第二次解党派の転向、水野成夫の転向論理考

 (最新見直し2009.3.30日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「佐野、鍋山両名による共同被告同志に告ぐる書」による大量転向の先駆けに水野成夫らによる第二次解党派の転向があったことが案外知られていない。れんだいこが知らなかったということは、他の人も多分に然りであろう。れんだいこは、先輩からその指摘を受けて知らされ、ここにサイトを設けた。まだまだ要領を得ないが、第二次解党派の党史的地位を確認しておくことが必要であるように思う。

 2004.11.27日 れんだいこ拝


【福本イズムの後継候補としての水野成夫考】
 田中清玄らにより武装共産党時代が展開されている最中の1929年から30年にかけて、3.15事件で検挙されていた河合悦三、水野成夫(関東地方委員、市ヶ谷刑務所に収容されていた)を中心とする中堅幹部らによる「転向現象」が発生している。これを仮に「第二次解党派の第一次大量転向」と名づけることにする。

 「第二次解党派の第一次大量転向」は、理論的にも実践的にも4年後の「佐野・鍋山共同声明による第二次雪崩転向」の先駆けとなっており、注目に値する。まず河合が解党上申書を提出、水野が追随した。他に、村山藤四郎、是枝恭二、浅野晃、門屋博、福本和夫、佐野文夫、稲村隆一らが同調した。

 この転向現象を読み解くには、当時の複雑な党内事情を踏まえねばならない。この流れをリードしたのは水野であったが、水野は熱心な福本イストとして頭角を現してきた経緯を持っている。もっとも、福本は次のように述べている。
 概要「労働派のリーダーとして知られる水野成夫君は、あたかも私が入党せしめたかの如く徳田君や志賀君らは誤解して、あるいは、しいて曲解して、私を非難していたものだが、何ぞはからん、私がまだ山口にいて、上京もせず、従って、グループに関係していない以前に於いて、産業労働所長・野坂参三君の推薦によって、既にグループに加盟していたのが、事の真相である。それ故、ここで問われるべきは、私の責任よりは、むしろ第一に野坂君の責任ではなかったか」。

 水野は、本郷の菊富士ホテルにいる福本のところへ日参して薫陶を受け、福本の推薦で中央委員になり、福本失脚後も中央事務局長のポストにあった。その水野の転向はある意味で、福本イスト後継者の地位にあった者の党からの決別であったようにも思われる。つまり、水野の転向には、福本イズムの盛衰が影を落としていることになる。

 
そういう関係にあるので、福本イズムの盛衰を確認しておく。戦前日本共産党史考福本イズムの席捲、第二次共産党再建されるに記しているが要約すると次のようになる。

 1921年、第一次共産党が解党され、党中央は、合法主義化に向った山川派と非合法主義を貫こうとした原理派に分岐した。この時、彗星の如く現われ、第一次共産党の限界を見据えて新たな可能性を提起したのが福本和夫であった。「分離結合論」を振りかざす福本イズムは、諸潮流を向うところ敵無く論破し続け、党の再建を指導していき始めた。

 1926(大正15).12.4日、福本イズムの強い影響下で第二次日本共産党が再建された。この時採択された大会宣言は、「理論闘争の展開は真のマルクス主義意識を獲得せる革命的インテリゲンチャの結成をもたらし、労働者運動と結合するに至って今や我々は自らの間に存する折衷主義を克服しつつある」とあり、福本イズムが凱歌されていた。

 ところが、コミンテルンは、福本イズムに理論偏重と反コミンテルン的在地運動型の「セクト主義的偏向」を嗅ぎ取り、その台頭を危険視した。コミンテルン日本駐在員ヤンソンは、日本のソ連大使館内に福本イズムに染まった佐野と渡政を呼びつけ指導しようとしたところ論争となり、絶交に及ぶほど深刻な対立を生み出していた。

 翌1927年、この問題を解決する為、第二次日共の指導部は連れ立ってモスクワに赴いた。コミンテルンに着くとすぐさま見解の摺り合わせが行われたが、スターリン・ブハーリン派は厳しく福本イズムを批判した。福本たちは自分たちの福本イズムに絶対の自信をもっていたが、コミンテルンに明確に否定されると、その権威を恐れてか、福本本人も含めて誰も反論することができなかった。コミンテルン指導部の意向を嗅ぎ取った日共指導部は忽ち腰砕けになり、競うかの如くに福本批判を口にし始める始末であった。こうして、福本派の佐野・徳球・福本が中央委員から罷免され、山本懸蔵、国領伍一郎らが新中央委員に任命された。

