大杉栄(1885−1923) の生涯の概略履歴 |
(最新見直し2006.1.9日)
【大杉栄の総評】 | |
社会運動家、無政府主義者。愛知県人大杉東の長男。明治〜大正の代表的革命家、アナーキストとして知られる。葉山事件(神近市子との四角関係)などの奔放な生き方でも知られる。 「荒畑寒村氏の撰による碑文」には次のように書かれている。
|
【大杉栄履歴概略】 |
「大杉栄略伝」その他を参照する。 1908(明治41)年、金曜講演会事件(屋上演説事件)、治安警察法違反、巣鴨監獄に投獄。山口義三(狐剣)の出獄歓迎の集会に端を発した「赤旗事件」で入獄。9月、千葉監獄で服役。その間に、『大逆事件』が惹起され幸徳秋水が検挙される。 1919年、 「大杉一派」の最もめざましい活動時代。以前の「尾行巡査殴打事件」で東京監獄に収監。『労働運動』創刊。豊多摩監獄に収監。次女エマが誕生。 1月、 大杉一派の研究会は近藤憲二等の主催し来りたる北風会と合同することと為り有吉三吉、高田公三、近藤憲二ら大杉一派に属する主義者の例会を開催し始める。 1.20日、1918.9.23日頃発行の雑誌『民衆の芸術』中に恵まるる政治及生の反逆と題したる記事は安寧秩序を紊乱するものとして東京区裁判所に於て罰金100円の判決を言いわたされしか其後控訴の結果同年3月17日東京地方裁判所に於て無罪の判決言渡しを受けたり。 労働問題演説会、労働相談所茶話会。 4.21日、府下北豊島郡王子町所在王子演芸館に於て杉原正夫の主催に係る労働問題演説会に出席し居たるに下村の演説中社会主義を論難する如き口吻ありしかは大杉栄、久田卯之助、石井鉄治、吉田一、延島英一等数名は演壇に押寄せ延島の如きは演壇にありしコップを投げ付くる等暴状を敢えてし大杉は主催者の許しを得て自ら演壇に立って下村の説を反駁し且つ自己は社会主義者にあらす自己の主義は他にありて先つ労働者の生活改善を為さむとするにあり労働者は今日の生活即ち時間の制限賃金の要求工場の設備を改善せしむるに在りと述へて壇を下れり。 8.12日、杉栄、午後8時頃 日本労働組合事務所に井上倭太郎を来訪3時間に渉り会議せるが其内容は大杉より日本労働組合の主義目的実行手段尚同組合が本年9月頃より開始せんとする講演会に出席の承諾を求めたること近々同組合が主宰となり友愛会を除外したる労働団体有志等に於て友愛会長鈴木文治の行動に対する批判の為め京阪地方に遊説の計画に■れ信友会中の同志をも参加せしめられたきこと同組合は篠澤勇作なるものより金一万円の資金供給を受けたるは労働運動の目的に反せざるや否や との要求或いは質問を為したるより井上は講演会出席の件は承諾し組合主義目的実行方法を説明したる後更に大杉の主義目的実行方法等を反問をしたるに大杉は無政府共産主義なるも実行方法に関しては確信なしとて言明を為ささりしとのことなり。 8.16日、大杉栄、午後8時頃再三来訪せしも井上不在なり……又8月8日主義者黒瀬春吉は山口正憲同伴井上を来訪自己等が計画しつつある国際労働会議に出席せしむべき労働委員の選定に付き同一歩調を採られたしと申出たるも井上は若し鈴木文治が其選に当たるとせば反対なるも其他吉川守国の件は明言し難しと答えたる由なり 8.23日、大杉栄は同志荒畑勝三、山川均、吉川守国の三名に対し8月23日午後1時より麹町区有楽町1ノ4服部濱次方に参集方を申込みしか右は豫て彼等の間に果し居られる『労働運動』と題する定期刊行物(毎月1回)の発刊に関する協議を遂げんか為なりしか山川は病気に託し出席せす荒畑又無断欠席しのみ一名出席せるを以て何等纏りたる談話等なく更に日を期し会合することとなりたるか該刊行物は大杉栄等を主幹とし伊藤ノエ之が補助となり近藤憲二を会計主任となし外に実行員として和田久太郎(人夫)中村還一(職工係)たらしめ本紙の発行と共に労働運動に関する目覚ましき活動を開始すへく而して大杉栄の計画としては山川均、荒畑勝三、吉川守国、服部濱次の4名を客員として補助せしむへく之に要する費用を三百円とし内二百円は近藤憲二か国元より取寄せ百円は大杉、近藤、中村、和田等に於て調達し保証金は前記四名(客員)にて調達せしめんとの計画なるか山川、荒畑、吉川の三名は大杉の性格上到底永続の見込みなきのみならす借入資金の如きも浪費する必然なりとて体能く断るへく協議せるやにて為めに何れも事故に託し殊更出席せさりしものの如しと云う 