大杉栄(1885−1923) の生涯の概略履歴

 (最新見直し2006.1.9日)

【大杉栄の総評】
 社会運動家、無政府主義者。愛知県人大杉東の長男。明治〜大正の代表的革命家、アナーキストとして知られる。葉山事件(神近市子との四角関係)などの奔放な生き方でも知られる。

 「荒畑寒村氏の撰による碑文」には次のように書かれている。
 「大杉栄は明治18年軍人の家に生まる。陸軍幼年学校を放たれ、外国語学校仏語課に学び、日露開戦に際し非戦論に共鳴して社会主義者となる。資性剛毅歳華煥発。無政府主義の一派を拓いて政府の弾圧に屈せず、幾度か牢獄の苦を忍び迫害の鉄火を践めり、大正11年日本脱出、仏蘭西革命故国送還の波瀾を経、関東大震災に遭遇して妻の伊藤野枝・甥橘宗一と共に軍憲の為に虐殺せられた。惜しむべし雄志逸材むなしく中道に潰ゆ」。

【大杉栄履歴概略】

 「大杉栄略伝」その他を参照する。

 18855(明治18).1.17日、香川県丸亀市にて出生。少年期を新潟県新発田市で過ごす。父親は新潟県の新発田の連隊長で、親戚にも陸軍幹部とかえらい人がいっぱいいた。

 1899(明治32)年、実家のあった名古屋の陸軍幼年学校にはいったが、上官に反抗して1901(明治34)年、放校。

 1902年、東京学院入学、四谷フランス語学校入学、順天中学編入。谷中村事件。

 1903(明治36)年、東京外国語学校仏語科に入学。在学中、キリスト教の受洗を受ける。この頃、足尾銅山鉱毒事件の被害民救援運動に触れて、社会的な視野を開くようになる。幸徳秋水、堺利彦らの平民社に加わり、平民新聞海外事情欄に運動事情訳載。社会主義運動に傾倒する。

 1905(明治38)年、日本エスペラント協会の設立や『家庭雑誌・光』の編集に従事する。電車賃値上げ反対運動で初めて入獄を経験する。

 1906年、卒業後、電車賃値上反対運動に奔走。エスペラントを学習。

 1907.3月、「青年に訴う」の訳で起訴される(筆禍事件)。日刊『平民新聞』に「欧州社会党運動の大勢」を掲載、無政府主義者として名乗る。巣鴨監獄に投獄される。

 1908(明治41)年、金曜講演会事件(屋上演説事件)、治安警察法違反、巣鴨監獄に投獄。山口義三(狐剣)の出獄歓迎の集会に端を発した「赤旗事件」で入獄。9月、千葉監獄で服役。その間に、『大逆事件』が惹起され幸徳秋水が検挙される。

 1910年、出獄。大逆弾圧で同志不在。売文社に参加。

 1911(明治44)年、幸徳秋水が処刑される。幸徳秋水らが絞首刑に処せられた後に、大杉栄(26歳)は、「春三月縊り残され花に舞ふ」
という俳句を遺している。大逆事件の直後、石川啄木がいみじくも時代閉塞の現状と言った時代状況の中から、大杉は何かやろうと、まず「近代思想」を荒畑寒村と始めた。時代閉塞だから手をこまねいて何もしない、というのではなかった。

 1912(大正1)年、荒畑寒村とともに『近代思想』創刊 。1913年、「近代思想社集会」主催。 「サンカリズム研究会」をを主宰して、大正以降の運動を先導した。

 1914年、『近代思想』廃刊、荒畑寒村とともに『平民新聞』創刊し、大逆事件いらい沈滞していた社会主義運動を復活させた。大杉は、反軍的な思想の
「銃口を誰に向けるのか」というフランスの論文の翻訳を初稿した。「新兵諸君に告ぐ」とか、軍隊内叛乱をアジるような論文を次々と紹介していく。伊藤野枝と知り合う。

