れんだいこの「佐野、鍋山脱党時声明」論 |
(最新見直し2008.4.12日)
戦前の日共の創立以来の指導幹部・旧中央委員の佐野学・鍋山貞親の共同署名による「佐野、鍋山脱党時声明」の正式名称は、「佐野、鍋山両名による共同被告同志に告ぐる書」である。これが通称「転向声明」と命名されてきた。れんだいこは、この命名の仕方に疑義を覚えるので、「佐野、鍋山脱党時声明」と云い直している。 「佐野、鍋山脱党時声明」は、1933(昭和8).6.8日、獄中から獄中同志宛てに発せられた。原文は、「佐野学著作集(全5巻)」の第1巻の冒頭に掲載されている。敗戦後の1947(昭和22).6.2日、佐野は次のように記している。概要「『共同被告同志に与える(告げる)書』は、余が1933.6.8日、日本共産党を脱するに際し、市ヶ谷刑務所において同志鍋山貞親と共に起草し、当時同一法廷に審理せられつつあった二百余名の共同被告に宛てた声明書の全文である」。これが、「佐野、鍋山脱党時声明」の歴史的地位ということになろう。 「佐野、鍋山脱党時声明」にはその伏線として1930年の水野成夫らの転向声明があり、これとの絡みが位置づけられねばならない。れんだいこが評するのに、内容的に見てほぼ一致している。違いといえば、水野成夫らの転向声明の訴求点をより推敲しているということになろうか。その作用の違いもある。水野派は日共労働者派を生み出し、僅か数年で解党させ、さほどの影響力を持たなかった。それに比べて「佐野、鍋山脱党時声明」は鉄槌的影響力を持った。 水野の転向がそれほどの影響をもたらなさなかったのに比して、「佐野、鍋山脱党時声明」の衝撃が深かった理由として、佐野、鍋山の党内経歴の差があるように思われる。佐野は、それまでの日本共産党の輝ける指導者であり、第6回コミンテルン大会には執行委員として国際的舞台で活躍している。鍋山は、労働者出身の中央委員として、渡辺政之輔や三田村四郎らと共に数々の労働争議を指導してきた。いわば知らぬ者のない指導者であった。そういう経歴の違いによる衝撃の深さを顧慮する必要があろう。 この二人は検挙投獄後も獄中同志を指導し続けてきた。1931(昭和6)年〜1932(昭和7)年の公判廷でも党を代表し、先の水野らの転向派の動きに対しても1931.2.23日付の宮城裁判長宛ての上申書の如く、「敗北的社会民主主義への移行なり」としてこれを厳しく批判してきた。 その二人の連名による転向声明は獄中同志に衝撃を与えた。「共同被告同志に告ぐる書」の正式名称は、「緊迫せる内外情勢と日本民族及びその労働者階級」であり、副題として「戦争及び内部改革の接近を前にしてコミンターン及び日本共産党を自己批判する」と附されていた。この声明は、当時の獄中同志に回覧され「転向」の呼び水となった。雑誌「改造」7月号に「共同被告同志に告ぐる書」として発表されるに及び、全国の共産主義者に衝撃を与え、「雪崩を打つかの転向」を誘った。 佐野学・鍋山らは、三・一五事件、四・一六事件当時の日本共産党の最高幹部であり、獄中にあっても、獄中幹部としてかなりの影響力を保持していた。前年の10.30日の判決で、無期懲役を言い渡された4名のうち市川正一を残して全員が転向するという事態になった。そういう意味で世に「転向声明」として知られているが、当声明の内容については当人がそれを望んでいるにも拘らず爾来評されること無く、はるけく今日まで経ている。 そこで、れんだいこがこたび開封(サイトアップ)し、批評を加えることにする。れんだいこの見るところ、「佐野、鍋山脱党時声明」の内容の質は高い。もし、当時において、獄中同志のみならず党内において喧々諤々の議論が為され、戦後の徳球時代においてもこれが為されておれば、日本左派運動の不毛性の克服に大いに役立ったと思われる。 だがしかし非情なるかな。「佐野、鍋山脱党時声明」の「先見の明」が葬られ、ただ悪罵のみに晒されてきた。声明がだされた当時の日共は奇しくも宮顕派が党中央に登壇したばかりの頃であり、宮顕特有の「読ませず罵らせる」式詭弁論法の餌食にされてしまった。れんだいこはいつも指摘しているが、それにやられる方にも問題があるのだ。故に我々は日頃から脳度を鍛え高めておかねばならないのだ。決して党中央に拝跪してはいけない。著作権壁により無内容礼儀作法の因循に囚われていてはいけないのだ。尤も、そう仕向ける者がいるのだから、これと闘わねばならないのだ。 2004.9.5日 れんだいこ拝 |
【「佐野、鍋山脱党時声明」の脱党理由15】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
佐野、鍋山は、「佐野、鍋山脱党時声明」の中で脱党(転向)理由として次の15箇所に亘る事由を挙げていた。
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【天皇制について】 |