8.24日午後7時より、麹町区有楽町2丁目特別要視察人服部濱次方に於て同荒畑勝三等主催の労働問題研究会に出席せり(荒畑勝三名簿参照) 8.26日、大杉栄は曩に荒畑勝三と感情上の衝突ありしを以て山川均は8月26日早朝荒畑勝三を訪問し種々説く所ありしものの如く荒畑は大杉にして失言を謝罪するに於ては従前の如く共に運動をなすへきも大杉の傲慢不遜にして放縦なる性格は到底改善すへくもあらさるは雑誌発行に表面氏名を出すは好まさるも相当助力を為すを辞せすとて調停を容るることとなりしを以て山川均は服部濱次を訪問し荒畑との交渉顛末を語り吉川守国を招き大杉を説かしむることとし 8.27日、吉川は服部と共に大杉栄を宿舎に訪問し山川均と荒畑勝三との交渉の顛末を陳へ君(大杉)の専横は各人の認むる所なれは一応荒畑に陳謝すへしと説きたるに大杉は既に単独となり居るを憂慮し居る折柄とて両手を下けて陳謝するは好まさるも単に失言を謝するは寧ろ当然なれは至急会合すへく取計ひありたしと述へたるに依り 8.28日午後2時より大杉、荒畑を初め山川、吉川、服部、近藤憲二、和田久太郎、中村還一の八名集合し山川は大杉、荒畑の交渉顛末を陳へて大杉より一応の謝罪を為さしめ更らに大杉の発行せんとする雑誌労働運動の資金其他の方法を協議せるか発行に要する準備金三百円は大杉より支出し(大杉は既に大石七分より借入れ約ありと云う)保証金一千円は高利貸より借入るる筈なるも大杉にては到底貸与するものなきを以て吉川守国、服部濱次、両人にて責任を負うこととなり而して雑誌表面の関係者として大杉栄、伊藤ノエ、近藤憲二、和田久太郎、中村還一の五名となし山川、荒畑等は裏面にありて援助することとなれり而して実際運動として来る 9月1日より「北風会」を改称して「平民結社」と名つけんと主張せしもありしか警視庁の干渉あるへしとして「労働同盟会」となすことに決し三章位の綱領を以て近藤憲二、和田久太郎、中村還一の三名をして主宰たらしめ更に荒畑勝三の「労働研究会」は二、三ヶ月の訓練を為したる後之に併合し一大結社となすことに決定したりと云う追て北風会組織変更に付いては各同志へ既に通告状を発しありて9月1日例会席上協議するものの如し又当日堺利彦出席する通知あるも大杉との打合上出席を断わりたる由 9.1日午後8時、小石川区指ヶ谷町92番地特別要視察人若林ヤヨ方に開催せる北風会例会に出席せり<大杉栄> …次の当夜会合の主要問題として北風会組織に関し近藤憲二起ちて本北風会は故渡辺政太郎宅当時有吉三吉氏主催の会合と合同以来盛況を以て…近頃単なる研究的会合にあらす新同志か加わり且つ実際運営に入りたる事は充分認識し得らるへし就いては北風会なる名称者か茶人風かの如くに見え一般社会に労働者の会合たるの感想を抱かれるに能わす故に此の際純然たる労働何…水沼辰は之に反対し組織の変更せば必ず官憲の圧迫を受け我々唯一の会合は為に之れが運動方法の如き具体化するは賛成なるも労働者其者か忽ちにして労働を棄て運動者と化するは遺憾にして彼の吉田一の如き好事例なりと事例を引用し労働の傍ら運動を為すの要を就き前説に賛成せす 次て中村還一、斉藤謙次郎も同様之には賛成を為せり 次て和田久太郎、服部濱次は近藤の提案に賛意を表し宮島信泰憤然として「馬鹿野郎何と吐かす俺は水沼に大賛成だと怒号に起ちて労働者が労働しつつ労働問題を説く処に …大杉、荒畑の如き筆の人は労働者にあらす彼等は如何に社会を利する生産を為すやと攻撃して退場せり」 而して服部、荒畑等も続いて退場したるも残留員に於て具体的運動に…具体的運動に賛成し組織方法に関しては次回(15日)に譲り午後11時散会せり〇尚本名<大杉栄>は雑談中左の談話を為したり (9月3日吉田一の公判傍聴の件…) 予と近藤、和田、中村の四名を以て労働運動と題する雑誌の発刊を計画し明日より準備に着手し10月1日第1号を発刊せんとす内容の詳細は9月15日の会合に発表すへし十分の応援を希望す云う 8.30日、吉田只次方 「大杉出獄に対する慰安を名とせる」京浜主義者の会合に出席。