 この経緯つまりコミンテルンにおける福本イズムの権威主義的否定が水野の転向を準備させることになる。福本イストとして有能な理論家として台頭しつつあった水野の胸中推して知るべしであろう。

 水野は更に次の体験をした。水野は、1952.3月号の中央公論で手記「苦境の味」を発表し、次のように伝えている。
 「中国に渡り、武漢政府の頃、共産党のファー・イースタン・ビュロー(極東事務局)の日本代表として、その時に初めて外国の十何カ国かの代表と一緒に一年近く暮らした。それはソ連の連中が中心で、現在の極東コミンフォルムみたいなものだったが、その時に行ってみて、自分の抱いているヒューマニズムとコミュニズムとが相容れないという考えを持つに至った。ある一つの国なり党派の目的達成の為には手段を選ばないということは、人類愛から出たヒューマニズムとは相容れぬということと、支那革命の現実を見、またコミンターンの指図や方針を眼の当たりに見て強く感じたので、帰国後当時の日本共産党中央執行委員長だった渡辺政之輔君にそのことを素直に云ったところ、『君なんかインテリだからそういう馬鹿げたことを云うのだ』と云って叱られたことがある。しかし僕は屈しなかった」。

 こうした心境にある水野は、三・一五事件で検挙された後、獄中で煩悶し続けた。恐らく、平田勲主席検事らとの思想闘争が展開されたものと思われるが、ここの件は詳らかにされていない。「苦境の味」には、「僕はその後間もなく投獄され獄中で二年余り熟慮の末、自分の信念に従って転向した。共産党員としての転向声明は僕が最初で、その為『水野を殺せ-』といって獄の内外からしきりに脅迫されたが、僕は屈しなかった」とのみ綴っている。

【水野成夫の転向経緯考】
 (「ウィキペディア日本共産党労働者派」を参照する)

 1928年の3.15事件により検挙された共産党の前中央事務局長・水野成夫は、獄中において次第に党の方針に疑問を感じるようになる。

 1929.5月、手記「日本共産党脱党に際して党員諸君に」をまとめ、同じく獄中にある党員、活動家の回覧に付し賛同を求めた。水野は、再建された党組織が弾圧により再び壊滅しつつある状況を前に、これを敗北ととらえる「政治的リアリズム」に立脚するべきであり、「日本の状勢に適応せざる戦術の採用」、「それを促すコミンテルン盲従主義」、「それによる党の大衆よりの孤立」、「君主制廃止スローガンの急進主義」、「天皇地主寺院等の土地の無償没収スローガンの原理主義」、「植民地問題における英米仏と日本の質の混同」の6点を誤りと認めることを主張した。特に君主制廃止は日本の国情に合わないため、コミンテルンとの関係を絶った上でこれを撤回するべきであるとした。

 水野がこのような声明を発するに至った背景には、一つには、幹部が待合で遊興中に逮捕されるような党の腐敗に対する憂慮があったが、より主要には、コミンテルンの27年テーゼによって自分たちが信奉していた福本イズムの方針が頭ごなしに否定され、福本派の幹部が一掃された経緯に由来するものとみられる。共産党分裂を目論んだ思想検事の平田勲との理論闘争に動揺し、結果的に平田に誘導されて先述の声明を出すに至った。その後、獄中にあった門屋博浅野晃、河合悦三南喜一村尾薩男らの党幹部(さらに一時的なメンバーとして是枝恭二河合悦三、村山藤四郎ら)が水野の声明に同調した。彼らの多くは福本イズムに影響を受けていた人々であった。福本イズムの提唱者である福本和夫自身が解党派に加入したか否かに関しては異なる見解が存在する。


【水野の転向理論考】
 かくて、水野は転向した。その際の水野の転向理論を検証してみる。

 水野は、日共の創設から弾圧による解体、再建から更なる弾圧による解体という数次の経過から次のように判断した。
 意訳概要「党中央再建派が国家権力の弾圧にひるまずひたすら再建を目指して断固たる闘争を展開しているが、その前に日共運動の政治的敗北を認めるリアリズムを持たねばならない。党再建派にはこの政治的リアリズムが欠如している。政治的リアリズムに立脚しない限り、党は何度も挫折を繰り返すことになるであろう」。