 1915年、『近代思想』復刊。神近市子と親交。<労動運動>を発刊,サンディカリズムの立場から経済的直接行動主義を主唱し、また国際無政府主義運動において活躍した。

 このころ,労働運動におけるマルキシズムとアナーキズムとの対立が現われてきたが(アナ・ボル論争)、彼の活勒によってアナーキズムの影響力はきわめて大きかった。

 1916(大正5)年、『近代思想』廃刊。荒畑寒村と離れる。11月、日蔭茶屋事件、神近市子に刺される。 自由恋愛の実践と批判された三角関係により、《神近市子:かみちかいちこ》による刃傷沙汰《日陰茶屋事件/葉山事件とも言う》に巻き込まれるが、これを期に大杉は離婚をし、伊藤野枝と家庭を持つことになる。

 1917.1月、堀保子と別れる。伊藤野枝と同棲。長女魔子誕生。亀戸に転居、和田久太郎、久板卯之助と同居。

 1918.2.15日、大杉、和田久太郎、久板卯之助等同志12名が、純アナキストの会合を持つ。但し、「講演を為す場合は大杉、山川、荒畑の三名中より選むこと」、「各友愛会(法学士鈴木文治主宰)員の私宅を訪問し参会方を勧誘する事」等々の申し合わせに見られる如く、「従来式堺利彦其の他の運動に飽き足らず」的方針を打ち出した程度の意味を持つ会合。3.1日、大杉、和田久太郎 久板卯之助、有吉三吉等21名が同様の会合。4.1日、4.16日も。

 5.1日、社会主義研究会を開催せり 12名。6.18日、7.1日。8.24日、記念茶話会と称し<米騒動> 28名。9.1日、主義研究会例会 22名 近藤憲二の雑談あり。以降も適宜。

 『文明批評』創刊、『労働新聞』創刊。九州からの帰途大阪で米騒動に遭遇。「労働問題座談会」を北風会と改称?

 1919年、 「大杉一派」の最もめざましい活動時代。以前の「尾行巡査殴打事件」で東京監獄に収監。『労働運動』創刊。豊多摩監獄に収監。次女エマが誕生。

 1月、 大杉一派の研究会は近藤憲二等の主催し来りたる北風会と合同することと為り有吉三吉、高田公三、近藤憲二ら大杉一派に属する主義者の例会を開催し始める。

 1.20日、1918.9.23日頃発行の雑誌『民衆の芸術』中に恵まるる政治及生の反逆と題したる記事は安寧秩序を紊乱するものとして東京区裁判所に於て罰金100円の判決を言いわたされしか其後控訴の結果同年3月17日東京地方裁判所に於て無罪の判決言渡しを受けたり。

 労働問題演説会、労働相談所茶話会。

 4.21日、府下北豊島郡王子町所在王子演芸館に於て杉原正夫の主催に係る労働問題演説会に出席し居たるに下村の演説中社会主義を論難する如き口吻ありしかは大杉栄、久田卯之助、石井鉄治、吉田一、延島英一等数名は演壇に押寄せ延島の如きは演壇にありしコップを投げ付くる等暴状を敢えてし大杉は主催者の許しを得て自ら演壇に立って下村の説を反駁し且つ自己は社会主義者にあらす自己の主義は他にありて先つ労働者の生活改善を為さむとするにあり労働者は今日の生活即ち時間の制限賃金の要求工場の設備を改善せしむるに在りと述へて壇を下れり。

 4.22日、石井鉄治等をして雑誌『労働者』を発刊せしめしか之より先本名(大杉栄)は黒瀬春吉を訪ひ近来実際運動に遠り居るを以て一味の同志は離散する虞れあるに付之か予防策として石井鉄治、中村還一、吉田一等に金十円宛の資金を与うえく苦心し居れるも金策意の如くならさるを以て何分の援助を頼みたるに付黒瀬は故実父知己なる東京瓦斯株式会社々長久米良作を訪ひ雑誌『労働者』の広告料として金三十円を貰い受け来りて之を大杉に交附せるに其後石井鉄治に十円を交附したるの外残余は自己に於て消費せるにより同志の反感を買い居るなりと。