9.2日、検事局へ名誉毀損の告訴を提起…民事訴訟として…。9.3日、吉田一の公判傍聴 窃盗竝に電気法違反事件。 9.8日、神田青年会館に開催 労働団体信友会大会に関する費用は……大杉栄(10円?20円?)等支出 ≪?は原テキストのママ≫。9.9日、大杉榮午後6時10分 神田、明治会館に於て開催 庄司俊夫(労働中尉)の主催に係わる労働問題演説会に出席。9.11日、東京地裁 懲役三ヶ月に処す 言渡し 上告。9.12日、大杉栄、午後7時より 若林方 東京労働運動同盟会第二回例会に出席。9.15日、北風会例会。9.26日、曙町を発行所として届出。9.27日、東京地方裁判所に於て田山裁判所長係にて陪席として鶴、尾高両判事竝に岩松検事立会公判開廷。10.2日、第二回公判弁護士花井卓蔵、大澤一六、長野助、山崎今朝弥、布施辰治の5名出廷 被告は先般も起立せす悪習慣は改めさるへからす依て起立するの必要なしとて起立せす…。10.5日、大杉栄、午後5時 築地精養軒 山崎今朝弥開催 晩餐会に出席 晩餐会は本年8月8日より一週間平民大会に於て自己主催の下に開催せる夏季講習会に関する講師竝に尽力せし者に対し慰労10.18日、大杉栄、吉田一の公判傍聴。10.26日、大杉栄東京労働運動同盟会例会出席「ギルドソシアルズムの批評」と題した演説。11.7日、大杉は和田久太郎、中村還一の両名を京阪地方に派遣……隠密の間に主義を鼓吹する意向…。11.9日、大杉栄労働同盟会(一名北風会)に出席。11.15日、大杉栄、神田明治会館 印刷職工八時間労働実現賃金値上問題等に関する講演会に出席。11.20日、大杉栄、若林方 丹潔主催 民衆文芸座談会に出席。11.22日、大杉栄、神田常盤に於て開催 山崎今朝弥主催、藤田貞二の送別会に出席。11.23日、大杉栄、労働同盟会例会 高田公三入営送別会に出席。11.28日、大杉栄、同志石井鉄治外 早稲田学生懇談会に出席。12.3日、大杉栄、京橋区数寄屋橋、笹屋に於て開催、故荒川義英追悼会に出席。12.19日、大杉栄、京橋、笹屋、本人送別会に出席。 12.20日、大杉栄、経営雑誌労働運動発刊善後策<註大杉が入獄のため>に関し同志、吉川、服部、近藤、和田、中村、延島英一、石井鉄治討議を為す。12.23日、大杉栄 午後4時東京監獄へ収監、24日豊多摩監獄へ移監。 1921年、『労働運動』の同人にボルが加わる。 『労働運動』廃刊。三女エマ誕生。『労働運動』創刊。 |
大杉栄の墓が静岡市沓谷の静岡市営共同墓地にあることは、あまり知られていない。なぜ墓が静岡市にあるかの事情について「千代田誌」は、次のようにしるしている。 「地元の地方史研究家の間でも『父の墓が清水市にあった関係』とする説や『ある左官が義快心から造った』などの説が入り乱れ混乱気味。墓地を管理する静岡市衛生課の名簿から、大杉栄の妹柴田菊さんが東京に住んでいることがわかり、菊さんが墓の由来を語ってくれた」、 「兄が憲兵甘粕に虐殺された当時(大正12年)、私は結婚して静岡市鷹匠二丁目に住んでいました。墓をつくるについては兄が50円前後出し合ったほか東京の労働運動社から250円を送ってきました。兄の死は九月ですが、遺骨が右翼に奪われたりしたため、静岡市に遺骨がついたのは5月25日。夜こっそりと私の家で葬儀を営み、墓石もこっそり立てました。左官屋さんや石屋さんなど少数が参列してくれました」。 「千代田誌」は大杉の今日性について次のように記している。「政治的に死んだはずのアナーキズムだが、自我の解放を主張、後のスターリン批判を予言したともいえる大杉の思想は、いま学生、青年労働者ら若者にかなりの人気があるという」、「 しかし、『イデオロギーの終焉』を迎えた今日、何人が大杉栄のことを思い出してくれるのだろうか。それでも、もえたぎる生命を、惜しくも終わらせてしまった先人の足跡を忘れてはいけないのだ」。 |