 水野は、日共の敗北要因を探った。一つに、「党中央指導幹部の腐敗堕落の伝統」が認められるとしてこれを批判した。「党中央指導幹部の腐敗堕落の伝統」とは、党中央の待合遊興趣味体質であり、それらに起因する人間的不信であった。水野は後に日共党労働者派を結成するが、そのアジビラの中で次のように記して批判している。
 「革命の前衛隊たる日本共産党は、4.16までに闘い取った工場的基礎をすら殆ど失いつくして、腐ったインテリ、ヘナヘナ文士、マルクス・ガール、スパイ等々が党内を横行し、純真なプロレタリア分子は、革命的飛躍を前にしながら足踏みを余儀なくされている」(日共党労働者派中央執行委員会「政治テーゼの発表に当り全日本の革命的労働者諸君に檄す」)。

 次に、日共理論そのものについても疑問を覚え、これを次のように批判し提言した。
 意訳概要「これまでのコミンテルン拝跪型の党運動には次のような点に間違いが認められる。1・日本の状勢に適応せざる戦術の採用。2・それを促すコミンテルン盲従主義。3・それによる党の大衆よりの孤立。4・君主制廃止スローガンの急進主義。5・天皇地主寺院等の土地の無償没収スローガンの原理主義。6・植民地問題における英米仏と日本の質の混同。以上の点に付き、それを誤りとして、解党の上で出直すべしである。

 君主制に対する対応に意見有り。君主制廃止のスローガンは日本の国情に適しないから直ちに撤回すべきである。日本国家の特殊性に鑑み、日本の歴史的事情実情を踏まえた合法党活動に邁進すべしではないか。間違った方針に基づく党運動は犠牲の御多くして実らない。大衆からも見放され、その挙句自滅せざるを得ないであろう」。

 水野は概要以上のように主張し始め、それを獄中手記に認(したた)め、これを獄中同志の回覧に附した。水野の手記は反響を呼び共鳴者が続出した。結果的に、水野の手記は、「獄中下の解党運動」となった。

 党中央は、水野らの第二次解党派を除名した。次のように批判している。
 「党の敗北を宣言し、コミンテルンとの分離と党の解散を唱え、又7月テーゼの中心たる君主制の廃止、地主社寺政府の土地没収のスローガンを放棄するのは、右コミンタンの決定を根本的に覆し、党及び同盟を小ブルジョア的改良主義の泥沼に陥れる裏切者にして、労農一派と何ら選ぶ所なく、党の在来の革命的伝統を無視し党を全く武装解除せしめんとするものなり」。

【水野らによる日本共産党労働者派の結成及びその後考】
 水野らは3.15及び4.16事件の公判で統一被告団からの分離を求め、1930.4月、水野が保釈出獄する。獄中の共鳴者も相次いで保釈出所されたことにより、6月上旬、水野らは、「日本共産党労働者派」を結成し活動を開始する。

 「日本共産党の一揆主義、小ブルジョア革命主義的インテリ分子の排除が絶対に必要であり、日本の左翼運動を真に大衆的基盤の上に建設し、その発展のためには労働分子の奮起が絶対に必要である云々」なる声明書を発表し、各自が地下運動を開始した。

 そのメンバーは次の通り。水野成夫、門屋博、浅野晃、豊田直、南喜一、村尾薩男、河合悦三、中村義明、島上善五郎、五十嵐信雄、喜入虎太郎、山添直、上野邦雄、管稔、唐沢清八、田中稔男、宮原省久、大山岩男、関根悦郎、菊田善五郎、湊七郎、曽田英宗、藤井米三、村山藤四郎、是枝恭二、福本和夫、佐野文夫、稲村隆一、冬野猛郎、杉本文雄、藤沼栄四郎、春日庄次郎ら。


 翌年3月、「日本共産党労働者派」を正式に結成し中央委員会を組織して「政治テーゼ草案」を発表、 共産党に対抗し独自の機関紙「赤旗」を発行、約二年間共産党と対立する共産主義グループとして活動を続けることになる。しかし、党中央再建派の反発も激しく党中央再建をめざすグループから強い批判を受けた。その行為は多くの下部党員からは裏切りとみなされてほとんど支持を得ることができず、党中央も彼らを解党派と呼んで除名処分に付した。

 獄内の佐野学は、この解党派に対し、1931.2.23日付で概要「解党派の上申書を読んで、思わずも昨日の党の同志は今日は党仇の敵と感じた。階級的裏切り行為であり敗北的社会民主主義者へと転落している」との上申書を出し、徹底的批判を加えた上で公判闘争に臨んだ。しかし、その佐野が暫く後に同じ道を歩むようになる。