 5.25日、大杉栄、午後3時 千葉県葛飾村 富士山三郎方物置場前 同村駐在巡査安藤清か巡回の際大杉は他の尾行巡査に対する余憤を以て同巡査を鉄拳を以て左頬を殴打 治療十日 を要する傷害を加えたる。7.2日、大杉に対し不法占拠明渡訴訟を東京区裁判所へ提起せらる。7.23日、午後5時拘引状を執行。

 8.4日、東京区裁第四号法廷に於て尾立判事の係りにて開廷せるか大杉は左の如く自白せり。 「…尾行は恰も犯罪人を取扱うか如き遣り方にて……家の中まて来たりたる…再三其不都合に対し注意を与えたる而も又今回家の中に来り種々煩さく問いたるを以て殴打したり云々」。

 5.29日、村木源次郎と共に東京監獄に至り在監中の和田久太郎に面会し和田の実父が病気危篤の旨を告け且つ和田及延島英一等に対し差入を為したり。

 大杉は目下「クロポトキン」の自伝を翻訳中。

 大杉は小池潔と会談の上労働相談所を設け労働期成同盟会なる看板を掲出し且つ出版物をも発行することとしかり。

 6.15日、大杉栄、若林方 大杉及び近藤憲二等の主催に係わる主義者定例集会(研究会と北風会と合同したるもの)に出席し「労働者の自治的運動」と題し演説。

 6.25非、巣鴨監獄へ入監の延島英一は9月24日刑期満了したるを以て大杉等は之か出獄出迎えを為せり。

 7.1日、大杉栄、若林方 大杉一派に属する北風会例会を開催し雑談合議 25名出席 「国際労働会議に日本労働者か代表者を送ることの可否」 結局何等の決定を見ず茶菓雑談後午後十一時半散会。

 7.7日、大杉栄、著作家第一回総会に出席。

 7.15日、大杉栄、神田青年会館 日本労働連合会演説会に出席 会場を紛乱せしめむか為め喧噪に渉りたるを以て神田錦町警察署へ検束に附せられし午後10時40分解除せられたり。

 7.17日、東京地裁検事局帰宅後の言動を偵察するに大杉は今回の犯罪事件を意に介せさるものの如く却って同志弁護士山崎今朝弥を代理人として警視庁正力刑事課長竝美に拘引されたる記事掲載の各新聞社を相手取り名誉毀損、損害賠償の訴えを提起する等豪語し居れり。

 7月17日 大杉栄、京橋区貸席川崎家に開催 服部浜次主催 労働問題演説会に出席 解散を命せしか大杉栄等同志2,30名不逞の言動を弄せし…大杉栄等外15名は所轄築地警察署に同行の上検束に附せらる。

 7.20日、大杉栄、検事局へ書類送達と共に同行 ≪註 そのまま収監されている≫ (大澤年譜19日)8.9日、大杉栄、傷害罪罰金50円。8.11日、大杉栄、午後3時55分 保釈出獄 4時30分 駒込曙町13番地なる仮住所に帰れり 検事は即日控訴。

 8.16日、大杉栄、神田青年会館 友愛会演説会に妨害を試みる。

 8月、山崎今朝弥等が開催せし平民大学講演会に関する在京主義者の感想左記の通り「機関新聞を発行すると共に大運動を開始する筈にて近藤憲二、和田久太郎、中村還一、高田公三等を纏め尚荒畑勝三、吉川守国、山川均等の後援を仰ぎ■と交渉せる模様なるか吉川守国は熟考の上回答する事とし荒畑は吉川に書簡を以て大杉の申し込みを承諾せは山崎今朝弥との雑誌の発行を■るの外なく既に再三交渉を重ねたるものを■■は如何か又大杉近来の行動は今後注意を要するものなれは御一考を■■しと申来たりたるは不調ならしも大杉等は近来自分等の方針に向ひ……」  ≪註 原テキストに平民大学講演会の日付け記載なし、山崎今朝弥関連の文献を確認すれば日付けと講師は記載されている。初旬開催で大杉も講師の予定であったが収監中で欠席≫

