資料である立山隆章『日本共産党検挙秘史』では、創立時共産党の「最高幹部(執行委員)」リストに、堺・山川・橋浦・高津とともに「荒畑勝三(委員長)」を挙げている(92頁)。

 そして「Aoki=青木」とは、第一次共産党時代の荒畑寒村の党名であることは、予審訊問調書で荒畑自身が「大正十二年ニ検挙サレタ第一次ノ日本共産党ノパーテイネームトシテ青木ト云フ名ヲ使用シテ居リマシタ」と認めている(『現代史資料』第20巻、7頁)。

 さらに、後述モスクワへの石神井大会報告書で、大会後のコミンテルン第3回拡大執行委員会総会への日本共産党代表に選ばれたのは「com. Aoki(同志青木)」で、それが荒畑寒村であることは、『寒村自伝』等から容易にわかる。創立時日本共産党綱領に署名したGS=Aoki Kumekichi とは、「極メテ簡単ナ公式ヲ採用セルニ過ギザル暫定的」綱領の存在を認めていた荒畑勝三=寒村であったと判定できる。なお、綱領原文とともに本稿草稿を読んだ石堂清倫氏によると、内容的には山川と思われるが、英訳の文体は荒畑ではないか、ともいう。

 山川により起草されたと思われ、荒畑・堺によって署名された日本共産党綱領に記された「全国大会、1922年9月」とは、あるいは橋浦の回想する7月高瀬宅会合後の山川宅の指導部会議、荒畑が述べたという荒畑宅での創立会合であったかもしれない。これが、綱領採択という指標からみれば、日本共産党の創立=第1回大会である。もっともこの時期の共産党が、規約通りに動いていたとは考えにくい。あるいは6-9月の一連の会合を集約して、荒畑・堺・山川が「全国大会」とモスクワ向けに潜称した可能性も否定できない。とにかく日本共産党は、1922年夏、「綱領には天皇制の問題が書いてない」まま、ひとまず綱領と規約をもち出発した。





(私論.私見)