 結果、唐沢清八、沼田、河合、春日、冬野らが分派活動の誤りを自己批判し党に復帰した。「日本共産党労働者派」は資金も欠乏し、1932.7月、山添直を除き全員が自首したことにより消滅した。しかし、この時の水野らの労働者派の運動が後の佐野・鍋山の転向を用意することになった点で見逃せない動きであった。

 解党派の運動は政治的には極めて小さな力しか持たなかったが、後の絡みで見逃せない「天皇制下のマルクス主義模索」という特質が認められる。これを確認しておく。水野らは、日本の天皇制の特殊性に注目し、君主制廃止の一般理論で天皇制批判に向う非を衝いて次のように述べていた。
 概要「我が国の天皇制は、二千五百年に亘る皇統連綿性を特徴としており、それは、ロシアのツアーリズム等諸外国の君主制と決定的に異なっており、民族的信仰の中心として広く大衆に支持され、敬愛されている。君主制廃止、皇室の土地没収政策は賢明でなく、党のスローガンから撤回せねばならない。これらのスローガンが民衆と党とを分離し党が自らを敗北に追い込む最大の誤謬である」。

 この観点は後に更に深められ、「皇室中心主義的体制下での変革運動、主として君側の奸の排除運動」にまで辿りつくことになる。その是非はともかくとして、コミンテルンとの関係断絶と「君主制廃止」綱領の放棄により「天皇制の存在を前提とした共産主義運動」をめざす考え方は、その後の佐野学、鍋山貞親らの転向声明に継承される形となった。但し、君主制の承認を除けば、解党派は基本的にはコミンテルン第6回大会の決定をほぼ支持する立場であり、また日本の満州侵略戦争についても、一応は反対の態度を取っていた点で、後年の佐野・鍋山声明(および彼らによる「一国社会主義」運動)とは大きく異なっている。

 
水野は転向後、南喜一と共に事業家へと転身し、国策パルプを興す。戦後は、文化放送の社長、産経新聞の経営者となり財界活動の一翼を担うことになる。概要は「産経新聞社考」に記した。たちまちは以上を記しておく。


 2004.11.24日 れんだいこ拝

【水野成夫の履歴考】(「ウィキペディア水野成夫」その他を参照する)
 1899年11月13日 - 1972年5月4日。戦後、「財界四天王」の一人として活躍し、「マスコミ三冠王」と呼ばれた。フジテレビジョン(現フジ・メディア・ホールディングス)初代社長。元経団連理事。

 1899.11.13日、水野彦治郎の三男として静岡県に生まれる。旧制静岡中学(現・静岡県立静岡高等学校)から、旧制第一高等学校を経て、1924年、東京帝国大学法学部を卒業。学生時代は文学に親しみ、夏目漱石、島崎藤村、森鴎外の作品に親しむ一方で、中学、高校時代柔道部に所属し、一高では猛者として鳴らした。東大時代には新人会に入り共産主義運動に身を投じる。

 1925年、日本共産党に入党した。共産党時代に所属していた産業労働調査所を赤字経営であったのを黒字に転換させるなど、後年の経営者の片鱗を見せている。

 1927年、日本共産党代表としてコミンテルン極東政治局に派遣され、中国で武漢国民政府の樹立に参画する。

 1928年、帰国。関東地方委員。三・一五事件で検挙され、市ヶ谷刑務所に収容される。

 1929年、獄中で転向を表明する。これが、獄中での転向声明第一号で、転向理論の原型を作ったと言われ、その後の獄中での大量転向のきっかけを作ることになる。まず河合悦三が解党上申書を提出、水野が追随した。三門屋博、浅野晃、南喜一、村尾薩男らの党幹部が同調し、1930年にかけて是枝恭二村山藤四郎ら中堅幹部、福本和夫、佐野文夫、稲村隆一らの党幹部が同調した。による「転向現象」が発生している。これを仮に「第二次解党派の第一次大量転向」と云う。「第二次解党派の第一次大量転向」は、理論的にも実践的にも4年後の「佐野・鍋山共同声明による第二次雪崩転向」の先駆けとなっており、注目に値する。出所後。

 1929年、コミンテルンからの離脱を宣言し天皇制の下での共産主義運動を標榜する日本共産党労働者派(いわゆる「解党派」)を浅野晃らとともに結成、日本共産党批判に回るが、ほどなくして労働者派の組織・運動は消滅し、水野は大いなる挫折を余儀なくされる。