 8.12日、杉栄、午後8時頃 日本労働組合事務所に井上倭太郎を来訪3時間に渉り会議せるが其内容は大杉より日本労働組合の主義目的実行手段尚同組合が本年9月頃より開始せんとする講演会に出席の承諾を求めたること近々同組合が主宰となり友愛会を除外したる労働団体有志等に於て友愛会長鈴木文治の行動に対する批判の為め京阪地方に遊説の計画に■れ信友会中の同志をも参加せしめられたきこと同組合は篠澤勇作なるものより金一万円の資金供給を受けたるは労働運動の目的に反せざるや否や との要求或いは質問を為したるより井上は講演会出席の件は承諾し組合主義目的実行方法を説明したる後更に大杉の主義目的実行方法等を反問をしたるに大杉は無政府共産主義なるも実行方法に関しては確信なしとて言明を為ささりしとのことなり。

 8.16日、大杉栄、午後8時頃再三来訪せしも井上不在なり……又8月8日主義者黒瀬春吉は山口正憲同伴井上を来訪自己等が計画しつつある国際労働会議に出席せしむべき労働委員の選定に付き同一歩調を採られたしと申出たるも井上は若し鈴木文治が其選に当たるとせば反対なるも其他吉川守国の件は明言し難しと答えたる由なり

 8.23日、大杉栄は同志荒畑勝三、山川均、吉川守国の三名に対し8月23日午後1時より麹町区有楽町1ノ4服部濱次方に参集方を申込みしか右は豫て彼等の間に果し居られる『労働運動』と題する定期刊行物(毎月1回)の発刊に関する協議を遂げんか為なりしか山川は病気に託し出席せす荒畑又無断欠席しのみ一名出席せるを以て何等纏りたる談話等なく更に日を期し会合することとなりたるか該刊行物は大杉栄等を主幹とし伊藤ノエ之が補助となり近藤憲二を会計主任となし外に実行員として和田久太郎(人夫)中村還一(職工係)たらしめ本紙の発行と共に労働運動に関する目覚ましき活動を開始すへく而して大杉栄の計画としては山川均、荒畑勝三、吉川守国、服部濱次の4名を客員として補助せしむへく之に要する費用を三百円とし内二百円は近藤憲二か国元より取寄せ百円は大杉、近藤、中村、和田等に於て調達し保証金は前記四名(客員)にて調達せしめんとの計画なるか山川、荒畑、吉川の三名は大杉の性格上到底永続の見込みなきのみならす借入資金の如きも浪費する必然なりとて体能く断るへく協議せるやにて為めに何れも事故に託し殊更出席せさりしものの如しと云う

 8.24日午後7時より、麹町区有楽町2丁目特別要視察人服部濱次方に於て同荒畑勝三等主催の労働問題研究会に出席せり(荒畑勝三名簿参照)

 8.26日、大杉栄は曩に荒畑勝三と感情上の衝突ありしを以て山川均は8月26日早朝荒畑勝三を訪問し種々説く所ありしものの如く荒畑は大杉にして失言を謝罪するに於ては従前の如く共に運動をなすへきも大杉の傲慢不遜にして放縦なる性格は到底改善すへくもあらさるは雑誌発行に表面氏名を出すは好まさるも相当助力を為すを辞せすとて調停を容るることとなりしを以て山川均は服部濱次を訪問し荒畑との交渉顛末を語り吉川守国を招き大杉を説かしむることとし

 8.27日、吉川は服部と共に大杉栄を宿舎に訪問し山川均と荒畑勝三との交渉の顛末を陳へ君(大杉)の専横は各人の認むる所なれは一応荒畑に陳謝すへしと説きたるに大杉は既に単独となり居るを憂慮し居る折柄とて両手を下けて陳謝するは好まさるも単に失言を謝するは寧ろ当然なれは至急会合すへく取計ひありたしと述へたるに依り