著書,訳書は<正義を求める心><自由の先駆><獄中記><自叙伝>,クロポトキンの<一革命家の思出><相互扶助論>,ダーウィンの<種の起源>などがあり,10巻本の全集や別種の全集が刊行されている。 (藤井松一・世界大百科事典・平凡社) |
伊藤野枝:いとうのえ |
1895(明治28)年01月21・福岡県糸島郡今宿(現在の福島市)に生まれる 周船寺高等小学校を卒業後、地元の郵便局に勤務。 1909(明治42)年12月・上京し上野高女4年に編入。 そこで講師をしていた《辻潤:つじじゅん》と知り合う。 1912(大正1)年・卒業し帰郷しそこで結婚をするが、家政制度に反発し出奔し、東京に戻る。 そこで辻と同居し、その後結婚をする。この時に色々もめた結果、辻は上野高女を退職することになる。 その後長男まこと誕生(辻まことは後に画家になる) 1913(大正2)年・平塚らいてう主宰の青鞜社に入り、雑誌『青鞜:せいとう』に参加。 1915(大正4)年・編集を担当するようになり、創作や評論も手がけるようになる。女性蔑視の批判にも堪え、権威主義の否定や女性の自立を訴えた。 1916(大正5)年・雑誌『青鞜』廃刊。 この頃、社会主義者の大杉栄と知り合い、辻潤を捨て大杉と同居するようになる。しかし、大杉は「多角関係」と称して妻・保子がおり、それと同時に新聞記者・神近市子ともつき合っていた。その結果、大杉は別の恋愛のもつれから神近市子に刺される《日陰茶屋事件》に巻き込まれる。 以後、野枝は大杉と行動・思想を共にするようになり、大杉の『文明批評』『労働運動』などの刊行にも協力した。 1923(大正12)年9月16日、大杉栄と共に殺害される。 |
神近市子:かみちかいちこ |
大正〜昭和期の婦人運動家・政治家
1888(明治21)年06月06日・長崎県に生まれる。本名イチ 女子英学塾卒。卒業後は青森県立女子学校で教員をしていていたが、英学塾在学中から『青鞜社』に参加していた事を理由に解雇される。その後、『東京日日新聞』の記者となる。 徐々に社会主義思想に接近するが、そこで社会主義者の大杉栄と知り合い恋愛関係に陥る。しかし大杉には本妻・保子がおり、それと同時に同じ青鞜社の伊藤野枝ともつき合っており、その恋愛を清算する為に大杉を刺し「日陰茶屋事件」へと発展し、その事で入獄する。 出獄後は「女人芸術」やみずから創刊した「婦人文藝」で評論活動を行う。 1947(昭和22)年・民主婦人協会の設立に参加。 1953(昭和28)年〜1969(昭和44)年まで日本社会・衆議院議員として売春防止法制定に尽力した。 1981(昭和56)年08月01日・死去 |
辻潤:つじじゅん |
大正〜昭和前期の評論家 1884年10月04日・東京都生まれ 上野高等女学校で講師をしていたが、1912(大正1)年・教え子だった伊藤野枝と恋愛に落ち同棲を始める。 しかし、この時点で野枝は結婚をしており、そこから逃げて辻の元へきていた為、大騒ぎとなり、結果として上野高等女学校を退職させられる事となる。 その後、評論・翻訳などの仕事で生計を立てていたが、伊藤野枝が無政府主義者の大杉栄と恋に落ちてしまい、辻は失意にくれる事となるり、その後、辻は放浪生活に入る。 その後の仕事としては、世紀末思想で書かれたロンブローゾ「天才論」、ド・クインシー「阿片溺愛者の告白」などを翻訳し紹介をした。 その影響で、自らもダダイズムを好み、徐々に虚無的な傾向を強める。 1932(昭和7)年、ついに精神錯乱を起こし、その後は全国を放浪するようになる。 1944(昭和19)年11月24日、第二次世界大戦の終戦半年前に放浪の末、餓死をする。(享年60) |
──「大杉・調査書」研究に向けて・1 ──
(私論.私見)