 以後、政治活動から離れ、翻訳業に就く。翻訳家・フランス文学者としても大いにその才能を発揮し、特に日本におけるアナトール・フランスの紹介に大いに功績があった。水野翻訳によるフランスの著『神々は渇く』は名訳として名高くベストセラーとなった。その他、『舞姫タイス』、『現代史』などフランスの著作約20作品、アンドレ・モーロア著『英国史』なども翻訳している。翻訳に当たってはフランス文学者の辰野隆の紹介で辰野の弟子に当たる渡辺一夫と出会い、翻訳上、不明な点がある時は、渡辺の教えを請い正確を期した。また、この時期、尾崎士郎、尾崎一雄、今日出海、林房雄などとの交友を持つに至った。

 1938年、憲兵隊に逮捕されるが、翌年保釈される。

 1940年、転向仲間で終始水野の片腕として行動を共にすることになる南喜一と共に軍部の協力を取り付け、大日本再生製紙を創立し、常務取締役(後に専務)に就任する。

 1945年、大日本再生製紙は国策パルプと合併し、常務取締役。

 1946年、現在も続く出版社酣燈社を文芸・学術専門の出版社として創業するが、数年で手を引き、酣燈社は後に航空関係専門の出版社となった。

 同年、経済同友会幹事となる。終戦後の労働攻勢の中で左翼運動に身をおいた経歴を持つ水野は労働対策を担当し、財界首脳の信頼を得た。

 1948年、本業の国策パルプの専務取締役に就任する。1949年、副社長、1951.11月、社長就任。1960年、会長に就任。

 1956年、民間会社組織に改組された文化放送の社長に就任した。これを契機にマスコミ各社の社長に就任する。文化放送では「良心的」とされるドラマ番組や探訪番組の打ち切り・娯楽番組中心への編成変え、保守財界人の宣伝、政府批判番組の禁止、反対者の配転、労働組合潰しなどを進めた。「財界のマスコミ対策のチャンピオン」とまで評される。

 1957年、経団連理事に就任。ニッポン放送の鹿内信隆と共にフジテレビジョンを設立し、同社初代社長に就任。

 1958年、前田久吉から産経新聞社を買収して社長に就任。在京の新聞・ラジオ・テレビを握った為「マスコミ三冠王」と呼ばれるとともに、のちのフジサンケイグループの土台を築いた。水野のマスコミへの進出は、財界のマスコミ対策とも言われ、ジャーナリズムからは「財界の送ったエース」と書き立てられた。新聞社の経営に普通の会社の経営方針を持ち込んだものと言われ、通常の編集、販売、広告の順番を逆にしてまず広告主を見つけることを最優先課題とした。また、労働組合を味方に取り込むために、産経新聞労組と「平和維持協定」を締結し、役員、職制、職場代表による再建推進協議会設置など労使一体による体制を構築した。このような水野のやり方は合理化に伴う配転・解雇などを生み「産経残酷物語」とか「水野天皇制」と言われた。しかし、産経新聞そのものは、水野社長就任1年で黒字に転換し、フジサンケイグループの強固な基盤が確立されたとされる。

 1965年、産経新聞社会長に就任。

 池田勇人内閣時代に「財界四天王」の一人と称されるようになる。政商のイメージが強い水野であったが、政治に関してはかつて共産党に身を置き挫折したことから、「政治は、ワンストライクアウト。共産党でアウトになった。もう絶対やらん」と語っていた。自由奔放な性格で、共産党員、翻訳家、財界人と三段跳びの人生から人物評が定まりにくい人物であった。文化的活動も支援し、1956年、文化放送の傍系事業として日本フィルハーモニー交響楽団を結成。また、1963年の日本近代文学館の創設にも尽力した。その一方で野球をこよなく愛し、1953年に日本生産性本部第二回欧米使節団に参加中、風邪と称してナショナル・リーグの観戦に出かけたり、1965年に日本国有鉄道(およびその関連会社)から国鉄スワローズを買収して、サンケイアトムズ(現、東京ヤクルトスワローズ)の経営を手がけたりした。生前の水野は『男と生まれたからにゃやってみたいものが三つある。それは聯合艦隊司令長官、オーケストラの指揮者、そしてプロ野球の監督だ』と語ったことでもまた有名である。

 1970年、勲一等瑞宝章を受章。

 1972.5.4日、死去(享年72歳)。







(私論.私見)