 8.28日午後2時より大杉、荒畑を初め山川、吉川、服部、近藤憲二、和田久太郎、中村還一の八名集合し山川は大杉、荒畑の交渉顛末を陳へて大杉より一応の謝罪を為さしめ更らに大杉の発行せんとする雑誌労働運動の資金其他の方法を協議せるか発行に要する準備金三百円は大杉より支出し(大杉は既に大石七分より借入れ約ありと云う)保証金一千円は高利貸より借入るる筈なるも大杉にては到底貸与するものなきを以て吉川守国、服部濱次、両人にて責任を負うこととなり而して雑誌表面の関係者として大杉栄、伊藤ノエ、近藤憲二、和田久太郎、中村還一の五名となし山川、荒畑等は裏面にありて援助することとなれり而して実際運動として来る    9月1日より「北風会」を改称して「平民結社」と名つけんと主張せしもありしか警視庁の干渉あるへしとして「労働同盟会」となすことに決し三章位の綱領を以て近藤憲二、和田久太郎、中村還一の三名をして主宰たらしめ更に荒畑勝三の「労働研究会」は二、三ヶ月の訓練を為したる後之に併合し一大結社となすことに決定したりと云う追て北風会組織変更に付いては各同志へ既に通告状を発しありて9月1日例会席上協議するものの如し又当日堺利彦出席する通知あるも大杉との打合上出席を断わりたる由

 9.1日午後8時、小石川区指ヶ谷町92番地特別要視察人若林ヤヨ方に開催せる北風会例会に出席せり<大杉栄> …次の当夜会合の主要問題として北風会組織に関し近藤憲二起ちて本北風会は故渡辺政太郎宅当時有吉三吉氏主催の会合と合同以来盛況を以て…近頃単なる研究的会合にあらす新同志か加わり且つ実際運営に入りたる事は充分認識し得らるへし就いては北風会なる名称者か茶人風かの如くに見え一般社会に労働者の会合たるの感想を抱かれるに能わす故に此の際純然たる労働何…水沼辰は之に反対し組織の変更せば必ず官憲の圧迫を受け我々唯一の会合は為に之れが運動方法の如き具体化するは賛成なるも労働者其者か忽ちにして労働を棄て運動者と化するは遺憾にして彼の吉田一の如き好事例なりと事例を引用し労働の傍ら運動を為すの要を就き前説に賛成せす 次て中村還一、斉藤謙次郎も同様之には賛成を為せり 次て和田久太郎、服部濱次は近藤の提案に賛意を表し宮島信泰憤然として「馬鹿野郎何と吐かす俺は水沼に大賛成だと怒号に起ちて労働者が労働しつつ労働問題を説く処に …大杉、荒畑の如き筆の人は労働者にあらす彼等は如何に社会を利する生産を為すやと攻撃して退場せり」 而して服部、荒畑等も続いて退場したるも残留員に於て具体的運動に…具体的運動に賛成し組織方法に関しては次回(15日)に譲り午後11時散会せり〇尚本名<大杉栄>は雑談中左の談話を為したり (9月3日吉田一の公判傍聴の件…) 予と近藤、和田、中村の四名を以て労働運動と題する雑誌の発刊を計画し明日より準備に着手し10月1日第1号を発刊せんとす内容の詳細は9月15日の会合に発表すへし十分の応援を希望す云う

 8.30日、吉田只次方 「大杉出獄に対する慰安を名とせる」京浜主義者の会合に出席。9.2日、検事局へ名誉毀損の告訴を提起…民事訴訟として…。9.3日、吉田一の公判傍聴 窃盗竝に電気法違反事件。