「本来君主制の打倒はブルジョア・デモクラシーの思想であり、社会主義革命の目標ではない。のみならず、日本の天皇制はツアーリズムなどとは違って、抑圧搾取の権力たることはなかった。皇室は『民族的統一の表現』であり、国内階級対立の凶暴性を少なくし、社会生活の均衡を齎し、その社会の変革期に際し階級的交替を円滑ならしめてきた。それは明治維新において、日本社会の進歩を阻んでいた幕府政権を打倒し、新たな統一日本建設運動の中心的役割を演じたのに見られる如く、『歴史の歯車を進歩せしめるもの』である。スの」、
(原文が違うのかも知れないが、)皇室観で、「人民大衆は皇室に対し、尊敬と共に親和の感情を持っている。日本民族を血族的な一大集団と感じ、その頭部が皇室であるという本然的感覚がある。かかる自然の情は現在どの国の君主制の下にも恐らく見出されまい。日本の皇室はいわばそれ程に人民的性質がある」と述べている。 「国民大衆が抱く皇室尊崇の念をあるがままに把握し、その歴史的根拠をたづね、以って我々も国民の一員としてその立場に立つべきは当然である」。概要「日本共産党がコミンテルンの指示に従い、外観だけ革命的にして実質上有害な君主制廃止のスローガンをかかげたのは根本的な誤謬である。反人民的。それ故に大衆より遊離した。革命の形態は各国の特殊性によって異なり、各国の伝統的・民族的・社会心理的素因を考慮に入れて行われなければならない。皇室を民族的統一の中心と感ずる社会的感情は踏まえられねばならない。日本の皇室の連綿たる歴史的存続はむしろ財産であり、天皇制は明治維新以来、進歩の先頭に立った事実を認めねばならない。単純な、自由主義的な又はロシアの反ツアーリズムそのままの君主制打倒論にくみしてはいけない。日本においては、皇室を戴いて一国社会主義革命を行うのが自然であり、また可能である」。 |
【植民地問題について】 |
植民地の独立・民族の自決という思想は、時代遅れになったブルジョア思想である。民族には、『指導的民族と被指導的民族』とがある。日本民族は『階級間の野蛮な対立を緩和し得る強固な民族的統一』を持ち社会とよく調和しつつヨーロッパ的個人主義の侵入するを退け、資本主義に対する適度の解毒作用をする家族制度を有する点で、また一流の資本主義国にもなりえた点に見られるように、すぐれた生産性と自主独立の歴史を持つ点で優秀な指導的民族に属する。台湾ろ、満州、朝鮮の弱小民族は経済的に近い日本と合体して、『日・鮮・台・満人民政府』の中で同権を享受すべきである |
【その後の転向現象】 |
「佐野、鍋山脱党時声明」は、当時の党幹部の雪崩打つ転向を誘った。三田村四郎、高橋貞樹、中尾勝男その他首脳部の大量転向が為され党内に衝撃が走った。佐野・鍋山に続く共産党委員長であった田中清玄や風間丈吉も「転向」を表明した。幹部ではなかったが河上肇のような学者や文化人の「転向」も伝わって、一大転向ブームというべき状況になった。 結局中央委員経験者でこの時期に「転向」を表明せず残ったのは、市川正一・国領伍一郎・徳田球一・志賀義雄・福本和夫・紺野与次郎ら数えるのみになってしまった。もちろん「転向」は幹部ばかりではなく、下部の党員たちも、続々と「転向」を表明し、「転向時代」が生じた。プロレタリア系文学者たちも次々に転向し、1934年にはいわゆる「転向文学」が登場してくる。 「大量転向」がいかに大規模であったかについては、様々な研究の中で触れられているが、池田克「左翼犯罪の覚書」(中央公論社編「防犯科学全集第六巻思想犯篇」1936年所収)によれば、1936年5月末において、全受刑者438名中転向者324名実に74%だという。この数字は、厳密に共産党員のみを対象とした「転向」ではないが、「転向ブーム」の雪崩ぶりが知れよう。 |
【「佐野、鍋山脱党時声明」補足】 | ||||||||||||
佐野は、「佐野学著作集(全5巻)」の第1巻の冒頭の「共同被告に告ぐる書」の前書きで次のように記している。
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【国民のための大東亜戦争正統抄史1928-56戦争の天才と謀略の天才の戦い1〜9南京陥落】 | |
「東亜連盟戦史研究所」の「南京陥落」の「転向声明」の項で次のような記述が為されている。これを紹介しておく。
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【「佐野、鍋山脱党時声明」の肯定と否定の受け止め方考】 |
「佐野、鍋山脱党時声明」に対する次のような評価が為されている。「私は日本のプロレタリアートの輝ける指導者、佐野・鍋山の声明を裏切者の降伏書として到底見ることが出来ません。それは長い間真に民衆の為に純情であった人の長い経験の結果であり、総合であると思います」(一女性党員の手記 池田克「左翼犯罪の覚書」)。 |
【「佐野、鍋山脱党時声明」の闇の部分】 |