 9.15日午後7時より、小石川区指ヶ谷町92番地乙号若林ヤヨ方に開催せる北風会例会に於いて本名<大杉栄>は
北風会会名変更竝に組織に関し左の討議を為せり 原案として、(一)本会を東京労働同盟会と称す。(二)自主的労働運動を促進するを以て目的とす。(三)又労働運動の研究を為し実際運動に従事する事。(四)常任幹事の件<入力者による略>原案に付き説明を為し之れを要請したる名称に於て異論あり■東京労働運動同盟会と修正し原案通り可決決定せり

 9.8日、神田青年会館に開催 労働団体信友会大会に関する費用は……大杉栄(10円?20円?)等支出  ≪?は原テキストのママ≫。9.9日、大杉榮午後6時10分 神田、明治会館に於て開催 庄司俊夫(労働中尉)の主催に係わる労働問題演説会に出席。9.11日、東京地裁 懲役三ヶ月に処す 言渡し 上告。9.12日、大杉栄、午後7時より 若林方 東京労働運動同盟会第二回例会に出席。9.15日、北風会例会。9.26日、曙町を発行所として届出。9.27日、東京地方裁判所に於て田山裁判所長係にて陪席として鶴、尾高両判事竝に岩松検事立会公判開廷。10.2日、第二回公判弁護士花井卓蔵、大澤一六、長野助、山崎今朝弥、布施辰治の5名出廷 被告は先般も起立せす悪習慣は改めさるへからす依て起立するの必要なしとて起立せす…。10.5日、大杉栄、午後5時 築地精養軒 山崎今朝弥開催 晩餐会に出席 晩餐会は本年8月8日より一週間平民大会に於て自己主催の下に開催せる夏季講習会に関する講師竝に尽力せし者に対し慰労10.18日、大杉栄、吉田一の公判傍聴。10.26日、大杉栄東京労働運動同盟会例会出席「ギルドソシアルズムの批評」と題した演説11.7日、大杉は和田久太郎、中村還一の両名を京阪地方に派遣……隠密の間に主義を鼓吹する意向…。11.9日、大杉栄労働同盟会(一名北風会)に出席。11.15日、大杉栄、神田明治会館 印刷職工八時間労働実現賃金値上問題等に関する講演会に出席。11.20日、大杉栄、若林方 丹潔主催 民衆文芸座談会に出席。11.22日、大杉栄、神田常盤に於て開催 山崎今朝弥主催、藤田貞二の送別会に出席。11.23日、大杉栄、労働同盟会例会 高田公三入営送別会に出席。11.28日、大杉栄、同志石井鉄治外 早稲田学生懇談会に出席。12.3日、大杉栄、京橋区数寄屋橋、笹屋に於て開催、故荒川義英追悼会に出席。12.19日、大杉栄、京橋、笹屋、本人送別会に出席。

 12.20日、大杉栄、経営雑誌労働運動発刊善後策<註大杉が入獄のため>に関し同志、吉川、服部、近藤、和田、中村、延島英一、石井鉄治討議を為す。12.23日、大杉栄 午後4時東京監獄へ収監、24日豊多摩監獄へ移監。

 1920(大正9)年、関西旅行、同志の集会を催す。『労働運動』休刊。

 1920.8月、日本社会主義同盟の発起人となる。上海に渡る、極東社会主義者の会議に出席。この当時、ロシア革命に強い関心を示すが、否定的評価を下していた。招かれて毎日新聞の記者になり、「捨扶持」を貰う。23年の6月まで続く。

 1921年、『労働運動』の同人にボルが加わる。 『労働運動』廃刊。三女エマ誕生。『労働運動』創刊。

 1922年、四女ルイズ誕生。9月、労働組合総連合結成大会に行く、大阪。11.20日、フランス同志コロメルから手紙。

 12.11日、「そして僕がこんどこの上海に寄ったのは、ベルリンの大会で国際無政府主義者同盟が組織されるのと同時に、僕等にとってはそれよりももっと必要な国際無政府主義者の組織を諮ろうと思ったからでもあった」。