「『佐野、鍋山脱党時声明』の闇の部分」に言及しておかないと片手落ちの気がする。一体、佐野、鍋山両名の15箇所に上る脱党理由は何処から生まれてきたのか。そこには検察当局検事との高度な思想闘争の遣り取りがあり、佐野、鍋山両名はその思想闘争において思想検事に敗北したのではなかったのか。 実際、三・一五,四・一六事件の担当検事であった平田勲の「ナショナリズムに沿って共産主義運動を誘導する」政策は知られている。そういう意味で、当時の思想検事の陣容と各々の役割が解明されねばならない。彼らは、日共の誰よりもマルクス主義の理論と運動史に通暁しており、ソ共においてスターリニズムの嵐が吹き荒れていることも承知していた。 これに対するのに、獄中党員は例え指導者レベルの者であれ余りに無知であった。してみれば、検事との思想闘争で敗北しなかった者が有能ということではなく、転向組はそれなりに有能であるが故に思想検事の指摘を真摯に受け止め、コミンテルン運動からの脱党へと自らを決意せしめていった、のではなかろうか。その際の論拠は人それぞれであろうが。 ならば、我々が問うべきは、佐野、鍋山両名の敗北理由に対する検証ではなかろうか。それを乗り越える論の創造に向うことこそが望まれていたのではなかろうか。その点で、佐野、鍋山両名を裏切り者呼ばわりして弾劾するのは異筋であり生産的でない。「佐野、鍋山両名の敗北理由に対する検証」にこそ向うべきであり、その後に佐野、鍋山両名の党内総括に至るべきではなかろうか。ところが、史実は、論の検証に向うことなく罵倒戦に終始した。これを指導したのが宮顕派であり、まさに「小ブルインテリ臭の徒輩」の為せる技であった。 我々は、この歪みから手直ししていかなければならない。思えば福本イズムに対しても同様の対応に終始している。思えば理論的貧困に対してこれに立ち向かうのではなく、これを「理論拘泥主義」、「サロン風談義を排せよ」なる批判言辞で済ませてしまう悪風に汚染され過ぎている。戦後革命の昂揚から挫折への過程、50年分裂時の対応、60年安保闘争のそれ、70年前全共闘運動の盛り上がりと解体。それらは皆、理論の貧困が介在しているのではなかろうか。 日本左派運動の現況的貧相は、過酷な取締りにより転向せしめられたのではなく、当局との思想闘争において太刀打ちできない理論的未熟さこそが真因であり、それは日本左派運動の伝統的な理論軽視の作風によってもたらされている、と受け取るべきではなかろうか。 2004.9.7日 れんだいこ拝 |
【転向派の云うことと為すことの落差考】 |
以上、れんだいこは、転向派の投げかけた問いには充分な根拠があったことを検証してきた。今日の時点でどの指摘もむしろ英明な卓見であったことが判明している。我々は未だこの卓見との見識の摺り合わせができていない。為しえていない。それほど彼らが優秀だったのか、それとも戦後左派運動の主体が凡愚過ぎるのか。 にも拘らず、転向派の捩れはここから始まる。指摘が是なら、通常は、その問いかけを更に問い詰めて理論的切開していくのが自然な勢いのところ、転向派は、これらを題目にしてまさしく転向の道具にした。つまり口実にして転向を図った。そして、なし崩し的的に体制派へ移行した。転向派の胡散臭さは実はここに理由がある。 従って、党中央幹部の転向論の場合には、転向の胡散臭さと理論的意義を剥離させ、理論的課題を訴求すること、転向の胡散臭さを追跡することの両面から追わなければならないように思う。且つ次の問題が残っている。その転向派がよしんば体制派に移行したにせよ、彼らが生粋の保守反動に転じた者は少なく、何らかの母斑を引きずりつつその後を生きた形跡が認められる。特に、戦後は、体制派内ハト派的に生息した気配が有る。それは又実に評価されるべき「マルクス主義卒業生としての生き様」ではなかったか、れんだいこはそういう思いが禁じえない。 特に、戦後の日共運動が、徳球−伊藤律系から野坂−宮顕系に転じた1955年の六全協以来、裏からの捩れた大勢翼賛運動しかしなくなった動きを見れば、「マルクス主義卒業生としての生き様」はむしろ表からの堂々としており、非イデオロギー化したオールド・ポルシェヴィキ派の生態を見て取ることができるのではなかろうか。 否、一概には云えない。過剰な反マルクス主義運動に精出す反共主義者に転じた者も居れば、我関せず的に無縁を貫いた者も居れば、田中清玄のように60年安保の第一次ブントを応援した者も居る。つまり、様々ということになる。 2004.12.2日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)
「ロシヤ人や支那人の生活や性格を見るにつけ、日本の方が優れているという抑え難い民族的誇りの感情に動かされた。しかし私は国際主義の信奉者としてそういう感情を理知的に排していたのである」(佐野学「我が獄中の思想遍歴」)。
「コミンテルンのテーゼには、日本が生意気にも一人前の資本主義的発展を為したことに対する対立国的な嫉視がありありと感ぜられる」。