 1923(大正12).1.5日、ベルリンで開催される無政府主義者大会に出席する為に、密出国をする。ル・ボン号で上海を出た。2.13日、マルセイユに着く。リヨンに行く。中国の同志数名と会う。2.13日、パリに着く。「こうしてほとんど毎日のように警察本部に日参しながら、不安と不愉快との一ヶ月半ばかりを暮らした」、「一週間ばかり断食して寝て暮らした」、「もうメエ・デエ近くになった」、4.28日の夜、僕はリヨンの同志のただ一人にだけ暇乞意してひそかにまたパリにはいった。5.1日、パリ近郊で行われたサン・ドニのメーデーに参加。そこで演説をして検挙され、強制送還される事になった。5.3日、ラ・サンテ監獄に送られた。5.24日、裁判所の留置場へ行った。警視庁へ回る。内務大臣の即刻追放の命を受けた。4時頃、一等書記官の杉村なんとか太郎君だ。マルセイユへ出発しろと命ぜられる。一週間めに出る箱根丸で帰る都合をつけてくれた。

 7月、神戸に戻る。船が神戸に着いた時には社会主義者たちのヒーローとなっていて、凱旋帰国のような歓迎ぶりだったと言う。8月、長男ネストル誕生。アナキストの連盟を企図する、全国自由連合組織。

 9.11日、関東大震災が発生し、その直後から無責任な流言蜚語が原因で、多くの朝鮮人・中国人が虐殺された。同時にこの混乱に乗じ、治安維持の名目で数多くの労働運動家が不当に逮捕され、9月4日には亀戸署で平沢計七・川合義虎らが殺害される「亀戸事件」発生。

 9.16日、関東大震災の混乱に際して、妻伊藤野枝、および甥(おい)とともに甘粕憲兵大尉らに暴行の末に殺害された。
 

 大杉と伊藤には4人の娘がいたが、一瞬にして両親を失った子供たちは、親戚に引き取られて行った。大杉と伊藤の末娘ルイズ(改名して留意子)の人生をたどった、ドキュメンタリー映画「ルイズ その旅立ち」。 

 伊藤ルイ本人は、1996年6月28日にガンで亡くなっている。享年74歳。伊藤ルイは後半生を草の根の市民運動に捧げた。「共産党系」、「社会党系」の政治運動とは無縁の草の根市民運動を目指した。
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 大杉栄の墓が静岡市沓谷の静岡市営共同墓地にあることは、あまり知られていない。なぜ墓が静岡市にあるかの事情について「千代田誌」は、次のようにしるしている。

 「地元の地方史研究家の間でも『父の墓が清水市にあった関係』とする説や『ある左官が義快心から造った』などの説が入り乱れ混乱気味。墓地を管理する静岡市衛生課の名簿から、大杉栄の妹柴田菊さんが東京に住んでいることがわかり、菊さんが墓の由来を語ってくれた」、

 「兄が憲兵甘粕に虐殺された当時(大正12年)、私は結婚して静岡市鷹匠二丁目に住んでいました。墓をつくるについては兄が50円前後出し合ったほか東京の労働運動社から250円を送ってきました。兄の死は九月ですが、遺骨が右翼に奪われたりしたため、静岡市に遺骨がついたのは5月25日。夜こっそりと私の家で葬儀を営み、墓石もこっそり立てました。左官屋さんや石屋さんなど少数が参列してくれました」。

 「千代田誌」は大杉の今日性について次のように記している。「政治的に死んだはずのアナーキズムだが、自我の解放を主張、後のスターリン批判を予言したともいえる大杉の思想は、いま学生、青年労働者ら若者にかなりの人気があるという」、「 しかし、『イデオロギーの終焉』を迎えた今日、何人が大杉栄のことを思い出してくれるのだろうか。それでも、もえたぎる生命を、惜しくも終わらせてしまった先人の足跡を忘れてはいけないのだ」。
 著書,訳書は<正義を求める心><自由の先駆><獄中記><自叙伝>,クロポトキンの<一革命家の思出><相互扶助論>,ダーウィンの<種の起源>などがあり,10巻本の全集や別種の全集が刊行されている。 (藤井松一・世界大百科事典・平凡社)

伊藤野枝:いとうのえ
1895(明治28)年01月21・福岡県糸島郡今宿(現在の福島市)に生まれる
周船寺高等小学校を卒業後、地元の郵便局に勤務。
1909(明治42)年12月・上京し上野高女4年に編入。
そこで講師をしていた《辻潤:つじじゅん》と知り合う。
1912(大正1)年・卒業し帰郷しそこで結婚をするが、家政制度に反発し出奔し、東京に戻る。
そこで辻と同居し、その後結婚をする。この時に色々もめた結果、辻は上野高女を退職することになる。
その後長男まこと誕生(辻まことは後に画家になる)

1913(大正2)年・平塚らいてう主宰の青鞜社に入り、雑誌『青鞜:せいとう』に参加。
1915(大正4)年・編集を担当するようになり、創作や評論も手がけるようになる。女性蔑視の批判にも堪え、権威主義の否定や女性の自立を訴えた。

1916(大正5)年・雑誌『青鞜』廃刊。
この頃、社会主義者の大杉栄と知り合い、辻潤を捨て大杉と同居するようになる。しかし、大杉は「多角関係」と称して妻・保子がおり、それと同時に新聞記者・神近市子ともつき合っていた。その結果、大杉は別の恋愛のもつれから神近市子に刺される《日陰茶屋事件》に巻き込まれる。
以後、野枝は大杉と行動・思想を共にするようになり、大杉の『文明批評』『労働運動』などの刊行にも協力した。
1923(大正12)年9月16日、大杉栄と共に殺害される。

神近市子:かみちかいちこ
大正〜昭和期の婦人運動家・政治家
1888(明治21)年06月06日・長崎県に生まれる。本名イチ
女子英学塾卒。卒業後は青森県立女子学校で教員をしていていたが、英学塾在学中から『青鞜社』に参加していた事を理由に解雇される。その後、『東京日日新聞』の記者となる。
徐々に社会主義思想に接近するが、そこで社会主義者の大杉栄と知り合い恋愛関係に陥る。しかし大杉には本妻・保子がおり、それと同時に同じ青鞜社の伊藤野枝ともつき合っており、その恋愛を清算する為に大杉を刺し「日陰茶屋事件」へと発展し、その事で入獄する。

出獄後は「女人芸術」やみずから創刊した「婦人文藝」で評論活動を行う。
1947(昭和22)年・民主婦人協会の設立に参加。
1953(昭和28)年〜1969(昭和44)年まで日本社会・衆議院議員として売春防止法制定に尽力した。
1981(昭和56)年08月01日・死去

辻潤:つじじゅん
大正〜昭和前期の評論家

1884年10月04日・東京都生まれ
上野高等女学校で講師をしていたが、1912(大正1)年・教え子だった伊藤野枝と恋愛に落ち同棲を始める。
しかし、この時点で野枝は結婚をしており、そこから逃げて辻の元へきていた為、大騒ぎとなり、結果として上野高等女学校を退職させられる事となる。
その後、評論・翻訳などの仕事で生計を立てていたが、伊藤野枝が無政府主義者の大杉栄と恋に落ちてしまい、辻は失意にくれる事となるり、その後、辻は放浪生活に入る。

その後の仕事としては、世紀末思想で書かれたロンブローゾ「天才論」、ド・クインシー「阿片溺愛者の告白」などを翻訳し紹介をした。
その影響で、自らもダダイズムを好み、徐々に虚無的な傾向を強める。
1932(昭和7)年、ついに精神錯乱を起こし、その後は全国を放浪するようになる。
1944(昭和19)年11月24日、第二次世界大戦の終戦半年前に放浪の末、餓死をする。(享年60)

大杉栄の経歴及言動調査書

──「大杉・調査書」研究に向けて・1 ──





(私論.私見)